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立花実
『ジャズへの愛着』
青空文庫版
[著者プロフィール]
立花実氏は、一九三三年、北海道旭川市の生まれ。雑誌“スイング・ジャーナル”編集部を経て、独立。ジャズ評論家として活躍したが、一九六八年仙台市にて急逝。その活動はわずか三年あまりしか続かなかった。ここで紹介するのは、氏の仕事の大半を集めた遺稿集『ジャズへの愛着』(一九七〇年ジャズ批評社刊)からの抜粋である。
●目次
音楽雑感
ジャズの巨人、エリック・ドルフィー
戦慄のサウンド
前進するコルトレーン・コンボ
ジョン・ルイスの芸術
伝統と現代ジャズメン
マイルス・デヴィスの印象
■音楽雑感
いちがいにはいいきれないし、私のは水準以下の代物だが、日本の音楽批評というものつまり音楽について書かれたものには、いうなればエロスが少ない。なぜだろうかとよく考えてみるのだが、結局のところはっきりしていることは、音楽を聴くというかけがえのない体験が浅いというひとことに帰着するようなのである。よく聴いていないということが、ということは楽しんでいないことが、つまりは文章に定着されているのであり、その意味でときたまアメリカのジャズ雑誌などにのっているアメリカ人(黒人でも白人でもかまわないが)の書いたものを読むと、とにかくなるほどという感じにさせられることが多い。よく聴いている者にはきわめて納得がいくのである。それはすでに書く人がよく聴いている人だからだ。
たとえばリロイ・ジョーンズがマイルス時代のコルトレーンのソロ、「ストレート・ノー・チェイサー」(私のもっているこれの入っているLP『マイルストーンズ』はB面の三曲目だけが、だいぶ前にだいぶ白っぽくなっている)の演奏について書く場合、じつによくわかるし、またピート・ウェルディングやフランク・コフスキーが同じく、トレーンの『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』(地上における至上の音楽!)について書く場合、これまたじつによくわかるのである。もちろん私はアメリカ人の書くものがすべてそうだというようなバカげたことをいいきるつもりは毛頭ないが、しかし、少なくとも私の目にふれる範囲でいわしてもらえば、アメリカと日本のちがいはやはりあるのであり、いうなれば、あちらの人間の書いたものは恋文に近く、こちらの人間の書いたものは(もちろんこの私の場合が一番そうだが)履歴書に近い。
ところで履歴書にも効用のあることは認める。私なんかもこれまで何回となく履歴書を書いた口だが(ここんところはまさに事実で比喩ではありません。念のため)、この履歴書というやつ、いくぶんフィクション化したとしても、たいして役には立たなかったようである。これからも役立つまいという気がする。つまりは効用といってもタカが知れているのである。
一方恋文というものはごまかしのきかないものであることは、書いたことのある人なら誰でもよく知っていることである。結局のところスタイルとしてはランガー女史の芸術論みたいにならざるをえないものなのである。歯の浮くようなことは書けないにきまっている。レトリックだけの恋文に感心する女性というのはまず例外に属するといってよかろう。
ここまで書いてきたら、ふとJ・D・サリンジャーのことを思い出した。The Catcher in the Ryeはずいぶん読みかえしたが私の好きな小説である。いま手元にある訳本には『危険な年齢』というはなはだ非音楽的な題名がつけられているが、橋本福夫氏の訳は好きだ。したり顔でサリンジャーのなんて書いているが、私はサリンジャーは日本語でしか読んだことがないのだ。どうでもよいことだが、というよりはどうでもよいことだからこのことをはっきりさせておきたい。それにしてもサリンジャーのこの一書はきわめて音楽的であり、つまりリズミックでジャズ的であり、あの黄金時代のカウント・ベイシー・バンドのように言葉がおどっているのだ。このあとサリンジャーはずいぶん短編を発表しているようである。その中のいくつかは私も読んだが、あまり好きにはなれなかった。カウント・ベイシーからアントン・ウェーベルンに変ったような感じをうけたのである。過度に一点を凝視することが、結局は出口をふさぐことになるのではあるまいかという気がしたのだ。たとえいうなれば行間からヘブライ語のユダヤ教聖歌が(それも息たえだえのフシが)聴こえてきたとしてもである。それはともかくとして、『危険な年齢』はすばらしい作品である。ホールデン・コールフィールドの眼こそ、音楽について書く人がぜひとも持っていなければならないものだと痛感させられた次第である。私はホールデンの妹フィービが好きだ。体つきがローラースケート向きだとホールデンがいっているからというわけではないが、彼女はいわばおどる旋律である。(ダンシング・シヴァ!)
サリンジャーはいうなれば肉親のそとに、フィービをみつける必要があったんじゃないか。彼の短編を読むと私は彼から離れたくなり、アイザック・バシェヴィス・ジンガーの魅力にひきこまれる。ジンガーはつとに名高い『ばかものギンペル』を邦高忠二という方の名訳で読ましてもらったが、これは言葉に魔力があり、いわば妖しい音楽であり、ハシディズム的な香りに酔わされる。コルトレーン・クヮルテットの演奏する『クレッセント』に近いといえるし、またウラジミール・ホロヴィッツの演奏するラフマニノフを想起させる。これを読まなければすごく大切なものをみのがしたことになろう。ウラジミール・ホロヴィッツについても同じことがいえる。コロンビア盤のホロヴィッツを聴かなかったら、あなたは大切な忘れものをしているのだ。ここでゴーダード・リーバーソン(CBSコロンビア社長)にひとことおねがいがある。ホロヴィッツをこれまで以上に大切にしてもらいたい。ミスター・リーバーソン! あなたの気持はよくわかっています。リーバーソンのはなしが出たので、ついでにボブ・シール(インパルス・レコードのプロデューサー)についてちょっと書きたくなった。ミスター・シール! あなたのことは私も前から一目置いてたんだけど、ジャズ誌一月号の投書欄にのったあなたの長文の手紙を読み、まったく感動させられた。何もかもあなたのおっしゃる通りだ。アーチー・シェップやジョン・コルトレーンをこれまで以上に大切にしてください。私もいつの日にかアーチーのユダヤ人の奥さんにぜひ会ってみたいと思っている。あなたのような人物がもうちょっと多くなれば、世の中はずっと住みよくなるにちがいない。
つまり、音楽を聴いているうちに、いろんなことがわかってくる。リロイ・ジョーンズがなぜレナード・バーンスタインをからかうのか、ということもわかってくるのである。リロイが理由があるとはいえ、見せかけの英雄を演じないでくれるとありがたいのだが……。私はエリントンもバーンスタインも好きだから。
なにごとも、要するに自分の利益を先行することなしにやってゆきたいものだ。それ以外に道はない。動機がエゴイズムに発した(あらゆる)行為は、いずれにせよ害毒をしかもたらさないからだ。時間がそれを教えてくれる。誰もが誰にも依存せず誰もが誰とも共感し誰かが誰かと結びつき誰もが誰という相手こそ主体なのだと知りうるように。ボブ・ディランいわく。It's just one big world of songs.
(ジャズ批評2号)
■ジャズの巨人、エリック・ドルフィー
ジョン・コルトレーン・クインテット(ジョン・コルトレーン、ミセス・コルトレーン、ファラオ・サンダース、ジミー・ギャリソン、ラシッド・アリ)が来日したのは昨年の七月のことだったが、あの時の強烈な印象は今もって深く脳裏に刻み込まれている。彼ら五人の演奏した「ネイマ」「ロニーズ・ラメント」「マイ・フェヴァリット・シングス」「地上に平和を」などは、私を歓喜と興奮のるつぼに叩きこんだ。それは、心理学者アブラハム・マスロウの言葉を借りるならば、まさに「至高体験」であった。
私は今ソプラノ・サックスを吹いているジョン・コルトレーンとミセス・コルトレーンが表紙になっている本誌六六年九月号を手元において、その時のことを思い出しているわけなのだが、その九月号の一〇五頁に書いてあった〈話のくずかご〉の一節をも思い出したわけなのである。それは次のような一節である。「本号の表紙になっているカラー写真を撮りに彼(ジョン・コルトレーン)を訪問したら、部屋の中には香が焚かれ、ヴァイオリン、バス・クラ、フルート、そしてラーマクリシュナの哲学書などがころがっていた」
私の関心をひどくそそったのは、ジョン・コルトレーンが持っていたバス・クラリネットである。アメリカのクラブに出演した際には、このバス・クラを合奏部分で吹いたこともあったようだが、コルトレーンは日本のステージでは、これを吹かなかったようである。
ところでこのバス・クラリネット、実はいわくつきのもので、故エリック・ドルフィーが吹いていたものなのである。ジョン・コルトレーンがグループを率いてしばらく前に西海岸に演奏旅行を試みたとき、ロサンゼルスに住むエリックの母親が、このバス・クラリネットを彼に贈ったのであった。ドルフィーはコルトレーンのコンボに参加していたことがあったし、二人はお互に尊敬しあっていた間柄であった。エリックの母親は「コルトレーンさん、息子がやりかけていたことを、受けついで引受けてくれませんか」という気持だったろう。
このエリックのバス・クラについて、もうひとつ私が気になっていることがあるのだ。ジョン・コルトレーンがインパルス・レコードから発表した『クル・セ・ママ―遍歴』のA面「クル・セ・ママ」では、ロサンゼルス在住のベーシスト、ドナルド・ギャレットがバス・クラを吹いているのだが、それがまさにエリックそっくりなのである。このレコードがロサンゼルスで録音されたものであることから推察すると、ギャレットはコルトレーンに贈られたエリックのバス・クラを吹いたのではないかという気がしてしようがないのである。これは私の勝手なこじつけにすぎないだろうか。
エリックの突然の死はまったく信じがたいことであり、多くのひとびとを驚かしたものである。彼は一九六四年六月二九日糖尿病が原因で異国の地ベルリンで客死したのであった。なんでも彼にはパリでバレーの勉強をしていた婚約者がいたということだが、彼の作品「ミス・アン」とはこのフィアンセに捧げたものだったのだろうか。私にはよくわからない。
エリックは非常に温い心をもった人だったようだ。仲間の音楽家の中には、彼の思いがけない死に接して、かなり打撃を受けた人も多かっただろう。ジャッキー・マクリーンがブルーノート・レコードに吹込んだ近作『ライト・ナウ』は、快調な一枚だが、A面二曲目に新人ピアニスト、ラリー・ウィルス(まだ二二、三らしい)の作品「プア・エリック」が演奏される。これはまさに鎮魂曲であり、胸をしめつけられるようなムードが色濃く、私はこれを聴いていると、エリックの最後の吹込み『ラスト・デイト』(ライムライト盤)に収録されているエリックの肉声「音楽は終ると、空中に消えてしまう。もう一度とりもどすことはできない」(油井正一氏訳)とダブってきて、まるでアラジンのランプをこすっているような気分におそわれるのだ。
ところで私はこの原稿をまとめるにあたって、すばらしいことを思いついたのである。アルト・サックスとフルートの第一人者、渡辺貞夫氏がアメリカでエリックと共演したことがあると以前の本誌で語っていたことを思い出したわけだ。私はエリックと身近に接した渡辺氏のエリックについての印象を、どうしてもこの記事の中にちりばめたかった。そこで文面で渡辺氏にそのことをお願いしたのであるが、氏は多忙な中をさいて次のようにエリックの印象を文章にまとめてくれたのである。(紙上を借りて改めて氏に感謝します。)
「ぼくがアメリカに着いたのは1962年8月15日でしたが、その日の晩、秋吉さん(註・トシコのこと)に連れられて、ニューヨークのファイヴ・スポットに行きました。その頃、秋吉さんはチャールス・ミンガスのグループで演奏していたのです。そのファイヴ・スポットに、ちょうどエリック・ドルフィーが遊びにきていて、ぼくはエリックと一緒にバンド・スタンドにあがり、モンクの有名な曲「ウェル・ユー・ニードゥント」を演奏したわけです。
日本にいた頃は、レコードを聴いて変ったスタイルのアルト奏者がいるなという程度にしか知っていなかったのですが、一緒にやってみて非常に驚きました。とにかく“ものすごい”という感じでした。その時はデカイ音で吹きまくるという印象だけのようでしたが、次の晩またファイヴ・スポットで紹介され、ミンガスに呼び出されたりして、再び一緒に演奏しました。また、レオ・ライトやチャーリー・マクファーソンとも一緒に吹いたりしたのですが、何せアメリカに着いたばかりで、演奏に夢中になってひどく興奮していたことしか思い出せません。エリック・ドルフィーもレオ・ライトも人間は最高に良い人でした。ぼくがこれからボストンのバークリー音楽院で勉強するんだとエリックに話したら、エリックはおれも学校にいって勉強したいと語っていました。
本当にじっくりとエリックの演奏を聴いたのは、それから一年ぐらいたってからです。彼はボストンのコノリーズというクラブに自分のグループを率いて一週間出演していました。そこでこのクラブにたびたび足を運び、時には一緒に演奏させてもらったわけです。その頃、まわりでは彼の演奏をでたらめだという人もいたようでした。ぼくにはその頃エリックのやっていることが少しわかってきたし、でたらめだとは思えませんでした。たとえでたらめだという人がいたとしても、あれだけの強烈な個性とヴァイタリティには、まさに文句のつけようがないんじゃないでしょうか。純真な感じで、作るとかいつわりがないのです。実に直截に訴えかけてきます。
同じ頃、ジュゼッピ・ローガンがニューイングランド音楽院で勉強していました。ときどきぼくの部屋にもやってきて、よく一緒に吹いたものですが、現在のジュゼッピはどうか知りませんが、その頃の彼は指使いは早かったけれども、何も感じさせるものはなかったようです。それこそでたらめと感じたものです。また話をエリックにもどしますが、ぼくは彼のバラード演奏は正直いってあまり好きではありませんでした。エリックはぼくにぜひ日本に行きたいものだと語っていました。それが不可能になって本当に残念だと思います。とにかくアメリカに着いた晩のエリックとやった一曲の演奏は、一生忘れられないでしょう。エリック・ドルフィーはすばらしいミュージシャンでした」
エリック・ドルフィーは1928年6月20日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生れた。両親は今もロサンゼルスに住んでいる。エリックの少年時代はどうだったろうか。「ぼくは、ほかのミュージシャンたちのように、子供のころから音楽的な環境にめぐまれていた、というようなことはなかったんだ。おやじは道楽でサクソフォーンを吹いていたけど、途中でおっこちてしまった。おふくろは教会で歌を歌っていたけれど、これは黒人女なら、だれだってやることなのさ。けれど、ぼくは子供のころから音楽ずきで、ラジオに夢中になってたことを思い出すなあ。そのうちクラリネットを買ってもらうことができた」(本誌62年1月号にのった植草甚一氏の記事「ドルフィーと三人のトランペッター」より引用)
14歳でサックスを手にした彼は、ある日学友であったピアニスト、ハンプトン・ホーズにすすめられて、チャーリー・パーカーの音楽を聴いてみたが、猛烈なスピードで吹きまくるパーカーに完全にまいってしまった。はじめてプロの音楽家として仕事をしたのは、あるダンスホールに出演したときのことだが、このバンドの中にはベーシストのチャールス・ミンガスもまじっていた。
ついでジェラルド・ウィルソン、ジョージ・ブラウン、バディ・コレットなどのバンドに籍を置いて修業時代を過ごした。ところで54年に、エリックにとって忘れがたい出来事がおこる。彼はロサンゼルスでオーネット・コールマンに会ったのである。二人は意気投合した。新しいジャズを演奏したいという意欲に燃えていた点では、二人は共通点を有していた。
58年、エリックにとってチャンスがおとずれた。彼はチコ・ハミルトンのコンボに参加したのである。この頃のエリックの姿は、以前公開された58年ニューポート・ジャズ祭の記録映画『真夏の夜のジャズ』のシーンに登場したのでご記憶の方も多いだろう。彼はチコのグループの一員として全米を巡演した。チコのコンボには約1年間加わっている。当時のエリックについて、現在チャールス・ロイドのマネージャーをつとめ、かつてジョン・ケージ楽歴25周年記念タウン・ホール・コンサートの録音をアヴァキャン・レーベルから発売したことのあるジョージ・アヴァキャンは、次のように書いている。「妹の子供たちは、エリックがミネトンカ湖のほとりにある彼らの家を訪問したときのことを今でもはっきりおぼえている。エリックがチコのグループの一員としてミネアポリスに巡演にきたときのことだ。夏のことだった。彼は水泳パンツを用意してきた。ウールの帽子をかぶり、いくえにもたたんだスカーフを首に巻き、エッジをはずしたアイス・スケートぐつをはき、湖で一日を過したのである。当時11歳だったラッセルと8歳だったジェニーは、エリックのその格好をはっきり記憶しているのだ」
60年になると、エリックはニューヨークにのぼり、チャールス・ミンガスのコンボに加わり、約8カ月間行動を共にした。ショープレースに長期出演したミンガスのジャズ・ワークショップは相当な評判になり、エリックの大胆な奏法は広く注目されることになった。この当時の演奏はキャンディド・レコードが録音したが、このレーベルは評論家としてまたジャズ小説『ジャズ・カントリー』の作者として著名なナット・ヘントフが監修したものである。現在キャンディドは姿を消してしまったようだが、惜しい話だ。『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』は傑作であろう。当時ミンガスはエリックについて「彼はオーネットのようには吹かない。パーカーのリズミックな面を吸収している」と語っている。またこの頃評論家マーチン・ウィリアムスの今興味を持っている音楽家は誰かとの問いに、エリックはアート・テイタムとジョン・コルトレーンの二人をあげている。この年の一二月にエリックはオーネット・コールマンがアトランティックに録音した野心作『フリー・ジャズ』に参加した。
ミンガスのグループを辞したエリックは61年にトランペッター、ブッカー・リトルを擁して野心的なグループを結成したが、10月にブッカーが尿毒症のため急死するという悲劇に見舞われ、短期間で解散の憂き目にあった。この当時の演奏はプレステッジがファイヴ・スポットに録音装置を持ち込んでテープに収めたが、『ファイヴ・スポットのエリック・ドルフィーVol.1』(61年7月16日録音)は力作といってよかろう。
61年の夏単身ヨーロッパに向った後、秋に彼はジョン・コルトレーンのグループに参加した。そしてグループの一員として再度ヨーロッパを訪れた。コルトレーン・コンボでのエリックの演奏ぶりは、レコードによって知ることができるが、正直いって私にはコルトレーン・コンボでのエリックの演奏には成功したものが少ないような気がする。エリックはミンガスのコンボにふさわしかった人ではなかろうか。例えばコルトレーンの『ヴィレッジ・ヴァンガードのコルトレーン』A面に入っている「スピリチュアル」でも、ドルフィーのバス・クラのソロの部分だけ、全体のムードから浮き上っているような感じなのだ。いうなればそこにきてとたんに転調したような印象なのである。エリックは62年までコルトレーンと行動をともにしたが、この頃エリックの心を痛めつけるような事件がおこった。ダウン・ビート誌上でエリックやトレーンたちがアンチ・ジャズの頭目と批難されたのである。批難した評論家はジョン・タイナン、レナード・フェザーであった。
これについてはダウン・ビート誌編集長ドン・デマイケルも同情したらしく、62年4月12日号に、彼がまとめた記事「コルトレーンとドルフィーがジャズ評論家に答える」を掲載している。その中でエリックは語っている。「評論家は大勢の人間を左右する。誰も知らないような新しいことが行なわれる場合には、評論家は音楽家にその内容について聞いてみる必要があるんじゃないだろうか。その音楽を好きな人だっているかもしれないしね。聴衆がそれについて知りたがるということだって考えられるだろう。批難されて本当にがっくりくることだってあるんだ。というのは、音楽家は音楽を愛しているだけでなく、生活費をそれに依存しているからだ」
61年に吹き込まれたレコードとしてはコペンハーゲンで録音した『ヨーロッパのエリック・ドルフィー一、2、3集』がかなりの力作である。きわめてパーカー的だ。
ジョン・コルトレーンのグループを辞してからのエリックはオーケストラUSAのメンバーになったり、いくたの吹き込みにつき合った。それにしても、彼の参加したレコードは意外に多いようだ。資料に弱い(ほかのことにも弱いが)私でも、そのことを理解することができる。彼の探求心は猛烈なものがあり、アルト、フルート、バス・クラ、クラリネット、ピッコロをこなし、オーケストラUSAの一員としてモーツァルトやウェーベルンの譜面を吹き、現代音楽のコンサートにもひんぱんに顔を出し、絃楽四重奏曲の作曲もつづけていた。もちろんジャズのアド・リブ、作曲と並行しながらである。
64年の春、エリックはチャールス・ミンガスのグループに加わって、再度ヨーロッパを訪れたが、このヨーロッパ演奏旅行に先立って64年2月に、彼はブルーノート・レコードに力作『アウト・トゥ・ランチ』を吹込んだ。これはすべてエリックの作品で固めたものだが、彼の非凡な才能がいかされており、今後エリックが行く道はこの道だなと思わせずにはおかない強烈な表現力と重厚な構成力が赤裸々な姿のうちに定着されている。エリントン、ミンガス、モンク的なコンポジションと劇的なアド・リブの間に完璧な統一があるとは必ずしもいいがたいが、エリックのもつ可能性を強く暗示した1枚である。
ミンガスのグループの一員としてヨーロッパにきたエリックだったが、演奏旅行の全日程がおわったあとも、彼だけヨーロッパに残った。パリでバレーを勉強しているフィアンセがいたからだろう。64年の6月2日夜にオランダのヒルヴェルスムにあるヴァラ放送局でオランダのジャズメンと共演したときの録音が、はからずもエリックの最後の演奏となってしまった。ライムライト盤『ラスト・デイト』に入っているエリックのフルート・ソロ「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ」は、まさに不朽の名演であろう。ここにあるのは人間精神の底知れぬ不安感のなまなましい表出である。タンタロスの飢えである。
彼はこの時点においてアルバート・アイラーのように「スカンジナヴィアの国々は、私にとって長い間のあこがれでした。沢山の噂をきいていました。で、とうとう来たのです。貯金をして、来てみて、ほんとうの自由を満喫しています。いつかきっと、世の中のひずみもなくなるでしょう」(油井正一訳)とはいえなかった。ふたたび引用するとエリックは「音楽は終ると、空中に消えてしまう。もう一度とりもどすことはできない」とつぶやいたのである。これはおそろしい言葉だ。
60年代前半に活躍したエリック・ドルフィーは、探求の途上にあった人であることは否めない。彼の荒々しい音色と饒舌なアド・リブは、若手のプレイヤーたちに、大きな暗示を与えているようだ。ジョン・コルトレーン、セシル・テイラー、オーネット・コールマンと並んでエリックは60年代のジャズの動きをかなりの程度まで左右したといってよかろう。しかし、エリックは完全に自分自身の表現をつかんでいたとはいいがたい。少くともレコードで判断するかぎりそうだ。彼は60年代後半に大きく花開く人であったような気がする。今日コルトレーンは『至上の愛』『マイ・ファヴァリット・シングス』を、セシル・テイラーは『ユニット・ストラクチャー』を、コールマンは『アット・ザ・ゴールデン・サークル』をもっている。残念ながら、エリックは彼らのような成熟を迎える一歩手前で昇天してしまったと私は考える。
60年代のジャズがめざましい成果を収めたことは、ごらんの通りである。チャールス・ロイド・クヮルテットの演奏しているようなジャズが、現在一般に広く受け入れられるようになっている。急速な変化が訪れたのである。
エリック・ドルフィーはかつて私の音楽はトナリティに根ざしていると語った。これをせまい意味のアカデミックな用語として解釈してはまずいだろう。深い意味において、セシル・テイラー、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンはトナリティに錨をおろしているといえるからだ。パン・トナリティという言葉がもっと本質に迫っているだろう。今日、音楽を含めてあらゆるものが、それ自体の独立性を主張して、分化された断片として浮遊している。このようなときジャズメンはもっと血のかよった、この人生そのものとの関連から発したひびきをかなでようとしている。表現とはつまり存在する音に耳をかたむけるということに帰着するのではあるまいか。エリックはそのことを知っていた。われわれが聴くのはしばしば挿入句につぐ挿入句を吹きまくり、なおかつリアリティに到達しえないで、不安におののいているエリック・ドルフィーの魂である。彼は完全主義者だったのかもしれない。そしてそのような構えが彼の肉体をそこねたのかもしれない。プア・エリック!
(スイング・ジャーナル1967年7月号)
■戦慄のサウンド
ぼくはこれまで何回かジョン・コルトレーンとその音楽についてつたない小文をものしたが、またもや下手な案内係をつとめることになった。タイムリーなものは書かないつもりだ。
コルトレーンについては、最近色んな人が書いているが、今日もっとも注目すべき即興演奏家の一人であるということに異論はないようだ。それにしても近頃のジャズ・シーンの華々しさはどうだろう。第二次対戦後のバップ時代をおもわせるような力がみなぎっている。ジョン・コルトレーン、チャーリー・ミンガス、マイルス・デヴィス+ギル・エヴァンス、セシル・テイラー、ジョージ・ラッセル、エリック・ドルフィー等々−−の活躍、それに何とソニー・ロリンズがミンガス、ローチ、モンクとコンボを組むという話が伝わっているし、沈黙していたレニー・トリスターノが、シカゴのバード・ハウスに出演したというニュースも入っている。
いったい何が、誰が、行きづまったというのか。無邪気なエネルギー発散型の音楽家が、つまり行きづまることしかやってない連中が行きづまったにすぎない。レコードの発売枚数の多い音楽家かならずしも優れた音楽家ではないというバカバカしいくらい単純なことを考えることが時には必要なのではあるまいか。木を見て森を見ないのでは困る。木も森も見ましょう。
ところで、いまズラッとあげた猛者たちは、それぞれ問題作を発表しているが、コルトレーンの新作『マイ・フェバリット・シングス』の目もくらむような白昼夢の世界の前には、いささか影が薄いのではあるまいか。
考えてみれば、『ソウルトレーン』以後、ぼくはコルトレーンに驚きっぱなしなのだが、事実だからしようがない。彼は音の壁を次から次へとつきぬけて行くのだ。
『ジャイアント・ステップス』に至って、音の極地探検も極点に達したかに見えたが、その後コルトレーンはソプラノ・サックスを吹きはじめたのだからびっくりさせられた。まるで一角獣を探し求めた中世人みたいに、未知の音を探るとてつもない彼の意志に圧倒され、ぼくは本誌(注:スイング・ジャーナル)一月号に次のように書いた。「ぼくはいつかは吹き込むであろう新しいレコードを、ソプラノ・サックスの音を夢想する。そのレコードが売り出されたならぼくは多分ミュージシャン達より早くレコード店に駆け込むだろう」
『ジャイアント・ステップス』というエポック・メーキングな作品に魅せられ、ぼくは彼の新作を首を長くして待っていたが、どういうわけかこの半年間にコルトレーンのレコードが三枚も(再発をのぞく)発売されたのである。どうやらジャズ誌の人気投票のテナー・サックス部門で一位になった為らしい。その一枚『ラッシュ・ライフ』は我国でも発売された。このレコードは優れた作品だが、一枚のLPとしては『ソウルトレーン』ほどではないような気がする。こういうコルトレーンの一面は、同じくプレスティッジに吹き込んだ『コルトレーン』で、ぼくは知っていたからそう感じたのかもしれない。我国では、25センチ盤に収められたセシル・テイラーと共演した『ブルー・ファイヤー』がごく最近発売された。どうしたわけか余り評判が良くない。たしかにこのレコードはメンバーの組合せが全くおかしい。セシル・テイラーとコルトレーンというのはわかるが、ケニー・ドーハムを加えるとは何事か。オーネット・コールマンのグループにマイルス・デヴィスが参加したようなものだ。完全なミス・キャストだ。
とはいえ「ダブル・クラッチング」のような優れた作品をだまって見送る必要はない。セシル・テイラーには『ワールド・オブ・セシル・テイラー』のような傍若無人ぶりには欠けるにしても、奇妙なガラガラで人をあやしているような、破裂せんと雌伏するサウンドを充分にうかがうことができるし、そのテイラーの音のクラスターを、抱きかかえるように、あるいはつっぱなすように、ハーモニックな迷路をくねるようにコルトレーンの“シーツ・オブ・サウンド”が蛇行していく不気味さはどうだろう。エリック・ドルフィーはこの「ダブル・クラッチング」の世界を第一ヒントとしているのではあるまいか。ドーハムというミス・キャストがあるにしろ、この『ブルー・ファイヤー』の内蔵する音の重みは相当なものだ。
『ラッシュ・ライフ』とほとんど機を同じくして待望のソプラノ・サックスが聴かれる『コルトレーン・ジャズ』がアメリカで発売された。ところで今年の五月、ぼくは産経ホールで『コルトレーン・ジャズ』を聴いたのである。MJQの演奏会で、ミルト・ジャクスンをフィーチュアーしたバラードの演奏中(曲目はちょっと失念した)何とミルトがアド・リブのなかにくっきりとコルトレーンの「ライク・ソニー」を歌い上げたのであった。ミルトの無意識の底に沈んでいたフレーズが、スッと浮かびあがった感じだった。ぼくは『コルトレーン・ジャズ』に魅せられて、この頃せっせとジャズ喫茶に通勤していたが、とくにこのコルトレーンの不可思議な「ライク・ソニー」の旋律のとりこになっていたので、まるで産経ホールでニコリともしないコルトレーンに接したような錯覚を起したし、ようしゃなくミュージシャンの魂に飛び込んでくるコルトレーン・サウンドの影響力の大きさを感じさせられたのである。
『コルトレーン・ジャズ』は、この「ライク・ソニー」の入っているB面の演奏が圧倒的にすぐれている。メンバーはコルトレーン、ウィントン・ケリー、ジミー・コブ、ポール・チェンバースのクヮルテットで、ケリーのピアノがコルトレーン向きでないのが少しものたりないが、「ハーモニック」「ライク・ソニー」「アイル・ウェイト・アンド・プレイ」「サム・アザー・ブルース」と彼のアド・リブは、ますます陰にこもって、柔軟性を加えてきた。「サム・アザー・ブルース」ではぎくしゃくした音程を激しく吹きまくっていくが、未だ「ジャイアント・ステップス」のような完璧さにとぼしいとしても、これが爆発したらとんでもないことになるぞ、とおもわせるような可能性を、この演奏は孕んでいるようだ。このことはA面の「フィフス・ハウス」についてもいえる。なお「ハーモニック」「アイル・ウェイト・アンド・プレイ」「フィフス・ハウス」などで、コルトレーンは、テナー・サックスから一度に二つの音を、古ぼけたハーモニュームの音みたいに飄々と吹いている。
ところでA面の前半二曲の演奏は、余りパッとしない。一曲目の「リトル・オールド・レディ」を聴きたまえ。なるほど彼は入念に歌ってはいる。テーマを吹いて、アド・リブに入るが、そのうち何かが起るだろうと、耳をすまして今か今かと待ちかまえていると、結局何も起らないで、パーカーの「スター・アイズ」そっくりのラテン・リズムのコーダをくっつけておわりなのだ。全く、大山鳴動してねずみ一匹とはこのことだ。次の「ヴィレッジ・ブルース」はもっとよくない。ぼくは彼のソプラノ・サックスを期待しすぎたせいもあるが、まるでテナー・サックスを下手くそに吹いたようなその音に大いに失望させられた。目下ソプラノ・サックス練習中といった感じで、かえって、ピアノのマッコイ・タイナーが、コルトレーン・フレイズを生き生きと弾いている変な演奏である。
ぼくは彼のソプラノ・サックスの未熟なのには失望したが、近い将来かならず未知のサウンドを孵化させるだろうという強い確信があった。はたせるかなコルトレーンは、最新作『マイ・フェバリット・シングス』で、このぼくの期待に見事に応えてくれたのである。
『マイ・フェバリット・シングス』!
ジョン・コルトレーンは、『ジャイアント・ステップス』から、『コルトレーン・ジャズ』から、又もやべらぼうに音の世界を飛躍させてしまった。何たる音の探検家!
先ず「マイ・フェバリット……」に、ソプラノ・サックスに耳を傾けたまえ。何とフシギナ音だろう。オーボエがかった、野鳥のさえずりのような音が三拍子のリズムにのっかって踊りだすのだ。皆さん! 安心して後を追っかけていい、パイド・パイパーが出現しました。マッコイ・タイナーが、二つのコードを往ったり来たりするようにピアノをたたくと、コルトレーンのソプラノ・サックスが、たわむれるように、さえずるように、進行していき、段々にフレーズは熱気をおびて、加速度がつき、とんでもない鳥の国にきたわいと思っていると、やがて潮がひいたように静寂な世界にもどって行く。何という神秘的な、そして根源的な音体験だろう。
次の「エブリタイム……」のゆったりしたバラードがまた素晴しい。まるで辺境の遊牧民が、無心に角笛を吹いているような淡々とした世界だ。とにかく彼のソプラノ・サックスの音の魅力は大変なものである。
ところがB面の「サマー・タイム」「バット・ナット……」のテナー・サックスの演奏が、これまた不気味なサウンド・ポエムなのでなる。まるでノアの聴いた一洪水の音響さながらに、ハーモニックでリズミックな多層的フレーズが、ひしめき合いながら音楽的空間をビッシリ埋めつくしていく。この生ま生ましさに、慄然としないものがいるだろうか。この瞬間あなたの知性、自我が変にちっぽけなものに感じられないだろうか。この生命力の完全燃焼の一瞬、コルトレーンの自我、私心はあとかたもないのだ。彼は無限のサウンドの中に積極的に自己を解体させた。自己の知性、意志をそのために利用した。「最後にあらゆる創造が可能である『神話』に到達せんがために」(ジャン・ジュネ)
何はともあれ、ぼくは『マイ・フェバリット……』の前に率直に脱帽しよう。そして前進につぐ前進をしつつある、ぬえ的ジャズ・マン、コルトレーンの予測しがたい活躍を期待しよう。それにしても、ぼくらのいとこメリーちゃんやシーダちゃんはどこにいるのだろう。
(スイング・ジャーナル1961年9月号)
■前進するコルトレーン・コンボ
「その頃、うちの人は、時によると文字通り寝食を忘れて24時間ぶっつづけにテナーを練習したことがありました。へとへとになって、もうこれ以上吹けないとなると、今度は音楽について語り出すんです」
これはジョン・コルトレーンの奥さんネイマの回顧談である。
その頃とは、彼が未だマイルス・デヴィスのグループに所属していた頃のことだ。かようにして、年とともに、彼にとって音楽は生活の全てを意味するようになった。まるでインドのヨーギのように、異常なまでの集中力をもってサキソフォンから未知の音をしぼり出す。しかしそれがサウンドされてしまえば、人々はそれが如何に世界に強固に内在していた音であるかを知って驚くのである。いうなれば、音の方がコルトレーンの楽器を通してサウンドされるのを待ちかまえていたようなのだ。
コルトレーンズ・サウンドの多種多様な色彩感と質感の変化から、人々は日常茶飯事に聴きすごしている雑多な音にも新たな意味を見出すだろう。あなたは自転車のブレーキの音も、古ぼけたドアのきしむ音も、猛獣の咆哮も、コンゴのバンツ族のの早口のおしゃべりも、すべて美しいものだということを遅かれ早かれ知ることだろう。つまりジョン・コルトレーンという音楽の水先案内人によって、あなたは〈世界〉の実在の大海に深く錨を下ろすことになるのだ。
このような過程を経て、あなたは世界を知り、そして愛するようになるだろう。それ故にジョンは「音楽は非常に大切なものだ」といっているのである。何故大切かといえば、再びジョンの言葉を借りるならば、「音楽は宇宙の姿を映し出したもの」だからである。音楽家は楽器をもってそれを、生き生きと映し出さなければならない。それは世界及び他者と、自己を分離せしめる自己主張によっては成しえない。
芸術家は、どんな役割りを引受けねばならないだろうか。「私は媒介具にすぎない」(ジャン・ジュネ)という状態に身を置かねばならない。ジョンもこのジュネの言葉を強く肯定するだろう。ジョンは彼の仲間たち、すなわち、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズの音に注意深く聴き入るだけでなく、インドのシタール奏者ラヴィ・シャンカール、更には名もない、中国の笛吹きや、アフリカのコンゴのドラマーにも聴き耳を立てる。
かようにして、ジョンは〈世界〉と密接に交流するのだ。そしてあなたはコルトレーンズ・サウンドを媒体として〈世界〉を抱擁するのだ。
これは素晴しいことではないか。
ところで今回インパルスに吹き込んだジョン・コルトレーン・クヮルテットの新盤『バードランドのコルトレーン』が発売されることになった。これは既発売の『ヴィレッジ・ヴァンガードのコルトレーン』と並んで、コルトレーンと彼のグループのジャズ・クラブでの白熱のプレイを堪能できる貴重な問題作といえよう。ジョン・コルトレーン・クヮルテットは各人が主従の関係ではなく全く平等な立場で、能力を充分出しきることによってサウンドは形成されるようになっている。勿論第一ヒントを与えるのはジョンであろう。しかしジョンは他人に刺戟を与えこそすれ、抑制することは絶対にないのである。その点は他の三人にもいえよう。このことを知るためにはA面一曲目の「アフロ・ブルー」を聴けばよい。ジョンのソプラノが現われるまで、タイナー、ギャリソン、ジョーンズが三つ巴になって恐ろしく刺戟的なリズムのパノラマを展開してゆく。
そして二曲目の「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」の後半に現われるジョンのテナーによる目もくらむような、イマジスティックで精緻なカデンツァ!1963年10月8日のバードランドは一瞬静まりかえった。B面には「ザ・プロミス」の他に同年11月18日にスタジオ録音した「アラバマ」「ユア・レディ」も入っている。では皆さん、後はレコードを聴いて下さい。
(スイング・ジャーナル1964年11月号)
■ジョン・ルイスの芸術
MJQについて現在色々な論説が盛んなようである。しかしその中にはいささか見当はずれなものもあり考えさせられる。
一部の「新しがり屋」の中にはMJQの出現によってそれ以前のジャズが色あせた存在と化した等と一人よがりなことを言っているのが居る。はたしてそうだろうか? このような評価がMJQを正しく理解したとは言えまい。私も『フォンテッサ』はずいぶん聞いたつもりだが、その為にエリントンやパーカーがつまらなくなったというような事はない。
さてMJQの演奏を良く聞いた人なら感じることであるが彼等の音楽には所謂アヴァンギャルド的色彩は極めて薄いということである。現代性ということに興味を集中させるならば我々はパーカー、トリスターノ等にそれを見出すのである。パーカー芸術にバルトーク風な表現主義を感じるとするなら私はジョン・ルイスにサミエル・バーバーを感じざるをえない。
20世紀の音楽のいちじるしい傾向は調性拡張から無調性への激しい探求であるが、中にはバーバーのような伝統的なスタイルの音楽家もいるわけで、このようなことからジョン・ルイスの音楽は新古典主義的傾向と呼ぶべきものであり真の意味において「トラディッショナル」なものである。事実モダニズムをMJQに期待するのは間違いであろう。ジョン・ルイスの偉大な功績を挙げるならば第一に合奏と独奏の融合に非凡な才能を見せたこと。第二に音にデリケートな秩序をもたらしたこと。第三にブルースの要素を今日に生かしたこと、等であろう。ジョン・ルイスがパーカーを頂点とする表現主義的傾向から最も遠い存在であるのは明らかであるが、ルイスの関心を呼ぶジャズメンはカウント・ベイシー、レスター・ヤング、エロール・ガーナー等であり、我々はそこに彼の考えをはっきり知ることができるのである。特に1930〜40年代のベイシー楽団はルイスの理想であるらしい。
ルイスのコンセプションは極めて単純なものであるが決して力の弱いものではない。
ピアニストとしての彼は違った世界の人であろう。彼が光るのはユニットの一員として完全な調和の世界にある時であろう。『フォンテッサ』の中間部のルイスは美しい。ルイスのアレンジメントはちょっとヘッド・アレンジのような印象を受けるが事実は反対である。ここにルイスのうまさを感じるのである。彼が修業時代エラ・フィッツジェラルドの伴奏をやっていたのは興味深い。ルイスはソロイストのバックを弾くと独得のうまさがあるからである。ミルト・ジャクソンのバラードのソロのバックを聞くとこのことがよく理解される。
現在ルイスに最も親近性を感じさせる音楽家は、ジミー・ジュフリーのように私には思われる。ルイスの芸術が現代人の心に強い関心を呼んでいることは秩序と調和の世界に現代人が憧れていることに外ならず、美術の世界において東洋が強い関心の対象となっていることと無縁ではあるまい。
さてジョン・ルイスについてちょっと批判めいたことを書くならば、彼には「類型化」の危険がないとは言えないということである。勿論そのことについては彼自身良く知っているであろう。
最近のMJQのLPを聞くとルイスはアレンジの部分を少くしてメンバーに自由に演奏させているようであり、彼のピアノ・ソロも前とは違っているようである。最近ルイスがマンハッタン・スクール・オブ・ミュージックの教授になるといううわさがあるが、今後の彼の活動に注意すべきであろう。ある意味ではジョン・ルイスは今音楽家として重要な時期にあるかもしれない。彼がエリントンやストレイホーンのスケールに前進することを我々はひそかに期待しているわけである。
(スイング・ジャーナル58年9月号)
■伝統と現代ジャズメン
近年我国をおとずれた西欧の偉大な知識人は多数にのぼるが彼等の思考に共通なものを認めることが出来るのは興味深い。歴史家トインビー思想家マルセル詩人スペンダー等が異口同音に叫んだ切実な問題はヨーロッパ文明の危機ということであった。ヨーロッパの代表的知識人がそろってこのような発言をしたということは只事ではあるまい。我々自身にも密接に関係してくる問題でもあるからだ。彼等は西欧の伝統である合理主義精神の異常な発達が潜在意識の面をはるかに追い越してしまっていることに警告を発しているようだ。そして彼等は機械技術文明が人間の精神活動を強く圧迫しつつあることから直観による詩精神の再興を強力に主張しているのである。西欧の伝統の再検討が成されたわけである。20世紀の新興のジャズ音楽は芸術としての歴史は浅いがしかし今日において我々は強いジャズの伝統が確立されていることをはっきりと認めることができる。そして現在のジャズメンにとって伝統との対決なくしてはジャズ独自の前進はありえないことが明らかとなったのである。
さてルネッサンス以来の西欧芸術には前に述べたようにある種の合理主義精神が重要な要素であったことは否定できないであろう。例えば西欧の音楽において楽譜の発達、和声学、対位法等の体系化等はこのことから感じられる西欧の偉大な一面であるが、一方音楽が作曲と演奏に二分化して世界を形成した結果、詩や絵画のような個人芸術の美とは異質なものに成っていったことも確かであろう。確かに、ヨーロッパ音楽の概念は「コンポジション」である。所が現代の西欧の音楽家の或る人々は、ジャズとは別の方法ではあるが音楽に即興性を復活させようとする動きを見せているのは興味深い。色々問題となっている「ミュージック・コンクレート」「電子音楽」は方法的には作曲家演奏家を求める動きであると解することができよう。
即興性とは別であるが原始音楽の世界も現在の西欧の作曲家の関心の的である。我々はこのようなことから明らかに西欧が反合理主義的なものへの探求を続けていることを知るのであるが、一方、ここ数年来ジャズの世界において皮肉にも合理主義的な傾向が一部に強く表れたのであった。
ウェスト・コースト派のジャズがそうである。彼等の多くは白人でありアカデミックな音楽教育を受けているが、我々はアメリカ人といっても彼等白人のジャズの精神的背景を成しているのは彼等の祖先であるヨーロッパの文化なのであることに注意を向ける必要がある。ウェスト・コースト派に真の意味のソロイストの少ないこと、アレンジメント重要視等の諸点をあげる迄もなく明らかに彼等の多くは意識的にしろ無意識的にしろ西欧の合理主義を内に秘めているのである。若しウェスト・コースト派のジャズが感動の質において弱いものがあるならば我々は「ジャズのスタイルを超えた深い問題」がそこにあることを、感じざるをえないのである。
彼等の音楽が、結果としてソフィスティケイションがオーバーとなり、インプロヴィゼイションは精巧なアレンジメントの間をつなぐ数分間の音の流れにしか過ぎなくなる危険性をはらんでいることを指摘することは容易であろうが、事実ウェスト派の例外的な偉大な音楽家達はこのことを敏感に感じ取ったのであった。ジミー・ジュフリーはその一人であろう。ジュフリーはジョン・ルイスと同じく「ソフィスティケイション」の行き過ぎが音楽を弱くすることを知ったのであった。彼の現在の活動に我々は伝統の質的な変型を見るのである。フォーク・ミュージック、ブルースは再生したのである。こう考えてくると我々は「伝統への対決」こそ音楽家にとって最大の課題であることを痛感するのである。極めて強烈な音楽上の革命モダニズム等も、実は伝統の「デフォルマシオン」に過ぎないのだ。パーカーやバルトークの美学は伝統的なものへの対決によって生まれたのである。私は現在スタイルのことなる多くのジャズメンがフォーク・ミュージック、ブルースに真剣な関心を寄せていることに注目したい。偉大な音楽上の前進が現在生まれつつあるのかもしれない。
ミンガス、ラッセル、ウォルドロン、等々の真面目な音楽家の存在は心強い。我々はジャズの超合理精神の伝統を貴重なものと考えるのである。そして西欧の危機といったものに対しての一つの解答がアメリカのジャズ芸術家の活動によって準備されつつあるのではなかろうか?
(スイング・ジャーナル58年11月号)
■マイルス・デヴィスの印象
小編成のジャズ音楽が全面的に取り入れられた点において、フランス映画『死刑台のエレベーター』は一般の強い関心を呼んだようであるが、確かにフランス映画のシーンからマイルスの音が聞こえてくるということはジャズ愛好家にとって大きな話題であるが私にとってはこの映画から感じられたマイルスの印象は余り強いものではなかった。はっきりいえば、特に意欲的なものは感じられなかったのである。しかし私はこの映画によってマイルスのジャズ芸術としてのユニークな面をまざまざと見て取ったのである。
それはマイルスが徹底した真の「印象主義者」に他ならないということである。我々は、映画のシーンにバックのマイルスの音との絶妙な融合に驚かされるのであるが、裏をかえせば、マイルスの音楽が映画そのものを離れては論ぜられないことになるのではなかろうか?
映画音楽としての成功は逆にジャズ愛好家に色々の問題を投げかけたようである。つまりマイルスは元来「ムード音楽家」ではないかということである。これは今流行のムード・ミュージック的な意味ではなく、例えばドビュッシーの音楽がシリアスな「ムード音楽」であるという意味においてである。マイルスはこの映画の録音においてラッシュ・プリントを見ながらインプロヴァイズしたらしいが、この態度こそ素材ないし自然から受けた印象を再現せんとする芸術家(印象主義者)のそれに他ならず、素材ないし自然の強力なデフォルマシオンによってフォルムを創造せんとするバード、ロリンズ等の芸術家と全く対照的な立場にマイルスが位置していることを物語っているのであろう。彼はモンクのようなピアニストとの共演を好まないようだ。
マイルスの音楽にとって「音質」は相当重要な部分を占めている。あの「音質」によってとぎすまされた感覚が伝達されるのであるが、このような彼の特質はテンポの比較的遅いバラード等に強く表われる。多くの場合マイルスがテーマをほとんど変形しないにもかかわらず我々に強い印象を与えるのは彼が「音質」に関してずば抜けた才能の持主であることを物語っているのだが、何といってもマイルスは「伝達」をその本質とする音楽家である。
1940年以後のジャズ・トランペットを問題にする場合、マイルスと故ファッツ・ナヴァロがクローズアップされるが、両者の楽界への影響を一言にしていえばファッツの場合は「コンセプション」であり、マイルスの場合は「トーン」であると私には思われる。
(スイング・ジャーナル59年1月号)