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●ルビは「漢字(ルビ)」の形式で処理した。
■目次
はじめに―渋谷道玄坂百軒店界隈
[音の旅の記録]
●トラッドとその周辺
「英国の土の匂い」の秘密|イギリスにどんな“都市の音楽”があったか|トラッドの受け入れられ方|大英帝国のうたう心|始めに歌ありき
●ロック、七〇年代初頭
ボブ・ディラン…彼も又、神ではない|ボブ・ディラン―彼が及ぼした最も大きな影響は「ディラン・スピリット」だった|ニール・ヤング|楽観的ニヒリスト、スティーヴン・スティルス|レオン・ラッセルの『カーニー』|スーパー・スター、レオン・ラッセルの戦略|ディラン・スピリットの系譜|遥かなるスワニーの五人の遡行者
●歌と音楽に託して
内向きのコバーン、外向きのマクロクラン―カナダからきたシンガー&ソングライターたち|どんどんポップになって来たボズ・スキャッグス|ザ・バンドの声はきこえる|マイナー志向|メジャー志向|終りの始まり|トーチカ物語|二〇歳のユーミン―荒井 由実『MISSLIM』|幸福な邂逅(かいこう)―DUKE ELLINTON & JOHN COLTRANE|よみがえった古謡―スティーライ・スパン "Please To See The King"|「旅する男たち」の歌―ジェリー・ジェフ・ウォーカー|生まれながらの異邦人―レナード・コーエン『ソングス・オブ・レナード・コーエン』|ヒューマニストの歌―中川 五郎『25年目のおっぱい』
●ライナーノーツ一束
ザ・バンド『ロック・オブ・エイジズ』|BOBBY CHARLES(ボビー・チャールズ)|ボシー・バンド『アウト・オブ・ザ・ウィンド・イントゥ・ザ・サン』|シャーリー・コリンズ&アルビオン・カントリー・バンド『ノー・ローゼズ』|ニック・ジョーンズ『ペンギン・エッグズ』
●コラムは歌う
1枚のレコード|アルバム・レビュー|レコード会社の倉庫に眠る日本未発売名盤|レッドネック・ロック
●やがて、音楽は鳴りやむ
「70年代の出口」からどこへ―ザ・バンド|ロックにとって名盤とは何か|松平維秋インタビュー―音楽とのかかわりの中で|ロック生態学―残らない心|“ロック主義”の解体|復刻CDに時代を聴く|モノ語り―ジャズ喫茶|『つれれこ社中/雲』解説
[風の旅の記録]
●山女魚を追って
源流(みなかみ)を求めた溪流師|奥鬼怒の山女魚
●この国を旅する
1 豊饒の野山、豊饒の海。|2 温泉夢譚――鳥取|3 森と水の民話|4 笑う隼人たち|5 鮭の風土記|6 花に棲む人々|7 島唄の真昼と夜|8 土佐の台所|9 神々の珊瑚礁|10 幸い住むと人のいう…|11 酒蔵ものがたり|12 紫煙の方舟
[補遺]
ことしの秋のミステリー|聴け! 古き島の歌を|MUSIC LIFEから|blackhawk newsから|表3抄
●松平維秋略年譜
●編者あとがき
●制作スタッフ一覧
松平はるかさんのために
はじめに
渋谷道玄坂百軒店界隈
〈付記〉
一九六〇年代後半、松平維秋は、渋谷道玄坂百軒店にあったジャズ喫茶「渋谷DIG」でレコード係をしていた。一九六九年、事情あって「渋谷DIG」が別の経営者による店「ブラック・ホーク」となってからもそのまま残り、レコード係をつとめた。その頃には、単なるレコード係ではなく、レコードの買い入れから日常どんな音楽を主体に流すかといった企画までを担当するようになっていた。
このエッセイは、彼が「ブラック・ホーク」の職を辞してから長い時を経て後、百軒店とその周辺の再訪記として書かれた。遺品には生原稿のコピーとして遺されていて、そのために未発表原稿とばかり思いこんでいたが、このほど初出雑誌が判明した。(編者)
先週は一〇数坪の土だったさら地が、今日は繁雑な工事現場になっている。この場所にビルが建ち、元の入居者が新装の店を営むという。ブラック・ホーク(※1)はこの一階にかつてあり、またここへ入るらしい。店名が残るかどうかは知らない。だが、あの“空気”が蘇ることはあり得まい。この時代に、それは誰も望まないことだからだ。いずれにしても、渋谷百軒店(だな)の二月の工事現場は、小規模なただの現場にすぎず、そこで一〇年余を過ごしたぼくの眼にも、別段の感慨は呼ばなかった。
だが六九年からの一〇年ほど、このスペースには特別な空気が満ちていた。世間的な分類では、ブラック・ホークはロック喫茶である。ところがその空気は、ロック喫茶らしさ[#「らしさ」に傍点]からは外れていて、プレイされる音楽が、席を埋める客たちの体に染み込んでいく光景は、いつも静謐といってよかった。そしてその音楽を他所で、たとえばラジオから聴く、ということはまずないのだった。
なぜかというと、ブラック・ホークの音楽は、世間の流行に同調することがなかったからだ。ロック=音量主義の七〇年代初頭には、個人レベルのコミュニケイションを重視してアコウスティック路線をとった。西海岸の音楽が一般化するころには、ゴスペル色の濃い南部のロックに力を入れ、シンガー&ソングライターにブームが兆せばイギリスの古謡をうたう人達に光をあてた。ヘソまがりではなく、わずか五〇人で満席のスペースは、つねに専門店的な使命を帯びるべき、という考えからだった。そこでは何年後かに、“幻の名盤”となるレコードが、幻ではなくリアル・タイムで流れつづけた。
「すいません、ちょっと出てきます」
ここでも常連は多少図々しくなり、よくこんなことをぼくに言い置いて外出する。煙草屋への往復よりは永い。だが一五分以内で戻ってくる。来れば三時間は粘る彼らは腹がへるのだ。その行った先も明瞭で、帰りに香辛料の匂いをプンプンさせていればカレー屋のムルギー。それより所持金の少なかった奴は中華屋の喜楽に行ったのに違いなく、席に帰ってからマッチを楊枝がわりにしていれば、食べたものはモヤシソバだ。どちらも歩いて一分以内。ブラック・ホークが工事現場となっているいまも、一五年前と変わらぬ営業方針で、変わらぬ賑わいを示している。
八五年の若者にとって、渋谷とはパルコ方面を意味する。この道玄坂界隈で、一〇年以上繁昌をつづけている店は多くない。だがそういう例外的な店には、きっとそれだけのポリシーがあろう。それが“わが渋谷”を結果として守っているはずだ。そう思い込んでぼくは、ブラック・ホーク時代に馴染んだ店々を再訪したのだった。
揚げたワケギ入りの醤油をかけただけで、喜楽の親爺さんが自分の麺[#「自分の麺」に傍点]を食べていた。これはぼくも見慣れた、この店全員の変わらぬ食事風景である。質素倹約の気風、という印象をまず抱くが、そればかりではない。こうして食べることで各々が毎日、麺とスープのマッチングを研究しているのだ。店主自らがこれだから、ここでの従業員に要求される厳しさは並ではない。まず動きの機敏さと的確さ。ラッシュ時のカウンター内の流動は、眼に見えない統御装置でつねに律せられているみたいだ。スポーツ新聞の求人欄を見て来た新人はたいてい、この精確さに溶け込むまえに、親爺さんの職人気質と先輩たちのストイシズムに絶望していなくなるのだ。
喜楽の味は他のどこにも類型がないから、百軒店を“卒業”して何年経った客でも、機会があれば顔を見せる。彼らは「喜楽の味は変わらない」と口を揃えるが、じつは違う。大鍋のスープには毎年改良が加えられている、と最古参店員の金ちゃんが言った。
喜楽の向いの路地を東に入ると、道は階段状になって道玄坂小路に下り立つ。左折してすこし行った右側、ジャズ喫茶のジニアス(※2)は、東京でも残された数少ない本格派の店といわれる。オーナーの鈴木さんは、ジャズ喫茶の老舗だった〈DIG〉の出身。じつは一〇代のぼくはそこで彼の後輩だったのだ。
「変わってないでしょ!」
第一声、店が変わってないことを笑顔で自慢できるのがうらやましい。ジャズ喫茶が変わっていないことは、バーが変わっていないこととは意味が違う。バーでは隣りの客が何を飲もうと構わない。だが、一枚のレコードを全員が聴くジャズ喫茶では、そのプレイはつねにオフィシャルなものなのだ。そう意識してレコードを選択する店が、本格のジャズ喫茶である。基本はオーナーの趣味であろうと、そのコレクションこそ、変幻のジャズ・シーンに対する店の回答であると客はみる。
ジニアスがオープンして一五年。この一五年の“ジャズ喫茶界”は、まさにその意味で混乱を極めた。ジャズの衰退、ロックの興隆、フュージョンの登場。多くの店が目標を見失い「明日のジャズは?」と呟きながら、現実には若者の尻を追いかけたまま消えていった。
鈴木さんとの話題は、どうも六〇年代の奥深くへとさかのぼりがちになる。そこを抑えて七〇年前後。当時は若者が各々に個性的であろうとしていた、と鈴木さんはいう。音楽を聴くことも自分の存在証明と考え、昼間から店にやってきた。変な奴、暗い奴、危険な奴がいっぱいいた。そしていま。これは喜楽の金ちゃんも言ったが、行儀がいい。厄介な奴はいず、面倒がない。だが表情もないから、どこまで音楽に感応しているのかもわからない。「一歩表へ出たら、もうジャズは持ち歩いていないね。昔は引きずって歩いてたけど」
ジニアスの並びをもう少し、東急本店方向へ行ったところに、ぼくの中学時代からのひいきのパン屋、フレッシュマン・ベーカリーが健在(※3)だ。創業は昭和二十四年だから、この店名には相当なモダニズムを感じる。むろん自家製であり、オリジナルのランチパン、オムレツパン、シナモンロールなどは、店名とともに戦後のモダニズムをいまの世に伝えているわけだ。そして七〇年代、巷のパン屋は次々とガラスの陳列棚を廃し、例のピックアップ方式を採用していく。おかげでいま、この店の表は古めかしく見えるが、たとえ改装しても現行のウインド型式は変えないという。いまここのパンと店の雰囲気とを喜ぶのは、奥様方よりも若い人だ、ともいう。
〈109〉の根方に、まるでコラージュのようにバラック建ての呑み屋がうずくまっている。どこかの漁師町から運ばれてきたのではなく、三六年前からここにこうしてあったのだ。玉久と染め抜かれた白暖簾(のれん)が夏の風に揺れ、開け放しの引き戸の奥に満員の客と魚介の山を見た夕方、中学生だったぼくは「このなかに大人の世界がある」と思って憧れた。ついにその夢の暖簾をくぐったのは二〇代半ばだったが、ここの魚のうまいことは、外からの景色だけで疑う余地はなかったのだ。
〈109〉と玉久。この文章にとって、まるで悪玉と善玉の対決だが、あのナウくなり損ねたモンスターみたいなビルができるとき、やはり玉久は“町の発展”のために執拗な勧誘を受けた。それを常連と雰囲気のために拒絶し、家族一丸、必死の決意でいるのだ。
若者のグルメ熱はいま、西洋に飽きて日本回帰の兆候を見せている。そのうち少し利口なのは玉久にも顔を出す。そしてここの女主人は、とても丁寧な口調で彼らについて語るのだ。言われたとおりに食べてばかりいず、わからないことは魚の顔を指さしてでも尋ねてほしい、と。そうすれば、座ったとたんに献立を説明する手当ては不要になるだろう。
とまれ、情報で舌は肥えない。あとこの界隈でうまい店といえば、恋文横町全焼の大火から蘇った台湾料理の麗郷だろう。場所はさきの道玄坂小路、ジニアスの斜向い。連日夕刻からは待ち人の列ができ、そこに若者の多さを発見するとき、なんとなしに安堵する。
散歩は再び百軒店にかえる。六九〜七九の若者の古戦場はここだ。道玄坂から入って直進のまま路幅が狭くなった左側、アメリカ音楽のBYGを訪ねた。それは文字通り訪ねたのであって、ブラック・ホークにいたぼくがここの客だったわけはない。なぜ訪ねたかといえば、ブラック・ホークは七七年にぼくが辞めて以降、ニューウェイヴ、レゲエへと音楽を変化させた。しかるにこのBYGは、後発ながらいまだに米国音楽を標榜している。どんな人がどんな心根で? そしてどんな客が? という興味があった。驚きもあった。
坪田氏はなんと高校の先輩だった。そしてBYGの店長になったのは、奇しくもぼくが百軒店を去った年である。七七年といえば、シンガー&ソングライターたちが白いスーツに身を包み、シティ・ミュージックへと“転進”した年、としてぼくには消せない記憶になっている。あの西海岸ブームほど苦々しい流行はなかった。
A君はボズ・スキャッグスをかけてベッドに座る。「ココチ良いね」とB子ちゃんが微笑む。「明日、ジャクスン・ブラウン聴きにブラック・ホーク行こう?」とA君。ある音楽はこうしてメジャーになっていく。というわけで、メジャーになった音楽をかけるために、ぼくがブラック・ホークにいる必要はもうなくなったのだった。
だがBYGの坪田氏は、そんな意固地な人間ではなかった。大学時代にジャズをプレイしていた彼には、まずロックに対する深情けはない。自分とロックとのその距離を、情況に照らして理性的にコントロールしている。この店での前任者は、彼に「趣味に走ってはいけない」と言ったそうだが、実際の彼は他人に個人的な趣味を知られることすら恥しがるタイプの人だ。もし「家では何を聴いてますか?」と誰かに問われれば、パイプをくわえてニコやかに「モーツァルトです」と答える。ロック喫茶の店長が客にそう答えるとすれば、それは一種の韜晦(とうかい)である。だが、知識比べを吹っかけてくるマニアも多いなかで、その競技に参加しない彼は、同時に虚勢を張ることも決してしない。
ではBYGがいま孤島の楽園のように、米国音楽の花を咲かせているかといえば、それはやはりそうではない。米国音楽が古くなったというより、選び、聴くことで存在証明になるような音楽など既にないのだ。あるのはただ、多種多様な音楽である。あとはどれにどう乗るかだ。坪田氏はニコやかに言った。「ハラに一物据えて地方から来た人は、音楽かファッションに執着するでしょ。流行から外れないその努力は偉い、凄いと思います。ぼくは執着や努力がダメな性質で、だんだん滅んでいく人間です」
滅んでいくのも悪くない。この界隈はぼくの記憶のなかで、現実よりも輝いている。ただ過去の地図は必ず暗号で記されるから、それを解読できる人にしか意味がないのだ。
〔『INFAS』1985年4・5月号〕
※原稿中の明らかな誤字数カ所を訂正した。また、初出時の標題「ブラックホーク時代、'69―'79 at百軒店」を変更した。(入力者)
音の旅の記録
トラッドとその周辺
「英国の土の匂い」の秘密
●“ジョン・ババクーム・リー”の物語
裁判官の冷徹なキングズ・イングリッシュが、被告“ババクーム・リー”ことジョン・リーに対して絞首刑の判決を言い渡すと、フェアポート・コンベンション七枚目のアルバムは始まります。
裁判官があの恐ろしい言葉を述べた時
私は想像しただろうか
再びババクームの地に生きて立ち
寒風を感じることができると…
私は悲しみの人生を送るべく生れついた
友人達が恥辱で頭を垂れるのを見てきた
日ごと疲労と倦怠が増してくる
一九世紀末、女主人殺害の咎で絞首刑に処されようとした、無実の男の奇蹟の物語。フェアポート・コンベンションはその史実を、自らの手で長い長いバラッドに変え、一九七一年に唄うのです。主人公ジョン・リーが“ババクームのリー”と呼ばれねばならない悲劇の顛末を、彼が一五才の少年だった昔にさかのぼって。
「男達は皆働くものだ、お前にもその時がやって来た」。一五才の誕生日の夜、ジョン・リーを呼んで言った父親のその言葉で、彼は“海へ出たい”という英国少年らしいその夢を、ひとまず胸中深くに納めて置く事としました。
父親の言に従って彼が赴いたのは、ババクームという近郷で、村人達から“ミス・キース”と呼ばれながら暮す貴婦人の館の、馬屋番になるためでした。女主人は、彼を息子であるが如く親身に扱いましたが、在郷の水兵達が彼に聞かせる海の話の誘惑は、若い彼にはいかにも打ち勝ち難く、一八か月の後、父親の反対を押して、彼は海軍に志願したのです。彼はそこに天職を見つけた想いで軍務に服し、フェアポートはその有様を、このアルバム唯一の古謡「セイラーズ・アルファベット」に託して歌っています。ところがある時彼は肺炎に倒れ、生死の境をさ迷った挙句、命は取り止めたものの、その身体はもはや海軍には不用の物と宣告されたのです。既に一九才だった彼は、キングズウェアのさるホテルに職を見つけはしましたが、其処で彼を呼ぶベルは汽笛ではなく、マホガニーのカウンターが甲板の手摺に似ている筈もなく、自分の心が海に残されている事を想い知るばかりでした。
そうしたある日、彼を運命の地へ呼び戻す一通の手紙が届いたのです。それはかのキース婦人からの物で、彼が再び彼女の館で働く事を暖かく迎える旨が認めてありました。石積みの門を抜け、久し振りに見上げるキース婦人の館。庭から一段高い花壇に、もう一段高くポーチが重なって、そのまま建物の裾一杯に延びています。幾本もの柱が廂(ひさし)を支え、その合間の奧で盲格子を放たれた窓々が、尚も暗く並んでいます。向い合う二人の衛兵の様に、四角い煙筒が両端に立っている上階の茅ぶき屋根。館の背後でもっと高く茂る黒い木々。来客を招じ入れる玄関脇の薔薇垣のくぐり。そして、其処から奥深く入った食堂で、程なく起こる事件こそ、ジョン・リーに殺人者の名を与える事となるのです。
●奇蹟がジョンの命を救う
フェアポートのアルバムではその時、ニュースを伝える声が、事件の概要と、ジョン・リーに掛けられた嫌疑とを機械的に告げます。殺人は折しも生じた火事に乗じて行なわれたとされるものの、信頼厚い下男が、その敬愛する女主人を何故殺害したかの動機が判然とせぬまま、彼の寝所から発見された血曇りのナイフや血痕の在るシャツ等の物的証拠に依って、その罪は動かぬ物とされたのです。
弁護士は彼に全てを任せろと言い、ローヴをまとった判事は高い所で温和そうに見え、審理は彼自身の介在する所なく、彼の心を痛ませながら迅速に進みました。彼には、神が彼の潔白を御存知だと信じて、処刑の日迄の幾夜かの眠りが安らかである事を祈る他に、出来る事は無かったのです。
これが此の世の最後の夜と知って就いた眠りの中で、彼は夢をみます。彼は絞首台に居り、絞め金が外され、けれどそれは不動のまま動かず、試みは三たび繰返されて失敗に終るのです。六時半。彼が飛び起きたのは、現実の独房の中。やがて八時。彼が歩み出た刑場の中庭は、なんと、彼が昨晩の夢に見た庭と寸分違わぬ事に彼は気付きます。
でも彼は、自分に奇蹟が起きつつあるとの意を得た訳でなく、彼の死に様を見届けようと待ち受ける記者達を無感動に見やり、鳥達の声に耳傾け、故郷の村に想いを馳せ、暖炉に群れる父母や旧友達の姿を、閉じた目に描くのでした。が、奇蹟は起こり、刑の最初の執行が原因不明の失敗に終った時も、二度目の失敗の時も、そして三度目は更に、絞首台のその不思議な故障は、恐らくはその成功以上の苦痛で彼をさいなみました。「なんと言う事だ。死ぬ方が楽だ。待つのはたまらない」
ところが、目に涙を浮べた執行官は、三たび失敗を重ねた刑は、法により、もはや執行されない事を告げるのでした。
さて、奇蹟は彼の生命をつないだけれど、彼が“ババクーム・リー”と呼ばれる悲劇を終らせはしなかったのです。奇蹟は、彼の潔白の証し迄を立てはしなかったのです。それからと言うもの、“ババクームのリー”の名は、絞首台を麻痺させた男の名として呼ばれる事となりました。彼が縛(いましめ)を解かれたのは一九〇七年、老いた母親とクリスマスを過ごすための仮出所が許された時でした。それまでの二〇年余を彼は、法が果たせなかった刑の代償として、理不尽な獄中生活を送ったのです。
これが“ババクーム・リー”を物語るあらましです。でも、アルバム毎に古謡の世界深く踏み入って来た我がフェアポート・コンベンションをして、新たに、自らの手でこの長大なバラッドを詠ませた物は、一体この物語に潜む何なのでしょうか?
●メンバー・チェンジを繰り返し音楽性を確立
今、英国の音楽界に顕らかな動きの一つは、フェアポート・コンベンションとその周辺の音楽家達の活動に依る、トラディショナル・フォークの蘇生だと言われます。とはいえ、フェアポートの歩みを振り返るだけでも、イアン・マシューズやサンディー・デニー、スティールアイ・スパンといった名は誰の頭にもすぐ浮かび、次にその人が、各々の個性を考えに入れながらそれらの音楽を総称しようとしても、ニュー・フォークとでも呼ぶ他は無いでしょう。それほど、彼等の守備範囲は拡大しています。でもそこは良くしたもので、昨今の音楽雑誌には彼等について語る記事も多く、フェアポート一族の系譜を見掛ける事も再三なので此処でそのお復習(さら)いをするのは控えますが、一つ念頭に入れて置くべき事が有ります。それは、早い時期にフェアポートを離れて行った人程、アメリカのカントリー・ミュージックに近いコンセプションを持ち、フェアポートの名の許に残る人達は、アルバムの度に英国の土に帰って行ったという、大まかな道筋です。別れて生まれたグループを辿ると、トレイダー・ホーン、マシューズ・サザン・コムフォート、フォザリンゲイ、スティールアイ・スパンの順でイギリス的になって行く訳で、これは別れて行った順番と一致します。当のフェアポートについて言うと、最初のアルバムではエミット・ローズやジョニ・ミッチェル等の曲を取り上げ、今なら平均的であろうようなニュー・フォーク・グループの姿をしていました。それは四年前の事です。そして二枚目のアルバムで初めて二つのトラッド曲を演奏して以来、それが次第に彼等の大切な仕事になって行き、その変化に伴ってメンバー・チェンジが繰り返された事は前述の通りです。只、その過程で最も重要なのは、『リージ・アンド・リーフ』からフィドル奏者のデイヴ・スワーブリックが加わった事で、この事は、彼等がトラッドに取り組む上の大きな力となったし、次の『フル・ハウス』は、フェアポートに彼が在ってこそ初めて生まれた物。そしてそこには、彼等が今在る姿を志す、決心のポイントが隠されていたと思います。
そしてこの辺りから、英国トラッドが肌に合わない人達からは全く敬遠され、それを大好きというぼくの様な人達からは、聖者の集まりみたいに思われるという、両極端の反応に、彼等は迎えられる事となったのです。そしてここでは、その二つの反応の真の対象、つまり、彼等の音楽の何が、あんなに激しい好き嫌いを呼び起こしたのかを、考えようと思います。
●初々しい古めかしさ
先ず、『リージ・アンド・リーフ』では、デイヴのフィドルを得て、初めてジグが奏されます。これはスコットランドの高地に伝わる舞踊曲で、歌詞はなく、16分音符が延々と続くのですが、このスタイルはアメリカに渡っても、スクエア・ダンスの形で生きています。ディラーズや、近くはディラード・アンド・クラークの演奏の中にも、その伝統の一端を聴く事が出来ますが、それ等はフェアポートのジグ程には、この日本で忌み嫌われる事はない様です。でもこのアルバムの他の曲は、全てサンディー・デニーのリード・ヴォーカルで歌われるので、アルバム全体としてはさほど“けったいな”印象を与えずに済んだ様です。サンディーの唄は声その物に少々モダンさが在って、アメリカのカントリー・フィーリングをも、適度に漂わす事が出来るのです。そこで問題になるのが、彼女の抜けた『フル・ハウス』。第一に声が違っています。サンディーは居ないのです。このアルバムから聞こえて来た“歌”には確かに、五人の男が、何か重大な決心を迫られた挙句のものらしい響きが、“湯上がりの出直し”みたいな響きが在りました。彼等の“唄う”事について考え、一つの声を選んだのです。今にして思うとそれは、バート・ヤンシュやジョン・レンボーンにも通ずる、トラッド・フォークを唄うための、最も素朴な声だったのです。でもフェアポートのその声は、今にも古代ケルト語が飛び出て来そうな“初々しい古めかしさ”に満ちています。歌に関して、彼等は『エンジェル・ディライト』から『ババクーム・リー』へと、更にその完成度を高めて来たと思います。でも、リチャード・トムプソンとサイモン・ニコルのギター、デイヴ・スワーブリックのフィドルがからみ合うインストルメンタル・パートは、この時が一番充実していました。とりわけデイヴのフィドルは、楽器が唄う歌として、ロックやフォークの中でぼくが出合った最高の歌を唄いました。
●イギリスの土の匂いとアメリカの土の匂い
それ等全ての中から立ち昇る物、それは土の匂い。それも、イギリスの土の匂い。ザ・バンドが、デラニー&ボニーが漂わせるアメリカのそれとは違う、イギリスの土の匂いなのです。そして、この匂いこそ、良くも悪しくもぼく達の耳に届いて来て、大勢の人をウンザリさせ、少しの人を狂喜させた物なのです。この好き嫌いばかりは、食べ物と同じで、ある物を嫌いな人に、どんなにその美味を説明しても始まりません。でもここで更に、アメリカとイギリスの土の匂いの相違について言うなら、それは最も深い所で、文字通りの土、気候風土に依っていると思います。そしてもう少し浅い所では、風俗習慣がそれを音に換えているようです。例えば、ザ・バンドの音楽の奧に見えて来るのは、無頓着から人間を棲まわせてはいても、永遠に人間の挑戦の対象であり続けるだろう、強者たる自然の荒くれた土なのです。そして、街道脇の酒場で呷(あお)るバーボンや、トラックに寄りかかって葉巻きを喰いちぎる様な事の全てが、出て来る音を選ばせたのです。一方、フェアポート・コンベンションの音楽の奧に在る土は、太古より人間と交わり、その営みを無言の優しさで認めて来た土です。英国古謡に歌われる荒野は、赤い岩肌をさらすアメリカのそれには似ない、ヒースの生い繁る丘が連なる高原なのです。そして陽光は明るく、空気はひんやりと落ち着き、その中に棲む人間一人一人の則(のり)を、自(おの)ずから定めているが如くです。
フェアポートの音楽が、アメリカのウエスト・コーストのフィーリングから出発して、一歩一歩イギリスのトラッドへと遡って行った変化とは、一体何だったのでしょう? それは、六六年にエレキ・ギターを抱え、バーズの音を出そうとしていた三人の同級生達が、やがて、干し草の中に沈む暖かさを貴く思い、スタウトの苦みに笑(えみ)を洩らすようになる。そんな変化の全てが、音楽に映されたのだとぼくは思うのです。フェアポート・コンベンションの音楽を愛する事は、“英国の土の匂い”を愛する事だと思います。
さて、英国人であるフェアポートの面々が、英国の土から立ち登る物を捕らえて、自分達の音楽の寄辺とする事は自然だとしても、では一体、日本人のぼく、ひょっとしてあなたが、その音楽に心酔し聴き惚れるのは一体何故なのでしょう? アメリカの音楽に対してもそうです。その奧に南部の土が在ると言われるザ・バンドの音楽を良いと感じるのは何故でしょう?
それは、その演奏者達が、自分の心の、どれ程の真実の声に駈られて、その音楽を演奏するに至ったかに懸(かか)っています。音楽に聴く感動とは、熟達した奏者が聴く者の為に用意する物ではなく、音楽とその奏者との、偽りの無い関わりの中からこそ、生まれて来る物なのです。その関わりが真実であれば、その音楽は、言葉さえ解らないぼく達をも、感動させる力を持つのです。ザ・バンドもフェアポートも、奏者と音楽との関わりが達した、稀れに見る高みで演奏しているのです。二つの音楽の音その物は、正反対な程違うのに、彼等が米・英の好対照として語られるのも、そのせいだと思います。
●フェアポートのたどる苦難の道
さて、ザ・バンドもフェアポートも、共にその音楽との真実な関わりを持っているけれども、その有り様は、典型的に違っています。ザ・バンドの音楽の底に眠る土は、永遠に挑戦の対象であり続ける土です。そして、彼等の音楽に土を感じるのは、彼等が、正に挑んでいる相手としてなのです。酒場で呷(あお)るバーボンに挑み、葉巻きを喰いちぎる事に挑み、そうした事の全てに挑むのが彼等の音楽です。ところが、挑み続けるという事は、決して勝てないという事です。勝てないからこそ、彼等の音楽には、あの哀感が滲むのです。勝てないからこそ、彼等はあの音楽を演るのです。其処には、力を称え合う敵味方の勇者の間に生まれるような、塩からい愛が在ります。
フェアポート・コンベンションの音楽にたちこめるあの匂いをはぐくんだ土は、人間の営みを無言の優しさで認めて来た土です。それは、雨や雪と共に、人間の喜怒哀楽も歴史も、夢も祈りも、それ等全てを、その墓場として受け入れて来た土なのです。だから、あの肥えた英国の土の匂いとは、その上に生きて死んだ物全ての死臭という訳です。そしてその匂いは、それを呼吸して生きる誰かに、その生活はもはや新しくなく、新たに考えるべき事は何も残っていないという秘密を、教えてしまう事があるのです。その人間が賢い時にのみ。フェアポート・コンベンションはアルバム毎に、この土の匂いが意味する事に気付いて行った様子です。そして、理不尽な罪に落とされながら抗弁さえしなかったジョン・リーの様に、彼等も又、英国の土に挑む事をしませんでした。土は、賢い彼等を呼び招いたのです。彼等は土を、あらゆる生活とあらゆる思想が死んで眠っているその土を愛し、そこに彼等の音楽を委ねて行ったのです。
ぼくにとって、彼等のその音楽は、ザ・バンドと同じ位切迫した響きを持って聴こえて来ました。伝統に身を委ねることに依って、土に還る事に依って、あんなにも真実な、“音楽との関わり”を聴かせる事が出来たのは何故でしょう? それは、“身を委ねて行く”という事も又、とても厳しい事だからです。“創造する”という事を、結婚して子供を作るみたいに、条件さえ整えば誰にでも出来る事だと考えている、大方のミュージシャンには思いも及ばぬ、それは意志の要る業なのです。彼等には、土の匂いを聞きつける知恵が有り、もしその神託を受けなければ、他のミュージシャン達のように、希望を持って創って行ったろう音楽を、見限って来た痛みが在った筈です。“音楽と関わる高み”を土から与えられた彼等は、奇蹟に依って生命を救われた後に真の苦しみが待ち受けていた、あのジョン・リーの如く、トラッドの世界に旅立った時にこそ、苦難の道が始まったのです。彼等のその苦難は、『フル・ハウス』以来、アルバムの中のオリジナル作品に滲み出ています。デイヴのフィドルの素晴らしさは、その胸を詰まらせる訴えなのです。そしてこの後、オリジナル・メンバーだったリチャード・トムプソンも去って行き、サイモン・ニコル、デイヴ・スワーブリック、デイヴ・ペグ、デイヴ・マタックスの四人で、『エンジェル・ディライト』に臨みます。デイヴ・マタックスは努めて陽気に、歯切れの良いリズムを送り、神々しい程に切ない四人のヴォーカルを、いやがうえにも引き立たせています。そして、彼等やスティールアイ・スパン等の場合、ロックのビートとは、自分達がトラッドへ歩み寄って行くための、大切な手段(てだて)として用いる物であって、トラッドを現代的な音楽に変えるための薬ではありません。又、健気な程結束した心は、「浮世の戯事(ざれごと)の悪魔」という、ニコルとスワーブリックの曲に著しく、アルバム全体には、隠しきれない憂愁の漂う、それは敬愛すべき作品なのです。
●何処迄も土に身を委ねる
さて、アルバムの中のオリジナル曲で、土に身を委ねて行く事の苦しみを、切々と物語って来たような彼等が、とうとう苦難の物語の集大成を演じる事となったのです。“ババクーム・リー”の物語を思い出して下さい。
そのアルバムは、二〇年余の刑期を終えて、村の生家に帰った彼が、老いた母親と並ぶ写真がジャケットです。そして、LP両面のバラッドでは語りきれない事件の詳細と、ジョン・リーの心とを、彼自身がつづったノートが付いています。その手記の最後に、奇蹟が彼を救った後の、故郷に帰る迄の期間について彼はこう書いています。
“自分が一つ墓から救われ、もう一つの墓に移されたに過ぎないとは知りませんでした。生きながらの死を耐える事が、どんな墓の恐ろしさよりも、恐ろしいという事を知らなかったのです。それ等の日々の内で、徐々に大きくなる山は何かという事、私の肩で重さを増して行く、心痛と辱しめの荷の事を解らずにいたのです。
私は男として、男たろうと考えました。人生を考える事、その時だけが、私にとっての良い人生だったのです。”
フェアポート・コンベンションも、まさにこのような心境に居るのでしょう。ヴォーカルはいよいよ冴え返り、古めかしい手製のメロディーを、一層古めかしく、尚且つ想い切々と唄います。とりわけ裏面で、ジョン・リーがお告げの夢を見る前に、たった一曲だけ、フェアポートが語り手の立場からの四行を唄う下りは見事です。唄も、デイヴのフィドルも、彼等以外には絶対に創れない種類の緊張を創っています。でも、“土の匂い”という点では、このアルバムよりも、スティールアイ・スパンに濃い物が在ります。フェアポート・コンベンションは、今、立ち停って、険しかった道のりを振り返って見ているのでしょう。自分達の曲で故事を語ってみたいという願いと、その奇蹟の物語に自分達をシンボライズさせようという気持ちから、このアルバムは生まれたのだと思います。彼等が今日まで来た道を、明日からも行くなら、苦難は何処迄も続くでしょう。メンバーの変動も起こるでしょう。けれど、ジョン・リーが獄中でも男たろうとして、人生を考え続けた様に、彼等もやはり、“何処迄も土に身を委ねる”という、彼等の気概を持ちつづける事を、ぼくは信じています。
〔『ニューミュージック・マガジン』1972年2月号〕
イギリスにどんな“都市の音楽”があったか
初めにお断りして置かねばならないのは、イギリスにおける“都市と音楽”をぼくが語る場合、それは非常に不公平な立場に立たざるを得ない、という点です。なぜならぼくは数年来、ロンドンを中心に繰拡げられてきた“時代の先端”たる音楽の流れを、“飽くなき風俗”として見過ごしてきただけで、真剣に耳で受け止めようとはしなかったからです。グラム・ロックもパンク・ロックも、ティーンの雑誌のグラビアの景物でしかなく、その事自体に時代が反映されている、と言えば言える。この程度の認識でした。
そのぼくにしても、最初のロックへの開眼はビートルズでした。このビートルズの出現が、ロンドンではなくリヴァプールであった事へも、昔から様々な考察が加えられてきましたが、「リヴァプールであったからビートルズが生まれた」と言うためには、彼等の初期の音楽に対する従来の定説を、少々ずらせてみたい気がします。それは、彼等の音楽のそもそもが、テディー・ボーイの社会への反抗から発していた、というあの説です。恐らくはその通りだったでしょうが、しかし初期の“名曲”の多くは、余りに五〇年代のアメリカン・ポップスに似ていなかったでしょうか? 似ていたというより、ロックン&ロールの破壊的な要素よりもポップスの伝統的なコーケットリーの方をよく掴んでいたと思われます。それは六〇年代初期のアメリカン・ポップスよりも、もっと古いテイストを持つもので、ロンドンではもう風化しつつあったものです。それがなぜリヴァプールから蘇生し得たかと言えば、あの有名なスキフル・ブームの残影が、ロンドンではブルースを中心として分化し、地方ほど古い視点が保たれてきた、という背景があったのではないかと推測します。ビートルズそのものはその後、誰もが知る通りのふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]を獲得して行ったけれど、それはもう、都市だの地方といった概念を溶解すべき音楽としてでした。現在でも、ウェールズ、ミドルセックスといった“田舎”の、スウィート・フォーク&カントリー、レッド・ラグ等のマイナー・レーベルには、ヨーケルズ、キャロット・クランチャーズ、コッキーなぞという、地方的に残存した、それゆえに“変型”のスキフル・ジャグ・バンドがあります。
さて、話題を中心のロンドンに移せば、ここでの目まぐるしいまでな“新しさ”の変遷は常に、“閉塞した階級社会の底辺ののたうち”として捉えられ、そこではロック本来が持つべき“反抗のエネルギー”が再生産され続けている、と希望的に観測されてきたようです。果してそうでしょうか? ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンといったバンドが、ロック社会における“上流階級”の座を固めてしまったあと、“何か新しい意味”を標榜するこの現象は加速度的に繰返されました。その過程での幾つものバンドやアーティストの離合集散の全体像を、流動的なままに“ロンドンの熱気”風な呼び方をしたのでしょう。その意味でこのムーヴメントは、確かに“底辺ののたうち”であったかも知れません。
元来、英国のコンテンポラリー・ミュージックは、米国の亜流、二流の立場を余儀なくされ、そのうっ積の爆発から近来の“ニュー・ロック”の誕生をみた、とする意見を聞きます。事実、ヤードバーズやクリームの存在を抜きに今日までのロックの歴史を語る事はできませんが、しかしそれ等は“都市の音楽”ではなく、“時代の音楽”であったろうと思います。そして、その後のスペース・ロック、グラム・ロック、パンク・ロック等は、時代を先導しようとして把握し切れなかった、しかし一年もすれば姿を変えて再登場してくる、そうした習性が依拠する場としての都市の音楽、即ち“ロンドンのロック”たらざるを得なかったのでしょう。
別の面から見れば、“ニュー・ロック”という言葉が意味を薄めてきた頃から、英・米のロックは質的な分化を促進し始めた。アメリカ勢はカントリー、フォーク、ブルース、ゴスペルといった、そのルーツに立脚したロックの創造を志し(ここからしばらくが、アメリカン・ロックの黄金期であったと思います)、他方イギリスのロックは、よりルーツから解放された、無国籍かつ宇宙的な何かをロックに求めようとしました。この時点から、ぼくの英国に対する興味は、フェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパンといった、トラッドにアプローチするロックに偏って行ったのです。
一体、宇宙的な音楽というものは存在し得るのでしょうか? 宇宙空間に音は無いはずです。あったとしても、誰もそれを聴いた経験はありません。だとしたら、一般に“宇宙的”とされる音の構成は、単に幼年時代から学習?した、SFのサウンド・トラックの心理効果を指しているに過ぎないのです。こうした音楽を真剣に聴くことはできません。
「ロックにも“スター”が必要だ!」としてグラム・ロックは登場しました。かつてハリウッドの銀幕で、ドーナツ盤のジャケットで微笑んだような“スター”が、ジーンズとTシャツ文化の内には不在だったからでしょう。又そこには、“世紀末文化”の爛熟を、自ら標榜する姿勢がありました。しかし、“ジーンズ的シンプリシティー”が若者の中心でまだ健在だったその頃、“ある分野”に携わる人達以外には、その運動は「面白いなあ」程度の、信じてはいない中途半端な好奇心のなぐさみ物でしかなかったでしょう。当時、ストーンズが来日するのしないのという騒ぎの内で、彼等に関する当誌のアンケートに答えて、ぼくはおおよそ次のように言った記憶があります。「グラム・ロックが主張する文明の終末は、単に英国のロックの終末に過ぎず、真に終焉への恐怖と憧憬を持って音楽するロック・バンドは、ひとりローリング・ストーンズのみです。彼等の音楽の内にだけ“エロス”が在ります」。そして、“終末”を看板に掲げた妖艶なグラム・ロッカー達も、次の挑戦者に席を譲らねばならなかったのです。
ぼくが音楽を担当してきた“ブラック・ホーク”という狭い空間から見た限り、その後も“ジーンズ”の布は厚く、世の中がロンドンの“新しさ”に取って変られた気配はありませんでした。言い換えると、エキセントリックな化粧も衣裳も、同じくファッション化したジーンズ、Tシャツ以上の意味は持ち得なかったのです。しかし、六〇年代から七〇年代を“若者”として生きてきた層の“高齢化”に対し、これを“エスタブリッシュメント”として、自らはくみしないとするパンク・ロックは、従来の繰返しとは違った創意から発しているのか?とも思いました。ところが彼等も、音楽的に”先輩達”を超えようとしているのではなく、まず五〇年代風ファッションであり、それが喚起するロックの原初的イメージの陰から、残された“新しさ”を窺っている飢えたハイエナの臭気を帯びています。彼等の一挙一動に、例の“反抗のエネルギー”を感じ取るにしても、それさえが既に、産業化したロックの増殖の手段になっている、そんな気がしてなりません。
現状のロックにおいて”都市と音楽”を考えるとき、その都市がロンドンであれニューヨーク、ロス、東京であれ、(それが的外れであったにせよ)初めの部分でビートルズとリヴァプールの関係について触れた、あの型式の考察は無意味、かつ不可能ではないでしょうか? 元より、世界一の人口を持つ東京に、“東京人”は半分もいません。英・米の場合は、異人種の文化も混在します。それが近代の“都市”というものの成り立ちであり、都市それぞれの特殊性も、その上に醸成されてきたに相違ありません。それでも、そこから生まれた音楽を語ることは、“都市と音楽のフォークロア”を語る事になるでしょう。ところが現在のロックは、“都市から生まれた音楽”ではなく、それが音楽たり得るために都市を必要としているだけだと思われます。
誰がグラム・ロックを、パンク・ロックを、そして流行の”シティー・ミュージック”を求めたのでしょうか? 誰も求めはしなかったのです。それらはただ、「これが流行である」として、“都会人?”の我々に突き付けられただけです。しかし、それがその通り流行する部分に、現代の“都市と音楽”の関係が横たわっています。
都市に集った若者達には、既にして現代的でありたい希求があるでしょう。単に“良い音楽”を求めていたにせよ、その情報はどこから得るのでしょうか? 問題はこの日本になりますが、およそ現代的なメディアに従事する人々、音楽を初め、映画、ファッション、デザイン、カメラ等、いわゆる情報のソースたる立場の人々の価値観が、日常的に「何が新しいか?」という視点に据えられていて、「新しい物=良い物」という型で情報は流れがちです。それも当然といえば当然ですが、ただ、その「新しい物」に対して、情報を流す側も受ける側も、共に一種の強迫観念に駆られている点が問題でしょう。一体、音楽はなぜ新しくなければならないのでしょうか? 都市が音楽を製造し、都市が音楽を消費する現在において、ロックは車輪であり、若者はその内側に乗って走る二十日鼠のように見えます。
話をいまのイギリスに移しましょう。“都市の音楽”という観点から、ぼくの耳にも面白いものはあります。恐らくは“パブ・ロック”と呼ばれるものの一種でしょうが、キルバーン&ザ・ハイローズ、カーソール・フライヤーズ、チリー・ウィリー&レッド・ホット・ペッパーズ、ブラウンズ・ホーム・ブリューといったグループは、アメリカン・ミュージックのロンドン的土着性に、元来の英国的ウィットを加味した、正に都会派の音楽を演じます。
もう少し名の知れたところで、ブリンズレイ・シュワルツ。彼等の初期はウェスト・コースト志向のカントリー・ロックでしたが、『ナーヴァス・オン・ザ・ロード』、『プリーズ・ドント・エヴァー・チェンジ』の後期になると、六〇年代初期のアメリカン・ポップスをパロディックに表現し、解散後はいま話題のグレアム・パーカーをプッシュしています。この人はよくブルース・スプリングスティーン、その後続のサウスサイド・ジョニーと比較されますが、三者に共通する“夜の裏街の熱気”は、その意味で“都会のフォークロア”と呼べるものでしょう。
ロニー・レーン&ザ・スリム・チャンスの三枚も、“二流のアメリカ音楽”としての英国音楽の切なさを、最も素直に自分のものとしている点で一流です。グリース・バンド、ヘンリー・マクロー、ゲイリー・ロックラン、ブライン・ハワース、フランキー・ミラー、ジェス・ローデンといった人達のロックは、街の騒音とは混じり合わない街の音楽でしょう。ただし、ざっと並べたこれ等の人達は、初めにお断りしたように公平ではなく、ぼくの聴いてきた人達の内からかい摘みました。そしてその共通項は、都市から生まれた音楽であって、都市に依拠する“レコード”ではない、と思っています。
そしてもし、都市にも“フォーク”があり得ると思う方は、ラルフ・マクテルの『ストリーツ』、ニック・ドレイクの『ファイヴ・リーブス・レフト』も聴いて下さい。更に酔狂な方は、アルビオン・カントリー・バンド、アルビオン・ダンス・バンド等にも耳を通してみて下さい。その音楽は“都市”というより、地方、国と対象は拡がりますが、ある場所から生まれたがゆえに、その場所を目的とする姿勢を持っています。もし日本にたとえるなら、東京は東京のロック、大阪は大阪のロックといった風に、音楽はその地域性を保ってこそ、逆に普遍性が得られると信じるからです。
〔『ニューミュージック・マガジン』1977年8月号〕
トラッドの受け入れられ方
―ロック・ファンにむけられた伝統音楽の新しい道
トラッドという言葉に初めて出会う人はいるだろうか? いるかも知れない。ただし、ここで言うトラッドとは、スコットランド、イングランド、ウェールズ、アイルランドを含めたブリティッシュのトラッドである。トラッドという語は単にトラディショナル(伝承の)の短縮型だから、どの民族もそのトラッドを持っていることになる。にもかかわらず、ただ“トラッド”と言えば、まず英国のものを指して用いられるのはなぜだろう? 例えば米国にも、トラッドを採り上げるフォーク・アーティストは沢山いる。もちろん英国に起源を持つ曲も少なくない。しかし、表現の成り立ちが決定的に違っていると思う。好むと好まざるとにかかわらず、そこから生じる味わいの相違、特に英国のアーティストが持っている独特の“臭み”に対して、このトラッドという言葉が使われてきた面があるようだ。その“表現の成り立ち”に対する分析は後に譲るとして、英国の音楽シーンの特殊な経緯が、トラッドをこの国の特産物のように仕立ててきた点も見逃せない。
カリフォルニアのパサディナに、J&Fというマイナー・レーベル専門のレコード問屋があって、ここではブリティッシュ・トラッドも重要な商品だ。そこで出すカタログは懇切丁寧で、その道の人の重宝な手引きとなっているが、このリストのアーティスト名の次には、トラディショナル・シンガー、またはリヴァイヴァル・シンガーという表記が必ずある。このトラディストとは在郷のヴェテラン・アマチュアを指し、彼等は土地の歌だけを歌う。一方リヴァイヴァリストは、文字通りフォーク・リヴァイヴァル以降にこの道に入った人で、キャリアはまちまちながら現在もその数を増しつつあり、多くは長髪のトラッド演奏家達だ。この両者間に交流が保たれてきたのはもちろんで、トラッド・アルバムのライナーによく「この曲はどこの誰さんに習いました」といったクレジットが見えるのがその証しといえる。トラディストとリヴァイヴァリスト、このアマとプロとの境界線を引けない関係が、各地の数多いフォーク・クラブで一〇年以上継承されてきた実績、それを支えた民衆意識の堅固さ、そうした総力が今日のブリティッシュ・トラッドの興隆を生んだのだろう。イングリッシュ・フォーク・ダンス&ソング・ソサエティーという、多少アカデミックな、そして奇特な団体もロンドンにある。
しかし、それらはあくまで、アコウスティックなトラッドの世界でのことだった。ロックから出発してエレクトリック・トラッドに進んだ若者達、更にはそれさえも物珍しく聴く作業から始まった日本の聴き手達にとって、ここ数年、トラッドへの道は決して平坦ではなかったのである。英国ではいまも、オーセンティック・サイドからいわば公認されたエレクトリック・バンドは、アシュリー・ハッチングスを中心としたアルビオン・ダンス・バンドくらいということだ。しかしここでは、両者の葛藤及び融合の歴史を語るつもりはない。
いま、この文章はロック誌の場で書かれている。ぼくがトラッドを広めようとしてきたのも、ロックの店であるブラック・ホークにおいてだった。ある程度それが報われつつあるいま、そこを自分が去るというのも皮肉な巡り合せだが、ただ、トラッドが登場すべきより相応しい舞台が、別のどこかに在り得ただろうか? そうは思えない。なぜなら、現在トラッドに親しむ人の殆どは、ロックをも聴く人か、或いはかつて聴いた人であろうから。つまり、ぼく達はペンタングル、フェアポートから出発したのである。以後の数年間を、ぼく及びぼくの身辺を通過した若者達を通して、年代記風に辿ってみたい。
まず、ぼくは仕事の上で音楽を掛けていたのだから、自分の好きなものばかりを聴かせるつもりは無かった。同時に、認め難いものも決してコレクトしなかった。その意味では偏ってもいたが、どちらも仕事としてやったのである。自ずとそこにはある幅が在った。しかしその幅の内で、“好きだからやった”という勝手さにおいては、トラッドが一番だった。
ジャズからいきなりロックに首を突っ込んだぼくは、六九年以来、掴み切れないその音楽を聴き漁った。そしてほぼ二年後には、先述の“限られた幅”ができていて、ペンタングルとフェアポートとが、その英国側で異彩を放っていたのだ。彼等は伝承音楽を土台にしているのだという。しかし、前者の演奏のソフィスティケイションと、後者の土臭さとの差異に戸惑ったりしていた。「クルウェル・シスター」や「マティー・グローヴス」が古謡なら、その原型を演じる人間もいるのではないか? とも思った。当時、帽子やジャケット等、服装において“英国調”(伝統的な)に憧れていたことも、より源への希求を増進させたのだろう。そんな結び付きが、何かへのめり込む原因になり得る年頃だったのだ。しかし、真にオーセンティックなトラッドには出会えぬまま、やがて登場したスティーライ・スパン(二作目が先)が、先述の二グループに勝る土臭い演奏で、ぼくに新しいショックを与えた。「これこそが自分にとっての英国だ」と思ったのだ。
時の若者達はどうだったろう? 彼等に対して最も大きな力を持っていたのはウェスト・コースト・サウンドであり、ブリティッシュといえば、好き嫌いには関係なくハードとプログレッシヴ・ロックだった。そして、トラッドという言葉は普及しておらず、エレクトリック・トラッド(この言葉も無かった)とコンテンポラリー・フォークとが合せて“ブリティッシュ・フォーク”と呼ばれ、一部の人に愛聴されていた。彼等はそれを、ウェスト・コーストのイギリス版と捉えていたようだ。一般の若者はといえば、フェアポートだのスティーライが掛かると、店の出口に列を作った。現在では考えられない光景である。つまり、まだロックという言葉の意味が、六九年の頃と変らない型で、彼等の心に宿っていたのだろう。
七一年だったろうか? 当時はそこだけが頼りだったヤマハのイギリス盤コーナーで、初めてぼくはトレイラー・レーベルのレコードを見つけた。ニック・ジョーンズの『バラッド&ソングス』。古風で質素なデザインのジャケットにそう書いてあったのだ。クラシックのコーナーを捜していたのではない。アーティストの小さな顔写真は、やや長髪の主人公が三〇歳そこそこであるのを物語っていた。裏返して曲名を見ると識っているのがあった。「サー・パトリック・スペンス」。――フェアポートが演っている! こんな風に、レコードを通じてトラッドの世界へと溯る旅は始ったのだ。恐らく、この頃からトラッドを聴きだした人達はみな同様だったと思う。やがて、少ない情報を頼りに、このトラッド専門のトレイラーのレコードを特注するようになった。トピック・レーベルが入るようになったのは、一年ほど遅れていたと思う。こうして少しずつ集められていったのが、トニー・ローズ『ヤング・ハンティング』、ロイ・ベイリー、デイヴ・バーランド『ア・デイルズマンズ・リテイニー』、マーティン・ウィンダム・リード等のアルバムだったが、入手順序と発売順序は無関係だった。
さて、これ等をぼくがどう聴いたかだが、元より言葉は解らない。予想してはいたが、伴奏は極端にシンプルだ(もちろん無伴奏もある)。しかし、そんなことより、まず発声が違うのである。これまでに聴いてきたどんな種類の歌とも、それは違った発声で歌われていた。エレクトリック・グループによって識っていた歌も同様である。ある未知の型にはまった、別世界から流れてくる歌。この事実に最も驚かされたのであった。そこでぼくは、きれいなメロディーの、人間味のあるものを多く聴いた。その意味では、ニック・ジョーンズとデイヴ・バーランドが好きになった。これ等のシンガーは、もちろん全員がリヴァイヴァリストである。しかし、それでも彼等とぼくの間には、目に見えない一枚の幕があったと告白しよう。同時に、ぼくに聴き続ける決心をさせる何かが、その向こう側には在った事も。
初めてブラック・ホークでトラッドを掛けたとき、客は嫌がるというより、唖然とした。いきなり男が女湯へ入ってきたようなものだ。無理もない。そしてやがて、それがトラッドという物であることを識り、次第に驚かなくなり、そうなるに従って、かつてフェアポートやスティーライに対したのと同じ遇し方をする様になった。こうなると、仕事としてレコードを掛けているぼくの立場は、あまりうまくないのである。以来この方、ぼくはトラッドと商業上の要求との板ばさみとなった。ところがよくしたもので、七二年も後半になると、あの“ブリティッシュ・フォーク”が広く受け入れられ始めて、俗にいうブームの兆しを見せ始めたのだ。それはもちろん、コンテンポラリー・フォークを底辺としての拡がりだったが、その内で、エレクトリック・トラッド・バンドの地位は浮上した。分けても、この動きから生まれた最大の遺産は、シャーリー・コリンズとアルビオン・カントリー・バンドの『ノー・ローゼズ』だろう。ここでは、リヴァイヴァル・トラディストと、エレクトリック・トラディスト(こうした言葉は急造語だ)の初めての出会いが演じられ、その成果は、今日の“新しいトラッド”の方向性を既に指し示していた。これほど立派なものが現われると、「このもう一歩先には、あのトラッドが在るのだ!」、そうぼくは叫ばないわけにいかなかった。もちろん、自分のためにも。しかし若者達にとって、エレクトリック(というよりロック・ビートの付いた)と、そうでないトラッドとの間に存在していた物は、幕ではなく、壁だったらしい。それはごく少数の人が突破したに過ぎなかった。ブリティッシュ・フォーク・ブームは程なく、幼児の吹く風船のように、脹らむ半ばで萎んで行ったのだ。ぼくの監修したフォノグラムのレコード・シリーズも、発売予定の半分で中断された。切り捨て組には、先の『ノー・ローゼズ』や、ティム・ハート&マディー・プライアの『サマー・ソルスティス』が在った。これ以降、ブリティッシュ・フォークは、少なくともレコードに関する限り、暗い冬眠期に入って行ったのだ。七三年の事である。
以来ぼくは、雑誌等で発言の機会のある度に、ブリティッシュ・シーンの腑甲斐なさを嘆き、かつなじり続けた。ところが、個人的にはそうではなかった。初めて聞いたのは七二年だったろう。ディック・ゴーガンの『ノー・モア・フォーレヴァー』が、トラッドとぼくとの間の幕を取り払ってくれていたのだ。世間の事はどうでもいい。わけの解らないスコティッシュの、重く暗い彼のシンギングは、地の底から湧き出てぼくをトラッドの世界へと引きずり込んだのだ。そこは“もう一つの歌の世界”、更に言えば“歌の反世界”のように思えた。それからは無抵抗だった。『フェイト・オ・チャーリー』のアーチー・フィッシャー、『ボニー・バーディー』のレイ・フィッシャー(アーチーの妹)、『フィノミナル』のバーナード・リグリー、そして『ラヴリー・オン・ザ・ウォーター』のフランキー・アームストロング等(この時にはトピック盤も入ってきていた)、その世界の住人達は、抗い難い歌の力で、ぼくの周りを囲み始めた。その力は、夢から醒ますまいとする、夢のなかの力の様でもあった。あれは一体何だったのだろう? そこには、いわゆる喜怒哀楽の表出は無い。表出はないが、閉じ込められ、圧縮された重みがある。彼等は歌を歌っているが、それは自己表現ではないのだ。生きているのは歌そのものである。何百年間と民衆の心が込められてきたその歌に、彼等もいま語り部となって献身している。これがトラッド・シンギングの型であり、そのための発声なのだ。
外国人にとって、英国トラッドの臭みはこうして生まれ、このシンギングをしないエレクトリック・トラッドとの壁も、こうして生まれたに違いない。しかし、ナチュラルな歌い方では、トラッドの本当の味は出ないだろう。
ぼくは何人かのトラッド好きの客の顔を、憶え始めていた。しかし依然として、トラッドは重箱の隅の存在であり、先述したレコードも、三年程の間にポツリポツリと、やはり発売順序と関係なく入ってきたに過ぎない。一般的関心からは、切り離されていた。七五年になると、トレイラー、トピックからさえ、大した新譜は来なくなった。
「トラッドはどうなったのかね?」「ありゃもう駄目だよ」なぞと、顔を合わせばぼやいていたトラッド・ファンが、再び気色ばんだのは七六年に入ってだ。まず七三年以来お蔵入りになっていた、アルビオン・カントリー・バンド『バトル・オブ・ザ・フィールド』の出現に勇気付けられた。続いてマディー・プライアとジューン・テイバー『シリー・シスターズ』、マーティン・カーシー、アーチー・フィッシャー各々の新作登場と、たわんだバネが戻る様な勢いで、質も高く量も増え始めた。こうなると、「英国で何か起こっているのだろうか?」という想いに駆られだすが、実際に起こってきたのだ。これまでには存在すら識らなかった地方のアーティストや、新人達が続々と姿を現わし始め、それに伴い、地方的特色も明確化された。この傾向は今年にも及び、分けてもアイルランドの活況が著しい。ヴェテランのクリスティー・ムーアを始め、ボスィー・バンド、トリオナ、キングス・ギャリアード等はゲーリックの民族意識を明るく鼓舞し、ライアン・ウェルドンの歌唱は超アイルランド的だ。北アイルランドではヴィン・ガーバットの功績が大きい。スコットランドでは、フィッシャー・ファミリーのプリシラ・フィッシャー&アーティー・トレザイス『バルカンクォール』が、重厚にして明確なシンギングの伝統をよく捉え、かのディック・ゴーガン率いるエレクトリック・バンド、ファイヴ・ハンド・リールは、メロディー・メイカーのフォーク・ポールを得て既に全英的スターだ。ウェールズ出身のビッグ・ネーム、ニック・ジョーンズの『ノアズ・アーク・トゥラップ』は、トラッドとして革新的な演奏を展開する。イングランドで目立ったのがピート&クリス・コウの『アウト・オブ・シーズン/アウト・オブ・ライム』で、ここにもプロデュースの革新性がみられ、この点での最大の成果は、新人ジューン・テイバー『エアーズ・アンド・グレイシズ』だろう。この他、フェアポートのフィドラー、デイヴ・スウォーブリックも、彼本来の立場に帰ったインストゥルメンタル・ソロを二作発表した。
こうして挙げてみると、トラッド・シーンは活発であるばかりでなく、質も新しくなろうとしている事に気付く。エレクトリック楽器を使用する、しないの問題を超えて、レコード創りそのものに対する意識が変った。シンギングの鉄則は変らない。しかし楽器の配置や録音方法によって、アルバムにリアリティーを生む事に成功し始めている。そのせいか、トラッドを女湯の男と感じる人は稀になった。リクエストも日常的だ。その背景には、米国音楽の現状に対する不満があるのかも知れない。ともかくぼくは嬉しかった。
しかし、いまトラッドを聴く若者達の殆んどは、かつてトラッドに踵を返して帰って行った、あの若者達ではないのだ。ぼくの仕事は本質的に、時の若者を相手にするものだった。だが彼等はいずれ、各々どこかへ行ってしまい、ぼくだけ残るのが常である。フェアポートやスティーライの好きな連中もずい分いたが、彼等はいま、どこかでトラッドを聴いているのだろうか? 最近ぼくが一番よく聴くのは、アーチー・フィッシャーの『ウィル・イェー・ギャング・ラヴ』である。もちろん家でだ。
〔『ニューミュージック・マガジン』1977年10月号〕
大英帝国のうたう心
●なぜ、トラッドか?
百姓でも、漁師でもない、ガソリン・アレイの子供達が伝承の古謡を求めて唄うのはいったいなぜなのか? フォークの復権からフェアポート・コンヴェンションの登場までの経緯の底には、この問いへの答えとなるべきある思想が横たわっていなければならないでしょう。
フェアポートがトラッドにアプローチしたということは、あるグループはジャズに、又あるグループは現代音楽に接近したという類の別な一例ではないのだから。
まず、人がフォーク・アーティストであろうとするのなら、その人は、音楽的感性において“真に新しいもの”なぞあり得ないことを知らねばならないと思います。楽器と声とが織り成す時間に覚える味わいとは、すべてその音楽と聴き手の過去との触れ合いにすぎないからです。どんな新奇な音楽に出合った時にも、人は自分の過去の累積であるところの、それ故に限られた“感性”というフィルターを通じてしか音楽を味わうことはできません。だから、ある音楽を味わった時、その“味”とは既にその人の過去の言語に翻訳されたものに相違ないのです。
さてここでなお音楽家が、あのドラッグ・ミュージック式の、肉体への企てを潔しとしないフォーク・アーティストであれば、彼は、感性の呪縛から羽ばたき出ようとする音楽的な試みのすべてをはしたない悪あがきと黙殺する筈だし、又彼の正しい努力は、限られた、しかし思考を超えた感性の闇深く降りて行く方向にしか有り得ないでしょう。百万の人間の血に流れているに違いない、過去という無二の財産のエッセンスを求めて――。
現代人にとって、一面それは“抵抗放棄”であると同時に、又一面では一層の難儀の道です。そして昔からの民謡愛好家たちが皆、この“スノッブな野心の放棄”という禁欲的思想を標榜しつつ幾世代をも経て来たわけではないにしても、この思想は、プログレッシヴのグラマラスのと性こりもない裏側でやはり極めて英国的であり、端正な島国、動かぬ階級というこの国の風土の上にこそ生れても来たのだと言えましょう。
●古謡の復権からフェアポートへ
産業革命に続いた生活様式の近代化に伴い、英国本島の民衆から民謡伝承の習慣は薄れて行くままに、時は第二次大戦へと至りました。この時のナショナリズムの高揚の名残りはやがて、アイルランドに脈々と生きている人と歌との運命的結びつきに触発されて、民謡の復興を志す幾人もの研究家や歌い手を生んだのでした。四〇年代末期から五〇年代に至るこの復興運動では、各地に細々と伝わる歌や舞踏曲が採取され、それを発表登録する機関紙も設けられ、フランシス・チャイドルやセシル・シャープといった前世紀の学者の業績以後の無関心の闇へ、久々に知的な光が当てられたことになります。又この時以来の運動家で、現在のフォーク界に重きを為す人も多く、ビル・リーダーやA・L・ロイド、歌手のイワン・マッコールやイアン・キャンベルなぞは、現在活躍する若手達の育ての親とも言えるでしょう。しかし、髪の長い、ガソリン・アレイ育ちのトラディスト達は、祖国の民謡復興という運動を継承するために歌っているのではありません。彼等が今トラディストであるためには、もうワン・クッションが必要だったのです。
六〇年代、ギターを伴奏に自分の歌いたいことを歌う、という米国のフォーク・ムーヴメントは英国にも波及し、多くのボブ・ディランやジョーン・バエズのフォロアー達が誕生したのは、あのロック革命の数年以前でした。その幾人かはロックへと浮上して行き、又幾人かは自国のフォークロアのより深くへと沈んで行ったのです。彼等がトラッドに出合い、それを唄うに及んで先の先輩達から学ぶ所の大きかったのは勿論ですが、しかし彼等の出発点でもあったボブ・ディランを認めないイワン・マッコールとの間には、ある世代的なギャップも又存在していました。それでもなお、トラディストへの道を進んだ者達の心を支えたのはうつつのナショナリズムではなく、あの潔い諦念と、自己を超えた過去に身を委ねて行く気概であったろうと思います。この時初めて英国古謡は、フォーク・リヴァイヴァルと呼ばれるに相応しい生命を、若い多くの歌い手達から与えられたと言えるし、又歌手達も、真に“英国のフォーク・アーティスト”たり得たと言えるでしょう。六二年の渡英でディランは、マーティン・カーシィの唱う「ロード・フランクリン」に啓発されて「ボブ・ディランズ・ドゥリーム」を書き、ポール・サイモンが「スカーボロ・フェア」を唄ったことも、英国のトラッドの蘇りを物語る別なエピソードではあります。
さて、時は更に下り、スキフル・ブームを土壤に無数のロック・グループが現われ始めて、それらが現在の英国のポップ・シーンを形成するに至ったわけですが、その千差万別の分化の過程でここに問題となるのが、米国は西海岸のフォーク・ロックに啓発されて発足したフェアポート・コンヴェンションの発展なのです。彼等は、米国のロックの魅力がその“土”に必然することを悟り、ひるがえって自らの音楽を“英国のフォーク・ロック”とすべく、自国のトラッドにアプローチして行きました。九枚のアルバムのその歴史は平たんではなく、多くのグループとシンガー&ソングライターとを派生しながらの複雑なものでしたが、それぞれの音楽を目指した人達もみな、その高い格調と完成とを得ていて、この一派の音楽が、今日“ブリティッシュ・フォーク”と呼ばれる音楽の規範であり本流であることを疑う術はないのです。
更に、この流れのなかで初めて、ロックから出発した若者達とフォーク・リヴァイヴァル以来のトラディストとの出合いが実現したことこそ重要です。分けてもアシュレイ・ハッチングスは、マーティン・カーシィの協力を得たスティーライ・スパンの二作でエレクトリック・トラッドに金字塔を打樹て、現在は、妻であり女性トラディストのシャーリーと共にアルビオン・カントリー・バンドを主宰しています。又今回来日するフィドラーのディヴ・スウォーブリックもフェアポート加入以前には、マーティン・カーシィやイアン・キャンベルの許でプレイして来たトラディストであり、ベーシストのデイヴ・ペッグも又イアン・キャンベル・フォーク・グループからこのフェアポートに投じたのでした。
〔フェアポート・コンヴェンション来日公演プログラム1974年1月〕
始めに歌ありき
「新年の祝いの日、ダーネル卿の夫人は教会に聖歌を聴きに出掛けました。そのお開きの人混みのなかで、彼女は美少年のマーティー・グローヴスに見惚れたのです。『うちにいらっしゃい、可愛いマーティー・グローヴス。そして朝まで一緒に寝ましょう』『いえ、そんな事はできませんし、行きたくないし、一緒に寝たくもありません。手のその指輪で、あなたがダーネル卿の奥方だと判ります』『そうだとしても、ダーネル卿は留守なのよ。遠くの荘園に年貢を取りたてに行っていて』」
こんなにストレートなやりとりは現代の歌には存在しない。これは「マーティー・グローヴス」という一九番まである英国バラッド(物語歌)のさわりの部分で、六九年に、フェアポート・コンヴェンションというバンドがロックのフォームで演奏して有名になった。それは、ロックを聴いていたぼく達が、イギリスの“トラッド”(伝承音楽)から受けた最初の衝撃である。以来、このトラッドにこだわり、遙かロックの彼方に潜むらしいもっとピュアなものを求める少数派が生まれ、その関心はロック・シーンの華麗な変遷の陰で今日まで保たれてきた。レコードを探し、買って聴くという常道にとどまらず、フィドル、ダルシマー、コンツェルティーナ(小さなアコーディオン)、ティン・ウィッスル(ブリキ製の安い縦笛)等、トラッド演奏で使用される楽器に自ら取り組む機運も見え始めている。いま流行?の音楽状況に対するグチも、トラッド・ファンには適用しないのだ。
ぼくは民族音楽の研究家ではない。もっとハッキリ言えば、いかなる音楽に対しても“研究家”ではない。ある音楽を単に好きなだけだ。だからこそ、ここで英国のトラッドを語ることは、その道の専門家がジプシーの音楽を、あるいはピグミーの音楽を語るのとは意味が異なる。いま英国で、そのトラッドが盛んな事実は、また日本にもファンが増えている状態は、ロックのポップ化を嘆くのと同じ地平で捉えられるべきだ。トラッド・ファンは殆んど総て、ロックを通じてそれを知ったのだし、巷に溢れる様々な音楽を、普通の人と同じように呼吸してもいる。本場のトラッド・プレイヤーにしてもそうだ。彼等はロックを聴いているし、米国の状況も見ている。彼等の営みは、民謡保存が目的ではない。
ここ一〇年来のロックの歩みを振り返ると、七〇年代に入ってからの英、米の質的分化が、最もアクティヴな印象として残っている。つまり、米国勢はカントリー、ブルーグラス、ブルースといったベーシックな要素を取り込んだアメリカン・ロックを目指し、他方英国勢は、ファッション性を伴ってよりハードに、プログレッシヴになろうとしたことだ。当時、男が化粧をしたり、映像を加味したステージを演出したり、ジャーナリズムが飛び着きそうな新奇なことは総て英国から生まれた。この段階では、ぼくは文句なくアメリカ派だった。ところが、アメリカン・ロックがアメリカの“土”を踏まえているのなら、英国にも踏まえるべき“英国の土”がある、とわきまえた人達が出て来たのだ。それが例えば先述したフェアポート・コンヴェンションであり、そこから派生したスティーライ・スパンであり、別の系統のペンタングルだった。彼等はロックの語法でトラッドを演じ、それはエレクトリック・トラッドと呼ばれた。
エレクトリック・トラッドはある程度のファンを獲得したが、その人達が全部、よりオーセンティックでアコウスティックなトラッドのファンになったわけではない。ロックを通じてトラッドを知った者にとって、本格のトラッドはシンギングそのものが大きな抵抗となった。およそ現代の歌唱においては、感情は高いボルテージで表現される程よく、同時にそれは歌い手自身のものであることが良しとされる。ところが英国トラッドではそうではない。喜怒哀楽はある発声の型のなかに封じ込められるのだ。したがってそれは、歌い手の現状を表現するための歌唱ではない。始めに歌ありき。良きトラッド・シンガーは、幾世紀をも歌い継がれてきたその歌に、語り部となって身を献じる。歌に生命を与えるのだ。だから、そうして歌われた歌を聴いて感動した者は、歌い手個人の有り様に触れたのではなく、歌のなかに堆積し、普遍化した民族の喜怒哀楽に出合ったのである。歌と人とのこうした関係は、同じトラッドがアメリカに渡ると消えてしまう。この関係はむしろ、日本の民謡と唱法に見ることができる。
この、本格のトラッドを聴く若者が増えつつある。前々号、前号とこの欄で続いたロック・シーンへの批判の意識が、彼等の土台としてもあるかも知れない。ロックが健全にその生命を燃焼させていたころ、トラッドは好事家の愛玩物の立場に雌伏していた。いまそれが台頭してきたのは、いわゆる“新しいもの”の繰り返しに、若者達の一部は食傷しているからだ、というのはあまりにも楽観的な解釈だろうか? ところが、トラッドのレコードの造られ方は、着実に新しくなり、数も増えてきている。例えば、シンセサイザーを使用したレコーディングさえ行われているが、その場合、シンセサイザーは決してシンセサイザーとしての自己主張はしない。あくまでそれは、トラッド世界の景物としての役割に限定されていて、多くはバグ・パイプ的な効果に用いられる。トラッド・レコーディングにおける技術改革と新しい発想は、“始めに歌ありき”というトラッドの則を超えない範囲で進行しているのだ。
最後に、「トラッドを聴いてみようか」と思う方へ、次のレコードを推薦しておく。
Dick Gaughan "No More Forever"
Archie Fisher "Wille Ye Gang, Love"
Frankie Armstrong "Lovely on the Water"
Ray Fisher "The Bonnie Birdy"
Shirley Collins & the Albion Country Band "No Roses"
Cilla Fisher & Artie Trezise "BALCANQUHAL"
Pete & Chris Coe "Out of Season Out of Rhyme"
June Tabor "Airs And Graces"
Vin Guarbutt "The Young Tin Whistle Pest"
The Battlefield Band
等々、挙げればきりがないが、いずれも日本盤は出ていない。
〔『話の特集』1978年4月号〕
ロック、七〇年代初頭
ボブ・ディラン
…彼も又、神ではない
●数々の賛辞の言葉は、そのままディラン城の城壁となった
"Self Portrait"のジャケットについて論じるのでも無い限り、「ボブ・ディランなんて大した奴じゃない」と言う人はいません。ロックやフォークを語るどんな文章も、偉人としての彼の扱いは守って来ました。お陰で僕達は、彼の足跡とその意味については、手近な雑誌やライナーノーツから、不自由なく知ることが出来るし、それを教えようと待ち構えている人に出会う事だって珍しくはないのです。彼に関する場合は。そんな時、ボブ・ディラン自身が、彼の評価や名声に対してとてもシニカルだという事も、決まって聞かされますけれど、その話は彼を一層神格化するのに役立っているようです。彼について語られた沢山の言葉は、そっくりディラン城の城壁となり、音楽を通じて彼に近づこうとする誰かから、その城主を護っているみたいです。
彼のアルバムが発売されると、一年に一度だけ開かれる城門の奥に、王様の素顔を垣間見ようとでもする様に聴衆は殺到します。新しい膨大な量の言葉が立派だった門を塗り込めて、非の打ち所無い城壁が再びそびえているという次第です。
それでは、その城壁の上塗りをする事無く、彼について語る言葉は無いものでしょうか?
その城壁の何処かに、人一人通れる通用門等は無いものでしょうか?
其処で、彼がどんなに偉大で、現在の歌全体にどんな測り知れない影響を及ぼしたか、という知らぬ者の無い事実はさて置き、見知らぬ歌手の聞き慣れぬ歌として、歌詞カード片手に彼のアルバムを聞いてみてはどうでしょう?
そうすると僕には、あの古びた賛辞の城壁とは別の、新しい高い壁が見えて来てしまいます。所がいやはや、それも言葉の壁なのです。でも今度は誰が造ったのでもない、彼自身の手造りに成る、言葉の煉瓦で組まれた、意味有り気な壁なのです。
尤も、誰の歌だろうと、それが外国語で歌われる以上ぼくには越え難い壁なのですが、彼の場合は更に深刻なのです。
なぜってボブ・ディランは、自分がたまたまアメリカ人だったから、詩を書く時に英語を用いたのではなく、彼がアメリカ人で、英語で話し英語で考えてきたからこそ、生まれて来た様なのが彼の詩だからです。彼の発想、感覚その物が正に英語の質に依っているのです。もう少し言うと、英語の単語は、日本語の一つの言葉の様には、それ自身の生命を持っていないと思います。つまり、日本語程、扱い次第であやふやな、余裕の有る物ではなく、それは、明確な記号としての役目を負っている無機的な物だと思うのです。ディランの詩では、その英語の特質が逆用されて活きていて、それはまるで、記号と記号が習慣とは違ったやり方で結びつけられたシュールな鎖、個人的な暗号文なのです。それは本場の英語国民にとってこそ、より切実でディラン当人を幽閉してしまう程の解釈の城壁が築かれてしまったのも、そのせいだと思うのです。
棺を封じる葬儀屋は嘆く/孤独なオルガン弾きは泣く/
銀色のサキソフォンは君を拒めと言う/ギンゴンと云う鐘と
出鱈目(でたらめ)な角笛とがぼくの顔に嘲りを吹きまくる/
そんな風に、君を失う様にしか生まれなかったぼくだけど/
君が欲しい/どうあろうと、君が、君が欲しい(大意)
これは"I Want You"の始まりの一節ですが、比較的ポピュラーになったこの曲にして、かくの如しです。恋がかなわぬ事を知っている自分を葬儀屋にたとえて、愛の埋葬にため息をつかせたり、その恋をさまそうとする理性の声を、銀のサキソフォンの音にたとえたりする歌が、これまでのポップスにあったでしょうか? そして望みを絶つ他は無い自分を、シニカルな調子で唄い終えた次の瞬間、最もシンプルなその言葉"I want you"が繰り返されてしまう時、この歌に生々しい現実がいきなり姿を現わして感動的です。
●根底に流れるビートニクの精神
さて、彼の詩に多い容易に解りにくい節の解りにくさは、一語一語は英語としての具体的な意味を持った言葉に違いないのに、それ等はいつも彼個人の世界から選び出され、ドミノ(ゲームの一種)のルールの様では全くない、彼のイメージの独裁によって並べられる事から生じるのです。
ディランの詩の成り立ちを、ボッシュの絵(ディープ・パープルの三枚目のアルバムのジャケット等)にたとえた批評家もいましたが、それは彼の詩のイメージは、行から行へ、節から節へと流れ続ける事が少なく、切れ切れのままコラージュされて、多くは暗い一つの歌になっているのが多かったからだと思います。
彼の詩にこの傾向がハッキリし始めたのは"Another Side" 以後、つまりプロテストの歌を見限った時からと言われます。そして、"Bringin' It All Back Home"、 "Hi-way 61 Revisited"へと、ロックのサウンドを持つに連れ、それ等の歌には難解なフレーズの重苦しいイメージが色濃く立ち込めて行くのです。
でもその難解さ、抽象的な言葉よりも卑近な言葉や名前が非習慣的に並べられた難解さは、ディランが一〇代の頃に盛んだった、ビートニクの詩に似ている様に思います。
そしてその事は、ディランがどんな人かを語る大切なキッカケにもなる気がするのです。
かつてのビートニクの考え方が今のヒッピーイズムと根っから違っていたのは、“手を繋ぎ合う”という事、“力を組織する”という事が、彼等の目的には無かったし、潔しともしなかった点です。彼等にとって“より良い世界”というやつは二の次で、各々がその心の達すべき高みを何よりも目指す、孤独な野心家達だったのです。彼等の創る詩は、経験から拾い上げた具体的な物や土地の名が奇妙に生のまま現れながら、夢のような無秩序を型造っている、全くアメリカ的なシュール・リアリズムでした。
ボブ・ディランはこうした人々の血を受け継いでいると思うのです。
グリニッジ・ヴィレッジで評判になり始めた頃の彼を、最初に賞め上げたニューヨーク・タイムスの記者は彼の事を「聖歌隊の少年とビートニク族の合いの子みたいなディラン君は童顔で、黒のコール天のハック・フィン帽子からはモジャモジャの髪が飛び出てる。彼は喜劇役者で悲劇役者だ。どさ廻りのヴォードヴィリアンみたいにおどけながら、音楽の独白をあれこれご披露する。気の利いた言葉はよく種が尽きないものだと思う位、自由自在に沸き出し、頭をふり、身体をゆすり、眼を閉じて想いをはせ、言葉と雰囲気をまさぐりながら、目指す言葉と気分を探り当て、その場をいい気分で満たして行く。」と書いています。
こんな姿は、現在の落ち着いた彼からは想像しにくい役者振りと思える人もいましょうが、これは当時からシニカルな彼が、自分でも気に入っていた珍しい記事なのだそうです。そして、ここに書かれた二〇歳のディランこそ選ばれて険しい道に旅立とうと勇みながら自信に溢れている若い孤独な野心家の姿をしているではありませんか。なぜって、味方のいない時こそ生き生きとヒロイックにその場に賭けて演技し切る事。それは、今の若者の世代の習慣からは失われた、あのビートニクの若者だけが出来た事なのです。彼が人を笑わす事は、人に甘える事ではないのです。道化となる事は彼のひねったヒロイズムのスリル溢れる活躍なのです。肝心な事は、ヒッピー・ムーブメントから生まれて来たロック・ミュージシャン達とボブ・ディランとは、いわば血筋が違うのです。
●彼は選んで独りぼっちになろうとしていた
最初のアルバムを出した頃、当時盛んだったフォーク・グループを作る企画を持ち出されて彼は答えたそうです。「僕はいつも厳しい道を選んで来たんだ。今後もグループで失敗するよりは自分独りで失敗する方がいい。」
又、ロックの音を出すようになって以来、今までとはすっかり違った、もっと強烈なファンの支持を受ける身となった彼を、マスコミが例によって“ロック・ジェネレーションのリーダー”と呼んだ事に対して、「僕は彼等のリーダーなんかじゃない。何で僕がそんな物になれよう。僕はもう、その年代じゃないんだ!」と言ったものです。
最初に彼を有名にしたあの公民権運動にしてもそうです。彼が運動の側の考えを持っていた事は確かだし、彼の歌が運動のシンボルとして唄われても、彼は皆のしたい様にさせて置いたけれど、でも自分が、正にそのために歌を作り唄う歌手なのだと思われるなんて、本当にそういう歌手にされてしまうなんて、彼には我慢がならなかったのです。一度だって、彼は皆のために歌を作った事は無かったのです。あの"Blowin' In The Wind"だって、彼は自分の歌として作ったのです。それを運動がテーマ・ソングにしてしまっただけで、彼自身が唄うのをレコードで聞けば、そこには“皆で歌いましょう”風の甘ったれた気分のカケラも無い事は、誰の耳にも明らかです。
彼は、人種差別反対運動への献金はしても自分には歌うべき自分の歌がある事を、"Another Side Of Bob Dylan"で示したのです。それは少々無理をした作品でもあったけれど。その中の有名な一曲"My Back Pages"は、彼をプロテストのリーダーにさせて置きたかった人々を失望させるに充分でした。
自ら定めた教師の舌も/愚か者には、重きに過ぎ/
大いに吹いた“自由”さえ/学校にならどこでもある/
“平等”とぼくはそのセリフを/結婚の誓いよろしく口にした/
ああ、でも、あの時ぼくは老いていた/今、
あの時よりもぼくは若い。(大意)
さて、若返ったと自ら言うディランそれから歌い始めたのは、独り道を求める人間の苦難の歌でした。六一年のグリニッジ・ヴィレッジをハック・フィン帽子で旅立った彼の、本当に厳しい道はここから始まったという訳です。その時彼は、少年時代からの彼の神様だったウディ・ガスリーの事をも、現実の一人の人間としてしか考えていなかったし、自分が常に、自分の問題の外、唄う歌の外に身を置き続ける事を旨としていました。つまり、彼は選んで独りぼっちだったのです。
早くから彼はこう言っていました。
「偉大なるフォーク・ミュージックの中には、神職や魔法、真理、聖書と呼べる物がある。僕の音楽の中にもそれを持ちたいと努力している。」
彼の音楽が、例外的に黒人をも感動さす事が出来るのは、そうした彼の言葉が、本当に歌の中で実現されているからかもしれません。しばらく彼はニューヨークに憑かれ、ニューヨーク・ガールを愛し、シティからの歌を唄い続けました。それがエレキ・ギターを持ち、声高にシュールな詩を唄い、ザ・バンドにめぐりあった三年間だったのです。ボブ・ディランとザ・バンドの出会い、それは“個人の歌を唄う”という伝統を、あのニュー・ロック騒動を越えて、現在のロックに蘇らせる事となった点で記念すべき出来事だった訳です。
ビートルズの "Sgt. Peppers-"が、人間を全員善人にしてしまう様な音楽のユートピアを作っていたのと同じ時、ボブ・ディランはあの息詰る "Blonde On Blonde"を吹き込んでいたのです。ロビー・ロバートソンは当時の彼について、「もう止めさせなきゃ危険な位、緊張し、疲労した毎日を送っていた」と言っています。そして幸か不幸か、ディランは交通事故で背骨を折り、一年近くも寝て暮らす事になったのです。
さて、復帰後の第一作、 "John Wesley Harding"が、カントリー・ミュージックに歩み寄っていた事は、又しても世間を騒がせました。けれど、ディランにとっては、エレキ・ギターを手にした時も、このカントリーの場合も、あるサウンドを作るという事に興味の中心がある訳ではないのです。その録音の後のあるインタビューで彼は言っています。
「ぼくは、新しいサウンド作りの様な事については何も知らない。ぼくは只唄うだけだ。」それから、「歌はいつも、何か昔の事について書かれるものだ。ぼくは今、知っている事すべてを歌う事に満足している。」そして、「人々の幻影、それは否定はし難い物だけど、それと関わり続けなければならないとは、ぼんやりとしか考えられない。ぼくに出来る最善の事は、ぼくを満足させる事だ。そうすれば思い悩む必要はなくなる。」「自分のためにではなく、他人のために音楽をつくってみたところで、それは多分、その人達と関る事にはならないだろう。」これが、ボブ・ディランの行き着いた心境だったのです。
●僕にはわかる、今迄何をして来たのかが…
子供の頃、サーカス団にくっついて家出した、廃鉱しか無い故郷の町も、今の彼は愛しています。
ジョニー・キャッシュとデュエットした "Nashville Skyline"。かねての願い通りに女声コーラスやストリングスをバックに唄った"Self Portrait"へと、彼の心は安らいで行く様に見えます。挫けたという印象では無く、茶化したという風でもなく、安らいで行く様子なのです。
本当にそうなのでしょうか? 彼は語ります。
「ぼくは今、これ迄にやったあらゆる曲を聴くとすべて解る。どうすればそれが完璧な物になるかは解らないが、自分が何をやったのかが解る。昨日までは考えから考えへと追って行った事を、今はメロディー・ラインからメロディー・ラインへと辿る事が出来る。」 彼の新しいアルバムは、来年になりそうです。
今年のアルバム "New Morining" の中の"Time Passes Slowly"の一筋を、最後に書いて置く事にしましょう。
時がゆっくりと過ぎる/この山の中/
ぼく達は橋のねかたに腰をかけ/泉の片辺を行く/
魚をとろう/流れに浮かぶ/時はゆっくりと過ぎる/
君が夢見心地でいる時に/昔、恋した人がいた/
彼女は良い人で美しかった/二人は台所に腰かけていた/
彼女のママがお料理の間/窓の外/
空高い星を見やり/時はゆっくりと過ぎる/君が愛を求める時に。(大意)
〔『ミュージックライフ』1972年1月号〕
ボブ・ディラン
―彼が及ぼした最も大きな影響は「ディラン・スピリット」だった
●ディランの何が彼等に影響を与えたのか?
「難しい音楽」という物はあるのでしょうか? 「嫌いだという」一言で、忘れられない位に難しい音楽は? このML誌上の人気投票の常連であるニール・ヤング、ロッド・スチュワート、ジョー・コッカー、そしてジョン・レノン迄もが、挙(こぞ)って敬愛するボブ・ディラン。
その、当のボブ・ディランの名を、二〇人の人気者の中に見つける事が出来ません。当代の人気アーティスト達から一目置かれ、各々の音楽への影響を口々に認めさせる彼が、少なくともこの日本ではそれ等後輩達の半分の人気も無いのです。彼の音楽は難しいのでしょうか? 難しいとしたら、その何が難しいのでしょう?
「感じない」音楽というのは、誰にとっても有るものです。その全てを「難しい音楽」と呼ぶとしたら、どんな音楽も誰かしらに「難しい」と呼ばれるわけで、その言葉の意味は、曖昧なまま定まる所がありません。でも、ボブ・ディランの音楽は多くの読者にとって「難しい」かどうかは別としても、「感じない音楽」の一つなのだろうと思います。
そして、多くのアーティストやロック・ライターによる、彼への賛辞に出会うたびに、気に掛りながらもやっぱり「感じない」のだろうと思うのです。
例えば、ぼくは「プログレッシヴ・ロック」と呼ばれる類の音楽に、なんの感動も覚えない者ですが、それに関して気に掛かる事も有りません。つまり「嫌いだ」の一言で安心して居られるのです。何故かと言うと、その音楽の中に、ぼくの聴き取れない物が残っているとは思わないからです。
所で、「新ロック」のファンが、ボブ・ディランに感動しないとしても、実は、ぼくは不思議に思わないのです。
なぜなら、ロックに対する最もオーソドックスな反応のし方である「乗る」という体験にとって、ボブ・ディランに感動する様な感受性は、全く不必要だったからです。
いわゆるニュー・ロックと、ボブ・ディランの音楽とは、殆ど反対の方向を目指してやって来たと思います。
所が、昨年頃からこの日本に於いても、ロックの聴かれ方が変わって来ました。いわゆるシンガー=ソングライター達が受け入れられ始め、ロックはフォークとの境界を、すすんで放棄したのです。そして、いくらか移動したスポット・ライトの下に照らし出された人達、ニール・ヤング、レオン・ラッセル、ロッド・スチュワート、サンディ・デニー等、新しい彼等の音楽の奥に、いつも浮かび上がって来るのが、他ならぬディランの影という訳です。
だから、七二年三月号のこの雑誌へ、ボブ・ディラン名を記入せずに投票した読者のうちにも、「ディランなんか嫌い」で安心している人は、余り居ないと思うのです。
それならば、あなたが投票したアーティストが、一体ディランからどんな影響を受けたのかを、考えて見るのはどうでしょう? よく、影響というと、ギターのスタイルとか、リズムの感覚とか、サウンドの作り方について語られるけど、そのどれについても、ニール・ヤング、レオン・ラッセル、ロッド・スチュワート、サンディ・デニーの音楽の中に、ディランの模倣を聴く事はありません。第一、彼等各々が皆、似ていない音を持っているのです。ヴォーカルスタイルだって、誰がディランを真似ている訳でもなし。では、最近のアーティスト達が口を揃える「ディランの影響」とは、一体何に表われているのでしょう? インタビュー等で、彼等がその点に触れるには、詩に関しての事が多い様です。つまり、人としてのディランを尊敬していると言うのです。詩とは、勿論言葉です。だからそれは、その様な言葉を生む、ディランの精神的な体質が、彼等の範となっている、という事だと思います。ディランの影響は、彼等の音楽が演奏されている音と成る以前、彼等の心構えに対してこそ、及んでいるという訳です。
●「喋る」以上の切迫感を持つディランのメロディー
もっとも、六五年頃までは、音のレベルでも、ディランの影響は絶大でした。とりわけ、フォーク・ミュージックの新しいメロディー・ラインは彼が創った様なものです。まず詩が在り、その命令に従う様にそのメロディーは、時には詩を引きずったり、又詩の力で押し上げられたりして、唄う声になるのです。およそ、「メロディー」という、改まった印象を与えないそのラインは「唄う」と「言う」の中間の道を、ギクシャクと進みました。その有様は、「歌」というイメージからさえ離れてゆきそうに感じられたものです。
所が、その、詩とメロディーの奇妙な関係は、フォーク・ミュージックに現代の生命を与える、「新しい歌」としての地位を獲得したのです。以後、曲の拍子の頭にアクセントが置かれる、噛みつく様なイントネーションは、彼以外のフォーク・アーティストの歌の中にも、しばしば聞かれる様になり、今やそれは、ロックやフォークのヴォーカルに於ける、ひとつの普遍的なパターンとして引継がれています。例えば、常に生々しいミック・ジャガーの唄い振りは、最もロックらしいロックの中でも、アフター・ビートに身を任せる事をしない、ディラン的アプローチだと思います。それは表現しようとする時の焦躁自体を含めた表現であり、自分自身の音楽としてさえ、期待どおりに完結することを拒否する、反抗的な表現であると言えます。
もうひとつ、ディランが彼のメロディー・ラインを得た必要上の理由は、出来る限りの多くの言葉を、歌らしいまとまりの中に、埋没させない様に聞かそうとした事です。その気持ちが、あの連なる字余りと、日常「喋る」以上に切迫して、それを「喋る」ための音楽上の表現手段を、必要としたのです。そして彼が得たそのメロディー・ラインこそは、彼の詩、ひいては彼の思考その物が、トイレット・ペーパーの解ける様なし方で、生まれて来た物だと言えます。そのメロディーとヴォーカル・イントネーションの生々しさは、日本語で唄う日本のシンガー=ソングライター達にまで影響を与え、最近米・英では余り聴けなくなった、ディランの生の影響を、彼等の新しいフォーク・ミュージックの中に、著しく聴く事が出来ます。そして、米・英のロック・シーンに於いては「ボブ・ディランという存在」の意味が、今こそ明らかになろうとしているのです。目指す所を変えたロックの、新しい担い手達の音楽の向うに……。では、彼等が音楽を創ろうとする時の心構えに対して、ボブ・ディランが与えた影響とは何だったのかを、考えてみる事にしましょう。
●彼が及ぼした影響、それは「ディラン・スピリット」だった
それにはまず、ボブ・ディランの音楽と反対の方向を目指した、あの「ニュー・ロック」とは、一体どんな心構えから生まれて来た音楽だったのかを、明らかにする必要が有りそうです。それは多分、今あなたがロック・ファンで居る事の、キッカケとなった音楽でしょうから。音楽史上、ロックが初めて持ち得た物。それに依ってこそ、ロックが他の音楽から区別される物。それは、あの「ラブの精神」だと言われます。所がこの言葉は例によって、広まりこそすれ、その本当の意味が、突き詰められた事はありませんでした。まごまごしていると、ロックの本質を解き明かす鍵であるその言葉も、音楽の推移とと共に語られなくなってしまうでしょう。そこで「ニュー・ロック」という音楽の名前が意味を失おうとしている今、その音楽を「ニュー」たらしめていた「ラブ」とは何だったのかを、ハッキリさせようと思います。
その「ラブ」が、恋人同志の間に在る様な、ケチで欲張りな物でない事は、誰でも知っているらしいです。でも一体、大勢の人達の間に等しく存在し、いつもその人達を包み込んでいる様な、愛がどうやって成り立つのでしょうか? それは、お互い同志が、他人の思考、創造、生活といった物を、価値ある素晴らしい物として認め合う事で成り立っているのです。人間の不安の源であるそれ等の問題の、行方も知れぬ迷路に、誰もが迷い込む事なく毎日を暮そうとして、その入り口を閉ざした「村の門」が「ラブ」であり、それこそが「ロック世代」の象徴なのです。ニュー・ロックとは、その精神にのっとった、世代のテーマ・ミュージックだった訳です。その音楽が、本当に「ニュー」であったのは、「村の門」を出て行かない人も創造者に成り得る、という事を始めて証明した点です。なぜなら、音楽に限らず、創造という仕事は、そのために独りで、村の門を出て行った人のする事だったからです。そしてロックは、村人達の祭ばやしの性格を持って行ったのです。
さて、ボブ・ディランは、そのスタートから、自分の音楽を祭りばやしにする事など考えても見ませんでした。
もっとも、彼が唄い始めた当時、祭ばやしの世代は小学校に通っていました。けれど、彼の出発とはまさしく創造しない人達の村を離れて、独り苦難の迷路に旅立つ事だったのです。それは、創造者としての、伝統的な姿勢であると言えます。何故なら、村の門を抜けると、その人の進むべき一筋の道が、足許から見晴るかす沃野の彼方へ延びている訳ではなく、其処から始まるのは自分自身の迷宮に至る道。創造とは、その本来の意味に於いて、個人的な仕業だからです。
ボブ・ディランの努力は、自分自身を、より迷路深く追立てるために払われて来ました。それも又、創造者としての、オーソドックスな姿勢であると言えます。彼の音楽が最初に有名になった時、それは公民権運動のシンボルとしてでした。その成功は、彼自身にとって、満足すべき第一段階ではあったけれど、同時に、彼の良心にとっては、自分が祭ばやしの音楽家にされかねない、危険な事態でもあった訳です。そこで彼は苦慮の末、『ボブ・ディランの別な一面』と題したアルバムを発表し、彼の信仰者達の教祖の座に納っていた自分を嘲る歌を唄って、彼等を突放すと同時に、自分をより険しい場所へと向わせたのです。それはつまり、シンガー=ソングライター、ボブ・ディランとして、彼個人の迷宮に、一歩を踏み入れる事でした。
六五年、エレキ・ギターに持ち換えた彼に対する非難の渦は、今思うと、彼の音楽の更なる緊張を生み出すための、大きな力だったと言えます。かと言って、それがディランの策謀だったと迄は言い兼ねますが、彼は創造者の習性として、緊張を持続させる方法を心得ていたのだと思うのです。そしてつけ加えたいのは、当時、ロックが村祭りのおはやしとしての自覚をまだ持っていなかったという事です。もしロックが、六九年のロックであったら、ディランは決して、その方向へは進まなかったでしょう。確かにディランは自信家です。でもそれは、自分が強者であるという自信ではなく、たとえ行き倒れるとしても、その時の自分は独りであろうという自信なのです。ラブの名の下の新しいロック、それは、彼にとって無縁の物でした。その嵐が世間に吹き荒れていた間も、彼は彼の世界を旅し続けて来たのです。ボブ・ディランの音楽が難しいとしたら、それは彼自身にとっての、音楽と関る事の困難が、そのまま滲み出ていたからでしょう。「嫌い」という一言で、忘れられない難しさが有るとすれば、そういう音楽にだけです。
"Blonde On Blonde"には、ロックという音楽をもって、創造の正道を行こうとする彼の、苦難の頂点が収められています。そして、交通事故に依る一年の休養。
復帰第一作の"John Wesley Harding"は奇しくも、現在のロックがカントリーへ傾斜して来た事の、前兆であったかの様です。カントリー・ミュージックへの回帰それは勿論、エレキ・ギターを持った時と同様、ニュー・サウンドのクリエイトを企んだ訳ではなかったのです。音楽に於ける彼の努力は、いつも、実際に聞こえる音より、一段奥のレベルで尽くされて来ました。ひとたび音となり、アルバムとなった彼の音楽の中に、生の苦心工夫が残っている事はありません。自分が何をやったかを聴く人に知らせるヒントをチラつかせる様な事は、彼の最も好まないやり方です。彼は、彼の問題として、音楽を創っているのですから。
そして、彼と、その音楽との関りは、次第に、古い友人達同志のそれに似て来ました。その関りの中になった緊張と苦悩とが、余裕と愛情に変わり始めたのです。
今、土の匂いを漂わせる新しいロックや、シンガー=ソングライター達各々の音楽の向うに見える、ボブ・ディランの影とは一人の音楽家として、自分の迷路を旅して来た精神、いわば「ディラン・スピリット」としての物です。ラブの村の祭りは、そう長くは続きませんでした。今ロックは、それぞれが、個人の世界と向き合う時に来ています。今度祭りを復活出来るのは、ディラン・スピリットを持ちながら、ラブのリーダー役も勤まる、レオン・ラッセルの様な人に依ってでしょう。
もしあなたが、ロックに「乗る」という事につかれ、病上がりの様にうつろな自分を意識したら、それがボブ・ディランに耳を傾ける機会です。人は皆、祭りに同化出来ない世界を、心に持っています。素直であればある程。
〔『ミュージック・ライフ』1972年2月号〕
ニール・ヤング
●彼のピストルは常に自分のこめかみを狙っている
「女の子は何を好むか」という問題に、日頃精一杯の関心を払っているぼくの、昨今見聞をする情報では、ポップ・シーンの中の個人として、今一番愛されている人はニール・ヤングらしいのです。幸いこの事は、エルトン・ジョンが来た時、ナイジェル・オルスンに人気が集まったり、ショーン・フィリップス先生の神秘性が尊重されている事なんかに比べると、決して不可解ではない、女の子ならずとも納得の行く事なのです。
所でぼくが今、彼について抱いているイメージは、この一週間というもの、ぼくを辞書の下僕にさせた彼の詩の中から、その代償として引き出した物であるよりは彼の音楽から聴き取って来た物なのです。その事はきっと、彼を愛する多くの女の子達においても同様でしょう。彼の唄と演奏、彼の音楽は、その言葉の意味を解らぬ人に向かってさえ、一人の人間としての彼自身をさらけ出して来る、まれに見る力を持っているからです。そして、そのさらけ出された物が、女の子をして彼を愛させるに恰好な物だと思うわけです。
それにもう一つ、彼位、自分の音楽を代表する様な顔付きで写真に写るミュージシャンも珍しいのです。つまり、彼の顔には彼の個性が残らず出ていて、彼の音楽にも個性がそっくり表われているという次第です。だから、ニール・ヤングに関する限り、彼に向けられた女の子達の愛も、ちゃんと彼の音楽故の物だと思えるのです。一見当然の様な事だけど、「一人の人間」がこんなにも表現されている例はロックと言う音楽においては、実は珍しい、いわば画期的な事だったのです。とりわけそのアーティストが女の子達に愛されている場合には。
さて、訳詞を待つまでもない程強烈なニール・ヤングのその個性の女の子に訴える力について、先ずお話ししましょう。
例えば "Tell Me Why"と彼が唄う時、一体彼が何を告げてもらいたくて"Tell Me Why"と繰返すのかは解らなくても、彼のその気持ちの切実さたるや、痛ましい程に伝わって来ます。さて、其処で問題なのが、その「痛ましい程」という点なのです。一人の歌手が"Tell Me Why"と唄っただけでこんなに痛ましいなんて、やたらにある事じゃないのです。ニール・ヤングと来たらまるで、自分のこめかみにピストルを当てて、「答えてくれないなら引き金を引くよ」と言っているみたいです。それは、それ程緊迫しているという意味ばかりでなく、彼には、「当然自分は答えを与えられるべきだ」という、執念にも似た意識が在るという事です。だから彼が、"Tell Me Why" と唄う時、その言葉は、被害者の立場からの訴えの響きを持つのです。又興味深い事は、彼のピストルは決して相手にではなく、自分の頭に向けられているという事です。
ここで、彼の顔を想い浮かべて下さい。悩み過ぎた子供の顔。目は、強大な無言の迫害者を見つめ、口は「何故ぼくをこんな目に合わせるの?」と言おうとしています。恐怖を前に、彼はその質問を放棄して廻れ右する事をせず、手の中の武器を自分の顔に当てて答えを得ようとする。それが彼のやり方なのです。
彼のこのイメージは、"Tell Me Why" に限らず、彼独特の緊張感を持つ作品の中には必ず見る事が出来ます。それは、女の子にとっては、胸を締めつけられる様な、悲劇のヒーローの姿だろうと思います。でも、もし彼がこのやり方しか知らない男なら、同じく男であるぼくから見れば、その人が現実に側にいても深くは係りを持ちたくない様な、厄介で危険な人間であるだろうし、更にもし、彼が自分の頭にピストルを当てて唄うのが恋の歌で、あの痛ましさが相手の愛をせがみ取らんが為の物なら、彼の歌はウンザリする程甘ったれた性質(たち)の悪い物になるでしょう。
所が彼のアルバムには、小さなコミカルな曲も、のどかで美しい曲もちゃんとあって、それ等とあの息詰まる曲とが上手い具合にお互いを引き立て合っている事は、皆さんご存知の通り。
そして、彼が実際に恋を歌うのは軽い曲での事が多く"Cowgirl In Sand"の様にギターが凄まじく緊張する曲でも、唄われる詞は余裕たっぷりな物だったりします。
さてそれでは、あの切実な"Tell Me Why"が、一体何を尋ねる言葉か考えなくてはいけません。
航路取る心の船は廃港を抜け/夜の波間を漂い舞う/
物言わぬ探索者は黒馬に股がり/己の驚きの内、独り競う他は無し/
何故なのか、何故なのか(大意)
二行目の探索者は船を捜すそれではなく、一行目の心の船と同じ主体の別な表現です。この歌は、「与えられるべき答えが在る」と信じる彼が引受けぬ訳には行かない、彼の人生のテーマ・ソングとも言うべき物。ニール・ヤングは、彼を捕らえる恐れと驚きの中で敵も味方もなく、黒馬を蹴立てて人生の答えを捜す探究者という訳です。でも、続く節に2人称で呼ばれる相手が登場し "Tell Me Why"という言葉がその相手に向けられている様な印象を与えるのが、ぼくに疑問なのですが、勿論彼は、其処で答えを期待しているわけではありません。
君独りで事物を秩序立てるのは難しかろうね/借りを返せる齢ではあるけど/
身を売るも良いその若さには嘘でもつきに、いつかおいで/
ぼくは変わり映えもせずいる筈だ/ぼくが寂しさに暮れていても/
君にはその戒が解ける/笑ってでも、何でもね(大意)
彼がその女性に望んだのは、やはり答えの切れ端ですらなく、いわば暫くの休息なのです。そして唄われる詞は、航路を取る心の舟という初めの節に戻って行きます。
●孤独な探索者とそれに徹する時のジレンマ
さて、探索者ニール・ヤングが人生を歌う時、その歌はどうしても重苦しい空気で満ちます。そんな彼を代表する様なもう一つの歌に"Helpless"があります。
北オンタリオに一つの町/家路へと散る人々を慰めるのは誰の夢?/
ぼくの心には、今尚行くべき場所/それを求めた、ぼくの変化のすべてよ
星々を背に、登りかけの月が黄色い、青い青い窓/巨大な鳥が、ぼく達の目に
影を落として空をよぎる/救い無きままぼく達を置いて/
救い無きままの、救い無きままの……(大意)
この歌で注目に値するのは救いの無い状態に置かれているのが彼個人ではなく、「ぼく達」になっている点です。それから彼は、自分と人々との係りを唄います。
彼等がまだ、唄うぼくを聴ける今/鎖は結び目固く、ドアを封じているけれど/
彼等はどうにか、ぼくと共に唄う。
心には行くべき場所を持つ彼も、救い無く散って行く人々のために、コミュニケーションの困難を知りながら唄う、そして其処に、一抹の希望を消せずにいる所が、ロックの世代に生まれ、音楽的にはウエスト・コーストの血を受け継ぐ彼の、彼らしく苦難する姿なのです。かつてのバッファローの分裂を振り返って、スティーヴンは語ったそうです。「僕はビートルズになろうとし、ニールはボブ・ディランになろうとしたんだ」。ぼくはこの話の中に、今につながる彼の出発を見つけました。
ボブ・ディランは誰のためにも唄わず、孤独な探索者に徹し、今や白い馬の上で競う事も無いかの様だけれど、ニール・ヤングがその道を歩もうとする時、彼の心は深遠なジレンマに落ち込むのです。"Helpless"も結局は、シュールなイメージを持つあの二節目に戻り、「救い無きままに」が繰返されてフェィド・アウトして行きます。
それでも彼は、苦悩する人々のために唄う事を止めずに"Don't Let It Bring You Down"ではこう言っています。
老人はトラックの揺れて行く道端に横たわり/青い月が荷の重みに沈んで行く/
ビルディングは空をそぎ取り/冷たい風が夜明けの通りを吹き抜ける/
朝刊は舞い、死人が道端に横たわる/その目に日射しをたたえて/
挫ける事はないのです/それは城が燃えるというだけの事/
まるで心変わりした誰かの様に/やがてあなたは立ち戻る/
盲の男が、夜の光を走り抜ける/一つの答えをその手に持って/
「眼差の河辺に降り来たれ」/そしてあなたは本当に解るのです/赤い灯のまたたく雨の窓/
半島の女神のむせび泣きが聞けますか?/白い杏は、雨の溝に棄てられるでしょう/
あなたが独りで家路に着くなら/挫ける事はないのです/
それは城が燃えるというだけの事/まるで心変わりした誰かの様に/
やがてあなたに立ち戻る。(大意)
●宇宙船それは母なる自然の銀色の種子
今度は彼の、恋の歌を訳しましょう。その中でもどうやら、彼の恋に対する普遍的な態度が表われていそうなのは、あの静かな"Birds"です。
恋人、それは空翔るもう一人の誰か/頭上遥かに、太陽近く飛ぶ/
そこは明日/二度とは訪れぬ物を見る/それは今日/
あなたを置いて飛び行くぼくをあなたが見上げる時/あなたの知る物すべてに影が落ち/
羽根はあなたに降りかかる/ならばあなたの、行く道示そう/
それは空
この詩は具体的なエピソードが語られていない点で、外国の歌としては珍しいのですが、その代わりに、ニール・ヤングの考える一つの愛のパターンが、二羽の鳥の姿に借りて語られています。人生を歌う時とは打って変わった、安らかで優しい気持ちが表われていると思います。
さて今度は、女の子の心をつかもうとする彼が、決して自分の頭にピストルを当てたりはしない事を、あの凄まじいギター・プレイで聴かせる"Cowgirl In The Sand"の詞で証明しましょう。それはとってもシャレた台詞なのです。
ハロー、砂まみれのカウガール/ここは君の牧場かい?/しばらくここに居てもいい?/ほんの今だけ/ぼくのために装っておくれ/誰かが君を愛している時を/
それはつまり/君にそんなゲームをしたくさせる、あの御周知の婦人になる事さ(大意)
この歌ではこの後、二人がありったけの罪を犯した挙げ句、カウガールのバンドが錆ついたりするのですが、もう少しシリアスな恋を"Dance Dance Dance"で聞く事にします。
考える事のないは、恋その恋に虹をかける/雲が夜の魔女だという考えは/
あなたに初めて会った時に消えた今は、あなたが気にかけてくれる事ばかり想いめぐらす。
踊れ、踊れ、踊れ/
日の光に戯れる人生を愛すより、もっと彼女を愛さなくちゃ/ある早い朝に、ぼくは彼女の恋人になるぞ。(大意)
残念な事に、この曲はクレイジー・ホースが唄うのしか、ぼくは聴いた事がないのだけれど、ぼくはこの詩については、現実に彼が恋する時はこんな風だろうと想像しているのです。
そして最後に、これからのミュージッシャン達が恋以上に歌う事になるかも知れない、失われて行く自然への愛を彼が歌った"After The Gold Rush"を訳そうと思います。
そう、鎧の騎士に会う夢を見た/女王について何か言い/百姓達は唄っており/
太鼓叩きが、太鼓を叩く/そして射手は樹を射砕き/
ファンファーレが風に乗って太陽へ向った/走って、母なる自然を見よ/この一九七〇年に
火の落ちたボイラー室で、満月を目に横たわり/物事の変化を望んでいた/
太陽の爆発が空から届いた時/ぼくの頭でバンドが演奏し/
まるで高みに達したみたいだ/友達の言った事を考えて、それが嘘ならいいと願う/
そう、太陽の黄色い霞に浮ぶ、銀の宇宙船達の夢を見た/子供達が叫び/
色達は、選ばれた一色の囲りを廻って漂う/すべての夢の中で、積荷が開始された/
宇宙船達は、太陽の中の新しい家となるべく飛んで行く/母なる自然の銀色の種子だ/
太陽の中の、新しい家となるべく飛んで行く/母なる自然の銀色の種子だ
(大意)
〔『ミュージック・ライフ』1972年2月号〕
楽観的ニヒリスト
スティーヴン・スティルス
●CSN&Yは最後のロック・グループかもしれない
「ぼくはビートルズに、ニールはボブ・ディランになろうとしていた」これは以前、この本に掲載された“スティーヴン・スティルス・インタビュー”の中で、スティルス自身の口から語られ、その記事のタイトルにもなった有名な言葉です。そしてこの言葉は、バッファロー・スプリングフィールドとして、ロック・シーンへのスタート・ラインに立った時点での、自分とニール・ヤングとを評したものでした。
さて、それから数年を経た今、彼等の辿った輝かしい道程は、この本を読む様な人達にとっては“初歩的知識”の一つとなってしまったし、現存するグループ“CSN&Y”はと言えば、その一文字一文字が、個々の音楽観のシンボルとしての光を放ちながら集まっている、正に“星座”といった所です。それぞれが好き嫌いや比較の対象になり得る様な、独立した音楽世界を完成させている四人のソロ・アルバムが物語っているのは、CとSとNとYが他のロック・グループのメンバーの様に、“グループ・コンセプションの部分品”ではないという事です。“CSN&Y”というのは四人が各々の音楽観を胸に集う為の、お気に入りのサロンに付けた名前に過ぎません。
ニュー・ロックのムーヴメントに片が付いた今では、彼等こそが本当のスーパー・グループだとぼくは思うのですが、それは、彼等の一人一人があの渦中から、“今日のロックを支え得る音楽観”を得て残り、しかもそのサロンでは、彼等四人のコンセプションの、見事な融合を聴かせているからです。その意味では、ビートルズから発して以来、嵐の中に消えていた“ロックのメイン・ルート”がやっと、CSN&Yの足の下に姿を現わしたとも言えます。
しかし同時に、“CSN&Yは最後のロック・グループかも知れない”と、ぼくは思います。無論、様々なタイプのグループが、これからも誕生し続ける事は当然だとしても、現在彼等が集めている程の支持を集めるグループは、もう登場しないのではないか? という気がするのです。この事は既に、現在のロックが、“パーマネント・グループに依って表現される音楽”という概念から離れ始めている事に示されていますが、ここでその事をもっと明確にしましょう。
よく“ロックの心”という事を言いますが(“シカゴにあってBS&Tに無い物”と言えば、その意味がハッキリするでしょう)、それを支えるべき“生命力の伝統”を担う役割が、かつての“ロック・グループ”の手から離れて、“個人及びその一派としての演奏家達”の手へと移りつつあります。そしてその変化を、ロックの流れの必然として聴ける様な耳を、皆に準備させた“橋渡し役”が、正にCSN&Yだったのです。具体的に例を上げると、バーズやジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド達から生まれて来た物が、レオン・ラッセルやマーク・ベノ、ドン・ニックス達の音楽の中にも流れ続けているという事は、CSN&Yの音楽を通してこそ、皆の耳に明らかになって行ったわけです。
そして、彼等の音楽がそんな大役を果すことが出来たのは、四人の音楽的コンセプションの微妙な兼合いに依っています。
●スティーヴンはビートルズになり得たか?
さて、“僕はビートルズに、ニールはボブ・ディランに……”と言うスティルスの言葉と、四人のソロ・アルバムとを想い出してください。その際、クロスビーとナッシュを、ビートルズとディランの例えに当てはめるなら、ザ・バーズの血を引き、最も非コマーシャルなアルバムを作ったクロスビーがディラン派。元ホリーズの、英国人で、ソロ・アルバムをポール・マッカートニーに誉められたナッシュがビートルズ派、という事になるでしょう。そして“ビートルズ的”という事は、聴く人達の心を横に結びながら拡げて行く、“水平のコミュニケーション”を意味し、“ディラン的”という事は、聴く個人の心の奥深くにはいり込んで行く、“垂直のコミュニケーション”を意味しています。
CSN&Yは、この二通りのコミュニケーションの能力を備えていたからこそ、“ニュー・ロック以後”の最初のグループ、或は“ニュー・ロックの最後のグループ”に成り得たのです。では、スティーヴン・スティルスはその成功の中で、ビートルズに成り得たのでしょうか?
現在の彼は、リンゴ・スターから買い受けた牧場付きの別荘を、“成功からの避難所”にして、そこでは乗馬や、時にレコーディングを行なっています。そして、彼はその暮しを大いに気に入り、お嫁さんと静かな毎日と、ショー・ビジネスに関りない音楽の創造とを夢見ながら、“田舎の幸福”を信じている、という訳です。それは実に、“私生活のビートルズ”に似ていると言えます。そして彼は“ロックン・ロールには飽き飽きしている”とも、“わざわざコンサートへ出かけて行きたいと思う人も余り居ない”とも言います。そうした言葉と、“田園生活”を愛する彼とを合わせてイメージされるのは、“楽観的なニヒリスト”といった姿です。それは彼が、ビートルズと同様な仕事を為し終えた、という事を物語る姿なのでしょうか?
●彼にとってロックは“新しい秩序”のシンボルである
そこで、彼が例外的に“コンサートへ出かけたくなる人”として挙げた名を見ると、デラニー&ボニー、アレサ・フランクリン、トム・ジョーンズ、ジョーン・バエズ、ニュー・ライダース・オブ・パープル・セイジ、グレイトフル・デッド、デイヴ・メイソンといった人達です。さあ、この雑多なリストから、サラブレッドと共に暮し、ロックのクラブには愛想をつかしている彼の、“現・音楽観”を分析してみるとしましょう。
一通り見渡して思うのは、かなり広範な人達の音楽を聴く意志があるという事で、彼は、音楽その物に愛想を尽かしたと言うよりも、“成功性ウツ病”の軽いのにかかって、“面白いと思う物”が減り始めているのです。
でも、アレサ・フランクリン、トム・ジョーンズといった所を聴きたがるのは、“イベント”としての音楽を楽しむ気がまだ有るし、シンガーなら一様に憧れる、ソウル・シンギングに対する畏敬の念を、彼も又持っているのでしょう。つまり彼は、“歌手”である自分にも、音楽家としての執着を感じているはずです。
ジョーン・バエズについては、グレース・スリックやジュディ・コリンズに熱を上げた彼の、“女性”に対する嗜好と、“音楽”に対するそれがオーバー・ラップされている様にも思えますが、彼自身もそれを承知していて、意識的に彼女を、“歌を唄う”理想の女性へと祭り上げているフシが有ります。
次に彼が、“良いカントリー・ミュージックのバンド”と自ら言うのが、ニュー・ライダースとデッドで、この二つはバッファロー以来の彼自身の音楽と、最も簡単に重なるはずです。又、デッドに関しては、音楽その物だけでなく、“音楽との関り方”についても、“成功しようとしまいと、良いアルバムを作る事だけを考えた最初のバンド”として、見習う所が大きかった風に言います。デッドの神がかり振りは、彼の口を借りる迄もなく有名ですが、いわば“ヒッピーイズムの教祖”的な彼等が、それに基づいて音楽と関るやり方は、軽い“成功性ウツ病”の彼にも、まだ評価と関心の対象に含まれている訳です。
所が、ジェリー・ルービンの様な政治的急進主義者に話が及ぶと、彼はキッパリと拒否反応を示します。なぜなら、その考え方は、ある人間が牧場付きの別荘に籠り、サラブレッドの背中で新曲のメロディーを練る様な生き方を許さないからです。又彼は、自分も含め、ウェスト・コーストのロック・ミュージシャン達に依って培われた“ロックの心”は、ある新しい秩序の中心に在るべき物だと考えています。つまり彼は、自分達の生み出した精神が、やがてその世代に依る政治が行なわれる時に、その根本的イディオムに成るだろう、と考えているのです。従って、彼にとってのロックは、来たるべき“新しい秩序”のシンボルであって、“アナーキズムの音楽”ではありません。
この考え方こそ、彼が現在の音楽を生むための礎石だったと思えるのです。彼の二枚のソロ・アルバムは、CSN&Yの誰のアルバムよりも、スワンプ・ミュージックの影響を受けています。それも、ダグ・カーショウやリンク・レイの様に“土着的”なそれではなく、レオン・ラッセルやマーク・ベノといった、“組織的スワンプ・ミュージック”へのアプローチを見せているのです。肝心なのはこの点です。
彼は、その様なミュージッシャン達がしている事こそ、“ビートルズが地に降りてすべきだった事”だと認識したのです。なぜならスワンプ・ミュージックの内では、彼が考えている様な“愛在る秩序”が実践されているからです。総勢二〇人もの人が集まりコーラス隊は遠慮なしの大声で唄い、ホーン・セクションは王様の凱旋を讃えるみたいにおおらかに吹きまくり、演奏中の殆んどの時間というものは、全員が各々の音を出している、彼は、そんな中で歌を唄いたかったのです。デラニー&ボニーの演奏を目の当たりにする時、彼は、飛び出して行って一緒に唄いたくなるに違いありません。
●デイヴ・メイソン、ジョージ・ハリソンとの共通点
所で、余り知られていないのは、ニューヨークのコーヒー・ハウスに出入りを始める迄の彼の少年時代が、南部の各地でおくられたという事です。そして、グリニッジ・ヴィレッジでジョン・セバスチャンに出会ったのは、南部の名門大学をドロップ・アウトした挙句でした。そう言えば『デジャ・ヴ』のジャケット写真では彼独りが、南軍の青年将校といった雰囲気を湛えていましたけれど、そんな事より興味深いのは、一〇代の数年間を、南部より更に南部、中米のコスタリカで過ごした事です。
ぼくはその記事を読んだ時、“成程”と思ったものです。ウェスト・コースターである筈のスティーヴン・スティルスの音楽の中に、どうしてラテン風な陽気さが混っているのだろう? と、ずうっと不思議に思っていたからです。例えば、彼が唄の合い間に時々挟(はさ)むあの掛け声などは、何処か、カリブ海の彼方から聞こえて来る様に感じられていた訳です。二枚のソロ・アルバムにも、最近増え始めたスワンプのアルバムには無い、“乾燥した熱気”がありますが、それは、アメリカのディープ・サウスの“湿った熱気”とは違う物です。
さて、“愛在る秩序”を聴きつけて、スワンプ的なサークル・ミュージックを手掛けている点でに於いて、スティーヴン・スティルスに最も近いコンセプションを持っているのが、デイヴ・メイソンです。
彼が、音楽的にも実際にも英国をあとにしたのは、デラニー&ボニーのフレンズに加わった事に依ってでした。彼のアルバムの場合は、コーラス・ハーモニーにはウェスト・コーストの爽やかさを持たせているけれど、その奧ではやっぱり“南部の優しさ”を求めています。彼は、デラニー&ボニーとの演奏の中にそれを見つけたからこそ、英国を離れ、トラフィックから考えも及ばない、素晴らしいアルバムを残しもしたのです。スティルスとメイソンの共通点は、その“南部志向”にある訳ですが、最後にもう一人、スティルスの目標だったあのビートルズの一員、ジョージ・ハリソンが、今や彼等と同じコンセプションの音楽を創っている事こそ、忘れてはならない一大事です。それはスティルス自身にとっても大変な事に相違ありません。
あのビートルズの一員が、今こそ彼と同じ地に降り来たりて、“愛在る秩序を謳うサークル・ミュージック”を奏でるのですから。事実、彼はジョージ・ハリソンのそのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』が、何年も自分の心に残るだろうと言っています。そして又、そのアルバム全体のコンセプションは、『サージェント・ペパーズ』の中の「ウィズィン・ユー、ウィズアウト・ユー」の詞に、既に集約されていて、彼はその言葉を、石碑に刻んで公園に置きたいとも言うのです。“ぼく達皆の間に在る空間について、ぼく達は話しています。そして、人は皆独りである事を識る時が訪れ、人生は、あなた在りでも無しでも流れて行くのです”
だからこそスティーヴン・スティルスには、彼のあの音楽が必要なのです。
〔『ミュージック・ライフ』1972年5月号〕
レオン・ラッセルの『カーニー』
『カーニー』のベスト・セールス。それはようやく発売されたシェルター・レーベルの、そしてレオン・ラッセルというスーパー・スターの、輝かしくも当然な“日本上陸”のし方ではありましたが、世間が、あのアルバムこそが彼のスーパー振りの象徴だと思っているとしたら、それは彼の紹介が遅すぎたために違いありません。『カーニー』の彼がスーパーなのは、ひっくり返した意味に於いてです。つまり、彼はあのアルバム以来方針を変え、自分が“スーパー・スター”である事をすねる[#「すねる」に傍点]という特権を行使しています。
“最後のスーパー・スター”。これが彼に献じられた、皆様御存知の称号でした。しかし、レコード会社の企画室でこのセリフがひねり出されていた頃、当のレオン・ラッセルの録音スタジオでは、そのもはや強調する必要も無いイメージを逆手に取ったアルバムが出来上っていた、という訳です。だから、“スワンプ・ロックの王様”という彼の肖像は『レオン・ラッセルとシェルター・ピープル』迄ブロー・アップを重ねて来て、今それは名声の殿堂の壁に掲げられ、『カーニー』での彼はなんとその前に立ち、嬉し気に哀し気に表情豊かに、自分の肖像に解説を加えているのです。それ等の曲には一聴、甘く、やるせなく、古めかしい気分が流れていますが、それはレオン・ラッセルが自分を語る時の趣味に違いなく、そのいかにも流行歌然とした意識的な陳腐さにこそ、ロックン・ローラーとしての自分の感性の故郷である、アメリカン・ミュージックの愛情と皮肉とのあらわれだと言えます。
所で“スター”のイメージという物はそれが出来上った時、当人にとっても客観的な物なのだろうけれど、大方のスターは、やっと泳ぎ着いた海の中の岩に留まる様にそれから離れず、その後の努力といえば更に岩を堅固にする事です。しかるにレオン・ラッセルの仕業たるや、その海も岩もが虚構の産物である事をタネにしたチラリズムのストリップティーズだから、固唾を飲んで結末を待つのは野暮の骨頂。ショールやストッキングである一曲一曲が床に舞う度、ニヤニヤして手を叩くのが通というもので、どうせ最後に現れる姿は、顔半分で笑いもう半分で泣いて唄うピエロなのです。しかしそのピエロは、どこまでも観客は自分の演技に馴れ合う、という自信を持っているものだから、時にリミット以上に脱ぐ事があって、あのヒット曲「タイト・ロープ」では、ピエロのヒロイズムが昂じて観客に舌を出しています。
「俺は張られた綱の上/片側は氷、片側は火/君等と俺のサーカスごっこだ」
と唄い始めやがて、
「君等の理解の一切は、俺の頭のシルク・ハットで/ピンと張られた綱だけが、俺の持ち場と信じてる。/そこで墜落の茶番劇、俺の身体は真っ逆さま。知りたがり屋のキリンさながら/君等は落下の軌跡をのぞく。/それで結構、その筋書きを悟る程、君等の目が利く筈もなし」
――といった具合。これはレオン・ラッセルというスターが、スターで在るとはどういう事なのかを語ったいわば全ストで、聴く方はと言えばこんなにも馬鹿にしてくれた事を喜ぶ、つまりこれこそが今や、レオン・ラッセルとぼく達とのソフィスティケイティッドな関係なのです。
さて、彼が額面通り“スワンプ・ロックの王様”に収まっていたのが前作の『レオン・ラッセルとシェルター・ピープル』ですが、ロック・シーン全体の流れの中で“レオン・ラッセルの音楽”として代表されるべきアルバムはやはりこれだと思われます。と言うのも、今後の彼がどんな音楽を創って行くかは別として、このアルバムには、ボブ・ディラン以降のアメリカン・ロックの一つの尤もな帰結が示されているからです。先ず、ボブ・ディランの音楽が持つ意味と言うのは、ポピュラー・ミュージックをもってなお、人間の真摯な創造は可能な事、殊に“詩”を“声”が唄うという所為によってこそそれが可能な事を具現した点であり、この音楽のコミュニケーションの有り様は、個人たる奏者から個人たる聴き手への垂直な伝播なのです。さて、レオン・ラッセルはウェスト・コーストのスタジオ・マン兼アレンジャーとして腕を磨いて来はしたものの、楽器を通じてしか音楽を考えられない“職人”ではなく、様々な音楽の質という物を洞察する眼を持つ人だったから、この垂直な伝播の力を認め、自らも得ようと思い到りました。しかし彼は根本で真摯な芸術家ではなく、従って詩人でもないのだけれど、彼の知恵は、持ち前の執拗な自我と自己顕示欲とをその“真摯さ”に代えて、垂直な力の起点としたのでした。又彼は己れの自我を表わして余りある“声”を持っていたから、残る問題は、“詩”をカヴァーして聴く者の耳をいつも充足させて置くべきあるサウンドの発見、という事に絞られて行った訳です。
一方、ハリウッド音楽界の腕利き演出家としての彼の耳目は、早くからビートルズの不思議に奪われていたのです。何故ならそこには、古今様々な音楽が歴史の所属を解かれて集い、現実よりも現実感に溢れた夢の世界を型成していて、そこを訪れる人々は“個人”という呪縛を忘れて誰彼なく幸福な聴き手になってしまうからなのでした。そして、その水平なコミュニケーションの力は恐らく、過去人間が体験した最高の物だったでしょう。
後に輩出したニュー・ロックとはおしなべて(ハード・ロックもプログレッシヴ・ロックも)、この水平なコミュニケーションという事を、ビートルズとは違った手段で実現させようとする物だったと言えます。
レオン・ラッセルは六八年、アサイラム・クワイアに依ってその戦列に加わりました。彼とマーク・ベノが選んだ方法は、かの『サージェント・ペッパーズ』を解析し、それをアメリカ的な音楽に再構成する事でしたが、ここで彼等の用いた職業的技術の総ては、ウェスト・コースト流なそれであった事が特筆されます。とまれ、このアサイラム・クワイアを含めて、種々の要素を駆使して音楽の新しい世界を創り上げるという試みのことごとくは、ビートルズに匹敵する現実感をその音の内に宿す事は無かったのです。レオン・ラッセルは直ちにこの不可能を悟り、心に期する所あって『第二集』の発表を取止め、新しいサウンドを探す彼の視線は南部へと移って行きました。
既に様々な場所で語られた様に、彼が“南部的なるもの”に目覚めて行ったのは、ディレニー&ボニーとの交わりに於いてと思われます。南部人の音楽的感性は、濃く宗教的色彩を帯びていて、共に唄い共に聴くという営みは彼等を一つの完結した世界に包み込み、その内で彼等は水平に結ばれて行くのです。この事は音楽という物が普遍的に持っている作用だけれども、南部の音楽、特にゴスペルの要素を強く留めたそれは現代に於いてさえ、白人をも含めた素朴な人々から強く求められ、その精神生活の支えになっています。レオン・ラッセルはこの事実に、かつて自分がハリウッド流のやり方で果せなかった水平なコミュニケーションの手段を見たのです。そこで、ディレニー&ボニーをプロデュースする彼は、そのサウンドをウェスト・コースト的な物から次第にゴスペル的な物に変えて行き、いつか自分の音楽に採用する時のための実験を繰返しました。それ等が総て上々な反応をもたらし、更に、ジョー・コッカーのバックにこれを転用して大成功を納めた事はもはや詳述の要も有りますまいが、ただ、いよいよ彼自身が主役となって登場した“ラッセル・スワンプ・スタイル”となると、いささか事情が違っていたのです。
『ソング・フォー・ユー』や『バングラデシュ』でのその立場に象徴される様に、彼は自分を現代のロック・シーンの中心に置こうとしました。
レオン・ラッセルとはその事のために、偏執的自己顕示欲を垂直なコミュニケーションの起点に据え、同時に、聴く者総てを等しく歓喜させ得る水平なコミュニケーションの術を求めた音楽家だったのです。
しかしその意味で彼が、望み通り最も“王者”らしく捕えられているのはやはり『レオン・ラッセルとシェルター・ピープル』で、この“シェルター・ピープル”とは、彼のナルシシズムをよく理解した従者達だったから、その賛歌の嵐の中で彼は自我の欲するままに、泥臭くもセンティメンタルにも見栄を切りおおせたのでした。
かくて、一大事業を為し終えてしまった彼は今、未だ消え去った訳ではない自己顕示欲の所在無さのために、自分をピエロに見立てながら、偽らぬ音楽的感性のストリップティーズを演じているのです。
〔初出誌不明。執筆は1973年と思われる〕
スーパー・スター、レオン・ラッセルの戦略
●行動の原点には自己顕示欲が
ロック・ムーヴメントが生んだ“スーパー・スター”という存在を、“スーパー”たらしめた条件はもっぱら人気の量なのでしょうか? 人のろくに知らない歌手をスーパー・スターとは呼ばない迄も、その“スーパー”という接頭辞に、量ではない質の意味を探したらどうでしょう? 例えば、その人の音楽がどれ程熱狂的に迎えられたか等という偶然の偉大さではなく、その人がどれ程頭脳的に聴衆を操り、自分の音楽の信者となし得たか? という意味で見直すのです。するとぼくには、ロック・シーンの大方のスーパー・スター達が、その称号の割には無個性に思えてなりません。つまりは、音楽の向こう側から聴き手を睥睨(へいげい)するだけの、執拗な自我を聞かせる人が居ないのです。単に“いい感じ”な曲を沢山作って沢山売っても、それでその人をスーパー・スターとは呼びかねます。
なぜなら、それは聴衆の嗜好に適合した例の幾つかに過ぎず、聴衆の嗜好のほうを自分のために操作し得た時、その存在は初めて“超越的”という意味でスーパーたり得るからです。ニュー・ロック以前には、ビートルズとボブ・ディランとが、人々の感受性に新たな分野を開拓し、普遍化しました。しかし、ビートルズは今は無く、ボブ・ディランはもはや、自分の聴衆に何の関心も持ってはいません。又、ニュー・ロックの旗の下に登場した幾多のアーティスツは、総じて、人の感受性よりも肉体に奉仕する音響技師達でした。そう考えると、レオン・ラッセルは“最後のスーパー・スター”であるよりも先ず、ニュー・ロック以後に現われた“最初のスーパー・スター”ではないでしょうか?
彼はスーパー・スターとなるべく意志し、自らの才覚一つでそうなった、髪の長い音楽実業家です。彼が人々の嗜好を征服出来たのは、ポップ音楽の過去を熟知し、状況の洞察に長け、自らの行動の機をみるに敏だったからですが、それ等の基に在る物は、自分を中心にしてポップ・シーン全体の構図を変えずには満足しない、彼のダイナモの様な自我なのです。だから、“神秘的”だとか“狂的”だとかの巷説(こうせつ)の内から、彼の真姿を引き出すためには、その総ての行動の原理に、自己顕示欲の力学を見る必要があります。
ともあれ、レオン・ラッセルの音楽の魅力は、明確に彼自身の自我であり、それが聴衆の嗜好を征服した点において、彼こそ稀有のスーパー・スターなのです。
では、その彼の自我がいかに執拗なものであっても、決して一辺倒なものではなく、極めて頭脳的な展開を示して来た事を、そのキャリアからたどってみましょう。
●ビートルズとディランの統合
先ず彼は、一つの楽器に全生命を注込む様な、求道的ミュージシャンではありません。そして、何を演奏する時も唄う時も、同時に外側から自分を見る眼を持っています。その眼は又、ポップ・シーンにおける自分の音楽の位置を、他との比較から測定する事も出来ます。そこで彼の音楽の変容は常に、プロデューサーとしての彼のプログラミングに従って来たのです。勿論、その最終目標は自分がスーパー・スターになる事でしたが、そのために、識者ラッセルが注意を向けた存在は、やはりボブ・ディランとビートルズでした。彼は、この二つの対照的な音楽が持つ力を、自分の音楽の中で統合しようとしたのです。つまり、ボブ・ディランの力とは、個人たる彼から個人たる聴き手の心肝(しんかん)へと達する、厳しく垂直なコミュニケーションであり、ビートルズの力とは、聴く者総てを同一の地平で歓喜させる、優しく水平なコミュニケーションです。そし、ポピュラー音楽の二大遺産であるこの二つの力を、一人で操る事こそ、自分が稀代(きだい)のスーパー・スターになる道だと、レオン・ラッセルは考えたのです。バングラデシュ・コンサートに象徴される様に、彼の野心が自分を合格とみなすラインは、ディランやビートルズと肩を並べる所にあったわけです。
さて、彼の自我の執拗さとナルシシズムとは、充分に垂直なコミュニケーションに足るだけのアク[#「アク」に傍点]を、当初からヴォーカルに滲ませていました。それに自信を持つ彼の努力は、ビートルズ的な力を得ることに向けられましたが、彼の戦略といえども、初めから功を奏するわけには行きませんでした。と言うのは、第一作の『ルック・インサイド/アサイラム・クワイア』で彼は、『サージェント・ペッパーズ』風なイメージのカレイドスコープを繰広げんとしましたが、そこには、偽(いつわ)れぬ彼の素地と苦心の装いとの距離が歴然としていたからです。しかし、それが当時の世評だったのではなく、彼は一部の喝采を黙殺さえして、このスタイルを見限りました。彼は自分で“アサイラム・クワイア”を不合格とみなし、その二枚目の発表を延期したのです。
ところで、彼はオクラホマ生れの南部人です。その音楽的感性の土壌は、ブルーズやゴスペルといったアーシーな物の上に、生来の貪欲さで会得したアメリカン・ミュージック一般の教養が、皮肉や愛情と共に堆積(たいせき)した物です。したがって、彼の音楽が根を下すべきは、その肥えた土壌の中であって、『サージェント・ペッパーズ』のユートピアではないのです。彼はそれを自覚し、“南部”へと目を向けディレニー&ボニーとの交りを深めて行きました。そして、そこで彼が発見した事こそ、彼があの“ラッセル・スワンプ・スタイル”を創りだす動機となった物です。それは、音楽の中の南部人同志は、その“ダウン・トゥー・アース精神”によって、ビートルズの音楽に跪(ひざまず)く人々の様に結ばれている、という事実だったのです。彼にとって、水平なコミュニケーション手段はここに開けました。以後、彼は自分の感性を土俵として、その目指す音楽にアプローチして行く事となったのです。
しかし、自ら起こす行動と、時の状勢との兼合いに慎重な彼は、新しいアイディアを、すぐさま自分で演じようとはしませんでした。ホーンやコーラスを用いる、そのゴスペル・スタイルの泥臭さが、ロック・チャイルド達に通じるかどうかが分らなかったからです。そこで彼はプロデューサーとして、ディレニー&ボニーのアルバムのゴスペル色を次第に濃くし、その評判が高まった所で、彼等を連れて英国楽旅に出ました。その大成功は、“ロックの新傾向はダウン・トゥー・アースだ”という印象を人々に与え、そのツアーを先導した彼自身の権威を大いに高め、英国のスーパー・スター達との親交を深めた上に、ジョー・コッカーとの新しい仕事をもたらしたのです。マッド・ドッグス&イングリッシュメンの米国ツアーは、映画によって世界中のロック・ファンの目に触れ、奇妙な目つき[#「目つき」に傍点]といでたち[#「いでたち」に傍点]でピアノを弾く男こそ、その素晴しい出来事の立役者である事を知らしめました。
●スワンプ・スタイルも表現法の一つか
レオン・ラッセル自ら、主役を演じる機は遂に熟したわけです。ビートルズやストーンズの面々の名を連らねて、自分の存在をアッピールした『ソング・フォー・ユー』に次ぎ、彼はそのスワンプ・スタイルの集大成として、『レオン・ラッセル&シェルター・ピープル』を発表しました。そして、これ迄の周到な計画はここに、稀有のスーパー・スターたる彼の姿を定着したのです。彼の素晴しさは、ホーンやコーラスの讃歌の渦中にあって尚、正しく彼個人の自我が歌うその様です。毒気に近い声のアク[#「アク」に傍点]は、その主の醒めた心を物語り、時に甘くセンティメンタルなフレーズも、当人がその美しさを信じてはいない。これ等が矛盾でなく解け合っているのが、レオン・ラッセルの理性なのです。そして、彼は自分の所為を理性的には響かせぬために、煽り立てるホーンやコーラスを配したわけです。だから、有無を言わせぬスワンプ・サウンドに浸りたい者は、その水平なコミュニケーションの受け手となり、レオン・ラッセルの執拗な自我に関心を引かれる者は、彼からの垂直なコミュニケーションを聴き受ける。かくて“ラッセル・スワンプ・スタイル”は、アメリカにおけるロック・ムーヴメントの、一つの輝ける帰結たり得たのです。
しかし、レオン・ラッセルはその成果にももう倦(う)んだようです。紛(まぎ)れもないスーパー・スターとなってしまった今、彼は自分の“讃歌隊”を捨て去り、スワンプ・サウンドにさえ興味を失った様子です。
『カーニー』の彼は、三〇年前の流行歌でも口ずさむ風情ですが、中の一曲「タイト・ロープ」で、自分と聴衆との関係を暗示しています。
彼はその関係において、聴衆を全く信用してはおらず、その知力さえ見下しているのです。
スワンプ・スタイルとはやはり、彼には全くの方便だったのであり、今一仕事を為し終えた彼の興味は、自分の感性に堆積された、アメリカン・ミュージックへの皮肉と愛情らしく見えます
〔『音楽専科』1973年3月号〕
ディラン・スピリットの系譜
●ボブ・ディランの血
ボブ・ディランが歌を創って唄った、という事。その事以来、ポピュラー音楽の内に拓(ひら)かれた“歌”という業(わざ)の真摯(しんし)な道。その様な道を、いま自分なりに模索するシンガー&ソングライター達はいます。いわば、ディランの血を引くアーティスト達というわけですが、だからと言って、彼等の声やサウンドがすべてディランに似ているというのではありません。これからお話しする事は、「誰がディランに似ているか?」ではなく、“ディランの血”とは何で、それを受継ぐ事がどういう事で、誰が実際それを今やっているか?なのです。
さてボブ・ディランは衆目の一致する所、怜悧な詩人であり、その詩を説得力豊かな歌に変える作曲家であり又、その歌に脈打つ生命を注ぐべき特権的歌い手でした。(シンガー&ソングライターは誰でも、自分の歌に対して特権的歌手である筈ですが、ディラン程その特権を縦横に振るった歌手をぼくは識りません。)作詩と作曲と歌唱、彼の、それ等三つの仕事がポピュラー音楽の世界でなお真摯であったのは、彼が、そのどれをも自身のためにのみ行ったからです。彼の歌は、誰の退屈をを慰めるためにも、誰の心を支えるためにも、誰に愛されるためにも有ったのではなく、ひとえに彼自身の生が背負った暗黒のため、それを切り拓くべき“意志の剣(つるぎ)”としてこそ有ったのです。永い間、ボブ・ディランの意志は己が暗黒を正面から見据えつづけ、歌の一太刀一太刀はそれに向けて垂直に振降ろされて来ました。だから、彼の音楽に漲(みなぎ)る血とは歌う当人の魂が遣したそれであり、その血を受継ぐ事というのは、そのアーティストも又自身の暗黒に立ち向うべく歌を唄い、遣す自身の血で歌を満たす事。それが、“ディラン的な音楽の為(な)し様(ざま)”というものなのです。ディラン当人の変身、とり分け『ナッシュビル・スカイライン』以来しばしば耳にする、憑き物の落ちた様なあの穏やかなる寂寞は、あれこそが、己が暗黒をその血であがなった者にだけ表わせる寂寞でありましょう。
●ディラン派である資格
“ディラン派”であるか否かは、左様音楽の為し様にこそ問われるのだから、そのアーティストがフォーク・シンガーである必要は有りません。先ず第一の条件は、身に暗黒を抱えた人間である事。この点が、ウェスト・コーストに“ディラン派”が育ちにくい所以でありましょう、バーズが幾らディランの曲を唄ってもそれはモチーフだけの事、彼等は(最近のジーン・クラークを除いて)ディラン派ではありません。次に、“己れを強迫する物”を身に持っていても、それに挑む事なく感傷や錯乱に陥る手合いも又、ディラン派ではありません。何故なら、泣いたり叫んだりという事はとりあえずそれで一件落着であって、暗黒はいつまでも血でたぎる事がないからです。ハード・ロックの“ハードさ”が空虚なのは、この“一件落着”の生理学に甘えていてその実“厳しく”ないからですが、たとえばジャニス・ジョプリンの場合は、真向うから自分の暗黒に立向いながらも、その余りな強大さの前に玉砕余儀無かったと言えるでしょう。つまり、血や涙を妄(みだ)りに零(こぼ)す事なく暗黒を満たし、自分の音楽としての型を得るには、感情に勝る理知の業という物が要るのです。
●精神のディラニスト達
ギター一本でアルバムを作るアーティストなぞもそう居ない今、“ディラン・スピリット”は一つの音楽態度として普遍化し、その持ち主達のスタイルも様々ですが、やはり、選ばれた人達はそう多くありません。先ず、詩人としてのディランの直系はロビー・ロバートスンであろうと思いますが、“感情に勝る理知の業”によって、最も濃く、涙と血とをその音楽に凝縮しているのも又ザ・バンドです。彼等の場合は、そのキャリアからもディランの直系であるのが不思議ではありませんが、称賛すべきは、十一枚のディランのアルバムにおける変容とその意味とを、五枚のアルバムの内の曲々に捕え持ち、しかも、音のレヴェルでは独自な完成を遂げている事です。しかし彼等の音楽は『カフーツ』以来、その“理知の業”が、“感情”を圧縮するよりも噴出させる事に長けて来たようです。あくまでも“理知”の力がそうするのではあるけれども……。そのロビー・ロバートスンにプロデュースされたジェシー・ウィンチェスターの最初のアルバムは、歌唱において些か線が細いとはいえ、執着すべき点をはっきりと見据えてそれに肉薄しており、その点では未来のボブ・ディランを想わせるに足りましたが、二枚目での彼は、詩を瀟洒(しょうしゃ)なサウンドの中に安置する趣味に流れています。(日本発売は二枚目だけ)
次に、読者が意外に思われるだろう、しかしぼくは屈指のディラニストだと考えるアーティストが英国女性のサンディ・デニーです。実際彼女はディランの曲をよく唄って来ましたが、そればかりではなく、フェアポートの時代から彼女の書く曲には鬼気迫る物があり、その歌声の内の風景は荒寥として、極北からの風にいつも満たされています。それというのも彼女の暗黒は熱い何かではなく、持って生れた氷河期の記憶とでも言うべき物だからで、それに向って、独り北海の海辺に佇(たたず)む様な彼女の姿勢は、女性シンガー&ソングライターとして、米国勢以上にディラン的です。他の英国人アーティスト達にここで触れて置くと、サンディの僚友リチャード・トムプスンも又、音楽に対する真直ぐな姿勢から彼独自の緊張を創り得ている事が立派だと言えます。有名ではありませんが、アーニー・グレアムという男は、実にすすけた唄い振りの奥に、その声が生れて来た源であろう冷たい暗闇を覗かせてくれる味わい深い歌手ですが、“ヘルプ・ユアセルフ”なぞという子供じみたグループに加わった経験は減点材料と考えねばなりません。さて、活躍の場は今や米国ですが、“熱い暗黒”を背負った“ベルファストのカウ・ボーイ”、ヴァン・モリスンを語るべきでしょう。彼はミック・ジャガーやロッド・ステュワートの様に“熱い暗黒の住人”でしたが、その暗黒を統御しようとどんなに苦闘を重ねて来たことか! しかし今も彼は、時に聞かせてしまう女性的ヒステリアによって、ザ・バンドの域には到っていません。そしてあとの英国アーティスツは概(おおむ)ね、身の暗黒を嘆いてみせるか、嘆くべき暗黒すら持ち合せないかで、いずれにせよ“ディラン的歌い様”には無縁の人達です。
さて米大陸に話を戻して、“冷たい暗黒”の持ち主という事では、ニール・ヤング程苛酷な荷を負う若者は居ないでしょう。荷が苛酷であるという事はしかし、それだけ創造の可能性が豊かだという事でもあり、事実彼は既に四枚もの(『過去への旅路』は除く)アルバムで立派にその重荷に堪え、破綻寸前の所で切々と歌う孤独な姿は、聴く者の感動を呼ぶに充分でした。願わくば彼にはCSN&Yなぞを離れてもらい、ディランの辿った辛苦の道を、選ばれた後継者として進んでほしいものだと思います。
これもカナダ人のシンガー&ソングライターで、マレイ・マクロクランの英知と鋭い歌い振りは目を見張らせるものです。時にギター一本の伴奏でも、彼の歌には凛とした空気が漲り、聴き手の感性はその前で、冬木立の様に震えて立ち尽くします。そして彼は今の所、若いディランがそうであった風に“街の”アーティストなのです。もう一人、注目すべきカナダ人を挙げて置くと、スワンプ風なサウンド・スタイルでアルバムを作ったクリストファー・キーニーで、彼の作曲と歌唱とに只ならぬ物が潜んでいるのは確かな事に感じます。アメリカに下ると、ジョン・プラインに対してネキスト・ディランの呼び声は高いようです。その通り、彼の声や節廻しの幾らかは「時代は変る」あたりのディランによく似ているし、仲々の詩人であるし、“歌う”という彼の業は、垂直に、したたかに彼自身の暗黒に立向っています。その意味で、彼は“ディラニズム”を最もプリミティヴな型で備えたいわば“最優秀新人”ですが、彼はその出発にして既に“カントリー”な立場に居ました。そこで、昨今のディランのカントリー的な装いとの類似をもって、ジョン・プラインをディラニストとするのなら、それは正しくありません。彼はサウンド以前の場所でこそディラン的なのです。この様に、ディラン的な気概をその音楽の根幹にこそ据えたアーティストとして、南部の音で身を固めたロジャー・ティリスンは重要です。“歌う”という事で、彼程不器用に、格好悪く、しかし真向からその暗黒に体当りする歌手をぼくは他に識りません。ブルース・スプリングスティーンは又、一聴知性の勝ち過ぎた様な音造りの奥にも、ディラニストの真摯さを保持する人のようですが、ピュアなディラニズムに今も準じ、その通り垂直に真実な訴えの出来る歌手に日本の友部正人がいます。シングル盤「一本道」は抑えに抑えられてなお凄絶、ディラニストの歌として合格です。
さて、精神におけるディラニストはほぼ以上の様なものでしょうが、もしディラン当人のサウンドの変遷に伴ってそのつど輩出するフォロアー達をもディラニストと呼ぶなら、十年この方その枚挙には暇がなかった筈です。たとえば、その十年来のフォロアーとしてエリック・アンダーセンとデビッド・ブルーは有名ですが、彼等とて、各々の最高傑作『ブルー・リヴァー』と『ストーリーズ』では、自己の世界の真実と正しく向い合っており、自然に音はディランから離れ、しかしその時にこそ、ディランにも比較し得る別個の、完成された音楽が出来上っていたのです。その様な意味からは、タウンズ・ヴァン・ザント、デイヴ・ロギンス、ジェリー・ジェフ・ウォーカーなぞもそれぞれに、「この人有り」と心しなければならない人達でしょう。
●ボブ・ディランの周辺の人達
所で、現在のボブ・ディランの音楽傾向、いわゆる“オール・ザ・アメリカン・ミュージックへの回帰”という事を、もうこれ以上彼が変らない最終地点と考えるならば、そうした傾向を持った音楽家達を一群として捕え、その中心にボブ・ディランを置いて眺めてみる事も無意味ではないかも知れません。そうするなら、スティーヴ・グッドマン、ダグラス・サム、ダニー・オキーフなぞの名はすぐに浮かび、これらの人達のアルバム制作スタッフは少しづつ重なり、ボブ・ディラン自身が加わったものもあります。そして、郷愁をモチーフにしている点で共通したこれらの音楽が、機を同じく郷愁に取組むウェスト・コーストのバーバンク・サウンドとは決して同じでない事、イースト・コースト流のしたたかさを持って、ボブ・ディランの伝統を持って、過去に復讐しているのが彼等の音楽である事を最後に記して置きます。
〔『プラス・ワン』1973年11月号〕
遥かなるスワニーの五人の遡行者
●アメリカン・バンドである事
ロックの演奏に女装は不要な事。宇宙的な音楽なぞ有り得ない事。音楽はひたすら官能の下僕ではない事。ロックといえども、未来にではなく、過去にこそその存在を支えられているのだという事。以上の様な事は、かのザ・バンドならずとも、おおかたのアメリカン・バンドが知っています。“アメリカン・バンド”であるという事は今や、国籍を意味するばかりでなく、音楽する意志の基本姿勢を定義しているようです。アメリカン・バンドは、創造行為を自身の感性の具体性の内に限り、その具体性とは過去に抵触する物である事を認め、血と伝統から遊離した所に自分達のロックは在り得ないと考えています。だから、アメリカン・ロックとブリティッシュ・ロックとはそれぞれ、共用に冠せられた“ロック”という呼称を、もう殆んど意味をもたぬまでに引裂きつつ、別個の音楽として進んでいるのです。
“アメリカン・バンドの意志”の顕(あら)われの具体性はといえば、彼等のロックの殆んどの内に、ブルーズの、そしてカントリー・ミュージックの要素を聞ける事です。それは彼等が自分達のロックの置かれた土俵、ブルーズやカントリーという土俵を「よしここだ」と納得し、その通りそこで勝負をしているからで、この意志を持って音楽する事が即ち“アメリカン・バンドである事”なのです。そして生れた音楽の内の“アメリカ”が、ノスタルジックなものであれ、パロディックなものであれ、また挑戦の対象であれ、なべてそれ等の“音”は少くとも、英国においてリンディスファーンやサザーランド・ブラザース・バンドが“英国的”である程度以上には“米国的”だと言って構いません。
●アメリカン・ロックの地域的特殊性
しかし広い米国においては、地域によってその気候も精神風土も大いに異なる事実が反映して、それぞれの音楽は程度の差こそあれ、地域的な特殊性というものをその味わいとして持っています。ウェスト・コーストの音楽であれば、温暖な気候と若く自由な精神風土とか、常に闊達な新しい発想と失われる事のない明るさとに反映し、いきおい音楽的な要素は多様となって、それらを生んだ思考の趨勢(すうせい)は水平的であると言えましょう。また音楽がイースト・コーストのものであれば、都会的理知とグリニッジ・ヴィレッジ流の硬骨振りは今もアーティスト達の音楽態度に残っていて、ブルーズ派であれカントリー・フォーク派であれ、又諧謔(かいぎゃく)を弄する前衛の手合いであれ、皆その音楽に徹するという気概においては共通し、その思考の傾向は垂直です。さて南部の音楽は“ダウン・トゥー・アース”という習性にのみ、貧困や因襲から逃れられない魂ののたうちを表わす術を得ているのですが、しかしその“ダウン”には二つの型がある事、一つはカタルシスを志向するものであり、いま一つは“挑む”という力学に駈られたものである事をここに特記します。前者はゴスペルを基礎としてスワンプと呼ばれる音楽だし、後者は本文に語られるべきザ・バンドの音楽だからです。
●文明と創造/挑むということ
ザ・バンドの音楽が“南部的なるもの”に挑んでいるとは言ってもそれは、政治的な批判をしたり民心の啓蒙を計っているという事ではむろんありません。彼等にとっての南部とは、精魂込めた創造の出来る理由なのです。
時にもし、人間という物が精巧な機械でしかないのなら、この世に芸術という概念や行為も又有り得ないでしょうが、文明は、進歩し、人間が生きる上のあらゆる困難を軽減して来た、まさにその事によって、文明は人間が創造する事の意義をも同様に軽くしてしまいました。それが良いか悪いかはともかく、精巧な機械に甘んじる事を潔(いさぎよ)しとしない、創造という本来の難事にこそ生を見出そうとする人間は今、敢えて前近代的な非合理、取残され封印されんとしている非合理に自身を置くほかはないでしょう。
現代の良識は、南部を米国の“負の世界”と見なします。そう、百年も前に南部人の大義は“近代”によって打破られ、以来、劣等感と貧困とに呪われた彼等は排他的な保守主義の内に閉籠って来ました。しかし負とは外部との相対だから、南部人にとっては負は負でなく、ヤンキー文化による消毒を拒絶しつづけて来た彼等の魂には、“正”の世界の住人からは失われた暗黒が棲み、喜怒哀楽のボルテージは今もそこで、淫靡(いんび)な高さに醸(むら)されています。そして、そういう南部をザ・バンドは、創造のために身を置くべき“非合理の地”と見定めたのでした。
実際、彼等五人のうち四人は南部人ではなく、カナダ人です。その“よそ者”が、創造なぞという酔狂のために敢えて南部を歌う以上、そこでは断じてゴスペル式の“サティスファイ”を演じてはなりません。なぜならあれは、生れながらに暗黒に仕える魂しか持たなかった人間達の“負の祭典”であり、創造行為では決してないからです。ザ・バンドは五人の白人であって、ましてや彼等の求めたものは創造に精魂を込めうる理由、即ち“困難”でした。だから彼等のすべき事は、南部の魂の暗黒を身に受けて更に、その暗黒を凝縮し、ボルテージを高めた音楽を作ること。しかし表現に及んでは、断じて暗黒に仕える事なく、サティスファクションに陥らぬよう、抑えきる事。ザ・バンドが南部に“挑む”とはそういう事だったのです。
●完成された戦いのドラマ
『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』以来、ザ・バンドの発表した一作一作が、他のアーティストに対して言うような意味で、“進歩”の坂道を登って来たとは、ぼくは思いません。なぜなら、そのつど、やろうとした事を完全にやりおおせて終(しま)っているからです。それ等一つ一つが、そういう音楽の完成品であって、総てのアルバムの総ての時間は、彼等の意志に統御されていました。そこで彼等がやってみせている事はもちろん、エクスタシィからサティスファクションに至ろうとする南部的な負の力と、要所々々でそれを抑えんとする音楽家としての力とが繰広げる、時には凄く、時には密かな戦いのドラマでした。では、五つのアルバムとはそれぞれ何なのかというと、それ等はちょうど、ボクシングの試合がフライ級からヘヴィー級までの段階に分けられているようなもので、アルバムを追う毎に、両者のウェイトは上って来たのです。しかしそこでボクシング試合と同じわけに行かないのは、音楽家ザ・バンドは絶対に負けてはならないけれども、簡単に勝ったのでも面白くない、音楽は勝負ではなくて試合内容であるという事です。だから音楽の完成度というものも又各ウェイト毎に問われるべき事であって、ミドル級の音楽だからフライ級の音楽よりもいいというわけではありません。さてそれでは、なぜザ・バンドは自分達の音楽のウェイトを、アルバム毎に上げて行かねばならなかったのでしょうか?
●その戦いの歴史
“日曜日の朝的”と言われる『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のおごそかさには、“南部”を標榜する人間の“ウッドストック的”叡智が滲んでもいました。そして、“南部的でなければならない”決意の底の、殺された悲嘆も。彼等の旅立ちはその様に、出家僧の潔さを香らせながら、既にして“忍苦の誉れ”に包まれてはいたのです。
しかし彼等は、南部の負の力は、もっと強くあるべきだと考えました。最初のアルバムの清らかな“渋さ”を、次には暗くたぎる“苦さ”に変えようとしたのです。そしてそれは、その通りになりました。溢れんとする南部の情念の声と、堪えんとする彼等の意志との拮抗する様は凄く、その苦さは感動的で、二つの力がお互いに真実精一杯たぎっていた事によって、これがザ・バンドの最高作だったとぼくは思っています。
『ステージ・フライト』での音楽家ザ・バンドは、もはや出家僧でも殉教の徒でもなく、余りにも腕利きのプロフェッショナルでした。「一度出来た事を二度繰返すのは安易でつまらぬ」と考えた彼等は、自らの“抑える力”を抑え、声高に“南部の声”で唄って、いわば“一階級ウェイトの重いボクサー”を相手に勝とうとしたのです。そしてそれも、要所を抑える手練の技で、その通りになりました。この時点で、“ザ・バンド解散”の噂が流れましたが、根の無い事ではなかったろうと思います。なぜなら、余りに完璧な三つの仕事のあとに、ザ・バンドの名の許に演じる必然性のあることは、もう残っていなかったからです。
しかし彼等は解散をとどまり、新しい、自虐的な挑戦を敢行したのです。『カフーツ』で彼等は、南部の暗黒が噴出する油然(ゆうぜん)たる負の力の、表現の可能な限りをその音楽に引受けました。以前から彼等の音楽の重要な“隠し味”であったブラス・アレンジメントをニューオルリンズの黒人アレンジャー、アレン・トゥーサンの手に委ね、巌の理性をも疾駆すべきその響きを背に、“ライフ・イズ・ア・カーニヴァル”と唄い、又、アイルランドに生れながら米国南部に挑む同志、ヴァン・モリスンを客演させて“おおベルファストのカウ・ボーイよ、我々を縛るこのゲームは一体何なのだ”と問い歌うのです。だがしかし、彼等はそれも又創造という酔狂である事を忘れてはいず、終始ロープを背負うこのヘヴィー級のマッチにおいてなお、“理知”というストレート・パンチを持って勝者たり得ています。が同時に又、“一体これから我々は何処へ行くのだ”という一曲のテーマこそ、最近作のライヴ・アルバムを越えて今も、彼等自身に答えてもらわねばならない問題である事は変りありません。
『ロック・オヴ・エイジズ』では、ジャズの一流所がプレイするアレン・トゥーサンのアレンジメントを全面に引受けながらも、又ライヴでありながらも、彼等の音楽の完成度というものの微動だにしない事を証明して見せました。およそロックのライヴ・アルバムの内で、これは断じて最高の作です。
しかしどんな卓絶のライヴ・アルバムも、それはぼくがザ・バンドに期待するものではありません。一体これから彼等は何処へ行くのでしょうか? もしまた“ザ・バンド”である事を止めずに、スワニーの濁流を遡りつづけようというなら、彼等自身の力に対抗させるこれ迄とは違った、もっと巨大で破壊的な力を導入する外に道はないでしょう。例えばリフではなく、インプロヴァイズする古いジャズと渡り合うのは、ザ・バンドには良い事だと思います。とまれ、ロックという範疇の南部は、彼等にはもう困難ではなくなっているのだから、暗黒への彼等の真実の抗いを再び聴くためには、南部は更に、その負の魔力を示さねばならないでしょう。もちろんそれも、ザ・バンドの手によって。
〔『プラス・ワン』1973年12月号〕
※一部、かなを漢字に改めるなど、表記に手を加えた。(入力者)
歌と音楽に託して
内向きのコバーン、外向きのマクロクラン
―カナダからきたシンガー&ソングライターたち
ぼく達にとって、カナダはアメリカよりも遠い。アメリカならば、この東京のどこにでもあり、わけてもウェスト・コースト文化の切れ端なら、街中に散らばっている。イーグルスを聴くためにロック喫茶へ行く必要はなく、彼等について識るためにニューミュージック・マガジンを読む必要もない。そんなものなら、スケート・ボードに乗って歩行者天国を走り抜けるだけで解ってしまうだろう。“ウェスト・コーストの青い空”は、いまやブティックの天井に展開しているのだから。
ではイースト・コーストは? 南部はどうだろうか? そこにおいても、シティー・ミュージックが栄華を極めるいま、かつて在った地域的特色を見出すのは難しい。ニューヨークからのビッグ・セールスがスタッフであり、マッスル・ショールズのそれがメリー・マクレガーというなら、広大なアメリカ、日本の若者達の憧れの的であったアメリカは、七七年のレコード店のエサ箱の中で、誰にでも親しめる商品と化して陳列されているに過ぎないのである。
かつて、若者達はシンガー&ソングライターの輩出を歓迎した。歌詞カードに見入り、彼等の唄の世界の内に、自分の像を結ぼうともした。しかし、その音楽が、在来のポピュラー・ミュージックに吸収されようとしているいま、その様な感情移入は対象を失っている。ではアメリカよりも情報量の少ない国、その意味でアメリカよりも遠いカナダはどうだろう? 七七年の七月、初めてカナダから二人のシンガー&ソングライターを迎えた若者達の何パーセントかは、何がしか負の感情を抱いてコンサートに出掛けたに違いない。
しかしぼく達がカナダに注目したのは、アメリカにシティー・ミュージックが蔓延するよりも以前だった。それも、ザ・バンド、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル等の故郷としてではなく、レナード・コーエン、トニー・コジネック、ヴォルディー、そして来日したブルース・コバーン等、一様に内省的な歌を歌う人物をはぐくんだ、非ウェスト・コースト的イメージを代表する“もう一つの国”としてであった。だから、ジャクスン・ブラウンが来た時にL・Aが、マッド・エイカーズが来た時にウッドストックが話題にされた以上に、ブルース・コバーンとマレイ・マクロクランについて“カナダ”が語られたのだ。この事実には、歌とその依拠する土地との有機的な関連に対する、現代人の根元的な憧憬が示されてはいないだろうか? ぼく達は彼等のチケットを買った。
七月九日、コンサート会場はいつも、自分がどこから来たのかを解らなくさせる。それは見知らぬ多くの若者達が、いまなぜここに集っているかが解らないからだ。先に述べた確信は、コンサートの会場にはもうない。「いつからコバーンを識っていましたか?」「コバーンとマクロクランとではどちらが好きですか?」「ジャクスン・ブラウンやトム・ウェイツの時にもいらっしゃいましたか?」まるでプロモーターのアンケートの様な質問が頭に浮かび、決して発せられないうちに音楽は始まる。そして一週間後、ぼくはコバーンとマクロクランに、自分でインタビューしなければならないのだ。
いいコンサートだった。少なくとも、二人は誠意をもって、ぼく達の前でその音楽を演じた。見知らぬ若者達は、よくレコードを聴いているらしく、有名な曲の始まりには拍手を送り、「その曲は識っています。そして好きです」という意志を表明していた。しかし、どうしてそんなに識っているのだろう? コバーンもマクロクランも、日本のレコード会社は熱心にプロモートしてはいなかった。それにもかかわらず、このコンサートはパルコにも掛かったのだそうである。
アメリカにせよカナダにせよ、シンガー&ソングライター文化が喚起した“歌とその故郷”は、独りよがりの“片想い”が独創した、はかない絵ハガキの世界ではなかっただろうか?
ホテルの小さな部屋で、コバーンもマクロクランも気さくで普通の人だった。もしぼくが英語で話せれば、彼等もそのままでいたかも知れない。一応の席に着いた。マクロクランは質問を待ち受けるように瞳を光らせ、コバーンは静かにうつ向いて、インタビューが平穏に運ぶことを願っているようだ。しかしぼくの質問は、(通訳の女性は極めて優秀であったにもかかわらず)彼等を“スター”としての無難な立場へと追いやった気がしてならない。
――たまたまカナダに生まれ着いたという以上に、カナダという国を思っていますか?
C(コバーン) 生まれたという事実も大きなファクターだが、それ以上の親しみを持っている。カナダという国は多くの可能性を持っているんだ。くる所まできたという国と違って、カナダはどこへでも行ける。そういう希望がある。
次の質問へ移ろうとしたぼくに、マクロクランが「ぼくにとっては」と言って発言して来た。彼はその後の質問に対しても、コバーンの次に答える時は常に、この「ぼくにとっては」をまず言い、それが彼の見解であることを区別し、強調した。
M(マクロクラン) 今までのインタビュワーにもカナダのことばかり聞かれた。他の国との基本的な違いはまずスペースの問題だと思う。広い土地に少ない人口という環境は、精神生活への影響も大きい。例えば深刻な問題に悩んだ時でも、カナダでは物理的にどこかへ逃げることができるんだ。これは平常の生活にも大きな意味を持つ。世界的な問題に対しても、カナダ人には離れた場所から見る性質がある。
C だからって、カナダ人が世界情勢に興味がない訳じゃない。
このやりとりは面白かった。なぜなら、コバーンの言いそうな事をマクロクランがいい、マクロクランの言いそうな事をコバーンが言ったからである。
――今回のコンサートに集まった人達が、森や雪や湖といった、カナダのイメージの結晶としてあなた方の音楽を捉えているとしたら?
C 必ずしも正しくはないが悪い気はしない。それが理想的なカナダだろうが、そうでない部分もぼくは知っている。
コンサートでのコバーンは、その耽美的なシンギングも巧緻なギター・テクニックも、一種の宗教的自足性の内に閉じられていた。
――マクロクランさんの場合は、カナダの自然への耽美主義から、あえて逃れようとしていると感じますが。
M 誰でも異国の自然にはロマンティシズムを抱くものだ。しかしぼくの音楽は人間的な葛藤、哲学的な意味を追求している。自然を無視してはいない。その影響は大いにあるが、自分の音楽ではそれ以上に言葉が重要だ。レコードを聴くとまずサウンドが耳に入り、それが音楽的イメージを決定しがちだけれど。
――シルバー・トラクターというバンドを結成したのは、それにどう関連しますか?
M 大きな理由は音楽的な行き詰りを感じたからだ。独りでやりたいという事から始まって、それがある所まで行くと、自分一人では出来なくなった。他人の要素が必要になったわけだが、これは昔から考えていた事が実現しただけです。
――コバーンさんはマクロクランさんが、行き着く所まで行ったという事をどう思いますか?
C 彼がある限界に来たとは思っていなかった。しかし、シルバー・トラクターを結成した事は自然な成り行きだっただろう。彼の音楽を聴いてきた者にとって、彼の変化は急激ではなく、ベースが加わり、フィドルが付くといったゆっくりしたものだった。他人の音楽がどうあるべきといった考えはないが、彼の変化は良かったと思う。
マクロクランも変化したが、コバーンも変ってきた。『夜のとばり』での彼は、リズムへの試み、ジャズ・トランペットの導入など、意識して変ろうとしていると思う。
――あなたの場合も、ニュー・アルバムでは新しい試みを行っているが、そうした事が必要だったのですか?
C 特には飛躍を考えていないが、いつも新しい事を試みるのは私の基調だ。ジャズは昔から身近で、ギターのテクニックの上達に従ってそれが表われてきていると思う。
彼のギター・テクニックは、その様に謙虚な表現に相応しいものではなく、むしろマニアックな域に達している。
――ミュージシャンというものは、テクニックが上達すればする程、加速度的にそれを試したがる性があります。それが具体的に音楽となった場合の、一種の落し穴について考えたことがありますか?
C その問題は考えているし、避けようともしている。失敗する場合もあるが、私はすぐに飛び込まず、よく考えてやっているつもりだ。
「ぼくにとっては」と、またマクロクランが言った。
M 落し穴という考えは、音楽だけじゃなく、あらゆる芸術について言えます。概念の形成は瞬時のひらめきの場合と、あれこれ考える場合とがある。後の方の場合に、その落し穴に気を付けなくてはならない。ぼくがバンドを作ったのも、とりたてて新しい挑戦ではなく、他人もぼくの音楽を表現できる、多くの人の持ち味が集合される事で、自分では想像できなかった結果を生む、そこがエキサイティングだったからです。
マクロクランはさっき、自分の音楽に限界を感じたから変ったと言った。そしていま、他人の要素が加味される事に興味が湧くと言った。
――それぞれのニュー・アルバムは、現在の方向をもっと推し進めたものですか?
C ある方向を一歩進める、という捉え方には危険があると思う。私は気ままに音楽しているつもりだから、それにどの方向といったレッテルを貼られたくはありません。今度のアルバムは小さなバンドとのツアーのライヴで、ジャズっぽいものもあるし昔ながらのものもある。いろんなことが私の内で起っていて、それがそのままアルバムになるのです。
こうした話を聞くとき、ぼくは自分の質問が、この誠意ある異邦人を“スター”の立場に追いやってしまったと感じる。この様な答えは、どんなアーティストでも発する、いわば挨拶のように当り前のものなのだ。マクロクランのシルバー・トラクターの二枚目を、昨日聴いた。予想通りにハードなロックとなっていて、そのサウンドの内の彼は、これまでの六枚のアルバムよりも存在感が稀薄だった。だが、このインタビューの時点では、それを話題にする術はなかった。
――来日するまで、日本でお二人の音楽を熱烈に聴いている人達がいる事を御存知でしたか? アメリカのシンガー&ソングライター達が日々失って行くピュアなものを、あなた方が保持していると考えられていますが…。
C 思ってもみなかった。
M アメリカのシンガー&ソングライター達が失って行くものというのは、商業ベースに乗ることで失ってゆくもののことですか?
――その通りです。
M よく理解できない。ぼくはアメリカの動向に非常に興味があるし、ジャクスン・ブラウン、ジミー・バフェット、ジョン・プラインなどもよく知っているが、アメリカがこうでカナダはこうという事が解らない。ぼくが歌うというのはお金に結びつくけれど、お金のために歌うのではない。歌を書く行為のルーツは変らない。商業的に成功するかどうかは単なる結果であって、大きな問題ではないと思う。アメリカ人の曲にも、ぼくに訴えるいい曲は幾らもあるし、いい曲ならたいがいヒットもする。商業的結果だけを取り上げて考えずに、その人間が持っているものを評価して欲しい。
この様に語る時のマクロクランは、親を説得しようとする少年に似た気迫を放つ。一語一語をはっきりと、眼差しはしっかりと相手を捉え、必要以上に信じてもらいたがっているのだ。彼のステージを観た人は、理解されたい彼の欲求が、少年じみた執拗な誠実さとなって表われていたのを御記憶だろう。会話もそれと同じだった。彼の弁舌の明快さの裏には、誤解される事への恐怖に近い感情が、常に潜んでいたのである。
コバーンはそうではなかった。ベッドに座り、眼鏡の奧から自分の指先を眺める彼の誠実さは、解る、解らないといった人間関係への、一種の諦念を前提とした誠実さであった。マクロクランは解ってもらわずにはいられない。コバーンはともかく自分自身である。それがこの、二人のカナダ人の相違であるのだろう。
コバーンに別の用事があるというので、彼に最後の質問を向けてみた。
――あなたのステージからは宗教家のような印象を受けましたが…。
C 大きな問題で簡単には言えないが、宗教はなぜ私が歌を書き、そして歌うかにとって重い意味を持っています。
――クリスチャンですか?
C そうです。
――ライフ・スタイルの中心にそれが在るのですか?
C 理想的にはそうです。でも現実的にはそうとも限りません。
コバーンは行ってしまった。
――マクロクランさんはスコットランドの生まれと聞きましたが、あなたの歌には、歌唱に対しての執着の強さに、スコットランドのシンギングの伝統を感じるのですが。
M スコットランドでは、ウィスキーを“命の水”と言います。酔っぱらうために飲むのではなく、会話を楽しむ手段としてそれはあります。この習性はイングランドにはない。だからぼくがはっきり歌うのは、自分をはっきり相手にコミュニケートするためで、それは強く意識している。
こうして話してみて、彼のこの性格は、民族的なものと言うより個人的なものだと思う。彼にスコティッシュのトラッドを歌わせたらどうだろう? しかしその質問は、彼を面喰らわせると思って止めた。それよりも、現在の音楽界の動向については、会う前から聞いてみようと思っていた。
――シンガー&ソングライターというものは、時代の風潮から生まれたものでしょうか? あなたも含めて、彼等は何十年も歌を作り続けられるのでしょうか?
M 芸術にはサイクルがあると思う。例えば三〇年代のアメリカでは文学が興隆し、フォークナーを初め幾多の作家が輩出した。ぼくの場合にはヴィジュアル・アートにも関心を持っている。アーティストというのは、自己表現をしたい人間の質で、それがたまたま音楽だったりするのだと思う。
ここで彼から質問を受けた。日本では宗教がどんな社会的意味を持っているか? というのだ。宗教が個人生活を律している例は少ない事を説明したが、これで話が変ってしまった。
――あなたもクリスチャンですか?
M 違います。西洋の宗教はいろいろ知っているけど、自分に信じられると思ったものはない。ぼくは宇宙との関連で自分を捉えている。すべての存在は相対的であり、明日はもういないかも知れない自分もその一物なんだ。ある宗教やある哲学を選ぶつもりはない。
彼のこの言葉は、ぼくが少年だった頃、一〇年ほど前の若者達が好んで口にしたそれを想い出させた。ロックという音楽とヒッピーという人種が時代の主役となって以来、この思想には久しく御無沙汰していた。
――コバーンさんの場合は、閉じられた自分の世界を歌う傾向を持っていると思う。しかしあなたの歌は、聴く者にダイレクトに飛び込んでくる、外向きの志向を持っていると思いますが。
M 実に真実をついていると思う。彼は非常に内向的な人間だ。ぼくはそうではなく、たとえ失敗に帰しても、いろんな世界に行っていろんな事をやりたい。カナダには複数の宗教も言葉もあり、そのコントラストは際立って見えるかも知れないが、ぼくとブルースとの違いはそのためではない。人間のタイプが違うんだ。彼とは、人生の問題について意見が合わないことが沢山ある。そんな話をすると、一晩かかって、ウィスキー一本くらいは空いてしまうよ。
コバーンが居なくなってからも、マクロクランは会話への興味を絶やさない様に見える。彼の発音の明確さと眼の輝きは、いつも一つの緊張感で結ばれていた。
――日本で最も知られたカナダのアーティストはレナード・コーエンですが、彼を初めとして、カナダの音楽は音がシンプルで、自分の世界を簡素に創っているようですが、それには理由があると思いますか?
M カナダ人はアグレッシヴではないのです。それが理由ではないでしょうか。例えば、野球でいえばカナダはメッツであって、ヤンキースではない。それで結構じゃないですか。レナード・コーエンについては、彼はカナダ人であると同時にユダヤ人です。ユダヤ人の過去を背負ったアーティストとして、彼を見るべきでしょう。
――ルーク・ギブスンを御存知ですね?
M よく知っています。彼はいま、オンタリオの近くのコミュニティーにいて、そこは外部との接触がほとんどありません。彼は新しいアルバムを出す事に、現在は興味がないようです。
――レイ・マテリックについては?
M カナダでのレコード・セールスは上手くいっている。しかし、彼のハートはとても暖かいのだが、出てくる言葉や態度はなぜかシニカルなんだ。
――トニー・コジネックは?
M 彼もユダヤ人だ。そしてコーエン以上にユダヤ教的で、コバーンのように内向的で、もの事を真面目に考える。付き合い易いタイプではないな。ところで、ジョニ・ミッチェルやニール・ヤングは、アメリカのアーティストとして考えられているのですか?
――彼等がカナダ人であるのは誰もが識っていますが、カナダのアーティストとしては、あまり扱われていません。
M 彼等は、アメリカ人として考えて欲しくないと言っています。
――ザ・バンドの連中もそうですか?
M 同じです。
――これまでに挙げたアーティスト達は、互いに連体意識を持っていますか?
M 物理的に近いわけではないけれど、シンガー&ソングライター同士の仲間意識は強い。ぼく達は少ない言葉で、なるべく多くの事を言おうとする。そうする苦労は、仲間だからこそ理解し合えるもので、その意味での親近感は強い。(※4)
――カナダのアーティストにぼく達が期待している事は、いつまでもヤンキースにはならず、メッツのままでいて欲しいという事です。
M ぼく自身もそう思っています。
しかし彼等だけが変らないとは思わない。現に新しいアルバムは変っている。彼等の日本公演は、ぼく達がシンガー&ソングライター文化に託してきた想いの、最後のゆらめきだったかも知れない。
〔『ニューミュージック・マガジン』1977年9月号〕
どんどんポップになって来たボズ・スキャッグス
―シティー・ボーイたちよ、どこまで付いて行く?
ボズ・スキャッグスはいま、大きな意味を持つアーティストだ。世間的には、シティー・ミュージックのヒーローとして。そしてぼくには、理解のできない征服者としてだ。その二つの相違から、彼こそが、おもしろからざるロック状況のシンボルのように映る。今日も大勢の人達が彼に従って行くのだろう。
四年前、七四年、ぼくはロックが大きく変って行くことに気付かずにいた。見事にソフィスティケイトされたジャケットの、ホーンやストリングスでふんだんに飾られた『スロー・ダンサー』が、その後のロックの方向を暗示しているとは思わなかったのだ。当時、ボズ・スキャッグスは特別なスターではなく、ぼくにとっても大きな疑問でもない、それなりの魅力を持つ存在だった。疑問については後に譲るとして、彼の魅力はまずそのヴォーカルにある。表現の巧みさ以前に、真夏の草いきれのようにムッと匂う、土臭いエロティシズムが彼の特質だと思った。それは南部系のどんなパワフルなシンガーとも違うもので、トニー・ジョー・ホワイトでは野暮ったいと思う女の子にもアピールする、一種の甘さをも含んでいた。それが後に“メロウ”と称されることになったのだろうが、彼が元来“都会的”で“洗練”されたアーティストだったとは思わない。ボズ・スキャッグスの音楽に聴く都会性は、そこに些か不釣合な主人公を浮び上がらせる背景としてあり、彼とアレンジメントとは、ちょっとユーモラスなコントラストをつくってきた。その意味からすると、彼とサウンドとの関係が、完全にスターと銀幕のそれにまで固められたのが、ソロ五作目のこの『スロー・ダンサー』だったと言える。ここからの彼にはもう、ズッコケることは許されていないのだ。このアルバムについて、モータウン・サウンドの写しである、という声もあった。しかしソウルに無知なぼくは、「ずいぶん思い切ったことを始めたなあ」と、ただ物珍しく眺めるばかりだった。
しかし本当は、従来のおおらかで、垢抜けないままに助平そうな彼が、ぼくには面白かった。一体、ボズ・スキャッグスへの関心がどうして始まったかというと、そこにはウェスト・コースト・サウンドなるものへの飽食、という前提がある。七〇年代も、二、三年を経た頃、L・Aを中心としたシンガー&ソングライター文化は日本にも定着し、似た様なスタジオメンによる、主役だけをすげ換えたようなアルバムが量産され始めた。それ等の多くは明るく、健康的で、“カリフォルニアの青い空”に対する若者達の信仰を駆り立てていた。こうなると勝手ながら、「CSN&Yの系統にはもう期待すべきものは無い」だの「ウェスト・コーストの坊や達の音楽はオメデタイ」なぞと、ぼくは言ったり書いたりした。その時既に、ぼくの興味はより泥臭いロックへと移り、南部、および南部的な音を注目していたのだ。スティーヴ・ミラー・バンド以来、サンフランシスコをフランチャイズとするボズ・スキャッグスが、アトランティックからのソロ・デビュー・アルバムをマッスル・ショールズで録音したのは六九年。これは、白人アーティストがここでアルバムを制作した走りであり、世にスワンプ・ブームが巻き起こるよりも以前であった。周知の通り、ここにはデュアン・オールマンが参加し、「ローン・ミー・ア・ダイム」という“名演”も生まれたが、それは六九年という時代の産物であったと思う。ぼくがいまもこのアルバムを好むのは、ボズの悠長な図太さと、マッスル・ショールズらしい泥臭さとがマッチしたA面によってだ。これを最初に聴いたのはコロンビア盤よりも後だったが、ともかく、ボズ・スキャッグスとはこのように、早くから南部的なる物に目を向けた人だったのだ。
しかしこのデビュー・アルバムは商業的には成功せず、彼はコロンビアに移籍して、サンフランシスコで結成したバンドと共に『モーメンツ』、『アンド・バンド』という二枚を発表した。共にプロデューサーはグリン・ジョーンズであったが、前者は地元で、後者はロンドンで録音されていた。ぼくの好むのは『モーメンツ』の方だが、それはここにはまだ、カントリー・フレイヴァーと共に彼ののどかさ、おおらかさが残っていて、洗練された、とはとても言えないからだ。ロンドンでの『アンド・バンド』は、タイトル通りにバンドらしいタイトさが出てきて、リズム面からも黒人音楽への志向が顕著になっている。ボズ自身も、こうした行き方をバックにしての、自分のヴォーカルのパワーと表現力に自信を得たらしく、厭味でなくナルシシズムをものぞかせるようになった。
その自信の為せる業か? 彼は再びソロとしてマッスル・ショールズに下った。たしか七二年のことだったと思うが、この録音は、ある意味でその後のマッスル・ショールズを予言していた、といま思う。“メロウ”の誕生が、初めて意図された形でここにあるからだ。当時の認識からすれば、「マッスル・ショールズにしては甘いな。やはりサンフランシスコ人向けの音造りなのかな?」といった感想が大勢だったが、しかし、“サムシング・ニュー”に敏感な人達はこの『マイ・タイム』に喰いついた。『シルク・ディグリーズ』のヒットが公明正大なものとすれば、これはその二枚前に起きた、訳知り連中における内輪ヒットと言えるだろう。このアルバムに聴ける、甘さと男臭さとの演出されたバランスは、生暖かくも実にユニークであり、面白い。以後、マッスル・ショールズはスワンプ・ロックの聖地であることを止め、次々とメロウなアルバムを送り出すが、遂に『マイ・タイム』ほどに的を射たものはなく、いたずらに厚化粧を重ねてきたように、ぼくには見える(ドニー・フリッツの『プロン・トゥー・リーン』等、例外的な“本来の作”もあるが)。
ボズ・スキャッグスは白人として、南部に目を向けるのも早かったが、転じるのもまた早かった。しかし、黒人音楽の意匠に対する執着は変っていない。マッスル・ショールズからモータウンへのステップは、R&Bからソウルへの移行と言えばいいだろうか? 七四年、ジョニー・ブリストルをプロデューサーとして、ここに先述した『スロー・ダンサー』の登場となる。いかに上手く造られた『マイ・タイム』とはいえ、そこに野暮と粋とのブレンドがあったからこそ喜んだぼくにとって、この完璧な変身振りは驚くべきものだった。彼は全身から雫をしたたらせながら、渚から上がってくる銀幕の住人だったのだ。それでもぼくは、これはこの場だけの彼の遊びだと思っていた。だがボズ・スキャッグスは本気だったのだ。そしてこの文章の真の目的も、次の『シルク・ディグリーズ』にこそ関わっている。
七六年。この年はロックにとって、同時にそれを仕事の種とするぼくにとって、ターニング・ポイントとなった年だ。「面白い新譜が少なくなったね」という声がそろそろ出始めていた。ぼくもそれに同意していたが、そう言う人間は、自分の感性が古びつつあるのに無頓着だった。「メジャーが駄目ならマイナーを聴こう」なぞと、米国北部のマイナー・レーベルを漁り廻ったが、ぼくも含めて、そのとき土俵際に詰められていたのはこっちだったのだ。サミー・ウォーカーのワーナーからのデビューに喝采を送り、「ほら、まだこんな人だっている。いつか再び……」という考えは甘かった。せっかく売れるようになった商品を、わざわざ売れないものに戻す商売は、この世にない。『シルク・ディグリーズ』が発表されたとき、「全く面白くない。乗り過ぎのやり過ぎである。却下!」と断じて、その後の嵐なぞ案じてもみなかった。“モータウン”からジョー・ウィザートの“フィリー・サウンド”に変ろうと知ったことではない。自分とは無関係な音楽を包んだ、ジャケット写真だけが非現実的に美しかっただけだ。
『シルク・ディグリーズ』がどんな成功を収めたかは、もう語る必要はないと思う。「ロウダウン」を、「リド・シャッフル」を一瞬想い出して頂けば結構だ。ともかこのアルバムは、ぼく及び幾人かの人達に、己れの感性がロックのすう勢からとり残されたことを教えた。なぜなら、乱暴に言えば、その後は総てが“シルク・ディグリーズ”となったからである。七七年、ロック・アルバムはいちいちターン・テーブルに乗せて針をおろすものではなく、カー・ラジオか喫茶店の有線放送から、自然に流れてくる音楽に“成長”したのだ。それにすねて背中を向け、マイナーのレコードに耽ることが出来たのも束の間だった。いまやファイロやラウンダーといったレーベルからも、立派にナウ[#「ナウ」に傍点]な新譜が登場している。こうして見ると、もうロックに対して、ああだこうだと注文を付けることは不毛だ。それよりも、『シルク・ディグリーズ』に代表されるシティー・ミュージックに夢中になれて、“スウィート&メロウ”なサウンドに心酔できる人の感性そのものを、ぼくは研究しなければならないらしい。頑固なつもりのぼくも、「スウィート&メロウなぞ嫌いだ」とばかり言い続けていても面白くないし、なぜそれが受けるのか不思議なのだ。ロックの一部にそういうものがあることは一向に構わない。一方に自分の好きなものが生きていればいい。しかし、理解できない音楽に大勢を占められている状況は恐ろしくなってきた。ここに書いている通り、「嫌いだ」は約一年を経て、「理解できない」に退歩している始末だ。
苦々しくも寂しいことがある。それは年寄りでも子供でもなく、共にディランを、ザ・バンドを、即ちロックを聴いてきた人達が、『シルク・ディグリーズ』を契機にシティー・ミュージックのファンになって行くことだ。どこがいいのかを尋ねてみると、決って答えは「心地よい」からだという。これは大変心地悪い。「心地よい」とはどういうことなのか、感性の鈍いぼくには解らないのだ。そこでもう少ししつこく質問して行くと、どうやら浮び上がってくるのは、“ポップ”という概念の相違である。或いは概念を捉える立場の相違も重なっているかも知れない。ぼくがポップという言葉を使うのには二通りの場合がある。一つは単に“ポピュラー”の短縮で、それ以上の意味はない。もう一つはシリアスに対峙する“ポップ”で、しかしこの対峙は真正面ではなく、やや斜めの精神によって成立する。広義にはパロディもこのポップに含まれる。つまり、シリアスなものに対する認識があって初めて発する精神のポップだ。シリアスを正とすれば負の概念と言える。この意味から、『シルク・ディグリーズ』はポップではない。
おそらく、ぼくのこのポップ観がもう古いのだろう。仮に『シルク・ディグリーズ』をポップとするにしても、なぜ皆こうポップばかりを歓迎するに至ったのか? シリアスな音楽の復権を!なぞと言うつもりはないが、本来ポップなものほど飽きられやすい筈なのに……。これはやはり、ポップの概念を改める必要がありそうだ。唐突だが、こう書いているぼくにして、現在日本のロックよりはピンク・レディーの方がずっと面白い。彼女達が従来の歌謡曲に対し、斜に構えてあんなことを演っているとは信じられない。あれは一生懸命なのだ。いわんや歌謡革命でもないのだから、一つに飽きても、次々と面白ければいいではないか。ボズ・スキャッグスにしてもそうだ。『シルク・ディグリーズ』で行われたことに、革命的なことなぞ何一つない。あの音楽のポップさは、正にポピュラー・ミュージック本来のポップさであって、その職人芸の範疇において色々と新しかったのだ。そこでエンタテイナーに成り切って、真剣に歌うボズの姿は名人の域に達しており、青臭いシンガー&ソングライターなぞよりは遥かに魅力的ではないか。情熱、哀感、倦怠と表情は機微に富み、サウンドは絢爛と変化して単調に陥らず、緩急自在のリズムは常に躍動を促す。これこそが成熟した大人のロックだ。そう、家出少年に過ぎなかったロックは、ここに大成して故郷に錦を飾ったのである。
そしていま、最新アルバム『ダウン・トゥー・ゼン・レフト』を聴き始めた。「バックはティン・パン・アレイかな?」そうではない。ハリウッドの一流本場ものだ。プロデュースは前作同様ジョー・ウィザート。しかしさすがに趣向は同じではなく、まず、全編流麗にして軽妙なことが目立つ。リズム、キーボード、コーラス、ホーン、ストリングス、エコーの使い方と、いずれについてもユーモラスな配慮が施され、ボズの恋歌の数々を意識的にチープに装わせたセンスがポップだ。ボズはといえば、「恋なぞ元来チープなもの」といった風情で、昔のようには力まず、ファルセット気味にサウンドを乗りこなしている。
このアルバムを頭で聴こうとしてはいけない。メロウな曲はメロウに、ドライヴする曲はドライヴし、ボズと同じスピードとリズムに身を任せればいいのだ。特にB3の「ギミー・ザ・グッズ」なぞは、総てを忘れてバカをやることの痛快さとほろ苦さとを味わわせてくれるだろう。
それで、『ダウン・トゥー・ゼン・レフト』は面白かったのか? 「少しも面白くない」と答える以外にない。七二か七三年以来、まるで新しくならないぼくの感性は、正直にいってここまで付いてはこられないのだ。野暮なわりに助平そうだったボズ・スキャッグスはここにはいない。前作にさえあった、「ハーバー・ライト」のような味わい深い曲もない。再びぼくは、ナウなフィーリングについて研究をしなければならないようだ。“スウィート&メロウ”とは何なのか? それは二〇分間の天然色恋愛映画を観ながら、明日のことを考えない心のファウンデイションだ。“シティー・ボーイ”とは誰のことだ? たぶんそれは、故郷を忘れるにはこのアルバムを聴くのがもってこいの、笑顔でハンバーガーを食べてるあいつだ。何も悪いことはない。すべてはOK。ただ、ボズ・スキャッグスがポップになったというよりも、むしろ聴く人間がポップになったのだろう。現実の勝利者はボズだ。あんなに大勢の人達を連れ去ったのだから。
〔『ニューミュージック・マガジン』1978年2月号〕
ザ・バンドの声はきこえる
“ザ・バンド”という、横柄な名前のバンドが在った。およそロックを聴く人間なら識らない者はいない。ぼくにとっても彼等は、ロック音楽の最高形態を、かつて意味した。
ザ・バンドについて書こうとするとしかし、気持が力み返り、筆はこんがらかって行くのが常であった。挙句に文章はコチコチのものになるが、それ自体、彼等の音楽の特質からくる、聴き手への呪縛力を表わしてもいた。七〇年代初頭までの彼等のレコードに、ぼく達は重圧を感じ、それを歓び、歓びを表現しようとして苦しむまま、「顔が歪む」なぞと言って通じ合っていたのだ。四人のカナダ人と一人のアメリカ人のロック・バンドが、ウェスト・コーストではなく南部に着目し、ヤンキーに蹂躙されていく南部人の哀感を歌う姿。それはあの六〇年代から七〇年代への、文化的ダムの決壊の渦中深く潜み、やがて本流となって浮上し、太く堂々と流れ始めた。しかしその本流もいま、海へ行き着いて拡散している。一九七六年の秋、彼等は“ラスト・ワルツ”と題したコンサートを最後に事実上解散し、翌年、置土産としての八作目のアルバム『アイランド』を、忘れ物の様に発表した。
彼等がカウンター・カルチャーとしてのロックを信じなかったことは有名である。しかしザ・バンドは、重要なロック・バンドの地位を守り通した。「休日は普通の人と同じ風に、木立の揺らめきや、飛んで行く鳥達を眺めて過ごす」と語るこのスターを、“ミステリー・トレイン”の著者グレイル・マーカスは、ザ・バンドこそが真にロック&ロールの運命を知り、かつ“新時代のロック”の幻想を見透していた、と評する。九年前、当時のジャズに見切りをつけ、俄かにロックを聴きだしたぼくにとって、この世界は新奇さと陳腐さで混沌としていた。そこに現われ、厳然たる価値を明示したのも彼等だった。ザ・バンドは保守的だったのだろうか? そうかも知れない。だがぼくの識る限り、「ロックはエキセントリックであるべきだ」と日頃唱える幾人もが、彼等の前では沈黙した。
ザ・バンドに対して、ぼくの態度はいまも変らない。しかし彼等は変って行った。彼等の音楽する態度の余裕、それが幅を拡げて行ったのだ。川が河口に近づくにつれて、広く穏やかに流れるのに似ている。流れそのもののせめぎ合いが消えた。だが、こと彼等に関する限り、その後期に対しても批判を耳にすることがない。なぜだろう? 彼等の為す事は総て良しと、頭から疑わないのだろうか? 過去に貰った貯金が、まだ有余っているのだろうか? そういう人もいるかも知れない。しかし、実情はもっと深刻であると思う。昨年一一月号で浜野氏が「ものみなポップス化してゆくこの時代」と呼んだ現状にあって、ザ・バンドさえその例外ではなかったからである。そして、ポップの海へ溶解して行く事こそ、彼等が知っていたロックの運命であったかも知れないのだ。
現在、なお音楽と付き合って過ごすには二つの態度が考えられる。一つは、永年ジャズを聴き続けてきた人がする様に、かつて良かったものだけを信じて、その価値観に固執すること。ザ・バンドについて言えば、ぼくの場合二作目(無題)を最上とし、三作目『ステージ・フライト』までを、以降よりも良しとする。もう一つは、いまからのものを、過去のものと比べる思考を捨てることだ。世の中これ総てポップとすれば、ポップ内の新しいポップ観が生まれてくるかも知れない。こんな理屈は今に始ったことではないとも思うが、しかしかつてのポップは、ポップでないものが存在したからこそポップであった筈だ。
それにしても、後者を実践するのには、向いた人と駄目な人がいるだろう。しかし、これが重要なことは認める。周囲の人間を見ていると、かつて初期のザ・バンドをこよなく愛しながら、いまは“今”のものが一番好き、というのが幾らでもいる。これからは、こういう人にこそ目を向け、研究の対象として行く他はないだろう。
メムバー一人一人が卓越した技量と個性を合せ持つザ・バンドは、解散以前からそれぞれのソロ・アルバムが望まれていた。そして昨秋、その一部が実現し、まずドラマー、リーボン・ヘルムのアルバムが登場した。五人のうち唯一人のアメリカ人であった彼は、かつての虚構のアメリカから逃れ出て、ここで素肌を風に晒している。ヴォーカルの堂々とした様は変らないが、しかし、バンド内できしみ[#「きしみ」に傍点]を立てていた彼の方が、身軽になった今よりも存在感が重かったようだ。ニュー・オールリンズ風のアレンジには、どこか楽天的な響きがあるからだろう。
ベーシストのリック・ダンコが後を追った。こちらの方が全体に簡素な造りで、しかし深みがあり、彼の哀調を帯びた“男”のヴォーカルが活きていて好ましい。ボビー・チャールズのアルバムに通じる面もあり、ザ・バンドの一人一人を、少しでもその原点から拡散させたくない向きは、B面にその想いを託すといい。
昔からぼくは、ザ・バンドのアルバムを、他とは比較しなかった。今回の二枚も、現状に於いては極立って光る。しかし彼等の作品の内で位置づけるとどうだろう? いずれにしても、「もしソロを出したら、一体どんなだろう?」と夢想させた時代からは遠く、「たぶんこんなだろう」と予想した範囲を超えるものではなかった。と同時に、最後の『アイランド』よりはずっと生命感に溢れている。それ程、末期のザ・バンドには、“演りたい”と思う事が無くなっていたのだ。ロックの彼方のロック&ロールからやって来た彼等は、その運命に従うことで解放を得たのだろう。八年も九年も昔の彼等と比べるのは止めよう。ここにはこうして、ザ・バンドの声が在るのだから。
〔『話の特集』1978年2月号〕
マイナー志向
「ロックはもう面白くない」と、ぼくやぼくの囲りの人達は言う。そして、別の場所に立つ人は、「遂にロックが一般大衆をも制覇した」と豪語する。黒白を着けるつもりはない。視点が、つまりは立場が違うのだ。ある立場から見ると上昇中のロックという音楽が、角度を違えると落下しつつあると写る。“落下派”は、かつて気に入りだったアーティストが、グラミー賞に輝けば興味を失う。もし彼が情報に敏感なら、ノミネートされただけで疑いを抱くだろう。しかしここで語りたいのは、グラミー賞と聞いて、「音楽産業の資本主義にからみとられた‥‥」といった、常に陽性な見識を準備した人のことではない。いわんや、“グラミー賞”の受賞を知るまではそのレコードが好きだった人でもない。問題なのは、流行にも反流行にも、価値観の安住を見出せない精神の所在である。
まだテレビが入って間もないころ、「日曜なのに、なぜ詰まらない番組ばかりなのかしら?」と、新聞を開きながらわが母親が言った。「日曜は一番たくさんの人が観るはずなのに?」。「だからこそ詰まらなく造ってあるんだよ」と中学生のぼくは応えた。「どうして?」「たくさんの人が喜ぶものが面白いわけがないじゃないか」
これは健康な発想ではないだろう。もちろんその発言は苦笑を期待したものだったが、ここには既にメジャーに対する懐疑がある。念のためにいうとその懐疑は、受け手にではなく、送り手の側に向けられたものだ。メジャーとは一体何なのか? 巨大で強力な存在。しかしそのアイデンティティーは見当らない。なぜなら対象が不特定多数だからだ。メジャーの方法論というものがあるとすれば、それは“権威ある紋切型”である。権威のない紋切型は最低だ。紋切型こそ権威を必要とし、権威こそ紋切り型であるべきなのだ。そう、メジャーはメジャーらしく、いつまでもその型を守っていてほしいと、ぼくは切実に思う。
なぜなら、メジャーが頑迷なままでいてくれないと、ぼくのようなマイナー志向の人間は、立つ瀬がなくなってしまうのだ。マイナーとは、メジャーがあっての存在である。シンガー&ソングライターのヒューマニティーといい、南部のダウン・トゥー・アースといい、北部のシンプリシティーといい、果てはジャマイカのレゲエとまでいっても、所詮メジャーの淫乱な食指に触れたら最後なのだ。もっとも、マイナーなロックを聴いてきた人間にとって、レゲエへの転身は第三世界へのメイフラワー号であったから、白人音楽の重箱の隅を探る作業とは根本的に異質だったとはいえる。偶然ながらも象徴的に、ぼくはボブ・ディランの最終公演を拝ませて頂いた翌日にジミー・クリフを観てやった。ちなみにジミー・クリフは、ボブ・ディランの日本での“ショー”に出掛けて感動したそうだが、ディランは新宿でショッピングをしただけだった。しかしステージでディランは、自らの曲をレゲエで演じたし、その他の曲のアレンジも、聴衆に内在する法悦境への服従を誘い出す目的でレゲエに通じた。音楽のその源初的機能において、クリフのレゲエはディランのロックに勝っていたと思う。だが、レゲエもまた既にプリミティヴな音楽のままではなかった。クリフと双璧を成すボブ・マーレーも、英国に渡ってポール・サイモンのようなレゲエを演じている。あの小さなジャマイカの島のなかで、レゲエはどうやってメジャーの追求から逃れ廻るのだろう? 「メジャーになると駄目になる」この意固地な貞操感覚は、マイナー・ロックの徒が、数年来の失地の歴史から身に着けた、哀しい強迫観念である。だから、ハード・ロックに対するマイナーであったシンガー&ソングライターが、あるいはウェスト・コースト・ロックが、いまや主流の座に坐ったと喜べる人は、正にグラミー賞の側の人だ。「ロックはライフ・スタイルだ」と言える人こそ、メジャーのお客様だ。かのローリング・ストーン紙のヤン・ウェナー氏は、やがて大統領選挙に打って出るおつもりらしい。
メジャーとマイナー。この対比そのものが、おそらくはマイナー側が作ったものだろう。なぜなら、メジャーにはメジャーと呼ばれる必要はないが、マイナーはマイナーに徹することのなかでのみ、その活路を拓き得るからだ。メジャーを悪のように言うのには、逆立ちしても自分はメジャーになれない、という大前提がある。だがしかし、「誰が好んでマイナーでいるものか」という思想は、正統なマイナーのものではない。マイナーには“マイナーの美学”がなければならないのだ。それのないマイナーは、“権威のない紋切型”と同じく最低である。ではマイナーは権威を必要としないのか? というと、これが実は紋切型の何倍も権威が肝心だ。権威のみを求めているといってもいい。ただしその権威は、政治家のそれのように、厖大な実益を伴うものであってはいけない。解る人にしか解らないような、また解らない人には無価値であるような、イワシの頭のような権威であることが望ましい。
なぜある種の人々は、このイワシの頭を信心するようになってしまうのか? まず認めなければならないのは、虫歯菌のように現代人の誰もが持つスノビズムだ。少数派愛好癖といってもいい。これに対する抗体は、ミーハー・ワクチンしかない。しかしこれは、ほとんど誕生時に接種されるので、症状がでてからの接種は効力が低い。メジャーの世界では、このワクチンの恩恵に浴した人は受け手に多く、送り手の側では皆無に近い。だからメジャーの送り手達は、仕事を離れた個人の立場ではみな少数派愛好癖に耽けり、マイナーの連中よりもずっと豪華で高級なイワシの頭を持っている。マイナーが四畳半で「ウェスト・コーストはダメだ!」と叫ぶとき、彼等はジャマイカの海岸でバッカルディーのラムをふくんでいる。スノビズムにおいても、マイナーはマイナーなのである。
では、“マイナーの美学”とは一体何なのか? それは第一に、マイナーである事実そのものを誇ることかも知れない。そして、絶対にメジャーが鼻もひっかけない分野で、孤独な完成を遂げることだろう。それが無意味だとしても、その無意味も誇りのうちに取り込むことだ。マイナー志向がスノビズムから独立できる条件は、それを本当に好きであることしかない。
〔『話の特集』1978年6月号〕
メジャー志向
音楽誌ではないこの誌面に、ザ・バンドがロック・シーンで果たした役割をどう書けばいいだろうか? 電力のパワー・アップによって聴衆の肉体を揺り動かし、その反復の末にカタルシスを導き出す音楽、ロック。そのロックにも個としての精神性があり、新奇さや奇抜さとは無縁なところで完成された音楽がある。それを初めてぼく達に示したロック・グループがザ・バンドだった。リック・ダンコはそのベーシストであり、リード・ヴォーカリストの一人であり、ソングライターでもあった。ザ・バンドが“ラスト・ワルツ”と題したコンサートを最後に解散し、その後ドラマーのリヴォン・ヘルムとこのリック・ダンコがソロ・アルバムを発表したことは、本誌二月号で触れた通りである。両アルバムについてぼくは、リック・ダンコのものをより好意的に評価した筈だ。
そして五月一三日。ぼくは彼の東京公演を観に行った。ボブ・ディランといいリック・ダンコといい、こちらが一日千秋の想いで待つ時ではなく、彼等自身が一仕事を終えてから来日したものである。しかし、その一仕事とは何だったのだろうか? それこそが、ロックそのものであったとぼくには思える。
元来、コンサートそのものが好きではないぼくは、当日も半ば義務感から重い休日の腰を上げた。定刻には間に合ったものの、ぼくはバックのメムバーも知らず、いわんや第一部がジェイ・ファーガスンのバンドだとも知らなかった。まあ、このバンドは、“下北沢音楽祭”にでも出場すれば優勝したかもしれない程度のバンドだったので省くとして(それにしても、ドライ・アイスの煙がステージを這ったり、ピアノの椅子を蹴飛ばしたりすることが、いまだに観客を沸かせることは驚異だったが)、第二部のセッティングがツイン・ドラムだったことに、ぼくは深く憂慮した。なぜなら、あの末期のザ・バンドよりは骨のある音楽を聴けるかもしれないと、一縷(る)の希望は抱いていたからだ。ツイン・ドラムの意味するものは、やがて解る。
大歓声を前に登場したリック・ダンコは、やはり何かの五分の一の存在でしかなかった。しかし彼の演ろうとしたことは、二カ月ほど前にディランが武道館で演じた、カリスマ・ショーに準じていた。まるでディランからの電話で、「後進国ではこうすれば大受けだよ」と教えられていたみたいに。彼の意図はひとえに、あらかじめ自分を好きであるらしい異国の若者達の前で歌い、踊ってもみせ、挙句に誰もがロックであると思うサウンドのなかで彼等を画一化するという、極めて非ザ・バンド的なものであった。ツイン・ドラムも安手なリード・ギターも、総てそのための道具ではあったが、いまだにぼくは彼等の名前を知らず、今後も知ろうとは思わない。おそらくリック・ダンコも、彼の弟以外には、好きであのメムバーを集めたのではないだろう。そして彼自身、ザ・バンドのどのライヴ・アルバムで聴くよりも、ヴォーカルは荒れて、カリスマ振りもディランには役者負けしていた。土台野暮ったくていい田舎出のザ・バンドの、それもベーシストの付焼刃のアクションは気色が悪い。彼はシャツのボタンを首まで止めて、スタジオ録音のように歌っているべきだったのだ。
しかし、リック・ダンコの東京公演は大成功を収めた。彼のドサ回り戦略は、ボブ・ディラン同様見事に功を奏したのだ。ザ・バンドのかつての名曲の数々が、次々と後進国向けのアレンジで汚されていくなかで、聴衆は手拍子を打ち、歓声をあげ、アンコールを要求し続けた。彼等は誰を、いや、何を観に来たというのだろう。彼等はザ・バンドを、リック・ダンコをかつて本当に好きだったのだろうか? ぼくがこのコンサートをこうまで拒否するのは、言うまでもなくザ・バンドが好きだったからである。
ファンは、ひとたび誰かのファンになるとその理由を忘れ、ファンであることにのみ自己満足を覚える。好きであればこそ、対象の変化に厳格であって当然だ。この論法はここ二年あまり、自分でも厭になるほど繰返してきたものだ。そこで今回は、彼等についてもう少し考えてみよう。ある少女があるスターのファンになるためには、そのスターが発揮する魅力だけでは不充分だ。少女の側にあらかじめ、「誰かのファンになりたい」という、自己設定の欲求が準備されていなければならない。その上で成立したスターとファンとの関係は、関係そのものを客観視する自我からは護られて存続する。少女は、新たな自己設定の必要に迫られるまでファンでいる。そしてその間、少女の内でスターの実像が解明されていくことはない。スターは常にメジャーであり、少女は常にメジャーを志向するマイナーでい続ける。
メジャーとはこのように、志向されるべき明確な実体ではない。無意識で無数の、自己設定の代償行為の総和として存在する。
五月一三日の渋谷公会堂で、リック・ダンコは、正しくこの無数の代償行為を引受けたメジャーであり、スターであった。会場に集まった人々はきっと、一人一人が、映画“未知との遭遇”の主人公達だったのだ。そして、ロック・コンサートにおけるこの“メジャーの成立”のメカニズムは、決していまに始まったことではない。それどころか、この一〇年来、シカゴも、グランド・ファンクも、レオン・ラッセルも、そしてかのボブ・ディランもが、ぼく達の眼前で繰拡げてきたロックの常套手段なのである。
「いまさらボヤくことなぞ何もない筈だ」、そう思いながらぼくは、コンサートが終るのを待っていた。ところがアンコールの最後の最後で、リック・ダンコは「ウェイト」を歌いだした。この夜で一番古い曲、ぼく達が彼等を知った曲だ。それも、「ナザレへ着いたとき‥‥」という歌い出しを、「トウキョーに‥‥」と始めた。ぼくの感情はここでバランスを失ってしまった。未知との遭遇の人々は大喜びして乗っている。彼等は一体何だ? しかし、「この曲はお前達のものじゃない」とは言えない。現にもう、彼等のものになっているのだ。詰まらないコンサートは幾らも観たが、それを通り越して、憤りと哀しみを覚えたのはこれが初めてだった。ロックはもう“ラスト・ワルツ”を踊り終え、音楽の殿堂に入ったのだ。そしてその壁の最高位に、ザ・バンドの昔のレコードが掛けてある。
〔『話の特集』1978年7月号〕
終りの始まり
ぼくが音楽に夢中になりだしたのは中学生のころ、もちろんラジオのヒット・パレードを対象にしていた。ポール・アンカ、ニール・セダカ、数々の映画のサントラ、そしてデビューしてきたブラザース・フォーに夢中になった。そんな時代だったのだ。渋谷の川っぷちの小さなレコード店で、初めて買ったシングル盤は「太陽がいっぱい」と「アフリカの星のボレロ」のカップリング盤。それとブラザース・フォーの「グリーン・フィールズ」にはジョニー・マティスの「スター・ブライト」が裏面に入っていた。だが、貯金して買ったレコード・プレイヤーを前に落ち着いてみると、世の中にはまだまだ多種類の音楽があるらしい。ジャズ、ラテン、シャンソン、タンゴ、C&W、ハワイアン等々。高校生になってぼくは“モダン・ジャズ”を選んだ。その後“大人”になってロックへと移行し、三〇歳を過ぎた現在にまで及んでいるが、かつて既成の領域を持って中学生のぼくの前に並んでいた種々の音楽は、決して消えてしまったわけではない。シャンソンもハワイアンも、いまもって存在する。
そして我がロックも、そうした額ぶちの内での“老後”を、これから生き始めようとしているのだと思う。二年前の夏の終りの、“ラスト・ワルツ”と題されたコンサートの記録映画を観た。それはザ・バンドの解散コンサートということだったが、そこには当のザ・バンドばかりでなく、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、ヴァン・モリスン、ボブ・ディランといった、アメリカン・ロックの主流を確実に担ってきた“顔”たちが出演した。この映画の主人公であるザ・バンドのリーダー格、ロビー・ロバートスンが画面で語る。「これはぼく達の世代の、“終りの始まり”の祝宴だ」。そして一〇年前を振り返って、「ニュー・ヨークでよく泊ったホテルはティン・パン・アレイの真ん中にあった。音楽の中心街だ。だが当時は、ベトナム戦争や大統領の暗殺で世の中は騒然としていた。そして、そういう世情を背景として歌を創る人達が出てきた。それはティン・パン・アレイの“終りの始まり”だったんだ」
この“終りの始まり”という表現が、一〇年前のティン・パン・アレイと、二年前のラスト・ワルツとに共通している。ロビー・ロバートスン自身の言を待つまでもなく、そのコンサートは、ぼく達が聴いてきたロック全体のフィナーレであったのだろう。だから、ザ・バンドやその周辺の音楽を愛してきたものにとって、ラスト・ワルツは単純に偉大なコンサートであったり、三枚組のライヴ・アルバムであったり、記録映画であったりはしないはずだ。そこに登場したどのスターも、これからは同じ姿でスターではいられないだろう。映画の最後に、ロバートスンはこう呟く。「こうやってぼく達は、生き残ってきたわけさ」。生き残るために変化すること。それがロックにとって不幸な運命だとは、客観的には言えない。全体、巨費をかけてザ・バンドの映画が製作され、そのプロモーションのためにロビー・ロバートスンが来日するといったことは、かつて彼等のレコードに浸りきっていた頃には想像もできない事だった。彼が挨拶をするという夜更けの映画館の囲りには長蛇の列が生じ、たまたまぼくの側に並んでいたお嬢さんは、ついこの間までは“チューリップ”の大ファンだったそうだ。この様に、ロックの、それも良質のロックの聴き手がリサイクルされていくのは喜ばしいことではないか? それ自体、ロックという音楽の永続性を示しているのかも知れない。かつてのザ・バンドを識らなかった人達も、この映画によって彼等を認識するようになる。
かくてヘソ曲りのぼくは、ザ・バンドもまた自分から遠ざかって行くように感じる。そもそも、このコラムでザ・バンドばかりが頻繁に話題になることをも、釈明して置かねばならないだろう。第一に彼等は、最も重要なロック・バンドであった。それが解散し、各々にメムバーが来日した。そして彼等一人一人の有り様の内に、今日のロックが孕む問題が集約されていて、そこへ今度のラスト・ワルツの上映である。では、かねてから彼等の音楽を愛聴してきた人々の反応はどうだろう? 本誌七月号の筆者のリック・ダンコ批判に対して、その人達からも非難が圧倒的だった。一度好きになったアーティストに対しては、ザ・バンドのファン達も実に暖かい視線を保っていたわけだ。一ベーシストにとって、あれ以上のどんなコンサート・スタイルが可能だったというのか? 彼の素朴で人の良い性格が、ステージに溢れていたではないか。ぼくも自分が無理を言っているような気になってきた。ロックはラスト・ワルツを踊り終えたと思いながら、何をまだ望んでいるのだろうか?
その望むものを、六月に来日したリヴォン・ヘルムが具現してくれたのだ。ラスト・ワルツの映画を観たのは七月でも、出来事そのものはもちろんこちらが新しい。彼はザ・バンドのドラマー、ヴォーカリストであった。そして彼は、いまでもザ・バンドのスピリットで演奏したのである。「ぼく達は誠実で、ハード・ワーキングな連中だと思われるように演奏する」と、プログラムのインタヴュー記事で彼は語っている。その通りだった。バックメンが一流揃いであったのは事実としても、彼のヴォーカルは揺るぎなく、ドラミングは簡潔で、アーカンソーの男臭さを舞台いっぱいに撒き散らしていた。先のリック・ダンコも歌い、このリヴォン・ヘルムも歌った唯一の曲、「ウェイト」においても、彼は「トウキョーに着いたとき‥」とは歌わなかった。リヴォン・ヘルムはナザレへ着いたのである。「これでいいのだ。これがロックだ」と言う他はない。
このコンサートは、ぼくが最も満足させられたロック・コンサートだったと言っていい。だがしかし、それとてもロックに新しい地平を切り拓くといった性質のものではない。むしろ、ジャズ・ファンが五〇年代、六〇年代初期の価値観に執着しつつジャズへの愛を保っているのに似て、ロックの原点を再認識させられた事への感動が貴重だ。最終日、彼は盛んに「ショー・ビジネスだ!」という言葉を使った。これがショー・ビジネスなら、ショー・ビジネス大いに結構。ボブ・ディランやリック・ダンコのそれに比べると、やはり職人の手に掛ったものは出来が違う。この結論が、“終りの始まり”であろうか?
〔『話の特集』1978年9月号〕
トーチカ物語
この一年、ここでも、他の場所でも、かつて愛した音楽の現在と、自分との乖離について語ることが多かった。幸福なことでは勿論ない。しかし、どこまでも愛しつづける振りをするのも、不幸だ。ひとつに、ぼく自身の老化現象も認めるとしよう。その上で、音楽そのものの変質の要因を探るにしても、そのとき、ぼくの視線は社会的背景の変容を辿ろうとはしない。いや、出来ないといった方がいいかも知れない。
正直なところ、精神的にとう[#「とう」に傍点]が立ち始めてからロックを聴きだしたぼくにとって、それはフラワー・パワーに触発されたのでもなく、学生運動の行き着いた末でもなかった。ぼくが身を置いていたのは、渋谷のさびれつつある一角の、“ブラック・ホーク”というジャズ喫茶だった店である。そこでレコードを廻していたぼくにとって、またそこの常連客にとって、その場所は音楽的な一種のトーチカだったと思う。ジャズからロックへと転じ、更に扱うロックの質を限っていったその過程で、遂に世間の流行を追うことはなかった。だが、流行が一、二年遅れて着いてくることは度々だった。明日の指針の風がどこからか、この狭いトーチカには何故か吹いてきたのである。六九年からの、およそ数年間は。
まず、プログレッシヴとハード・ロックの切捨て。時は七一年、まだ総てのロックが信仰されていた。ロックを聴かない者は、新しい自由への道を避けて通る体制的人間であり、トイレの壁は、様々なセクトの落書きでたちまちまっ黒に仕上った。この落書き群は、昨年ぼくが辞めるまでそのままになっていたが、それは決して、落書きが書かれた当時の気運が、ここに残ってきたことを意味しない。それどころか、七〇年に於いてさえ、落書きはトイレにしか見られなかったのだ。結果的には、このプログレとハードの廃止によって、書き手達の大半は去って行ったのではあるまいか? ヒッピー風もめっきりと減った。おそらくその時、“ロック”という呼称が持つ時代的イメージも、彼等が運び去ってしまったのだろう。では何が残ったのか? 増々トーチカ化したブラック・ホークと、単に“歌”としてのロックが残った。客席には、“聴く”という行為だけが在った。この状態は、トーチカ外の総ての場所から、砲撃を浴びても仕方がないだろう。しかし、そうすること以外に、既に商業化しつつ打ち寄せてくる流行の波に溺れず、変らない価値をロックに求める道は無かったのである。
以来、“何々ロック”といったネーミングで宣伝された種々の弾丸はどれもやり過ごした。トーチカ内にはどんな風が吹き込んだかといえば、硬軟とりどりのシンガー&ソングライター達の歌(一般に、シンガー&ソングライターは総て軟派と思われているのは認識不足による)、南部のスワンプ(ゴスペル色の濃いロック)、カントリー、ブルーグラスをベースにしたロック、白人下層階級を標榜するレッドネックのロック、ノスタルジックな諧謔派、カナディアンのシンプルな歌、そしてブリティッシュ・トラッド等、枚挙に暇がないが、どれも演者の成長過程なり、地域性に根差した具体的な音楽であった。それらを風と仮りに呼んだが、吹き去ることなく、いまもレコードとして[#「レコードとして」に傍点]トーチカ内に累積している。
むしろ、風のように去来し続けたのは、客という雑多な人格のそれぞれであろう。店というものは、ある特定な一時点に於いても、彼等の性格を均一化して捉えることは出来ない。ある者は初々しくそこに居、またある者は「そろそろ足を洗おう」と考えている筈だ。至極当然なことである。しかし、店は一つの世代と歩調を合せて、音楽内容をスライドさせるわけにはいかない。反対に、来る者は拒まず、去る者は追わず、独自のポリシーを厳然と保つべきだと考えてきた。だからぼくは、音楽の趨勢の目まぐるしい推移を、ブラック・ホークという顕微鏡を通してしか見ることがなかったのだ。
その報告をしよう。「ギン・ギン」と形容されるロックを除去すると、「優しさ」という言葉がズーム・アップされてきた。これをシンガー&ソングライター文化全体を覆うレッテルとして定着させてしまったのは、聴く側のボキャブラリーの不足に主因がある。ボキャブラリーの不足とは即ち、感受性の単一さである。ところが実際には、優しいシンガー&ソングライターばかりではなかった。シンプル・ライフの実践には、シンプルなイマジネーションがまず有効だったのかも知れぬ。七〇年代も半ばに差しかかると、トーチカの住人もすっかり世代の交代を終えていた。大学時代いっぱいをここに通ったとして、毎年上が出て下が入ると、だいたいそんな勘定になる。七〇年前後と様変りした点は? 第一に外見が質素ではあるが清潔になり、あたかもブラック・ホークが図書館であるかの様に、レコードのクレジットをノートにとったり、ガリ版刷りのインフォメーションをファイルしたりする“生徒”が増えてきたのだ。常識的には気味の悪いことだが、ただ、日本のレコード業界の指向と、ぼくの目指したそれとが、いかに隔っていたかの証明にはなるだろう。多くのレコードが、ここで聴かなければ知るチャンスは無かったのだ。しかし一方で、一枚一枚のプレイに関して、客との眼に見えぬ葛藤は消えていった。
トーチカとしてのこの成熟は、実は内部からの崩壊を孕んでいた。ぼくのうかつさ[#「うかつさ」に傍点]は、客ばかりか、海の彼方のアーティスト達までをも、いわば“共犯者”と決め込んでいたことだ。七六年辺りから、こちらが勝手に“味方”としてきた人達が、次々と「ここから出て行って下さい」と言わざるを得ないアルバムを出し始めた。つまり、昨今口を酸っぱくして言っている“ロックのポップへの溶解”である。世間の呼び方では、“ソフト&メロー”、“シティー・ミュージック”、あれのことだ。
慌ててぼくは、トーチカ内で反抗のアジビラをバラまいたが、哀しくも滑稽なことに、“生徒”達の過半数はアーティスト直属のそれに変っていた。シンプル・ライフのナチュラルな思考は、その対象をもフレキシブルに選び取れるのだ。
思えば、ロックとは元来フレキシブルなものであった。長い髪でジーンズをまとってはいても、いつの日かフランク・シナトラに取って換ろうと満を持していたのかも知れない。とうとう社会が、彼らにそれを要請したのだろう。以上が、「トーチカ物語」のあらましであります。
〔『話の特集』1978年11月号〕
二〇歳のユーミン
荒井 由実『MISSLIM』
このレコードは、みなさんすでによくご存知かもしれません。ニュー・ミュージック(この言葉はレコード業界が勝手に作り出した無内容なものですが)のスター、荒井由実のヒット・アルバムですから。
しかし、これが彼女の二枚目のLPとして発売されたのは七四年、あなたはまだ中学生だったはずです。そのときユーミンは、現在のようないわゆるスターではありませんでした。そして彼女の「歌」そのものも、きらびやかな衣装をまとってテレビに出演する今とは、どこか違うものだったのです。これが有名なアルバムであるのは事実だとしても、ここでのユーミンはもういない。だからこそ、ここに「一枚のレコード」として、「あのころ」の彼女だけが持っていた「何か」を知ってほしいのです。
●門出のメッセージ
高田渡、岡林信康、加川良といった、フォーク・ムーブメントの延長線上に彼女を位置づけることはできません。もしそうしたらフォーク陣営とユーミンとの双方から抗議を受けるでしょう。同時に彼女はグレープや南こうせつ等の歌謡ポップスとも、明らかな一線を画しています。少なくともこのアルバムでの彼女は、彼女自身の美意識にのみ忠実であって、大衆的な人気を目指してはいません。ここには二〇歳になったひとりの女性の言葉とメロディーと精いっぱいのおしゃれが、美しく固定されているのです。
みなさんのなかにも、詩を書きたいと思っている人や、現に書いている人もいるでしょう。それを自分で歌にしている人もいるに違いありません。そして、詩を他人に公表するのは恥しく、恥じらいのない詩は歌にしてもつまらないのではありませんか? 荒井由実は、それを人前に出しても恥じらうことなく、しかもそれに歌としての生命を吹き込む術(すべ)を心得ています。たとえば、デビュー・アルバムのなかの「空と海の輝きに向けて」では、二〇歳になった女性にふさわしい門出のメッセージをこう歌うのです。
月のまなざしが まだ残る空に/やさしい潮風が門出を告げる/
この人生の青い海原に/おまえは ただひとり帆をあげる/
遠い波の彼方に金色の光がある/永遠の輝きに命のかじをとろう
こうした言葉を恥じらうことなく歌えるのは、彼女が自分を「おまえ」と呼んで客体化し、そうすることで歌から一歩の距離を設けているからです。この歌に象徴されるように荒井由実の作詞の立場は、たとえ、「私」と歌われている場合でも、つねに歌そのものの外側にあります。当然そのような歌は、青春の内で苦しむ人間からしぼり出された歌ではあり得ないでしょう。
●新鮮なポップ感覚
このことから、彼女の言葉は詩ではないという意見が出てくるのも当然です。確かに彼女は詩人ではなく、コピーライターであると言えます。若く、機知にあふれ、ロマンティックで美しい、聡明なコピーのクリエイターなのです。
いつものあいさつなら どうぞしないで/言葉にしたくないよ 今朝の天気は/
街角に立ち止まり/風を見送ったとき/季節が わかったよ/
生まれた街の匂い やっと気づいた/もう遠いところへと ひかれはしない(「生まれた街で」)
小さい頃は神さまがいて/不思議に夢をかなえてくれた/
やさしい気持ちで目覚めた朝は/おとなになっても奇蹟はおこるよ/
カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の/やさしさに包まれたなら きっと/
目にうつる総てのことは(「やさしさに包まれたなら」)
窓にほほをよせて カモメを追いかける/
そんなあなたが 今も見える テーブルごしに/
紙ナプキンには インクがにじむから/忘れないでって やっと書いた遠いあの日(「海を見ていた午後」)
このような世界は、吐露された言葉の群によって成立するのではけっしてなく、歌の外側に立った理知によってのみ描かれる、センシティブな非現実の世界だと言えるでしょう。
では、こうした言葉をのせて流れていくメロディーは? コンポーザーとしての荒井由実はと言うと、それは作曲家・ユーミンの今日の活躍ぶりが示すとおり、チャーミングなメロディー・ラインを創り出すことにかけては天才的なひらめきをもつ才女です。ピアノで作曲する彼女は、ギターで作曲する他の多くのシンガー&ソングライターたちよりもメロディアスな曲を得意としていて、この『MISLIM』のうちでも、「瞳を閉じて」、「12月の雨」、「魔法の鏡」などには、フォーク・シンガーからもプロの作曲家からも生まれ得ないだろう、フレッシュなポップ感覚が発揮されます。
●Come Back ! ユーミン
このアルバムは七四年の夏、後に彼女の夫となる松任谷正隆がキーボードをつとめたティン・パン・アレイをバックに吹き込まれました。
秋にこれが発売されると、音楽関係者たちの反応は、これまで日本のポップスに対して示されたことのないようなものだったのです。批判もありました。主に彼女の歌唱力に対する不満でしたが、その点は認めざるを得ないものがあります。しかし、彼女のセンスの斬新さ、ラブ・ソング、メッセージ・ソングを通じてのコケティッシュなインテリジェンスは、ファッショナブルという言葉を初めて音楽的に具体化したものとして注目されました。これはもちろん、文字通り視覚的にもファッショナブルになったユーミンの現在をたたえる言葉ではありません。
現在の彼女も、魅力的な歌詞とメロディーとを創る作曲家でありますが、あまりな仕事の忙しさもためか、歌から一歩だけ隔たっていた彼女が、二歩も三歩もその距離をひろげ、歌は作者に置いてきぼりにされて商品と化しています。歌そのもののために、そして私たちのために、ユーミンよ、帰って来い!
〔教育社・トレーニングペーパー1977年5月〕
幸福な邂逅(かいこう)
DUKE ELLINTON & JOHN COLTRANE
このアルバムの主人公デューク・エリントン、ジョン・コルトレーンはともに今この世にはいません。そしてふたりは、スイング、モダンというジャズ・スタイルの変遷において、それぞれを代表する巨頭でした。
ジャズを聴かない人でも、このふたりの名前は知っているでしょう。そして、両人が共演したこの一九六二年当時も、一五年後の今も、この顔合わせの意外性と、その成果の偉大さとは、ふたつながら変わるところがありません。
名プロデューサー、ボブ・シールによってふたりが引き合わされたのは、コルトレーンは時代の最前衛を突き進むサックス奏者として、エリントンは功成り名を遂げたバンド・リーダーが一ピアニストにたち返ってのうえでした。それがセンセーショナルだったのも、ふたりの世代、音楽スタイルの両方が、あまりに隔たっていたからなのです。
往々にしてこうした企画は、商業的な意図のみから出発し、それが音楽にも反映して鼻につくものです。しかしこの場合は最たる例外であったと言えるでしょう。いったい、この「スーパー・セッション」は、なにゆえに確かな人間的交流を具現できたのでしょうか?
●若き第一人者
ここで、コルトレーンの音楽に、強く青春期の感性を刺激された筆者として、いまや「伝説の人物」となりつつあるその人と音楽とを、いたらぬながら述べておこうと思います。
マイルス・デビスのもとで頭角を現した彼は、独立後、そのソプラノとテナー・サックスによって、それこそ「ジャズの未踏の境地」を切り開いていきました。ドラマーにエルビン・ジョーンズを得てからは、彼独特の複雑で挑戦的なリズムとせめぎあいつつ、マッコイ・タイナーのピアノの星空深く、肉声そのものと化したサックスのくねり道を、どこまでも求めていったのです。
それは「アバン・ギャルド」と呼ばれる範(はん)疇(ちゅう)の音楽ではありました。しかしコルトレーンの「声」は、あくまでも「肉声」であり、「人間」が発する何物かであり続けたのです。彼のサックスの雄叫(おたけ)びにいつも潜む人間的な暖かさは、何かに駆られたような当時であっても、ときに形を変えて音楽となることがありました。それがアルバム"Ballads"であり、この"Ellington & Coltrane"なのです。
ジャズ界の常識上、奇異なこの顔合わせを、エリントンもコルトレーンも自然なものとして受け入れたそうです。リズム・セクションは、エリントン側からアーロン・ベル(ベース)、サム・ウッドヤード(ドラムス)、コルトレーン側からジミー・ギャリスン(ドラムス)、エルビン・ジョーンズ(ドラムス)が出向き、曲の次第で交代していますが、前者がよりくつろいだ演奏であり、後者があるスリルを伴うものとなるのはもとより必然のことでした。
しかし、「私の辞書のなかのキング」であるエリントンとともに音楽をするコルトレーンは、自身のコンボで激しいように激しくありません。ここでの彼は、故郷に帰ったおりの人のように、そこで人々と交歓するごとくにプレイします。ドラマーがエルビンである際には、彼もわきまえていて、そのプレイはあくまでも「伴奏者」に徹したものです。
●優しい老大家
デューク・エリントンについては、偉大な作曲家、バンド・リーダーとしてだれ知らぬ者のない存在ですが、ピアニスト、とりわけモダン・ジャズメンと共演するときのピアニストとしての彼の特異さは、相当にジャズへの関心の深い人でないと知らないでしょう。
彼にはこのアルバムのほかに、チャーリー・ミンガス(ベース)、マックス・ローチ(ドラムス)とのトリオで録音した"Money Jungle"という名作がありますが、エリントン・ピアノはそこでも、強力なコード・プレイと朴訥(ぼくとつ)な右手の展開とによって、ジャズにスタイルの変化はあっても、その「心」に新、旧のないことを示しているのです。彼がこのボブ・シールの奇抜な提案を受けた気持ちの底には、「ジャズ」という音楽そのものへの信頼と愛情があり、その最先端を行くジョン・コルトレーンでさえ、けっして血の異なる音楽家ではないという、大きな抱擁の念があったろうと思います。そして事実、コルトレーンはこの老大家の偉大さの前に謙虚であり、エリントンは若き第一人者に対して優しかったそうです。
ここに、この録音から生まれた有名なエピソードがあります。ジャズでもロックでも、プロデューサーはレコード制作について重い発言力をもちますが、あるテイク(一回の演奏)の終了後、ボブ・シールはコルトレーンのプレイにクレームをつけて、もう一度やり直すように言いました。するとエリントンが、「そんなことをすれば、コルトレーンは自分で自分の真似をしなくちゃならない。今のは今ので十分じゃないか」この一言で、そのテイクは生き残ったそうです。
●父子の出会い
このアルバムとは、そのような「出会い」のなかからこそ生まれた、そして一度だけのものでした。両者にとってのこのセッションは、「普段の」仕事とは別の次元のものであり、翌日からは、それぞれの戦場へと帰って行ったのです。
いまなお、彼を超えるジャズマンはひとりとしていない境地にまで到達していたジョン・コルトレーンは、デューク・エリントンに先立つこと八年、この録音の五年後の夏、散るように突然世を去りました。モダン・ジャズの衰退はそのときから始まったと言われています。
生きながらジャズの名声の殿堂に君臨したエリントンも、七五年にその天寿を全(まっと)うしました。残されたこのアルバムは、ジャズの血で繋(つな)がれた父子の、幸福な邂逅(かいこう)の一場であったと言えるでしょう。
〔教育社・トレーニングペーパー1977年8月〕
よみがえった古謡
スティーライ・スパン "Please To See The King"
もし日本に、「稗搗(ひえつき)節」や「江差(えさし)追分」など、もっぱら伝承の民謡ばかりを唄(うた)うロック・バンドがあったなら、あなたはどう思うでしょうか。アメリカの流行に追従する現在の「ニュー・ミュージック」にそんなことはまず考えられないでしょう。しかし、イギリスでは数年来、自国の伝承音楽にロックで挑む伝統が培われてきたのです。その伝統はブリティッシュ・ロック・シーンの傍流(商業的には伏流)にしか過ぎないかもしれませんが、ハードやプログレッシブ・ロックを認めない筆者にとっては、それこそが、アメリカン・ロックに対するブリティッシュ・ロックであり続けてきました。
このような流れが生まれるためには、「フォーク・リバイバル」と呼ばれた二〇年来の運動があり、そこから大勢の伝承音楽家(トラディスト)が、国のあちこちに誕生し、現在もフォーク・クラブで活躍しているという背景があります。その伝統に、ロックによって音楽の道にはいった若者たちの一部が触発され、エレクトリック・トラッド(電気楽器を使用した伝承音楽)の道をひらいてきたのです。
アメリカにおいて、ザ・バンドやザ・バーズといった代表的バンドや多くのシンガー&ソングライターたちが、それぞれの形でアメリカ音楽の伝承を受け継いでいることを思えば、プログレだ、グラムだ、パンクだといった軽薄な流行ばかりがブリティッシュ・ミュージックではないはずだ。何を選ぶにせよ、「本物」に出会いたい人は、レコード会社のかまびすしい宣伝に踊らされるようではいけません。
●七〇年のファーストアルバム
さて、エレクトリック・トラッドの代表的なバンドにフェアポート・コンベンションがあります。このバンドには一〇年の歴史と一三枚のアルバムとがあって、現在も活躍中ですが、メンバーの出入りが激しかったことも有名です。そしてその変遷のなかから、優秀なシンガー&ソングライターやバンドをいくつも派生させてきました。
このスティーライ・スパンもそうした一つであると言っておきましょう。一九六九年、フェアポートのベーシストであったアシュレイ・ハッチングスは、バンドの姿勢にあき足らなくなり、より深いトラッドの世界を求めて、この栄光のグループをあとにしました。次に彼が手を結んだのは、以前からフォーク・デュオとして活動していた二組の夫妻、ティム・ハート&マディー・プライア、ゲイ&テリー・ウッズそれにフィドル弾きのピーター・ナイト、この六人で第一期スティーライ・スパンはスタートしたのです。
七〇年のファーストアルバムは、これにフェアポートのドラマーであったデイブ・マタックスを借りて録音されました。アルバムの冒頭の無伴奏コーラスで彼らは、「私たちはこれから、この国に伝わる古謡のかずかずを演じましょう。でもそれは新しい方法で演奏されます。もしお耳を拝借できるなら、ドラムのビートからお聴きください」と歌い、事実、有名な古謡「ブラックスミス」は高らかなドラムのイントロで開始されたのでした。
●マーティン・カーシィの参加
当時、フェアポート以上にトラッドに執着するロック・バンドの出現は世間をアッと言わしめたものです。しかし、彼らが真に「エレクトリック・トラッドの金字塔」を打ち立てるまでには、更に曲折を経ねばなりませんでした。ファースト・アルバムの発表後、ウッズ夫妻は音楽上の意見の対立から、再びデュオとして独立していったのです。そして、ふたりの代わりに加入してきた一人のシンガー・ギタリストこそが、スティーライ・スパンの運命を変えたのでした。その男の名はマーティン・カーシィ。このとき彼は、すでにトラディストとしてだれ知らぬ者のない大きな存在であり、その男がエレクトリック・バンドに参加すること自体がたいへんなニュースだったのです。
「私と彼らはおおいに異質だった。だが何ら怖れることはなかった。実は私は、電気化された音楽に何の進歩性も認めていないのでね」のちのインタビューでこう語った彼は、自分がエレキ・ギターをもつ代わりに、バンドはドラムレスにする主張をとおしました。そして七一年、この『プリーズ・トゥー・シー・ザ・キング』は発表されたのです。
するとどうでしょう! およそレコード製作上の常識外れなことには、このアルバムのA面第一曲は、前アルバムと同曲「ブラックスミス」だったのです。ただし、ドラムレスの、しかも、あえてドラムを入れた前作よりも実に荘重な、暗い存在感をたたえた「ブラックスミス」だったのです。このアルバムから他にも、「ボーイズ・オブ・ベドラム」、「ラブリー・オン・ザ・ウォーター」といった名演が生まれ、音楽誌によるその年のフォーク部門第一位を獲得しました。
●真摯(しんし)さと気概
何がこのことを可能にしたのでしょうか? それはまず、マーティン・カーシィ、マディー・プライアの優れた歌唱であり、演奏面ではカーシィの鋭利なリズム・ギターや、ハッチングスの重厚にして躍動的なベース・ワークなどがあげられます。しかし、最も肝心なのは、この時点における彼らの自国の古謡に臨む真摯さと気概であったろうと思われます。
翌年彼らは、同じメンバーで更に硬質な三作目を発表しましたが、このバンドの真価はそこまででした。なぜなら、もっとポピュラーな存在になろうとする仲間たちと意見が合わず、マーティン・カーシィはアシュレイ・ハッチングスを伴って、再びピュアなトラディストの世界へ帰っていってしまったからです。しかしふたりは、その後も若いトラディストたちを集めて、「アルビオン・カントリー・バンド」の名のもとに、より見事なエレクトリック.トラッドを残しています。いっぽう存続したスティーライは、彼らの希望どおりにポピュラーになって、フォーク・クラブではなく、ロンドンの大きなホールを満員にする今日です。
〔教育社・トレーニングペーパー1977年9月〕
「旅する男たち」の歌
ジェリー・ジェフ・ウォーカー
"Mr. Bojangles"
●老タップ・ダンサーの哀感
今月はアメリカの代表的なシンガー&ソングライターのひとり、ジェリー・ジェフ・ウォーカー(以下、J・J・ウォーカーと略します)の、代表的なアルバム「Mr.ボージャングルス」を紹介しましょう。
タイトルになっている同名の曲を、どこかで聞いたことはありませんか? 数年前にニッティー・グリッティー・ダート・バンドが大ヒットさせ、日本ではフォーク・シンガーの中川五郎が翻訳して歌っていた、あの曲のオリジナル(原作)がこれなのです。曲は循環する3コードの簡単な3拍子なので、ギターを弾ける方ならばすぐに歌えるようになるでしょう。詞の大意は、旅回りの老黒人タップ・ダンサーの哀感を作者(歌い手)が温かい目を通してつづったものです。
それはイメージではなくエピソードです。だからこの歌が確かなヒューマニティをもつためには、作者のJ・J・ウォーカーは、単に芸に拍手する一観客ではいなかったに違いありません。事実これは、軽く楽しい歌ではありません。Mr.ボージャングルスのおどけたひと跳びひと跳びに作者は、ギター一つ持って旅をする自分の寂しさを投影して見たのでしょう。この歌は、J・J・ウォーカーのそうした無名時代に生まれた歌なのです。
●「旅」から生まれた歌
旅とのかかわりの深い今ひとりのシンガー&ソングライターにカナダのレナード・コーエンがいます。が、彼の歌は「旅」の内から生まれたものではなくて、彼個人の心の暗がりでイメージされた物語でした。一方、J・J・ウォーカーの歌は、いつも彼自身の旅と体験から織り出されてきたものでした。そして、そのことのほうに、古今のアメリカのフォーク・シンガーたちの伝統がある、と言わないわけにはいきません。詩人、小説家であるレナード・コーエンの歌手としての生き方がむしろ異端であって、およそ「アメリカの歌」は無数の「旅する男たち」の口から口へと歌われては消えていく歴史をたどってきたのです。
四〇年代から現代に至る、最も偉大な三人の「アメリカン・シンガー」、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・ディランにおいてもやはり、自らの「旅」なくしてはその「歌」もなかったでしょう。
元来「フォーク・ソング」の「フォーク」という言葉は、伝承された民族性を意味する「フォークロア」から出ています。この点で、先に紹介したイギリスのグループ「スティーライ・スパン」は、文字通りの伝承民謡を演じていましたが、それはやはり古い島国の英国でのこと。広大な「新大陸」であるアメリカでは、旅し、放浪する生き方自体の内にもフォークロアは存在し、世界一の文明国となった現在にも、男たちの「放浪の夢」は生き続けているのです。さらに言えば、この国で「ヒーロー」を夢見る男たちの「非ヒーロー」時代は放浪に費やされ、努力なって何かの道でのヒーローになるか、単なる一市民として落ち着くかでそれは終わるのです。幾世代にわたる、その繰り返しそのものが一つのアメリカン・フォークロアであると言えるでしょう。そこから生まれる「フォーク・ソング」は当然「自分の歌」であるはずです。
●一〇代で「ホーボー」に
放浪する人のことを「ホーボー」(hobo)といいます。J・J・ウォーカーも「自分の歌」を求めて一〇代でホーボーとなりました。彼の故郷はニューヨーク州の田舎町。彼がギターを手に歌い始めてころ、おりしもニューヨークでフォーク運動が盛んになってきたときで、グリニッジ・ビレッジのコーヒーハウスには、なんとか世に出ようとするフォーク歌手たちがひしめき合っていたのです。
そんななかからボブ・ディランを始め、フィル・オクス、ティム・ハーディン、トム・パクトスンといった人たちが有名になっていき、後にはJ・J・ウォーカーもその仲間入りをするわけですが。ここでの彼は、アメリカン・シンガーとしてより正統的な道、ホーボーになる道を選びました。ニューヨークを皮切りに、彼の旅はニューオリンズ、テキサス、ロサンゼルスと各地のコーヒー・ハウスやホンキー・トンク(歌手の出る安酒場)で日銭をかせぎながら続けられたのです。
●人間の真摯(しんし)な姿
彼が再びニューヨークにもどった六八年に、このデビュー・アルバムは製作されました。そして、アメリカ人らしい朗らかさのなかに、ある繊細さを秘めた彼の声が歌う「Mr.ボージャングルス」は、一躍J・J・ウォーカーを新しいフォーク・ヒーローにしたのです。確かにこの曲は、現在も多くのアーティストたちが採り上げる名曲ですが、このアルバムがすばらしいのただその一曲のためばかりではありません。まず、ここでは最近のシンガー&ソングライターたちのアルバムと違って、不必要な装飾的アレンジメント(編曲)はいっさい省かれています。つまり、このアルバムには、「歌いたい歌」をうたう人間の真摯な姿があって、それを「何々風」に仕上げよう、といった製作意図(プロデュース)の商業主義がないのです。これが世に「名盤」として生き残ったのも、そうしたシンプルさをたいせつにする姿勢があったからだと言えるでしょう。
しかし一方で、このアルバムの音楽性をおおいに高めているのが、デビッド・ブロムバーグのギター.プレイであるのも事実です。当時J・J・ウォーカーの伴奏者であったこの天才的ギタリストも、現在は独立し、自分のバンドをもって活躍しています。
では、J・J・ウォーカーの現在は? 最近の彼は一〇枚のアルバムを持つ有名アーティストとして、放浪の時代に最も気に入ったテキサスのオースティンに定住する身です。この地で彼は、地元の若いミュージシャンたちの敬愛に囲まれて、一年に一枚くらいのアルバムをのんびりと作っています。ただし、現在の彼がうたう歌は、彼に採り上げてもらうために若い人たちが作った歌。幸福な家庭人となった彼は、ほとんど歌を書かないのです。
〔教育社・トレーニングペーパー1977年11月〕
生まれながらの異邦人
レナード・コーエン『ソングス・オブ・レナード・コーエン』
●ユニークな歌の世界
ロック界でシンガー&ソングライターの存在が比重を増してきたころ(いまは退潮です)、それに伴って、カナダのアーティストの純粋さがクローズ・アップされてきました。来日したブルース・コパーン、マレイ・マクロクランをはじめ、カナダ人の音楽には、アメリカ人のそれとは違った自然との一体感、より北方の、雪と水と冷気に培われた音楽がある、というわけです。ところが、それとも一風違う人もいます。
レナード・コーエン。名前くらいはご存じですか? これまでに五枚のLPを持つシンガー&ソングライター(自分で詞と曲を作り、自分で歌うアーティスト)です。しかしそれ以前に、彼は小説家、詩人として本国のカナダでは高名でした。言ってみれば、彼は、吉田拓郎や泉谷しげるではなく、谷川俊太郎がギターをつま弾きながら歌い始めたようなもの。その歌は彼自身のレコードが発表されるより先に、他のシンガーたちに歌われ、曲としては既に有名になっていたのもありました。そしてこの『ソングス・オブ・レナード・コーエン』は、彼の最初のレコード・アルバムで、彼が三三歳のとき、一九六七年に発表されたものです。
レナード・コーエンの歌の世界。それは当時多くのフォーク・ファン、そしてフォーク・シンガー仲間にとって、驚くほどユニークで魅力的なものでした。職業的なシンガーでもギターリストでもなかった彼の歌には、文学者としての彼の言葉が、そして声が、自己流のギターを伴って閉じこもっていた、と言えましょう。プロテストする外向きの歌が全盛だったそのころ、レナード・コーエンの出現は、フォーク・シーンに内省的な美意識の復権、という一石を投じたのです。
●ヒューマンな息づき
ひとたびこのレコードに針を降ろすと、ふつうフォーク・ソングの向こう側に広がる緑の野山は見えてこずに、ここでは、暗く、しかし暖かな、伝説のなかの裏町の世界が展開されてゆきます。演奏者としての彼は、もちろん達人ではありません。歌唱も朗々とは反対のボソボソとしたものです。しかしそこには歌というものがけっして失ってはならない、ヒューマンな息づきがあふれています。
彼の詞は、ヒット・チャートをにぎわす曲のように単純ではなく、イメージは彼固有のものであって、それはむしろ「詩」と呼ぶべきものかもしれません(彼自身は、文学の詩と、歌うための詞は区別している、と言っていますが)。彼の歌う物語は寓話的であり、宗教的であり、そしてエロチックでもあります。そこで彼が歌っているのは、煩雑でけん怠的な現実の人間社会のなかでの、遠い、プリミティブなヒューマニズムに対する夢とあこがれなのでしょう。彼の二番目のアルバム、『ソングス・フロム・ア・ルーム』の冒頭に収められた名曲、「バード・オン・ザ・ワイヤー」には次の有名な一節があります。
電線の上の鳥のように
真夜中の聖歌隊に紛れた酔っぱらいのように
私は私なりに、自由になろうとしてきた
この三行は同じく名高いシンガー&ソングライターであるクリス・クリストファースンをして、「私の墓石に刻みたい」と言わしめたものです。
●故郷のないアーティスト
レナード・コーエンはなぜ、ありふれた日常を飛び越えた、寓話的な世界にその歌を求めるのでしょうか? それは彼が、現実の恋や旅、身近な出来事といったものに倦(う)んでいるからでしょうか? 実際に現実の彼は、日本人の禅僧を師とし、山ごもりをも経験しています。いっぽうでは歌作りを並行してはいますがしかしこうした生き方は、大勢の仲間と手を携えて、その日常のなかから歌を作ってゆく、他の若いアーティストのライフ・スタイルからはあまりに隔たっているとは言えるでしょう。
レナード・コーエンはカナダ人であると書きました。そしてカナダという国には、大きく英語圏ととフランス語圏とあり、彼の生まれたのは、昨年オリンピックの開かれた仏語圏の首都、モントリオールです。しかし、その地で、彼の家族は英語を話し(彼の歌は英語です)、さらに家系は放浪の民、ユダヤ人でした。このことが、彼を生まれながらの異邦人にし、アメリカを主とする多くのシンガー&ソングライターたちが歌う「故郷」を彼から取り上げ、故郷の実感があってこその旅の哀愁も、彼の歌のリアルな対象にはなり得なかった。これは彼の音楽について、よく指摘される点です。レナード・コーエンは詩人として、また音楽家として、日常の彼方の伝説的なイメージのなかにしか、その作品の故郷を見ないで生きるアーティストだと言えるでしょう。
●カーテンの後ろにいたい
このアルバムはそんな彼が、はじめておずおずと歌手として、自らギターをとって歌ったアルバムなのです。しかし、発表後一〇年経てなお新鮮なこのレコード・アルバムを、レナード・コーエン自身は気に入っていなかった事実をお話ししておかなければなりません。
レコード作りにはプロデューサーという存在が不可欠です。プロデューサーは、ある曲にどんなアレンジを施し、そのためにはどんなミュージシャンを起用し、アルバムのトータルなカラーをどうするかを決定する人。この場合のプロデューサーは、後にザ・バンドなどを手掛ける鬼才、ジョン・サイモンでした。そして、レナード・コーエンのおおかたのファンはこのアルバムを気に入っています。しかし当の彼は、ライナー・ノートの余白にこう記しました。
「歌とアレンジメントは引き合わされました。互いに感じるものはありましたが、血筋の違いで結婚は無理でした。アレンジメントはふたりでパーティを抜け出したいのですが、歌は、そっとカーテンの後ろにいたい気持ちだったのです」
今も彼がそう思っているかどうかは、わかりませんけれど。
〔教育社・トレーニングペーパー1978年1月〕
ヒューマニストの歌
―中川五郎『25年目のおっぱい』
筆者担当の最後に、ひとりの「日本のフォーク・シンガー」のアルバムをご紹介します。
かれこれ八年ほど以前、日本にもフォークのムーブメントがありました。そのとき若者たちは、与えられた「ヒット・ソング」ではない、自分たちの「歌」を求めたのです。六〇年代から七〇年代へと、政治や社会が大きな転換期を迎えていました。彼らの歌は、流動する世の中に向けて、自分たちの新しい価値観を声高にそして音楽的にはつたなく標榜(ひょうぼう)したのです。おとなたちはそれを、過激で危険な風潮と見ましたが、戦争への反対にしろ差別主義の批判にしろ、いま思えばそれらは、実に素朴なヒューマニズムに過ぎず、とうてい世の中を変え得るような力ではありませんでした。ただそれでも大勢の若者たちが熱くなり、おとなたちは目くじらを立てる、それなりに活発な時代だったのです。いま、ベイ・シティ・ローラーズやキッスの流行を、本気で憂うるおとなはいないでしょう。現在は「無害な音楽」の時代だと言えます。
●ナイーブなヒーロー
フォーク・ムーブメントは、世の中が安定を取りもどしていくにつれて下火となり、はみ出し者だったはずのフォーク・ヒーローたちを、レコード会社が吸収したことで終わりました。その後の数年間、立派なスタジオで、しかるべき伴奏者に従われたアルバムをいくつも製作しながら、彼らはヒーローからスターへと変ぼうしてゆき、やがて若者の音楽は、現在の「ニュー・ミュージック」へと至るのです。
中川五郎もまた、フォーク・ムーブメントの渦中から登場したヒーローのひとりでした。「受験生ブルース」、「腰まで泥まみれ」などで彼は有名になりましたが、フォーク・シンガーたちの音楽的つたなさのなかでも、彼の歌唱の頼りなさ、あまりなナイーブさは、一種の同情さえ感じさせたものです。しかし彼は、六九年に『終わり・始まる』というアルバムを、アンダーグラウンドなレーベルから一枚発表したきり、フォーク・シンガーたちのコマーシャル化の波に乗ることをしませんでした。しなかったというより、きのうまで反体制を叫びながら、きょうからはコマーシャル・ソングを作るといった芸当が、彼にはできなかったのかもしれません。
反面で中川五郎の耳目は、海外の、特にアメリカのシンガー&ソングライターたちのすみずみにまで向けられてきました。このことは、自身がアーティストの場合、特例であると言えます。なぜなら、ひとたび有名になってしまうと、多くのシンガー&ソングライターは、次にどんな歌を作るかという、彼自身の問題にかかりきりになって、外国の名も知れぬアーティストの音楽にまで、気を配る余裕がなくなってしまうからです。また、仮に気を配ったとしても、それは自分の音楽へのアイデアを借りるためであって、中川五郎のようには、広く、虚心に耳を傾けることはなかったでしょう。
それというのも、歌い手として沈黙していた期間、中川五郎は文筆家として、雑誌やレコードの解説文を書いていたのです。皮肉なことに、ロック界でシンガー&ソングライター文化が花開いた時期、彼はずっと、その解説者の役に甘んじてきたことになります。しかしその道で、彼は多くの愛読者をつかんでいました。
●七年目のLP
七六年初め『25年目のおっぱい』が発表されたのは、実に七年目のLPとしてでした。そして一アーティストの六年間の空白は、六年分の重みをもって音楽界の現状に突き刺さったのです。世はニュー・ミュージックの時代でした。「歌」よりもサウンドが、リズムが価値を占める時世に、あのおぼつかない歌唱の、フォーク・ムーブメントのヒーローだった、中川五郎が、「歌」とはどういうものだったかを、「歌う」とはどういうことだったかを、プロテストではなく、彼個人の実生活に立脚して再現しているではありませんか!
25年目の夜に、きみのおっぱいは/ぼくのてのひらの中で ぐっすりとおやすみ/25年目のおっぱいは とても小さいけれど/ぼくのてのひらにぴったりで とても柔らかい/おもえばきみが少女の頃/ふくらみ始めたおっぱいが/とても痛くて つらかったんだってね/25年目のおっぱいは いまぼくのてのなか/ぼくはひと晩じゅう こうしているつもり(「25年目のおっぱい」)
「おっぱい」という言葉が歌に現れたのは、これが最初かも知れません。しかし中川五郎はその言葉を、人間の原初的な愛着から発したものととらえ、使用しています。
小さい頃はおふくろのおっぱい/おとなになったらきみのおっぱい/ぼくはいつまでも 乳離れが出来ない/もうすぐぼくらの赤ん坊が生まれるんだ/ぼくはもうきみのおっぱいをひとりじめ出来ないんだ(「同」)
このように真実の歌を、人前で歌うためには、彼自身がよほど人を信じ、ヒューマニストでなければ不可能でしょう。
●真のフォーク・ソング
この『25年目のおっぱい』のなかで、やがて夫人となる「ともこ」さんと彼は、冬の公園で猫(ねこ)を拾うのです。猫と共にした生活は何年続いたのでしょうか? このアルバムの最終曲は、その猫「まがり」の死が歌われています。
明け方、まがりが死んだ/いつもぶざまなまがりだった/塀(へい)から転げ落ちたり、道路でころんだり/猫らしくない猫だったけれど/死んで硬くなって足をつっぱったまがりは/まるで豹(ひょう)のように見えたよ/たくましくりっぱにみえたよ(「まがり」)
評論家、田川律氏は彼についてこう書いています。「結果的に見れば、『音楽では食えない』ことが、中川五郎に幸いした、というのがぼくの意見だ。そのことで彼はありふれた歌手としてこの現実を生きるのではなく、この現実を生きるなかで歌手でいる、ということをやってのけている。本来、真の意味でのフォーク・ソングは、そうした人間のあり方から生まれてくるものだ」
〔教育社・トレーニングペーパー1978年2月〕
ライナーノーツ一束
ザ・バンド『ロック・オブ・エイジズ』
ロックは巨大な胃袋で、あらゆる音楽のエレメントを詰込んでしまい、ロック・ファンもその事を誇りにしているけれど、ザ・バンドはその胃袋の中に在って、決して消化される事のない石の様な存在です。それも、誤って呑込まれた異物等ではなく、ロックより出でてロックよりも堅い“鬼子”なのです。
ザ・バンドについて語る人は大抵、その音楽の充分な土臭さや、ザ・ホークスというロック&ロール・バンドだったキャリアを論拠に、彼等をして最も正統的な“ロックの守護神”に祭上げようとします。その論議は今日まで大した反論にも遭わずに通用して来たわけですが、その間それを語る人にも聞く人にも、実は気に掛りながら考えずに済まして来た疑問が有る筈です。それは、彼等の写真一枚見れば誰でも感じる素朴な疑問で、“なぜこの人達の顔付きや服装には、ロック・ミュージシャンらしさのカケラも無いのだろう、五人共四〇が近いみたいに……?”と言う事なのです。音楽を音楽として論議する際に、こんな見掛けの発想から出発するのは気が退けるせいか、彼等の風体に関って展開する“ザ・バンド論”には、ついぞお目に掛った事が有りません。でも、ぼくが彼等について思って居る事をお話しするには、あの顔や服装は重要な出発点なのです。人の顔と服装は、当人にとって単に偶然な外面ではないと思いますが、事“ロック・グループ”の中のザ・バンドとなると尚更です。“最もロックらしいロックを演奏する”と称えられながら、彼等は髪ものばさなけれはジャケットも脱がない。あの頑固な様は、彼等がそういう事を“選んでいる”としか考えられないではありませんか。
所で、ぼくは彼等の顔付きを素晴らしいと思うし、あの服装も立派だと思って居ます。男に於ける“いい顔”という物が女のそれと違うのは、コケティッシュであってはならないと言う事。つまりそれは、男が自分自身で在る事の結果として滲み出た相でなければなりません。だから、ステージに化粧をして登場するとか、“可愛らしさ”にしろ“獰猛さ”にしろ、ヘア・スタイルに何かを誇示させている様なロック・ミュージシャン達は、女が男に対する時の“コケットリーの論理”に従って居ると言えます。その点ザ・バンドの五人の面構えからは、些かの虚飾も媚も、ましてや“甘え”も発見する事はできず、彼等は“ロック・グループ”と称される連中の内で恐らく唯一の、男としての伝統の上に立つ男達です。試みに、人気ロック・グループの面々の髪を総てザ・バンドぐらいに切り揃えてしまったら、鈍くてだらしのない顔が続出し、本当に“いい顔”なのはロビー・ロバートソンやレヴォン・ヘルムだと、女の子達も思う様になるかも知れません。
さて服装となると、これはもう完全にその人の意志に支配されて在る物です。それに於ても彼等は、ロック文化の中から生まれて来た風な物の総てを無視しています。彼等の着る物といったら、着古したジャケットかジャンパー、時にはスーツとリボン・タイ。それ等を常に渋く、カントリーに着こなしています。初めの疑問をもう一度繰返すと、彼等は“ロック”を演りながら何故、毛皮のロング・ベストやヘア・バンド、或は上半身裸でステージに立ったりしないのでしょう?
それはそうした事の総てが、彼等にとっては“とんでもない事”だからです。その価値観は髪や服装に止る物ではありません。彼等はステージ・アクションとかライト・ショウ、聴衆の手拍子や踊りといった“ロック”特有のアトラクションを皆、自分達の音楽から遠ざけようとして来ました。例えば、彼等はあのウッドストック・コンサートに仕事として出演しましたが、後に、そのレコード・アルバムや映画からは、自分達を除いてくれる様に申し出ました。何故なら、そのコンサートに出演した事は、ザ・バンドとしては間違いだったと考え至ったからです。又、彼等の“ザ・バンド”と言う愛想の無い名前が、合宿中だった彼等を付近の住民が呼んだその名前である事は有名ですが、あえてそれをグループの名前にしたのは、続々と登場する若者グル―プみたいな珍奇な名前で、自分達が呼ばれるのは御免蒙りたかったからです。
さて、その様な価値観を持つ男達がそれに基いて創る音楽が、それでも“ロックの正統”でしょうか? もし彼等のロックが正統であるなら、グランド・ファンクもスリー・ドッグ・ナイトも、ピンク・フロイドもT・レックスも、みんな異端に廻らなければなりません。ロック・シーン全体を見渡した時、これ等のグループとザ・バンドとでは、どちらが多数派であるかは判りきった事です。又、客観的に考えて、ザ・バンドが潔しとしないロング・ヘアやヒッピー・ファッション、アトラクティヴなステージとか聴衆を乗せる演奏、そういう物こそが“ロック”である事も明らかです。それなのに彼等が妙に“正統派”の扱いを受けるのは、ロックジャーナリズムが、彼等の音楽のあの“完成度の高さ”を“ロックの成果”として必要としたからで、言ってみればそれは“こわもて”なのです。ザ・バンドの音楽は、彼等が古臭い風体をし、ウッドストック・ネーションに与しないその価値観に依ってこそ創られています。それは“音”のレベルでこそロックと呼べる物だけれど、その心は『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の時からロックではない、とぼくは思うのです。けれども、彼等が“ロックヘのアンチ・テーゼとしての音楽”等というケチ臭い物に取組んでいるのでない事は勿論で、ザ・バンドは男としての伝統の立場に立って音楽と関っているのてす。ではその、“男たる伝統の立場”とはどんな立場なのかを、お話ししなければなりますまい。
ザ・バンドの音楽を愛する人なら、それが“南部風”とか“スワンプ”と言った概念の類型として捕えきれる物だとは思わないでしょうが、サウンドを指して呼ぶどんな言葉も、彼等が音楽と関わる“高み”を語りはしません。ロック・ジャーナリズムが持上げたのも、彼等の“音のレベルに於ける完成”に過ぎなかったのです。でも、その“完成のされ方”に耳傾けるなら、それが全く“ロックのメカニズム”とは異質な力に依っている事が解るでしょう。先ず彼等は、LOVEやPEACEを歌いはしません。啓蒙も扇動も無関係な、個人的な歌を唄います。演奏に於いては、“音それ自体が持つ可能性”には目もくれず、自分達の感性の所有になる“音の語彙”を、更に凝縮するのが彼等の努力の方向なので、一つの曲の総ての瞬間は完壁に把握され、彼等の意志通りの具体的な姿を現わします。歌唱に於いても、熟達した役者並みの彼等の表現力は、決して直情的な“シャウト”に依る事をしません。なぜなら、泣いたり叫んだりという事は、その人間が“常態”の外に“安易な場所”を求めようとする“甘え”の所産であり、どんな涙も叫びも、その原因となった苦悩の具体性を語る物ではないからです。ましてやそれを“歌”の中に仕込み、演奏の度に繰返す等という厚顔な真似は、彼等の価値観の許す所ではありません。彼等の表現に従っての唄と演奏とは、その最たる昂まりの時に於いても、厳格な彼等の“正気”に依って抑えられて居ます。聴く者の顔を歪ませずに置かない、あの哀しくも塩からい汚れ声やすすけた裏声、それ等は、唄い尽くそうとする力と抑える力とが相剋する、“男の立場”から生まれて来るのです。彼等の音楽を支えるこの様な原理は、唄えば“破綻”を演出するために叫び、楽器を持っては“音自体の力”を信じて音楽の具体性を捨て、それを拡大誇張して表現する事で聴く者を“聴衆”として画一化する、あの“ロックのメカニズム”とは根本から異なる物。したがってザ・バンドの音楽は“共有”すべき物ではなく、個人が個人として耳傾けてこそ味わう物なのです。
さて、ザ・バンドの五人が頑張るその“男の立場”は、ロックの洪水の中でこそ離れ小島の様な物ですが、元来そこは、音楽に限らず、物を創る人間が位置すべき“伝統の地”でした。創造の歴史は、その担い手たらんとする者を常に安易な理解から隔てて、孤独と緊張の奥深くへと追いやって来ました。だからこそ、創造者とは“選ばれた存在”だった訳ですが、その立場を否定し、なりたい者全員が創造者となり、お互いを認め合う事で幸福裡に生きようとしたのが“ロック革命”だったのです。その“文化大革命”は一世を風靡しましたが、その渦中に在って、遂に孤塁を守り通したボブ・ディランの様な男も居ます。ロック&ロール・バンドとして出発したザ・バンドが、ロック革命の雑兵としてでなく登場した背景には、ボブ・ディランの存在を考えない訳に行きません。
又、創造者が身を置かねばならない“緊張と孤独の地”として、彼等は“南部”を選びました。そこには、LOVEとPEACEのウェスト・コーストとは正反対の、猛々しい自然と根強い因襲とが、彼等の挑戦を受けるべく待っていたからです。“ダウン・トゥ・アース”と言う形容は、彼等の音楽に与えられてこそ相応しい言葉だと思いますが、その場合、その“ダウン”に込められた意味は深長です。それは先ず“挑む”事であり、そして“破れ臥す”事であり、再び、“挑み”又しても“破れる”事なのです。彼等が演奏に於いて唄い尽くそうとする物は“破れ臥す者の心”であり、それを抑える力とは“立って再び挑もうとする意志”です。挑み、破れ、又挑む事の繰返しの中から、その相手である土への塩からい愛が生まれる様に、唄い尽くそうとする心と抑えようとする意志との相剋の内からは、彼等が男たる事を物語る、あの“渋い哀感”が立昇って来るのです。
〔1972年『ロック・オブ・エイジズ』ライナー・ノーツ〕
BOBBY CHARLES(ボビー・チャールズ)
かつてのジャズの生誕の地であったニュー・オールリンズは、今またR&B、ロックにとっても“故郷の廃家”と呼べるでしょう。アレン・トゥーサンやミーターズによる孤軍奮闘があるにせよ、この地のR&B発祥の原動力となったブレーン達は、今や各地に流失し、ファッツ・ドミノも“古典”の座に安住するに過ぎないのだから。しかし、五〇年代末から六〇年代中葉にかけて、ニュー・オールリンズ・シーンから多くのR&Bヒットが生まれた事実、後のモータウン・サウンドが濃くその影を負っていた事実なぞは広く知られるところです。
ボビー・チャールズのキャリアは、その華やかなりし頃のニュー・オールリンズに端を発しています。チェス・レコードのスタッフとしてポール・ゲイテンと組んだ彼は、六一年に“But I Do”という最初のヒットを放ち(このセッションにはアレン・トゥーサンが参加した)、その後もファッツ・ドミノを始めとする地元のアーティスト達に数々のヒット・ナムバーを与えてきたのでした。内でも有名なのが"See You Later Alligator"で、しかし彼自身のそのオリジナル・ヴァージョンはローカル・ヒットに留まり、むしろファッツ・ドミノがヒットさせた"Grow Too Old"を、彼は一〇年後のこのアルバムでは歌っています。
当時のニュー・オールリンズに於ける彼の音楽は、初めて黒人音楽シーンに斬り込んできた、白人によるサザーン・フィーリングとして評価され、根底にはルイジアナのスワンプ・ポップ・イディオムが在ったということです。彼の曲はルイジアナのローカル・アーティスト達がよく採り上げもしましたが、それは所詮ローカルでのこと。ニュー・オールリンズ・シーンの衰退と共に、所属会社をインペリアルに移したり、もっとC&W的な仕事に手を出したりするうちに、ボビー・チャールズの名は、ミュージック・ビジネスのフロント・ラインからは遠ざかっていったのです。
さて、彼自身によるこの名盤が七二年に発表された事は、二つの大きな要因によっていると思われます。一つはニュー・オールリンズの衰退そのものです。もしその地の音楽業界が、後のフィラデルフィア程の活況を今日まで保ってきたなら、ボビー・チャールズはそこの花形ソング・ライターとして、このアルバムでのアーティスト振りとは似ても似つかぬ、コマーシャルな地位に固定されてしまっていたでしょう。いま我々が彼を識るのは、"See You Later Alligator"の作者としてではなく、"Small Town Talk"を、"Tennessee Blues"を創り、そして歌った人物としてなのです。
第二に、恐らくは"Cahoots"の吹込みを通じて、彼がザ・バンドの知遇を得たことに着目しなくてはなりません。ザ・バンドの四作目に当たるこのアルバムで、何か新しい要素を必要とした彼等は、“ニュー”ニュー・オールリンズの旗手として頭角を現してきつつあったアレン・トゥーサンをアレンジャーに起用したのでした。そしてたぶん、このアレン・トゥーサンを介して、ボビー・チャールズはザ・バンドのレコーディングに協力するに至ったと思われます。しかし同時に、ザ・ホークス以来常に“南部”へ目を向けてきたザ・バンドが、ライターとしてのボビー・チャールズに古くから注目していたとしてもそれは当然でしょう。この録音後、彼はウッドストックへと移住したのです。
かくて、コンテムポラリー・ロック・シーンへの、ボビー・チャールズの遅まきなこのデビュー・アルバムは、見事に、ウッドストック・シテゥエーションからこそ生まれたものでした。たまたま?この地で開かれたあのフェスティヴァルの嵐が通過した後、ウッドストックは東部の心ある音楽家達の憩いの村となっていたのです。ボブ・ディラン、ザ・バンドを始め、ハッピー&アーティー・トゥラムやヴァン・モリスン、そしてこのアルバムのバックを固める人達がその住人で、ぼく個人などに於いてはいまも、この連中こそがアメリカン・ロックの良心のシンボルと映っています。では、ここでのウッドストッカー達に簡単に触れて置くと、先ずリック・ダンコ、ガース・ハドスン、リチャード・マニュエル、リヴォン・ヘルムの4人は言わずと識れたザ・バンドのリズム・セクション。エイモス・ギャレット(g)、ベン・キース(steel)、N・D・スマート(ds)は元ハングリー・チャック。ジム・カレグローヴ(b)、ビリー・マンディ(ds)はボーダーライン、くわえてジェフ・マルダー、ボブ・ニューワースetc、と正にウッドストック流ロックの硬骨とインテリジェンストとを併せて体現してきた強者達。プロデュースには、ザ・バンドもかつて手掛けたジョン・サイモン(このシリーズには彼の素晴らしいソロ・アルバムもあります)、リック・ダンコ、そして主人公のボビー・チャールズ自らがあたり、この仲間のホーム・グラウンド、ベアズヴィル・スタジオでこのアルバムは録音されました。
そして出来上がった音はといえば、ボビー・チャールズ生粋の南部の豪胆さと、ウッドストックの知性とが絶妙に結合した、深い男の味わいを湛えたものになっています。これは真に“名盤”の名をここに記せるものですが、その為にはニュー・オールリンズ以後の自ら“歌う”ことへの彼の自覚、そうした要素の総てが、このアルバムに凝縮されることが必要だったでしょう。彼はここで、ボブ・ディラン〜ザ・バンド、さらにはこのシリーズのロジャー・ティリスンといったアーティストとも底流を同じくする、アメリカンとしての強固なパースナリティを確立していて、それはこのアルバムがヒットするか否かとは無関係なところで輝かしい事実だといえます。
ニュー・オールリンズ時代から彼は、ビート・ナムバー以上にブルース・バラッドと称される分野での才能を評価されてきました。ここでも"Small Town Talk"は言うに及ばず、A面の"I Must Be In A Good Place Now"なぞには、ウッドストックの地で一人の男としての自信と安息を得た、ボビー・チャールズの笑みの輝きが浮かび、このアルバムから幾多のアーティストが曲を借りています。
「夜ごと踊りに出掛け、街の灯の総てをながめ、言ったことはみんなやった。
なのに、歳をとり過ぎないうちにと俺は急いで来たんだ。」("Grow Too Old")
B面三曲目で彼は一〇年前に他人のために書いた曲を自ら歌います。
落ち着いて。
〔執筆年不明『ボビー・チャールズ』ライナーノーツ〕
ボシー・バンド『アウト・オブ・ザ・ウィンド・イントゥ・ザ・サン』
その昔、ローマ軍と闘ったケルト人は、個人としては敵が感嘆するほど勇猛だったけれど、“軍”としてのフォーメイションの概念はまるでなかったそうだ。それがそもそも、二〇〇〇年にわたるケルト人の悲運の発端だった――という話をどっかで読んだとき、ははん、その性格はダンス・チューンを演じるときの現代のケルトたちも同様だな、と筆者は思った。つまり、彼らの採れる唯一の方法がユニゾン、要するに“カンペキ一緒”だけだったんだ、ということだ。これはみだりには笑えない。
さらに考えてみると、われわれトラッド・ファンがたとえばアメリカのフォークを聴いて覚える不満、あるいは不快は、常に個人が有意義な全体の過不足ない要素であろうとする近代意識というか、あの小賢しくも道徳的なハーモニーが元凶なんだ、という気がする。
日常生活のハーモニーに強迫されつづける日本人が、金を払って聴く音楽にまでそんなものを選ぶのは愚かだ。アイリッシュ・チューンからわれわれが学ぶべきことは、「遠からん者は音にも聴け、近くば寄って目にも見よ! 我こそは……」の無謀さと、「死なばもろとも」の無思慮さではないのか。そうでなければとても、八年後に迫った“一九九九の年”なんか迎えられるものではない。
一九九九。そう、そのことを考えるたび、現在のわれわれに音楽が必要だとすれば、最適なのはボシー・バンドのそれだろう、と思う。これは、あのノンキな“無人島に持っていく一枚”の話ではない。地球そのものがひとつの無人島になろうとするとき、われわれの末期の音楽はどうあるべきか、の問題なのだ。
心に問うていただきたい。ボシーの熱演の、あのお定まりの昂揚に感じるものは、いったい幸福なのか不幸なのかを。そもそもダンサーのいないダンス・チューンの先鋭化は、生殖を伴わないセックスの奥義のような、底なしの退廃への道ではないのか?(つまり少しも悪ではなく、欲望には限りがない)。
ブズーキの心電図が急博を告げ、クラヴィネットが事態の切迫を哀訴し、イリアン・パイプとフィドルとフルートが同時に理性を捨て去るとき、この昂揚はドラマではない、運命なのだ……と、そこに意志を超えた力を認めたことはないだろうか?
さらに顧みてほしい。いま彼らのリールが全速に至り、白熱し、もうオルガズムは不可避だ、南無三!という瞬間、その向こうに希望的、建設的な未来図が見えるだろうか? 見える人は鬼畜だ。彼らの凄絶な演奏の彼方には、ただ真っ白い闇しかない。
ボシーの面々が演奏に覚える愉悦は、きっと大移動の末に断崖から落ちつづけるレミングの、一匹一匹を衝き動かす愉悦と同質のものだ。それは“ユニゾンの幸福”である。両者には道徳はないが、鉄の倫理があるのだ。
だがひとたびチリーナがうたい出すと、ボシーの世界は一変する。その清浄さ、その安らかさは、あたかも臨死状態で聴く歌声はかくや、という気持ちにさせる。声の温度は暖かくも冷たくもなく、そういう表現が許されるなら、“無温”である。当然、昂揚も南無三!の瞬間もない。ただ、欲望が介在しない至福に満たされた時間、ではある。
昔から、英語のシンギングに比べて、ケルト系シンギングに一様な無重力感が不思議だった。このアルバムでのチリーナの三曲は英語だが、彼女も系譜としてゲーリックのシンガーだ。そして美しく、無温・無重力の資質を備えている。だがそれは、単に耳慣れないゲール語の音感だけに由来するのだろうか?
ケルト人は、その部族、その村ごとに、歴史上もう何回もの“一九九九年”を体験してきた。だから民族の記憶の中に、きっと南無三の後の白い闇が刷り込まれているのだ。レミングが虚空へのダイヴを恐れないように、ケルトのチューン奏者はユニゾンの魔界を恐れない。彼らの無意識が、そこには至福が満ちていることを知っているからだ。そして歌は、あの無温・無重力のゲーリック・シンギングこそは、白い冥界からのいざないの歌声なのだ。
以上が、アイリッシュ・トラッドの不思議についての、そしてボシー・バンドの特異性についての、筆者なりの思案である。
思えば一九七二年、やがてボシーの中心人物となるドーナル・ラニーの名を、初めてレコード・ジャケットのクレジットに発見したのだった。そのアルバムはクリスティ・ムーアのデビュー・ソロ"PROSPEROUS"。プロスペラスはアイルランドの小都市で、ドーナルやクリスティのトラッド・プレイヤーとしてのスタートが、この街のジョージアン・ハウスというパブで切られた。だからこのデビュー作はいわばクリスティの凱旋レコーディングだったわけで、そこには後のプランクシティの構成員であるアンディ・アーヴァイン、リアム・オ・フリンも加わっていた。
だが、当時ロンドンのトレイラー・レーベルから数々のトラッドの名作を産み出していたビル・リーダーのプロデュースは、今から思うと多分にイングランドの市場を考慮した作りであり、おかげで辺境のファンであるわれわれは、まだこのアルバムによってアイリッシュの、ましてやケルトの何たるかを掴みとるわけにはいかなかった。
この五月、ドーナル・ラニーにインタビューした茂木健氏の報告によると、ドーナル自身にとってもこの時代はトラッド世界への第一歩であり、"PROSPEROUS"が彼のレコーディング・デビューだったという。そのメンバーがプランクシティの母型であり、さらにドーナルはそこを抜け、ボシーに投じたことは広く知られている通りだ。そして先述の茂木氏のインタビューでは、ドーナルがボシーに参加した最大の興味が、チューン演奏におけるリズム・アレンジにあったと語られている。
われわれファンの耳に“アイリッシュ的なるもの”がおぼろ気にイメージされ始めた時代を、もう少し振り返ってみたい。当時は、先の"PROSPEROUS"と同様かそれ以上に、すべてがイギリス向きの姿勢だった。歌は英語でうたわれ、録音もほとんどロンドンで行なわれていた。それが次第に、ジャケットのクレジットを読もうとしても、発音不能な表記を散見するようになった。七〇年代も中期と呼べるころだ。そして、そういうアルバムは概してダンス・チューンが多い。歌は男性シンガーによるものでも、ある不思議な軽さで、朝みるクリアな夢のようにうたわれていたのだ。
そのチューンの部分に、何かの楽器を自分で演奏する人たちの関心が集まった。すでにアメリカの、ブルーグラスやオールドタイミーを手掛けていた人たちも、“アイリッシュ”なるものに新しい興味を抱いた。ということは、それを演奏することの“レミング効果”は人種を超えて、ある程度は日本人にも作用したということかもしれない。
その点、当時どんどん登場したどのアイリッシュ・バンドよりも、このボシー・バンドが日本のプレイヤーたちをふるい立たせたはずだ。楽器を手にしたときの倫理は、ましてやそれが愉悦の倫理であれば、アイテムが異国のものである障壁を忘れさせたのだろう。
このボシー・バンドのアルバム『アウト・オブ・ザ・ウィンド・イントゥ・ザ・サン』がダブリンで吹き込まれたのは一九七七年。アメリカでは心あるロックが壊滅状態に陥り、日本ではひとりトラッド・ファンばかりが、続々登場する新人やバンドにほくそ笑んでいた。
そして一二年の時が流れた一昨年。先行していたエスニック・ブームがネタを求めてついに北半球にも及び、ヨーロッパの陰のフォークロアたるケルトをひきずり出した。それはいいとしても、その代表的ヒットがあのエンヤである。ひと思いにエンヤとこのボシーを結びつけて語る術を、残念ながら筆者は知らない。根本的相違を挙げることはできると思うが、ここではやらない。ただボシーの紅一点チリーナ・ニ・ゴーナルよりも、エンヤのほうが明らかに美女である。そういえばメアリー・ブラックもドロレス・ケーンより美女だが、その二人の音楽的距離よりも、エンヤとボシーの距離は遥かに大きい、とだけ言っておこう。
最後に、クアーズの突き出しにイカの墨造りを出すようなモノトーンのバーで、このボシー・バンドを流した場合のことを考えてみたい。そこでは、ハッキリ言ってエンヤが勝つ。で、その理由はなんと、くだんの茂木氏のインタビューの際にドーナル・ラニーが述べているのだ。
「あらゆるエスニック・ミュージックは、言語と同じくらいどれもが特殊で、細部まできっちり決められたお互いに異なったものだ、と私は感じている」
これがなぜ、ボシーよりエンヤが歓迎される理由なのかというと、わが国のエスニック音楽のファンたちは、その大好きなワケを次のように理解し、受容しているからだ。
「あらゆるエスニック・ミュージックは、言語を超えてどれもが一般的で、細部はともかく本質はお互いにきっちり同じものだ、と私たちは感じている」
それならば、そのバーで日本酒とチリビーンズもオツだろう。だがボシーのファンには、必ずとは言わないがなるべくなら、ウナギの燻製にスタウトなどはいかがかと思う。もちろん場所がそのバーである必要はまったくなく、壁のダーツに矢が刺さったままの万年床の部屋で構わない。要はあの“レミングの愉悦”をボシーと共有し、来たるべき一九九九年をユニゾンで迎えられる気がすればいいのである。
〔1991年8月21日CD『アウト・オブ・ザ・ウィンド・イントゥ・ザ・サン』ライナー・ノーツ〕
※初出時は、ペンネーム「すぎひら これはる」が使われた。
シャーリー・コリンズ&アルビオン・カントリー・バンド『ノー・ローゼズ』
このCDによって初めて、一九七一年作のこの名盤をお聴きになる方にまずひと言。この音楽を位置づける系譜や、発表以来の評価を少しもご存じなくとも、貴方にある感性さえあれば、これを聴き深く感動されるはずだ。その場合“ある感性”がどんなものかといえば、音楽を聴く上で最も基本的なそれ、つまり流行や情報と無関係に、自らの耳に従って真の音楽を聴き分ける能力、ということになる。とはいえそのライナーを書く立場としては、むしろ当時を知る人々に対して、二〇年余を経てCDの形でこのアルバムに再び会した、その感慨といったものを代弁しておく義務があるような気がする。
「再び」とつい書いたが、そう、本アルバムが日本発売されるのは今回が最初である。実は七三年だったか、日本の某大手レコード会社の“HARK! SONG OF OLDLAND ”と題したブリティッシュ・フォーク(当時の業界語)シリーズを、筆者が監修した。そのトリをこのアルバムで飾るはずだったが、売れ行き芳しからざるゆえか、計画は半ばで頓挫した。日の目を見た組にはリンディスファーン、シェイラ・マクドナルド、マーク・エリントンなぞがあり、中絶組にはこのアルバムを筆頭になんとTim Hart & Maddy Prior“Summer Solstice”もあった。
売上げ成績についてはともかく、ことの責任の一端は筆者にもある。つまり私的性向として、シリーズの始めは軽く、次第にトラッドの度を深めるように構成したことだ。個人的に同シリーズはこのアルバムのために在った、と言っても差し支えなかった。こんな事なら全体の趣向になぞ凝らず、子供の食事みたいに好きなものを先に出してもらうべきだった!と、後悔に暮れた思い出がある。
そんなわけで、過去このアルバムに触れた人は英ペガサスからのオリジナル・イシュー(これのみダブル・ジャケット)、ムーンクレストの再発盤、その米国盤のシャナキー盤なぞ、いずれも輸入盤によっていたのだ。
さて、どのジャンルの音楽にも、その真価を決定的に世間に印象づけたアルバム、というものはあるだろう。“トラッドの世間”でのそれは、フェアポート・コンヴェンションの“リージ&リーフ”と“フルハウス”、スティーライ・スパンの“プリーズ・トゥ・シー・ザ・キング”と“テン・マン・モップ”、そして本アルバム“ノー・ローゼス”ということになる。
ところで“世間”とはいったが、このトラッドを聴く人のそれは極端に狭い。では本国の英国においてはいかがかというと、本アルバムの主人公シャーリー・コリンズ自身が、さる雑誌のインタビューにこう答えている。「ええ、よく売れました。私の一枚のアルバムで、九〇〇〇は売ったと思いますから、それは成功でした。これを聴く素晴らしい人たちが、こんなにたくさんいたという意味でも。」
九〇〇〇枚! この数には驚かされた。せめて九万の間違いではないかと、指で〇を数え直してみたが、やはり〇は三個だった。しかも彼女は、その成果に充分満足している。日本におけるトラッドの“世間”の狭さは自明としても、本場にあってかくの如しだ。それでもこの“ノー・ローゼズ”の残した意味は、英国の音楽シーンにとっても、またシャーリー・コリンズ自身にとっても大きかった。
一九七一年、見開きオリジナル・ジャケットの内側の写真を見て、「この音楽は只ならない」と緊張したのを覚えている。英国の風土を象徴するような、なだらかな草原と濃い緑の木々。そこを寄り添って歩く、シャーリー・コリンズとアシュレイ・ハッチングス。両人が結婚していたことはやや後で知ったが、この写真は意味深長なインパクトをもっていた。
フェアポート、スティーライを経てきたいわば“電気畑”のハッチングスと、リヴァイヴァリストとして名の高かったシャーリー・コリンズとの出会い。このアルバムの価値を最も単純に表現すれば、その出会いの意味と成果の大きさだろう。「英国にはトラディショナル音楽が生きている!」とロックサイドの演奏によって知らされて以来、日本のわれわれはそのオーセンティックな人々とロック側との距離と質の相違について考えつづけ、ときに悩みもしてきた。それがこのアルバムで、両者の大いなる邂逅を見届けたのだ。先述のふたりの写真は、その具体的象徴である。
このことのセンセーションは、当の英国においても同質だった。純粋主義の民謡復興運動家たちも、その多くはアルビオン・カントリー・バンドが提出した音楽に異を唱えることを控えた。そしてこの“ノー・ローゼズ”で展開されたトラッド解釈は、録音に参加した誰にとっても“親しんだ方法”ではなく、アシュレイ・ハッチングスが主導する集団的実験だったのである。
ロック畑、トラッド畑、中世音楽畑から集まった総勢二六名が出入りする録音には、当初一〜二名の伴奏者がつくだけのいつものレコーディングだと考えていた、当のシャーリー・コリンズが面食らったという。曲によって次々と異なるミュージシャンが現れ、熱心に参加するばかりか担当以外のセッションも凝視し、ときには意見を述べる。すべてを心得ているのはハッチングのみらしく、全体像が掴めない彼女としては、日頃シンプルな伴奏とナチュラルな声で歌ってきた自分に、このグループの集合体のような行き方が果たして適うものかどうか、危惧さえ抱いたらしい。
だが結果は音楽史に刻印されたとおり。この以前にもフェアポートやスティーライによるロック解釈の成功例はあったが、単一グループには不可能なほどの曲による多面的な意匠と、同時にアルバム総体が描く世界の美は、ここに初めて聴く完成度を示していた。
“アルビオン・カントリー・バンド”とはレコーディング中の思いつきでなされたネーミングでだが、イングランドを表す古語の“アルビオン”という言葉は、たしかにこのアルバムの世界の統一感を言語化している。以後も“イングランド”にこだわることになるハッチングスの志向と、サセックスのフォークロアを依りどころとするコリンズの資質とが、多彩な外面を持つこの“ノー・ローゼズ”のコンセプトの中心で結びついているのだ。
だがまた、このようなバンドがいわば一期一会のものであることは、ハッチングスも覚悟していた。その後もアルビオン・カントリー・バンド、アルビオン・ダンス・バンドなぞの名義で活動はしたが、それはいずれも通常のバンド形体であり、表現する音楽もおのずとこれとは違っていた。一方シャーリー・コリンズはこのアルバムのCD化に際して当時を回顧し、それを自分の「フォーク/ロックへの最初の冒険」と位置づけ、結果を評価している。そして事実は“ノー・ローゼズ”が彼女にとって“最後の冒険”でもあったようであり、その後出した四枚のアルバムはいずれも元来のスタンスに戻ってのものだった。それはそれでいいのだが、七八年の“For As Many As Will”以来、彼女の新録音は一五年の間、ない。「トラッドのシンギングは歌手個人の実情を表現すべきものではない」のが筆者の持論だが、この間の彼女が生きた人生は、トラッド歌手よりもシンガー・ソングライターに適したものだった。夫のハッチングスがある女優に走り、彼と離別する。彼女自身はうたうこと自体にも自信を喪失し、人生にナーヴァスになって現在もサセックスに逼塞している。
だから現時点で振り返るこの『ノー・ローゼズ』は、モノクロームの歌声をもつトラッド歌手シャーリー・コリンズが、束の間そこでうたった“日のあたるステージ”なのである。
一曲ごとのルーツやソースに関しては、別掲されたシャーリー・コリンズの自筆ノーツを参照されたい。ここでは演奏とその意匠について、このアルバムの意図が最も象徴的に表れていると思える箇所に触れたい。
まず冒頭“Claudy Banks”のイントロ、リチャード・トンプソンのギターとロジャー・パウエルのドラムスにシャーリーのヴォーカルが被るが、初めて聴く方が覚えるかもしれない音と声の違和は、そのままアルバムのコンセプトとして最後まで持続する。ヴォーカルは起伏することなく常に一律だ。そしてアシュレイ・ハッチングスのベースとサイモン・ニコルのギターが入ってリズムが総力になる瞬間、舞台がフルライト変転したような昂揚が、ロックとトラッドの相乗効果なのだ。
この相乗がアルバムのひとつの眼目で、その昂揚は筆者が個人的に最も好きな7曲目、“The White Hare”に顕著である。ここではアカペラの4重唱で3節までうたわれた後、リズム隊を伴ったニック・ジョーンズのフィドルが登場してくるが、この瞬間にロックという“言語”の表現力、トラッドというマテリアルの豊穣さが同時に眼前でリアライズする!
四曲目“Murder Of Maria Marten”は、そのドラマティックな構成でこのアルバムのファンを獲得した曲だ。ヴァン・モリソンとチーフテンズの共演盤の1曲目“Stars OfThe Country Down”と同曲で、ここではリチャード・トンプソンのギターとニック・ジョーンズのフィドルがフィーチャーされる。これを聴き自身の血肉となったロックを再認識するもよし、魅惑的に誘うトラッドの暗がりに迷い込むもまたよし。だが願わくは、そうしつつもこの官能的ミステリーが現代に表現されていることに、その演奏者たちがこぞってわれわれと同時代を生きる人々であることに思いを馳せていただきたい。
〔1993年6月『ノー・ローゼズ』ライナーノーツ〕
ニック・ジョーンズ『ペンギン・エッグズ』
「ニック・ジョーンズが交通事故で大ケガをして、命も危ぶまれるほどだ」という話を聞いてから、もう一〇数年が経つ。命はとりとめたものの障害は深刻であるらしく、未だに彼が復活したというニュースは聞かない。車椅子でもうたえない状態なのだろうか? ロニー・レーンだって車椅子で来日したし(公演は痛々しかったが)、畑ちがいだがカーティス・メイフィールドも先頃車椅子でレコーディングしたというではないか。あるいはニック・ジョーンズ自身、衰弱した歌をうたうなんてトラッド・シンガーの矜持が許さないのかもしれない。あの汗臭い彼の風貌からして、肉体的ハンディを何より恥じるということは大いに考えられる。だとしたら元気だった頃の彼の歌こそ、大地と共に生きる人間の生命活動だったということか。
七〇年代にトラッドを聴いていた者にとって、うたい手としてのニック・ジョーンズはマーティン・カーシィ、ディック・ゴウハンと並ぶ、いわば三巨頭の一人といった存在だった。好き嫌いはおいて、“存在”という意味でなら当時の誰もがそれを認めたはずだ。筆者がレコード回しをしていた渋谷ブラック・ホークでも、まず最初に市民権を得た(とこっちが思った)トラッド・アルバムは彼のファースト『Ballads and Songs』である。そこでは著名なバラッドが何曲かうたわれていて、当時既に人気グループだったフェアポートで聴き馴染んだ曲目もあった。そこで暗に比較させ「いかが?」と問うべく、両者のアルバムを並べて掛けたりもした。だがふたつの演奏の間には、いわゆるヒット曲とそのカヴァーの関係ではない、なにか次元の違いのようなものが横たわっていた。以後、それが何かを突き止めることが、トラッド・ファンに課せられたテーマともなっていった。
ツェッペリンだろうとフェアポートだろうと、一九七〇年に活動していた全てのバンドに対して、その時その時代にその音楽をやる意味を問う気分が聴き手側にはあった。また全てのバンドが、自分達なりにその問題を考えたのだと思う。エレクトリックでトラッドを演じるバンドにとっては、それが彼らの選びとった自己主張だったのだ。
だがニック・ジョーンズやマーティン・カーシィやディック・ゴウハンが、そのレースに参加しているとは思えなかった。リヴァイヴァリスト(後に知った言葉だが)たちはアップ・トゥ・デイトな意義を求めてうたうのではなく、その歌は人間の何かもっと普遍の命題を背負ってうたわれているように聞こえた。それに興味を持つかどうかが、ある人がトラッドに近づくか否かの分かれ目だったろう。七〇年代初頭の時点で、ロックフォームのトラッドとアコースティックなトラッドとの次元の違いとはそういうものだった。
英国では同時代の人間が伝承の民謡をうたっている。その精神の在り方を解釈しようとするとき、視点はどうしても自我を超えた“歌”の優位性に向き、歌唱法を律する“型”の存在に吸い寄せられた。今でもその着眼を訂正する気はないが、しかし、それは主にマーティン・カーシィとディック・ゴウハンに触発されたアプローチだった。三巨頭のもう一人、このニック・ジョーンズから感受したものは、当時からちょっとニュアンスが違っていたのである。
他の二人のシンギングには、「厳然たる」と形容したい不動の姿勢があった。それがむしろ解釈を容易にしてくれたのだが、ニック・ジョーンズの歌唱には妙に生暖かい人間味が残っていた。石のように固い低音部と、鋼のように鋭い高音部の声とが綾なす歌。それは熟達したトラッド・シンギングでありつつ、一方ではうたい手の潔癖でデリケートな性格をも暗示していたのだった。
いかにも田園のシンガーといった素朴な風貌の彼が実際はどんな人物か、それを窺える一、二の傍証のようなものはある。第一は『Ballads and Songs』のライナーで、デイヴ&トニ・アーサーが「彼はもどかしいくらい謙虚な人物」と書いていたことだ。
第二は南イングランドのクラブでニック・ジョーンズの前座を務めたことのあるセミ・プロ・シンガー、アンディ・ピッカーリング氏が滞日中に語ったエピソードである。
それによるとニックは、休憩時間に自分から氏とその共演ギタリストに話しかけてきた。話題は共演者のギター・スタイルについてであり、二人は互いに自分のスタイルを演じて見せ合ったという。氏の感想は、手の内を公開したがらないのがミュージシャンの常なのに、ニックのその態度は親しみと気持ちの良さに満ちていた、というものだ。トラッド界でのスターとセミ・プロの立場の差を考えれば、その感想はもっともに思える。そしてデイヴ&トニ・アーサーの見解とも、一脈通じ合うところがあるといえるだろう。
フォーク・クラブの楽屋でデモンストレイトされたという、そのニック・ジョーンズのギター・スタイルはもっと広く語られ、深く検証されて然るべきものだ。ちなみに先述した三巨頭の他の二人、マーティン・カーシィとディック・ゴウハンも独自なギターの境地を拓いており、ともに名手である。ニック・ジョーンズも含め、このことは単なる偶然ではない。それはトラッド・シンガーがもし己の伴奏楽器をギターとするなら、米国流モダン・フォーク系のスタイルを踏襲している限り、金輪際一流にはなり得ないということだ。
米国流の伴奏で間に合うような歌なら、それはトラッドとしての初歩的段階に過ぎないといえる。実際ひとかどのトラッド奏者がギタリストでもある場合、皆その歌の為の奏法と、舞踏曲の奏法とを確立すべく研鑽を積んできている。もともと和音(コード)ではなく旋法(モード)を基調とするトラッドに、ギターという伴奏楽器はなかった。英国流のアコースティック・ギター奏法は、そこから編み出されてきたものである。
ニック・ジョーンズのギターは七〇年のファースト、七一年のセカンドでも既に歌に見合ったものとなっていたが、真に独自なスタイルを獲得したのは六年後の三作目、七七年の『Noah's Ark Trap』においてだろう。このアルバムは彼の個人史のなかでも画期的とされる傑作である。というのはここに至って初めて、トラッドの録音にプロデュースの概念が導入されたからだ。それまでは彼のファーストがビル・リーダーの自宅で“差し”で収録されたように、この世界では“うたいっ放し”でレコードは成立した。だがこのころから同時発生的に、曲による楽器編成やその配置、音の捉え方に制作意図を明確にしたアルバムが登場してきた。『Noah's Ark Trap』はその代表例であり、そのなかでニック・ジョーンズのギターは際立って雄弁なものとなったのだった。
その特徴はパーカッシヴなタッチのリズムの強調と、その“間”の存在である。普通リズムを刻むといえばタイム・キープと躍動感の創出が役割だが、彼のギターの目的はそこにはない。使命は空間の緊張を保つことであり、事実その張り詰めた音はヴォーカルのブレイクでも曲のテンションを落とさないのだ。ニック・ジョーンズの硬物質でウォームな歌にとって、それは絶好の背景となった。彼が他人のレコーディングに参加することはときにあるが、誰に対してもその奏法が最良なわけではない。あのギター奏法はあくまで、彼自身のために生み出されたものである。
伴奏にまわった彼は、むしろフィドル奏者として登場することのほうが多い。そのフィドル・スタイルは、力いっぱい弓を弦にこすりつけるような重く泥臭いものだ。これはピリピリしたギター・スタイルとは対照的な効果を持ち、自分自身よりも他人のアルバムで重宝がられている向きがある。シャーリー・コリンズの『No Roses』におけるプレイは、フィドルの名演として記憶に残るものだった。
七八年に『From the Devil to a Stranger』を出したニック・ジョーンズは、八〇年には初めてトピック・レコードからトニー・イングルのプロデュースで、この『Penguin Eggs』を発表する。そしてその直後に交通事故に遭い、目下これが彼の最新にして最後のアルバムという状態にある。
共演者はフリーリードから自己名義のアルバムも出しているメロデオン奏者のトニー・ホール、リコーダーとヴォーカルに女性のブリジット・ダンビー、そして朋友デイヴ・バーランドがヴォーカルで参加している。
ここには『Noah's Ark Trap』にあったような、あの張り詰めた空気はない。むしろカドがとれたヴォーカル、自然でリラックスした演奏がトニー・イングルのプロデュース意図だったかもしれない。だとしてもその目論見は、シンガー・ギタリストとしてのニック・ジョーンズの円熟が前提である。“硬物質”とはもはやいい難い歌声は有機性を高め、曲ごとに表情の変化をみせる。ギターもが(1)ではバート・ヤンシュを、(5)ではブルース・コバーンを、(7)ではジョン・レンボーンをといったふうに連想を喚起し、のどかなコーラスを含めて演奏全体の絡みも有機的だ。
いうなればこれは画期的ではないが、静謐で親密感に満ちたアルバムである。その意味ではニック・ジョーンズの田園的特質を、最もピュアに抽出し得た作品ともいえる。もし彼が不自由な身体を諦観しつつ、それでも時に過去の自作を聴くとしたらこのアルバムかもしれない。
〔1994年4月『Penguin Eggs』ライナーノーツ〕
コラムは歌う
1枚のレコード
レオン・ラッセル『カーニー』
―ピエロのシニカルな歌声が聞こえる
●自虐的な綱渡り
ロールス・ロイスにトレーラーを引かせ、「ロックン・ロール・サーカス」を打って廻るレオン・ラッセルから、新しいアルバムが届きました。彼はそのサーカスの、団長兼ピエロの筈なのに、ジャケットに団員達の姿は無く、彼は顔に白粉を塗ったまま、イルミネーション付きのミラーの前で虚脱し、ファナティックな眼ばかりを光らせています。
レコードに耳傾けるとそこからも、スワンプ・クワイアのあの「ラッセル讃歌」は影を潜め、その代わり、「お祭り」という物が持つはかなさや感傷が、ピエロのシニカル(冷笑的)な歌声に滲み出て来るのです。レオン・ラッセルはその成功の頂点に在って、手塩に掛けたあのスタイルを放り出してしまったのでしょうか? まるで敗軍の将の様に、残った手勢数人と共に、懐古的「ブルー」を湛えた曲の数々を演じています。
最初の1曲「タイト・ロープ」は、強くリズミックなタッチのピアノとドラムのイントロが、強引に主役の登場を促し、応えたラッセルは、第8ラウンドを迎えた老チャンピオンの如くにコーナーを立ち、唄い出します。
俺は張られた網の上/片側は氷、片側は火/君と俺とのサーカス・ゲームだ。/俺は張られた網の上/片側は憎しみ、片側は望み。/だが君の目が見る一切は、俺の頭のシルク・ハットだ/おまけに張られた網だけが、居場所と思っている。/さても失策の茶番劇で、俺の身体は真っ逆さま。まるで物見高いキリンよろしく/君は俺の落下を覗き込む。/が、結構、その筋道を語る程、君の目が利く訳はない。(大意)
この自虐的な綱渡りを、「恋」のそれだと思うよりも、遥かに面白い解釈が有ります。それは「君」と訳したyouを複数と考え、「君達」、つまり彼の音楽を聴くぼく達だと考える事です。すると忽ちこの歌は、「最後のスーパースター」と呼ばれる彼の、シニカルなストリップ・ティーズに聞こえて来ます。彼は今日まで、自分で自分をプロモートする事で地位を高めて来ました。その地位が今やロック・シーンのトップである事も、そのやり方は他の誰にも真似出来ない事も、又、聴衆が充分に彼を盲信している事も、彼はよく承知しています。でも、彼をそれ迄にさせた彼の知恵とエネルギーとは、「スワンプの教祖役」に倦み始めた様です。かつてのボブ・ディランが、『アナザー・サイド』を発表することによって、自分の「ファン」の切離しを計った様に、レオン・ラッセルも又、自分が作ったイメージに自分が固定される事を、創造者の自立心から恐れているのです。
●マジック・ミラーに映し出されたものは
2曲目の「アウト・イン・ザ・ウッズ」では自問自答しながらうっとおしいジャングルをさ迷い、奇怪なサウンドが途切れた所で、「私は森を抜出て来たんだ、森の中で破れ果て」とリフレインしますが、この森は、前作まで彼を取巻いていた、あの濃厚なスワンプ・サウンドの事を意味する様な気がします。
そう思い始めると、B面のメランコリックに甘いナンバー、「ディス・マスカレイド」迄もが、恋の語らいを借りて、彼が仲間の誰かに贈る、別れの言葉に聞こえて来ます。
こんな寂しいゲームをやって、僕等は本当に幸福なのかい?/言うべき言葉を探し求めて、理解は何処にも見つからない/僕等は仮装舞踏会に失敗したんだ。
出直しが利かない訳ではないけど、ああ、それはとても難しい/君が仮装舞踏会に破れた今は。
つまり彼はこの歌で、振られるのではなく振ろうとしているのです。とても優しく。
さて、ロマン溢れる歌の数々が、古めかしくもドラマティックに演じられたこのアルバムの中で、エゴイストでナルシストの彼の姿を、驚く程正直に写し出しているのは、やはり、ジャケット写真にも登場している「マジック・ミラー」なのです。
街道脇に佇んで/旅行鞄を傍に/行きたい処など有りはしない。大勢が僕の行手を眺めやり/又大勢はすれ違う。/黙して想う時の中に、凍る事は何も無い。
泥棒に対して僕は悪漢/説教師には罪人。悲しむ誰かには不幸になるし/失敗者の前では馬鹿になる/生徒達に対して僕は先生昔の僕の先生の様な。/流れ者には心を閉ざすし、兵士に対せば死んだ誰かに過ぎなくなる。
教会も政治家も、知っているのは番号ばかり/この渦の中では、友達も僕も同じ物。魔法の鏡よ、それとも只、誰もが同じ様なお互いを見るだけだろうか?
大勢がぼくの行く道を行き/又大勢はすれ違う。/僕の瞑想の時の中に。解る事は何も無いのだ(大意)
この歌の魔法の鏡は、その主が大勢のために、「スワンプの教祖」になったのではなく、他人を抽(ぬき)ん出た自分を探すためだった事を、写し出しています。
〔『ミュージック・ライフ』1972年12月号〕
アルバム・レビュー
■『ロー・ヴェルヴェット/ボビー・ウィットロック』
去年、ブラック・ホークでは随分多くのスワンプ・スタイルなアルバムを集めましたが、数が増すに従って明らかになって来た事は、生来南部的コンセプションを備えた人と、流行に乗じてプロデューサー任せの作品を作ったらしい人とが居る、という事でした。以後、付焼刃のスワンプもどきは敬遠させて頂く事にしたのですが、そうした選択の中で一番困惑させたのが、このボビー・ウィットロックの二作品です。
ボビー・ウィットロックと言えば、デラニー&ボニーのフレンズやデレク&ドミノスを通じて、あの一族では関脇格くらいに目されていた人だし、分けても「レイラ」で聴かせたシンガー&ソングライターとしての可能性は、ソロ・アルバムの発表を大いに期待させもしました。
そして当人もそう思っていたかの様に、矢継早な二作品の発表となったわけで、この『ロー・ヴェルヴェット』か二枚目に当たります。
ダンヒルという、仲間達からは縁遠い会社への吹込みのために、前作のジャケットでは演奏者の表示が押えられていましたが、消息通の話では、エリック・クラプトン、ジョージ・ハリスン、デラニー・ブラムレット、ジム・ケルトナー等、大層なお歴々の御参加を賜わったとか。
このアルバムにも匿名の奏者が幾人か居て、大かた前回も御尽力下すった方達なのでしょう、サウンドの仕上がりに選ぶ所は有りません。
ボビー・ウィットロックという人はきっと、ラッシュするのみが天性のボクサーの様に、濃密なる音の中でシャウトする事だけをマニアックに試みる歌手なのです。
プロデュースさえ上手く行けばそれも面白いでしょう。しかし、ジミー・ミラーのストーンズナイズされたうっとうしいサウンドは、残念な事にボビーの異常性と相殺し、殆んどの曲に一律なテンポは、メロディーを無きに等しくしています。スワンプ一族の良血を引く筈のボビー・ウィットロックのアルバムがうるさいばかりで無味なのは、当人が音に埋没し、浮上がった“個人”を聴けないからなのです。
〔1973年3月『プラスワン』創刊号〕
■『サンディー/サンディー・デニー』
サンディー・デニーは嘗ての僚友リチャード・トムプスンと並んで、“立派だ”とぼくが思う、英国には希有なシンガー=ソングライターです。リチャードの面目はトラッドに準じた作曲と歌唱に在りますが、サンディーの立派さは、現代的な彼女の自我の幾側面かが、各々の歌の中で格調高く律せられている所に在るのです。又、その歌唱の陰影を帯びた厳しさは、大方の英国の男性シンガーの及ばぬ物です。
さて、ソロ二作目のこの『サンディー』の伴奏陣は前作よりも少人数で、ギタリストをリチャード一人に絞った事、フィドルがバリー・ドランスフィールドから馴染みのデイヴ・スウォーブリックに代った事、米国のスニーキー・ピートを呼んだ事、そして二曲にアレン・トゥーサンのブラス・アレンジを使用した事などが注目されます。
彼女はフォザリンゲイ以来、アルバムにはディランとトラッドを一曲ずつ入れて来ましたが、計らずもこの事は、彼女のコンセプションを形成する要素の両極を示しています。
つまり、彼女の音楽の厳しさや威風はディランからザ・バンドへと繋がる物であり、他方冷気と陰影と素朴さとは、深く英国の土に拘った物です。
しかし、このアルバムにおけるトレヴァー・ルーカスのプロデュースは、米国的要素に比重を置くのと共に、前作中の「ジョン・ザ・ガン」の如き壮絶な演奏を控えさせています。従ってアルバム全般の印象は、端正で平明な落着きに支配される事になりましたが、ニュー・オールリンズのブラスやウェスト・コーストのスティールが持込まれたこのアルバムでは、強くて生な、それ等の要素も平然と消化され、よくある“アメリカ志向型”グループなどの遠く及ばぬ完成を、サンディー・デニーは主体的に遂げています。
尚、前作にも読まれた松宮英子氏に依る訳詩は、ぼくの知る限り、ロック・ジャーナリズムに現われた初めての、鑑賞に価する作だと付記して置きます。
〔1973年3月『プラスワン』創刊号〕
■『ビロウ・ザ・ソルト/スティーライ・スパン』
晩餐のテーブルの中央に塩を置き、それを境に上座は主人達、下座は召使共。"Above the Salt"には料理の山々、"Below the Salt"には黒パンと僅かの野菜。スティーライ・スパンの四作目のジャケット・フォトは、タイトルの言葉を具現して芝居掛りです。
さて、B面の一曲目"King Henry"は、王にねんごろにされた妖怪が一夜明けると美女に還る、という歌で、このアルバムのメイン・チューンと目されますが、そのトラッド曲を彼等が扱う様は、「これがあのスティーライ・スパンなのか?」と耳を疑う安仕立。ファジーなギターとヘヴィーなベース。過ぎた劇性。
これ等は聴き手に示す媚態として、トラディストの則を逸した物です。
この曲での主役はマーティン・キャシィに代って入団したボブ・ジョンスン、ベースはアシュレイ・ハッチングスに代ったリック・ケムプ。
その新生スティーライ・スパンの努力はこの曲を典型として、良く言えば「楽しめるトラッドの提供」に、悪く言えば「富と名声に繋がるトラッド処理」のために払われています。したがって、二、三作目での曲に対する厳しい姿勢は、やはりマーティン・キャシィの引導に依っていたと思わざるを得ませんが、残党が志を曲げた今それは忘れ、「楽しめるトラッド」というその新しい方針に於いて、評言を加える事としましょう。
トラッドの演じられたアルバムで、これ程若者達を興奮させた物は過去に有りません。ブラック・ホークでは去年のヒット・アルバムの一枚でした。それは彼等が美しい曲を集め、サウンドの陰陽を強調し、構成にドラマを持たせて、時に中世の聖歌隊の様に歌う等するからですが、それ等は総て破綻なく魅惑的な商品と成っています。フェアポートにカレヴ・クアイが加入した等と伝えられる今、若者にトラッドの魅力を教える役目は、やはりスティーライ・スパンに期待せざるを得ません。
そして、このアルバムを好きになった人には、彼等の三作目そして二作目を聴いて頂きたいものだとも、思わずにいられないのです。
〔1973年3月『プラスワン』創刊号〕
■『さらばアンドロメダ/ジョン・デンバー』
余り自分で曲を書かないせいか、ジョン・デンバーはよく新譜を出します。ここでもお馴染みビル・ダノフを始めジョン・プライン、ホイト・アクストンなどの作品を採上げて選曲の趣味は何時もながら結構なもの。しかし前作あたりから、アルバムの作り方がどうも平板に流れ気味で、ロッキー山中にお籠りなぞ決めこんでいると歌手たる者、下界で何がリアリスティックなのかに疎くなるらしい。先ずこの人は、歌唱そのものが元来楽天的で鬼気迫るものが無いのだから、ストリングスなぞあしらってナルシスティックに唄っていられたのでは、ロッキーの清涼な空気なぞ死んでも吸えない身の我々にとっては退屈せんばん。うんと気に入ったメロディーの曲ならギター一本で唄うし、余り自信の無さそうな自分の曲ならエリック・ウェイズバーグの様な腕っこきを大いに引立ててもっともっと渋く仕立てるとか、とまれアーティストは人様の前では完全に居直っていてほしいもの。満天の星の下で唱歌を唄う様な気分に聴き手が何となく同調してその気になると思ったらそれは甘い考え。このままだとロッキー山中でテニス・シューズを履いて暮して一〇人の子供が出来、たまに家族でテレビ出演なんていうことになりかねません。
〔『プラス・ワン』1973年10月号〕
レコード会社の倉庫に眠る日本未発売名盤
■『ホワイト・ライト/ジーン・クラーク』
今後この人が幾枚アルバムを出そうとも、一番の傑作はこれだろう、と思わせるアルバムというものがあって、そこにはそのアーティストの人生の一季節が、たとえ当人が老いて遠ざかって行くにせよ輝きつづけて、その現実感は何時までも聴く者を飽きさせる事がありません。もちろん、それ程の傑作を誰でもが作れるわけではないのだから、たった一枚だってそんなアルバムを世に残せたらば、それはアーティスト冥利に尽きるというものでしょう。
エリック・アンダーセンの『ブルー・リバー』やデビッド・ブルーの『短編集』、そしてジーン・クラークのこの『ホワイト・ライト』なぞがその好例ですが、前の二人の先輩がそこに辿り着くまでには幾枚ものアルバムを通り抜け、そのつどの苦い批判を味あわされて来たのに比べて、このジーン・クラークは幸か不幸か、わずか二枚目のソロ・アルバムにして自己の高みを極めてしまった感があります。このアルバムはジーン・クラークのベストであるばかりではなく、ぼく個人の価値観に沿って言えば、およそバーズの血を引く一族すべてのアルバムのうちの最高作というわけなのです。
ジーン・クラークはバーズのオリジナル・メンバーであり、又、最初にバーズを飛出した男でもありました。なんでも、彼がグループ一番のディラン信仰者だったのだそうですが、最初のソロ・アルバムというのはまるでそういう志向を持ってはおらず、成り上がる前のレオン・ラッセルなぞも名を連ねて、それは当時のロサンジェルス製ポップの類型的な産物でしかありませんでした。
ダグ・ディラードと汲んだディラード&クラークはまだしも、のどかな土臭さのなかに“ジーン・クラークの夏”を宿していたと言えるでしょう。
さて、『ホワイト・ライト』というこの生涯の作?を語るにあたっては、その際のプロデューサー、ジェシィ・デビスの大きな貢献を忘れるわけにはいきません。演出家としての彼は、役者ジーン・クラークにとっては初めての“南部”を舞台にしつらえ、ギタリストとしても自ら泥臭い照明を投げかけて、わけても「一九七五」のフェイド・アウトするソロなぞは、消えゆく音を呼び戻したい素晴らしさ。つまり彼は、ジーン・クラークのウェスト・コースト的体質を封殺し、南部的な音のなかへと追いやることで、この温和な主人公に“孤軍奮闘”を強いたのです。
ジーン・クラークがぎりぎりの所でそれに応え、南部の力に押し流されなかったからこそ、この傑作は生れました。だから、元来、“豊かで力強い声”なぞ持ち合せない彼が、自前の声の限りで、アーシーなサウンドと拮抗すべく唄う姿の緊迫にこそ、このアルバムの真骨頂はあるとは言え、又その意味からは、リチャード・マニュエルとボブ・ディランの作「怒りの涙」において、それは極まり、感動的です。しかし、だからと言ってジーン・クラークの自作曲に魅力が薄いのでは決してなく、ここでの八つの作品がソングライターとしての彼の存在を大いに高めたのも事実だけれど、そんな事よりその八曲にはジーン・クラークという人間の人生の夏が燃え、聴く者には、ある種の哀感のなかで「この男の、これはピークだ」と思わせるのです。そういえば「スパニッシュ・ギター」では、たった一人だけでも、しっかりと地に足の着いた歌い振りを聴かせてもいて、そもそも彼がどう在りたくてバーズを後にしたのか? その答えが、五年を経たこのアルバムには昂然として示されています。
〔『プラス・ワン』1973年12月号〕
■『ロジャー・ティリスンズ・アルバム』
一人の人間がギターを弾いて歌を唄う、これが、シンガー=ソングライターの所為の原点であるとして、更に様々な音のプロデュースを経たそれがひとまえ[#「ひとまえ」に傍点]の音楽になった時、ぜんたい“よい音楽”には、最初に独りで歌った個人が自身の原点に立ったまま居、なお存在はその意味を強めていなくてはならない。
これがぼくの考えるアーティストとプロデュースとの関係ですが、このアルバムにおけるロジャー・ティリスンとプロデューサー、ジェシ・デイビスとの衝突は正しくその本道に則(のっと)って厳しく、聴き手の深い感動を呼び起こすに足るだけの、エモーションと抑制との熾烈な緊張を創り出しています。このアルバムはだから、人が識らない“掘り出し物”などというケチな称号で呼ぶのはもったいない程の、“よい音楽”その物なのです。
ロジャー・ティリスンのアコースティック・ギターとヴォーカルの相手達は、ジェシ・デイビス(e & bottleneck g,banjo)、ラリー・ネクテル(org,harmonica)、ボビー・ブルース(fiddle)、ビル・リッチ(b)、ジム・ケルトナー(ds)等、ロスを本拠としながらも強く南部へのアプローチを聴かせるミュージシャン達。曲はと言えばディラン、ウッディー・ガスリー、ドン・ニックス、ロビー・ロバートスン、スティービー・ワンダーが、各一曲ずつに自作が六曲。このデータによって、音楽家としての彼の志向をお判りの読者が又、日頃その様な音楽を好まれるにせよ、もしこのアルバムを御未聴ならば、決して実際の味わいの予想などはお出来にならぬだろう個性を彼は持っています。
ロジャー・ティリスンのキャリアをぼくは識りません。識っているのは、彼の野性的な唄い振りは同時にいわゆる“下手”でもある事。しかし彼の“歌わねばならない”心にあっては、そして彼の歌を聴き受けた我々の感性にとっては、そんな事の些かも問題ではないという事です。人の心にもし道楽を超えた“歌いたいもの”があったら、それに衝かれての歌唱は上手を求める“たしなみ”ではなく、悲喜に苛烈な“いとなみ”となるでしょう。ロジャー・ティリスンはアコースティック・ギターを抱えて、唄われるべきその歌に体当りを敢行します。それが彼の“唄いざま”ではあるけれど、固(もと)より“歌”というものが号泣怒号(ごうきゅうどごう)のはき溜めであってはならぬ事を知る彼はしかし、その武骨な声の強い力を、決してはしたない[#「はしたない」に傍点]“解放”に向けてはいません。ジェシ・デイビスのエレキがファンキーに煽情し、ボトルネックがアーシーな呪文で誘い、ジム・ケルトナーの一打がダウン・トゥー・アースな“間”の罠を現出する時にもなお、汗と埃に塗(まみ)れた主人公は彼の原点に仁王立ちして、その魂の歌との格闘を演じるのです。
このアルバムの音楽はこの様な成り立ちがザ・バンドのそれに酷似している事を、前号の拙稿“遥かなるスワニーの五人の遡行者”をお読みになった方はお気付きでしょうが、その通り、ここではザ・バンド流の“熱く渋い哀感”が、南部の魔力を駆使するインディアン、ジェシ・デイビスと、不屈の野人ロジャー・ティリスンとの対決によって見事に醸成されています。又、この時点で未発表であったザ・バンドの「ゲット・アップ・ジェイク」を初めとする他人の曲の選択もさることながら、“熱く渋い哀感”という点からは自作の曲こそ挙って良く、更に“この時点”というのが、ニュー・ロックの空騒ぎも醒めやらぬ七〇年であった事も付け加えておきましょう。
〔『プラス・ワン』1974年1月号〕
■『グッドゥン・チープ/エッグス・オーヴァー・イージー』
知名度なぞのさらに無い、しかしぼくには結構至極、というシンガー&ソングライターは幾人もおります。ところがその様なグループとなると「いくらもある」わけではなく、むしろ最近になって「ポツリポツリ出て来た」と言うのが正直な次第。それと言うのもいっときぼくは、ザ・バンドなぞ少数の例外を除いて、“グループが演奏するロック”の大方に興味を失ったのでした。その訳をここに書くのは紙数の上から遠慮いたしますが、とまれ、“ぼくの感動”というものがロック・グループの音楽にはあまりあずからない性質(たち)に仕上ったのです。ところが敵もさるもの、真向うから来るのではなく、横合いや背後からの奇襲で来てはこっちをニヤつかせたりシンミリさせたりする、そういう手管に長(た)けた連中がこのごろは現われて、“グループのロック”へのぼくの興味を呼び醒ましつつあります。
まあ、それ式なのが以前は皆無だったのではなく、サンダークラップ・ニューマンとかジョーママなぞは脱帽ものでしたが、しょせん世間の理解の埒外(らちがい)の命。ところが時代の退屈は、ロックに対しても一辺倒な迫力以外のもの、ノスタルジィやキャンプなぞのフィルターで屈折された表現を望むくらいの洗練を遂げて、それに応える“新しいロック・グループ”の幾つかも登場し始めたというわけです。
お隣りのハングリー・チャックもその類なら不思議と日本発売されたボーダーラインはその最たるもの。ブリンズレイ・シュワルツの最近なぞは五色のテープも投げたいくらい。さてこのエッグス・オーヴァー・イージーという珍名グループの“グッド・アンド・チープ”なこのアルバムは、先ずは御覧のジャケットからして大いに可笑しい。田舎の“ジョーママ”風でもあり、流行らない“ムーンドッグ・マチネー”風でもある食堂のイラストは、実は薄汚れた色付きで、それは彼等のハーモニーのイメージ。かくもうらぶれても日暮れた場末の街ではデッサンが妙なのも当然みたいで一向平気。裏を返せば店のなか。大盛りアメリカン・コーヒーを前に、農閑期にはバンドでも組みそうなお兄さんが四人、じきに来る筈の卵を待って座っていますが、この面々こそ、その実ひとをニヤッとさせる術を心得た当アルバムの演奏楽団、エッグス・オーヴァー・イージーの諸兄であります。
彼等の音楽はまあ、余りアクの強くない、でもダーティーなカントリー・ロックンロール。全編に滲むローカル・カラーは、あのアーシーなインディアン、リンク・レイのプロデュースに依るのかと思われますが、しかしこのアルバムはリンク・レイ自身のそれの様な、熱烈にダウン・トゥー・アースなものではありません。とり分けギタリストのジャック・オハラの三曲は、ジョォフ&マリア・マルダーやジム・クェスキンなぞ“諧謔(かいぎゃく)派”風なとぼけた気分を持ち、彼のギターはどんな時にどんなことを言えばいいのかを実によく心得た話し手です。それはピアニストのオースティン・デ・ロンも同様で、この二人が繰広げる演奏部分はいつも、ロックンロールらしくエキサイトする時でもどこかユーモラス。もう一人のシンガー&ソングライター、ブライアン・ホプキンスの曲はファンキーで、このグループのダーティーな味わいの源泉となっています。
新しいロック・グループの新しい知恵の様々のうちでも、彼等の個性は、見えすいた冗談なぞを避けてあくまで“田舎風”であろうとしている点にこそあるのです。
〔『プラス・ワン』1974年2月号〕
■『アーニー・グレアム』
おととし、ヘルプ・ユアセルフというグループの二作目が日本発売された折、例のタスキというやつに「イギリスのディラン、アーニー・グレアム率いる――」となっていて、われ知らず気恥ずかしい想いをしましたが、そのアルバムはある音楽誌のレビューで「ちっともディランなんかではなく、これはCSN&Yを真似た――」といった調子でけなされたものです。ところでもし、ぼくがそのレビューの担当者だったなら、ある一曲のプログレッシヴな試みなぞを例に挙げてもっと厳しく弾劾したでしょう。そして、このグループはアーニー・グレアムに率いられてなんかいず、又、アーニー・グレアムはこんなグループを率いたりしないし、本当は参加してさえいけない人なのだ、といささか脱線気味の評を書いたに違いありません。事実そのアルバムの発売のとき既に、音楽上の対立から彼はグループを辞していたのです。彼がその“ストレンジ・アフェアー”なんぞに付き合ったのは、ひとえに昔の義理からだとぼくは勝手に決めています。
さて、何故ぼくがそうまで彼を高く買い、また、“昔の義理”とは何なのかというと、それらの答がここに御紹介するアルバム、『アーニー・グレアム』なのです。これは七一年、デイヴ・ロビンソンのダウン・ホーム・プロダクションから、同じ所属のヘルプ・ユアセルフとブリンズレイ・シュワルツのメムバーを伴奏に据えて製作、発表されました。その以前の六九年にも彼は、なんとジミ・ヘンドリックスのプロデュースでアルバムを出しているそうですが、それがどんな物なのか、ぼくには全く判りません。
しかし彼が更にその前年、ジミやアニマルズの米国ツアーに同行したことは、恐らく彼の音楽の大きな資産となって残ったのだと思われます。それと言うのもこの『アーニー・グレアム』が、クレジットを見ずには、とうてい英国人のアルバムとは聞こえない出来栄えを示しているからです。とは即ち、それにははっきりと彼自身が居、視点は曲次第で横滑りすることなく定まって、全体は渋く田舎風な落着きに満たされている、ということです。彼の声は、アクこそ無いけれどもすすけて優しく、その声がうら寂しい自作の歌を唄うとき、その世界は古いセピアの風景写真に似ます。アーニー・グレアムは質素な音を選ぶまっとうなシンガー&ソングライターであり、そういう姿勢も技も、米国から学んだものに違いないけれども、しかし彼の音楽の枯淡な味わいはやはり、その身に付けた方法があるじの故郷を探り当てたことから生れて来るものでありましょう。生れた街を歌う「ベルファスト」のメロディーはトラッドで、ボブ・カニンガムのフィドルを入れて土の匂いを撒き散らしますが、奇しくもこれはボブ・ディランが『ジョン・ウェズリー・ハーディング』で歌った「ある朝出掛けると」と同曲です。
伴奏の二つのグループも、実はそれぞれにウェスト・コーストを憧憬する人達ではあるのですが、この時には平生よりもダーティーで腰の座った演奏を聞かせて、プレーヤーの“個人”が引き出されてもいます。ちなみにブリンズレイ・シュワルツは今、英国一のキャンプなバンドに成長していますが、ここには彼等のシリアスなピークが示されていて、ヘルプ・ユアセルフにせよ、もしアーニー・グレアムが本当に率いたならば、こういう音楽が創られていた筈なのです。
これは三年このかたぼくを惹き付けて飽きさせない、英国では唯一の、シンガー&ソングライターのアルバムです。
〔『プラス・ワン』1974年3月号〕
■『ボビー・チャールス』
この欄に登場する類のアルバムを聴く様な人ならばきっと、ジャケットのパースネル・クレジットを見ただけでそのアルバムの内容を大よそ察知でき、又それに対する自らの趣味、価値観なぞも相当はっきりとした物をお持ちだろう? と、そう思うのですが、このぼくにあっては、当ボビー・チャールスのアルバムに見られるクレジットこそが、ロック・シーン最高の権威を意味し、全幅の信頼をもってこれを眺める事が出来るものであります。
レヴォン・ヘルム、ガース・ハドソン、リチャード・マニュエル、リック・ダンコ、以上は畏敬すべきザ・バンドの四人。ジム・カレグロウヴ、エイモス・ギャレット、ベン・キース、N・D・スマート、以上は諧謔に長けたあのハングリー・チャックの元団員達。その上ドクター・ジョンことマック・レベナックや知恵者ジョン・サイモン等々。
これらウッドストックの住人達は今日まで、“良い音楽”とはどんな音楽なのかをぼくに演じて聴かせ続けてきました。彼らの音楽の完成のされ方は何時だって、“歌”が声や楽器や録音技術によって水増しされ膨張される大方のロックとは反対に、それらをもって“歌”を磨き凝縮する事で成される物だったからです。ぼくはその事に音楽家の良心を見ますし、もしぼくが自分で歌を作って唄う事ができ、アルバムを作る事もできるとしたら、是非ともこのボビー・チャールスの様に、リック・ダンコやジョン・サイモンにプロデュースされてベアズビル・スタジオで録音したいものです(「もしぼくが音痴でなくて」という一行を初めに書き忘れましたが……)。
さて、ボビー・チャールスといえばあの『ロック・オブ・エイジス』のクレジットでザ・バンドから謝意を捧げられていましたが、ロビー・ロバートスンの言によると彼は、アレン・トゥーサンやドクター・ジョンと同じくニュー・オールリンズの出身で、ソングライターとして長いキャリアを持ち、"See You Later Alligator"の作者であり、国中を巡り歩いた挙句に今はこのアルバムの伴奏者たち同様ウッドストックの住人なのだそうです。そう言えば、ポール・バターフィールドの「ベター・デイズ」でも唄っていましたっけ。
曲は総てボビー・チャールスのオリジナルであり、それ等を唄う彼の声はウッドストック・エリアのシンガー達の類例に洩れず渋く、表情は一聴粗野でありながら決して激しくも、ましてや感傷に陥る事もなく、気に入りのウイスキーの様に舌に馴染んだ自分の歌を悠々と唄って行きます。又それだからこそ、このアルバムの伴奏者名簿の意味する所を承知の人のなかには、彼の唄いぶりが自適に過ぎ、聴く者の臓腑をよじる様なアクに欠けると感じる人がいるかも知れませんが、それも一聴の上の事。聴けば聴く程、ボビー・チャールスの悠然たる一曲一曲には、ドクター・ジョンの粘着性とジョン・サイモンの洒脱さとが奇妙に同居している事が知れるでしょう。スローなナンバーのうす汚れた表現なぞは特に素晴らしく、ジム・ルーニイの率いる“ボーダー・ライン”と共に、こうした味わいはウッドストックの新傾向であるのかも知れません。
最後に、この欄で紹介される様なレコードに何の関心も持たない読者に一言申し上げますと、音楽とは、あなたを楽しませるために向うからニコニコ顔でへつらってくる物ばかりではないのです。
〔『プラス・ワン』1974年4月号〕
レッドネック・ロック
ひところ“ジーンズ・ロック”なぞというキャッチ・フレーズがレコード業界からバラ蒔かれましたが、あんな言葉はせいぜいがロギンス&メッシーナかイーグルス程度を指して呼ぶ子供向きのもの。ここにこれから語るような音楽はジーンズでいえばオーセンティック・ブルージーンといったところか?
「レッドネック・ロック」。それはこう呼ばれています。発祥の地はテキサス。その州都、オースティンは今、“土地の固有性への回帰”という精神によって、よそから来た若者をも巻込みながら、“新しい”文化を形成しつつあります。六〇年代、国じゅうの若者達は、折からのロック・カルチャーを吸収しようと、それぞれにロスやニュー・ヨークを志向しました。ましてや音楽家は一層です。そして僅かが成功し、多くが失望の七〇年代を迎えました。しかし、田舎に帰った者達のなかから、“土地に根差した音楽”、それも“ロックを通じて”土地に回帰する音楽が生まれてきたのです。“レッドネック”とは、無教養な田舎者を指して言う蔑みの言葉。その言葉を自らの音楽に冠する精神、しかも斜に構えるのではなく、朗らかに微笑んでいる精神こそが、オースティン・スピリットと言えるでしょう。レッドネック・ロックはだから、平たく言えば新種のカントリー・ミュージックです。どんな点で新種かと言えば、それを演奏する人間が、ロングヘアード・レッドネックである点に於いて。
さて、その代表的アーティストを挙げていくと、先ずまっ先にナッシュヴィルの商業主義に叛旗を翻してこの地の中心人物となったのがウィリー・ネルスン(その新作は『サウンド・イン・ユア・マインド』)。ニュー・ヨークからフロリダ、ナッシュヴィルと経てここに安住の地を見出したJ・J・ウォーカー(近作は『ライディン・ハイ』)。他に全国的知名度を持つに至った人としてはウェイロン・ジェニングス、クリス・クリストファスン、そのクリスが引立てたのがビリー・ジョー・シェイヴアー。西海岸方面から撤退して来たラスティ・ワイア、ウィリス・アラン・ラムゼイ等も、脱ウェスト・コーストらしい個性を持ち、録音地はナッシュヴィルながら、レイ・ワイリー・ハバードも正にレッドネックのロックを聴かせます。さて、この人達の音楽に共通した特性はといえば、“既に大人”の音楽である事。その回帰した風土から生まれたに相応しく、“優しさ”よりも“男っぽさ”に溢れている事(本当の“優しさ”はこっちに潜むものと思いますが)。サウンドはロック・ビートを伴った、ダーティーなカントリー・サウンドである事。しかし、レッドネックとは自ら標ぼうした言葉であり、そうする知性がほの見える事などです。
その様な諸要素から、いま最も新鮮で、かつ普遍的な個性の持ち主はガイ・クラークでしょう(アルバムは『オールドNo.1』)。彼は作曲家として既に高名でしたが、初めて自ら歌ったそのアルバムの魅力は、レッドネック・ロックの範疇を超えて、およそシンガー&ソングライターという存在の、一つの理想的な姿を示すものです(ジャケット・フォトの彼のジーンズ・シャツのポケットには、“W”のステッチが読みとれます)。最後にもう一人、監獄帰りのレッドネック、デヴィッド・アラン・コウの、彼自身の心の業火が歌わせる歌を忘れるわけにはいきません。その新作のタイトル・テューンは、いみじくも「ロングヘアード・レッドネック」。
「俺がこうやって歌うのも、このロングヘアが、俺のレッドネックをちっとも隠さないからだ」と、彼はその曲で歌っています。
〔1976年4月Wrangler Voice〕
やがて、音楽は鳴りやむ
「七〇年代の出口」からどこへ―ザ・バンド
映画『ラスト・ワルツ』については、もうたくさんの言葉が書かれた。音楽サイドばかりでなく、映画や、もっと一般的な分野でも文章になった。そして、“ひとつの時代が終った”というお題目が、ロックにおける“高度成長時代の終焉”的な意味合いでジャーナリズムに浸透した。いや、ミュージック・ビジネスのサイドからすれば、これからが本当の高度成長期なのかもしれない。しかし、ロックを聴いて青春を送ってきた二〇代後半から三〇代前半の人間にとって、この“ひとつの時代の終り”というフレーズには、一種の哀感をもって頷かざるをえない面がある。この哀感を共有できる人達はおそらく、ミュージシャンではなく、たとえ音楽的な仕事に拘わっていたにせよ、ロックに対してはビジネス以外の想いを抱いてきた人達だろう。そんな人間はたいてい、時の話題の音楽に冠せられるキャッチ・フレーズや寸評というものに対して、冷笑か苦笑いで処してきたはずだ、少なくとも内心では。ところが皮肉なことに、ことザ・バンドのフィナーレである映画、『ラスト・ワルツ』の語られ方に関しては違う。遂に世評に追い付かれたというか、別な見方をとれずにいる。仮に『イージー・ライダー』や『いちご白書』に対する評価が、映画側とロック側では違っていたとしても、『ラスト・ワルツ』にはそれがない。双方共に、“ひとつの時代の終り”を美化し、そのほろ苦さに酔うことが主題なのだ。
ではぼくに、こうした大勢に逆らった見解があるかというと、旧来の自分の価値観を保持しながら、それを見出すことはできない。あの映画のなかのザ・バンドもゲスト達も、確かにぼく達の聴いてきたロックを演じた。つまり、ぼく達にとって、『ラスト・ワルツ』への言辞は、映画のプロモーション・コピーそのままで結構だったのである。そのことを含めて、ほろ苦い。
しかし、映画通でないぼくの眼から観て、あれは映画として大して良くできていたとは思えない。大半がステージ・シーンである限界なのか、視覚的な面白さは感じず、インタビューも二言、三言を除いては平凡なものだった。ところが、この映画は意外な副作用を引き起こしたときいている。それは、七〇年代以降のロックから遠ざかっていた人々、三〇代中期から後期へかけての人々に対して、「ロックとはこんなにも素晴らしいものだったのか」という、遅蒔きな感動をもたらした事実である。この副作用を分析することは意味があると思う。たぶんその人達はビートルズを聴いただろう。そして、あのニュー・ロックの入口までは来てみたか、あるいは知っていたと思う。ジミ・ヘンやドアーズやジャニスやフィルモア、それともピンク・フロイド等に、自分なりの距離を持ちながら興味を覚えたに違いない。だがそこまでだった。彼等にとって、果てしなくボリュームを上げて行くロックはハード過ぎたし(それはぼくにも)、一方で、シンプルな装いをもって登場してきたシンガー&ソングライター系のロックは日常的過ぎた。つまり、何か世の中をひっくり返しそうもなくなったロックは、いつまでも付き合う相手では既になかったのだ。その彼等が、七、八年の空白期を挟んで遭遇したザ・バンドのロックに共鳴したのはなぜだろう? その期間に、何がロックに起こって、そして過ぎていったのだろう?
ニュー・ロックの入口で引き返してしまった人達は、あの『ビッグ・ピンク』の“日曜日の朝”を経験しなかったに違いない。ぼく達の歩んだロックの道は、あのときから地図に印されるものになった。その地図を頼りに歩いてみると、西に行けばC・S・N&Y達がいて、東に行けばディランやウッドストックの連中がいて、南に行けばスワンプ・ピープル、北にはレナード・コーエンやブルース・コバーンといったふうに、数年のうちにぼく達はその使い方を心得た。七〇年までの人達は、この地図上に立つことがなかった。良きにつけ悪しきにつけ、ぼく達はその世界のロックをあちこち旅してきたと言えるだろう。その世界とは確かに、ひっくり返るかも知れない明日に用意されたものではなく、アーティスト達は、少しずつ過去へと根をおろしながら、その枝葉を拡げていこうとしていた。『ラスト・ワルツ』に集まった各々も、そうしてきた。ある時点まで、それは素晴らしかったし、“アメリカン・ミュージック”という呼称さえ、日本にはでき上っている昨今だった。
ポップスではないと同時に、フラワー・パワーから生まれたものばかりがロックではないことを、ザ・バンドが最初にぼく達に示した。玉石入り乱れるニュー・ロックの時代に登場して、当時放任されていた錬金術を使うのでもなく、伝統を凝縮した彼等の音楽は覚醒的だった。七二年頃になってもぼくは、「化粧をしたり、半身裸で演奏するのがロックなら、ザ・バンドの音楽はロックじゃない」なぞと入れ込んでいたものだ。この辺りの見解は、後にニューミュージック・マガジン社が出した『ミステリー・トレイン』という本で、グリール・マーカスが見事に語っている。それだけに、ザ・バンドの解散、あるいは『ラスト・ワルツ』の意味するものについて、実に彼の話を聞いてみたい。彼には、“ひとつの時代の終り”以外の言葉があるだろうか? それとも寂しい笑顔を返すだけだろうか?
ともかく、ザ・バンドは自ら一方的に「やめる!」といった。すると大勢の“アメリカン・ミュージック”の頭目達が集まって華麗なサヨナラ・コンサートに協力した。なかなかいさぎよいやり方だと思う。過去、幾つもの有名バンドが解散したが、しばらくすると「昔の名前で出た方が稼げる」というので再編する。ザ・バンドにはこれをして欲しくない。余りにも見事だった昔日を再現できないのは仕方ないとしても、解散の直前まで素晴らしかったわけではないのだから。『ラスト・ワルツ』はろうそくの最後の輝きだったかも知れない。そして、最後は突然に訪れたものでもない。
四作目の『カフーツ』以来、ライヴやロックン・ロール集、ディランとのセッションはあっても、彼等が『南十字星』を出すまでに五年近くもオリジナル・ワークをしなかったことは知られている。その間、幾多の“アメリカン・アーティスト”が、過去へと根をおろし、枝葉を拡げ、やがて散ったことか。しかしザ・バンドは、その地位を落すことなく生き抜いてきた。『南十字星』は、“さすが王者の貫禄”という世評を得たが、それは同時に、余裕から滲む味わいはあっても、五年前までの音楽の摩擦熱が失せていたと思う。最後の『アイランド』に至っては、解散に当っての辞表のようなものだ。ぼく達が受理せざるを得ない内容の。彼等があのアルバムを出したことは、ひとりザ・バンドの問題にとどまるものではない、七七年はそんな状況だった。
『ビッグ・ピンク』から一〇年、彼等を導き手として巡ってきたロックランドも、その頂きを極めてから既に久しい。そう感じていたとき、当のザ・バンドが「出口です」と告げた。この旅に参加しなかった三〇代の人が、『ラスト・ワルツ』を観て感じたのは、自分と同世代の男達が、決してエンターテインメントとは言い切れないロックを、真摯に演じ続けたきた年輪のようなものかも知れない。ザ・バンドが無くてもロックはある。
彼等の解散そのものが、ロックの本来がエンターテインメントだったことを思い出させもする。ザ・バンドと共に死んだものは何か? 何も死なない。もし続けていれば死んだかも知れないものを、彼等は解散によって救ったのだ。現にリヴォン・ヘルムの来日コンサートは、ぼくの観た最も満足したコンサートだった。
〔『ニューミュージック・マガジン』1979年2月増刊『死者のカタログ』〕
ロックにとって名盤とは何か
「ロックにとって名盤とは何か」を考えるとき、ぼくの場合は、“人間は過去を美化して記憶する”というあの習性に捕われそうでなりません。ロックが世間の音楽の主役であった時代、その時代がぼくの青春だったからです。こう言うと、まるでロックが消えてしまった様に思われるかも知れませんが、ぼくはある意味でそう認識しています。それは、ブラック・ホークがロックをかけ始めた8年前、そうさせたあの当時のジャズの状態に現在のロックが達していると思うからです。
ザ・バンドの「The Night They Drove Old Dixie Down」を心して聴くとき、もうロックからこの様な歌は生まれないだろうという感慨に打たれます。思えばぼくは、かつては若いジャズ・ファンであり、次には老けたロック・ファンになったのでした。しかし、仕事としてコミットしたのは、やはりロックに深いものがあります。だから例えば先述したザ・バンドの曲に耳傾けると、それは自分が信じたもの、力を注いだものとしてのリアリティーをいまも感じさせるのです。多くの個人にとって、名盤とは先ずその様なものでしょう。
ジャズの即興性に比べ、ロックが製作される音楽であるのは事実です。しかし、その意味に立ってのアルバムの極致は、10年前のビートルズによって終っていると思います。むしろ近年のロックは、それがヒット・チャート・ミュージックであった生い立ちから脱出して、いかに個人的な音楽観を具現するか、それによって各自のアイデンティティーを示し得るか? といった主体性から出発し、その方向の上に名盤も生まれてきた筈です。又、その様なロックにおいては、名盤という存在もひたすら名演によるのではなく、ある社会的なメッセージ性から発生する場合も少くありませんでした。ニュー・ロック黎明期を代表するとされる、アル・クーパーやマイク・ブルームフィールドのフィルモアのライヴ盤なぞは、それが名演であったと言うよりも、あの時期にあるセッションが行われたという、社会的な衝撃によって名盤の名を獲得したのだと思います。例にあげられたボブ・ディランの場合にも、数あるアルバムの一枚一枚の完成度が等しく高かったわけではなく、その時代々々に彼が提起した問題が、我々にとって常に新鮮でリアリティーがあったというべきでしょう。ただし、彼において典型的なのは、“人間が歌う”という根本的な行為から生じる存在感の強烈さであり、これはジャズの即興演奏にしても、およそ音楽が人を感動させる場合の普遍的な要因であろうと思います。確かにボブ・ディランは多くの名盤を残しています。『時代は変る』『アナザー・サイド』『ブロンド・オン・ブロンド』『ナッシュヴィル・スカイライン』等がぼくは特に好きです。しかし、それ等が名盤たり得たのは、プロデュースが良かったからでも、バックメンが優秀だったからでもなかったと思います。
だいたい、プロデューサーやスタジオメンが過度に云々されるようになってから、ロックとそのファンとの関係は頽廃を開始したのかも知れません。もっとも、ぼく自身の場合も、それは避けたい道だったのですけれど。
ロックがジャズの様には、偶発的生命を基調とする音楽ではないにしても、やはり名盤は作ろうとして出来るものではありません。ボビー・チャールズやジョン・サイモンは確かに名盤だし、ライ・クーダーやランディー・ニューマンも、“ロック”という概念が方法となってこそ初めて生まれ得た音楽でしょう。そしてそれ等のアルバムが言葉で語られるとき、プロデュース、パースネル、録音地等が問題にされないわけにはいきませんでした。しかし、ぼくの心の内で、彼等の音楽がクレジットの塊りとして記憶されているのではなく、あくまで音楽としての表情や肌触りが生きているのです。
ロックとは何であったのか? それは我々の誰一人として、食べる人、寝る人、走る人、書く人としてのみ存在してはいず、それ等総てに関わる曖昧な主体を生きている。正にその立場から創造された、最初の音楽言語型体ではなかったろうか? ボブ・ディランもロックならレッド・ツェッペリンもロックという、曖昧な事実そのものにロックの本質が示されていると思います。しかしその内で、ロックの体質に寄り掛かっただけのロックは残らず、ロックと呼ばれなくても構わない普遍性を掴んだものが残っていくのでしょう。
ブラック・ホークには、そうしたロックの遺産がたくさん在ると思っています。ぼくはレコード室を退きましたが、ブラック・ホークそのものは今後も、ロックとは何であったのかを、そうした数々のレコードによって、世間に伝えていくでしょう。それがぼくの願いでもあります。
〔1977年『Small Town Talk』10号〕
松平維秋インタビュー
音楽とのかかわりの中で
●前言:今、立っている位置
最近、いろいろなところで音楽シーン全体の流れについて問題になることが多い。しかし、僕はまず自分が高い所からそれを批判したり批評したりする以前に、僕自身の今までの音楽の聴き方とか、音楽とのかかわり方を反省する部分のほうが多い。
“ブラック・ホーク”をやめた時点までは、こんな音楽シーンじゃしようがないというので、むしろ自分の方から音楽シーンを切り捨てるような気持ちがあった。しかし、もうそれから二年近くが過ぎた今、その期間に僕の手に残ったものというのは、よりマニアックな部分の、人があまり聴かないような音楽――そのかわりものすごく自分がそれに夢中になれる音楽――であるよりも、むしろ全くの空白であったという方が正解であろう。
だから、音楽の流れに沿ってどんどん自分の価値観をかえていっている人達(まあ、音楽批評家として食っていくためにはそうせざるをえないわけだけれども。これもだめだ、あれもだめだって言っていたのでは、これは商売にならないわけで)に対しても、あの二年前の時点では、まあ、軽蔑的な気持ちを持っていたけれど、これはやっぱりあっちの人間のほうが偉いんだと感心して眺めている、そういう気持ちのほうが今は強い。
もし僕がこの二年間に、たとえば白人を中心としたアメリカやイギリスの一応ロックとか呼ばれている現代的な音楽に飽きてしまったとしても、それと等価値で空白を埋めるだけのものというのが無かったわけだ。だから、音楽から退いているのは自分のほうであって、僕がどれだけ退こうとも、背中を向けようとも、どんな状態であるにせよ、音楽のビジネスというものは綿々と続くのだし、ヒットソングが一曲も生まれなくなる世の中っていうのも考えられるかっていうと、まあないわけで。では別の価値観を作ればいいじゃないかという意見も出そうだが、それはできない。しない、と言ってもいいし、できないと言ってもいいし。まあ、これは両方真実といえるのだが。
遠ざかっているのは自分のほうであり、だからあんまり目くじらをたてて今の音楽シーンを糾弾する気持ちも今はあまりない。
1
――まず、音楽評論及び評論家の仕事について、いま、お考えになっていることを聞かせてください。
「このサウンドが新しい」とか「これからの傾向はこれじゃないか」といったふうな、まさに音楽の現状を波乗りしているような書き方は、もう、どう逆立ちしても書けないね。やはり一つの文化論としてしか語りようがないと思うのね。文化論として語るとしても、やはりあまり積極的な意見は出てこないわけだけども。
そこで当然問いつめられて然るべきなのは、アフリカやブラジルやカリブ海や、いわゆる第三世界というところから発生してきてる音楽に興味の視点を移して、それにどうアプローチするかということでしょうね。たぶん、僕の言っていることは一生懸命そうしている人達にとっては、もはや寝言にしか過ぎないと思う。
僕がロック(シンガー&ソングライター)を聴きはじめたっていうのも、六〇年代の終わりにかけてジャズがつまらなくなってきたのがきっかけでね。今思うと、ジャズの五〇年代、六〇年代の名盤っていうのはいまだに商品価値を持ってて、ジャズ喫茶を支えているところがあるわけで、だからそういった名盤たちと同じような恒久的な生命をあのシンガー&ソングライター達の名盤が今後長くにわたって持ち得るのかどうかっていうと、ちょっと疑問のところがあるのね。やっぱりある盤は持つと思うけれども、その全体量がジャズに比べると余りに少ないね。
例えばね、ある個別なシンガー&ソングライターをとりだして、まあエリック・アンダーセンがどういうふうであるとか、レナード・コーエンがどういうふうであるとか、その両者を比較する以前に、やはり一応シンガー&ソングライターの音楽の作り方っていうフォームがあると思うのね。もうその二人の比較以前にまとめて同じジャンルでくくられるフォーム自体のもつ味わいというのがあって、それは、ジャズがジャズっぽいって言われるジャズのフォームと同じようなものであって、そのフォーム全体が飽きられる時っていうのは、必ずどの音楽にも周期的にめぐって来ざるをえないものだと思うのね。
ジャズの場合っていうのは、やる人間と聴く人間っていうのが全くそれぞれ専門分野であって、それが混じりあう部分っていうのはほとんど無いと見ていい位なんだけど、こと、あのギターを中心にすえて、ギターで作曲されたような(われわれの聴いていた)音楽っていうのは、その境目が少し薄らいでいる部分もあるでしょう。ギター人口っていうのは、サックスを吹く人間よりもはるかに多いわけだし。
――共有する部分が少なくても、聴いて強烈な気持ちを喚起させるような音楽であれば、音楽の持つ意味は変わらないのでは?
聴いて感動するとか、感心するとか、美しいと思うとか、そういうことに対しても、聴き手が聴いていろいろ言うわけですよね。その態度も一つ疑ってかかる余地はあると思うのね。こういうことは評論家はあまり言わないし、また、言っちゃいけないことだからだと思うけれども、ある人間があるアーティストを好きになるってことに関しては、どんなに素晴らしかったかという言葉だけで表現できない、ちょっとまた別の理由も含まれていると思うのね。というのは、そのアーティストを好きだって言うことによって代表したい自分自身の姿勢というものがあるでしょう。もうちょっときたない言い方をするとね、聴きはじめの頃はジェームス・テイラーが好きだということで、自分がそういうふうに他人に表明することで、その人間は充分満足なわけ。で、それがもうちょっと聴きだしてたくさん聴いたり、周りで聴いている人間なんかとつきあっているうちに、自分をジェームス・テイラーで代表させているのはちょっと幼稚であるように思えてきて、今度はもうちょっと他人があまり知らないような人によって自分を代表させてみたくなるわけ。こういうふうな心理の動きっていうのは、音楽を聴いている人間に常にある程度つきまとっているっていうことは、感動の言葉の裏に潜んでいるわけでね、これもまた見逃せないと思うのね。
――「感動の裏」というのは、マスコミが作り出すほうについてはお考えにならず、あくまで自負心のほうのことなのですか?
そうですね。要するにマニアに至る道っていうのはそれであって、マスコミが作り上げられるのは一番大本命としているものにとびつくまでの段階で、それ以上面倒をみることはマスコミにもレコード会社にも何の得にもならない。百人に一人しか好きにならないレコードを持ち上げるんじゃなくて、百人のうち八〇人が好きになるものを持ち上げるのが、マスコミの仕事でしょ。で、それをあえて切っていくのがマニアの仕事。(笑)だから、どんどんマニアックになっていくことでしか、逆に生き延びる道はないと思うわけね。そこでさっき偉いって言った評論家達は、そういうことも全部知った上で多数の方へかけていくわけですよ。つまり、評論家とお客さんの違うところは、お客さんはビリー・ジョエルが今一番新しくてホットなんだという情報を得て、それをおとなしく買う。で、喜ぶでしょ。それで完結していていいわけですよ。批評家の方は、またあいつ新しいものを持ち上げてやがるって読者の方が思っていたとしても、それは承知でやっているわけですよ。
だから、批評家だってある程度自分で自分のお尻を追い立てないとやっていけない面がある。例えば、レコード会社の人なんていうのは、自分の担当しているレコードを人の所へ持ってくる時は、どれでもこれでも「これ、最高!!」って言って持ってくるわけですよ。でも、それもねえ、一〇〇%嘘じゃ、やっぱりできないと思うのね。ある程度自分をたきつけて、信じ込ませている部分が一〇%なり二〇%なりはあった上でなければ、そんなことはできないからね。批評家でも同じことでしょう。つまり、それができるということは、それ自体が一つの能力であると思うのだけどね。商売人としてのね。逆に、それができない人間っていうのは、まあ二流の評論家でしかないわけで。文章を読んで面白い評論家っていうのはね、まず二流ですね。これは面白いこと言ってるなっていうのは、商売の面から見ると二流ということね。メジャーな評論家っていうのは、書いている文章は決して面白くないね。
――では、商人じゃないと評論家はできないか、ということに関してはいかがでしょうか?
一番理想的なのは、評論家で食うんじゃなくて、別に堅気な仕事をもっていて、別のことで食っていてかつ評論をやるということでしょうね。他に仕事をもっていれば、自分自身がレコードを趣味で聴くのと同レベルでもって批評ができるわけでしょう。そのレコードに別に生活を依存しているわけではないのだから。
――そうでないと、思う通りの批評は出て来ないのでしょうか?
日本の現状ではそうでしょうね。あとはめちゃくちゃに博識であること。ともかく図書館みたいな人間であったら、それはそれでいいでしょうけれどね!!
よく“音楽バカ”っていう言葉あるでしょ。ミュージシャンの中にはそういう人達がたくさんいて、それはいていいんだけれど、聴く方の側でね、まだ今のところはね、その音楽バカらしい底抜けのパワーを持った文章というのは、見たことがない。やはりバカはバカなりの文章しか書けないみたいね。で、音楽バカの立場からもっと説得力のある文章が出てきたら、これはこれで素晴らしい。
2
――パンクやニュー・ウェイヴについては?
結局は、全部最後はコマーシャリズムに吸収されるでしょうね、ある新しい音楽の流れというのはね。その次、その次と探していくしかしようがないんじゃないかな。
パンクとかニュー・ウェイヴが弱かったのは、はじめからそれ自身の音楽のイディオムっていうのがあったというよりも、既成のもの全てに対するアンチテーゼの形で最初から出てきたところに、かえってとりこまれやすさがあったと思うな。
――では、もう完全にとりこまれた、と?
僕はあんまりたくさん聴いてないから、そっちのほうは断言はできないけれどね。ただ、ニュー・ウェイヴの人であればあるほど、よりお金が欲しいだろうしね。
――「言いたいことが第一で、他はいらない」と開き直れば、それなりの力は持ち得るとお考えですか。
そうでしょうね。長い時間ではないでけょうけれどね。ある一枚のレコードとか、そういった範囲でしか続かないだろうけれども。
――真にアンチ・コマーシャルで、徹底した政治姿勢をもっていても長くは続かない?
コマーシャルでないことをアンチ・コマーシャルであるというと、ちょっと誤解が生じるんだよね。的確にコマーシャリズムを撃つ存在としてアンチ・コマーシャリズムがあるかって言うと、コマーシャルじゃないものっていうのは簡単に作ることができるわけでしょう。全然売れないようなものを作れば、これはアンチ・コマーシャリズムってみんな言うわけで。コマーシャリズムに対して何が的確な打撃になるのかっていうのは、これは難しい問題でよくわからない。パンクの音楽を聴くと、ともかくコマーシャルな音楽でないものを作ったって感じのほうが(笑)強いわけで。
だからパンクにしても、現在の形のままでずっと生き残るということはないと思う。
パンクの連中で一つ面白いのは、細野晴臣氏の一党が現在のイエロー・マジック・オーケストラに至ったようなミュージシャンの性(さが)みたいなものからも自由でいるといった、その点ですね。ああいったミュージシャンの指向性は、まずは持ちそうもないでしょう。
ここしばらくの間っていうのは、従来シリアスな意味でいったような良い音楽っていうのは聴こうとするほうも野暮だし、作ろうとするほうも野暮だと思うのね。またここでポップという概念が問題になるわけだけれども、テクノポップはその一例なんだけれども、ポップっていうことをその人間なりに容認した上で、ポップをいかに処すかっていうことがここ当分は一番問題になるんじゃないかと思う。ポップっていうことは認めざるをえなくて、ポップに対する新解釈を打ち出すしかしようがないと思うのね。その意味で言えば、僕が“ブラック・ホーク”辞める近辺のシティー・ミュージックとか、ソフト&メロウとか、あれは本当に従来のポップ・テクノロジーに準じたとしか思えない。
新しいポップさっていうのを打ち立てる、それを六〇年代のはじめにやったのがビートルズだと思う。あれはめちゃくちゃ新鮮だったわけで。ビートルズに対しては、既成の価値観に対して反抗的であったとか革命的であったとかいわれたけれども、決してそういう面がないけわけじゃないけれども、そればかりじゃなくて、むしろ彼らがあれほどまでになったのはポップという概念を自分達なりにはっきり把握して、自分達なりのポップを作った、だからこそあそこまでのセンセーションになり得たのだと思う。
今、新しいと言われているものを眺めているとね、まあ“ブラック・ホーク”の売ったキャッチフレーズである“ヒューマン・ソング”ね、これはまさにもう過去のものだね。ヒューマン・ソングじゃなくて、アンチ・ヒューマン・ソング、これが今一番新しいと思う。そもそも、ヒューマン・ソングっていう言葉にしてもね、“ブラック・ホーク”のコレクションがどんどん色合いを鮮明にしていった頃から、“ロック”という言葉が使いにくくなったということが背景にあるのね。つまり、ロックと言ってしまうと、ハード・ロックもあればプログレッシヴ・ロックもあって、みんなこれロックなわけだ。それで、あそこでかける音楽については、ロック以外の言葉が必要になった。で、苦肉の策で考え出したのが、“ヒューマン・ソング”だったんだね。では、その“ヒューマン・ソング”にどんな意味があったかというと、人間の感情の具体性というか、見る、食べる、触るという五感から遊離しない具体性、喜怒哀楽も含めた人間の感覚の具体性、その中で完成された音楽ということをふまえて使っていた。ところが、そういう音楽は今やもう古い。
――断言できますか?
できますよ。だって、見たままを言っているわけだから。
“ヒューマン・ソング”が弱かったのは、一つの安定した世界であり過ぎたことだと思うのね。一枚のレコードが出ると、また次のレコードが必要になる。そういったものではなくて、一枚の中で完結してしまっていた。そういうレコードに価値を見つけ出すというのが、“ブラック・ホーク”的なマニアの道だった。一枚のレコードがまた次の一枚を必要とするような、“登り坂の音楽”ではなかったということね。
僕がジャズに夢中になっていた十代の頃を思い出してみると、一枚のレコードは必ず次の一枚を必要としていたし、そういったことが連鎖する登り坂の中で次々とレコードが出されていった。“ヒューマン・ソング”には、それはなかったね。
これは聴く側が陥りやすい“わな”なんだけれども、よほど詳しい人でもなければ知らないようなマイナーな名盤があるとする。でも、それを作った人間は、できるだけ少ない人間の間だけで知られてほしいとは思っていないでしょ。どれほどマニアが珍重する盤であっても、作った側は一人でも多くの人に聴いてもらいたいと思っているはずなんだ。そこのところの意識のギャップをね、僕たちは無視しすぎたんじゃないか。
――徹底的に人間性を否定する。これからの音楽は、そういう方向に展開していくということでしょうか?
過激な人は、そうなるかもしれない。そういうものも出てくると思う。ただ、本当に否定しているのかそうではないのかは、実はわからないんだ。例えば、従来の音楽が持っていた「臭い」部分、そのまま置いておくと腐蝕してしまう有機物を一切切り取ってしまったような音楽が出てきたとする。そのとき、それを通して、逆にもともとはそこに何があったのかを知ることができる場面もありうるでしょう。
ところで、逆に訊きたいんだけど、ディーボはポップだと思う?
――売るってことを考えている。そういう意味での味付けはあると思います。
僕は、そういう方向にポップを目指すことは可能だと思うのね。ディスコ風のポップをテクノポップと呼ぶのだとしたら、その意味ではないんだけれども。もしロボットが演奏したら、とってもポップじゃない!
――テクノロジーの進歩の中で、いっそのことロボットに演奏させたらいいという意味ですか?
そんなラジカルな意味ではなくて、シニカルな意味でかな。ロボットがロックンロールを演奏し、それを見た人間が笑う。それは、ロボットを笑うのではなくて、自分を笑うことになるわけでしょう。
――ディーボにも、そういう面はありますよね。でも、一万人の観客のうち八〇〇〇人は、赤ん坊のお面をかぶって歌う点が面白いとしかとらえていない。そうだとしたら、どうでしょう? あそこまでサービス精神が豊かで完璧でも、本当のことはわかってもらえない……。
潜在的にはわかっているのかもしれない。
――音楽を聴き続けさせるためには、ある程度本能的な面にも訴えることができなければだめでしょうしね。
“ブラック・ユーモア”と言っていいのかどうかはわからないけれど、ディーボのシニカルな面白さ。それを「わかった」上で、自分の部屋でレコードを聴いている人がいるとするよね。でも、そんなふうにしてレコードを聴く体験は、どれだけその人の日常生活に影響を及ぼすものなんだろうか。むしろ「赤ん坊のお面をかぶって歌うから面白い」ってミーハー的に喜ぶ人のほうが、かえって日常生活に大きな影響を受けているかもしれない。
――彼らにとって、音楽は日常のレベルにあり、趣味の一つであるということですか?
そう。
――感じたことを煮詰めて考えてみることが無意味な時代なのでしょうか。ディーボには、思考を拒否する姿勢も感じられますよね。とすると、ロックでなくてもよかったというレベルの人達が音楽を聴きに行くことにも、それなりの意味がある……?
だからね、そこで済ましている人たちの存在をね、もう否定できないんだと思うよ。
――もう少し考えて聴こうよっていうレベルの啓蒙でも、行き過ぎであるとお考えですか?
まあ、それはそうする人間にとっては自分の存在証明なわけだから(苦笑)、自由にやればいい。ただ、多数派はあくまでもミーハーだという意識は持っていたほうがいいと思う。
――ミーハーじゃない人達が多数派だった時代は、あるんでしょうか?
よく言われる六〇年代幻想、まあ七〇年代の半ばまでは続くんだけれども、主にウェスト・コーストに心酔していた人達なんかの価値観ね。これはね、その当時も僕自身は与していなかった。逆にいえば、その時期、その価値観を全面的に信じていた人達というのは、僕はあまり信じることができないんだよ。
単に表面を見て喜んで済ましている人達だって、潜在的にはディーボのシニカルさを知っているかもしれないって言ったのは、そこなんだ。いまや憧れの対象が違っていて、今の若い人はもう髪を伸ばすだけ伸ばして汚い格好で野宿するなんてことには憧れない。まあ、グレートフル・デッドの残党みたいな人はいまでもいろいろな分野に残っているけどね。
それにひきかえ、あの時代は何もかもが一緒だった。髪を伸ばすことも、ヒッピーの格好をすることも、政治的なことに興味をもつことも、全部ひっくるめて一緒だった。だからそれだけ広がったともいえるし、その分浅薄だったともいえるわけだよね。みんな一様に自分を左翼だと思っていたんだよ、その頃は。
3
――レコードを推薦していくという行為には、どんな意味があるとお考えですか?
僕は『スモール・タウン・トーク』(※5)に「コレクション・レポート」というのをずっと書いてきて、時に推薦という言葉を使ったこともあるかもしれないけれども(推薦盤コーナーなんていうのもあったしね)、基本的な気持ちとしては、一度も「推薦しなかった」んじゃないかと思う。僕がレコードについて書くのは、最低限のデータや情報は別にして、「そのものの質を明らかにしよう」という思いからだった。だから、自分で感じた範囲で、そのレコードの質について一生懸命書いていく。で、それを聴いてみようと思うか思わないかは、読んだ人の勝手なわけ。
ただ、結果的には、その中から「名盤」といわれるものがずいぶん作り上げられてしまったことは確かだね。でも、それはあくまでも結果としてそうなったんであって、「これは名盤だから買っておいたほうがいい」なんてつもりは全くなかった。まあ、あれも一種の過渡的な現象だったんだろうね。
――では、あるレコードを人に勧めたいと思ったときにできるのは、自分の意見表明と解析ぐらいであって、例えば「君達は情報に惑わされ、聴かされているだけなんだよ」といったことを言うわけにはいかないということですか?
そうねえ。田舎にいれば情報が届かないのは当然だし、だからこそ田舎にいる人ほどマニアックになるという現象が出てくるわけだね。ただね、情報っていうとマスレベルのものだけを考えがちだけれど、『スモール・タウン・トーク』に載っているものだって情報なわけだよね。実際、「全コレクションの中の名盤99選」だったかな、最後に出したものを手に持ってレコード屋を探している若い人だっているわけで。マスの情報というのは、もちろん量的には多いから全体にふりまかれるけれども、ミニの情報は全体量が少ない分だけ逆に的確に標的に当たるという面がある。それを欲している人にしか手に入らないんだからね。そういう意味では、『スモール・タウン・トーク』がマニア達に対する影響力をもってしまったことは否定できない。
でも、さっきも言ったとおり、結果的にそうなってはしまったけれども、僕はレコード・マニアのためのアンチョコとして書いたつもりはない。僕にとっては“ブラック・ホーク”という空間がすべてであって、その範囲で公平に取り上げていった結果がああなっちゃったわけだ。
――マニアの人達にも指標になるものは必要でしょうし、そういう意味での最低限の情報提供は必要なのかもしれませんね。
そうです。あの号を出した意図もそこにあった。ただ、結果的にどう機能したかを見ると、『ポパイ』と同じ。マニアなんだから、一人一人がみんな自分なりの見識をもってレコードを選んでいるかというと、そんなことはない。マニアはマニアのレベルで『ポパイ』を読むように『スモール・タウン・トーク』を使ってしまった。もう評論みたいなのは載っていなくて、カタログ化していたしね。
――それまでずっとかかわり続けていらしただけに、いろいろ不満もおありなわけですね。
使われ方についてはね、あまり面白くないと思うね。
ああいう本がカタログとして使われる背景にはね、やはりコンプレックスがあると思うわけ。例えば、誰かがああいったタイプの音楽が好きになって、これからレコードを聴こうと思ったとする。ところが、そのとたんに、自分の知らないレコードがあり、他人が持っているのに自分は持っていないレコードがあるということに気づき、そこにコンプレックスが生じるわけだ。マニアとコンプレックスというのは、絶対に一つのものだと思うね。コンプレックスがなくては、マニアになれない。だからこそ、その裏返しの優越感を持ったりすることもあるわけで。かく言う僕は、実はレコードなんて全然持ってないんだけどね、自分のは。
――勝手なことを言わせていただけば、マニアの人達っていうのはかなり不健康で、足を引っ張っている面があるのではないかと思ったりしちゃうんですけど。
結局、音楽っていうのは、所詮は衣食住ほどに不可欠なものじゃない。もともと趣味で聴くものだということがあるわけだね。
ただ、これは自己批判も含めた言い方なんだけれど、今まで言ってきた「マニア」を「通」という言葉に置き換えると、シンガー&ソングライター全盛の時代には「通」がありえた。しかし、レゲエに「通」があってはいけないでしょう? アフリカ音楽に「通」があってはいけないでしょう? パンクの「通」だってあってはいけないでしょう? 「通」はないわけですよ、もう。
――そういうものとしては扱えない音楽だという意味ですか?
対象となる音楽によって変わるけれども、パンクにおいてはそうだよね。レゲエやアフリカ音楽の歴史に関して造詣の深い人は、当然いるでしょう。研究熱心な人もいるでしょう。でも、それは「通」じゃないのね。逆にいえば、「通」っていう言葉がぴったりはまる人間達だったところに、シンガー&ソングライター・ファン、シンガー&ソングライター・マニアの弱みがあるのね。
人があまり知らないようなマイナー・レーベルのシンガー&ソングライターを知っていて、その人が“ブラック・ホーク”のような場所でそれをリクエストする。「あいつは通だね」という言い方が、そこで成り立つわけですよ。ところが、レゲエについていくら人より詳しく知っていたとしても、「あれは通だね」という言い方は、音楽自体の本質と矛盾するでしょ。
「通」であることに美意識を感じてしまう性癖をはなからもっているところが、マニアというものの弱さだと思うのね。いわんや、政治的にラジカルな聴き手にとっては、「通」なんて言葉はそれ自体が攻撃の対象でしょ。いまもってシンガー&ソングライター時代からの「通」は存在し続けると思うし、そこにその音楽の性質が表れていると思う。
――「通」がない音楽ばかりになった。その結果、切り捨てられた部分については?
僕は、「通」の存在しえない音楽が出てきていることは、ある意味でいいことだと思う。「通」というのは、固定され静止された状態のものに対して使われる言葉だと思うのね。この先どうなっていくかわからないものについては、「通」はありえない。
――スリルとともに音楽をとらえることが必要である、と。
そうじゃなくて、価値観が固定されてはじめて「通」は成り立つということ。例えば、古典落語の「通」。古典だから、みだりに変わっていくものではない。演者は違っても、「通」の感受性はかなり固定されたものであると思うわけ。僕自身はそれはそれで執着をもつし、好きなんですけどね。で、落語に「通」があるように、シンガー&ソングライターにも「通」がある。僕は、そういう成り立ち方に淫してしまったわけね。だけど、そういう関係の成り立つ音楽はもう固定されてしまったものなんだ、いたるところで。
4
――ジミー・クリフの来日公演について、「ただのショーをやった」という不満があるんですが……。
最近の僕は、自分自身に対しても含めて、音楽観がわりとシニカルになっている。だから、これは僕自身の意見というよりも、こういう意見もあると受け取ってほしいんだけど、「音楽は、ポピュラー・ミュージックはもともとエンタテインメントのためにあるのだから、それで何が悪いんだ」という見方があるわけでしょう。
――ただ、それ以上の意味を一度見出してしまった人が、またエンタテインメントのレベルに下がっちゃったというのは、やはり不満を感じてしまいます……。
それはね、当然不満を持つわけですよ。持ちますけれどもね、やっぱりクリエーターじゃないんだから、やってる側じゃないんだから、それがそうなったからって不平を並べるのは、……甘えなのね、逆にね。
ポピュラー・ミュージックがポピュラー・ミュージックらしく戻ってしまった。で、自分にとっては、その音楽はエンタテインメント以上の意味をもっていたんだから、どうしてくれるんだっていうことでしょう。でも、自分で音楽をやらない以上は、「どうしてくれるんだ!!」はないわけでね。いや、僕はそういう意見を持っているんじゃないですよ。ただ、そういう意見に出合うと、やはり沈黙するしかない。
――そこでしゃべりまくるところが、僕もまだ青いのかもしれません。でも、ポピュラー・ミュージックは、ただ楽しませるだけではなく、生活と密着していたものだと思います。だから、僕はやはり堕落ととっていいと思います。
うん、それも自由。そういうふうに批判することも自由だし、僕にしたって書く場を与えられたらそう書くかもしれない。
ただ、もともと片想いだったんじゃないかというふうに思ってみることも、必要なことだろうね。アーティストが音楽の道に進んで、三〇も半ばになった。音楽で食っていかなきゃいけないってことが、やっぱりあるわけだよね。
――だけど、そこで切り捨てられるのがファンの立場ですよね。
そうですよ!!
――堕落して商売に徹するなら、そういうファンに聴いてもらえばいいし、それが全然ウケないのなら消えていくだけ……。
だから、自分が背中を向ける。それだけで終わりなんだね。で、一番最初の話にもどれば、背中を向けたまま、評論家として飯食っていくわけにはいかないでしょう? これからの音楽状況については、僕の立場からは悲観的としか言いようがないんだけれども、それはパンクがだめだ、第三世界の音楽もだめだと言っているのではなくて、僕自身がかつて持ったような情熱を持てるような音楽が、少なくともいま見通せる未来にもう一度わき上がってくるという可能性は考えられないという意味なわけでね。
――どうして情熱を持ちえないかというあたりをもう少し……。
まあ、その点になると多分に僕自身の個人的な、音楽以外のことも含めた個人的な事情がからんでくるので、ただ単に音楽の状況によってのみそうなったとは言い切れない面があるんですよね。
5
――個人的な事情というのは?
さっきから何度か、レコードのマニア、人の知らないようなレコードばかり探してきて集めるような人達の話が出ているよね。僕は個人としてレコードを買うことはなくて、“ブラック・ホーク”でもっぱらそういうレコードを集めていたわけだけれども、そのときの価値観自体は完全に僕自身のもの。それが結果的には商売に結びついていたわけだけど、僕自身もやっぱりマニアタイプの人間なんだね。
それが今、マニアの好みに合うレコードが出ないご時世になった。そうなったら自分が勝手に背を向ければいい、だから音楽から遠ざかっているわけなんだね。ただ、こうなってしまうと、ミーハーを見下して否定するなんてことはできない。“ブラック・ホーク”というスペースを持っていて、そこの椅子に座っていれば、自分で価値あるものをはっきりと積極的に標榜して、それがわからないやつはミーハーなんだという態度がとれた。また、そうする必要もあった。しかし、そういう場所を離れてしまった現在は、マニアは好きなようにマニアであればいいし、そうでない人もそれはそれでいいとしか言いようがない。そういった立場しかとれなくなっていることが、もうすでに音楽から随分遠ざかってしまった証拠なんだと思う。
――それでは、今まで音楽をお聴きになってきたことっていうのは、これからはどういうふうになっていくのでしょうか? どうなってしまうのでしょうか?
僕の場合、かつて夢中になり、その価値を一生懸命信じたレコードの一枚一枚が、一つのムーブメントとして未来につながっていくということが、もはや見えなくなっているわけ、今は。それらは、七二年当時の自分だとか、七三年当時の自分だとか、単に個人史の中に位置づけられる景物にすぎなくなっている。小学校や中学校の頃にラジオをひねると盛んに聞こえてきたヒット・ソングを今もう一度聴くとものすごく嬉しいのは、音楽そのものの価値というよりも、ある時代の自分とその環境を彷彿させる、そのセンチメンタリズムにあると思うんだね。かつて夢中になった音楽も、いまやそれとたいして変わりないのではないか。そんなところまで自分を追い込んで、考えているわけです。
――僕には、これからは音楽をやる側も聴く側もとめどもないくらいにめちゃくちゃになっていくような予感があるんですが、それでもかまわないとお思いですか。
「めちゃくちゃ」という言葉の意味がいま一つはっきりしないけれど、誰もがよく口にする「価値の多様化」という言い方があるでしょ。これは、現象を肯定的にとらえている表現だと思うのね。ただ、これは同量の大きなものが増えていくんじゃなくて、大きなものはなくなり、その代わりに小さなものがどんどん増えていくということなんだね。だから、かつての僕はある種の音楽を“ヒューマン・ソング”と名づけて売っていたわけだけど、じゃあこの次にヒューマン・ソング以外の何か、自分の旗印にして標榜できる何かがあるかというと、それはない。
――価値観が無理矢理一つの価値に押し込められてしまうような大きな流れが、多様化という言葉の裏にある、ということですか?
多様化というのは、各分野のマニアが多種類にわたって増えるという意味ではないのね。「価値の多様化」が言われるときには、それぞれの分野においてさえ「底上げ」が生じている、ということなんです。つまり、マニアが増えるのではなく、一人の人間の内側でも、好きな音楽が多様化していく。ディスコも聴けば、シンガー&ソングライターやシティー・ミュージックも聴く、レゲエだって聴く……それが多様化の実態なんだから、その実質は底上げ現象なんですよ。
――もう一つよくわからないのですが……。
今は聴く側の習性について言っているわけだけど、底上げした状態でしか音楽を受けとめる必要も気持ちもないということ。作られるものもそういう聴き手に合わせて、どんどんポピュラー化していく、ということです。
ここで思い出されるのは、何年か前に流行った「民俗音楽としてのロック」といったテーゼが示しているような、ロックを民俗音楽としてとらえる風潮だね。レゲエについては、それはまだ有効かもしれない。でも、白人には、もうそのための貯金はないね。(沈黙)ブルーグラスの世界にしても、究めるところまで究めて、すでに行き詰まっている。イギリスのトラッドのほうが、まだもう少し健全な部分があるけれど……。
――トラッドの人たちも、売りたいという意識は持っているのでしょうか?
あのね、実際問題として、売れたグループなんてそんなにないわけ。一番売ったのはスティーライ・スパンで、フェアポート以上に売ったんじゃないかな。で、あとはフォークの世界でのメジャー・アーティストといった位置づけの人はいても、その人達は自分の活躍する範囲を限っている。限られた範囲の中で、スターであったり、二流であったりするわけね。トラッドの世界にも新しいムーヴメントはあるけれども、それが他のポピュラー・ミュージック全体に何かしら影響を及ぼすということはまずないと思う。実際、別に仕事を持っていて、音楽をやっている人だって多い。僕自身はそれでいいと思う。
――別の仕事をしながらも、なおも音楽とかかわり続ける……。
うん。音楽するというのは、自分を世界の寵児にするなんていう目的とは元来関係がないんだね。好きだからやっている。トラッドの世界に限っていえば、実際にはいろいろなレコードで新しいチャレンジを聴くことができる。でも、それらもひっくるめて、トラッドはトラッドの世界の出来事でしかない。そう考えていいと思う。
――何か、しめくくりに一言。
(長い沈黙)あなたは、楽器は全然やらないの?
――ベースを少々。
やっぱり楽器をやったほうが勝ちみたいね。楽器をやらない人間がいくら音楽の状況を客観的に分析してみても、それはそれで楽しい時はあるにしても、現在のように悲観的にならざるをえない時になると、すべてが向こう任せになってしまう。その点、何か楽器をやっていれば、たとえ時流に乗った音楽ではなくても、例えばラグタイムの教則本を買いに来る人ならラグタイムをやることに無上の喜びがあり、その喜びを持ち続けられる。自分が何か楽器をやるというだけで、尽きない興味がそこに生じるわけね。誰もが世界一のプレーヤーになれるわけではないし、レコード一枚吹き込むチャンスにさえ恵まれないにしても、楽器を通して音楽にずっと関わることができる。音楽に対する興味は、純然たるリスナーに比べて少し偏ったり狭かったりするかもしれないけれど、音楽への情熱が失われることはない。
楽器を手にすると、精神的だけでなくて、肉体的な欲望を発散することができる。肉体レベルでの音楽への希求に関していえば、それはもう絶対に楽器をやっている人間のほうがそうでない人間より強いんだよね。
〔1979年『ミュニオン』7〜12号、1979年6月12日収録、聴き手=林原聡太〕
※原文そのままではなく、一部削除するなどの再編集をした。また、内容に抵触しない範囲で表現を変更した。(編者)
ロック生態学―残らない心
輸入盤レコードに頼って、ポピュラー音楽を聴く人達。その人達の世間とは、実はまだまだ狭い場所のようだ。去年の今頃、輸入のマイナー・レコードと楽譜とを売っていた原宿の店に、血気盛んな一少年がぼくを訪ねて来た。当時受験生であった彼は、同じ立場の仲間数人と、ミニコミの音楽誌を作っているという。その取材で、ぼくに質問に答えてくれとのことだ。せいぜい何項目かのアンケートに回答すればいいと思って、承諾した。ところがそれは、二時間余りカセットを回してのインタビューだったのだ。急なことでもあり、どんな内容かも知らなかったぼくは、自分の口を軽くするために、高校生だった彼にも酒を飲ませてしまった。その逆効果かどうか、受験生の質問は鋭く、答えるぼくは再三たじたじ[#「たじたじ」に傍点]となった。音楽の現状がどうであるにせよ、その現場に塗(まみ)れる人の質疑は活きているというべきか、その場でぼくはかなりの貯金を使ってしまった。そのインタビューは結局、去年の七月から今年の三月まで分割掲載された。(※6)専ら輸入盤でポピュラーを聴く人達の世間は狭い、といったのは、この“ミュニオン”なる雑誌が、およそぼくとは縁遠い、パンク/ニュー・ウェーブと、中南米音楽を主記事としていたからでもある。
パワー溢れるその“ミュニオン”が、通算一〇号の今号、遂に断末魔の遺言を口走り始めた。ぼくをたじたじとさせた編集長のH君は、「実はこの雑誌、今号限りで休刊になるかも知れない」と編集長記[#「編集長記」に傍点]で語る。金銭面での苦しみ、また片腕であったライター、N君が「これからは音楽じゃない」って言って辞めてしまったこと……。
ぼく自身の音楽所感を語るはずの本稿で、なぜミニコミ誌の報告から始めたかといえば、たぶん最終号となるであろう“ミュニオン”の、吐露の密度の濃さのためである。H君は、「音楽を聞いたり演ったりしている時が、一日で最も輝ける時であって、それがなかったらますます怠け者になってしまう」不安を感じつつ、「音楽雑誌は音楽[#「音楽」に傍点]にどれだけ近づけるか?」について考えている。このことは、再び引用すれば、「どうせ暇なら少しでも頭使って考えてみるか」というのが音楽雑誌の最善の誠意とするなら、最もシリアスでまっとうな問いかけだ。彼はだから休刊の意向なのだろう。
「これからは音楽じゃない」といい切るN君の〈自虐詩〉も、編集長に涙を飲ませる迫力だ。「これは、ニヒリズムではない、つもりである」で口火を切る文章は、現在、それなりの立場で音楽に関わる人々の各々に、一方的に引導を渡そうとしている。それは一種、「何故、音楽なのか?」という自問に答え切れなかった彼自身の誠意と、強迫観念とに駆られたものではあるけれど、惰性で音楽をなぐさむ人々には充分な告発ともなろう。「何故おまえは音楽なのか? それは、偶然の産物だ」「なんで絵じゃだめなんだ」「僕? 僕の娯楽は音楽だよ。それも娯楽の時点で、お尻をたたいてくれるやつがいいんだ」「娯楽の後は仕事が待ってるよ」
どれもエキセントリックな発言なので、順を追ってフォローしていってみよう。「何故おまえは音楽なのか?」「なんで絵じゃだめなんだ」これはかなり以前から、われわれ世代の人間も論議した。それはおそらく、音楽は時間を満たし、絵画は空間を満たすという常識に帰するのではなかろうか? つまり、時間を満たす芸術は浸透力と即効性を持ち、空間芸術は個との対峙を要求する。してみると、N君やぼくは、音楽、それもロックなぞというポピュラー・ミュージックに対して、ずいぶんと空間芸術的価値を期待していたことになる。「僕の娯楽は音楽だよ。それも娯楽の時点で、お尻をたたいてくれるやつがいいんだ」と彼は書いた。
メローなシティー・サウンドの興隆に伴って、ロックから遠ざかったぼくなぞにとって、例えばザ・バンドのようなロックが、「お尻をたたいてくれるやつ」であったと思っている。しかし、ぼく達の求めた普遍性とは、手前勝手に定めたロックのタイプの内に在るのではなく、ことポピュラー音楽の世界においては、聴く側の姿勢の内にしか求め得なかったのではないだろうか? つまりそれは、個人の聴き方に帰する問題だ。だからN君が「これからは音楽じゃない」といっても、それで誰をも改宗させることはできない。「まだ言い続けるつもりなのだろうか」と、音楽について書くような人々に彼はいう。「この文章もそうだ」とぼくは認めて、先を続けざるを得ない。
そこで、ぼくは苦肉の策をひとつしようと思う。要は、ロック・アーティストに対する思い入れを、過信なり誤解ではなかったかと考え直してはどうか? という単純なことである。彼等自身、過去のわれわれからの信望や期待を、シャワーで洗い流したい気持ちでいるだろうとも思う。よくインタビューなぞで、「このアルバムでの私は、この時点の真実に過ぎない。明日にはまた別の自分が居るとしても、予測できないのが自然だ」とかなんとか、うんざりするほど聞かされた気がするが、あれを挨拶程度の常套語として、聞き流していたわれわれがのんき[#「のんき」に傍点]だったのだ。いま思えば、彼等の一貫したポリシーとはそこにしかない。
“変る”こと自体が、ロック・アーティストの“操”だったのだ。もちろん、それに全く気付かなかったのではない。むしろ常に指摘してきた点なのだが、その指摘は個別的であり続けた。ひとりが好ましからざる変化を見せても、代るべき人は必ず現われてきたし、探しだせもしたから、自分の価値観を照射する対象を失うことはなかった。そうやって、“音楽を聴く自分”に拘泥してきたのだ。
だがいま言いたいのはそれではない。誰が良くて誰が悪いかではなく、ぼく達の一時代を染め上げたロックという音楽の全体、それを創造したスターという存在の本質を、過去からの関係を捨てた眼で見たいのだ。できればその視線は、冷たくあるべきだろう。
ひとつの着眼点は、ロックにおいての“鶏が先か卵が先か?”というテーマである。こう書くと、答えが出ないことをあらかじめ断っているようだが、常識の定規を当ててもらっていい。あれは鶏が先としよう。それならばここで問題なのは、ロックにおいては“ロックという音楽型体とそのアーティストではどっちが鶏でどっちが卵か?”ということになる。元に戻すと、“ロック音楽とスターはどっちが先か?”だ。
ロックに親しんできた人達の殆どが、ビートルズ、ストーンズ、ボブ・ディラン、ザ・バンド等、幾多のスター達が絡み合って七〇年代のロックを創り上げてきた。そう暗黙に信じ合っていただろう。これはいわば常識だ。どんな音楽の本や雑誌を見ても、“ロックを前進させた二〇人のアーティスト”とか、“いまロックを支える五人のスター”といった題名や特集ばかりだった。ならばこれは、スターが鶏で、産んだ卵がロックという論理になる。ぼく自身も、それは大前提として考えることもなく、文章を書いてきた。
いまこれを、遅れ馳せながら疑ってみたい。レコードと同じように、本も雑誌も売るために作られるのだから、いつまでも本質論にこだわってはいられない。いわんや対象がポピュラー音楽となれば、第一にアップ・トゥ・デイトであることが必要だ。音楽に関するぼく達の会話もそれに準じた。話題も思考もその時々の、個々のアーティストへ向けてしか深まっていかない。むしろ、「個々の質を解明していくことで、全体(ロック)とはその総和として明らかになる、あるいは全体像なぞ語り尽くされた紋切型のままでいい。帰納的な思考作業のほうが面白い」そう思っていたし、事実ぼくもそれが好きだ。しかし、個々に探りたい人も居なくなったいま、いかに自分に演繹的な考え方が欠けていたか判ってきた。思えばロック好きな人達にも、演繹的に音楽を語る人は確かに居た。
(ただし、『ロックはラヴとピースと連帯の音楽だから――』なんていうのは演繹的でも何でもない)そこでこの稿に至り、苦手な考え方で無い知恵を絞り、ようやく考え出したのが先の“鶏と卵”論である。
そしてぼくの答えは、ロックという音楽が鶏、居並ぶスターはみな卵である。ただしその卵は、親と同じ鳥には孵らない、いわば鬼子としての卵だ。彼等はなぜ鬼子の卵なのか? それは彼等の持って生まれた血が、厳密に親から音楽である以前に、表現者でありたい欲求であったからだ。だから彼等にとって、必ずしも親と同じ鶏として世に出る必然性はなかった。卵を借りたのだ。ではなぜそれがロックの卵だったか? その時代、表現者として有名になるには、ロックを演奏することが最も可能性に満ち、許容度が豊かで、エキサイティングで、道も近かったからである。だから彼等は、ロックを、自分を生むべき腹を選んだのだ。同じことをした奴は、ぼく達の知っている名の何万倍、何十万倍と居ただろう。しかしいまはその成功者、スターのことを話している。
ロックにおける成功者とは、ロックでなくても成功した奴ではなかろうか? 俗によく居る“多芸多才”という意味ではなく、表現者、創造者、更には独裁者たる資質の問題だろう。もう少し具体的にイメージしてみる。
まず、「自分はそうなりたい」という欲求が並外れて強いことが出発点としよう。いや、それ以前に好奇心の精巧なレーダーを備えていなければならない。それは好奇心こそ、人間がアグレッシヴになれる源泉だと思うからだ。第一好奇心は、成功後にも失ってはならない。そして、何かに「成りたい」と思ったらその瞬間から、もうそれに成った気になる。そんな単純さと自己暗示力が必要だ。
以後の障害についてはどう反応するか? 例えば彼への妨害者は、既に王様に対する謀叛人か、さもなければ、弱い者いじめの極悪人だ。そのどっちかは、彼自身の精神状態による。感情、表情の変化はたぶん激しいだろう。なぜなら、世界は彼と喜怒哀楽を共にするか、あるいはその正反対で臨むだろうから。
容姿については、必ずしも特別な美貌とかセクシャルな肉体でなくていいが、ナルシシズムだけは人一倍であること。性欲は強いに違いない。
嘘くらいは嘘と思わずつける、そんな無意識の演技力を持つ。気が向かぬとき以外は、人前で目立つことが好きで、気分は昂揚し易い。ユーモアに長け、シニカルな面もある。博識でなくとも、智恵は鋭くなければいけない。時流に聡くなければいけない。
金銭には冷静にして貪欲。努力すべき時と場所を本能的に察知し、力を込めるときの集中力は凄い。
そしてロックにおいて、先人とは異質な才能を持っていること。
以上思いつくままだが、こんな人間がたぶん、ロックという出生から飛躍して、ポップ・ワールドの特権者になり得るのだろう。重要なのは、郭公鳥の卵を孵す百舌(もず)のような生態を持つ芸術は、ロック以外にないということだ。
こんなことを思いつくキッカケのひとつに、最近の泉谷しげるの見事な役者振りがあった。シンガーとしての彼のステージを観たことはないが、一〇年前のフォーク時代から一貫して特定の支持者があったそうだ。渡米してバンド型体でギグした際にも、米国人相手に相当な評判だった。テレビで観る彼の演奏を、ぼくはあまり好まないが、しかし彼には、その場の人間を自分の磁場に置いてしまう、一種のカリスマ性があるのだろう。その彼が役者として、いま各方面から高く評価されている。テレビでやった「吉展ちゃん事件」を観た方は多いだろう。犯行以前から社会的に歪曲され、矮小な犯人を泉谷が演じると、ぼくは自分が事件一部始終の目撃者であるような気がした。そしてたぶん、一般の目から見た犯人像が卑小であればあるほど、演じる泉谷の心理はヒロイックであったろう。そういう役者として彼は、シンガーである以上の存在感をいま発している。一方で彼は、「シンガーであることは止めない」と言明し、活動してもいるが、それは役者で得た体験を、演奏にフィード・バックさせる試みだと思う。いずれにせよ、この強力な表現者が人前に立ちたいと希求した六〇年代の末、彼の取るべき武器はフォーク・ギターしかなかったのだ。
ロックとそのアーティストとの、こうした関係を物語る別な例がある。一般的にはスターと呼べるほどの知名度はないが、三年前、カナダから二人のシンガー&ソングライターが初来日した。向こうでは相当なスターであり、日本でもマニア達に渇望されていた二人だ。ひとりはブルース・コバーンといい、もうひとりはマレイ・マクロクランというもっと若い人だ。この両人にインタビューをしたが、終始積極的だったのはマクロクランで、そのとき、「シンガー&ソングライターというものは、時代の風潮から生まれたものでしょうか? あなたも含めて、彼等は何十年も歌を作り続けられるでしょうか?」というぼくの質問に答えて、「芸術にはサイクルがあると思う。例えば三〇年代のアメリカでは文学が興隆し、フォークナーを初め幾多の作家が輩出した。ぼくの場合にはヴィジュアル・アートにも関心を持っている。アーティストというのは、自己表現をしたい人間の質で、それがたまたま音楽だったりするのだと思う」と実に真剣に語っていた。このインタビューをした七七年といえば、ぼくにとっては苦渋の年で、執心すべき音楽がまさに音を立てて崩壊を開始してい、それを念頭に先の質問をしたのだ。それでも当時は、彼のこの答えは言い逃れにしか聞こえず、明日を憂れうる言葉をのみ、ぼくは期待していた。芸術が時代のサイクルを持っているのなら、次は何の番なのかを尋(き)いてみればよかった。そしてあのシンガー&ソングライター文化が、過去のどの芸術に相当したのかも。ちなみに彼が文学の時代と言った三〇年代は、日本では昭和五年から一五年に当り、これは、最近ぼくが仕事で担当した短編小説集が書かれた時代に符合する。その本の帯に、作者自身の言葉を引用した箇所があって、「……丸裸の自分の生活感懐を、創作上の理想的な足場と定めて……」となっている。良くも悪くも、シンガー&ソングライター達が標榜したそれに似ているではなないか。小説のほうは一種傍流の私小説だった。マクロクランのほうは、この当時ギター一本で迫真の歌唱を聴かせていたが、いまはカナダでグループを組み、暗い鏡の内で時にギターがギラリと光る、といったサウンドを背に歌っている。
身近な例を挙げただけだが、もっとメジャーなアーティストになればなるほど、彼等はロックという音楽を、自らを賭けて守るべき型体だとは考えていないだろう。ジェームス・テーラーとカーリー・サイモンが結婚したのは、ロックを守るためではない。クリス・クリストファースンとリタ・クーリッジも、結婚後はポピュラー音楽化している。同じ目的で、ロビー・ロバートスンとジョニ・ミッチェルが結婚することはあり得ない。つまり、有名無名おしなべて、ロック・アーティストは、種としてのロックを保存するために生きはしない。それがロックの生態学なのだ。
さて、ロック・アーティストについてはそれでいいとして、残る紙数で言及しなければならないのは、「ロックはライフスタイルだ」とのたまっていた誰かと、もしまた酒でも飲むようなことがあった場合、一体何を話せばいいか? といった類の問題だ。なにせロックがライフだったくらいだから、当然話題は音楽に及ぶだろう。「最近は何を聴いてるの?」これはよく尋かれる質問だ。だが、ぼくのほうから尋く場合には少し違う。こう言うのだ。「まだ音楽は聴いていますか?」事態はそこまで進んでいるのだ、ということを解って貰いたいためだが、たいていは通じない。そして殆どが「聴いている」のだ。何をかはおおよそ想像がつくのだが、「聴いている」と答えられた以上、「えーっ、いまだに――」とは言えない。「どんなのを?」と尋き返さなければ失礼になる。「Mとか、プリテンダーズ、B52、たまにイエロー・マジックなんかも」要するに、コンピューター直結のシンセサイザーや和声をパターン化した遊び、いうところのテクノ・ポップだ。これがかつて、ディランだザ・バンドだと称えていた人々のなかで、最もナウいライフスタイルである。「いったい五年前のライフスタイルと、どう結びつくのですか?」なぞと、そんなバカな質問は間違ってもしない。なぜなら、ちゃーんと、それは結びついているからである。
そもそも彼等が、ディランだのニール・ヤングだのに、どうやって自分のライフスタイルを見ていたというのだ? ぼくなぞ、チラともそんなことは考えられなかった。かたや牧場や森付きの邸宅に起居し、気の向いたときに仕事をすれば何百万ドルも入ってくる。こちらといえば、そうやって創られた何百万かのレコードの一枚を、くそ暑い三畳間で、せいぜいウイスキーでも飲みながら聴くだけの話だ。あ、すると、ライフスタイルとは想像力、いや、当時の言葉で言えばフィーリングの問題だったのだ。確かにぼくにはそれが欠如していた。いまもしている。しかし、だからそのフィーリングさえ持っていれば、シンガー&ソングライターがソフト&メロー・ミュージックになり、更にはパンクからテクノ・ポップに変ろうとも、わがライフスタイルにいささかの支障もない。まあ、憧れのスターのライフスタイルと、現実の自分のそれとを、観念の内で足して2で割れば、それが“中産階級のライフスタイル”といったところか。ここにおいても、ポピュラー音楽の普遍性とは、やはり聴く側の姿勢の内にしか存在しないのである。
しかし困るのは、断じて中産階級ではない、貯金ゼロのぼくが何を聴いているのか、それを突っ込まれる場合だ。数年前なら、そのことが多少は、相手にとっての情報になったかも知れない。その点、現在は全く役立たずである。「いえ、新譜はぜんぜん聴いてないので……」と、これで打切って頂きたいと願う。でもたいていはもう少しある。「じゃあ、どんなのをよく聴くの?」ここまで来れば仕方がないから正直に言う他はない。「実は何もよくは聴いてなくて、たまたまラジオで流した曲とか、テレビの歌謡番組ですね」
幸か不幸か、この状態にまで陥っているのは、ぼくばかりではないようだ。そういう人達でも、歌謡番組が厭ならば観なくても済むわけで、それが結構喜んで観ているのである。ただし、ラジオでディスコ風の曲がかかったりすると我慢ならない。説明すると、もう割り切ってしまって、音楽をエンターテインメントとしか見ないことにしたのだ。FENが次から次へと流す曲を、ただ漫然と聞き流しているのもなかなかいいが、視覚を伴わないラジオは、元々嫌いな曲を許容できない。その点、女性歌手の器量や衣装(めったにいいのは無いが)を云々したりしながら、テレビなら大方は大丈夫だ。とはいえ、「面白い!」というのは年にいくつかだ。こういった趣味に目醒めたのは、ぼくの場合、ピンク・レディの“ウォンテッド”辺りからだったが、彼女達も最近はまるでつまらない。全体に、男の歌手は出なくてもいいのだが、沢田研二だけはいつも面白い。この前の“TOKIO”なぞ感心した。
いってみれば、超コマーシャル同志のせめぎあいのリアリティーにしか、面白味を感じなくなったのだ。それでも喰い下がる人もたまにはいて、「最近は書いてないね」「ええ、全然お呼びがないから」「音楽雑誌、面白くないものね、何かある?」 これを言うのを実はぼくは待っていて、ちゃんと答は用意してある。
「ありますとも。“ミュニオン”をお読みなさい」
〔『話の特集』1980年10月号〕
“ロック主義”の解体
あの『イカ天』で“たま”がグランプリを獲得する昨今であってみれば、とある土曜深夜に突如アイリッシュ・トラッドの日本語版を演じる若者たちが登場! なんて事件もあながち妄想ではないかもしれない。
もし“たま現象”とも呼ばれる異様な人気と、エスニック音楽やトラッドへの一般的興味とに通底する理由があるなら、いったいその秘密って何だろう? と、そんなことを考えさせられる世の中はまだまだおもしろいな、という気がしてくる。
だがこの文章の主題は“たま”ではなくトラッドであり、とくにその日本における聴かれ方の変遷である。この『包』では確固たる位置を戴いているトラッドも、本邦での黎明期の辛酸は想うたびに涙するほどのもので、『イカ天』なら五秒で赤ランプの処遇に懲りずに耐えて燃えつづけた、とでもいう以外にない。
ただ一点、七〇年代初頭に上陸した(難民船で)トラッドと、現代の“たま”に共通した条件がある。それはどちらもロックの舞台に登場せざるを得なかった点であり、もし「お前はロックと違う!」と指弾されれば、「ハイ左様で」と認めるしかない、いやニッコリ笑ってそう認めるべきだ、と思う点である。
※
五〇人程度で満席のスペースではあったが、公の場所で最初にトラッドのレコードをかけ始めたのは、渋谷にあったブラック・ホークというロック喫茶だった。約二〇年前、ヒッピーと学生運動の最盛期だ。さて当時のロック状況といえば、ハード、プログレ、ジャズ・ロック、カントリー・ロックなどが混然とし、シンガー・ソングライターなる者も出始めて、聴き手は全体としてのロックの輝ける未来を信じて死ぬまで疑わない、という状態だった。その熱気は一種宗教じみていて、“非ロック的”とみなされた文化的産物は、音楽はもちろん言葉、服装、髪型に至るまで消費税のごとく排斥されたものだ。
そんな状況下にもかかわらず、ブラック・ホークという店は独断でトラッドをロックに割り込ませた。しかもハード、プログレ、ジャズ・ロックなどを、客の意向も伺わずにオミットした。だから、ディープ・パープル目当てに来た客は「置いてありません」のひと言で目的を失い、なぜか無伴奏のバラッドなぞを聴かされたりする。つまり偏向した選曲だが、そのレコード係が実は筆者だった。
当然、大多数の客はシャウトもしない英国民謡など聴く耳は持たず、その信条に従って席を立った。たとえばニック・ジョーンズが「ロード・ベイトマン」を唄いだすと、それまで満席だった店内がガラ空きになる。この光景は、当時のブラック・ホークを知る人には今も語り草だが、では、平均的ロック・ファンがトラッドに感じた違和感とはどんな質のものだったろう。
今日まで二〇年間、ロック・ファン自身がトラッドへのその拒絶反応を言語化したためしはない。せいぜいが「聴きづらい」か、後年には「暗い」かで、いずれも自己の感性を説明してはいない。
永年ロック・ファンを観察してきた眼から見て、トラッドが彼らの感性を刺激しないのは、それが“たくらみ”“あざとさ”“けれん”“こわもて”といったロック的遠心力に依っていないからである。彼らは、向こうから力ワザか甘い誘惑かで巻き込んでくれる音楽しか感受しない。つまりはメジャーな音楽の享受者なのだ。だからアトラクティヴでない音楽に接した場合、それは自分に扉を閉ざしていると被害的に考えるか、または異言語で語りかけられたような不安と不快を覚える。平均的ロック・ファンの習性とはそれだった。
だが、それでもトラッドはロックのフィールドから出発するしかなかったし、トラッド・ファンもロック・ファンの一部がそうなったのだという事実は記しておかねばならない。その橋渡しをしたのが、フェアポート・コンヴェンションやスティーライ・スパン、アルビオン・カントリー・バンドといった、エレクトリック楽器とロックビートとを用いるトラッドバンドだった。そしてさらにオーセンティックなレベルの、アコースティックで演奏するアーティストが受け入れられるまでには、ブラック・ホークというマイナー志向の店のなかでも客の淘汰は繰り返されたのである。
ロックという、音楽史上に例を見ない広い間口の軒を借りて、日本にファンを定着させたトラッドだったが、今や“たくらみ”“あざとさ”“けれん”“こわもて”といったロック的市民権を問われる立場にはもうない。それはひとりトラッドが強大になったわけではなく、ロック幻想が崩壊した相対的な結果だから、事情はワールド・ミュージックなど、どんな音楽番組にとっても同じだ。だから同時に、主流の座には万人向けの商業音楽が返り咲いてもいる。片や、“ロック教”の残党たちは、レザーを着た宮崎勤君のように孤独な眼を光らせているのだ。
“ロックの文脈上にはもう何もない”という、いわば東欧的な回転をもっとも理知的に先取りした日本のバンドが“たま”だろう。彼らの発想の素晴らしさは、明らかな支持を受けながらレコード会社の現有頭脳ではプロデュースできない(彼らが妥協しなければだが)、という点に示されている。“たま”の支持者たちもきっと、東欧の片田舎の村人のようにそのことを肌で察知しているのだろう。もしそうなら、常にメジャーに席巻されてきた音楽状況よりも、この精神風土は健全だ。『イカ天』の功績は、村祭の見せ物小屋に雑多なバンドを登場させながら、結果として“ロック主義”の解体を証明してみせた点である。
わがトラッドもその解放下で初めて、“会員制”的なスノビズムから脱却して人の耳に触れられる。だが、“たま”やエスニックやワールド・ミュージックのファンが、そのままトラッド・ファンたり得るとは限らない。ある一例を挙げるなら、先頃“NHKスペシャル”で放映された細野晴臣の番組である。そのなかで彼のテーマは、アラブのアコーディオン奏者と女性シンガーと日本の民謡歌手をブレンドして、“細野版江差追分”を作ることだった。トラッド・ファンの耳には、その個別の要素はどれも実に素晴らしい。だが彼がスタジオの錬金術で完成させた製品は、高価な素材を無駄に使ったダンナ料理でしかなかった。その音楽を好む人は、まずトラッドを好むことはないだろう。
紙数が少ないので結論をいうと、トラッド演奏は自己表現ではない。だが自己表現でないことに全身全霊を注ぐ、その姿勢自体がこの現代にあっては鮮烈な自己表現である、という価値観を持つのがトラッド・ファンなのだ。
またトラッド・ファンはこの二〇年来ヘンクツ扱いされてきたが、彼らといえどもただ好きな音楽が素直に好きなだけだ。だから胸襟は開いても、多数派を目指すことはない。そしてなぜ自分はそれが好きなのかについて、考えることがまた大好きなのである。
〔1990年『包(パオ)』17号〕
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■ウェストコーストの光と影
1 『セイル・アウェイ/ランディ・ニューマン』
一九八三年だと思う。このランディ・ニューマンがピアノの弾き語りという最少のセッティングで来日公演したとき、その会場には過去のロックコンサートで見られなかった光景があった。幼稚園児ほどの子供を連れた両親、あるいは母親が何組も見に来ていたのだ。
若い親たちは、子供に初めて見せるアーチストとして彼を選択したのだろう。そこには「自分たちの青春の“良質な”断片を見せる」という自己満足があるんだなと、ぼくは好意的に解釈したものだ。
本アルバムの発表は、そのコンサートより一一年前の七二年。当時この音楽を歓迎した人たちは、ロックにも古色に彩られた表現があり得、アイロニカルな渋いつぶやきも可能なことを知って喜んだのだ。
ランディ・ニューマンは、有名なライオネルとアルフレッドという二人の映画音楽作曲家を伯父にもち、その舞台裏をつぶさに見て育った点で生粋のハリウッド人間である。
本アルバムでも、タイトル曲の「セイル・アウェイ」は奴隷船の航海であり、大道芸人や孤独な老人をうたい、映画『ナインハーフ』に使われた「帽子は被ってな」は、恋人にストリップを演じさせる男の歌、といった具合だ。
自分のピアノを軸にレトロなストリングスを駆使し、“アメリカ”の諸相に屈折した視線を送る彼のセンスは、ウェストコースト音楽の“陽性の系譜”からは外れていた。当時のアメリカでも、彼の支持者は十代のロックファンではなく、大学生からリベラルな大人たちにかけての人々だった。
ランディ・ニューマンは七二年の百花咲き乱れるロックシーンにあって、“アメリカ音楽”のひとつの普遍の形を、LAという都会をスタンスに実現してみせた“個人”だ。
その後も彼の音楽の基調は変わらず、ファン層も彼とともに年をとってきている。アーチストとファンのこうした関係は、ロック音楽においてはまれな例だ。
「ロンリー・アット・ザ・トップ!」「バーノン!」
客席からリクエストした親を、子供たちはおぼえているだろうか。あのとき日本の“若い大人”たちは、自分のロック的な知性を再確認したかったのだと思う。
2 『紫の峡谷/ライ・クーダー』
およそロックという音楽が、それまでのブルースやゴスペル、フォークやカントリーといった伝統の上に成り立っていることは、どなたもご存じだろうと思う。
ある新しい音楽が、実はどんな背景と工夫から生まれたかの分析は、このライ・クーダーのようなミュージシャンが現れるまで、もっぱら評論家の特権に属していた。
だが彼は、まるで世界一楽しくて優秀な音楽の先生みたいに、歴史的な音楽のすみずみにまで精通し、それらを“現代語”に翻訳して演じてくれるのだ。
教養も一流なら演奏者としても超一流、七〇年代の僕たちにとって、ライ・クーダーの音楽はロックの生きた“血統書”のような効力があった。
さらに大事なことは、その一曲一曲が彼独自のユーモアやエスプリで解釈されて演奏される面白さだ。
それは、いわゆるリバイバルとは違う。SPレコードの溝に埋葬されていた曲が、ロックとの血のつながりを証明されるのと同時に、現代的な生命と魅力を与えられてよみがえる。
彼の音楽を語ることは、だからロックの重要なイミ[#「イミ」に傍点]を明らかにすることだとも思う。
この“紫の峡谷”は、彼の二枚目のアルバムとして七二年に発表された。まず、往年のハリウッド映画を賛美したようなジャケットがすごくウケた。ダブルの表、中、裏と、三九年製ビュイックに乗るクーダー夫妻の背景はすべてそれとわかる書き割り。ハッピーな映画を連想させつつ、取り上げる歌は不況時代の世相を反映したものが主だから、ここでハリウッドはおちょくられた[#「おちょくられた」に傍点]のだと思える。
こんな絵解きにひどく熱中したのも、七二年当時日本の若者たちだった。
後の映画『パリ・テキサス』で広く知られるように、ライ・クーダーのボトルネック・ギターは言葉にも勝る表現力をもつ、人間の絶望までも音にする。だがここでの彼のボーカルは、暗い時代が生んだ歌を深刻には表現しない。失うものさえない人間の、笑うしかない楽天ぶりを演じる。
前回のランディ・ニューマンの個性がネガティブだったのに対して、このライ・クーダーの歌はヒネられているにせよ明るくポジティブだ。
以後、彼の音楽的興味はメキシコ、ハワイ、沖縄へと広がっていく。
3 『ホテル・カリフォルニア/イーグルス』
イーグルスがウェストコーストの代表的グループだったこと、この『ホテル・カリフォルニア』がロックファンの枠を超えて、一般的ベストセラーになったことは、ポピュラー音楽史に隠れもない事実といえる。
七六年、この年はロックにとってターニングポイントになった年だと、いまも僕は思う。ロックが、従来のポップスと決別した事情を知る世代がオトナになり、市民生活に見合う音楽しか聴かなくなった。
古株のバンドやシンガー&ソングライターたちも、AOR(オトナ向けロック)に転向して生き残りを図り、ディスコ音楽やフュージョンが時代を映した。それらに不満な若者たちは、トンガッ[#「トンガッ」に傍点]てパンクに自己を投影した。
結局、そのすべてがレコード産業の成長拡大に寄与したのだ。ジャズでもそうだが、音楽自体が発展中の時期より、停滞か形骸化してからのほうが、商業的には好況を示すものらしい。
「ホテル・カリフォルニア」のボーイは、強い酒を注文した客に対してこうこたえる。「六九年以降、ここには“スピリット”はございません」
このスピリットが、蒸留酒と精神との掛け言葉であることはもちろんだ。この一節は日本でも評判になった。だが注目した人々は、おそらくこのレコードを、嬉々として買った人々とは別な少数派だったのだろう。
当時、日本では西海岸ブームのまっ最中だった。Tシャツ、ジーンズ、スニーカーが定番ファッションであり、パームツリーと青い空があこがれのイメージであり、このイーグルスのヒット曲名でもある“テイク・イット・イージー”(気楽にいこうぜ)が、若者たちの合言葉だったのだから。
“六九年以来、スピリットがない”という告発が、七二年に「気楽にいこう」で有名になったそのグループによってなされたムジュンは、ついに西海岸ボーイたちの問題になることはなかった。
それどころか“ホテル・カリフォルニア”こそ、彼らのライフスタイルを代表する歌として、百パーセント肯定的に迎えられたのだ。
だが、この曲がそれまでのイーグルスよりも暗く、重苦しく演奏されていたことも事実だ。同時に、甘美で哀切なメロディーを備え、ヒット曲としてのオーソドキシーにかなってもいた。おかげで若者たちは、自分たちの信じる文化が告発されているなどとは、思いもよらなかった。それほど、このアルバムは完成度が高くできていた。
4 『シルク・ディグリーズ/ボズ・スキャッグス』
“シティーミュージック”というのが当初の呼び名であり、その耳当たりを“ソフト&メロウ”と形容され、のちにAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)と総称された一連の音楽が七〇年代の後半に流行した。
このボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリーズ』こそ、ロックのそうしたオトナ化、あるいは市民化を方向づけた代表作だろう。
ジャケットの写真の彼の髪は短く、サングラスをかけスーツを着て、海辺のベンチに座っている。全体の甘く物憂いトーンが、音楽の洗練と都会性を物語ってもいた。「だれに向けた音楽だろう?」と、僕は思った。
だが実際には、米国にもロック疲れした元若者はいたし、東京にもそれに同調して“シティーボーイ”を名乗りたい現若者がゴマンといたのだ。ただ不思議なのは、昨日までザ・バンドだのライ・クーダーをあがめていた人たちまで、今日からソフト&メロウに改宗していくことだった。
いま思えば、それが「トレンドを追う」という生態であり、つまりは都会派を認じる人が自己を確認できる唯一の方法だったのだ。
ボズ・スキャッグスは、スティーヴ・ミラー・バンドを経てソロとなり、七六年のこの作品までに五枚のアルバムを出していた。南部のR&Bを基本に、ラテンの要素を導入したりしながら、独自な泥臭さに魅力のあるアーチストだった。
その彼がこれ以降ギターをボーカルマイクに持ち替え、白いスーツでステージに立つLAジゴロ風に変身したのだ。ジャーナリズムはこうした事態を「ロックがついに市民権を得て、真に主流の音楽になった」と、拍手とともに評した。
たしかに、イブニングドレスとタキシードで聴きにいくロックなど、かつてなかった。だが、「基本的にトム・ジョーンズとどこが違うの?」という素朴な質問に、納得のいく回答を得ることもまたなかった。
『シルク・ディグリーズ』はロック史に、二つの大きな功績を残した。
ひとつはロックに“エンターテインメント”という在り方を確立したこと。もうひとつはあの時点で、トレンディーでいるために音楽を聴く、という人々を明瞭にしたことだと思う。
そして「ロックはライフスタイルだ」と広言する人々が、ほとんどこのタイプに属していた。
■黎明期の大いなる混沌
1 『スーパーセッション/ブルームフィールド、クーパー、スティルス』
「黎明」とは、まだ物の形も明らかでない夜明けのことだ。したがってロックシーンの黎明期にも、今日から見れば玉石混淆としか言いようのないほど名盤? が輩出し、結果はその多くがただの“石”であった。
六〇年代末といえば、世界的に若者たちの価値観の変革期である。そしてロック音楽が、各人のアイデンティティーのシンボルという役を担った時代だ。その分だけ多様な試みが容認され、ひとくくりに“ニューロック”と呼ばれて、とにもかくにも白熱していた。
この『スーパーセッション』は六八年の産。ブルース・プロジェクトやブラッド・スウェット&ティアーズを主宰して東海岸の黒幕的存在だったアル・クーパーが、同じく東側ではピカ一の白人ブルースギタリストだったマイケル・ブルームフィールド、そして西海岸のバッファロー・スプリングフィールドでスターになったスティーヴン・スティルスを糾合して打った“野心的”セッションである。
本アルバムが当時のロックシーンに与えた影響の大きさは、この“スーパーセッション”なる言葉が流行し、あっちでもこっちでも同趣旨の企てが起こったことで証明される。
演奏アイテムは主としてブルースだが、それがセッションという当意即妙の形式で行われたこと自体が、当時の素朴なファンにとっては新奇だった。意義といえば、それ一点である。
演奏の内容となると、ジャズに親しんだ者の耳にその当意(アドリブ)はとても即妙(イマジネイティヴ)とはいえず、どうにか即興形式をとった、という初歩的レベルにすぎなかった。
ここで再びその“時代”を問題にしたい。当時、ロックではやっと楽曲や歌手ばかりでなく、演奏におけるプレーヤーという存在に関心が向けられるようになったところだ。その風潮をとらえて、このアルバムは企画されたといえるだろう。
翌年に発表された『フィルモアの奇蹟』も含め、この種のロックの信仰者は、インプロヴィゼーションを音楽の至芸として尊んだ。
だが当人が自覚していたかどうかはともかく、その価値観の根差すところにジャズ・コンプレックスが潜んでいただろうと思う。
そして、ロック黎明期の混沌を解析するには、各音楽の志向の動機を、コンプレックスに求める視点が有効なのだ。
2 『クリムゾンキングの宮殿/キング・クリムゾン』
ロック黎明期の混沌は、その音楽の動機を、コンプレックスに求めることで解析できる、と前回に書いた。そして典型的な例が、とくに英国で興隆したプログレッシヴ(前衛的)ロックとその信者のケースだろう。
このジャンルにはピンクフロイド、イエス、ムーディーブルース、初期ジェネシスなど、英国のロック史のVIPたちが名を連ねる。
今回、キング・クリムゾンを採り上げた理由は、このデビューアルバム『クリムゾンキングの宮殿』が、六九年秋、あのビートルズの『アビーロード』に替わって全英チャートの王座に就いた事実が、ある象徴的な意味を持つと思えるからだ。
当時“ニューロック”にはあらゆる試みが許されていた。だが輩出するバンドのすべてが、まるで宝くじを当てたような自由を駆使するほど、独自な創造性を備えていたわけではない。
六九年のミュージシャンとファンの双方は、まだビートルズ体験の夢からさめずにいた。あの想像力拡大の方向に、次の音楽も発展していくものと信じていたのだ。
そこで登場したプログレッシヴ・ロックとは、ビートルズとはべつなアプローチによって、想像力拡大を模索した結果だった。で、その内容は、劇場か画廊のロビーで客たちが交わす会話の常套要素を、音楽として網羅するものとなった。
たとえば本アルバムにも、ジャズの即興演奏の実例、前衛風味の無調音の実例、鍵盤楽器による電子音の実例などが完備され、わけてもロマン派クラシックよりも甘く美しいメロディーが、他の諸要素をコーティングしてファンを魅了した。
プログレッシヴ・ロックがある既存の音楽を要素に加えるとき、それはその音楽への個人的執着や想いによるのではない。ジャズやクラシックや前衛音楽のひと通りを陳列し、記号に満ちて意味ありげなブティックを店開きするのである。まさにその事実によって、“度肝を抜かれた”ファンは確実に、しかも多くいた。
まず、ロックにアイデンティティーを求めながら、そのどれが“高尚か”に迷う若者にはうってつけの音楽だった。さらに、当時もう大人ではあったけれど、なお“ロックの時代”にコミットしようと努力する人の感性にも、とても図式的でなじみやすい音楽だった。
両者の選択に共通して横たわるのは、その意味ありげな音楽を好むことで、自分をも意味ありげに見せたい願いだった。
3 『ウッドストックI/サウンドトラック』
このIとIIの二集のアルバムに収められた催しは、六九年八月にニューヨーク州ウッドストックで開かれたロック史に伝説的なイベントである。いま四〇歳前後の人が「ウッドストックの時代」と言えば、それはあのヒッピーとフラワームーブメント華やかなりしころ、という意味だ。
女性シンガー&ソングライターのジョニ・ミッチェルは、この催しの“愛と平和”の趣旨をうたった「ウッドストック」をヒットさせた。そして、そのカバーをヒットさせたイアン・マシューズが先ごろ来日し、この歌をうたう前置きに「五〇年前に習った曲ですが」と言って笑わせた。
現在の世相も音楽シーンも、それほどこの時代から遠くなった。そのことは事実だが、酔うなどしてひたすら“ウッドストック的なるもの”を懐かしむ大人の口ぶりに、たとえばこのアルバムにはそんなに素晴らしい演奏が詰まっているのか、と思うのは早合点だ。
このアルバムを、青春のモニュメントにする人はいるかもしれない。だがその人にとっても、大切なのは自分の記憶であって、この音楽自体ではないはずだ。
『ウッドストック』の記録映画が上映されたころ、弁当を持って上映される映画館をすべて見て回った、という人を知っている。当然ヒッピースタイルで劇場の外の道に座り込んで開演時刻を待った。七〇年代も後半になると、彼の髪は短くカットされ、待つのはテニスコートの開園時刻になった。流行とは、そんなものだ。
ザ・フー、サンタナ、スライ&ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・セバスチャン、シャナナ等々、出演メンバーの多様さそのものが、当時のロックシーンの活況と混沌を同時に示していた。
イベントとしての意義は、その三日間に四〇万人もの若者が集まった、という動員数に集約されていたと思う。そのことがなぜ大切なのかというと、ロックの本質は多数の聴衆に対して同時で同様なコミュニケーションをする点にある、と信じられていたからだ。当時の若者たちは、だから“集う”こと“手をつなぐ”ことを貴んだものだった。
だが、いったんこの催しに参加した出演者の中に、「自分たちはウッドストック・フェスの趣旨には向いていない。だからアルバムと映画から外してほしい」と申し出た者がいたことも付記しておく。ザ・バンドがそれである。
4 『クロスビー、スティルス&ナッシュ』
“ニューロック”という音楽の“ニュー”たる条件は、革新性と大音量にあると信じられていた最中に、コーラスハーモニーとアコースティックサウンドが特色の、このグループは登場した。過激さより繊細さを感じさせたその音に、少なからぬファンが「!?」と感じたはずだ。それでもCS&Nが大いに注目されたのは、彼らが当時流行の“スーパーグループ”の典型だったからだ、といえるだろう。
Cは元バーズのデビッド・クロスビー、Sは元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、Nは英国人で元ホリーズのグラハム・ナッシュ。そして二作目の『デジャヴ』以降、Sの同僚だったY、ニール・ヤングも加わって七〇年代の代表的バンドのひとつになっていく。
CS&Nの音楽を歓迎した人たちは、ロックの可能性を“ケレン”や“こわもて”の方向にではなく、伝統音楽に立脚した具体的表現に認めるテイストの持ち主だった。彼らの演奏にはフォークやカントリー、ポップソングなどの要素の新鮮な解釈を聴けたものだ。
いま一般に、七〇年代のロックファンは一枚岩のように風体も、嗜好も一律だったと思われがちだが、実際はまったくそうではない。このCS&Nの登場あたりを契機に、時の若者たちは音量主義のハード派と、自然主義のアコースティック派とに分化していったのだ。
格好で区別すれば、前者はロングヘの段々カットかカーリーヘア、ベルボトムパンツにロンドンブーツをはき、体中にアクセサリーを着けた。現“ヘビメタ”の前身だったといえる。後者は長髪でもまずはストレート。ジーンズもストレートでスニーカーを好み、街中で振り返られるような目立ち方よりもナチュラルさを選んだ。だが、そのスタイルがより都会化されて、のちの“西海岸ボーイ”に引き継がれることになる。
CS&N、およびその系統のカントリー/フォーク・ロック派の功績は、ロックの早苗をコミュニケーションの“全体主義”から解放して、先祖伝来の音楽土壌に植え替えたことだ。それによってある人々は、やがて耳にするシンガー&ソングライターたちの個人の声に対して、反応する感受性を培うことができた。
そんなロックは「もうロックではない」という意見もあった。だが「それならばロックと呼ばれる必要はない」という意見も、同時に生まれていた。
■もうひとつのウッドストック
1 『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク/ザ・バンド』
ウッドストック・フェスが開かれたニューヨーク郊外の村には、実はあのイベント前後から奇特な音楽家たちが住みつき、商業主義から離れた好みの音楽を追求していた。一例としてバイク事故で休養中のボブ・ディランが、ここに隠遁して想を練り、再出発を期したことが知られている。
さて本欄一六回目(『ウッドストックI/サウンドトラック』)で、フェスティバル参加後にそのことを後悔して、自分たちを「映画とレコードから外してくれ」と申し出た、ザ・バンドのことを書いた。彼らは当時ディランの伴奏者であり、ともにこの村で研鑽を積んできたのだ。そんな村の交流から生まれてきたのが、ザ・バンド自身のこのデビュー・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(六八年)という静かな傑作だ。
六八年といえば、まだサイケデリックのブームがさめやらず、カウンターカルチャーとしてのロックの姿勢も鮮明な時代だ。しかしザ・バンドは、アメリカに依拠すべき豊かな伝統音楽があること、畏敬をもってそれらに挑むロックがあり得ることを示した。R&Rを機軸に、ニューオーリンズR&B、ゴスペル、カントリー、ケイジャンなどの要素が、彼らの音を百年来の音のように響かせていた。同時にその音楽は、僕たちが初めて聴く種類のロックでもあった。
見れば彼らの髪は短く、古ジャケットを着て南部のプアホワイトみたいだ。ロックがカウンター文化の産物というなら、ザ・バンドのコンセプトはそのまたカウンターではないのか!?
だからといって、保守的な逆戻りではない。その渋い味わいはむしろ、時流に超然としたインテリジェンスさえ感じさせた。激流に孤立した岩のような、不動の存在感をザ・バンドは発散していたのだ。
あのニューロックの渦中にあって、ザ・バンドの音楽とはいったい何なのか? 当時の若者はわからないまま、あるいは考えもしないまま、さすがに音楽には感応し、感動していた。
彼ら五人のうち四人までが、カナダ人であることは重要だろう。彼らにとってのアメリカは、とりわけ南部は、挑むべき客体としての闇だった。アメリカ人の作ったどんなアルバムにおけるよりも、ザ・バンドの音楽の中に純化されたアメリカがあった。
このアルバムと二作目の『ザ・バンド』は、ロック文化最大の遺産だろう。
2 『ボビー・チャールス』
このアルバムが出た七二年、今日と同等な評価が明確に下されたのは、米国よりも日本においてだっただろう。時代を経過して輝きを増した作品の価値が発表時点にまず日本で定まる例はよくあった。ここに収められた「スモール・タウン・トーク」などは隠れた名曲として、ある人々の間では二〇年来のスタンダードナンバーである。なぜなのか。
一七回のCS&Nの項で“もうひとつのロック”とその支持者の発生について書いた。つまり、ロックを一過性の青春の熱狂として消費するのではなく、同時代の表現者の表現として受け止め、ともに年を経てくような関係性への志向が生まれた、ということだ。
ただその場合、演奏者と聴き手に現実の関係があるわけではない。むしろ音楽の生産地から遠い“辺境”の日本だからこそ、音楽を「たかが」とは考えないそんな人々がはぐくまれたのだ。
今月この欄で検証されるCDは、すべてそういう人々に愛聴された作品の再発と考えていただきたい。あのイベント後のウッドストック村には、六〇年代のフォーク、ブルース復興運動の流れを汲む人たち、商業路線に乗らないシンガー&ソングライターたちなどが集まり、音楽を「たかが」とは考えない日本のファンの注目もそこに集まった。
ボビー・チャールスは五〇年代から、ニューオーリンズを中心に活躍したソングライターである。歌手として以上に「シー・ユー・レイター・アリゲイター」などの作者として有名だった。そして当時のウッドストックでは、今日ネヴィル兄弟などニューオーリンズの音が注目される傾向の、先駆的現象が起きていたのだ。ザ・バンドがライブで大幅にニューオーリンズのホーン・アレンジを採用したのをはじめ、ブルースのポール・バターフィールドもプロデューサーのジョン・サイモンも、こぞって楽天的でグルーヴィーなその南部の港町の音にひかれていた。
彼らにとって、ボビー・チャールスを迎えて録音することは、年来のアイドルとの共演でひとつアルバムを作ることだった。十年ほど年長の土臭い賓客を中心に、価値観を共有する者たちが音楽するくつろぎが、ここには渋く満ちている。
数年後、このアルバムは、欧米の評論家たちからも高く評価された。そして僕たちは、米国の音楽土壌の豊かさと底深さを、またしても知らされたのだった。
3 『ギブ・イット・アップ/ボニー・レイット』
一九年前の七二年は、ロックにとって最も実り豊かな年だったと思う。スタイルの変遷を超えて、僕がいま聴いても素晴らしいと感じるアルバムには、七二年製のものがひときわ多い。女性ながらボトルネックギターを操るボニー・レイットが、この最高傑作を世に出したのも七二年だった。
この当時の米国ロックの良さは、それぞれが音楽的な地域性、その地方色を明らかにしてきた点にあったと思う。西海岸、東海岸、北部そして南部と、日本のファンの耳にも各特色は感知できた。本アルバムの理知的な簡素さも、優れて東海岸的土壌に根差している。
しかし彼女は東海岸の生まれではなく、六七年にロスからボストンに来た。父親はミュージカルのスター歌手だったが、一二歳でギターに狂った彼女が傾倒していったのは、白人女性には珍しくリアルなブルースだった。当時の彼女のアイドルといえば、フレッド・マクダウェル、ハウリン・ウルフ、シッピー・ウォーレスなどのブルースメン。この、一種学究的ともいえる姿勢に着目して彼女を迎えたのが、やはり六〇年代にフォーク/ブルース復興運動の気風を残すウッドストック一派だった。
その第二作目のこのアルバムでは、ブルースが現代の機知をまとうことで、逆にその普遍性を明瞭にしていた。プロデューサーは、のちにジャズのブルーノート・レーベルを復興させたマイケル・カスクーナ。彼はカバー曲目の選択にもセンスを示し、エリック・カズ、ジョエル・ゾス、クリス・スマイザーなど、東部でしか知られていない人の作品を彼女に歌わせた。それがシンガーとしての彼女の特質を際立たせ、同時にその曲自体をも有名にした。
もし、ボニー・レイットがずっとロスにいて、そこでデビューしたらどうだっただろう。その場合は明るく万人向きの、たぶんリンダ・ロンシュタットのような歌姫に仕立て上げられたと思う。実際、七〇年代中期以降、西で製作された彼女のアルバムはまさにそういう路線をとっている。
だがウッドストックのベアズビル・スタジオでは、その手の音楽は生産されたためしはない。そこでは常に、売りたい音楽よりやりたい音楽が作られたのだ。
しかし当時の日本のファンの多数派にとって、米国ロックといえばやはり西海岸のそれ。彼女が有名になったのも、西での作品によってだった。
4 『スウィート・ポテト/ジェフ&マリア』
六〇年代末からウッドストック村に集まった音楽家たちは、初めから明確な主義主張を掲げていたわけではなかった。彼らは自分たちの望む音楽を深く探求したいがために、この地に来たのだった。
それなのに、いま振り返ると、ウッドストックはまるで特別な芸術運動の根拠地でもあったかのような錯覚におそわれる。それは、都会を離れた静かな環境の中で彼らが創り出した音楽が、結果としては共通の志向に結ばれていたからだ。
ザ・バンドに代表されるそれらの音楽の主軸にあるものをあえて一言でくくれば、それは「アメリカ音楽の民俗的伝統の再発見」ということになるだろう。そして、そのことをまるでよくできたサンプルのように示しているのが、ジェフ&マリア・マルダー夫妻の本アルバムである。
カントリー&ウェスタン、ブルース、ニューオーリンズ・ジャズ、R&B――ここにはアメリカの民俗文化の精髄といってもいい音楽が、まさしく雑多にとけこんでいる。しかも、ウッドストックの仲間たちの応援を得て仕上げたそのサウンドは、ザ・バンドの緊張感とはまた別の、ゆとりとおおらかさで聴く者を心地よくつつみこむ。
このアルバムが発表された七二年は、イギリスではグラム・ロックが、アメリカでは新しい感覚の黒人音楽が注目を集めはじめた時期で、これらはいずれもマスコミが大きく関与して創り出されたブームだった。言い換えれば「センセーショナリズム」がますます支配的だった時代である。
センセーショナリズムどころか通常のPRさえ思うに任せなかったジェフ&マリアの音楽は、だから、到底広く関心を集めるはずもなかった。しかし、奇抜なアイデアやサウンドの斬新さだけがとりえだった当時主流の音楽が見事に色あせてしまったのに比べ、彼らの音楽はいまもなんと新鮮であることだろうか。
それは、繰り返すが、音楽の基盤にある民俗的伝統の力である。アメリカの豊かな音楽的土壌にスキとクワを入れれば美しい果実が得られることを、彼らは見事に証明してみせたのだ。
ただし、ジェフ&マリアのコンビネーションは、この直後に離婚のためにとぎれ、マリア・マルダーのみが華麗なソロデビューを飾る。その背景には「個性的な女性シンガー」がもてはやされる、新しい時代の風潮があった。
■耕す音楽、実りの歌
1 『テキサス・トーネイド/サー・ダグラス・バンド』
エスニックブームの一環なのか、最近「テックスメックス」や「ケイジャン」といった言葉が、若者の間から聞こえてきて「え!?」と思った。それが主に、料理の世界において使われているのを知ってまた驚いた。
そのテックスメックスとは、文字通りテキサスにおけるメキシコとの混交文化、ケイジャンとはルイジアナでのフランス系住民のエスニックをいう。それらの音楽が七〇年代の前半、ちょうど地域性と土着性を深めつつあった当時のロックと結び付き、大いにアメリカの音楽を豊かにした。料理と聞いて驚いたのも、そういう歴史があったからだ。
人種的マイノリティーに根差す米国エスノ音楽には、たいていその民族を代表する伝説的音楽家がいる。例えばこのアルバムにも参加しているアコーディオンのフラコ・ヒメネスがそう。一方、ダグ・サムは白人だが、チカノからも敬愛されて“テックスメックスの王様”と呼ばれてきた。
四一年にテキサスのサンアントンに生まれた彼は少年時代から地元では“リトルダグ”の異名をとる天才だった。音楽的ベースは父親譲りのカントリー&ウェスタンだったが、一七歳からメキシコ音楽とケイジャン音楽を吸収、自身の音楽を混交文化的なものにする。
この『テキサス・トーネイド』は七三年、彼のメジャーからの二作目として発表された。ときにテキサスにはジャズとカントリーがブレンドされたウェスタン・スウィングという音楽があるが、この前半はその伝統にホーンを加えてファンキーに仕立ててある。
後半はカントリーとメキシコ音楽が混交した彼本来のテックスメックス。ニューロックの徒からは過去の遺物としてさげすまれてきた“田舎の音楽”が、こうして各地で新しい生命を受けてよみがえり始めていた。
七三年当時のファンは、テキサスから生まれた地方色のあるロックとしてこれを聴いた。で、その結果、この音楽の背景の風土や文化にある興味やあこがれを抱き、以後、テキサスを選択的に聴くような人も生まれた。
だが、今回このCDを買った人の動機はどんなだろう。たぶんエスニックな薫りがする音楽一般への関心の一例として、テキサスをコレクションに加えたのではなかろうか、と思う。
だとすれば約二〇年間を隔てて、音楽を求心的に聴くか遠心的に聴くかという極端な生態変化がここに示されている。
2 『プリーズ・トゥ・シー・ザ・キングス/スティーライ・スパン』
七一年、一部のロックファンはこのアルバムを聴き、未体験の衝撃に襲われた。
ギター、フィドル、ベースを主軸にしたサウンドは明らかにエレキを用いていてヘビーなのだが、ドラムがない。うたわれる歌はどこか遠い過去から聞こえてくるようでいて、耳慣れた米国の土臭さとはちがう。レーベルの作詞作曲者をクレジットするスペースには、全曲に“トラッド”と記してある。それはトラディショナルの略記で、つまり作者不詳の古謡、俗謡、そして舞踊曲の意味だ。
こうして日本のロックファンは、英国には伝承音楽をロックのフォームで演じる若いアーチストたちがいると知ったのだった。そしてこのアルバムは、いま聴いてもいわゆるエレクトリック・トラッドのお手本だと思う。このとき深い感銘を受けた人たちは、さらに古謡の世界の奥深くまで、より原型のアーチストを訪ねて長い旅に出ることになる。
だが、このトラッドを受け付けないロックファンのほうがずっと多かった。妙なものを食わされた、という顔をするのが多数派だった。では、ある決意をもってトラッドの森へ分け入った人たちは、いったいどんな感性をしていたのか。
トラッドに出合うまでの彼らは、ロックを聴きつつあの「愛と平和」も、「ロックが世界を変える」ことも信じていない。ロックにそういう幻想を抱くことが、流行に寄与して商業資本を太らせることだと知っていた。
彼らが求めていたのは、いわば二〇年後においても価値の変わらない音楽、時流から独立した意義をもつ音楽だったのだ。そこへ英国から、トラッドがやってきた。現代にあってオリジナル曲ではなく民謡をうたうとは、それも演奏の玩具にするのではなく畏敬の心で演じるとは、なんと潔い態度だろうと彼らは感じたのだ。
だが音楽の好悪を決するのは、各人のテイストである。多数の人たちは、このスティーライ・スパンのよう演奏の一種の厳格さ、純粋ライ麦パンのような重い土臭さ、といったものになじめなかったのだと思う。
バンドの重鎮であるマーティン・カーシイは、五〇年代からトラッド界にいた人だ。彼がバンドに加わるとき、自分が電気楽器を演じる交換条件にドラムスを外させた。それが彼の、トラッド演奏における理念だったからだ。
3 『シュート・アウト・ザ・ライツ/リチャード&リンダ・トンプソン』
このアルバムが発表されたのは八二年。ちょうどそのころ、日本の若い人の間では「明るい」か「暗い」かで、物事すべてを判断するのが流行だった。当然明るいのが○で暗いのは×なのだが、その価値観の基本は現在も変わってはいない。
そこで、このリチャード・トンプソンの音楽だが、それは優れて暗いことをもって特徴となす。彼の音楽を聴き、「暗い」の一言で拒絶できる人は、明るさにのみ反応すべくつくられたロボットのようなものだ。暗がりに潜む真実を感知できる人なら、必ず彼の音楽の前に立ち止まり、耳をそばだて息をのむだろう。
彼はフェアポート・コンヴェンションというバンドのギタリスト/シンガー&ソングライターとしてまず知られた。フェアポートは、前回のスティーライとはまた別な角度から、トラッドにアプローチしたバンドで、リチャード・トンプソンの独自なギター奏法や作詞作曲法の成立には、深くトラッドが関与している。
フェアポート脱退後の彼は七四年からリンダ夫人とデュオを組み、リチャード&リンダ・トンプソン名義で六枚のアルバムを出した。この『シュート・アウト・ザ・ライツ』はその六枚目にあたり、夫妻はこれを最後に離婚するが、作品は米ローリングストーン誌選出の“八〇年代のベストアルバム100”で第九位にランクされている。
アメリカでも評価された点がミソで、これは八〇年代のアメリカには“旬(しゅん)”を超えた価値をもつアルバムが、いかに少なかったかの傍証でもあろう。ポジティヴな音楽を好む米国人も、一〇年間のアルバムを見渡したとき、さすがに日本人ほど夜盲症ではなかったわけだ。つまり、それほど八〇年代の日本で一般化した「明るい」と「暗い」の価値基準は、対音楽だけでなく感性の全般を歪めたと思う。
リチャード・トンプソンは、人間の不幸な状態に興味をもつ。幸福な状態よりも特殊でありながら、はるかに普遍性のある歌が、そこからは生まれ得るからだ。
ロボットでない感性を試したい人は、できればこの夫妻の一作目『アイ・ウォント・トゥ・シー・ザ・ブライト・ライツ・トゥナイト』の、暗がりに潜む真実を聴いてほしい。七四年のそのアルバムは、伝統と創造性の結合が生み出す緊張度において、ロックが到達した最高レベルの一枚だ。だがそれは、いまだCD化されていない。
4 『アビシニアン/ジューン・テイバー』
思えばジャズのビリー・ホリデイ、ファドのアマリア・ロドリゲス、シャンソンのバルバラといったように、その音楽ジャンルを超えて説得力をもつシンガーはたしかにいる。だが近代歌唱の常として、右の名手たちは歌の喜怒哀楽を自我と同化して表現する。つまり彼女らは、歌の感情を自前のものとする力量において抜きんでた歌手なのだ。
ところが英国のトラッド歌手の理想はちがう。とくにこのジューン・テイバーのように優れたシンガーの場合、古謡は“民族の声”を得て歌自体として蘇生する。歌手は、歌に献身するのだ。トラッド歌唱の評価はその姿勢の完璧さにかかるのであり、その成り立ちが非近代的、あるいは前近代的ともいえるだろう。
だが同時に、いま八三年のこの『アビシニアン』を本欄で紹介する意味も、その歌唱の超自我性にある。ポピュラー音楽の流れが商業主義のダムにふさがれた七〇年代後期以降、その下方から細く放出される“自己表現”とやらに群がらずに、心服できる音楽は自己を表現しないトラッドなのだ。
トラッドシンガーはだから“語り部”としての性格をもつが、彼らが同時代を生きる人間であることもまた事実だ。ときに七〇年代後期からのロックの病弊の第一は、サウンド空間を常にキーボードの電子音が埋めてきたことだと筆者は思う。その音はその音楽の意匠を類型化し、歌の存在感を希薄化する。そこでトラッド演奏家がもし単なる伝統主義者ならば死んでもそんな楽器を身に近づけることはないだろう。
ところがシンセサイザーが歌の存在感を際立たせる理想例は、このジューン・テイバーのアルバムに示されている。また彼女に限らず、トラッド演奏家たちがコンテンポラリーな状況を見る目はこまやかであり、知的だ。
彼らはときたま現代の歌を選んで彼らの歌唱法でうたうが、するとその歌は今日的意味を離れて普遍的な生命を帯びる。ここでテイバーが取り上げたラル&マイク・ウォーターソンの「スケアクロウ」、ジョニ・ミッチェルの「フィドルとドラム」がそうだ。
ではトラッド歌手は現代の英国で、まったく音楽界から遊離したカルト主義者たちなのだろうか? ちなみにあのエルビス・コステロはこう発言している。「ジューン・テイバーの歌の良さがわからないなら、もう音楽を聴くのはやめたほうがいい」
〔1991年中日新聞〕
※初出時は、ペンネーム「秋野 平」が使われた。また、初出時には、新聞社の社内ルールに即しての表記の改変が行われた。(実際には無謀な担当者の手による文章の書き換えも行われたが、元原稿が残存しない今となっては、確認の手だてがない。)そこで、ここでは漢字の熟語を増やすなど、内容に抵触しない範囲で表記を変更した。(入力者)
モノ語り
ジャズ喫茶
●ベイシー 岩手県一関市
一九七〇年。岩手県一関市で開店した一軒のジャズ喫茶が、やがて奥州藤原氏さながらの文化を興そうとは、中央の業界は予想もしなかった。
まずジャズ喫茶の基本であるべき音については、店主菅原昭二氏独自の設計が当初から全国的声望を得た。「地方のジャズ喫茶は東京の店を真似るでしょ? でも俺は逆をやったの。まず、客席分を潰してでも、ドーンとでかいスピーカーを置く」
たしかに地代の高い東京では客席を確保するため、スピーカーは壁に埋め込むか天井からつるすほかない。
そもそもジャズ喫茶の存在理由のひとつは、個人には不可能な音響装置で聴けることだった。だからどの店もシステムには金をかけ工夫を凝らし、大音量で再生するのが常だ。
だが、ベイシーの音はそれらをはるかに超え、まるでその場の演奏のごとく感じさせるリアリティを持つ。「レコードはミュージシャンの責任だけど、オーディオは自分の責任だから。非常にやり甲斐がある反面、二〇代で設計して以来変更の余地がない。川上に向いて静止しているアヒルみたいなもんで、外見は前進も後退もしていない。でも水面下の足は、そりゃもう忙しいですよ」
維持には手数がかかるのである。
菅原氏はレコードとは機械に委ねるものではなく、自ら演奏するものだと心得ている。なかでもボリューム設定に、そのレコードの生き死にがかかっていると考える。
「ビッグバンドなんかある程度音量を上げないと、あんな大編成でやっている意味が伝わらない。だけど音量より呟きを聴くべきピアノソロなら、やみくもに上げて実際よりも大きな音を出すなんてナンセンス」
ベイシーへはその“音”を聴きにくる客もいる。そんな人には“サービスボリューム”で応えるそうだが、それがどんな音なのかというと、
「もうズボンの裾は震えるわ、コップはガタガタいうわ、壁の額が落っこちたこともあった。そういうのをいうんですけど、その音で気持ちいいのはコルトレーンだろうね」
そして氏が気を遣うもう一点は、刻々変わる店の客種を読んでプレイすることだ。もし次に前衛的なA(アルバート)・アイラーを心積もりしているところに中年のカップルでも来れば、彼らと先客の接点を考慮して、急遽それはコルトレーンの“バラーズ”あたりに変更される。だから演奏中のレコードの最終段階まで、次の一枚を選択することはないという。
「こういったことをイヤがらずに、むしろ面白がってやっているということが、実はこの店が長続きした要因だと思うんだ。朝から晩まで、ここでは俺しかレコードをかけない。俺がレコードを聴くのが好きだってことが、この店の存在理由だと思う」
ジャズ喫茶は「主人(マスター)=店」だといわれる。だが業界全体が斜陽の時代に、ここまで本来の姿勢を公言できる店主が他にいるだろうか?
営々二六年。東京の老舗の衰退をよそに、このベイシーには内外の一流奏者が来演し、昨年は評論家の故野口久光氏の所蔵盤四万五〇〇〇枚の寄贈も受け、総コレクション数は六万に達したかと想像される。
実は菅原氏は、これからが本当にジャズ喫茶が評価される時代だと考えている。六〇年代の黄金期は社会情勢を背に受けていただけで、店も客も意味を自覚していなかった。昔のジャズ喫茶がいち早く新譜を紹介する役割だったとすれば、これからは「この名盤を忘れるな」と叫ぶ役目を担う時代だと氏は主張するのだ。「レコードはいま、既にライブを超えちゃったね。つまり偉大なミュージシャンは大方死んで、その演奏は現実には聴けない。だから昔は生の代用品だったレコードが、いまは立場を逆転した。いまこそレコード!」
さてそのレコードだが、たとえ何万のコレクションがあろうとも、氏を動かすのはその日その時刻の気分。ジャズを体系づけたり、系統だてたりしないのが氏の心意気である。
●グッドベイト 愛知県知立市
ジャズ喫茶店主が、客から偏屈扱いされるに至るまでを考えてみる。
一般に聴き手として青春をジャズに捧げた人物には「知識なら俺が」というやや暗い自負が心に潜んでいる。そこで、それを社会的に活かそうとジャズ喫茶を開くが、今度は客が自分に教えを乞うほどの志を持たないことに気づく。その憤懣(ふんまん)と自制との葛藤が、彼を偏屈にするのだ。
その点、名古屋圏の知立市(ちりゅうし)で「グッドベイト」を営む神谷(かみや)年幸氏は、およそ従来のジャズ喫茶の店主タイプからほど遠い。
まず四五歳という年齢、ビートルズの洗礼を受けた世代だ。氏は実際に中学でそれを体験し、六〇年代のニューロックに浸るなかで、ジャニス・ジョプリンが歌った“サマータイム”を最前衛のアイラーのサックスで聴いた。これがジャズからの初衝撃というから、以後の神谷氏はジャズ史を驚異的な馬力と速度でさかのぼったことになる。
この道筋はファンとしても新種だが、ジャズ喫茶店主ともなると他にはいないだろう。氏の人となりからは、偏屈の原因となるような自負心も、客への憤懣も感じられない。アイラーとの出会いから、七四年の開店を挟んで今日まで、二〇代から四〇代をひたすらレコード・コレクターとして氏は駆け続けてきたのだ。
会社員としても四年を過ごした。その間の氏は外廻りの仕事を幸い名古屋市内のジャズ喫茶で新譜を聴き、レコード屋へ走り、バーゲンがあれば早朝から会場へと直行した。
「結婚はしてました。会社辞めてジャズ喫茶やりたいって言ったら、いちおう嫁さんは反対したんです。でもその時点ではもう、ぼくは出社拒否状態でしたからね」
ジャズ喫茶の開店は、コレクター神谷氏の自然な帰結だっただろう。
ところでもう一点、氏が従来の地方のジャズ喫茶店主と異なる要素がある。それは氏が、東京での生活を一度も経験していないことだ。つまり地方のジャズ喫茶はたいてい、店主が在京中に熱中した店を規範につくられる。しかるに神谷氏は、自分の店のモデルとすべき東京の店を知らない。だがこの事実がまた、店としてのグッドベイトをユニークかつ快適な場所につくり上げた。
立地はいかにも地方の小都市の街道脇で、駐車場もドライブインのそれのように広い。やや殺風景な周囲と適度に調和しつつ、ポツンと立つブロック積みの一軒家はアメリカ映画を見るようだ。土地の人がここを公衆便所と間違えた話もある。
実際に客の大半は車を飛ばして市外からやってくる。男性が圧倒的に多いが、車だから酒は飲まない。コーヒー四〇〇円(旨い)。持ち家で家内労働だから二二年を経たのだろうか。「やっていけません。レコードをまとめ買いするのにスピーカーを売るとかね、嫁さんが働いたりね、もうダメ親父の典型みたいなもんです」
だがグッドベイトのレコード保有数は、一〇年前の専門誌のアンケートでは四一六〇枚(こんなに正確に答える店もない)。現在は一万二〇〇〇枚というから、一〇年間月平均七〇枚近く購入している。月々の売り上げから予算を捻出する通常の店のやり方だと、まず無理な枚数だろう。
「いま海外のオークションでボーカルを集めてます。無名の連中に一二ドルつけたら一〇〇枚ほど落ちましたけど内八〇枚は失敗です。エヘヘ」
話の内容に比して、暗さは微塵もない。店そのものにも常に春の日が射し込むような温かさがあり、清潔感が漂う。この空間はたしかに、既知のジャズ喫茶のそれではない。
そして氏の整理整頓癖。まず楽器別レコードリストが圧巻だ。またニコチン除けのためにジャケットをビニールで覆う単調な作業については、『おれたちのジャズ狂青春記』なる本に氏が寄せた一文がある。
“世の中の人すべてが寝静まった深夜、四〇過ぎの男が(中略)黙々と我を忘れてビニール袋を作る様に、ジャズに命を燃やした男の大ロマンを感じはしないだろうか”
●ちぐさ 神奈川県横浜市
巷にジャズ喫茶が溢れていた六〇年代、客同士で「横浜の『ちぐさ』に行ったか?」という問いがよく交わされた。ジャズ喫茶という宗旨の総本山が「ちぐさ」だったからで、そこへ詣でなければ肩身が狭かったのだ。「ちぐさ」が横浜の野毛(のげ)に開店したのは一九三三年(昭和八)。もちろん現存する最古のジャズ喫茶である。
業界の草分け、というより今日われわれが「ジャズ喫茶」と呼ぶ店の形態をつくったのが、オーナーの故吉田衛氏だった。もっとも三〇年後、同類の店が日本中に出現しようとは氏も予想しなかったにちがいない。
昭和初期、氏の育った横浜には多くの外国船が出入りし、「チャブ屋」と称する外国人向けのハイカラな茶屋が増えた。そこには酒や歌やダンスがありジャズがあって、氏とジャズとの付き合いもそこで始まる。「ともかく遊び人でして、まず歌舞伎。小唄も上手かったし、落語は横浜の師匠だなんて。お洒落はイタリア製のフラノのスーツが洋箪笥にズラーッと。食べ物はステーキが好きで、よく東京まで食べ歩いていました。本牧辺りのチャブ屋へ繰り出しては遊んできてるようでしたね」
吉田氏は生涯独身だったから、こう語るのは現在も店を守っている実妹の孝子さんである。お兄さんが店を開いた当時はまだジャズに無関心な少女だったが、客種は学生、ハーフ、近所の若旦那など、いずれもモダンな連中だったのを覚えている。
昭和十六年には敵性音楽追放の触れが出て、ジャズレコードは官憲から供出を迫られた。それでも吉田氏は六五〇〇枚の内五〇〇枚を供出し、あとの六〇〇〇枚は天井裏に隠しておいた。だがそれも、昭和二〇年五月の大空襲ですべて焼失してしまった。
復員した吉田氏は昭和二十三年から「ちぐさ」を再開する。場所は現在地だが、当時の野毛一帯は露天商が群れ集う闇市で毎日がまるで縁日。解放感を煽るジャズは人々にむさぼり聴かれ、定員二五人の店は四時間は動かない客で常に満席だった。
レコードは知人の協力で二〇〇〇枚ほど集めたが、当時の盤はSP。片面約三分だから、音を仕切る人間は途方もなく忙しい。そこで蓄音機を二台並べ交互にかける“二機連続演奏”で大繁盛した。LP時代のジャズ喫茶も、この法を踏襲している。
吉田氏がその後のジャズ喫茶に与えた影響は、ソフト面でより重要だ。「ウチのおやじさんは『いらっしゃいませ』も言わないし、口調もつっけんどんで、『お客さまにあんなこと』と思うけれど、それで平気なのね」
孝子さんが気を揉んだ“店主の無愛想”こそ、のちにジャズ喫茶の権威のシンボルとなっていった。さらにジャズ喫茶と一般人とを相容れなくしたあの「お静かに」も、どうやら吉田氏の発案だったらしい。
「ヒソヒソとならともかく、この音に対抗して喋る人には私だって言いますよ。『リクエストをお聴きの方がいらっしゃるんだから』って」
まさにそれ。この件を素朴に考えれば、喋る人は聴く人が邪魔ではないが、聴く人は喋る人が邪魔である。ここが聴く店であってみれば、どちらに味方すべきかは明白だろう。
常連にだって問題がなくはない。よく深夜スナックなどで見る図だが、ある種の常連は店との垣根を自在に往き来したがる。つまりカウンター仕事を手伝いたがる。天下の「ちぐさ」で常連の自分を確認しつつ、人に誇示したいのだ。しかしおやじさんの慧眼(けいがん)が、こんな輩を見抜かぬはずはない。実際に入れる何人かはいたが、こんな人物には許さなかった。
魚河岸でトラックを運転する大塚恭子さんは、カウンター内に入れる少数のひとりである。だが選ばれてその任に就いた以上、おやじさんが消えた「ちぐさ」にも尽くしている。「ここ一〇年くらい、『私はここにジャズを聴きにきてるんじゃあないな。おやじさんに会いにきてるんだ』と思ってた。私にとってのジャズはおやじさんなんです」
この大塚さんのようなOBたちが、今日も「ちぐさ」を見守っているのだ。
●映画館 東京都文京区
東京・白山(はくさん)の「映画館」は、当初は映画の自主上映をしたことから名づけられた。店主は映画監督であり、オーディオ製作もプロ並みの吉田昌弘氏。それを助けるのは、氏のお母さんだ。そのお母さんを、孫のようになついた学生たちが買い物に走ったりして助ける。これだけだと妙に人情っぽい点が珍しいジャズ喫茶になるが、そうではない。
かけるレコードごとに客をハッとさせ、ジャズを言語のように伝えてくる。しかも再生装置がそれに相応(ふさわ)しく男性的な音で迫る。この二要素が、ひとつの店の両側面なのが面白い。「自分でアンプつくってたんですよ。どんなオーディオ自慢の店も、決してぼくを満足させなかった。だから自分でもっと、いいものをつくりたい。それがジャズ喫茶としての自己表現の第一。レコードでは入門向け名盤百選みたいなものはウチにはあまりないし、かける気もない。言ってみればマイナー志向。内容がよくて知られてないレコードが、行くたびにかかる店でありたいですね」
そこそこの装置とCDは誰でも持てる時代だから、専門店であるジャズ喫茶で著名盤をかけても意味がない、と氏は言う。経営優先の立場では言えない、潔い意見ではある。
一方、お母さんは息子の二足の草鞋を支えながら、若い客たちの苦境をも見過ごしにしない。「これは大変」と思えば食事付きのバイトに雇い入れ、家での分まで持たせて帰す。卒業までこんな付き合いが続くと、現代っ子でも血族に似た親愛を覚え、帰郷時には涙で別れるという。
では、店主である息子さんにとって、いい客とはどんな客だろうか?「真空管アンプを自作してますと、たまに同好の士が訪ねてきます。ソフトのほうでも、変わったLPやCDを探すとわざわざウチに持ってくる人がいますね。ともに若い人より五〇代、六〇代の方が多いんです。マニアではなく、仕事以外の楽しみとしてオーディオやジャズにじっくり関わっている人。そういう人との繋(つな)がりを大切にしたいですね」
かかるレコードが“通向き”なわりには、映画館の雰囲気は重苦しくない。都心のジャズ喫茶ではなく、どこか地方都市にいるようだ。
「東京といっても、新宿・渋谷以外はその場に入れば田舎ですから。白山の街もそうですよ。地元への愛着は持つべきだと思いますが、この店など変なヤツが集まる変な店だと、近所では言われているでしょうね」
●アップ・タウン 香川県高松市
高松市内のアーケード街で、「アップ・タウン」の一角だけ都会的な異彩を放っている。店主の田中隆氏は先日、一〇代の女の子が自分の店の前で、「ここに一度入ってみたいんやけど」と相棒に呟くのを聞いた。「ウチは“ジャズ喫茶”と言わずに、世間には“ジャズ屋”と名乗ってます。それがぼくの意識なんですよ」
ジャズ屋とは登山家が自分を“山屋”というような感覚で、一流ではないと卑下しつつ玄人ではある響きを含む。東京では有名店(メジャー)でも無名店(マイナー)でもレコード係をしてきた氏には、ジャズにおけるB級グルメ的志向があるのかもしれない。いずれにせよ、複雑なジャズ屋さんだ。
「ぼくは中央の文化に見切りをつけたというか、ピュアな音楽だけを握りしめて、田舎で店をやって居着くことができたら……それができたら下手な東京文化よりいい仕事になると、思いましたね」
メジャーというのはどんなリクエストにも対応できるコレクションがあって、しかもセオリーを持って威張ってレコードをかける。マイナーは店主の好みで集めて、好みでかける。リクエストしていいかと聞かれたら、「あればかけるよ」と応じるものの、リストは作っていない。
この区分ではアップ・タウンはマイナーだが、そこにはそれなりの人間関係が生まれてくるにちがいない。
いい客とは、と聞くと、演奏中のレコードの端々で目と目の対話ができる相手だという。だがたいていはそんなわけにはいかず、
「おっさん、なんでこんなやかましい前衛がかかっとるねん?」
「かけたらいかんのか!」
というのが実情だ。それでも店主はそんな仲間と、キャンプ、釣り、ゴルフ、スキーを楽しんだりもする。
常連客が上京する際には、「ここで武者修行してきてほしい」と思う知り合いの店を教える。
「コーヒーが旨い? 伝統的ジャズ喫茶の考え方ではね、コーヒーだの紅茶だ飲み物はサービス品だった。だからまずくて良かったんですよ」
アップ・タウンはたまにコーヒーを出前する。その場合値段が半額なのは、ジャズがないからだという。
●DIG/DUG 東京都新宿区
「ディグ」という名の店は、実はもうない。それが展開した形の「ダグ」と「ニュー・ダグ」が現存する。
今回“ジャズ喫茶”という日本の特殊文化を改めて観察してみると、三〇数年の時間幅のなかで、どうやら核となるモデルが存在していた形跡がある。取材先の店主たちそれぞれが自分の店を実現していくなかで、近づくにせよ遠のくにせよ意識せざるを得なかった店。
それがディグである。一九六一年に東京新宿二幸(現アルタ)裏にオープンし、二二年間そこで営業した。この間にここから発信されたジャズ、写真、インテリアなどのさまざまな時代感覚が、模範なり呪縛として現在のジャズ喫茶店主の価値観に影響してきたといえる。中平(なかだいら)穂積氏はそのディグの創始者であり、現ダグ、ニュー・ダグのオーナーである。
「五〇年代末ごろ、ぼくは生意気なジャズ愛好家でしたから、既存のジャズ喫茶に不満だらけだったんですよ。音にもコレクションにも什器(じゅうき)にも。要するに、純喫茶の延長上でジャズをかけてるに過ぎない。だから『これはやっぱり、自分でやらなきゃいけない』と思った。つまり、すべてを自分のセンスでね。当時ぼくは写真ばかりやってて、アルバイトで皿一枚洗ったこともなかったけど」
ディグがやって見せたことは、大人が商売として経営するそれではない、聴く側の想像力が具体化したようなジャズっぽい[#「ジャズっぽい」に傍点]ジャズ喫茶だった。
細い冷たい階段を三階まで上る。次第にジャズが漏れてくると、両側の壁に外国雑誌のページが貼られている。ドアを開けば、人々の背と顔と沈黙。麻袋の壁。古時計。木の椅子とテーブル。益子焼のカップ類。いまは懐かしいこの空間を、当時の客はそこで初めて見たのである。
「要するに、自分の部屋へ友達を呼んだような雰囲気をつくろうとした。それがのちにね、ディグのような店は全国に何十軒もできて、そこには必ず古時計ということになった」
中平氏のコレクション方針は、まず今日ジャズ・ジャイアンツと呼ばれる人物の作はすべて揃える。これ以外はぼぼ氏の趣味による。中でも六〇年代末の前衛派の追求と、まったく未開拓だったヨーロッパジャズへの着目は、日本のリスナーを強烈な刺激で目ざめさせたといえる。ところが、
「レコードにしても骨董にしても、ぼくはコレクターだけれども固執するタイプじゃない。自分の好きなものだけあればいい。で、当時の前衛派もいま聴くとつまらない。ぼくにもファンにも、もう充分な役目を果たしてくれたな、と思う。お客さんからはよく『もう一回やってくださいよ』って言われるけど、それはその人が懐かしがっているだけで、もしぼくがディグを再現しても、昔のようにお客さんは来ないと思うよ」
間違いなく、全国に散らばった元ファン達のほうが、自分の青春期の記憶とからまってセンチメンタルになったはずだ。
だが考えてみれば、時の流れに対する氏の柔軟な姿勢こそが、そもそも六一年のディグを創り得たのかもしれない。なぜならその後“ジャズバー”の始祖となったダグ(六七年)、それを喫茶店流に解放したニュー・ダグ(七七年)と、いずれもその時代の圧倒的な支持を得て、今日に至っているのだから。もし、それらに通底するものがあるとすれば、それは他人に伝授することの不可能な氏の生来のセンスだろう。
「いわゆる老舗の店はすっかり消えたけど、いまのジャズマーケットは数量的にははるかに昔を超えてるね。でもそういう土壌を開拓したのは、やはりあの時代を先導した全国のジャズ喫茶群だったと思う」
中平氏は昨年ダグをライブハウスに変えた。ジャズ喫茶で育った世代に、ぜひ来てほしいという。ディグを出発点にして、中平氏の理想のジャズ空間は、今も変化を遂げている。
〔『サライ』1996年第2号、1996年1月18日発行〕
『つれれこ社中/雲』解説
六〇年代末にロックが自己変革を始めたときには「何でもあり」の無礼講。若い者は狂喜したが、大盤振舞が過ぎたのか想像力がそこまでだったのか、八〇年代を待たずにロックの意気は消沈した。それ以降聞くなり演るなり始めた世代は「俺は新しい」と意気込むこともできるが、一〇年間ほどの栄枯盛衰をつぶさに体験した連中は四十面を下げて、「今度こそ新しい」と胸を張るにはすでに大人である。
それでも「何かやり残したことがあるはずだ」と楽器を離さず歌をやめない人間は、よほど節義に篤いか世俗的に助平かのどちらかだろう。いや、隠居の盆栽のように、世捨て人のガン研究のように音楽をやる道もあるにはあるが、この「つれれこ社中」はどうやらその徒ではない。一度だけ観にいったライブでは「泳げ鯛焼きくん」的ヒットを狙う助平集団かと疑いもした。曲の単純化があざとい企みのようにも聞こえ、鈴木常吉はどこまでその音楽を信じて演じているのか、見当がつきかねたのだった。
だが今回のCDのテープを聴くに及んで、「つれれこ」流の意図は納得できるものになった。まずメロディは誰もが感じるだろうように、わが国における西洋音楽の黎明期の、稚拙ななかに日本的哀調をひきずったプリミティブさで迫ろうとしている。
そして歌詞をよく聴いてみると、他人の作を含めて収録曲に通底するひとつのポーズが浮かんでくる。それは一種のナンセンスユーモアであり、言葉の意味は明瞭でありながら何もメッセージしようとしない、言葉遊びのダンディズムである。
たとえば(1)「肉屋」は全曲中で最も具体的な主人公像(老舗肉屋の三代目が女で身を誤って家財を失くし、いまや「ぼてふり」に甘んじている)を描くが、その自嘲的な問わず語りも「肉屋」に因んだ言葉遊びで運ばれ、あげくに当人の病気はまだ治っていないらしく「娘十六ニクからず、賞味期限が気にかかる」の一行に落ちていく。
(2)は井伏鱒二訳の漢詩にメロディをつけたもので、当然ながら漢詩らしい圧搾空気など抜け散った、「つれれこ」流文芸趣味である。(3)の「炊事節」には感心した。キャベツの芯だのパセリの茎だの、ふつうは捨てられる一一品目についてその利用法を説くが、膝を打ったのは倹約の精神ではなく、調理の筋がすべて理にかなっていることだった。
(4)「つれれこ節」は歌詞の上で、この集団の一側面が典型的に表出されている。つまり「毛玉を集めて時が経つ」「鰯の小骨に泣かされる」「大事にしすぎて腐らせて」「花瓶を倒した百合の花」「やる気を失くして励まされ」「雨風しのげる有難さ」といった一行一行に脈絡はないが、使われている言葉はすべて非俗。大正ロマンを想わせるアコーディオンと歌が呼応しつつ、ストーリー的に整合されて聴かれることを暗黙裏に拒否している。
たとえばこれは、イッセー尾形の一人芝居が庶民の哀感のようなものに立脚しながら、実はその庶民を冷酷に突き放して見ているのと似ている。この点が「つれれこ」の一大特徴だが、彼らのメロディがどんなに素朴でもサウンドがどんなに懐古的でも、その物珍しさに釣られる聴衆を彼らは信じないだろう。彼らの本意は言葉への執着と懐疑、そのジレンマから行き着いた言葉遊びのニヒリズムにあるのだから。
サウンドについて言えば、三味線とアコーディオンという取り合わせは文句なしに魅力的だ。そしてこのCDでは、管楽器とパーカッションとが曲ごとの色調を明確にして、演奏を独善から救っている。とくにチューバのリズム、トランペットやトロンボーン、アルトサックスの配し方が効果的で、(6)「鉛の兵隊」や(12)「鰻と梅干し」などではもっと前面に出て盛り上がってほしいくらいだった。
曲調についてさらに言うと、(5)「はいこう」(7)「藪」あたりから「おやっ?」と思わせるのは、南イングランドやウェールズ周辺のトラッド(流行りのアイルランドではない)の影がジワジワと滲み出てくることだ。どこまで意図的なのかはわからないが、(5)、(10)ではピート&コリス・コー、(7)ではロイ・ベイリー、(8)ではロニー・レーンを彷彿させる。なかでも(11)「去年の雪」は舞踏曲ジグとして聴くことができ、その重いノリが「運命への従順」というトラッド演奏の本質に迫っていく。また(14)「新大漁節」は自己を滅却した上野茂都のヴォーカルによって「日本のトラッド」と呼べる域に達し、この社中は確かに誰もやらなかったことをやったと言っていい。
だがこの音楽が誰に受けるのかは知らない。スペシャルサンクス〜セメントミキサーズ〜つれれこ社中を通じて、鈴木常吉は常に助平だったと思う。だが結局はこんな誰に受けるとも知れない音楽を作り出してしまう性を、筆者としては大いに祝福したい。
〔1997年CD(※7)ライナーノーツ〕
風の旅の記録
山女魚を追って
源流(みなかみ)を求めた溪流師
絵ハガキや観光ポスターの溪流写真から色彩をスポイルして、じっとそのモノクロの谷を見詰めてみるといい。「美しい」という言葉の向こうに、谷の冷気や剣呑さが感じとれ、流れが音を立て始めるかも知れない。
電車やバスをいくら乗り継いでも、あのカラー写真の溪流に行き着きはしない。素顔の溪流はいつも、暗黙の裡に「草も木も石も総ておれのものだ」と主張して身をくねらせている。その暗黙に素直に頭を垂れ、そろりと流れにひと足入れた瞬間、初めて谷は色彩を帯びる。日本の溪流とは、どうやらそんな依怙地な川らしい。そしてそこには、自然が陸封した固有の鱒族が棲む。
水温において最上流に棲むのが岩魚(イワナ)。次いで山女魚(ヤマメ)。たださえ希少なかれら陸封魚は、近年は開発と乱獲の打撃を受けつづけてきた。それを敢えて“山の神”からかすめ取るのが溪流釣だから、外来種のニジマスを釣るようには安直に考えたくないし、事実できもしない。この国の溪流に固有な魚に対して、釣法もまた固有なものであるべきだ。そしてそれを習得するには、昔から“師”が必要であると言われてきた。
ここにひとりの“溪流師”がいる。アングラーとは断じて呼ばない。山本素石、一九一九年生まれ。氏の著書は読者のためのガイドであるよりも、溪流と実人生との境界を持たない随筆である。ペンを携えて溪流を求めたのではなく、ふと溪流から我に返ったときにペンを執った産物だろう。少年期からの釣の逸話の数々はもちろん、山里の人々の暮し、ツチノコや狸の山の怪異、溪魚の探究と増殖。そして実生活との葛藤……そこには草枕に馴染みすぎた生活人のペーソスがあり、満ちるおおらかさも目の詰まった文体でいつも律せられている。そんな素石氏の世界に、処女随筆集の『釣山河』以来ぼくは惹かれてきた。ルアー、フライ、ムーチングなど、外来の釣法がこの国の溪谷に分け入ろうとするいま、在来魚である岩魚や山女魚に接すべき古来の技と心の師に会おうと、ぼくは六月の京都を訪ねた。
双(ならび)ヶ丘にはいまも鹿が出没するという。麓のお住いは天理教の教会を兼ねていて、三階の書斎からは容易に鹿が観察できそうだ。大きな座り机は執筆と毛鉤作りの小宇宙だろう。一壁面をあてた書架に、釣の書は意外に少い。きょうは丹波にご同道願い、陽のあるうちは撮影。とって返して夜はこの書斎でインタビューの予定だが、先生は昨晩遅く、佐渡の釣旅から帰京したばかりであった。しかし、「いやいや、かねてからのお約束です」と、解いたとたんの再釣支度は銭湯へ行くように軽い。
「日本の溪流は、国土面積が狭い割に山が高い、落差の大きな山地溪流であって、加えて降水量が多い。その急流に暮してきた魚は、大陸の鱒族に比べて小型で、いなせ[#「いなせ」に傍点]な、小回りの利く俊敏な魚です」
魚はそうとしても、丹波山地は懐ごとに村落を抱き、川は老年期の谷を平坦に流れる。それは日本の溪流の典型に比べてずっと穏やかな、優しい姿であった。ここが素石氏の、若年時代からの釣のホーム・グラウンドである。
氏は戦後、「京の絵描き」と名乗って諸国を旅し、「ご婦人方の帯や着物、羽織の絵付け、鏡掛、袋物の意匠などの材料を持参しております」という絵師を生業(なりわい)とした。その商売が町よりも山村を主な得意先としたことから、旅には絵筆よりも長大な、釣竿を携帯したのは言うまでもない。当時の経験から、人と溪魚が共存する山里では、人もまた“陸封型”である、と氏は説く。
「農耕以前の人間には、野地よりも山地の方が住み易かった。人間は野から山へ入ったのではなく、山から野へ降りてきたのだと思います」
はるか後年、木地師や平家の落人が山に籠るが、彼らは開拓者として入植したのではなく、時世に容れられなかったのだ。以来、土俗信仰によって外界から隔たったその暮しは、氷河期の後退に連れて海を忘れていった魚達に似ている。そして近年。
「ダムができ、離村、廃村が沢山でました。岩魚も山女魚も、都会からの侵略者に収奪されて、山村の人間とともに減りに減ったと思いますね」
「溪流魚は、その土地に代々定住してそこを守ってきた里人の手によって、細々と釣られてこそふさわしい」
という素石氏には、四〇年の釣歴を経てなお、土着の人への“申し訳なさ”がいまも宿る。
撮影場所は、丹波山地の分水嶺を越え、舞鶴に注ぐ由良川の源流部。この釣はあくまで上流へ溯る釣である。ときには滝を越え、岩の廊下を蟹のように進むこともあるが、この沢ではその心配はなさそうだ。河原には葦の背が高く、ともすると雑木が川面の庇となり、むしろ仕掛をそれらに取られぬ注意が要る。
仕掛はテンカラ。羽虫を模して毛鉤を打っては返すいわば日本のフライ釣だが、仕掛は竿で扱える長さ、決してリールは用いない。先生の竿は、さぞかし由緒ある竹竿かと思いきや、ぼく達が使うのと変らぬグラス・ロッドの振り出し竿で、握りにはテープを巻くなど補修の跡さえ見える。
「本来は生餌を使うところから始まったと思いますが、なんとかもっと簡単な方法はないかと考えたのでしょう。山仕事の帰りに、山女魚やら岩魚がカゲロウにかぶりつくのを何度となく目撃したはずです。あれがなんとかならないだろうかと……始めは、ゼンマイの綿毛をむしって、雀の羽根を抜いて、ごく単純な疑似カゲロウを作って。それは特定の一地方の人が発明し、流布させたのではなく、時を前後してあっちでもこっちでも、各自各様のやり方ができていたと思います」
しかし今も昔も、魚が羽虫を追うのは朝夕である。陽はいま中天にあり、この日の京都地方は三〇度を越えていた。撮影主体の「釣の真似」とはいえ、さしもの先生もきょうは空振りではあるまいか? 好ポイントではえてして草か木の障害が水面を制限しているが、先生の鉤はその限られた個所に繰返し打込まれる。背中を凝視してときが経ち、シャッターの音だけが生々しい。バック・スウィングされた鉤が、頭上の木の葉を一枚散らし、それが身構えたカメラマンの肩に止まる。飛び出た! 光る魚体をぼくが見た瞬間、それは先生の意思の先端に繋がれていた。
「日本のテンカラにはゲーム性はなく、山仕事の行きしな、帰りしなに、まず食わんがためにやったと思います。欧米の方は、生物学の発達がありましたから、ルールを設け自らワクをはめて釣る。その点に進歩性があります。幼稚な考えですが、日本の山地溪流では遠くへ鉤を飛ばす必要はない。比べれば、合せのスピーディーなテンカラが勝ちます」
下流部へ移動する際、先生は不要なテグスをハサミで五センチ刻みに切っている。鳥の足に絡めないためだそうだ。
素石氏の主宰する溪流釣の会、ノータリン・クラブの唯一の会則は、「会員は死ぬまでやめてはいけない」ということであり、会を挙げて御祝するのは、誰かが女房に逃げられたときだけだという。
「釣竿を持って仕事の旅をして、身について残ったのは釣のほうだけです。ぼくの場合、生活と釣とは完全にバランスを崩して、いったん破滅にまで陥りました」
「書くことは余技ですが、文筆を業とする人の釣の文は、感心はしても、手すさびで釣をして書いたものです。のめり込んでいません。ぼくの釣は手すさびじゃなかった」
「ぼくは釣をスポーツとして考えたことはないです。釣れ方のきわどさが面白い。気の合った連中と行っても、釣場では別れて、孤独です。釣り終って、安宿に集って一杯やるのが山釣の楽しみ方ですね」
「この頃、仏心といっても鬼の念仏ですが、夢中で釣ることがなくなってきました。減って、減りきってここまで生き残ったのに、ここで無残にも俺が鉤に掛けてしまったという……なら止めればいいものを、そういう自家撞着は釣をする限りふっ切れません。せめてそれを自己満足させるために、仲間で養殖を始めましたが、いまは釣った数より返した数が多いような気がします」
氏は著書に自ら挿画を描くが、あくまで我流で、着物の絵付けはもう止めている。文章に手本があるとすれば、それは森鴎外だそうだ。
「いったんは破滅に陥った」と言われたが、絵で食い、本を出し、日本じゅうの山釣を経験して、その人生はフル稼動してきたのではなかろうか?
「人生は遊びである、というのがぼくの主張です。労働したから遊ぶというのは全一的でない。朝から晩まで、労働も遊びでなくては」
少年時代、川の魚が総て上流を向いている姿を見て、そこはかとない源流への憧れを抱く。それが四〇年を越す溪流人生の発端であった。
「晩秋になると禁漁ですが、木の葉が色づいても散っても、源流への憧れがふっ切れずに廃村を訪ねる。行く理由はないのです。かつて陸封人間が住んでいた容れ物だけが残っていて、日暮れ前に着くとすたれた囲炉裏に火を焚いて、そこに入り込むのが自分達にふさわしいような、一種の郷愁、回帰本能かもわからんですね」
陸封の人と魚が衰滅の一途を辿る高度成長期以来、“陽気暮し”を旨とする氏の胸中にも、ふと、ものの哀れや虚無感が兆すが、かたわら溪流への畏怖心は齢と共に深まっている。その畏怖は、親愛感と表裏を成すものだ。
いま巻かれている毛鉤は、いつ何処の谷を飛ぶのだろう。
〔『ブルータス』1981年8月1日号〕
※ 荒久生男名義で発表された。また、初出時のタイトル「源流(みなかみ)を求めた“溪流師”は、『人生は遊びだ』といい、故郷の山を背に笑った。」を変更した。
奥鬼怒の山女魚
「一度、キラッと腹でも見せれば、掛けそこなったヤモは二度と出ないからね……」
八丁ノ湯のSさんは、私に向かってそう話した。
この奥鬼怒一帯では、山女魚のことを「ヤモ」と呼び習わしているらしい。やれ幻だの、渓流の女王だのと、とかく美化して呼ばれる山女魚に対し、なんとも愛敬のある、親しみやすい呼称だが、だからといって、この鬼怒川筋の山女魚たちが、例外的に釣りやすいというわけでは決してない。Sさんの言葉を借りるまでもなく掛けそこねると二度と出ないのは、東西南北、遠近の川の山女魚と同じである。
これが漁期中であったならば、明朝に備えての「穴場」とはいわぬまでも、狙い目の沢筋くらいはそっと教えてもらいたいところではあるのだが、今、こうしてシーズン外れの雪の八丁ノ湯にやってきたのは、竿を持たない季節ならば、釣りの実益を離れ、ゆっくりと魚と山暮らしの話でも聞くことができるだろうと考えたからである。
思えば、これまで私は、どこへ行っても、行った甲斐のないような釣り旅ばかりをしてきたようで、もちろんそれは、大方は私の腕前の所為ではあるが、未だに山女魚とはやんごとなき高貴な魚であり、山女魚が高貴ゆえに、その棲み家である渓流もまた、俗界から隔絶した聖域だと思っていて、今では、それは素朴な信仰というのにも近い。してみると、私の釣り旅は、ほとんど札所巡りのようなもの、ということになりそうだが、かといって、手甲・脚絆に菅笠姿、ならまだしも、白装束に白い竿、という出で立ちで川に立つまでには、まだまだ世俗の欲も捨てるには余る。
いや、こう言えば幾分かは聞こえがいいだけのことであって、実のところは、釣りたくとも仲々釣れてはくれぬ故の、山女魚に対する私の一方的な片想い、横恋慕、恋患いというにすぎず、ぶっちゃけた話が、少々カッコウを付けたヤケッパチ流の「山女魚恋い」「渓(たに)恋い」といった方が正しかろう。
かりにもし、渓に立てば必ず三つ、四つの山女魚の顔を拝めるだけの腕前が私に備わっていたとしたら、たとえば、釣りには出られぬ冬の仕事場で、机に頬杖をつきながら、昨夏に訪ねた川の瀬の、久々に山女魚と対面できた茨の下のヨレ筋に想いを馳せたり、あるいはまた、酔い醒めに飲む水を眺めながら、そういえば、わが家に繋がる水道は、かの山女魚たちが戯れる多摩の流れが水源(みなもと)で、ならば、この一杯のグラスにも日原(にっぱら)川唐松谷の水が何ppmかは混じっているにちがいない……などと考えたりすることで無聊を紛らわしたりはするだろうか。
おそらく、そんな程度に腕に自信があったならば、昨シーズンにわが愛竿を撓(しな)らせた、手に感触も生々しい自慢の毛鉤(はり)の鉤先を、さらに鋭くヤスリを入れるか、さもなくば、今度の春にはどんな毛鉤で山女魚たちを誑(たぶら)かしてやろうかと、雉子だの雀だのプリマゥスだのの羽根毛を並べ、とっかえ、ひっかえして巻き上げた毛鉤を、ためつすがめつして過ごすのが、より似つかわしくは思うのである。
つまり、真似たくとも、そんな真似など及ぶべくもないのが私の釣りの実力ということであり、実体を手にする機会が稀な分だけ、かえって「山女魚」に対する思いは募り、気がつけば、実際には渓で魚を「釣る」ことよりも、たとえば、今こうしてわざわざ釣りには季節外れの雪の奥鬼怒を訪ねるごとく、山女魚の話を「聞き」にいくことの方が、より多く私の釣り旅になってしまっていたのであった。
目の前の客がそんなトウシロウとは知るべくもなく、この川筋で現役随一の釣技を誇るSさんの話は、私の来意を、あくまでも来たるべき春の予備調査だと決め込んでいるフシがある。
「口が重くって、これがないとよく喋らないからね……」
と、お湯割りの焼酎をひと息呷(あお)ってから話を継いだ。
「魚は自分の眼から下のほうは見えないからね、上しか見てないですよ。だから人の影が問題だけれど、白泡の下のヤツは影が射してもけっこう食いますね。落ち込みの下の一メートルの三角形っていうんですが、お客さんたちのを見てると、そこに餌が行かないし、行ってもサッと瞬間に流れちゃう。私なんかはオモリを重くしてそこに餌を固定させます。そりゃあ、不自然ですけど、魚はそこで餌を待ってるんですからね……」
私のように、観念で釣りを憶え始めたような、いみじくもSさんが「お客さん」と呼ぶ街住まいの華奢な釣り師には、いささか乱暴な釣り方のような気がしないでもないが、こうした本当の自然の中で聞かされると、不思議に違和感はなく、そればかりか、「ナルホド、ナルホド、これこそがこの土地にふさわしい釣り方なのに違いない」と、素直に納得できるものである。
「しかし、待て、それにしてもこの話、以前どこかで聞いたことがあるような気はせぬか?」
そう考えて、「やっぱりナァ……」と、私は心の中でつぶやいた。
実をいえば、ここへの途中、川俣湖あたりで陽はすっかりと暮れ、景色は闇になってしまったし、女夫淵からこっちは車が谷筋から離れてしまったけれど、ひょっとすると、ここはもう山女魚域ではないかもしれないナ……、とは感じていた。
なんのことはない、Sさんの話は、いつのまにか岩魚釣りの話にすり変わっていたのである。
たしかに、重いオモリで餌をポイントに永く留める岩魚釣りの方法を、以前にも他所で聞いたことがある。あれはたしか梅雨どきで、黒姫山を源とする鳥居川の住人Kさんの話だった。小雨の煙る夕暮れ刻(どき)の一時間ほどの間に、夕餉のための十数尾を調達してきたKさんは、重いオモリでのその釣り方を解説すると、ポソリとこうつけ加えたものだ。
「岩魚っちゅうのは、そんなもんズラ……」
そう、この奥鬼怒で自然の山女魚が棲息するのは、女夫淵上のカッタテノ滝までであり、それより上流ではやはり重いオモリで岩魚が釣られていたのである。
Sさんとて、まさか岩魚釣りの最前線に本気で山女魚の話を聞きにくるオッチョコチョイが居ようとは、思いもかけていなかったのにちがいない。最初に山女魚の話なんぞを殊勝に切り出したのは、「穴場」を探り出すために相手を警戒させないようにするという、釣り師が時々演じて見せる例の姑息な戦術だとでも思い込んでいたのだろう。
このSさんから、その程度には腕のある釣り師だと見誤られたことは、少々嬉しくないことではないのだけれど、さて、そうなると人間というやつは、「いや、実は……」とばかりに自ら馬脚を露呈することができ難くなってしまうもので、なんとなく「山女魚」の名を口にすることが憚(はばか)られる。
まあ、私にしてみれば、こういう山宿で聞く「山語り」「渓語り」というものは、その中身が、山女魚であろうが岩魚であろうが、はたまた、熊でも猿でも狸でも、一様に楽しく興趣があって、いつとはなく問わず語りに語り始めたSさんの話に耳を傾けていたのである。
Sさん兄弟の父親がこの地に温泉宿を開いたとき、近隣には住む人も家もなく、当然のこと、歩いて通える小学校もない。今市の親類に寄宿したSさんは、春と夏の休みにだけ帰ってきて釣りを楽しんだ。帰るといっても、バスの便もなく、今市から月明かりの山道を歩いて川俣部落で一泊となる。宿屋の息子が家に帰るのにこの有り様だから、お客とはいっても、馬の背に揺られてくるのがせいぜいお客らしい交通の便であった。
その当時、この辺りでは、六畳ほどの広さで腰までの深さの淵には一○○尾の岩魚がいた。置き鉤を何本か仕掛けておけば、翌朝にはその数だけ尺上の岩魚が掛かっていたという。小沢をせき止め、岩魚を手掴みで捕えた……。
今、これに類した話なら、どこの山村でも聞くことができるだろう。だが、その時、私はけっして「またか……」などとは思わない。なぜならば、こうした話の集積が、山女魚や岩魚が群れ集う、私の中での「桃源郷」幻想を、助長し、育んでくれるからである。だから、それはいいのだけれど、むしろ、そうした話を語ってくれる御当人の目差しが、空ろに宙をさ迷ったりし始めると、私は途端に心細くなってくる。
「――あなたのなさったことを、私もできるとは思いません。だから、そんなに遠くを見るような眼だけはせず、せめて昨日のことのように話してください!」
山女魚の、岩魚の、渓流、それにまつわる昔語りを聞くときに、私はしばしば心の中でそう呟く。
「昭和二十一年のころはね……」
と、Sさんは突然、私の生まれた年を口に出していった。
「一日に一貫五百匁(約六キロ)くらい釣って、次の日も朝十時ころまで釣って二貫目。それを一斗缶にネ、雪を詰めて、笹を敷いて魚を並べ、鬼怒川の温泉街に持っていくと、一貫目が六○○円で売れた。ここで一年間に要ったお金が五○○円の時だ。オレは釣るのが好きで、売るのはあんまり好きじゃなかったけど、そういう面白い時代もあったんだね……」
ずいぶんとボロい儲けのようだが、この商いは、残雪が氷の代用として使える五月の上旬までしか通用しない。しかも、現在バスで二時間かかる鬼怒川温泉へは、行程の三分の二の青柳平までが徒歩である。
「一シーズンでね、十六人しかお客が来なかった年もあったナ。一人の人が二泊したら二人、という勘定で、延べで十六人だよ。どうやって暮らしてたかと思うけど、人間ってのは上手くできてんだねぇ。お金なんか、有る無いは別だ。岩魚の焼き枯らしと、それに、あの頃はまた山ブドウがいっぱい穫れて、それを潰し、焼酎に入れてブドウ酒をつくるんだ。それを持って炭焼きのところへ行くと、喜んで炭と交換してくれる。その炭を養蚕地に持ってくと、麦や米と交換してくれるんだよ。それを今度は塩と交換する……」
当然のこと、釣り同様に狩りもした。街へ出るにも鉄砲を携帯し、帰り路では晩酌の肴を狙ったそうである。
「夏は魚釣り。冬は鉄砲撃ち。でもオレは、釣りも鉄砲も、獲物を食べるより捕るのが面白くてやってたからね。釣りだって、自分で岩魚の心になれば釣れますよ。でも、もしオレが岩魚だったら、マグレで掛けられたら泣くと思うよ。魚が『一本参った!!』と、完全に『してやられた!!』と笑うようでなきゃね……」
私には、生涯、笑った魚を釣ることはできないだろう。それはそれで自分の腕前の所為だから仕方のないことだけれど、同じように、恐らく魚を泣かせることもあまり多くはなさそうで、こちらの方は喜ぶべきか悲しむべきか、何とも複雑な心境ではある。
だが、Sさんの手に掛かった魚が、もし、岩魚でなくて山女魚だったとしても、やはり山女魚も笑って釣られることになったのだろうか。
これは、山女魚に対する一方的な私の思い入れでしかないのだが、いつも山女魚たちから笑われてばかりいる私には、できることなら山女魚には、笑って欲しくないものだと思っている。
〔『山女魚百態 渓流の本 2』筑摩書房 1987年4月〕
この国を旅する
1 豊饒の野山、豊饒の海。
小説家・三島由紀夫がその最後の作品に『豊饒(ほうじょう)の海』と名付けたころ、私たちは“豊饒”というその言葉にとくに憧れを抱いてはいなかった。それから二〇年余、“自然”とその恵みに対する日本人の希求は、文明の進歩の裏側で静かに成長し、現実化してきた。野山も海も、豊饒であってほしいと願う想いが普遍的になった。
緑なす野山と紺碧の海――そのイメージはいま、この国の美しい財産を象徴する。その恵みを享受するとき、日本人の幸福観は具体化する。いま野山に立ち、海に臨み、人々の営みに触れるなら、豊饒という言葉はついに私たちに輝く実感をもたらすだろう。
そう考えて、取材班は旅立った。訪ねたのは南から北へ宮崎、高知、金沢、釧路。それはいわゆる味探訪、店発見の旅ではなく、できれば料理の背後にあるものを求め、味が必然する生産の現場に立ち会おう、というものだった。おおげさに言えばそこで見聞する文化、歴史、人物の総和が、この国の野山と海の“豊饒”を語ってくれるにちがいない。そんな一方的期待に基づく旅だった。
まず宮崎では、取材対象が海辺から山村へと変更になった。なぜなら、日向の“郷土料理”の七、八割は薩摩のそれと重なり(全国的には“薩摩料理”と解釈される)、日向に特徴的な部分は山村に、とりわけ乾燥野菜文化にある、と知らされたからだ。太平洋に向けて長大な海岸線を誇る宮崎で、その伝承の食べ物をあえて山間に求めることになるとは意外だった。だがおかげで我々は幻の干し大根“イカンテ”に遭遇し、古来の焼き畑の現場をも目撃する。
高知では“海幸彦”たちの舟に便乗し、彼らの収穫がやがて料理として檜舞台で踊るまでを追った。土佐の浦々にはそれぞれ固有の漁獲と風土があるが、取材現場として選んだのは足摺岬を含む土佐清水市。そこでは特産の“ソーダ節”が早春の陽を浴び、美味無上の“清水サバ”が鋭い光を放っていた。薮椿の山に抱かれた小漁港ごとに、名も知らぬ種々のイソイオ(磯魚)が競(せ)られていた。
金沢は和菓子の消費量日本一の街だ。そしてその茶と菓子の文化を育んだ人々は、京と江戸に対する反骨とプライドを歴史的に保持してきた。しかもその伝統は武家文化と町人文化が絡み合って支えていて、菓子を通して金沢の洗練の本質に迫るのは容易ではない。だが確かなことは、和菓子の原点が“収穫の晴れの姿”であること。その虚構性の最も極まった形が、金沢の菓子文化に生きているらしいことだ。甘くても、考えさせる金沢の菓子である。
釧路駅前の“和商(わしょう)市場”は、水揚げ量日本一の釧路港が市民に向けて開いた窓だ。朝八時から夕六時まで、ここに充満する売り声はどこか日本離れした熱を帯びる。買い物客は、約八〇店が発する“気”に揉まれるだけで空腹を感じるだろう。北の海が秘めたエネルギーが、赤や銀色のウロコをまとってここに解放されている。
かくて取材班は、平成日本の野山と海に触れた。以下はその報告だが、“味覚の豊饒”はぜひ読者ご自身で体験していただきたい。
●この薮(やぼ)に火を入れ申す……宮崎
「本当の料理とは野菜をうまく食べさせることではないか、そのために魚があり肉があるのではないかと、いま考えています。その点、ジャコと乾燥野菜の発達した文化をもつ宮崎は、優れて美味しい煮しめを食べている土地柄です」
この発言で、取材の目は宮崎の海から、山へ転じた。レクチャーくださった森(もり)松平(まつへい)氏は、宮崎市で料理店「杉の子」を営む郷土料理研究家。商売はもちろん魚中心だが、いま野菜文化に注目しつつある。
保存のために乾燥させた野菜は、それによって生とはべつな味わいをもつ。日向には全国市場で名高いシイタケがあり、豊富なゼンマイがあり、珍しいタケノコがある。だが日向固有の最たるものは、ダイコンをイカの手状に切って干す“イカンテ”だろう。これは煮ものにして煮くずれず、かつダイコンの風味をピュアに保つ。ところが面倒なため年々作り手が減りつつあると聞けば、それが陽溜まりに干された姿をどうしても見たくなる。
「ああイカンテね、最近この辺じゃ……」
という返事を何回聞いたか。それでもイカンテは国富(くにとみ)町のとある農家の裏手に、まるで洗濯物みたいにはためいていた。前庭ではおじいさんが独り、世の全ダイコンをそうするつもりのように黙々と切れ目を入れつづけている。
「私なんか、街で食事することがあっても、こういうものをよそでいただいたことはありません」
そういえば森氏によると、宮崎市内の料理店やホテルでは、客に恥ずかしいとして乾燥野菜を使わないそうだ。
おじいさんの切ったダイコンを、裏ではおばあさんが干していた。料理法をきくと、煮もの以外にも旨そうなのがある。
「夏ですとね、だし[#「だし」に傍点]コンブと三杯酢にして、ショウガとシソと白ゴマをかけて」
だがやはりイカンテは、もはや年寄りでなければやらない仕事だという。
熊本県境の西米良(にしめら)村には、固有で多彩な食文化が残存している。特産のユズなどを三年も漬けた味噌漬け。干(ひ)ぼかした[#「ぼかした」に傍点]アユでだし[#「だし」に傍点]をとるソウメン。ハトの身も骨も叩いてだし[#「だし」に傍点]にしたハト雑炊(ずし)!
この村で教職にあった中武(なかたけ)夫妻は四年前、村民に「おいしいもの」を問うアンケートを試みた。その結果、人々はいまも“伝来の味”を慕っていることが判明する。“飯(めし)の部”の上位はヒエ飯、カライモ(さつま芋)飯、アワ飯、アズキ飯だが、これらはすべて、「米良の米は三カ月(分しかとれない)」といわれた耕作条件に由来するという。そして、“お菜の部”の断然トップは煮しめ。次いで猪肉の塩焼きだった。
どれをとっても、都会のスーパーで調達できる料理ではない。ちなみに西米良では、買い出しはいまも山越えで熊本県側に車を向ける。こうした食環境を“貧しい”と感じる向きもあるだろうが、固有な産物に富む“豊かさ”と捉える人もいるはずだ。そして取材がさらに“辺境”の椎葉(しいば)村に及ぶと、人々がその伝統の食文化に胸を張っていることがわかってくる。
「この薮(やぼ)に火を入れ申す。蛇、蛙(わくど)、虫けらども、早々に立ち退きたもれ――」
これはいまも焼き畑と民宿を営む椎葉秀行さんの家の口伝で、山を焼くときにとなえるお祈りだ。全国の山村でしばしば見受ける例として、ここでも山に棲む生物と自分たちとが同列である。ヘビやカエルが農作業の犠牲にならぬよう、事前に警告、というよりは願っているのだ。
こんな価値観で生きる人々は、いったいどんな食生活をしているのかと思うと、これが見事に多彩なのである。まず椎葉さんの宿の膳に載るものは、焼酎と醤油を除くいっさいの素材が自給自足。お茶受けでも三品は出すという奥さんが、並べた皿を前に自信に満ちて笑っている。
ではその献立を紹介すると、自家製コンニャク、干しタケノコ、干しシイタケ、糸巻きダイコン、ニンジン、コンブの煮しめ。エノハ(山女魚(やまめ))塩焼き。自家製豆腐の田楽。干しタケノコのキンピラ。イワタケ胡麻和え。ダイコン膾(なます)。味噌漬五種。タクアンとハクサイ漬け。シソ、ヨモギ、アンの三色餅。ソバのダゴ(団子)汁。トウキビ飯。以上は、取材時の昼食である。
味については、煮ものは予め炒められたりして全体にコクがあり、濃い。だが谷筋ごとに四〇もの集落が散在する椎葉村では、その各々に伝承の料理法があるという。ここのご主人自身はシシ(猪)、シカの肉が好物だそうだが、宮崎の山岳部一帯では良質なシシ肉は塩焼きで食べる。鍋は、おもに観光客向けであるらしい。
椎葉村といえば平家の落人伝説で知られるが、文化財の鶴富(つるとみ)屋敷はまさに鶴富姫の家系によって営まれる宿でもある。そのウチネ(居間)の囲炉裏端で食事をすると、稗粥(ひえがゆ)や菜豆腐(などうふ)といったものが出てくる。
稗粥にはヤマドリ、シシ、地ドリの順でだし[#「だし」に傍点]のグレードがあるのが面白く、塩味で木椀に盛る。いかにも平家の、と思わせる雅びた料理が菜豆腐で、堅めの大きな豆腐に季節の青菜が刻み込まれている。初夏には、藤の花が入れられると聞く。これが暦で耕地を占い、雑穀を蒔いて八〇〇年を経た食文化である。
「昔は、なんでんかんでん[#「なんでんかんでん」に傍点]食べよった」
斜面のソバ殻を焼きながら、そう言って椎葉さんは笑う。町に住む孫たちも、以前は「焼き畑はもうやめて」と訴えたが、今では「おじいちゃんたちは偉い」と認めているという。
●海彦山彦が、まな板の上で踊りよる……高知
土佐清水市は四万十川のさらに西、足摺岬のつけ根の港町だ。ここにはソーダ節(ソーダガツオの節)と清水サバという、いわばナショナルな二枚[#「二枚」に傍点]看板がある。点々と薮椿が赤い岬には、干されたソーダの匂いが漂う。いま東京のそば屋のだし[#「だし」に傍点]は大半がこれで、毎年暮れの現地入札には争って老舗が買い付けにくるという。
清水サバは“丸サバ”ともいって断面がまるく、体側の斑点から“ごまサバ”とも呼ばれる。この町の人は、まずサバの味噌煮だの文化干しといったものは眼中にない。もし話題にしても、耳を貸さない。刺身で、刺身で、と外来者にもすすめる。実際その光る刺身の味は、ブリなみの脂とアジ的な軽さがバランスして絶妙だ。
土佐といえばカツオのたたき、というのは全国的常識だが、それも昔は薬味も土佐酢も使わない“塩たたき”だった。そう述懐するのは足摺岬の先端、伊佐(いさ)港の魚屋「山広」のご主人である。“たたき”といえば、東京のアジの場合は叩かずに細く切るだけ、と聞いて山広さんは驚いた。
「あら、そうかね。ウチらはネギとか味噌入れてまな板の上でカンカン叩く。切るのはおいしないやろね。叩くとうまいぜよ。なんちゃ残ったらよ、お茶漬けにしようと、お汁にポイと放り込もうと」
土佐清水の浦々には、大小七つの漁港がある。そこには方言でしか呼ばれない磯魚(いそうお)も、五月までが狙いのブリも上がる。取材班は以布利(いぶり)港の大敷(おおしき)網漁船に便乗し、鳥群の舞う二〇〇〇米ほど沖合を目指した。日の出から三〇分。三隻の船に囲まれた海面に、魚体から剥離したウロコが光りはじめる。さらに一〇分。どうやらイワシが多く、タチウオ、イカ、マンボウなどを確認したが、そこにブリの巨体はない。だが甲板は、すでに銀色のプールのようになっていた。
獲られた魚の、有終の美を知りたいと我々は思った。高知市の「わん家」には、魚菜の“仲人”を任じる井上輝男氏がいる。
「料理人の作るものにあんまりうまいものはないねえ、飾りばっかりで」
このカゲキな発言において、氏自身は例外なのだと舌がやがて納得してしまう。
まず“イシダイの柚胡椒(ゆずこしょう)よごし”。白身に柚胡椒がドライに絡む。白味噌に葉ニンニクをおろし込んだ“ぶりぬた”。話に聞いていたが、品よくブリのコクが強調される。真ガツオ以前が旬の“葉ガツオの刺身”。そして氏の仲人する“清水サバと葉ニンニクの鋤(すき)焼き”。七輪に貝殻をかけ割り下を炊き、魚と菜の順序回転を氏が仕切る。
「出合いの場は、やっぱり二種類が面白いわね。海彦山彦が必ずおって、それがまな板の上、鍋の上、檜舞台で踊りよる」
●桜が咲いたら、桜餅はもういりません……金沢
自然の豊饒に対して、人智の豊饒を食の世界に探すと、その答えは極めて虚構性の高い“作品”にたどり着く。これが、金沢の和菓子を取材して得た感想だ。
たとえば、“落雁”を思い出してほしい。あの、とうに子供たちからも敬遠されて久しい菓子が、この金沢では品よく愛らしい姿をし、珠のように扱われている。
「諸江屋(もろえや)」のショーケースを覗き、その美しさに感嘆すればするほど、この町はなんなのだ? とフシギな気分に襲われる。
金沢の和菓子を解くキーは、百万石前田家の茶道文化だとはよく聞く。この地の旧家に生まれ、和菓子の研究家として知られる千代(せんだい)芳子(よしこ)氏は、だがこう説く。
「お茶との関わりはもちろんですけれど、人生の節目や年中行事の中に生きるお菓子が金沢にはあるんです。結婚式の“五色生菓子”とか、お正月の“福梅”。毎年七月一日の氷(ひ)室(むろ)の節句には麦饅頭を一個食べますが、なんで麦饅頭かっていうと、麦の穫(と)れ秋でしょ。たかだか饅頭一個食べる行事が、四〇〇年も続いてるんです」
そのことがおそろしい、と千代氏は言う。しかもこの町の律義さは、福梅なら松の内、氷室饅頭なら七月一日を過ぎたら食べない、というのである。その謎を、「柴舟小出(しばふねこいで)」の小出弘夫氏がこう解説する。
「日本人の感覚には“その日を待つ心”といったようなものがあって、和菓子の世界にはそれが象徴されているんです。お菓子は待つ間だけ必要なもので、桜が咲いたら、桜餅はもういりません。それが、和菓子の意味です」
漢字の一字一字のように、和菓子のひとつひとつには意味があるらしい。あの小さな落雁にさえ、うかつに手を出せないような完成度を感じるのは、その素材や色や形に精神性が潜んでいるからなのだろう。
和菓子がそういうシンボリックなものだとして、春の桜餅や初夏の柏餅は誰にでもわかりやすい。だが“麦の穫れ秋”といった祭事を根拠に、現に学校でも病院でも出される饅頭とはさてなんなのか? 千代氏は言う。
「そもそもお菓子っていうのは、神様に上げるために作られたものでしょ。それから仏様ね。つまり神仏に、世の中でいちばん美しくおいしいものを捧げるってことで、もともとはぜんぶ神事。その心の原点は、豊作を願う予祝ですからね」
“予祝(よしゅく)”。すると、“待つ心”は和菓子の本質だったのだ。そしてその心を生活の節目として、数百年間繰り返してきたのが金沢の人ということになる。
和菓子が美しいのは、それが虚構の食べものだからだ。その消費量が日本一という事実に、金沢の町の矜恃(きょうじ)が読める。
●地の人には、地の魚がいちばんうまい……釧路
釧路の街は撮影所に似ていた。撮影中の主役は、たぶん小林旭だ。駅前には商店街がなく、各業種はビルに収容されている。だが昭和三十年代のここには、魚や野菜を積んだリヤカー部隊が集結し、青空マーケットを展開していた。それが今日の“和商市場”の、創業期の姿だった。
「漁港から荷を運ぶのに、唯一の動力が犬でしたね。たまに犬同士がケンカすると、主人同士の争いに発展したりして」
組合常務理事の能登(のと)寛(ひろし)氏の回想は、年商一〇〇億をうかがう現在でも、市場の気風としてシッカリ生きている。約八〇店の過半は鮮魚か加工の魚関係だから、客獲得の切磋琢磨ぶりは陽気ですさまじい。
「取材? イクラどう、お土産に最高!」
撮影中のカメラマンにも迫るのだ。だが、この対面販売こそが客にとってのメリットである。スーパーのレジで調理法はきけないが、ここでは一般人の知らないサケの分類判別法だって教えてくれる。
一例を挙げると、東京方面で珍重されるアキアジより、初夏に獲れるトキシラズの味が上だと彼らは言う。つまり抱卵した前者は卵に養分を取られており、沖を回遊する後者は体力横溢(おういつ)というわけだ。
だが客の実態は、そんなレベルに遠い。
「本州から電話で、サケを送れって頼まれますね。そうすると、切り身で送れって人が多いんですよ。しかもアラは食べ方を知らないから、要らないって」
北の海の弱味は、漁獲量の多さのわりに魚種が少ないことだろう。それでも和商には、本州では見馴れない幾種かが並ぶ。たとえばアンコウに似たゴッコ=ゼラチン質の身で汁ものにする。名が体を表わすカラスハモ=脂肪が多く、蒲焼き。黒いホウボウのようなハッカク=背開きにして味噌焼き。凝った食べ方では、カジカを湯がき、ほぐし身とキモを味噌、ネギの薬味で和える“ともあえ”がある。
特産というべきそうした魚が、全国に知られるのは嬉しい。しかし、そのために値が高騰すれば、北海道の人間が北海道の魚を食べられなくなってしまう。商売にはなっても、土地の魚文化は不毛化する。和商に魚を卸す新富士市場部の、岡山末吉氏はそう心配する。
「どの浜へ行ってもね、その地の人にとっては、その海で獲れた地の魚がいちばんうまいんですよ。いま東京の量販店の人間が、よく商品開発に来てますがね」
そして岡山氏も、あのアキアジとトキシラズの関係を問題にした。魚卵好きの日本人の眼が、魚自体の旬を誤認しているという。一般に、産卵期にうまい魚はない。だが、あえてその時期の魚を獲る。逆に魚の旬中心に狙えば、価値の上昇と魚種の保存につながる、という主張だ。
思えばこれは、近代漁業以前には漁民も消費者も心得ていたことかもしれない。
〔エアーニッポン機内誌『私の青空』1991年4・5・6月号〕
2 温泉夢譚――鳥取
1
鳥取県を旧国名で呼ぶと、西部が伯耆(ほうき)、東部が因幡(いなば)となる。その温泉地は海沿いの平野にほぼ並列して点在し、県中央の倉吉(くらよし)市南部でやや山間に入り込む。今回の取材はその鳥取の温泉ベルトを西から東へ、つまり伯耆から因幡にかけ、独断で描いた“温泉イメージ”を求めて巡り歩いた。それこそが美しい日本の温泉像だと、信じて巡り歩いたのである。
さて、その独断のイメージとは、ひとつに温泉街は非日常の甘やかな空気に満ちていること。それにはリゾート的今日性はなく、もちろんヘルスセンター的喧噪もなく、同時に新宿歌舞伎町的ワイザツさは微妙にしか、ない。求めるのは、自分が一泊したことが一夜の夢であったかと錯覚させてくれるような、あの街は今日もあそこに在るのだろうかと想い出させてくれるような、そんなはかなくも妖しい非現実感なのだ。
もうひとつは、温泉につきものの「鄙(ひな)びた」という一語で表現しきれないような懐かしさ、その街の人に問いかけてみずにいられない、あるいわくあり気な古めかしさ、といったもの。
そんなものを感じさせてくれる温泉に、さて巡り合えるだろうか……という旅である。
倉吉から南東に天神川をさかのぼり、さらに投入堂(なげいれどう)で有名な三徳山(みとくさん)方向に支流をさかのぼると、道はいかにも老舗らしき趣の温泉街に入っていく。今回、取材班が最も「温泉らしい」と意見一致した、三朝(みささ)の温泉街である。折しも夕刻。街の中心にかかる橋の上に立つと、三朝川の両岸に宿々の灯が点りはじめ、それが川面にもこぼれて華やいでいる。
「これはかなり、かなり甘やかで妖しい!」
と、心が浮き立つ。河原には、どのガイドブックにも紹介されている三朝名物の露天風呂。入浴無料だが、まだ暮れきらないこの時刻には、逗留客ふうの老人の姿がチラホラあるだけだ。そう観察するうちにも、風の感触は夜めき、空の藍が濃くなって街中の灯が輝きを増す。三朝が、動きはじめる気配がする。
浴衣に丹前、というのがどの温泉場でも客の身分証明だ。これが三々五々、そぞろ歩いていないと温泉街の気分が出ない。客は我知らず、雰囲気づくりに寄与しているわけだ。そしていま、この街の横丁やそのまた奥の路地から、今宵のエキストラたちが湧き出し、流れはじめている。ある一組の後ろに付いて、「温泉本通り」と大書きされたアーチがかかる、目抜き通りへと分け入ってみた。「本通り」とはいっても広くはない。幅数メートルの蛇行する道の両側に、土産物屋、飲食店、バー、射的場、ヌードスタジオなどが繰り返されて並ぶ。この温泉一の歓楽街だが、ひたすらケバケバしいばかりでもない。派手な店頭の合間に、骨董屋、写真館、造り酒屋といった渋い家がはさまり、明治の建築という木造三階建て旅館の軒には、釣り灯籠にポッと灯が入れられたりもしている。
ナイターがプレーボールになる寸前の球場、といった軽い緊張が支配するこの通りで、なんとなく奇妙な光景に出合った。水が打たれ、盛り塩もされたある“特殊浴場”の玄関先で、まっ白いワイシャツ姿のお兄さんが独り、“お刺身定食”で食事しているのだ。彼の仕事は、おそらく客を呼び込む係だろう。だからこそ準備怠りなく、道に向かいお盆を膝に載せているのだと思う。でもなんだかそれが非常に美味しい刺身定食の食べ方であるようにも見える。見えるが、質問すべき言葉がない。
「またあ、そんなとこで食べてんだからあ」
と言いざま、顔馴染みらしいお姐さんが通り過ぎる。してみると、これは彼の個人的な嗜好なのだろうか? もし明晩もこうしていたら、そのときは訊いてみようと思う。
御船(みふね)衛(まもる)氏(76)は、観光協会からこの土地の“生き字引”として紹介された長老である。壮年時には地方議員も務め、現在は三朝温泉史を自費出版すべく執筆中の硬骨漢だ。この街に“非現実”を求めてきた当方としても、そのためには“現実”も踏まえるべきと考え、氏にこの温泉の正史からうかがうことにした。
「ここに源義朝の家来で大久保左馬之祐というのが参りまして、三徳山に主家再興を祈願する途次、三朝で一頭の白狼に遭遇するんです。弓には練達の左馬之祐が、一矢でこれを仕留めんとしたところ、白狼は神の遣いという伝えを想い出し、あえて仕損じる。するとその夜、三徳山の宿坊で妙見菩薩が夢枕に立ってね、そなたが白狼に出合ったクスノキの根方を掘ってみよ、そこから湯が湧き出るであろう、と告げたという伝説があります」
この話は、実は広場に左馬之祐像があってその台座にも彫ってある。氏の生き字引ぶりは、歴史のもっとディテールに発揮されるのだ。現にどこの店や旅館で取材しても、話題が古く細部に及ぶと、必ず「これ以上は御船さんがご存じで」と言われたものだ。たとえば、「三朝川の両岸山腹に分立しとった部落が、温泉発掘後ここに降りて集合したのが貞治元年(一三六二)。以来三徳山参りの宿場としてさして発展もせずにきて、江戸期でも正徳六年(一七一六)の記録で戸数三〇軒。明治二十二年で五〇軒、明治末期で七〇軒ほどですか」
この温泉が広く世間に知られるようになったのは大正五年、内務省の調査でラジウムの含有量が世界屈指とわかってから。さらに決定的だったのは、昭和二年に野口雨情が「三朝小唄」を作詞し、同四年にその歌が映画化されてヒットしたことによるそうだ。
話がここまで進んだとき、一人の少女がわれわれにコーヒーを運んできてくれた。見ればなんと、ちょっと磨けばすぐアイドルタレントといった可愛らしさじゃありませんか!
「孫です」
と御船氏。彼女は羞じらいがちにカップを配置すると、口を利くこともなく去ってしまった。だが、わがカメラマンに与えたショックは計り知れないものがあったらしい。
「“孫”、いいなあ……」
以後彼は、一時間に一回そう呟くのである。ところが何を思ったか、その場で彼は“孫”の祖父である御船氏に向かって、露天風呂でモデルになってくださいと申し込んだ。そういえばさっき、氏が若いころ草相撲の力士として鳴らした、という話が出てきた。これを職業眼というのだろうか、やがて薄暮の河原で、とても七六歳とは信じられない氏の肉体に、われわれは感嘆することになるのである。
陽の高い間に、ぜひ行ってみたいところがあった。さっき御船氏の話の冒頭にもあった三朝温泉の原点、クスノキの根方から湧いた湯が、いまも現役の共同湯として生きているというのだ。「株湯(かぶゆ)」と土地では呼ぶ。それは温泉街を外れ、果樹園を通り越した田園地帯に、農家に囲まれて古びていた。
だがまさに現役である。朝七時〜夜一〇時まで。主に地域の人々に実用されているが、観光客も一〇〇円で入浴できる。男女別の入口には短めのカーテンが下がり、そこがすぐ脱衣場だ。小さな番台もあるが、誰も座ってはいない。無人の番台に、硬貨を置いた。
脱衣場の引き戸を開けると、一段低い湯殿から湯気が巻き上がる。突き当たりに掘られた浴槽は丸い石垣で囲まれていて、その底に身を沈めると、暗い浴室の高い小窓から青空がのぞく。小さな神棚に、榊(さかき)が供えてある。
実に「トラディショナルな風呂に入った」という満足感。外は上天気の田園の午後だ。深呼吸をし、もう一度「株湯」のすがれた佇まいを記憶しようと振り返ると、女湯のカーテンの下に足がある。一瞬、動けなくなってしまう。見えるのは膝よりも下だが、それが新体操の選手みたいに細いのだ。ふと、片一方がカーテンの上方に消える。ややあって、それはバラ色の足に変わり再び現われる。見とれていると、もう片方も同様に消え、次に現われたときはバラ色に変わっていた……。
「株湯」の粗末なカーテンの陰の、バラ色のストッキングを穿いた細い足。髪を梳かしでもしているのか、その後はジッと動かない。
この辺りに、昼間からキツネが人を化かすという話はないのだろうか? この画像が三朝の象徴としてインプットされそうで、他のことは何ひとつ想い出せなくなりそうで、後ずさりするような気持ちでその場を離れた。
三朝の第二夜。さして広くもない温泉街だから、昨日も今日も同じ顔ぶれが往ったり来たりしていると、呼び込みのオジさんやオバさんたちに憶えられてしまう。カメラマンはいつも重そうな機材を持ち歩くので、「ごくろうさんね」などと声をかけられたりする。
では、あの刺身定食のお兄さんはどうしてるだろう? 今宵もああして、道に向かって食事しているだろうか……と、見れば今夜は銀の皿のカツライスだ。そのカツライスもウマそうだ。意を決し、訊いてみることにした。
「いやあ、誰も好きでこんなとこで食べたりしないスよ。仕事上、しようがないから。そっちも大変そうだけど、こっちも大変なの」
やはり、これは彼の趣味ではなかった。でもなお、カツライスはウマそうに見えた。
ヌードスタジオの、呼び込みのオジさんとも仲良くなった。この人は呼び込みをしているが、実はスタジオのオーナーでもある。三朝温泉のここ一〇年の景気の動向、今後の展望などを聞かされるうち、“踊り子さん”はオフタイムにどうしているか、という話題になった。“踊り子さん”には何年も定住している子と、一カ月ほどで別の土地へ移っていく子といる。いずれにしても、ふだん土地の飲み屋で飲んだり人と交流したりはしないそうだ。
ではたとえば昼間は? と訊いたら、「ヒマで客もいないから、入って自分で訊いといで」ということになった。一〇列ほど並んだ縁台の最前列に座り、舞台にメモ帳を置いて“踊り子さん”と話した。パフォーマンス中ではないから、ちゃんと服は着ている。だがその話にはとても感動した。たぶん、ショーを観せてもらう以上だったと思う。
彼女は昼間、“龍”という名のマルチーズと柴の雑種犬を連れて、近くの山へ入るのだ。そしてワラビ、フキ、セリなどの山菜を摘んで帰り、おひたし[#「おひたし」に傍点]にしたり佃煮にする。それが毎日の楽しみで、雨ならば明日を心待ちにし、いっこうに飽きることがないという。
三朝の街を見下ろす山腹で、ジーンズ姿の“踊り子さん”が犬と山菜採りをしている。新緑の木の間からは、スポットではない自然光が彼女を照らす。これは、ルノアールの絵筆によって描かれてもいい情景だと思う。そのとき彼女が明るく口ずさむのは、やはりユーロビートのディスコミュージックだろうか?
三朝温泉とは八〇〇年来の因縁浅からぬ、三徳山三仏寺の米田住職を訪ねた。大仰に言えば、「日本人と温泉の関係における、宗教的必然性」といったものがあるのでは? と考えたからだ。取材前に読んだ本には、神仏に参詣する前の“禊(みそぎ)”の意味がある、と書いてあった。そういうことなら、現にこの三徳山は修験道の行場であり、三仏寺は天台宗の古刹である。右の説が論証されると思いきや、米田住職の意見は“禊”とは反対の“精進上げ”であった。
「信仰といっても、日本で昔から一般的なのは信仰観光ですな。行をして、満行になるとみんなでお祝いにご馳走を食べる、温泉に入るという」
そして三徳山信仰は伝統的に、その足元と遠隔地に少なく、ある距離の地域にドーナツ状に存在するそうだ。それは一日歩いて三朝に泊まり、お寺の行をしてまた三朝に一泊、二泊行程で往復可能な地域に重なるという。
三朝最後の晩の深夜、取材の“精進上げ”として河原の露天風呂に行った。カメラマンとふたり、暗い堤を歩いて湯壺に近づくと、「どうしよう!?」と女性の声がする。さらに近づくと、なるほど二名の女性と二名の男性、つまり二組のカップルが入浴中である。構わず、われわれも仲間入りする。夜の空気、川の瀬音、適温の湯、混浴がどうだというのだ!
「“孫”、いいなあ……」
(これは、この場とは無関係なカメラマンの呟きである)。照れるとすればあちら様だから、話しかけたほうが気楽かもしれないと思い、宿はどこかと訊くと意外にも女性が応えた。
「それが宿なしなんです。いま車で着いて」
この深夜に車できて、河原の湯に浸かる二組の男女。かなりいぶかしい[#「いぶかしい」に傍点])とは思ったが、以後は全員が屈託なく、まるで同じ車でやってきたように振る舞った。女性たちも立ち上がったり、仕切られた湯壺を移動したりしてハシャぎ、そのうち風のようにいなくなった。あれは現実だったのだろうか? もし彼らが二組の夫婦ギツネだとしたら、われわれ両人を化かすなど簡単なことだと思うのだが。
2
鳥取から国道九号線を京都方向へ進み、山陰本線と別れて蒲生川沿いを山側に向かうと、ほどなく岩井温泉を示す標識が旧国道へと導く。昔は軌道車が走ったルートだ。その彼方に、「岩井温泉」と表示されたゲートが待つ。
国道でなくなった道は西部劇の道のように、ただ幅広く一直線に岩井の街を貫く。左右に山並みは見えても平坦なこの街には、いわゆる温泉街の閉鎖的でしっとりしたムードはない。だがかつて、ここは伯耆の三朝にも勝る“因幡の岩井”として栄華を誇った。そして取材班がその史実を知ったのは、まったくの偶然によってである。たまたま街の共同湯の二階座敷に掲げられた、幾葉かの戦前の写真を見たことからすべてが始まったのだ。
そのセピアに変色した写真群を見たときはショックだった。たとえば、茅葺き屋根がこんもりと連なる温泉街。旅役者が踊る村の劇場の舞台。アールデコに影響されたモダンな公衆浴場。この温泉の奇習“湯かむり”の実演風景。そして、村のほとんどが灰になった大火災の跡。これらの写真を見てからは、無言だった街全体がサインに満ち、われわれに謎を解けと訴えているように感じるのだ。
晩夏のように乾いた空気の現在の岩井と、その古い写真のなかの陰微な岩井とは違う街だ。昭和九年六月六日午後、醤油工場から出火した火は古い温泉街を焼き尽くし、岩井の街は新しく生まれ変わらざるを得なかった。
当然、すべての旅館や料理屋が再興できたわけではない。それでも火災直後に復興された建造物や街並みは、いまわれわれの目には充分に古めかしい。だが現在、当時から営業を続けている旅館はわずか三軒、後発が二軒で計五軒、料理屋や芸者置き屋はもうない。
このことの経緯には、さらにワンクッションがある。火災後再建された岩井温泉は、なおも繁栄を保った。それを支えたのが近くの鉱山であり、軍需景気だった。鉱石運搬のために山陰線岩美駅との間に敷設された軌道が、折り返し温泉客も運んだ。だが戦争が終わり、鉱山は次第に衰微し、ついに閉山に至ると温泉街にも秋が訪れたのだ。
以上のあらまし[#「あらまし」に傍点]は、共同湯二階の地区事務所のオバさんから得た。その時点でわれわれには、さらに検証し、できれば写真にも撮りたいテーマがいくつか残されたといえる。
たとえば、大火災を免れた建物はないのか。村の劇場はどこに在ったか。鉱山の跡はどうなっているか。軌道の駅は。そして、現在も伝承される奇習“湯かむり”の実態は?
われわれがまず接触したのは、軌道の機関士をした経歴をもち、鉱山に勤めたこともある小谷勲氏(87)だった。氏はしかも、岩井温泉“湯かむり”ポスターのモデルの一人でもある。まずは鉱山隆盛時のよすが[#「よすが」に傍点]を求めて、車で二〇分ほどの廃鉱へ案内してもらった。
「ここです。こりゃ、懐かしいですなあ……」
その谷間には当時、数百人からの人が住んでいた。そして昭和十八年の地震で土石流が生じ、五七人の命を奪った悲劇を秘めているという。氏は見えないものを見る眼差しだが、当方には緑の山肌と荒れた谷としか映らない。コンクリで補強された坑道が、ポッカリ口を開けていまも水を吐き出していた。
「ここにトロッコのレールが敷かれとりました。それで岩井の街まで鉱石を出しよって」
その軌跡もすっかり草に覆われて、通う人もない農道にしか見えない。
「通勤は自転車でしとったです。岩井で遊ぶのは、まあ勘定日から四、五日。芸者も三〇人からおりましたけ、もうドンチャン騒ぎしよるモンもありましたが、私(うち)らはそんなに荒っぽい金の遣いようはしなかったですけなあ」
鉱山にこだわるのは温泉との関係においてなのだが、小谷氏はどうやら謹厳実直なタイプだったらしく、労働者の大半がこうだと岩井温泉を支えるには心もとない気がした。
「軌道を運転しよったのは、三〇歳くらいまで。ドイツ製のプリンス機関車でした。岩美駅まで鉱石を運んで、客車は二〇人、三〇人、五〇人乗りと。岩井駅には転車場もありましたけな」
岩井に戻り、今度はその軌道駅跡を訪ねる。氏はここで、あの火事を見たのだ。だが何も残っていない。街道脇の、駐車場みたいだ。
では劇場は? あの旅役者が踊っていた、そしてある冬に雪で潰れたという劇場は、いったいどこにあったのだろうか。
「劇場は……その家は、駅向かいにまだそのままあるでしょう。いまは住居にしとりますけど、街の入口の外れの家ですけなあ」
氏の記憶には、劇場が雪で潰れたという事実はない。では、氏がその方面に無関心な人物かというと、その反対だ。なにせ子供時代には浄瑠璃を語り、舞台にも出たのだから。
どうも判然としないことが多い。ハッキリとした痕跡、といえる事物にも欠ける。われわれにいくつもの出題をしておきながら、岩井の街は沈黙したまま、一日が暮れていく。
ここまでの収穫といえば、小谷氏の通った小学校が明治時代の建築で、それがあの火災を免れて街の山の手に残っていたことだ。見ると玄関のポーチがある実にハイカラなデザインで、明治の意匠による瓦屋根のルネッサンス様式といったところ。現在は町の保護文化財に指定されている。
一方、見ればすぐ実態が理解できそうでいて、その実訊いてもよくわからないのが、この岩井温泉の名物、“湯かむり”という入浴法だ。入浴法といったが、そもそもそれは一種の健康法なのか、あるいはもっと儀式めいたものなのか、はたまた文字どおりの奇習なのか?
写真やガイドによると、まず頭から手拭いを被って湯に入る。手には柄の短いヒシャクを持ち、それで頭から湯をかけ、さらには独特の数え歌に合わせて湯の面を叩き、自らその飛沫を浴びつづける。歌には“忠臣蔵づくし”“岩井八景づくし”などのバリエーションがあり、近代には“日露戦争”“大東亜戦争”といった時事的新作もできた。
現在、その“奇習”がどれほど実践されているのか、小谷氏に問うてみると、
「まあ、節はともかく文句が憶えられんですよ。習え、っていうけど、なかなかああいうことに凝るちゅうモンは、おらんでしてな」
ということだ。そこで取材班が、額を寄せ合って考えた推論はこうだ。ヒシャクで湯を叩くことは、ある一定のリズムを生む。そのリズムで飛沫を浴びつづけることには、一種の催眠効果、トランス効果が隠されているのではないか。もしそうなら、“湯かむり”にはある宗教的背景が存在するかもしれないし、それは“奇習”というより“秘事”に属することなのではないだろうか?
翌日は街に撮影に出て、出会った人にアトランダムに質問してみることにした。表通りから裏路地まで、隈なく見て歩くと随所にあの「昭和九年」の面影が残っている。ここも元は旅館だったと思える家から、四〇がらみの男の人が現われてわれわれに興味を示す。そこで、昨日とは世代の違う人と話してみた。
「そう、ここはね、旅館をしてたんですよ。そっちの向かいもそう。劇場? ああ、ありましたよ。ぼくが小学生のころだけどね、あっちの山の麓に昔の学校があるでしょ。いまは文化財になってるけど、あれが劇場だったんですよ」
なんと、それは小谷氏が通ったあの学校のことではないか! この人の小学校時代なら、それはたぶん昭和三十年代。そのとき五〇代の小谷氏が、劇場の位置も記憶してないはずがない。しかも、それでは唯一の確証を得た小学校さえ、その意味が曖昧になる。念のために訊くと、雪で潰れた劇場など知らないと、その男性は答えた。
三〇代後半とおぼしき女性にも訊いた。自分はまだ学校に上がる前だったけど、と断わりながら、彼女の記憶もやはり劇場は昔の小学校だった。だが鉱山についてはそれがあったということしか知らず、もちろん軌道にいたってはその駅の所在地さえ知らなかった。
知らないこと自体は、その年格好からして仕方がない。だがこの街には、いったい史実の伝承という習慣がないのだろうか? それとも、あの昭和九年に集団的記憶喪失が起きたのか、なんて妄想さえ抱いてしまう。少なくとも、この街でインタビューを試みた人は誰一人、共同湯二階のあの写真を見たことがないのだ。なぜだろう? 悲劇も含まれるとはいえ、あの美しくしめやかな記録は、なんの因縁ももたないわれわれをさえ、不思議な懐かしさで捉えてしまったというのに。
岩井温泉の歴史は古く、開湯は平安初期の貞観元年(八五九)と伝えられる。時代は下って江戸期鳥取藩池田家の記録には、現存する旅館の明石屋(寛永創業)や花屋(嘉永創業)の名が見えるという。また明治から大正にかけては、木島屋旅館の女将だった通称“木島屋およし”が岩井温泉の命運を担って大活躍し、政財界とのコネを駆使して岩美駅間に直結の道路を開くなど、県内外に女傑の名をとどろかせた。村営軌道の運行開始が大正十一年。ここから岩井温泉の全盛期を迎えたといわれるから、あの共同湯二階の写真こそ、それから大火災までの夢の時代を物語っているのだ。
「私にとっていちばん懐かしい想い出というと、やはり村の軌道でしょうかね。鳥取の学校へ通ってた時分には、遅刻しそうで走りながらも、『待って待って!』と叫ぶと発車を待ってくれたものです。あれがお客様も運んできたし、出征兵士も運んでいったんです」
そう語るのは、先述の「花屋」のご主人である。もしかしたら、発車を待ったその機関士はあの小谷氏だったかもしれない……。
「劇場ですか? 本来のは岩井座といって、火事の際には皆が仮住まいしたものですが、二年後の昭和十一年に雪で潰れました。小学校の劇場ね、あれは岩井会館と称して、昔の校舎を一時劇場に使ってましたよ。それはずっと新しくて、昭和三十年代のことです」
ああ! ついに整合する答えを聞くことができた。街で取材した男女の記憶も、あれは世代なりに正しかったのだ。そして小谷氏は、あの火事を軌道の駅から見たと言った。駅が安全圏だったなら、氏によるとその向かいにあった「岩井座」も焼けずに済んだのだ。それで位置関係は整合するが、でもなぜ氏は、二年後に潰れたことを忘れたのだろう?
さて、残る問題は“湯かむり”の真相だが、これについてはその保存会長で、先代からの“岩井史研究”を受け継ぐ芝岡高司氏(66)の説をうけたまわるほかない。それによると、われわれが深読みしたような宗教的背景、超心理的効果といったものは否定された。発生は江戸時代と古く、目的はあくまで発汗と保温で、それに歌とリズムの娯楽的要素が加味された純粋に健康的トラディションだという。ただ現在その伝統を、積極的に継承しようとする若い人がいないこともまた実情である。
岩井の街に雨が降った。「晩夏のように乾いた」はずの、温泉街の空気が急に冷えていく。
「火事への強迫観念から、温泉街としては道幅を広げすぎましたな。バイパスが通るならその必要はなかったのに」
そう芝岡氏も述懐する道路が黒く濡れ、みるみる光りだす。
おかげで共同湯の温泉を、じっくり味わうことができた。“湯かむり”の風習はたとえ消えても、毎日朝六時からこんな風呂に入れる街の人は幸福だ。「宗教的背景」云々ではなく、この温泉を持っていること自体、ひとつの信仰を持つのに匹敵すると思う。そういえば小谷氏も、いつもこの風呂に入って、それから並びの酒屋で小びんのビールを一本飲むのが習わしだそうだ。
芝岡氏は道というものについてさらに、
「温泉客は『この角を曲がると……?』といった神秘性に旅先の面白さを求めるものです」
と説いた。われわれにとっての岩井は、「この人に訊けば……?」という神秘性に富んでいて、その道は細く、曲がりくねっていた。
取材を終えて東京に帰る日、もうどんな疑問も心の中で問題でなくなった目に、岩井の温泉街はまた埃っぽく乾いて見えた。
〔『私の青空』1991年7・8月号〕
3 森と水の民話
―山畑の案山子(かかし)、かく語りき
森と湖と川で描かれる、北海道網走(あばしり)郡津別(つべつ)町の夏。濃い緑が陽を照り返すビート畑には、ピンクやオレンジや黄色の服を着た案山子たちが佇む。カラフルなそのシャレ者たちは、シカを追うより絵か童話のモデルとしてそこに配置されたようだ。黙っていては退屈ではないのか? なかでも特別な一人が、いまにも知的な声で話し掛けてきそうに見える――。
もし、そこのお方! お急ぎでなけりゃ、ハハ、急ぐったって役目のある旅でもなさそうだ。ちょっとばかり、私の話でも聞いていかんかな? もちろん、面白いさ。だってあんたは、この森だの、そっちの川だの、山の湖だの、そう、つまりあんたたちの憧れの“自然”ってやつを満喫しに、遠いこの里までやって来たわけだ。そりゃ、そんなことは、必要以上に空気を吸い込んでるその顔と、最新のウェアで気張ったその格好を見れば一目瞭然。だからこそ、こうしてお誘い申し上げているわけでね。
まず第一にだ、この辺り一帯の自然とやらについて、山も川も森もあまねく詳細に、一手に一人で知り尽くしているのは誰だと思う? むろん、それぞれの専門家ってのはいるよ。でも、連中は商売柄それに詳しいだけだから、義務でもなく金にもならん方面には悲しいかな暗い。つまり、自然百般のオーソリティとは呼べんな。となると、最大限に詳しいのは、威張るつもりはないが、何を隠そう、誰あろう、この私だよ。
お疑いかな? 無理もない。日がな一日、こうやってビート畑の縁に突っ立ってるだけの私が、どうやって自然の森羅万象に通じられるか、という疑問だね。ハッハ。ま、素人にとって、都会人にとってそれが謎でなくて何だろう。お答えしよう! ほほう、大分近寄ってきたな。あ、その辺でけっこうだよ。あとあと話に感動して、いきなり抱きつかれでもしちゃ、私は弱いんでね。
さて、なにゆえ私が自然百般の事情に通じているのか!? 根本理由をまず申し上げると、それは私がほとんど世間の役立たずとして、無能者としてただここに居るだけの者だからさ。たしかに、保護政策の過剰効果で近年急激に増殖したエゾシカ、失礼、ついお役所言葉が口をつくが、そのシカたちからこの緑なすビート畑を守る、という大義名分はあるよ。あるけど、私のせいで彼らが大量餓死した、なんて例は断じてない。誓ってない。しかるに農場主は、まめに私の服を換えてくれるんだ。当然シカを驚かすためにさ。見てごらん、道の向こうの警察官の人形なんか、もう三年も土埃を被ったままだっていうのに。で、このニューモードは確かに最初の一、二週間は効果があるよ。だがあとは、ときどき好事家がカメラを向ける程度だね。その折だって、私はべつに微笑むわけでもないし、Vサインで応えるわけでもない。だからさ、私はほとんど完璧に無用の長物なんだ。つまりこの空の下この大地で、あらゆる利害関係というものを私は持っていないんだね。
するとどうなのか? ここが肝心なんだが、私が黙ってここに立ってさえいれば、日射しや風や雨はもちろん、獣も鳥も虫も植物も、生きとし生けるものすべてが私に話しかけ、山や川や森の噂を毎日吹き込んでいくんだよ。人間? ありゃあんた、あんたもそうだが、あれほど情報収集し易い生き物は地上にいないな。なぜなら彼らは例外なく、自我と自己顕示欲の固まりだもの。ま、じかに私に話しかける奴は少々自閉症気味だが、連中同士の噂、冗談、陰口、喧嘩、ディベイトから口説き文句まで、耳を澄ましてれば人間界に不明のことなんかないさ。むしろ私ほど、世事に通暁した者はこの里にいないかもしれんな。まあ超俗の高僧が、意外や巷の隅々までもご存じといったところでね。議員になったって立派なもんだが、ただ立候補しても得票は無理さ。それとも、もしあんたがここの有権者だったら、私に一票を入れるかい? アハハ。
さあこれで、いかに私が話を聞くに足る者かお分かりいただけただろう。何なりと訊いてもらって構わないが、まずどんなことから話そうかね。おっと、動かんでな、静かに……。いいかね、首だけ回して私の右後方一二メートルの林を見てごらん。シカがきてる。フキの茂みの上に二頭、顔を出してこっちをうかがってるだろう。あれは最近、昼間でもよく現われる若ジカたちなんだ。
そのまま、何気なく聞いとくれ。畑に出たシカは、猟期以外でもハンターに狙われる。彼らもそれを知ってるから、そりゃもうビクビクしてるんだ。しかし、私が言うのもなんだが、彼らがビートを食べる姿をあんたにも見せたいね。食べるのは葉ばかりじゃなく、足で土を掘ってイモも食う。ところが泥だらけだといやがって、また別のを掘る。ニンジンもそうやって、赤い根だけを食う。農夫も頭にくるわけだな。
ときに、シカが嵐を予知するってことを聞いたことがあるかね? ある日、ある間隔をおいて何組ものグループが、私の目の前を同じ方角に移動して行くんだよ。速度は一様で、その動き方ときたらまるで、約束の地を目指してるように一途だ。その行進が絶えたら、一両日中に必ず嵐がくる。
もっとも、そんな場合の私は別のソースから、すでに嵐のくることを知ってるんだ。それはだな、この里のすべての川を集める本流に、山の湖から流れ出た沢が合流する地点。そこから北へ三キロ入った山中の東斜面に、もう一二〇〇年は生きたミズナラがいる。“ミズナラ翁”って私たちは呼ぶんだが、学者の調べじゃ数度の山火事を生き抜いたって、まさに神木だよ。その翁と、ありがたくも私は交信できるんだ。そう、ここに立つ私に、重要な気象情報や動物たちの動向を教えてきてくれる。もちろん、退屈なときは四方山話だってしてくれるさ。
動物の予知能力に、えらく興味をもったようだな。この里では、そう、クマが地震を予知したことがあったよ。何年前だったか……いかん、年度は忘れちまったが、第一の支流の上流部、いまスキー場をこしらえてる辺りで騒がれたもんだ。その年はあろうことか、一月になってもクマが穴に入らんかった。しかも人から見られるような場所で、木に登ったり駆け降りたり、とてものこと、正気の沙汰じゃなかったってことだ。人間がいぶかっていると、大きな地震の来襲でね。あのクマの異常は、ありゃ地震だったんか! てなもんさ。
冬に備えて、クマが荒食いして脂肪を蓄えることは知っとるだろ。うん、彼らには実は今時分がいちばん食いもんのない季節でね。何を食ってると思う、いまのクマが。アリだよ、アリ。そう、あのアリを食ってるから、ハンターに言わせると、いまはクマ自体がいちばん旨くないときだそうだ。
あんたも腹が減ったなら、ここで弁当を使ってくれよ、むろん、私には構わずに。
美しい森に足を踏み入れると、そこに無数の生命がこだまし合う振動を感じる。それは調和し合う、おごそかで肯定的な振動だ。微かなその響きが毎日すべての生き物を目ざめさせ、その静止が眠らせているにちがいない。目ざめと眠りが無限に、すこやかに繰り返される森がいい森だ。津別のあるエゾマツの根方で眠る、シカの耳の震えがそれを伝えている。
腹はくちいかね。清水も冷たかっただろう? そりゃよかった。じゃ続きを始めるとして、あんた、ここへ来るまでにキツネに会わなかったかい。そう、キタキツネ、いまや全国的に知れ渡ったアイドル的存在の。もしかしたら、あんたがこの里を訪れた目的にも、あれに会いたい一心があったんじゃないのかな? ま、それはいいとして、実はいま彼らも気の毒なんだよ。
キツネってやつはね、以前はあんたら都会もんの目になんぞ、めったに触れる代物じゃなかったさ。それがここへきて、当人たちもあずかり知らないバカ人気。キタキツネおらずして北海道にあらずの風潮で、ハンターからはお目こぼしされるわ、観光客からは餌をもらうわ。おかげで連中、すっかり世界観を失ってしまったんだな。
この間も心ある一頭が私のとこへ来て、代々口伝された生き方が実人生に適わないって悩んどるんだ。これじゃあ俊敏な足も闇を見る目も神秘の鼻も、みんな宝の持ち腐れだってね。そうなればそうなるで、安易な状況に甘んじる輩も少なからず出てくる。その挙げ句が、里の犬に殺られたり車に轢かれたりモグラの罠にかかったり、ご先祖が最も戒めた死に恥をさらすはめになる。
ま、というようなわけだからさ、仮りにあんたにキタキツネ見たさの一念があったにせよだ、それそこに、首からぶら下がってるバードウォッチングの双眼鏡ででも見る気持ちでさ、餌なんか投げずに、彼らを更生させると思って、頼むよ、ひとつ。
その双眼鏡を使ってくれと頼んだ立場上、クマゲラがどんな場所に行けば発見できるか、お教えしようかね。あの鳥はたしか、あんたたちバードウォッチャーっていうのかな、その同好の士の間では、見たの見ないのって大変なVIPだそうじゃないか。
クマゲラに関してはだ、めったに見られないからって、山岳レンジャーみたいな気で道なき深山に潜入しても無駄。あれは意外に近場の、それも周囲一〇メートルくらいの木立のない、見晴らしの利く高い木に営巣するんだよ。
あんたは写真も撮るのかい? それなら言っとくけど、向こうにとって見晴らしがいいってことは、こっちからも見え易いってことでもある。それは好都合だけれど、近寄ればすぐ発見されて、親は怒って巣の周りを飛び回るはずだ。この事態を気長に、あちら様が安心感を抱くまで、一時間でも二時間でも待たせていただく謙虚さがないと、いい写真は撮れないよ。
いい写真っていえば、あの山の上の湖でもって、永年アカエリカイツブリの滑走を狙ってきた人がいた。アカエリカイツブリは知ってるかね? 名前のとおり首のぐるりが赤い水鳥なんだ。で、その滑走ってのはもちろん私も見たことはないが、なんでも繁殖期につがいの二羽が、湖面に直立して羽ばたきながら、ペアのスケーターみたいに旋回するんだそうだよ。話に聞くだけでも見事な情景じゃないか。だがね、あんたが意気込んでも、もうだめなんだよ。その肝心の滑走ってのがだね、いまではモーターボートのそれに変わっちまったんだ。
ときに、バードウォッチャーとしては、カラスになんか興味はないだろうね? そうだろうな。あんたに限らず、あれほど人に好かれない鳥もいないものな。ほとんど鳥でさえないくらいだ。しかし、あいつはズバ抜けて頭のいいやつでね、私とはよく政治談義なんかするんだが、そのカラスが皮肉っぽく言うんだよ。この地球上で、最後まで生き残る生物は自分たちだろうって。
なんとなれば、彼らの最尖鋭部隊は砂漠化した荒野に棲み、B級部隊は大都市のコンクリートジャングルに暮らし、いわば銃後のわれわれ田舎カラスでもカラマツ林で生活しているからだとさ。砂漠と大都市はともかく、その引き合いになぜカラマツ林なのか、あんたにはお分かりかな? うん、バードウォッチャーなら知っとくべきだと思うからレクチャーして進ぜるが、カラマツは落葉しても腐敗土を生まない。するとその林にはミミズ一匹わかず、下草が豊かに茂ることもなく、保水能力にも欠ける。ってことはどんなに緑に萌えていようと、鳥たちの採餌場として、カラマツ林は無価値ってことなんだ。
なぜカラスがそこに棲めるかといったら、それは彼らが雑食で、虫や木の実に頼る必要がないからさ。だから彼らとて、そこをねぐらに使っているに過ぎんのだけどね。
では、鳥たちにとってどんな環境が理想的かといったら、それはもう針葉樹と広葉樹が混ざり合った混交林さ。エゾマツがあり、トドマツがあり、ミズナラがあり、そういう大きな木の下に中くらいの木も小さい木もあって、さらに下草も生えている。そういう森はね、鳥たちにとって素晴らしいばかりじゃない。あらゆる動物や虫たちにとっても棲み心地がよく、かつ森自体もいちばん活力を発揮できる理想の姿だ。活力のある森っていうのは、それだけ二酸化炭素を多く吸収し、吐き出す酸素の量も多いってことだよ。そして森は、自然にその形へと向かっていくものなんだ。
人間の生涯じゃそのほんの一部しか見えんほど、永い時間をかけて森は循環していく。年取って、とうに成長の限界に達していた木がある日倒れる。それで日光の配分が増え、次の世代の木が育っていく。あんたが見る森は、いつだってその循環の途上にあるんだ。
そこで面白い事実を教えよう。この辺の地層は、ほんの浅い地下が岩盤になっている場所が多い。実はあの山の湖の周辺もそうだ。木の根は岩盤につかえたまま、地上の部分だけが成長していく。そのため、風倒木の樹齢を調べるとどれも一〇〇年から一二〇年なんだ。そりゃ、木としては若いよ。
だがね、ほんとにあんたに言いたいのは、その倒れた木のどれ一本として、自分の生涯を無念になぞ思ってないってことさ。ミズナラ翁もそう言ってたけど、木とはそういうもんなんだそうだ。自分は倒れて土に還り、次代の養分になる、それを繰り返しながら、森は森としての理想型を保っていく。
翁はね、一二〇〇年も生きてまだ倒れずにいる自分を、せめて生きながら仲間の役に立てようと、天の動きを報せてるんだよ。
人が空気を感じるより、はるかに敏感に、繊細に、厳格に、魚は水を感じている。彼らの水への執着と貪婪は、その流れがより細く、より冷たくなるのに比例して崇高さを増すのだ。津別のイユタニ川ではヤマベが、ホロカアバシリ川ではオショロコマが、いつでも川の運命に殉じる覚悟を秘めている。その流れはいま冷たく、透明であるのにもかかわらず!
山の上のあの湖へ、まだ行ってないのかね。地図を出してごらん。そのときは、ジープ仕立ての車かなんかだろ。じゃあ、この北側から入る道を行くといい。遠回りだが、この辺りの森こそ、いま話したような見事な森なんだ。待望のキツネか、シカにだってきっとお目にかかれるだろうさ。ただし、川の本流を挟んでこっち側とは、完全にテリトリーを異にするグループだがね。それじゃ、湖の話をしておくとするか。
イトウ? イトウがいるかって、やっと積極的に質問したと思ったら、あんた釣りもやるのかね。ま、そうだろうな。その格好からすると、フライフィッシャーマンってやつだ。イトウは、おらん。少なくとも、近年その姿を見かけたという話は、人からも鳥からもクマからも聞いていない。だが湖の底深く、酸素に富んだ冷水の湧き出す暗闇に、もう何十年も身を潜めている一匹がいるとしても、それは私は知らないよ。で、この湖にそういう箇所があるのかといえば、別の調査で確認されている。しかし、この話はあとにしよう。魚の話題は、どうやらあんたの理性に障りそうだからな。
そもそもこの湖は、その形から堰止め湖、誕生したのが一億数千万年前といわれるが、どっちも推定さ。退屈そうな顔するなよ。湖岸の森だって一級品だぞ。もちろん針広混交林ってやつだ。エゾ、トド、ヤチダモ、それに混じる広葉樹はハンノキ、ハルニレ。細い一〇本の沢が流入して一本から流出するんだが、そういう沢筋では広葉樹が優勢になるな。オヒョウやカラマツなんかだがね。水性植物としては……わかった、わかった、煙草の煙を吹きかけんでくれ、この服はまだ換えてもらったばかりなんだから! いいよ、魚にまつわる話をしてやるよ。
ビート畑を守って動くこともないこの私に、湖の魚の話をさせる自分の僥倖を、よく噛みしめて聞いてくれよ。ひとまずイトウはおいといて、この辺ではヒメマスのことをチップと呼ぶ。実はそのチップの原産湖なんだよ、この湖は。土地の人間さえ今ではそれを伝説のように言うが、一九四二年に支笏(しこつ)湖からの移殖が行なわれるまで、その原形が保たれていたことは確かだ。
釣り人のあんたはご案内だろうが、ヒメマスは表層の水温が高くなる季節には深層へ移動するだろ。そのとき深層に酸素の少ない湖では、彼らは生きていけない道理だ。放流に失敗する例は、まずこれが原因さ。ところがこの湖も、最深部の二一メートル地点では無酸素。ほぼ平坦で泥底の、どっちかっていうと富栄養湖なんだよ。だとすると、あんたはこの謎をどう考えるかね?
そこで学者の調査によるとだな、最深層のある場所から、周辺よりも温度の高い、酸素に富む、そして泥を含まない水を採取してるんだよ。これはもう、湧き水に間違いないさ。つまり学者は、これがこの湖でヒメマスが再生産されてきた理由、と考えてるわけだが、フフフ、そのヒメマスの溜り場を、絶好の餌場であり唯一の棲み家とする、より巨大な魚がいたとしても不思議はなかろう? 私に掴まるなってば!
事実、イトウはいたんだよ。それもたくさんな。でも、いつから見なくなったかの記録はない。冷静か? じゃ、この湖の魚類全般について言っとくよ。在来種としてはエゾウグイ、ヒメマス、イトウで均衡していたんだ。それが戦前から戦後にかけて、ワカサギ、コイ、ニジマスが放流された。その結果現在では、エゾウグイ、コイ、ニジマスが優位を占めてる。ワカサギとヒメマスもいるにはいるが、イトウについてはまあ、ネッシーのような存在としとこう。
あ、えらいことを忘れてたぞ! たぶん明治時代のことだと思うが、この湖に主とも呼ばれた二メートルものイトウがいたそうだ。そのイトウと、ミズナラ翁は交信したことがあったらしい。だがそれは、たった一回で終わってしまったんだ。どうにも、共通の話題が見つからなかったってことだよ。つまり翁は水中の様子を訊きたいんだが、それは当のイトウにも暗いばかりで見えるものがない。で、イトウが発信してくることといえば、食べ物の質問ばかりで答えようがなかったそうだ。これには笑ったよ。
この辺りの地層の特徴である岩盤は、川床のいたるところで露出してるんだ。まるで滑り台を歩くみたいに、川の中を歩ける場所が珍しくない。でも未熟な釣り人ほど、そこを歩いて通り過ぎてしまう。注意すれば、岩盤には穴や裂け目がいくらでも開いてるんだ。そしてそこには必ず魚がいる。
いわば川のトーチカのようなものだが、とくにニジマスの大物は、そんな隠れ家を好むらしい。あんなに大きくなる彼らが、なぜそんな陰気で狭い場所に籠もりがちなのかといえば、それは結局彼らが外来種だからだと私は思うね。適応力の強い彼らは、反面どこの川でもエトランゼなんだよ。
イワナやアメマスの大きなのは、倒木の下が周囲よりも深くなってればそこにいる。だいたいこの里の川はフラットな流れだから、一見魚の付き場が少なそうに見えるが、逆にちょっとでも水深のある箇所がそれなんだよ。
ところであんた、ここにはサクラマスもサケも登るってことは聞いてきたね? 実はそれについて、あんたに見せたくないような、反対に私の代わりとしてぜひ見届けてきてほしいような話があるんだよ。本流のずっと上流に、サケ・マスの孵化場がある。ここから放流された稚魚が、三年サイクルで毎年秋に帰ってくるのはいいんだが、魚のなかにも特別に律儀なやつがいるんだな。故郷の川に辿り着いたんだから、そこで満足して産卵すればいいものを、さらに孵化場のプールにまでさかのぼろうとするのがいる。そこは産屋だけど、川じゃないんだ。そういう連中は、排水口のパイプに詰まって最期となる。生き物が生きようとする力はみんなすごいけど、この愚直さについては、私も魚とだけは直接話したことがないもんでね。
ここの川では、もう釣りはしたのかい? イワナかアメマスなら本流の、廃線になった鉄道の駅舎周辺。ニジマスなら、第一の支流のダムから上流がいいだろう。釣りなぞしたこともない私が、釣り人のあんたに講釈するなんて妙な話だが、なあに、しょせん私が今日話したことはすべて耳学問さ。でも、久し振りに思う存分喋れて嬉しかったよ。あんただって、まさかここで案山子の話を聞くとは思いもよらなかっただろう、そろそろ釣りにいい時間だ。
で、気が向いたらまた、いつでもこの里においで。そのときどんな服を着てるか分からんから、私のほうで声を掛けるよ。
〔『私の青空』1991年9・10月号〕
4 笑う隼人(はやと)たち
薩摩半島の南部を旅する者が、思わず「ここは異国だ」と独りごちするとしたら、それは東シナ海の方角に日が沈む前の三〇分間のことだろう。その場所が凪いだ磯辺であれ、丘陵の茶畑であれ、また漁村の裏道であれ、この時刻の南薩の暮色は服を染めそうに濃い。
トロリと酔う茜(あかね)色である。その色の醸造酒の底を、車が走り人が歩くようにみえる。生まれてこの方、毎夕この酔いを味わって生きてきた人たちは、きっと独特なメンタリティの持ち主にちがいない、と想像してしまう。たとえば幸福を感じる心の間口が広く、反対に多少の不運を不幸などとは考えない、といった野太い精神性を思う。
作家の司馬遼太郎氏はある随筆で、薩摩や大隅の人々には現在なお、本州の日本人とは「人種が違う」感触を抱く旨を書いておられた。それは日本人の渡来ルートを検証する文章だったが、ここではその“感触”に注目したい。もしそれが野太い陽気さから発するものなら、南薩の風土に生きる人々から直接それを感じたい。幸福の基準が画一的で狭く、不運に敏感な都市生活者にとって、その精神性は憧れだからだ。
たまさか観るTVの旅番組や雑誌の写真でも、薩摩の風光には異国的な豊潤を感じる。多量の雨を享受した広葉樹が、いつもぶ厚く色濃く、景色に生命力を与えている。そのヴィジュアルはたいがい晴天の下に展開しているが、この地方が日本で最も多くの台風を経てきたことは周知の事実だ。おおらかな山河に潜む力強さは、そうやって太古から蓄えられてきたにちがいない。
その泰然たる調和を薩摩の自然の特徴とするなら、それが凝縮されたような庭園が川辺(かわなべ)郡知覧(ちらん)町に残っている。旅人の目には優れて薩摩的に映るが、それはすなわち“異風の庭”ということでもある。一般に知られる京や江戸の庭園では、素人目にも木々はその配役に観念し安住した様子だ。ところがこの知覧の武家屋敷の庭の木は、どれもが与えられた意匠の内に精力を充満させ、ムクムクと盛り上がり、翌日はさらに密生の度を深めそうにみえる。枯山水(かれさんすい)であっても侘びた風情というより、一種“仙境の楽園”の趣。つまり南国的でどこかエキゾティックなのである。
「第一八代の知覧領主、島津久峯公という方が趣味人でしてね。本藩の殿様の参勤交代に随行した帰路、家来ともども京都の庭園を観て感激し、その影響で国許にこういう庭を造らせたらしいです。その庭師も京都から同道したと伝えられてきましたが、庭園の研究をされてる鹿児島大学の西田先生によるとどうもそうじゃない。町の説明では沖縄の要素も指摘されとりますが、沖縄とも本質的にちがっている。むしろ、中国の庭園に近いそうですよ」
現在、知覧では七軒の武家屋敷の庭が公開されているが、そのスポークスマンを引き受けているのが保存会副会長の佐多直忠さん(76)である。氏が以下に語ることはまだ推論で、現在町発行の冊子や看板には載っていない。だが、われわれが素朴に感じる異国情緒を裏付ける説であり、ロマンである。
「島津藩では薩摩、大隅、日向で計一一三の外城(とじょう)というものを設け、自治させました。知覧は本藩の四代目からそのひとつとして任され、自給自足の生活をしてきたわけです。この武家小路割りをし、各屋敷を塁として配したのがさっきの久峯公で約二四〇年前。公は島津家二二代目継豊の三男でしたが、ここの七軒の祿高はどこも八〜六〇石ですから、その財力で揃ってこれだけの庭は造れないはずなんです。
ときに薩摩藩は密貿易をしてましたね。そこで西田先生の説ですが、その密貿易船に清国の庭師が乗っていた。その船が遭難してこの南辺りに漂着し、帰りの船賃を稼ぐために知覧にやってきた。で、格安の値段でこの造園を請け負ったのではないか、ということです。その説を聞いて、私らもなるほどそうかなと考えるようになりました。沖縄に似ているというのも、中国の要素を介してそう感じるのでしょう」
以上の説を裏付ける文献はない。したがって推論のわけだが、そもそも二百数十年も庭を守ってきた奇特な町に、その子細が記録されていないのがフシギだ。だが事実が右の通りなら、庭園に“異風”を感じる旅行者にも得心がいき、かつ空想を膨らませる話である。
たとえば七庭園の過半は、町北方の母ヶ岳を借景とし、隆々たるイヌマキの刈り込みがそれに連なる山々を表現する。その連山はやがて、断崖のように高い庭の石組となって終わる。縁側からこの意匠を眺めるとき、湖南省辺りの山容を描いた水墨画を想像するのは自然だ。さらに想像を進めて、日本的な庭の白砂を湖水に置き換えれば、庭師の望郷はいっそう明瞭になるだろう。またその湖面を水田と思えば、庭師よりも遥かな昔、わが国にもたらされた稲の故郷の光景が現出する。
佐多邸の裏手も自営の茶畑だったが、この辺りの丘陵には茶の木の畝が無数の波状をなす。鹿児島県の茶の生産量は静岡県に次ぎ全国第二位だそうで、その主産地がこの知覧。産品は知覧茶として広く県外にも知られている。
ひときわ高い場所から見下ろす茶の丘のうねりは壮観だが、その視界の限りは炎暑も雨も避ける術がないことがわかる。茶の海原の中央を枕崎市へ向かう県道が貫いていて、ふと気がつくと、その道の左右では茶畑の景観がちがっている。道の西側のより高い斜面には、各区画ごとに風車付きの電柱のようなものが規則正しく立つ。だが道の東側の、低くフラットな面にはそれが一本もない。まずあの風車はいったい何のためで、同じ茶畑の片側にだけ林立しているのはなぜか。
「霜除けだよ。茶に霜は禁物だからね、あのファンで空気を掻き回して、霜が降りないようにするの。冬場いっせいにあれを回すと、とても寝てられないような音だよ。あれ一本を回すのに、ひと冬三〇万からの経費がかかるな」
風でカラカラ回っていたから、風車だと思ったこっちの考えが素朴すぎた。それは電動の扇風機で、道の反対側に一本もないのは、そちらはスプリンクラーが処理するからだ。しかもその水は、およそ二〇キロは離れた池田湖から引いているという。さすがいいお茶には、かかるコストもそれだけ高い。
やや誇らし気に代わる代わる教えてくれたのは、お揃いのように麦わら帽子を被った二人のお爺さんだ。休息中なのか並んで道端に腰を下ろしていたが、質問を終えたわれわれが車に戻って発進してからも、平坦な茶畑の彼方にずっとそのままの姿勢でいた。
笠沙(かささ)町は、薩摩半島が東シナ海に突き出た西南端の岬の町である。岬を野間半島といい、それが町の全部だ。半島のほとんどは山地が占め、小さな浦々が分断された集落を形成している。
その中心的漁港は、半島北側の入江をそっくり利用した野間池港。ここを本拠にする漁師の一人に、高橋治氏の小説『薩摩ずべい釣り』のモデルになった素潜りの森猛さん(59)がいる。その小説を町民すべてが読んだからではなく、浦々に彼の名と技を知らない人はいない。現役にして伝説の人物だ。
「“ずべい”って、こっちの方言で潜ることをそう言いおった。“潜りにいこう”とは言わない。“ずべいこうかい”と言うんです。一本釣り用の鈎を使いましてね、潜っていってそれを魚の口の中に入れて引っ掛けるんです」
鈎は二メートルほどの竿の先端にセットされるが、ここまでは森さんのお父さんが工夫していた。だが森さんは竿を伸縮の利くものにし、さらに魚を掛けたあと鈎が竿から外れるようにした。ここが画期的なのだが、鈎は紐で森さんの手に直結し、暴れる魚を傷つけずに水面まで導くことができるのだ。
「傷つけると、値が半分の安さになっちゃうからね。これを考えたのは三〇歳くらいかな。そりゃ、ただ突くのなら百発百中ですよ。魚は習性でね、こっちが追えば逃げる、止まればジッと見ているし、身を隠せばぼくを見にくるんです。で、自分で穴に入った魚というのは、口を開いてないんですよ。ぼくが追って入ったのは、やはり呼吸が激しくて口を開けているから、鈎を掛けやすい。それを利用したのがこの漁法なんですが、ぼくから見ると後ろ向きや斜め横を向いてるヤツが掛けやすくて、真っすぐこっち向いてるヤツは、これがいちばん掛けにくいです」
突くにしろ掛けるにしろ、ともかく素潜りでする仕事だ。まず人並み外れた肺活量を前提に、漁場と魚の習性を熟知し、高度な捕獲技術を習得する必要があるだろう。つまり漁師なら誰でもできるという仕事ではなく、この野間池でも森さんの独壇場なのだ。また、いくら沿岸資源に恵まれた野間池でも、何十人もの漁師がこの漁法に依って暮らしを立てるわけにはいくまい。
漁業がどんどん組織化、機械化されていく傾向にあって、森さんが独創した漁法は基本的に個人技であり、時代に即さないともいえる。森さんも若い人に教えることは厭わないが、問題は漁としての経済効率だ。現在は森さん自身、離島まで一本釣りに出たり、ヒラメやカンパチの海底養殖も試みている。だが、この人の発想は根っから一匹狼的であり、することは自分で面白いと思えることに限られるようだ。
「そりゃ、楽しいのは潜るほうですよ。それこそ、魚と戯れて遊ぶような感じだからね。潜ってジッとしてれば、魚は寄ってきてぼくを中心に旋回しはじめるんです。体に付くのがカンパチ、ブリ、ヒラマサの仲間。これらはゆっくり回るから、たやすく急所を狙えますね。最初は手で触れるくらいのところを泳ぐんですが、二、三匹突くとさすがに遠くを泳ぐようになるんです。小さい魚の群れを寄せているとき、サメとか大きなのが来るとすぐわかりますよ。群れがパーッと散りますからね。その小さな魚が逃げるときの、いっせいに発するヒレの音はものすごいな」
“人間は遊ぶ動物である”という、ホイジンガだったかの言葉を想い出す。この森さんという素潜りの名人においては、うらやましくも仕事と遊びを区別することはできないように思える。
「そうなあ、もう昔からこの辺は自分の生け簀だと思っとったからな。とにかく自由なんです。また生まれ変わっても、そりゃ潜るだろうなあ」
野間池とは岬の反対側の山間に、黒瀬という静かな集落がある。ここは昔から“杜氏の里”として知られ、県内はもちろん九州一円から中国、四国まで、焼酎の杜氏はこの黒瀬の人と決まっていた。だがフシギなことに、当の笠沙町自体には蔵元がない。そして黒瀬の男衆は、まだ若ければ蔵子として、年季を積めば杜氏として、秋から春の半年間は各地の蔵へ焼酎造りに出向く。もう七〇年来、それは黒瀬の男にとって考えるまでもない生き方だった。
「自分が蔵子で行ったのが一七歳。途中兵隊に行って、杜氏は二九歳からですね。今はそんなことないが、昔の杜氏はその蔵の主人より上やったもんな。蔵子は絶対服従やったし」
黒瀬の人の特徴なのかどうか、片平国良さん(73)の律儀な態度は、さぞ厳格な杜氏さんだったろう昔を偲ばせる。
「いまの若い衆はもう、焼酎屋の蔵子になろうかちゅう人はまったく」
昨年まで現役杜氏だった久保正志さん(67)は、作業工程のコンピュータ化が特殊技術の領域を侵し、杜氏の権威は相対的に軽くなったと指摘する。
「糀造り、一次酒母、イモを仕込んで二次酒母、蒸留と、工程そのものは同じです。ただ、その全部を現在は機械が管理します。まあ早く言ったら、機械を覚えたら誰でも造れるっちゅう」
「大仕込みで量産する目的ですから、味はやはり、手造りとは変わるですね」
鹿児島県の焼酎は明治時代に産業化し、以来百社を超えた蔵元は原則として地元消費の上に成り立ってきた。各地域でシェアは安定し、生産量も手造りでまかなえる範囲だった。つまり競合のない産業を相手に、黒瀬では特殊技術を伝承し、供給してきたのだ。
だが数年前の焼酎ブームが、この七〇年来の平和な構造を破壊した。にわかに大都市マーケットが開かれ、その対応にコンピュータ管理の量産システムが敷かれた。生産合理化のためメーカーの統合が進み、蔵数は減った。杜氏の経験と勘が左右する部分も当然減り、その結果各蔵の製品の個性も均一化した。そしてブームが去った今、需要は鎮静してシステムだけが残った。あの焼酎ブームは、この杜氏の里にデメリットだけをもたらしたのだった。
しかし片平さんも久保さんも、今は退役軍人の立場。現役時代の苦労も誇りも、穏やかな表情の陰に隠れている。
「黒瀬の男は半年家を空けますけどね、嫁さんも承知の上で来てるし、九月になると『あんたとこ、旦那はまだ出ていかんのか』とかゆうて、うるさい男が出ていくのを楽しみにしとるの」
飲む銘柄にはこだわるのだろうか?
「いえ、私は焼酎は嫌いなんですけど、向こうのほうが私を好いてましてね、私はもう、何でもやりますね」
カツオ漁業の基地として、初ガツオが最初に上がる港として、魚好きなら枕崎の名はご記憶だろう。ここはまたカツオ節の産地でもあるが、節というもののあの艶と形が、“節削り”という微妙な工程を経て生まれることはご存じだろうか。乾燥後の節から表面の脂肪やタール分を除き、同時に形を整える作業だ。現在ではまずサンドペーパーを回す機械で削るが、極上品に限り数少ない職人の手作業にかかる。
「包丁の跡が出ないように、艶があって自分の顔が映るようじゃなくちゃいけません。でも、私らが見ないとね」
要するに、素人にはわからないのである。田中兼義さん(79)は一五歳から節を削りつづけた。カツオの北上を追って宮崎、焼津、石巻でも削ったが、戦前にはそれぞれの土地の節の“型”があったという。薩摩型における松、竹、梅などを説明されたが、残念ながらよくわからなかった。それを知る職人は枕崎にももう二、三人と田中さんは言うが、中釜豊次さん(72)もその一人だ。
「なぜこの品物を手で削るかというと、カビを付けずにこのまま売るんですよ、“裸節”でね。そのとき、機械じゃ艶が出ないんです。で、止むなくこうやって手で削っとるわけなんですよ」
そして中釜さんもまた、これができるのは枕崎にもう二、三人と言った。
明治二十八年七月二十四日、この枕崎を史上最悪の海難事故が襲った。帆船時代ではあったが、六十隻のカツオ船の半数が遭難し、未亡人は巷に溢れた。この惨事は“黒島流れ”と呼ばれ今に語り継がれるが、枕崎発祥の婦人のカツオ節行商はこれが契機だった。
「あたしは戦前、十八かの娘時代からやりましたよ。節をかいた皮と秤を桶に入れて頭に載せて、五里も八里も歩いて。その時代はコイも知らんにゃ、フナも知らんなかったよっち。終戦後はね、北九州は大牟田、有田、長崎、こっちは延岡の先まで一人で回った」
現在は自宅で通信販売をする山神フミさん(82)は六〇年のキャリアをもち、お母さんもお婆さんも節売りをした。“黒島流れ”で九九人という最多の死者を出した、小湊在の出身である。フミさんに節売りのすべてを伝授したお母さんは、百四歳まで元気だった。
「一回行くと一週間くらい。最初に内之浦に行ったときはバスの人に、『あたしを内之浦の真ん中で降ろして』ちゅうて、まず『今晩どっか泊まらすとこはなかとかいなぁ』、『あたし家(げ)でよかれば泊まらすっど』ちゅうたらもうすぐ、そこが宿屋になっていくのよ。次はそこ宛で節を二〇〇キロくらい送って、乳母車で一日三〇キロくらい捌(は)かした。もう何十年も、そこへ行けばね、『あらあ、お母さんが帰ってきたごつじゃ』ちゅ、ゆうてくれてね。もう節売りに出れば、楽しくて帰りたくない。また帰ってくれば、こっちが良くて行きたくない。そんなんしてなあ、あたしの人生はもう本当になあ、面白かったあ」
恋愛結婚したご主人を戦争で失ったフミさんに、再婚の可能性はなかったのかを訊いた。金持ちの男ならともかく、金のない男といっしょに苦労するくらいなら一人がいいとの答えだった。
枕崎市と笠沙町の間、同じ海に面して坊津(ぼうのつ)町はある。町内には東から西へ坊(ぼう)、泊(とまり)、久志(くし)、秋目(あきめ)の四つの浦が並び、全海岸線で山が海まで迫っている。その中腹の県道を走ると、浦ごとに入江を縁どるような家並みが見下ろせる。今も密貿易の屋敷が残るのが坊浦。鑑真和上の上陸地で有名なのが秋目浦だ。
小さな漁港はそれぞれにあるのだが、坊と泊は漁協がいっしょらしく、そこではちょうどブリの飼い付け漁が始まっていた。飼い付け漁とは、“瀬”と呼ばれる魚の付き場に餌をまき、回游してくるブリが毎年そこに留まるように習慣づけておく。そして予期した群れが訪れたとなると、「それ!」とばかりに出漁して一本釣りで釣り上げる。二隻の船に十数人の釣り手が乗り、多い日には四、五時間で千匹も釣る。そのブリ漁船に乗せてもらった。われわれの宿のオバサンは、「帰りに一本貰ってきなさいよ!」と気軽に言ったが、東京でのブリの値段を思うと大胆な願いであるような気がする。
四時起きか五時起きかと覚悟したが、出航は一〇時と意外にノンビリしたものだ。漁船員も宿のオバサンも、ともにわれわれの船酔いを嬉しそうに心配してくれた。目指すその“瀬”はさして沖ではなく、ものの二〇分ほどで到着して準備も完了する。だが、釣りはなかなか開始されない。乗組員は代わる代わる魚群探知機を覗くが、その水深三〇メートルの層が真っ赤にならないと漁は始めないのだそうだ。それがいつなのかは、誰にもわからない。船が停止して波に揺られていると、インプットされた船酔いの恐怖が海底からもり上がってくるようでもあるが……。
一一時過ぎ、寄り添う二隻の船上が同時に色めき立つ。魚探が真っ赤だ。鈎というよりフックと呼ぶべきものにサバの切り身を付け、その上部にイワシのミンチを詰めた袋を装備した仕掛けだ。それが人数分、船側から藍色の水面にドボンドボン投げ込まれる。
どう当たりがあり、どう合わせるのかはわからない。今は顔付きも変わった男たちが、七、八〇センチの太ったブリを前後して抜き上げ、甲板で押さえ込みにかかる。だが、その波は十分ほどで引いてしまった。漁獲高数匹か?
「あかんな、ブリゃいのなった。けど午(ひる)一時ごろにゃ、もういっぺん魚探ば真っ赤になろう。メシにしよか!」
わが船長さんは鷹揚である。見れば顔付きもあの、乗船前に船酔いを心配してくれたときのそれに戻っている。もしサラリーマンの営業課長が、顧客を逃したらこうはいくまい。まず部下の誰彼をトガめ、ナジり、ソシるにちがいない。この場合だと、われわれは海に放り込まれたかもしれない。
だがブリの心は誰も左右できない、という天然の摂理を船長はわきまえている。かくて今釣ったそのブリを刺し身にし、素晴らしく美味しい早お昼となった。船酔いなぞ、誰もしていない。
そして自然は、その心に添って生きる者には恵みをもたらすらしい。なんと船長の予言通り、一時前に魚探はさっきより一層真っ赤になり、今度は帰港時間ギリギリまで釣れつづけた。もっと釣れたかもしれないが、その日の競りに間に合うリミットがあるのだ。
驚いたのは、さっきまで眼を血走らせてブリと闘っていた男たちが、今は閉店前のコックが調理場を磨くように、甲板を磨いていることだ。船がすっかり出漁時の清潔さになったとき、ちょうど今朝の埠頭に戻ってきた。今日の漁は彼らにしては少なかったらしいが、船を迎えた港はやはり華やいでみえる。水揚げとその仕分けがまた忙しいのだ。
そしてわれわれは、本当に一本のブリを貰った。「下さい」とは言わないのに、スッと用意されたのだ。驚き、喜び、恐縮していると、もう一隻が遅れて帰ってきて、その一人がわれわれを指さしながら埠頭の人にどなった。
「おーい、あん人たちに一匹やれー!」
坊津町坊浦の港の波打ち際からすぐに、“クラブ坊”とでも呼びたい会員制ふうのサロンがある。トタン屋根を張って粗大ゴミっぽいソファとテーブルを置いた東屋みたいなものだが、われわれがそこを通りかかった夕刻、おりしも催されていた宴は楽しくも美味しそうだった。座の中央には葉ガツオとシイラとミズイカの刺し身が並び、たぶん今日それらを獲ったのだろうオジサンたちが焼酎を飲んで笑っていた。
都会のどんなスノッブなバーより、このサロンに混ざりたいと男なら思うだろう。だが、ここは想像するほどクローズされた場ではなく、参加資格にシビアでもないのだ。何気なく歩み寄り、目が合った人にニコッとして「お楽しみですね!」とか言えばいい。それで空いた席に招かれ、コップを持たされ、トクトクと焼酎を注がれる。
「ああ、男の一日とはこうやって終わるのが本来なんだ」といった感慨に浸りそうになるが、すぐ目の前では何隻かの船が夜釣りに出る準備をしている。このサロンのメンバーは、いったい今どんな状況にあるのかと思い、いちばん赤い顔をしたオジサンに訊いてみる。
「相撲中継終わらにゃ、誰も出てこんよ。ここで一杯やって、それからイカ釣りだ。晩酌? 晩酌は、また別よ」
この人はこれから働くのである。では、この座の中心人物らしい、われわれを招いてくれたあの人はどうか?
「今夜はホラ、『水戸黄門』あるだろ。あんな面白いもんのある晩に、なんでこの俺が漁になんぞ行けるか!」
シイラの刺し身なるものを初めていただき、焼酎のコップをまた満たされる。坊津はいい町だ、と心から思う。
人家の壁という壁が赤くなってきた。もう間もなく、先発したイカ釣り船の集魚燈が点るだろう。それなのにこれから出漁するはずのオジサンが、「この俺の船の前で写真撮ってくれ」と言ってポーズした。
〔『私の青空』1991年11・12月号〕
5 鮭の風土記
―古来、私たちが最も愛した【神の魚】を訪ねて。
知床(しれとこ)のサケ・マス漁には、現在でも“番屋”というものが存在し、その漁業システムの根底を支えている。これは地図を見ていただくとすぐ解ることだが、知床半島の半分から先には今もって道路がない。そこで漁師たちは各グループごとの番屋に駐屯し、その漁場ごとに定置網を張るやり方が定着したのだ。
漁期は四、五月から十一月末まで。冬期は休漁だが、かつては小屋番が独り越冬し、施設や漁具を守ったという。現在では、ほんの猫の額ほどの浜にも船は通う。だが陸上の道はなお一般には通行規制され、冬場では完全に途絶する。夏の観光地としてではなく、知床をサケ・マス漁の現場として見れば、日本にもまだこういう漁業があったのか、と誰しも思うだろう。
だからそれだけに、十数人の男たちが起居し、北の海と対峙しつづける番屋とはどんなところか、一種の憧れとともに興味が湧く。そこは意外に和やかな雰囲気に満ちたところか、それともやはり重い緊張に支配されているのか? たとえば運動部や企業の合宿なぞを覗く気はないが、この原始以来のひとつ仕事を目的とした男たちの、虚構性のない空間に触れてみたい。
秋のサケ漁が盛んになり、カラフトマスも溯上を始めるころには、知床から観光客の姿は消えていく。われわれはまず、二つの役所で道路の通行許可を得ることから始めた。斜里(しゃり)町からの道沿いの海は、すでに冷たそうに曇った色だ。宇登呂(うとろ)の町までやってくると、あらゆる観光施設がもう用済みになったような淋しさを湛えている。だが、ここまでこう簡単にドライヴできるようになったのも、そう遠い昔のことではないらしい。
斜里町発行の、「斜里町産業発達史」という冊子があり、そこには大正期と昭和二十七年の宇登呂の写真が出ている。大正期のここには数えられるほどの番屋と、いかにも手造りといった木の桟橋があるだけだ。家数が増えている戦後でさえ、樺太引揚者の漁民たちの主な苦労は、港湾建設と道路整備だった。それから思うと大きなホテルまである現在は驚異的で、この宇登呂で時代の波に不変だったのは岬の先端の岩山だけか、と思う。
だが、番屋を訪ねるのにここは出発点である。通行許可を必要としたのも、ここ以遠の道道と林道に対してだ。舗装路は途中の大橋までだが、そこまででも見慣れた山岳道路とは充分にちがう。それは行き交う車がまずないこと、そして周囲の山景が猛々しく、深い谷が底までよく見えることだ。知床が人跡を阻んできた事情を納得するが、そのさらに奥の林道に至ると、今度はよくここに道を拓いたと、人間の執念のほうに感嘆する。
道はやっと、ひとつの谷沿いを急降下し、黄ばんだ草と石ころの浜辺に出る。その道の終点にあるのが、今回われわれの目指す知床丸共同漁業部第一九号番屋だ。道が尽きた先端方向にも、さらに番屋は点在する。それでもここに取材を申し込んだ理由は、この第一九号が最も歴史が古く、番屋本来の面影を留めていると教えられたからだ。
実は斜里からここに至るまでに、われわれはすでにオンネベツ、ホロベツ、イワオベツ、ルシャ、テッパンベツといった、サケまたはマスで知られる川を経てきていた。今それらの川ではカラフトマスの溯上の末期で、河口付近の橋からでも容易に群泳する彼らが見える。だがセッパリと呼ばれる雄の盛り上がった背も、猛々しく曲がった口も白く傷つき、雌の体色も褪せていわゆるブナ化が進んでいた。
取材の最初に、われわれはひとつの対象の末期的な姿を、つぶさに見せられたことになる。
林道の果てに現われた番屋は、ちょうど大正期の宇登呂がここに隔離された、といった感じだ。建物はすべて木造だが、長期滞在に耐え得るひと通りの設備は整っている。大きな漁具の倉庫が二棟あり、小さな埠頭も木造ではなくコンクリート製。側に一隻の漁船が陸上げされていた。
これは最小限度の漁村なのかもしれない。すると村長は番屋を預かる船長さんだが、その船長の大瀬さんは挨拶のときおそろしく無口だった。小柄で小太りで目の大きい人だ。その目でこちらを人物鑑定するように見つめたまま、返事をしてくれない。ここには電話がなく、連絡は無線でする。この取材の件が伝わっていなかったのか、と冷や汗が出てきたがそうではなく、
「ま、こっちに上がんなさい」
と招かれたストーブの側は実に暑かった。だがゆっくりと、問わず語りを始めてくれた。
そもそもサケの獲れない地域の消費者は、サケ・マスについて基本的なことを知らない。まあ漠然と、サケがマスより格上のような通念を共有している、といったところが実情だろう。
だがそれとても一概には語れず、それぞれの獲れた時期や場所によって価値は変化する。それ以前にサケ・マスには幾種類もがあり、その呼称も分類上と現場的なそれが複合している。
ときに船長さんはわれわれに、右についてレクチャーしたのではない。専門家から見た、サケ・マスについてのもっと奥深い話をしたのだ。だがこの際は前提として、以下のことはインプットしておいていただきたい。
まず、サケとマスは分類上の親戚関係なこと。よって生態も酷似し、ともに河川を溯上して産卵する。ふつうサケと呼ばれるのはシロザケであり、日本の河川で産卵するのはこれである。
店頭にはほかにベニザケ、ギンザケ、キングサーモンなどが並ぶが、これらは回游中を沖獲りしたもので、故郷は外国だ。最近では輸入種も多く売られる。
ピンクサーモンとは俺のことだ、とうそぶくのはサケよりも一足早く川を溯上するカラフトマス。まるでサケの亜流のように扱われるが、現地では秋のサケよりずっと評価が高い。本マスとはサクラマスで、サケよりウロコがかなり細かい。(ほかに陸封型のマスが多種類あるが、今回は主題外なので触れない)
以上は分類上の概略で、現場では少し複雑になる。同じシロザケでも秋、溯上に集まったのを獲ったのがアキアジ。これは抱卵がゆえに珍重される。だが身は初夏に沖獲りしたものが上で、これをトキシラズ(トキザケ)と呼ぶ。さらに、本州の川へ産卵に帰る途中、オホーツク沖で獲られたのをとくにメジカと称し、これをシロザケ中の最上とする。紋別(もんべつ)郡雄武(おうむ)町沖のものが別して名高く、この町にはメジカ一匹を用いた飯(い)ずしがある。
マスではクチグロという幻級がいて、この味こそサケ・マス中の王者である、と断言する人もいる。これはどうやらサクラマスのある一時期らしいのだが、これなど現場では最近まで稀少な一品種とされていたようだ。
つまりサケ・マス類の実態は、古来親しまれたきたわりにまだ不明な点が多い。船長さんの話も、だからこそ興味深いのだ。
「サケは必ず、生まれた川に帰るといわれるが、どう思う?」
これは船長さんからの問いだ。
「えーッ、ちがうんですかぁ」
と、間抜けて応じる以外ない。
「放流もしてなくて、自然産卵もされてるはずがない、奥行きのない川や汚れた川の河口にもたくさん集まってくるんだね」
サケ神話の崩壊である。昔はその通りだったろう、と船長さんも言う。だが近年の採卵、孵化、放流システムの徹底化が、次第にサケの本能まで蝕みはじめた、といえるかもしれない。
それかあらぬか、永年定置網漁を営んではいても、回游コースの実態はいまもって掴みきれない、という。もし群れが、知床からオホーツクの海岸線を一定方向に移動するのであれば、その流れの上方に置かれた網が圧倒的に有利なはずだ。ところが実際には、ある網が休漁しても、その上下の網の漁獲高は変わらない。群れの流れが複数であることは従来から知られていたが、その過去のデータも最近では通用しないのだそうだ。
北海道では永年、溯上するサケ・マスの産卵をすべて人工管理してきた。セキを設け、所定の採卵量を満たしてもなお、魚たちを溯上させなかった。だが今そのことに反省が生まれ、自然産卵の復活が試みられはじめたのだ。知床がそのさきがけで宇登呂側、羅臼(らうす)側計四川がセキを設けず、ルシャでも今年から定量を満たした後は自然溯上、自然産卵に任せている。
番屋の日課は朝四時起床、朝食をとってすぐ出漁。九時台には帰って一〇時半昼食。各人陸上の作業に散り、三時半には夕食。早い人で六時、遅くても八時には全員が寝てしまうのだ。
禅僧もかくや、と思えるこんな日課に従いていけるかと案じたが、取材班全員なぜか順応した。起床は当然でも、夜七時にはもう眠くなったのである。
番屋の食事はすこぶるうまい。賄いのおばさんが十数人分を作るのだが、台所の外は海、その海で男たちは激しく働き、獲物とともに帰ってくる。この条件は、いかなる贅沢をも超える美味の原点ではないか、と思う。
長方形の座り机を、男たちが囲む。各皿は、それを数人ずつで食べるように、三分割で配置される。サケの焼きもの、イカ刺し、野菜の煮もの、番屋製の漬けものなどが、いずれもドサリと盛られている。汁はソイの生だしがストーブの上にかかり、これと飯は各自で盛るのだ。
すべてがうまかったが、おばさん特製の“マス漬け”を説明したい。ダイコン、キャベツのざく切りにカラフトマスの切り身をふんだんに混ぜ、塩とコウジとコブで漬けたものだ。これもサケよりマスがいいという。
男たちは、たとえばビールや酒を飲んだ夕食後でも、一人一人静かである。声高に喋ったりふざけ合ったりもしない。前回の取材で、南薩の漁師たちが漁のあとさきに宴を張っていたのとは大違いだ。これが土地柄というものか、おおげさに言えばサケ文化とブリ文化のちがいだろうか? といってここには目に見えるような上下関係も存在せず、誰もがくつろいでいる。
風呂が素晴らしい。巨大な鋳物製の、文字通りの五右衛門風呂、底にはスノコが敷いてある。これとても、そうは思えないのだが、常に順番が決まっているように速やかに入浴が回転していく。浴用具も、すべて個人別でキチンと棚に並んでいた。
昼間の仕事においてもそうで、船長さんが誰に何をしろ、と命令するのを聞いたことがない。おのずと得意分野があるのか、ある者は薪作りに、ある者は船の修理に、ある者はトバと呼ぶサケの干物を干しにと、黙って各持ち場へと消えていくのだ。
われわれが帰る朝、林道が落石で不通になったと無線が入った。通行許可期限のこともあって困惑していると、二時間ほどで大丈夫だとの連絡。そそくさと挨拶して出発すると、問題の現場でトラクターの運転士が笑っている。見れば番屋の土木担当者で、彼はその方面の免許取得者だと言っていた。番屋は、林道の管理もするのだった。
話は知床から、いきなり秋田へと飛ぶ。今回ぜひ、どこか東北のしかるべき場所のサケ文化を取材したかった。日本の食文化は「西はブリ文化、東はサケ文化」とされるが、その連綿たるサケ食の民俗的な点景を見たい。関東の平凡とも北海道の野趣ともちがう東北の料理の練度に、サケへの愛着が偲べるだろうと思ったのだ。そして選んだのが、この秋田の雄物(おもの)川沿いである。
雄物川は大河川でありつつ、最上流までダムのない現代では稀有な川だ。そして河口から約七〇キロの大曲(おおまがり)市には、宝暦年間からサケのヤナ場が設けられている。この七〇キロという距離、深く内陸の地でサケを捕獲しようという発想には、藩政時代の政策とはいえ、遠く縄文期からの無意識が流れていないだろうか。下って明治二十八年に孵化事業を始めた地もここだし、どこでも河口で捕獲する現代でさえ、サケ処としての大曲の地位は変わらないのである。
実際、現在県下で最もサケが溯上する川は県最南端、象潟(きさかた)町の川袋(かわぶくろ)川だ。だが、ここの場合は北海道からのタネで養殖を始めたのが昭和四十年。現在はサケの料理法を公募中、という実情で食文化の取材はできない。
そこでわれわれは、大曲市の市史編集委員で花館(はなだて)地区の郷土史家でもある池田光氏を訪ねた。旧花館村は、大曲の納屋(サケの止め場をいう)の所在地であり、現在も孵化場のある地区だ。
部屋中の郷土史資料に埋もれた池田氏は、突然現われたわれわれのために、サケ関連のものを捜しつつ応対してくれた。
「この地には、面白い喩えがあるんです。『生サケを売って、塩引きを買うバカ』という」
花館のサケ漁は、専業漁師によって営まれたのではなかった。ふだんは貧しい農民の、いわば有り難い副収入だったのだ。だから漁場は村内の組合同士の入札で決めたが、獲るには獲っても有利な流通路も加工手段ももたない。結局は生の状態を買い叩かれ、消費の段にはその実入りで塩引きを買う。生を売り、食うのは塩引き。言い得ていて、いとも塩辛い自嘲である。
「あ、ありました、ありました」
その漁場の入札をする際の、明治年間の絵地図が出てきた。川とその漁場が描き込まれた、いわば絵図面だ。数種類あったが、どれも彩色が美しかった。
明治三十八年、奥羽本線が開通して国鉄大曲駅ができるまで、この地方の中心地は大曲より数キロ上流、雄物川河運の港である角間(かくま)川だった。つまり花館村はサケの生産地だったが、消費地はこの角間川だったのだ。
当時、非常に栄えて富商豪農が軒を連ねていたこの港町は、食文化の洗練でも周辺一帯の羨望の的だったという。興味深いのは、“町料理人”と呼ばれる人たちがいたことだ。その人たちはいわばパートタイムの板前で、金持ちの家の慶弔事に呼ばれていって凝った料理を作る。そして、郷土料理の粋を身に付け伝えてきたのがこの人たちだった。
ちなみに、この地方で最も人気があって現在も行なわれ、先の池田氏も絶賛したサケ料理に“骨たたき”がある。これは三枚に下ろした中落ちの骨を、なにせサケの骨だからナタで叩く。味噌を加え、池田氏の表現によると「ネタッとした感じ」になるまで叩き、ネギを薬味に食べる。これは取材者としてもぜひ試したかったが、機会がなかった。
さて、町料理人が守り伝えてきたような料理は、いったい今どこへ行けばあるのだろう。それそのままではなくとも、そういう伝統にのっとった料理が、これだけのサケ文化をもつ雄物川流域にないはずはなかろう。
そしてわれわれが訪ねたのは、秋田市内で郷土料理の第一会館を経営し、郷土料理研究家でもある目黒増男氏だった。当初、市内で「第一会館」を捜しながら、どうもその名前が気になった。郷土料理っぽくないからである。すぐに見つかったが、それは名前どおりの立派なビルだ。お目にかかった目黒氏は、あのベレー帽にヒモタイの研究家タイプではなく、社長さんらしい社長さんだった。そしてその場所は社長室。ところが氏は、われわれに手ずからお茶を淹れてくれた。
「大曲には万平茶屋(まんぺいぢゃや)って、サケ専門の料理屋さんがあったんですよ、十数年前まで。茅葺き屋根で、サケを焼くにも炭火の周りを和紙で囲って、非常に趣がありました。秋田からも、わざわざ獲れたてを食べに行ったもんです、その時分にはね」
「子供時代には、大晦日に新巻ザケを必ず食べました。あまりしょっぱくないうちを焼いて。親父がいちばんいいところを食べて、それからだんだんに子供へというようにね。ただ、秋田も海沿いでは正月にハタハタを食べますね。私が今でも春になれば食べたいと思うのは春マスですか。三、四月ごろ海で獲れたのはうまいですよ、脂がのってて、塩焼きなんかでね」
氏の郷土料理研究は、お店の実際の献立となって活かされることになる。だがその場合、社長案だからといって無条件で実現はしない。検討と試作を重ねたうえ、現場で包丁を振るうのが和食料理長の斉藤勇氏だ。
料理長は取材と聞き、秋田のアキアジ料理として即座に二〇ほどの案を出した。当方としては、味覚的に興味惹かれるものと、写真を考えた場合の視覚的興味との間で心が揺れた。そしてまず、料理的にあまりに巧緻なものから捨てた。最終的に味覚と視覚の両立する五品を残したが、そこで料理長が言うのだ。
「でも、いちばんうまいのはやっぱり、塩もしない白焼きを大根おろしで食うやつですよ」
だからそれも入れて、六品を作っていただいた。それでも写真として誌面に残ったのは四品。
見せられなかったもののうち、実に秋田らしい料理として紹介したいのが“とんぶり蒸し”である。これは切り身にとんぶりとろろをのせて蒸し、そばつゆをかけて熱いのを食べる。申し分なく秋田の味がする料理だった。
やはり練度の高かった秋田の料理のあと、話は再び北海道に返る。今やワイルド料理として北海道の新名物になりつつある“チャンチャン焼き”を実演してくれたのは、紋別郡遠軽(えんがる)町のお寿司屋さん「政ずし」のオーナー、笠木睦夫氏であった。なぜお寿司屋さんがチャンチャン焼きかといえば、前日われわれはそこでサケの腸、“チュウ”の酢のものを作っていただいたのだ。その際、チャンチャン焼きで困っていると話したところ、「よし、任せておけ」ということになり、そのお言葉に甘えたのだった。
チャンチャン焼きはアウトドア料理である。そしてまだウンチクが成立していない分野の、食欲と材料を買う金と火を起こす能力が支配する料理である。
笠木氏は可愛いお嬢ちゃんと釣り仲間二人とチャンチャン道具一式を車に乗せ、湧別(ゆうべつ)川の河原へわれわれを導いた。道具は厚い鉄板一枚、ガスバーナー、ボンベ、あとは軍手。材料はメスのサケ一本、あらゆる野菜、だし汁とミソのタレ、バター。
河原の石を組んで鉄板を置き、充分に熱してバターを載せる。サケを寝かせ、周囲を野菜で囲む。驚いたのは、主人公サケが頃合に焼けだすと、どんどん身をほぐしていって野菜と混ぜてしまうことだ。タレも混ぜ、いざ、というときは膨大な野菜炒め状になっている。だが、うまい! サケは見る見る、ピラニアに喰われたようになっていく。
最後に笠木氏は、骨になったサケを湧別川に放り込みつつ小さなお嬢ちゃんに言った。
「これはまたいつか、肉が付いてこの川に戻ってくるんだよ」
これでチャンチャンであった。
取材の最後に、カメラマンは産卵を終えたサケ、ホッチャレにこだわった。よくTVや雑誌の自然特集で見る、あのボロボロの屍である。何度見ても、その姿は新鮮に痛ましい。本当に生命を全うしたはずのサケと、あの、チャンチャン焼きで食われ、骨だけになり、またいつか肉が付いて戻ってくると子供に信じられたサケと、どっちが幸福だったのかわからなくなる。
〔『私の青空』1992年1・2月号〕
6 花に棲む人々
誕生日を飾るひと抱えのバラも、庭に咲いていればもっと薫るだろう。花屋の窓辺で冷え切ったスミレも、小川の岸辺なら暖かく揺れるだろう。
私たちは咲き誇る花々との自然な距離感を知らない。だが蜂を飼い、蜂を放ち、蜜を採る「養蜂家」と呼ばれる人たちがいる。くる年もくる年も南から北へと、巣箱とともに移動する人たちだ。
今日も小高い丘の木陰から、広がるレンゲ畑に目を細めている。飛び交う蜜蜂の明るい羽音が、彼らの収穫を約束してくれている。一本の花も手折ることなく、彼らは花に棲んでいるのだ。そしてひとつの花が終わると、次の花を求めて遠い旅に出ていく。深夜の国道を静かに進む、巣箱を満載したトラックがそれだ。
移ろうことが仕事のその人生に、ついに都会人が知り得ないだろう、花との秘密の物語を感じる。彼らの喜びがいったいなんで、その苦しみはいったいなになのか。花に棲む人々の旅の半年と、その琥珀色の甘い収穫を、ほんの少しだけ味わってみよう。
養蜂家とは、花を追う職業である。だからその人々を追って歩けば、そこには常に盛期の花の群落が待っている――それがこの旅の、ごく単純な動機だった。だが動かずに咲いているはずの花は、実際にはまるで逃げるもののように捉えにくいのである。そしてこの事実こそ、そのままプロの“花追い人”にとっての問題でもあるのだった。
たとえば桜の開花期が毎年ずれることは一般人も知り、注目もしている。思えばすべての花は同様なのだが、そのいちいちが生活に切実ではない。ところが養蜂家が花を追う営為は、あの琥珀色の収穫に直結する。移動のほんの一日二日のズレが、そして運任せの天候が、収穫の多寡となって返ってくるのだ。
だから彼らの日常にはある張り詰めた空気があって、無駄な時間がない。その生活振りの身軽さ、簡素さ、そして規則正しさはまずストイックと呼べるだろう。したがって、牧歌的とは言いにくい。だが、そういう規律に暮らす人だけの幸福感、といったものも確かにあるのだ。
養蜂にも、定地と転地のそれがある。一カ所でも可能なのになぜ移動するかといえば、旅が楽しめるからではない。雑多な花の蜜が混じる定地養蜂に対して、ある花の盛期を求めて移動する転地養蜂は、その花の純粋な蜂蜜を求めているのだ。むろん、そのほうが商品価値が高いからである。日本で蜜源となるおもな花といえば、季節の順にナタネ、レンゲ、リンゴ、トチ、アカシア、クローバー、ソバ、シナノキ(ボダイジュ)などだ。
このうち最も高級とされ人気の高いのはレンゲとアカシアとのことだが、それは味と香りにクセがなく、無色に近い色を求める日本人の嗜好による。欧州ではむしろ個性的な蜂蜜が珍重され、ドイツやロシアでは野趣に富むボダイジュが、フランスでは黒飴のようなソバがクレープ向きとして好まれるという。
レンゲの紅い畑は、ひと昔前までは東京近郊でも晩春の景物だった。その中に寝ころんで雲雀(ひばり)の声を聞いていると、レンゲはハッキリと匂いはじめ必ず蜜蜂の羽音がしてきた。そして至近距離で見るレンゲの花弁は、意外に複雑で微妙な姿だった。
この取材のフィールドとなったレンゲ畑は、鹿児島県姶良(あいら)郡内のそれである。養蜂家が巣箱を置く蜂場は、一般に人里離れた花畑の真ん中のように想像されるが、実際にはちがう。まずトチとシナノキ以外、蜜源となる花は山の中には咲かない。だから彼らの仕事場はたいていの場合、地域住民の生活区と重なる。したがって巣箱も、多くは農地である花のただ中には置かれず、目標から何キロか離れた林の陰などに、目立たぬように設置されることになるのだ。
蜜蜂の行動範囲は、巣箱を中心に半径数キロといわれる。朝、気温が十五度になると彼らは出動するが、それは花粉が交配可能になる温度と一致する。だが気温が何度になろうと、雨天では絶対に巣箱を出ない。翌日に雨が予測される日は夕方遅くまで働き、反対に晴れと感得できる前日は仕事を早く仕舞う。たとえ仕事中でも、雨を察知すれば速やかに帰巣する。いずれにしても、蜜蜂が雨に濡れながら飛ぶということはないのだ。
蜜蜂は労働のために、精妙に設計された生き物である。その生活パターンを崩すことは決してなく、その限りにおいて彼らのシステムは合理的だ。だから養蜂家は、他のどんな生き物を飼育する人よりも、人間の生活を生き物に合わせてプログラムしている。そうしたほうが効率がいいからだ。彼らがストイックに見えるのも、その行動の軸にあるのが蜜蜂だからだろう。
それでも花期の長くないある花のピーク時に、もし一週間も雨が続いたらその年の収穫はない。「頼むから蜜を集めてきてくれ」と蜂を説得できないし、牛馬に対するように強制もできない。彼らの生態に従うまでだ。
晴天の夏の日は午前三時に起き、四時から仕事を始める。急がないと、早々に巣箱を出た蜂が今朝の蜜を運んで戻ってきてしまう。蜂の体内酵素と混ざり、一晩かけて濃縮された蜂蜜が、その日のものが加わることで薄まり質が落ちるのだ。そこで夏場の採蜜作業は早朝から、しかもきわめて迅速に行なわれる。
一方、花の時期を人間の都合に合わせることもまたできない。去年(九一年)は秋田地方のアカシアが、その最盛期に雨風に遭って落ちてしまった。それならと次のクローバーに移るにしても、養蜂家は独自のネットワークをフルに使う。秋田にいて青森の、青森にいて北海道の、花の状況を彼らは把握している。
取材者にとって難儀なのはそれで、気候次第の花の状況を東京で捕足することだ。追って歩くといっても、半年間の旅をベッタリ伴にするわけではない。ある花のピークに合わせて、その場所に出向こうという目論みだ。ところが、これが思ったほど容易ではなかった。
たとえば東京から電話する。
「リンゴはそろそろ盛りでは?」
「今年はちょっと遅れ気味で、そう、もう四、五日かなあ」
三日後にまた電話する(この場合は宿舎に電話がなく、大家さんである農家に取り継いでもらっている。心なしか声が遠い)。
「今、来なさい。明日にでも!」
というわけには、いかない。当面の仕事もあり、切符(チケット)の手配もまだだし、第一、走りの台風が東北地方を窺っている。そんな事情で、また三日後に掛ける。
「もう、終わったね。昨日の雨と風で、すっかり散ったよ」
ようやくに現地を踏んでも、目指す花のまさにピークに出会うのはなかなか難しい。それが白い花なら(蜜源花には白が多いのだが)どうも黄ばみが気になる。これは半年間の経験後に得た推論だが、どうやら養蜂家と一般人では、花の「ピーク」という意味がちがうのだ。つまりわれわれは花のヴィジュアルなそれをいうが、彼らは花が最も豊かに蜜を含む瞬間を指してピークという。商売上の当然だが、それはヴィジュアル上のピークよりもやや後に訪れるらしい。
転地養蜂家は、それぞれに移動のルートが決まっている。花を追って南から北へ移るのはもちろんだが、毎年の対象の花とその蜂場が決まっている。ということは、滞在する土地ごとの仮りの家もまた決まっているのだ。それは独自に所有の家であるより、在来の農家かその持ち家である場合が多い。そしてそこには、季節ごとに毎年繰り返されてきた人間関係がある。
古典的イメージでは、転地養蜂家は家族ぐるみ移動する。だがそれは、子供が就学年齢に達すれば不可能だし、母親はどうしても子供と残ることになる。そこで毎年別れと再会のドラマが生まれるわけだが、その模様を訊いても深刻に語る男たちはいない。照れもあるのか、みんな笑って「馴れてるよ」と言う。
その結果、旅先はほとんど男の世界だ。まず思うのは食事の面倒だが、これは大家さんが賄ってくれる場合もあり、町の食堂と親身な関係が成立している場合もあり、まったくの独居で自炊生活をする人の場合もある。だがいずれの場合も、その地域社会に溶け込んで暮らしていて、“他所者”の意識は養蜂家にも周囲にもないようだ。いざ採蜜、移動といった人手が要るとき、必ず駆け付けてくる“助っ人”も土地ごとに決まっている。
転地養蜂の“転地”たるハイライトは、その大変さと難しさにおいて“移動”だろう。ある花が終わると、その一帯に散開していた巣箱を収容し、トラックで次の土地に運ぶのだ。鹿児島から東北、北海道へもトラックで移動する。この際、養蜂家が最も恐れるのがフェーン現象などによる気温の上昇だ。出発は必ず夕方から夜にかけてだが、長距離では途中で昼間になる。積み木のように何百も積まれた巣箱の中央部では、しばしば蜂の“蒸殺(じょうさつ)”という災難が起こる。これは高温に耐えられなくなった蜂が文字通り蒸れ死んでしまうのだが、養蜂家にとって蜂を失うほど決定的な打撃はない。
東北でアカシアを終え、北海道のクローバーに移動する夕方のことだ。トラックを待つある蜂場の巣箱の傍らに、すぐ出発できる準備然としてラジカセとデイパックが置かれていた。この光景は、中年以上の働き手が行き交う中でいささか異彩を放つ。持ち主は、今年初めて養蜂の旅をするS青年である。
前年まで、彼は大阪の鉄工所に勤めていた。それがある休暇で中央線の独り旅をしたとき、長野県で養蜂店の看板を車窓から認める。それは駅と駅のほぼ中間だったが、にわかに決意した彼は次の駅で降り、その店まで歩いて戻って店主に訴えた。
「ぼくを使って下さい。今年のひと回りでもいいから、養蜂の旅に連れて行って下さい」
店主は永年、単身で九州と東北とに転地する人だった。自ら雇うより、と思い縁のある福岡県の藤井養蜂場を紹介した。そしてあくる春、例年通り九州に出向いた店主は、そこで黙々と働くS青年の姿を発見する。
彼とラジカセはこれから北海道の標茶(しべちゃ)に向かうが、その旅は今年一回で終わらないだろうと、現・雇い主の藤井高治氏は笑う。
働くS青年のキャラクターは蜜蜂そのものに似ているが、
「蜂とぼくは正反対ですね。蜂のようには生きられないから、それを利用して自分の好きなように人生を送ってるんですよ」
と言明するのは、北海道の猿仏(さるふつ)原野でアザミ蜜を開拓した花田みつ多加氏だ。養蜂業の余暇に、彼は熊を撃ち、鱒を釣り、養豚の研究をする。自然と生物への興味でその長身を躍動させているような彼には、養蜂家一般のストイックな印象など皆無だ。
「他の家畜とちがって、餌をやらなくていい。蜜が溜れば採ればいいと、最初はそう思った」
現在の養蜂の型式は、西洋のそれを模範として明治初期に興った。蜂を介して自然と取り引きするような花田氏の発想は、もし技法以前に西洋的な養蜂の哲学があるとすれば、それそのものに思える。だが蜂とともに一日の仕事を終え、寄留先の農家の夕餉を囲む幸福感も貴い。むしろそれが、蜂に性格の似た日本人が自然に同化して生きる、養蜂家らしい姿かもしれない。
〔『私の青空』1992年3・4月号〕
7 島唄の真昼と夜
那覇から高速を北へ、いまは沖縄市と改称したコザを目指すと、車は薄暮から夜に向かって走った。道の両側には低い丘陵が波状に続き、四角い鉄筋の家と四角い燈火の群れが隙なく稜線まで這い登っている。初めて沖縄を見る目で、記憶の中に類似の風景を捜せば、それは湘南から横浜にかけての郊外だろうか。コザが近づくと夜も近づき、視界が黒い起伏とそこに撒かれた光だけになると、辺りはもうハワイと言われてもロスと言われても一向に構わない春の夜景である。
だとすると、一般的に車内で流すべき音楽はユーミンか、ウエストコーストの軽めのロックか、もしドライバーがややアダルトならソフトなフュージョンといったところだろう。だがわれわれの車には、さっきからずっと沖縄の“島唄”が満ち満ちている。島唄とは、沖縄の人々が自らの民謡を指して呼ぶ名だ。そして、そのうたい手を“唄者(うたしゃ)”という。いま時速百キロで運ばれている唄は“美(ちゅ)ら弾き(早弾き)”の名曲「ハンタ原(ばる)」。唄と三線(さんしん)は知名(ちな)定男(さだお)。沖縄の戦後世代を代表する唄者であり、コザに向かうのは彼自身のライブハウス「島唄」を訪ねるためである。
ウケーメーボロみかち
ダッチョウガサみかち
かんだ葉ぬナマシ
今度(くんどう)はじみ
沖縄の人(ウチナンチュウ)の言葉(ウチナーグチ)は本土の人(ヤマトンチュウ)には解らない。また本土の言葉(ヤマトーグチ)を彼らはあえて「標準語」とは言わず、「共通語」と呼ぶ。当を得た捉え方だと思う。先の「ハンタ原」の一節を、ライナーノートを参考に共通語にしてみる。
(おかゆ[#「おかゆ」に傍点]はボロボロの口当たり
ラッキョウはガリガリの口当たり
でも薩摩芋の葉のなます[#「