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■目次
はじめに―渋谷道玄坂百軒店界隈
[音の旅の記録]
●トラッドとその周辺
「英国の土の匂い」の秘密|イギリスにどんな“都市の音楽”があったか|トラッドの受け入れられ方|大英帝国のうたう心|始めに歌ありき
●ロック、七〇年代初頭
ボブ・ディラン…彼も又、神ではない|ボブ・ディラン―彼が及ぼした最も大きな影響は「ディラン・スピリット」だった|ニール・ヤング|楽観的ニヒリスト、スティーヴン・スティルス|レオン・ラッセルの『カーニー』|スーパー・スター、レオン・ラッセルの戦略|ディラン・スピリットの系譜|遥かなるスワニーの五人の遡行者
●歌と音楽に託して
内向きのコバーン、外向きのマクロクラン―カナダからきたシンガー&ソングライターたち|どんどんポップになって来たボズ・スキャッグス|ザ・バンドの声はきこえる|マイナー志向|メジャー志向|終りの始まり|トーチカ物語|二〇歳のユーミン―荒井 由実『MISSLIM』|幸福な邂逅(かいこう)―DUKE ELLINTON & JOHN COLTRANE|よみがえった古謡―スティーライ・スパン "Please To See The King"|「旅する男たち」の歌―ジェリー・ジェフ・ウォーカー|生まれながらの異邦人―レナード・コーエン『ソングス・オブ・レナード・コーエン』|ヒューマニストの歌―中川 五郎『25年目のおっぱい』
●ライナーノーツ一束
ザ・バンド『ロック・オブ・エイジズ』|BOBBY CHARLES(ボビー・チャールズ)|ボシー・バンド『アウト・オブ・ザ・ウィンド・イントゥ・ザ・サン』|シャーリー・コリンズ&アルビオン・カントリー・バンド『ノー・ローゼズ』|ニック・ジョーンズ『ペンギン・エッグズ』
●コラムは歌う
1枚のレコード|アルバム・レビュー|レコード会社の倉庫に眠る日本未発売名盤|レッドネック・ロック
●やがて、音楽は鳴りやむ
「70年代の出口」からどこへ―ザ・バンド|ロックにとって名盤とは何か|松平維秋インタビュー―音楽とのかかわりの中で|ロック生態学―残らない心|“ロック主義”の解体|復刻CDに時代を聴く|モノ語り―ジャズ喫茶|『つれれこ社中/雲』解説
[風の旅の記録]
●山女魚を追って
源流(みなかみ)を求めた溪流師|奥鬼怒の山女魚
●この国を旅する
1 豊饒の野山、豊饒の海。|2 温泉夢譚――鳥取|3 森と水の民話|4 笑う隼人たち|5 鮭の風土記|6 花に棲む人々|7 島唄の真昼と夜|8 土佐の台所|9 神々の珊瑚礁|10 幸い住むと人のいう…|11 酒蔵ものがたり|12 紫煙の方舟
[補遺]
ことしの秋のミステリー|聴け! 古き島の歌を|MUSIC LIFEから|blackhawk newsから|表3抄
●松平維秋略年譜
●編者あとがき
●制作スタッフ一覧
松平はるかさんのために
はじめに
渋谷道玄坂百軒店界隈
〈付記〉
一九六〇年代後半、松平維秋は、渋谷道玄坂百軒店にあったジャズ喫茶「渋谷DIG」でレコード係をしていた。一九六九年、事情あって「渋谷DIG」が別の経営者による店「ブラック・ホーク」となってからもそのまま残り、レコード係をつとめた。その頃には、単なるレコード係ではなく、レコードの買い入れから日常どんな音楽を主体に流すかといった企画までを担当するようになっていた。
このエッセイは、彼が「ブラック・ホーク」の職を辞してから長い時を経て後、百軒店とその周辺の再訪記として書かれた。遺品には生原稿のコピーとして遺されていて、そのために未発表原稿とばかり思いこんでいたが、このほど初出雑誌が判明した。(編者)
先週は一〇数坪の土だったさら地が、今日は繁雑な工事現場になっている。この場所にビルが建ち、元の入居者が新装の店を営むという。ブラック・ホーク(※1)はこの一階にかつてあり、またここへ入るらしい。店名が残るかどうかは知らない。だが、あの“空気”が蘇ることはあり得まい。この時代に、それは誰も望まないことだからだ。いずれにしても、渋谷百軒店(だな)の二月の工事現場は、小規模なただの現場にすぎず、そこで一〇年余を過ごしたぼくの眼にも、別段の感慨は呼ばなかった。
だが六九年からの一〇年ほど、このスペースには特別な空気が満ちていた。世間的な分類では、ブラック・ホークはロック喫茶である。ところがその空気は、ロック喫茶らしさ[#「らしさ」に傍点]からは外れていて、プレイされる音楽が、席を埋める客たちの体に染み込んでいく光景は、いつも静謐といってよかった。そしてその音楽を他所で、たとえばラジオから聴く、ということはまずないのだった。
なぜかというと、ブラック・ホークの音楽は、世間の流行に同調することがなかったからだ。ロック=音量主義の七〇年代初頭には、個人レベルのコミュニケイションを重視してアコウスティック路線をとった。西海岸の音楽が一般化するころには、ゴスペル色の濃い南部のロックに力を入れ、シンガー&ソングライターにブームが兆せばイギリスの古謡をうたう人達に光をあてた。ヘソまがりではなく、わずか五〇人で満席のスペースは、つねに専門店的な使命を帯びるべき、という考えからだった。そこでは何年後かに、“幻の名盤”となるレコードが、幻ではなくリアル・タイムで流れつづけた。
「すいません、ちょっと出てきます」
ここでも常連は多少図々しくなり、よくこんなことをぼくに言い置いて外出する。煙草屋への往復よりは永い。だが一五分以内で戻ってくる。来れば三時間は粘る彼らは腹がへるのだ。その行った先も明瞭で、帰りに香辛料の匂いをプンプンさせていればカレー屋のムルギー。それより所持金の少なかった奴は中華屋の喜楽に行ったのに違いなく、席に帰ってからマッチを楊枝がわりにしていれば、食べたものはモヤシソバだ。どちらも歩いて一分以内。ブラック・ホークが工事現場となっているいまも、一五年前と変わらぬ営業方針で、変わらぬ賑わいを示している。
八五年の若者にとって、渋谷とはパルコ方面を意味する。この道玄坂界隈で、一〇年以上繁昌をつづけている店は多くない。だがそういう例外的な店には、きっとそれだけのポリシーがあろう。それが“わが渋谷”を結果として守っているはずだ。そう思い込んでぼくは、ブラック・ホーク時代に馴染んだ店々を再訪したのだった。
揚げたワケギ入りの醤油をかけただけで、喜楽の親爺さんが自分の麺[#「自分の麺」に傍点]を食べていた。これはぼくも見慣れた、この店全員の変わらぬ食事風景である。質素倹約の気風、という印象をまず抱くが、そればかりではない。こうして食べることで各々が毎日、麺とスープのマッチングを研究しているのだ。店主自らがこれだから、ここでの従業員に要求される厳しさは並ではない。まず動きの機敏さと的確さ。ラッシュ時のカウンター内の流動は、眼に見えない統御装置でつねに律せられているみたいだ。スポーツ新聞の求人欄を見て来た新人はたいてい、この精確さに溶け込むまえに、親爺さんの職人気質と先輩たちのストイシズムに絶望していなくなるのだ。
喜楽の味は他のどこにも類型がないから、百軒店を“卒業”して何年経った客でも、機会があれば顔を見せる。彼らは「喜楽の味は変わらない」と口を揃えるが、じつは違う。大鍋のスープには毎年改良が加えられている、と最古参店員の金ちゃんが言った。
喜楽の向いの路地を東に入ると、道は階段状になって道玄坂小路に下り立つ。左折してすこし行った右側、ジャズ喫茶のジニアス(※2)は、東京でも残された数少ない本格派の店といわれる。オーナーの鈴木さんは、ジャズ喫茶の老舗だった〈DIG〉の出身。じつは一〇代のぼくはそこで彼の後輩だったのだ。
「変わってないでしょ!」
第一声、店が変わってないことを笑顔で自慢できるのがうらやましい。ジャズ喫茶が変わっていないことは、バーが変わっていないこととは意味が違う。バーでは隣りの客が何を飲もうと構わない。だが、一枚のレコードを全員が聴くジャズ喫茶では、そのプレイはつねにオフィシャルなものなのだ。そう意識してレコードを選択する店が、本格のジャズ喫茶である。基本はオーナーの趣味であろうと、そのコレクションこそ、変幻のジャズ・シーンに対する店の回答であると客はみる。
ジニアスがオープンして一五年。この一五年の“ジャズ喫茶界”は、まさにその意味で混乱を極めた。ジャズの衰退、ロックの興隆、フュージョンの登場。多くの店が目標を見失い「明日のジャズは?」と呟きながら、現実には若者の尻を追いかけたまま消えていった。
鈴木さんとの話題は、どうも六〇年代の奥深くへとさかのぼりがちになる。そこを抑えて七〇年前後。当時は若者が各々に個性的であろうとしていた、と鈴木さんはいう。音楽を聴くことも自分の存在証明と考え、昼間から店にやってきた。変な奴、暗い奴、危険な奴がいっぱいいた。そしていま。これは喜楽の金ちゃんも言ったが、行儀がいい。厄介な奴はいず、面倒がない。だが表情もないから、どこまで音楽に感応しているのかもわからない。「一歩表へ出たら、もうジャズは持ち歩いていないね。昔は引きずって歩いてたけど」
ジニアスの並びをもう少し、東急本店方向へ行ったところに、ぼくの中学時代からのひいきのパン屋、フレッシュマン・ベーカリーが健在(※3)だ。創業は昭和二十四年だから、この店名には相当なモダニズムを感じる。むろん自家製であり、オリジナルのランチパン、オムレツパン、シナモンロールなどは、店名とともに戦後のモダニズムをいまの世に伝えているわけだ。そして七〇年代、巷のパン屋は次々とガラスの陳列棚を廃し、例のピックアップ方式を採用していく。おかげでいま、この店の表は古めかしく見えるが、たとえ改装しても現行のウインド型式は変えないという。いまここのパンと店の雰囲気とを喜ぶのは、奥様方よりも若い人だ、ともいう。
〈109〉の根方に、まるでコラージュのようにバラック建ての呑み屋がうずくまっている。どこかの漁師町から運ばれてきたのではなく、三六年前からここにこうしてあったのだ。玉久と染め抜かれた白暖簾(のれん)が夏の風に揺れ、開け放しの引き戸の奥に満員の客と魚介の山を見た夕方、中学生だったぼくは「このなかに大人の世界がある」と思って憧れた。ついにその夢の暖簾をくぐったのは二〇代半ばだったが、ここの魚のうまいことは、外からの景色だけで疑う余地はなかったのだ。
〈109〉と玉久。この文章にとって、まるで悪玉と善玉の対決だが、あのナウくなり損ねたモンスターみたいなビルができるとき、やはり玉久は“町の発展”のために執拗な勧誘を受けた。それを常連と雰囲気のために拒絶し、家族一丸、必死の決意でいるのだ。
若者のグルメ熱はいま、西洋に飽きて日本回帰の兆候を見せている。そのうち少し利口なのは玉久にも顔を出す。そしてここの女主人は、とても丁寧な口調で彼らについて語るのだ。言われたとおりに食べてばかりいず、わからないことは魚の顔を指さしてでも尋ねてほしい、と。そうすれば、座ったとたんに献立を説明する手当ては不要になるだろう。
とまれ、情報で舌は肥えない。あとこの界隈でうまい店といえば、恋文横町全焼の大火から蘇った台湾料理の麗郷だろう。場所はさきの道玄坂小路、ジニアスの斜向い。連日夕刻からは待ち人の列ができ、そこに若者の多さを発見するとき、なんとなしに安堵する。
散歩は再び百軒店にかえる。六九〜七九の若者の古戦場はここだ。道玄坂から入って直進のまま路幅が狭くなった左側、アメリカ音楽のBYGを訪ねた。それは文字通り訪ねたのであって、ブラック・ホークにいたぼくがここの客だったわけはない。なぜ訪ねたかといえば、ブラック・ホークは七七年にぼくが辞めて以降、ニューウェイヴ、レゲエへと音楽を変化させた。しかるにこのBYGは、後発ながらいまだに米国音楽を標榜している。どんな人がどんな心根で? そしてどんな客が? という興味があった。驚きもあった。
坪田氏はなんと高校の先輩だった。そしてBYGの店長になったのは、奇しくもぼくが百軒店を去った年である。七七年といえば、シンガー&ソングライターたちが白いスーツに身を包み、シティ・ミュージックへと“転進”した年、としてぼくには消せない記憶になっている。あの西海岸ブームほど苦々しい流行はなかった。
A君はボズ・スキャッグスをかけてベッドに座る。「ココチ良いね」とB子ちゃんが微笑む。「明日、ジャクスン・ブラウン聴きにブラック・ホーク行こう?」とA君。ある音楽はこうしてメジャーになっていく。というわけで、メジャーになった音楽をかけるために、ぼくがブラック・ホークにいる必要はもうなくなったのだった。
だがBYGの坪田氏は、そんな意固地な人間ではなかった。大学時代にジャズをプレイしていた彼には、まずロックに対する深情けはない。自分とロックとのその距離を、情況に照らして理性的にコントロールしている。この店での前任者は、彼に「趣味に走ってはいけない」と言ったそうだが、実際の彼は他人に個人的な趣味を知られることすら恥しがるタイプの人だ。もし「家では何を聴いてますか?」と誰かに問われれば、パイプをくわえてニコやかに「モーツァルトです」と答える。ロック喫茶の店長が客にそう答えるとすれば、それは一種の韜晦(とうかい)である。だが、知識比べを吹っかけてくるマニアも多いなかで、その競技に参加しない彼は、同時に虚勢を張ることも決してしない。
ではBYGがいま孤島の楽園のように、米国音楽の花を咲かせているかといえば、それはやはりそうではない。米国音楽が古くなったというより、選び、聴くことで存在証明になるような音楽など既にないのだ。あるのはただ、多種多様な音楽である。あとはどれにどう乗るかだ。坪田氏はニコやかに言った。「ハラに一物据えて地方から来た人は、音楽かファッションに執着するでしょ。流行から外れないその努力は偉い、凄いと思います。ぼくは執着や努力がダメな性質で、だんだん滅んでいく人間です」
滅んでいくのも悪くない。この界隈はぼくの記憶のなかで、現実よりも輝いている。ただ過去の地図は必ず暗号で記されるから、それを解読できる人にしか意味がないのだ。
〔『INFAS』1985年4・5月号〕
※原稿中の明らかな誤字数カ所を訂正した。また、初出時の標題「ブラックホーク時代、'69―'79 at百軒店」を変更した。(入力者)
音の旅の記録
トラッドとその周辺
「英国の土の匂い」の秘密
●“ジョン・ババクーム・リー”の物語
裁判官の冷徹なキングズ・イングリッシュが、被告“ババクーム・リー”ことジョン・リーに対して絞首刑の判決を言い渡すと、フェアポート・コンベンション七枚目のアルバムは始まります。
裁判官があの恐ろしい言葉を述べた時
私は想像しただろうか
再びババクームの地に生きて立ち
寒風を感じることができると…
私は悲しみの人生を送るべく生れついた
友人達が恥辱で頭を垂れるのを見てきた
日ごと疲労と倦怠が増してくる
一九世紀末、女主人殺害の咎で絞首刑に処されようとした、無実の男の奇蹟の物語。フェアポート・コンベンションはその史実を、自らの手で長い長いバラッドに変え、一九七一年に唄うのです。主人公ジョン・リーが“ババクームのリー”と呼ばれねばならない悲劇の顛末を、彼が一五才の少年だった昔にさかのぼって。
「男達は皆働くものだ、お前にもその時がやって来た」。一五才の誕生日の夜、ジョン・リーを呼んで言った父親のその言葉で、彼は“海へ出たい”という英国少年らしいその夢を、ひとまず胸中深くに納めて置く事としました。
父親の言に従って彼が赴いたのは、ババクームという近郷で、村人達から“ミス・キース”と呼ばれながら暮す貴婦人の館の、馬屋番になるためでした。女主人は、彼を息子であるが如く親身に扱いましたが、在郷の水兵達が彼に聞かせる海の話の誘惑は、若い彼にはいかにも打ち勝ち難く、一八か月の後、父親の反対を押して、彼は海軍に志願したのです。彼はそこに天職を見つけた想いで軍務に服し、フェアポートはその有様を、このアルバム唯一の古謡「セイラーズ・アルファベット」に託して歌っています。ところがある時彼は肺炎に倒れ、生死の境をさ迷った挙句、命は取り止めたものの、その身体はもはや海軍には不用の物と宣告されたのです。既に一九才だった彼は、キングズウェアのさるホテルに職を見つけはしましたが、其処で彼を呼ぶベルは汽笛ではなく、マホガニーのカウンターが甲板の手摺に似ている筈もなく、自分の心が海に残されている事を想い知るばかりでした。
そうしたある日、彼を運命の地へ呼び戻す一通の手紙が届いたのです。それはかのキース婦人からの物で、彼が再び彼女の館で働く事を暖かく迎える旨が認めてありました。石積みの門を抜け、久し振りに見上げるキース婦人の館。庭から一段高い花壇に、もう一段高くポーチが重なって、そのまま建物の裾一杯に延びています。幾本もの柱が廂(ひさし)を支え、その合間の奧で盲格子を放たれた窓々が、尚も暗く並んでいます。向い合う二人の衛兵の様に、四角い煙筒が両端に立っている上階の茅ぶき屋根。館の背後でもっと高く茂る黒い木々。来客を招じ入れる玄関脇の薔薇垣のくぐり。そして、其処から奥深く入った食堂で、程なく起こる事件こそ、ジョン・リーに殺人者の名を与える事となるのです。
●奇蹟がジョンの命を救う
フェアポートのアルバムではその時、ニュースを伝える声が、事件の概要と、ジョン・リーに掛けられた嫌疑とを機械的に告げます。殺人は折しも生じた火事に乗じて行なわれたとされるものの、信頼厚い下男が、その敬愛する女主人を何故殺害したかの動機が判然とせぬまま、彼の寝所から発見された血曇りのナイフや血痕の在るシャツ等の物的証拠に依って、その罪は動かぬ物とされたのです。
弁護士は彼に全てを任せろと言い、ローヴをまとった判事は高い所で温和そうに見え、審理は彼自身の介在する所なく、彼の心を痛ませながら迅速に進みました。彼には、神が彼の潔白を御存知だと信じて、処刑の日迄の幾夜かの眠りが安らかである事を祈る他に、出来る事は無かったのです。
これが此の世の最後の夜と知って就いた眠りの中で、彼は夢をみます。彼は絞首台に居り、絞め金が外され、けれどそれは不動のまま動かず、試みは三たび繰返されて失敗に終るのです。六時半。彼が飛び起きたのは、現実の独房の中。やがて八時。彼が歩み出た刑場の中庭は、なんと、彼が昨晩の夢に見た庭と寸分違わぬ事に彼は気付きます。
でも彼は、自分に奇蹟が起きつつあるとの意を得た訳でなく、彼の死に様を見届けようと待ち受ける記者達を無感動に見やり、鳥達の声に耳傾け、故郷の村に想いを馳せ、暖炉に群れる父母や旧友達の姿を、閉じた目に描くのでした。が、奇蹟は起こり、刑の最初の執行が原因不明の失敗に終った時も、二度目の失敗の時も、そして三度目は更に、絞首台のその不思議な故障は、恐らくはその成功以上の苦痛で彼をさいなみました。「なんと言う事だ。死ぬ方が楽だ。待つのはたまらない」
ところが、目に涙を浮べた執行官は、三たび失敗を重ねた刑は、法により、もはや執行されない事を告げるのでした。
さて、奇蹟は彼の生命をつないだけれど、彼が“ババクーム・リー”と呼ばれる悲劇を終らせはしなかったのです。奇蹟は、彼の潔白の証し迄を立てはしなかったのです。それからと言うもの、“ババクームのリー”の名は、絞首台を麻痺させた男の名として呼ばれる事となりました。彼が縛(いましめ)を解かれたのは一九〇七年、老いた母親とクリスマスを過ごすための仮出所が許された時でした。それまでの二〇年余を彼は、法が果たせなかった刑の代償として、理不尽な獄中生活を送ったのです。
これが“ババクーム・リー”を物語るあらましです。でも、アルバム毎に古謡の世界深く踏み入って来た我がフェアポート・コンベンションをして、新たに、自らの手でこの長大なバラッドを詠ませた物は、一体この物語に潜む何なのでしょうか?
●メンバー・チェンジを繰り返し音楽性を確立
今、英国の音楽界に顕らかな動きの一つは、フェアポート・コンベンションとその周辺の音楽家達の活動に依る、トラディショナル・フォークの蘇生だと言われます。とはいえ、フェアポートの歩みを振り返るだけでも、イアン・マシューズやサンディー・デニー、スティールアイ・スパンといった名は誰の頭にもすぐ浮かび、次にその人が、各々の個性を考えに入れながらそれらの音楽を総称しようとしても、ニュー・フォークとでも呼ぶ他は無いでしょう。それほど、彼等の守備範囲は拡大しています。でもそこは良くしたもので、昨今の音楽雑誌には彼等について語る記事も多く、フェアポート一族の系譜を見掛ける事も再三なので此処でそのお復習(さら)いをするのは控えますが、一つ念頭に入れて置くべき事が有ります。それは、早い時期にフェアポートを離れて行った人程、アメリカのカントリー・ミュージックに近いコンセプションを持ち、フェアポートの名の許に残る人達は、アルバムの度に英国の土に帰って行ったという、大まかな道筋です。別れて生まれたグループを辿ると、トレイダー・ホーン、マシューズ・サザン・コムフォート、フォザリンゲイ、スティールアイ・スパンの順でイギリス的になって行く訳で、これは別れて行った順番と一致します。当のフェアポートについて言うと、最初のアルバムではエミット・ローズやジョニ・ミッチェル等の曲を取り上げ、今なら平均的であろうようなニュー・フォーク・グループの姿をしていました。それは四年前の事です。そして二枚目のアルバムで初めて二つのトラッド曲を演奏して以来、それが次第に彼等の大切な仕事になって行き、その変化に伴ってメンバー・チェンジが繰り返された事は前述の通りです。只、その過程で最も重要なのは、『リージ・アンド・リーフ』からフィドル奏者のデイヴ・スワーブリックが加わった事で、この事は、彼等がトラッドに取り組む上の大きな力となったし、次の『フル・ハウス』は、フェアポートに彼が在ってこそ初めて生まれた物。そしてそこには、彼等が今在る姿を志す、決心のポイントが隠されていたと思います。
そしてこの辺りから、英国トラッドが肌に合わない人達からは全く敬遠され、それを大好きというぼくの様な人達からは、聖者の集まりみたいに思われるという、両極端の反応に、彼等は迎えられる事となったのです。そしてここでは、その二つの反応の真の対象、つまり、彼等の音楽の何が、あんなに激しい好き嫌いを呼び起こしたのかを、考えようと思います。
●初々しい古めかしさ
先ず、『リージ・アンド・リーフ』では、デイヴのフィドルを得て、初めてジグが奏されます。これはスコットランドの高地に伝わる舞踊曲で、歌詞はなく、16分音符が延々と続くのですが、このスタイルはアメリカに渡っても、スクエア・ダンスの形で生きています。ディラーズや、近くはディラード・アンド・クラークの演奏の中にも、その伝統の一端を聴く事が出来ますが、それ等はフェアポートのジグ程には、この日本で忌み嫌われる事はない様です。でもこのアルバムの他の曲は、全てサンディー・デニーのリード・ヴォーカルで歌われるので、アルバム全体としてはさほど“けったいな”印象を与えずに済んだ様です。サンディーの唄は声その物に少々モダンさが在って、アメリカのカントリー・フィーリングをも、適度に漂わす事が出来るのです。そこで問題になるのが、彼女の抜けた『フル・ハウス』。第一に声が違っています。サンディーは居ないのです。このアルバムから聞こえて来た“歌”には確かに、五人の男が、何か重大な決心を迫られた挙句のものらしい響きが、“湯上がりの出直し”みたいな響きが在りました。彼等の“唄う”事について考え、一つの声を選んだのです。今にして思うとそれは、バート・ヤンシュやジョン・レンボーンにも通ずる、トラッド・フォークを唄うための、最も素朴な声だったのです。でもフェアポートのその声は、今にも古代ケルト語が飛び出て来そうな“初々しい古めかしさ”に満ちています。歌に関して、彼等は『エンジェル・ディライト』から『ババクーム・リー』へと、更にその完成度を高めて来たと思います。でも、リチャード・トムプソンとサイモン・ニコルのギター、デイヴ・スワーブリックのフィドルがからみ合うインストルメンタル・パートは、この時が一番充実していました。とりわけデイヴのフィドルは、楽器が唄う歌として、ロックやフォークの中でぼくが出合った最高の歌を唄いました。
●イギリスの土の匂いとアメリカの土の匂い
それ等全ての中から立ち昇る物、それは土の匂い。それも、イギリスの土の匂い。ザ・バンドが、デラニー&ボニーが漂わせるアメリカのそれとは違う、イギリスの土の匂いなのです。そして、この匂いこそ、良くも悪しくもぼく達の耳に届いて来て、大勢の人をウンザリさせ、少しの人を狂喜させた物なのです。この好き嫌いばかりは、食べ物と同じで、ある物を嫌いな人に、どんなにその美味を説明しても始まりません。でもここで更に、アメリカとイギリスの土の匂いの相違について言うなら、それは最も深い所で、文字通りの土、気候風土に依っていると思います。そしてもう少し浅い所では、風俗習慣がそれを音に換えているようです。例えば、ザ・バンドの音楽の奧に見えて来るのは、無頓着から人間を棲まわせてはいても、永遠に人間の挑戦の対象であり続けるだろう、強者たる自然の荒くれた土なのです。そして、街道脇の酒場で呷(あお)るバーボンや、トラックに寄りかかって葉巻きを喰いちぎる様な事の全てが、出て来る音を選ばせたのです。一方、フェアポート・コンベンションの音楽の奧に在る土は、太古より人間と交わり、その営みを無言の優しさで認めて来た土です。英国古謡に歌われる荒野は、赤い岩肌をさらすアメリカのそれには似ない、ヒースの生い繁る丘が連なる高原なのです。そして陽光は明るく、空気はひんやりと落ち着き、その中に棲む人間一人一人の則(のり)を、自(おの)ずから定めているが如くです。
フェアポートの音楽が、アメリカのウエスト・コーストのフィーリングから出発して、一歩一歩イギリスのトラッドへと遡って行った変化とは、一体何だったのでしょう? それは、六六年にエレキ・ギターを抱え、バーズの音を出そうとしていた三人の同級生達が、やがて、干し草の中に沈む暖かさを貴く思い、スタウトの苦みに笑(えみ)を洩らすようになる。そんな変化の全てが、音楽に映されたのだとぼくは思うのです。フェアポート・コンベンションの音楽を愛する事は、“英国の土の匂い”を愛する事だと思います。
さて、英国人であるフェアポートの面々が、英国の土から立ち登る物を捕らえて、自分達の音楽の寄辺とする事は自然だとしても、では一体、日本人のぼく、ひょっとしてあなたが、その音楽に心酔し聴き惚れるのは一体何故なのでしょう? アメリカの音楽に対してもそうです。その奧に南部の土が在ると言われるザ・バンドの音楽を良いと感じるのは何故でしょう?
それは、その演奏者達が、自分の心の、どれ程の真実の声に駈られて、その音楽を演奏するに至ったかに懸(かか)っています。音楽に聴く感動とは、熟達した奏者が聴く者の為に用意する物ではなく、音楽とその奏者との、偽りの無い関わりの中からこそ、生まれて来る物なのです。その関わりが真実であれば、その音楽は、言葉さえ解らないぼく達をも、感動させる力を持つのです。ザ・バンドもフェアポートも、奏者と音楽との関わりが達した、稀れに見る高みで演奏しているのです。二つの音楽の音その物は、正反対な程違うのに、彼等が米・英の好対照として語られるのも、そのせいだと思います。
●フェアポートのたどる苦難の道
さて、ザ・バンドもフェアポートも、共にその音楽との真実な関わりを持っているけれども、その有り様は、典型的に違っています。ザ・バンドの音楽の底に眠る土は、永遠に挑戦の対象であり続ける土です。そして、彼等の音楽に土を感じるのは、彼等が、正に挑んでいる相手としてなのです。酒場で呷(あお)るバーボンに挑み、葉巻きを喰いちぎる事に挑み、そうした事の全てに挑むのが彼等の音楽です。ところが、挑み続けるという事は、決して勝てないという事です。勝てないからこそ、彼等の音楽には、あの哀感が滲むのです。勝てないからこそ、彼等はあの音楽を演るのです。其処には、力を称え合う敵味方の勇者の間に生まれるような、塩からい愛が在ります。
フェアポート・コンベンションの音楽にたちこめるあの匂いをはぐくんだ土は、人間の営みを無言の優しさで認めて来た土です。それは、雨や雪と共に、人間の喜怒哀楽も歴史も、夢も祈りも、それ等全てを、その墓場として受け入れて来た土なのです。だから、あの肥えた英国の土の匂いとは、その上に生きて死んだ物全ての死臭という訳です。そしてその匂いは、それを呼吸して生きる誰かに、その生活はもはや新しくなく、新たに考えるべき事は何も残っていないという秘密を、教えてしまう事があるのです。その人間が賢い時にのみ。フェアポート・コンベンションはアルバム毎に、この土の匂いが意味する事に気付いて行った様子です。そして、理不尽な罪に落とされながら抗弁さえしなかったジョン・リーの様に、彼等も又、英国の土に挑む事をしませんでした。土は、賢い彼等を呼び招いたのです。彼等は土を、あらゆる生活とあらゆる思想が死んで眠っているその土を愛し、そこに彼等の音楽を委ねて行ったのです。
ぼくにとって、彼等のその音楽は、ザ・バンドと同じ位切迫した響きを持って聴こえて来ました。伝統に身を委ねることに依って、土に還る事に依って、あんなにも真実な、“音楽との関わり”を聴かせる事が出来たのは何故でしょう? それは、“身を委ねて行く”という事も又、とても厳しい事だからです。“創造する”という事を、結婚して子供を作るみたいに、条件さえ整えば誰にでも出来る事だと考えている、大方のミュージシャンには思いも及ばぬ、それは意志の要る業なのです。彼等には、土の匂いを聞きつける知恵が有り、もしその神託を受けなければ、他のミュージシャン達のように、希望を持って創って行ったろう音楽を、見限って来た痛みが在った筈です。“音楽と関わる高み”を土から与えられた彼等は、奇蹟に依って生命を救われた後に真の苦しみが待ち受けていた、あのジョン・リーの如く、トラッドの世界に旅立った時にこそ、苦難の道が始まったのです。彼等のその苦難は、『フル・ハウス』以来、アルバムの中のオリジナル作品に滲み出ています。デイヴのフィドルの素晴らしさは、その胸を詰まらせる訴えなのです。そしてこの後、オリジナル・メンバーだったリチャード・トムプソンも去って行き、サイモン・ニコル、デイヴ・スワーブリック、デイヴ・ペグ、デイヴ・マタックスの四人で、『エンジェル・ディライト』に臨みます。デイヴ・マタックスは努めて陽気に、歯切れの良いリズムを送り、神々しい程に切ない四人のヴォーカルを、いやがうえにも引き立たせています。そして、彼等やスティールアイ・スパン等の場合、ロックのビートとは、自分達がトラッドへ歩み寄って行くための、大切な手段(てだて)として用いる物であって、トラッドを現代的な音楽に変えるための薬ではありません。又、健気な程結束した心は、「浮世の戯事(ざれごと)の悪魔」という、ニコルとスワーブリックの曲に著しく、アルバム全体には、隠しきれない憂愁の漂う、それは敬愛すべき作品なのです。
●何処迄も土に身を委ねる
さて、アルバムの中のオリジナル曲で、土に身を委ねて行く事の苦しみを、切々と物語って来たような彼等が、とうとう苦難の物語の集大成を演じる事となったのです。“ババクーム・リー”の物語を思い出して下さい。
そのアルバムは、二〇年余の刑期を終えて、村の生家に帰った彼が、老いた母親と並ぶ写真がジャケットです。そして、LP両面のバラッドでは語りきれない事件の詳細と、ジョン・リーの心とを、彼自身がつづったノートが付いています。その手記の最後に、奇蹟が彼を救った後の、故郷に帰る迄の期間について彼はこう書いています。
“自分が一つ墓から救われ、もう一つの墓に移されたに過ぎないとは知りませんでした。生きながらの死を耐える事が、どんな墓の恐ろしさよりも、恐ろしいという事を知らなかったのです。それ等の日々の内で、徐々に大きくなる山は何かという事、私の肩で重さを増して行く、心痛と辱しめの荷の事を解らずにいたのです。
私は男として、男たろうと考えました。人生を考える事、その時だけが、私にとっての良い人生だったのです。”
フェアポート・コンベンションも、まさにこのような心境に居るのでしょう。ヴォーカルはいよいよ冴え返り、古めかしい手製のメロディーを、一層古めかしく、尚且つ想い切々と唄います。とりわけ裏面で、ジョン・リーがお告げの夢を見る前に、たった一曲だけ、フェアポートが語り手の立場からの四行を唄う下りは見事です。唄も、デイヴのフィドルも、彼等以外には絶対に創れない種類の緊張を創っています。でも、“土の匂い”という点では、このアルバムよりも、スティールアイ・スパンに濃い物が在ります。フェアポート・コンベンションは、今、立ち停って、険しかった道のりを振り返って見ているのでしょう。自分達の曲で故事を語ってみたいという願いと、その奇蹟の物語に自分達をシンボライズさせようという気持ちから、このアルバムは生まれたのだと思います。彼等が今日まで来た道を、明日からも行くなら、苦難は何処迄も続くでしょう。メンバーの変動も起こるでしょう。けれど、ジョン・リーが獄中でも男たろうとして、人生を考え続けた様に、彼等もやはり、“何処迄も土に身を委ねる”という、彼等の気概を持ちつづける事を、ぼくは信じています。
〔『ニューミュージック・マガジン』1972年2月号〕
イギリスにどんな“都市の音楽”があったか
初めにお断りして置かねばならないのは、イギリスにおける“都市と音楽”をぼくが語る場合、それは非常に不公平な立場に立たざるを得ない、という点です。なぜならぼくは数年来、ロンドンを中心に繰拡げられてきた“時代の先端”たる音楽の流れを、“飽くなき風俗”として見過ごしてきただけで、真剣に耳で受け止めようとはしなかったからです。グラム・ロックもパンク・ロックも、ティーンの雑誌のグラビアの景物でしかなく、その事自体に時代が反映されている、と言えば言える。この程度の認識でした。
そのぼくにしても、最初のロックへの開眼はビートルズでした。このビートルズの出現が、ロンドンではなくリヴァプールであった事へも、昔から様々な考察が加えられてきましたが、「リヴァプールであったからビートルズが生まれた」と言うためには、彼等の初期の音楽に対する従来の定説を、少々ずらせてみたい気がします。それは、彼等の音楽のそもそもが、テディー・ボーイの社会への反抗から発していた、というあの説です。恐らくはその通りだったでしょうが、しかし初期の“名曲”の多くは、余りに五〇年代のアメリカン・ポップスに似ていなかったでしょうか? 似ていたというより、ロックン&ロールの破壊的な要素よりもポップスの伝統的なコーケットリーの方をよく掴んでいたと思われます。それは六〇年代初期のアメリカン・ポップスよりも、もっと古いテイストを持つもので、ロンドンではもう風化しつつあったものです。それがなぜリヴァプールから蘇生し得たかと言えば、あの有名なスキフル・ブームの残影が、ロンドンではブルースを中心として分化し、地方ほど古い視点が保たれてきた、という背景があったのではないかと推測します。ビートルズそのものはその後、誰もが知る通りのふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]を獲得して行ったけれど、それはもう、都市だの地方といった概念を溶解すべき音楽としてでした。現在でも、ウェールズ、ミドルセックスといった“田舎”の、スウィート・フォーク&カントリー、レッド・ラグ等のマイナー・レーベルには、ヨーケルズ、キャロット・クランチャーズ、コッキーなぞという、地方的に残存した、それゆえに“変型”のスキフル・ジャグ・バンドがあります。
さて、話題を中心のロンドンに移せば、ここでの目まぐるしいまでな“新しさ”の変遷は常に、“閉塞した階級社会の底辺ののたうち”として捉えられ、そこではロック本来が持つべき“反抗のエネルギー”が再生産され続けている、と希望的に観測されてきたようです。果してそうでしょうか? ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンといったバンドが、ロック社会における“上流階級”の座を固めてしまったあと、“何か新しい意味”を標榜するこの現象は加速度的に繰返されました。その過程での幾つものバンドやアーティストの離合集散の全体像を、流動的なままに“ロンドンの熱気”風な呼び方をしたのでしょう。その意味でこのムーヴメントは、確かに“底辺ののたうち”であったかも知れません。
元来、英国のコンテンポラリー・ミュージックは、米国の亜流、二流の立場を余儀なくされ、そのうっ積の爆発から近来の“ニュー・ロック”の誕生をみた、とする意見を聞きます。事実、ヤードバーズやクリームの存在を抜きに今日までのロックの歴史を語る事はできませんが、しかしそれ等は“都市の音楽”ではなく、“時代の音楽”であったろうと思います。そして、その後のスペース・ロック、グラム・ロック、パンク・ロック等は、時代を先導しようとして把握し切れなかった、しかし一年もすれば姿を変えて再登場してくる、そうした習性が依拠する場としての都市の音楽、即ち“ロンドンのロック”たらざるを得なかったのでしょう。
別の面から見れば、“ニュー・ロック”という言葉が意味を薄めてきた頃から、英・米のロックは質的な分化を促進し始めた。アメリカ勢はカントリー、フォーク、ブルース、ゴスペルといった、そのルーツに立脚したロックの創造を志し(ここからしばらくが、アメリカン・ロックの黄金期であったと思います)、他方イギリスのロックは、よりルーツから解放された、無国籍かつ宇宙的な何かをロックに求めようとしました。この時点から、ぼくの英国に対する興味は、フェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパンといった、トラッドにアプローチするロックに偏って行ったのです。
一体、宇宙的な音楽というものは存在し得るのでしょうか? 宇宙空間に音は無いはずです。あったとしても、誰もそれを聴いた経験はありません。だとしたら、一般に“宇宙的”とされる音の構成は、単に幼年時代から学習?した、SFのサウンド・トラックの心理効果を指しているに過ぎないのです。こうした音楽を真剣に聴くことはできません。
「ロックにも“スター”が必要だ!」としてグラム・ロックは登場しました。かつてハリウッドの銀幕で、ドーナツ盤のジャケットで微笑んだような“スター”が、ジーンズとTシャツ文化の内には不在だったからでしょう。又そこには、“世紀末文化”の爛熟を、自ら標榜する姿勢がありました。しかし、“ジーンズ的シンプリシティー”が若者の中心でまだ健在だったその頃、“ある分野”に携わる人達以外には、その運動は「面白いなあ」程度の、信じてはいない中途半端な好奇心のなぐさみ物でしかなかったでしょう。当時、ストーンズが来日するのしないのという騒ぎの内で、彼等に関する当誌のアンケートに答えて、ぼくはおおよそ次のように言った記憶があります。「グラム・ロックが主張する文明の終末は、単に英国のロックの終末に過ぎず、真に終焉への恐怖と憧憬を持って音楽するロック・バンドは、ひとりローリング・ストーンズのみです。彼等の音楽の内にだけ“エロス”が在ります」。そして、“終末”を看板に掲げた妖艶なグラム・ロッカー達も、次の挑戦者に席を譲らねばならなかったのです。
ぼくが音楽を担当してきた“ブラック・ホーク”という狭い空間から見た限り、その後も“ジーンズ”の布は厚く、世の中がロンドンの“新しさ”に取って変られた気配はありませんでした。言い換えると、エキセントリックな化粧も衣裳も、同じくファッション化したジーンズ、Tシャツ以上の意味は持ち得なかったのです。しかし、六〇年代から七〇年代を“若者”として生きてきた層の“高齢化”に対し、これを“エスタブリッシュメント”として、自らはくみしないとするパンク・ロックは、従来の繰返しとは違った創意から発しているのか?とも思いました。ところが彼等も、音楽的に”先輩達”を超えようとしているのではなく、まず五〇年代風ファッションであり、それが喚起するロックの原初的イメージの陰から、残された“新しさ”を窺っている飢えたハイエナの臭気を帯びています。彼等の一挙一動に、例の“反抗のエネルギー”を感じ取るにしても、それさえが既に、産業化したロックの増殖の手段になっている、そんな気がしてなりません。
現状のロックにおいて”都市と音楽”を考えるとき、その都市がロンドンであれニューヨーク、ロス、東京であれ、(それが的外れであったにせよ)初めの部分でビートルズとリヴァプールの関係について触れた、あの型式の考察は無意味、かつ不可能ではないでしょうか? 元より、世界一の人口を持つ東京に、“東京人”は半分もいません。英・米の場合は、異人種の文化も混在します。それが近代の“都市”というものの成り立ちであり、都市それぞれの特殊性も、その上に醸成されてきたに相違ありません。それでも、そこから生まれた音楽を語ることは、“都市と音楽のフォークロア”を語る事になるでしょう。ところが現在のロックは、“都市から生まれた音楽”ではなく、それが音楽たり得るために都市を必要としているだけだと思われます。
誰がグラム・ロックを、パンク・ロックを、そして流行の”シティー・ミュージック”を求めたのでしょうか? 誰も求めはしなかったのです。それらはただ、「これが流行である」として、“都会人?”の我々に突き付けられただけです。しかし、それがその通り流行する部分に、現代の“都市と音楽”の関係が横たわっています。
都市に集った若者達には、既にして現代的でありたい希求があるでしょう。単に“良い音楽”を求めていたにせよ、その情報はどこから得るのでしょうか? 問題はこの日本になりますが、およそ現代的なメディアに従事する人々、音楽を初め、映画、ファッション、デザイン、カメラ等、いわゆる情報のソースたる立場の人々の価値観が、日常的に「何が新しいか?」という視点に据えられていて、「新しい物=良い物」という型で情報は流れがちです。それも当然といえば当然ですが、ただ、その「新しい物」に対して、情報を流す側も受ける側も、共に一種の強迫観念に駆られている点が問題でしょう。一体、音楽はなぜ新しくなければならないのでしょうか? 都市が音楽を製造し、都市が音楽を消費する現在において、ロックは車輪であり、若者はその内側に乗って走る二十日鼠のように見えます。
話をいまのイギリスに移しましょう。“都市の音楽”という観点から、ぼくの耳にも面白いものはあります。恐らくは“パブ・ロック”と呼ばれるものの一種でしょうが、キルバーン&ザ・ハイローズ、カーソール・フライヤーズ、チリー・ウィリー&レッド・ホット・ペッパーズ、ブラウンズ・ホーム・ブリューといったグループは、アメリカン・ミュージックのロンドン的土着性に、元来の英国的ウィットを加味した、正に都会派の音楽を演じます。
もう少し名の知れたところで、ブリンズレイ・シュワルツ。彼等の初期はウェスト・コースト志向のカントリー・ロックでしたが、『ナーヴァス・オン・ザ・ロード』、『プリーズ・ドント・エヴァー・チェンジ』の後期になると、六〇年代初期のアメリカン・ポップスをパロディックに表現し、解散後はいま話題のグレアム・パーカーをプッシュしています。この人はよくブルース・スプリングスティーン、その後続のサウスサイド・ジョニーと比較されますが、三者に共通する“夜の裏街の熱気”は、その意味で“都会のフォークロア”と呼べるものでしょう。
ロニー・レーン&ザ・スリム・チャンスの三枚も、“二流のアメリカ音楽”としての英国音楽の切なさを、最も素直に自分のものとしている点で一流です。グリース・バンド、ヘンリー・マクロー、ゲイリー・ロックラン、ブライン・ハワース、フランキー・ミラー、ジェス・ローデンといった人達のロックは、街の騒音とは混じり合わない街の音楽でしょう。ただし、ざっと並べたこれ等の人達は、初めにお断りしたように公平ではなく、ぼくの聴いてきた人達の内からかい摘みました。そしてその共通項は、都市から生まれた音楽であって、都市に依拠する“レコード”ではない、と思っています。
そしてもし、都市にも“フォーク”があり得ると思う方は、ラルフ・マクテルの『ストリーツ』、ニック・ドレイクの『ファイヴ・リーブス・レフト』も聴いて下さい。更に酔狂な方は、アルビオン・カントリー・バンド、アルビオン・ダンス・バンド等にも耳を通してみて下さい。その音楽は“都市”というより、地方、国と対象は拡がりますが、ある場所から生まれたがゆえに、その場所を目的とする姿勢を持っています。もし日本にたとえるなら、東京は東京のロック、大阪は大阪のロックといった風に、音楽はその地域性を保ってこそ、逆に普遍性が得られると信じるからです。
〔『ニューミュージック・マガジン』1977年8月号〕
トラッドの受け入れられ方
―ロック・ファンにむけられた伝統音楽の新しい道
トラッドという言葉に初めて出会う人はいるだろうか? いるかも知れない。ただし、ここで言うトラッドとは、スコットランド、イングランド、ウェールズ、アイルランドを含めたブリティッシュのトラッドである。トラッドという語は単にトラディショナル(伝承の)の短縮型だから、どの民族もそのトラッドを持っていることになる。にもかかわらず、ただ“トラッド”と言えば、まず英国のものを指して用いられるのはなぜだろう? 例えば米国にも、トラッドを採り上げるフォーク・アーティストは沢山いる。もちろん英国に起源を持つ曲も少なくない。しかし、表現の成り立ちが決定的に違っていると思う。好むと好まざるとにかかわらず、そこから生じる味わいの相違、特に英国のアーティストが持っている独特の“臭み”に対して、このトラッドという言葉が使われてきた面があるようだ。その“表現の成り立ち”に対する分析は後に譲るとして、英国の音楽シーンの特殊な経緯が、トラッドをこの国の特産物のように仕立ててきた点も見逃せない。
カリフォルニアのパサディナに、J&Fというマイナー・レーベル専門のレコード問屋があって、ここではブリティッシュ・トラッドも重要な商品だ。そこで出すカタログは懇切丁寧で、その道の人の重宝な手引きとなっているが、このリストのアーティスト名の次には、トラディショナル・シンガー、またはリヴァイヴァル・シンガーという表記が必ずある。このトラディストとは在郷のヴェテラン・アマチュアを指し、彼等は土地の歌だけを歌う。一方リヴァイヴァリストは、文字通りフォーク・リヴァイヴァル以降にこの道に入った人で、キャリアはまちまちながら現在もその数を増しつつあり、多くは長髪のトラッド演奏家達だ。この両者間に交流が保たれてきたのはもちろんで、トラッド・アルバムのライナーによく「この曲はどこの誰さんに習いました」といったクレジットが見えるのがその証しといえる。トラディストとリヴァイヴァリスト、このアマとプロとの境界線を引けない関係が、各地の数多いフォーク・クラブで一〇年以上継承されてきた実績、それを支えた民衆意識の堅固さ、そうした総力が今日のブリティッシュ・トラッドの興隆を生んだのだろう。イングリッシュ・フォーク・ダンス&ソング・ソサエティーという、多少アカデミックな、そして奇特な団体もロンドンにある。
しかし、それらはあくまで、アコウスティックなトラッドの世界でのことだった。ロックから出発してエレクトリック・トラッドに進んだ若者達、更にはそれさえも物珍しく聴く作業から始まった日本の聴き手達にとって、ここ数年、トラッドへの道は決して平坦ではなかったのである。英国ではいまも、オーセンティック・サイドからいわば公認されたエレクトリック・バンドは、アシュリー・ハッチングスを中心としたアルビオン・ダンス・バンドくらいということだ。しかしここでは、両者の葛藤及び融合の歴史を語るつもりはない。
いま、この文章はロック誌の場で書かれている。ぼくがトラッドを広めようとしてきたのも、ロックの店であるブラック・ホークにおいてだった。ある程度それが報われつつあるいま、そこを自分が去るというのも皮肉な巡り合せだが、ただ、トラッドが登場すべきより相応しい舞台が、別のどこかに在り得ただろうか? そうは思えない。なぜなら、現在トラッドに親しむ人の殆どは、ロックをも聴く人か、或いはかつて聴いた人であろうから。つまり、ぼく達はペンタングル、フェアポートから出発したのである。以後の数年間を、ぼく及びぼくの身辺を通過した若者達を通して、年代記風に辿ってみたい。
まず、ぼくは仕事の上で音楽を掛けていたのだから、自分の好きなものばかりを聴かせるつもりは無かった。同時に、認め難いものも決してコレクトしなかった。その意味では偏ってもいたが、どちらも仕事としてやったのである。自ずとそこにはある幅が在った。しかしその幅の内で、“好きだからやった”という勝手さにおいては、トラッドが一番だった。
ジャズからいきなりロックに首を突っ込んだぼくは、六九年以来、掴み切れないその音楽を聴き漁った。そしてほぼ二年後には、先述の“限られた幅”ができていて、ペンタングルとフェアポートとが、その英国側で異彩を放っていたのだ。彼等は伝承音楽を土台にしているのだという。しかし、前者の演奏のソフィスティケイションと、後者の土臭さとの差異に戸惑ったりしていた。「クルウェル・シスター」や「マティー・グローヴス」が古謡なら、その原型を演じる人間もいるのではないか? とも思った。当時、帽子やジャケット等、服装において“英国調”(伝統的な)に憧れていたことも、より源への希求を増進させたのだろう。そんな結び付きが、何かへのめり込む原因になり得る年頃だったのだ。しかし、真にオーセンティックなトラッドには出会えぬまま、やがて登場したスティーライ・スパン(二作目が先)が、先述の二グループに勝る土臭い演奏で、ぼくに新しいショックを与えた。「これこそが自分にとっての英国だ」と思ったのだ。
時の若者達はどうだったろう? 彼等に対して最も大きな力を持っていたのはウェスト・コースト・サウンドであり、ブリティッシュといえば、好き嫌いには関係なくハードとプログレッシヴ・ロックだった。そして、トラッドという言葉は普及しておらず、エレクトリック・トラッド(この言葉も無かった)とコンテンポラリー・フォークとが合せて“ブリティッシュ・フォーク”と呼ばれ、一部の人に愛聴されていた。彼等はそれを、ウェスト・コーストのイギリス版と捉えていたようだ。一般の若者はといえば、フェアポートだのスティーライが掛かると、店の出口に列を作った。現在では考えられない光景である。つまり、まだロックという言葉の意味が、六九年の頃と変らない型で、彼等の心に宿っていたのだろう。
七一年だったろうか? 当時はそこだけが頼りだったヤマハのイギリス盤コーナーで、初めてぼくはトレイラー・レーベルのレコードを見つけた。ニック・ジョーンズの『バラッド&ソングス』。古風で質素なデザインのジャケットにそう書いてあったのだ。クラシックのコーナーを捜していたのではない。アーティストの小さな顔写真は、やや長髪の主人公が三〇歳そこそこであるのを物語っていた。裏返して曲名を見ると識っているのがあった。「サー・パトリック・スペンス」。――フェアポートが演っている! こんな風に、レコードを通じてトラッドの世界へと溯る旅は始ったのだ。恐らく、この頃からトラッドを聴きだした人達はみな同様だったと思う。やがて、少ない情報を頼りに、このトラッド専門のトレイラーのレコードを特注するようになった。トピック・レーベルが入るようになったのは、一年ほど遅れていたと思う。こうして少しずつ集められていったのが、トニー・ローズ『ヤング・ハンティング』、ロイ・ベイリー、デイヴ・バーランド『ア・デイルズマンズ・リテイニー』、マーティン・ウィンダム・リード等のアルバムだったが、入手順序と発売順序は無関係だった。
さて、これ等をぼくがどう聴いたかだが、元より言葉は解らない。予想してはいたが、伴奏は極端にシンプルだ(もちろん無伴奏もある)。しかし、そんなことより、まず発声が違うのである。これまでに聴いてきたどんな種類の歌とも、それは違った発声で歌われていた。エレクトリック・グループによって識っていた歌も同様である。ある未知の型にはまった、別世界から流れてくる歌。この事実に最も驚かされたのであった。そこでぼくは、きれいなメロディーの、人間味のあるものを多く聴いた。その意味では、ニック・ジョーンズとデイヴ・バーランドが好きになった。これ等のシンガーは、もちろん全員がリヴァイヴァリストである。しかし、それでも彼等とぼくの間には、目に見えない一枚の幕があったと告白しよう。同時に、ぼくに聴き続ける決心をさせる何かが、その向こう側には在った事も。
初めてブラック・ホークでトラッドを掛けたとき、客は嫌がるというより、唖然とした。いきなり男が女湯へ入ってきたようなものだ。無理もない。そしてやがて、それがトラッドという物であることを識り、次第に驚かなくなり、そうなるに従って、かつてフェアポートやスティーライに対したのと同じ遇し方をする様になった。こうなると、仕事としてレコードを掛けているぼくの立場は、あまりうまくないのである。以来この方、ぼくはトラッドと商業上の要求との板ばさみとなった。ところがよくしたもので、七二年も後半になると、あの“ブリティッシュ・フォーク”が広く受け入れられ始めて、俗にいうブームの兆しを見せ始めたのだ。それはもちろん、コンテンポラリー・フォークを底辺としての拡がりだったが、その内で、エレクトリック・トラッド・バンドの地位は浮上した。分けても、この動きから生まれた最大の遺産は、シャーリー・コリンズとアルビオン・カントリー・バンドの『ノー・ローゼズ』だろう。ここでは、リヴァイヴァル・トラディストと、エレクトリック・トラディスト(こうした言葉は急造語だ)の初めての出会いが演じられ、その成果は、今日の“新しいトラッド”の方向性を既に指し示していた。これほど立派なものが現われると、「このもう一歩先には、あのトラッドが在るのだ!」、そうぼくは叫ばないわけにいかなかった。もちろん、自分のためにも。しかし若者達にとって、エレクトリック(というよりロック・ビートの付いた)と、そうでないトラッドとの間に存在していた物は、幕ではなく、壁だったらしい。それはごく少数の人が突破したに過ぎなかった。ブリティッシュ・フォーク・ブームは程なく、幼児の吹く風船のように、脹らむ半ばで萎んで行ったのだ。ぼくの監修したフォノグラムのレコード・シリーズも、発売予定の半分で中断された。切り捨て組には、先の『ノー・ローゼズ』や、ティム・ハート&マディー・プライアの『サマー・ソルスティス』が在った。これ以降、ブリティッシュ・フォークは、少なくともレコードに関する限り、暗い冬眠期に入って行ったのだ。七三年の事である。
以来ぼくは、雑誌等で発言の機会のある度に、ブリティッシュ・シーンの腑甲斐なさを嘆き、かつなじり続けた。ところが、個人的にはそうではなかった。初めて聞いたのは七二年だったろう。ディック・ゴーガンの『ノー・モア・フォーレヴァー』が、トラッドとぼくとの間の幕を取り払ってくれていたのだ。世間の事はどうでもいい。わけの解らないスコティッシュの、重く暗い彼のシンギングは、地の底から湧き出てぼくをトラッドの世界へと引きずり込んだのだ。そこは“もう一つの歌の世界”、更に言えば“歌の反世界”のように思えた。それからは無抵抗だった。『フェイト・オ・チャーリー』のアーチー・フィッシャー、『ボニー・バーディー』のレイ・フィッシャー(アーチーの妹)、『フィノミナル』のバーナード・リグリー、そして『ラヴリー・オン・ザ・ウォーター』のフランキー・アームストロング等(この時にはトピック盤も入ってきていた)、その世界の住人達は、抗い難い歌の力で、ぼくの周りを囲み始めた。その力は、夢から醒ますまいとする、夢のなかの力の様でもあった。あれは一体何だったのだろう? そこには、いわゆる喜怒哀楽の表出は無い。表出はないが、閉じ込められ、圧縮された重みがある。彼等は歌を歌っているが、それは自己表現ではないのだ。生きているのは歌そのものである。何百年間と民衆の心が込められてきたその歌に、彼等もいま語り部となって献身している。これがトラッド・シンギングの型であり、そのための発声なのだ。
外国人にとって、英国トラッドの臭みはこうして生まれ、このシンギングをしないエレクトリック・トラッドとの壁も、こうして生まれたに違いない。しかし、ナチュラルな歌い方では、トラッドの本当の味は出ないだろう。
ぼくは何人かのトラッド好きの客の顔を、憶え始めていた。しかし依然として、トラッドは重箱の隅の存在であり、先述したレコードも、三年程の間にポツリポツリと、やはり発売順序と関係なく入ってきたに過ぎない。一般的関心からは、切り離されていた。七五年になると、トレイラー、トピックからさえ、大した新譜は来なくなった。
「トラッドはどうなったのかね?」「ありゃもう駄目だよ」なぞと、顔を合わせばぼやいていたトラッド・ファンが、再び気色ばんだのは七六年に入ってだ。まず七三年以来お蔵入りになっていた、アルビオン・カントリー・バンド『バトル・オブ・ザ・フィールド』の出現に勇気付けられた。続いてマディー・プライアとジューン・テイバー『シリー・シスターズ』、マーティン・カーシー、アーチー・フィッシャー各々の新作登場と、たわんだバネが戻る様な勢いで、質も高く量も増え始めた。こうなると、「英国で何か起こっているのだろうか?」という想いに駆られだすが、実際に起こってきたのだ。これまでには存在すら識らなかった地方のアーティストや、新人達が続々と姿を現わし始め、それに伴い、地方的特色も明確化された。この傾向は今年にも及び、分けてもアイルランドの活況が著しい。ヴェテランのクリスティー・ムーアを始め、ボスィー・バンド、トリオナ、キングス・ギャリアード等はゲーリックの民族意識を明るく鼓舞し、ライアン・ウェルドンの歌唱は超アイルランド的だ。北アイルランドではヴィン・ガーバットの功績が大きい。スコットランドでは、フィッシャー・ファミリーのプリシラ・フィッシャー&アーティー・トレザイス『バルカンクォール』が、重厚にして明確なシンギングの伝統をよく捉え、かのディック・ゴーガン率いるエレクトリック・バンド、ファイヴ・ハンド・リールは、メロディー・メイカーのフォーク・ポールを得て既に全英的スターだ。ウェールズ出身のビッグ・ネーム、ニック・ジョーンズの『ノアズ・アーク・トゥラップ』は、トラッドとして革新的な演奏を展開する。イングランドで目立ったのがピート&クリス・コウの『アウト・オブ・シーズン/アウト・オブ・ライム』で、ここにもプロデュースの革新性がみられ、この点での最大の成果は、新人ジューン・テイバー『エアーズ・アンド・グレイシズ』だろう。この他、フェアポートのフィドラー、デイヴ・スウォーブリックも、彼本来の立場に帰ったインストゥルメンタル・ソロを二作発表した。
こうして挙げてみると、トラッド・シーンは活発であるばかりでなく、質も新しくなろうとしている事に気付く。エレクトリック楽器を使用する、しないの問題を超えて、レコード創りそのものに対する意識が変った。シンギングの鉄則は変らない。しかし楽器の配置や録音方法によって、アルバムにリアリティーを生む事に成功し始めている。そのせいか、トラッドを女湯の男と感じる人は稀になった。リクエストも日常的だ。その背景には、米国音楽の現状に対する不満があるのかも知れない。ともかくぼくは嬉しかった。
しかし、いまトラッドを聴く若者達の殆んどは、かつてトラッドに踵を返して帰って行った、あの若者達ではないのだ。ぼくの仕事は本質的に、時の若者を相手にするものだった。だが彼等はいずれ、各々どこかへ行ってしまい、ぼくだけ残るのが常である。フェアポートやスティーライの好きな連中もずい分いたが、彼等はいま、どこかでトラッドを聴いているのだろうか? 最近ぼくが一番よく聴くのは、アーチー・フィッシャーの『ウィル・イェー・ギャング・ラヴ』である。もちろん家でだ。
〔『ニューミュージック・マガジン』1977年10月号〕
大英帝国のうたう心
●なぜ、トラッドか?
百姓でも、漁師でもない、ガソリン・アレイの子供達が伝承の古謡を求めて唄うのはいったいなぜなのか? フォークの復権からフェアポート・コンヴェンションの登場までの経緯の底には、この問いへの答えとなるべきある思想が横たわっていなければならないでしょう。
フェアポートがトラッドにアプローチしたということは、あるグループはジャズに、又あるグループは現代音楽に接近したという類の別な一例ではないのだから。
まず、人がフォーク・アーティストであろうとするのなら、その人は、音楽的感性において“真に新しいもの”なぞあり得ないことを知らねばならないと思います。楽器と声とが織り成す時間に覚える味わいとは、すべてその音楽と聴き手の過去との触れ合いにすぎないからです。どんな新奇な音楽に出合った時にも、人は自分の過去の累積であるところの、それ故に限られた“感性”というフィルターを通じてしか音楽を味わうことはできません。だから、ある音楽を味わった時、その“味”とは既にその人の過去の言語に翻訳されたものに相違ないのです。
さてここでなお音楽家が、あのドラッグ・ミュージック式の、肉体への企てを潔しとしないフォーク・アーティストであれば、彼は、感性の呪縛から羽ばたき出ようとする音楽的な試みのすべてをはしたない悪あがきと黙殺する筈だし、又彼の正しい努力は、限られた、しかし思考を超えた感性の闇深く降りて行く方向にしか有り得ないでしょう。百万の人間の血に流れているに違いない、過去という無二の財産のエッセンスを求めて――。
現代人にとって、一面それは“抵抗放棄”であると同時に、又一面では一層の難儀の道です。そして昔からの民謡愛好家たちが皆、この“スノッブな野心の放棄”という禁欲的思想を標榜しつつ幾世代をも経て来たわけではないにしても、この思想は、プログレッシヴのグラマラスのと性こりもない裏側でやはり極めて英国的であり、端正な島国、動かぬ階級というこの国の風土の上にこそ生れても来たのだと言えましょう。
●古謡の復権からフェアポートへ
産業革命に続いた生活様式の近代化に伴い、英国本島の民衆から民謡伝承の習慣は薄れて行くままに、時は第二次大戦へと至りました。この時のナショナリズムの高揚の名残りはやがて、アイルランドに脈々と生きている人と歌との運命的結びつきに触発されて、民謡の復興を志す幾人もの研究家や歌い手を生んだのでした。四〇年代末期から五〇年代に至るこの復興運動では、各地に細々と伝わる歌や舞踏曲が採取され、それを発表登録する機関紙も設けられ、フランシス・チャイドルやセシル・シャープといった前世紀の学者の業績以後の無関心の闇へ、久々に知的な光が当てられたことになります。又この時以来の運動家で、現在のフォーク界に重きを為す人も多く、ビル・リーダーやA・L・ロイド、歌手のイワン・マッコールやイアン・キャンベルなぞは、現在活躍する若手達の育ての親とも言えるでしょう。しかし、髪の長い、ガソリン・アレイ育ちのトラディスト達は、祖国の民謡復興という運動を継承するために歌っているのではありません。彼等が今トラディストであるためには、もうワン・クッションが必要だったのです。
六〇年代、ギターを伴奏に自分の歌いたいことを歌う、という米国のフォーク・ムーヴメントは英国にも波及し、多くのボブ・ディランやジョーン・バエズのフォロアー達が誕生したのは、あのロック革命の数年以前でした。その幾人かはロックへと浮上して行き、又幾人かは自国のフォークロアのより深くへと沈んで行ったのです。彼等がトラッドに出合い、それを唄うに及んで先の先輩達から学ぶ所の大きかったのは勿論ですが、しかし彼等の出発点でもあったボブ・ディランを認めないイワン・マッコールとの間には、ある世代的なギャップも又存在していました。それでもなお、トラディストへの道を進んだ者達の心を支えたのはうつつのナショナリズムではなく、あの潔い諦念と、自己を超えた過去に身を委ねて行く気概であったろうと思います。この時初めて英国古謡は、フォーク・リヴァイヴァルと呼ばれるに相応しい生命を、若い多くの歌い手達から与えられたと言えるし、又歌手達も、真に“英国のフォーク・アーティスト”たり得たと言えるでしょう。六二年の渡英でディランは、マーティン・カーシィの唱う「ロード・フランクリン」に啓発されて「ボブ・ディランズ・ドゥリーム」を書き、ポール・サイモンが「スカーボロ・フェア」を唄ったことも、英国のトラッドの蘇りを物語る別なエピソードではあります。
さて、時は更に下り、スキフル・ブームを土壤に無数のロック・グループが現われ始めて、それらが現在の英国のポップ・シーンを形成するに至ったわけですが、その千差万別の分化の過程でここに問題となるのが、米国は西海岸のフォーク・ロックに啓発されて発足したフェアポート・コンヴェンションの発展なのです。彼等は、米国のロックの魅力がその“土”に必然することを悟り、ひるがえって自らの音楽を“英国のフォーク・ロック”とすべく、自国のトラッドにアプローチして行きました。九枚のアルバムのその歴史は平たんではなく、多くのグループとシンガー&ソングライターとを派生しながらの複雑なものでしたが、それぞれの音楽を目指した人達もみな、その高い格調と完成とを得ていて、この一派の音楽が、今日“ブリティッシュ・フォーク”と呼ばれる音楽の規範であり本流であることを疑う術はないのです。
更に、この流れのなかで初めて、ロックから出発した若者達とフォーク・リヴァイヴァル以来のトラディストとの出合いが実現したことこそ重要です。分けてもアシュレイ・ハッチングスは、マーティン・カーシィの協力を得たスティーライ・スパンの二作でエレクトリック・トラッドに金字塔を打樹て、現在は、妻であり女性トラディストのシャーリーと共にアルビオン・カントリー・バンドを主宰しています。又今回来日するフィドラーのディヴ・スウォーブリックもフェアポート加入以前には、マーティン・カーシィやイアン・キャンベルの許でプレイして来たトラディストであり、ベーシストのデイヴ・ペッグも又イアン・キャンベル・フォーク・グループからこのフェアポートに投じたのでした。
〔フェアポート・コンヴェンション来日公演プログラム1974年1月〕
始めに歌ありき
「新年の祝いの日、ダーネル卿の夫人は教会に聖歌を聴きに出掛けました。そのお開きの人混みのなかで、彼女は美少年のマーティー・グローヴスに見惚れたのです。『うちにいらっしゃい、可愛いマーティー・グローヴス。そして朝まで一緒に寝ましょう』『いえ、そんな事はできませんし、行きたくないし、一緒に寝たくもありません。手のその指輪で、あなたがダーネル卿の奥方だと判ります』『そうだとしても、ダーネル卿は留守なのよ。遠くの荘園に年貢を取りたてに行っていて』」
こんなにストレートなやりとりは現代の歌には存在しない。これは「マーティー・グローヴス」という一九番まである英国バラッド(物語歌)のさわりの部分で、六九年に、フェアポート・コンヴェンションというバンドがロックのフォームで演奏して有名になった。それは、ロックを聴いていたぼく達が、イギリスの“トラッド”(伝承音楽)から受けた最初の衝撃である。以来、このトラッドにこだわり、遙かロックの彼方に潜むらしいもっとピュアなものを求める少数派が生まれ、その関心はロック・シーンの華麗な変遷の陰で今日まで保たれてきた。レコードを探し、買って聴くという常道にとどまらず、フィドル、ダルシマー、コンツェルティーナ(小さなアコーディオン)、ティン・ウィッスル(ブリキ製の安い縦笛)等、トラッド演奏で使用される楽器に自ら取り組む機運も見え始めている。いま流行?の音楽状況に対するグチも、トラッド・ファンには適用しないのだ。
ぼくは民族音楽の研究家ではない。もっとハッキリ言えば、いかなる音楽に対しても“研究家”ではない。ある音楽を単に好きなだけだ。だからこそ、ここで英国のトラッドを語ることは、その道の専門家がジプシーの音楽を、あるいはピグミーの音楽を語るのとは意味が異なる。いま英国で、そのトラッドが盛んな事実は、また日本にもファンが増えている状態は、ロックのポップ化を嘆くのと同じ地平で捉えられるべきだ。トラッド・ファンは殆んど総て、ロックを通じてそれを知ったのだし、巷に溢れる様々な音楽を、普通の人と同じように呼吸してもいる。本場のトラッド・プレイヤーにしてもそうだ。彼等はロックを聴いているし、米国の状況も見ている。彼等の営みは、民謡保存が目的ではない。
ここ一〇年来のロックの歩みを振り返ると、七〇年代に入ってからの英、米の質的分化が、最もアクティヴな印象として残っている。つまり、米国勢はカントリー、ブルーグラス、ブルースといったベーシックな要素を取り込んだアメリカン・ロックを目指し、他方英国勢は、ファッション性を伴ってよりハードに、プログレッシヴになろうとしたことだ。当時、男が化粧をしたり、映像を加味したステージを演出したり、ジャーナリズムが飛び着きそうな新奇なことは総て英国から生まれた。この段階では、ぼくは文句なくアメリカ派だった。ところが、アメリカン・ロックがアメリカの“土”を踏まえているのなら、英国にも踏まえるべき“英国の土”がある、とわきまえた人達が出て来たのだ。それが例えば先述したフェアポート・コンヴェンションであり、そこから派生したスティーライ・スパンであり、別の系統のペンタングルだった。彼等はロックの語法でトラッドを演じ、それはエレクトリック・トラッドと呼ばれた。
エレクトリック・トラッドはある程度のファンを獲得したが、その人達が全部、よりオーセンティックでアコウスティックなトラッドのファンになったわけではない。ロックを通じてトラッドを知った者にとって、本格のトラッドはシンギングそのものが大きな抵抗となった。およそ現代の歌唱においては、感情は高いボルテージで表現される程よく、同時にそれは歌い手自身のものであることが良しとされる。ところが英国トラッドではそうではない。喜怒哀楽はある発声の型のなかに封じ込められるのだ。したがってそれは、歌い手の現状を表現するための歌唱ではない。始めに歌ありき。良きトラッド・シンガーは、幾世紀をも歌い継がれてきたその歌に、語り部となって身を献じる。歌に生命を与えるのだ。だから、そうして歌われた歌を聴いて感動した者は、歌い手個人の有り様に触れたのではなく、歌のなかに堆積し、普遍化した民族の喜怒哀楽に出合ったのである。歌と人とのこうした関係は、同じトラッドがアメリカに渡ると消えてしまう。この関係はむしろ、日本の民謡と唱法に見ることができる。
この、本格のトラッドを聴く若者が増えつつある。前々号、前号とこの欄で続いたロック・シーンへの批判の意識が、彼等の土台としてもあるかも知れない。ロックが健全にその生命を燃焼させていたころ、トラッドは好事家の愛玩物の立場に雌伏していた。いまそれが台頭してきたのは、いわゆる“新しいもの”の繰り返しに、若者達の一部は食傷しているからだ、というのはあまりにも楽観的な解釈だろうか? ところが、トラッドのレコードの造られ方は、着実に新しくなり、数も増えてきている。例えば、シンセサイザーを使用したレコーディングさえ行われているが、その場合、シンセサイザーは決してシンセサイザーとしての自己主張はしない。あくまでそれは、トラッド世界の景物としての役割に限定されていて、多くはバグ・パイプ的な効果に用いられる。トラッド・レコーディングにおける技術改革と新しい発想は、“始めに歌ありき”というトラッドの則を超えない範囲で進行しているのだ。
最後に、「トラッドを聴いてみようか」と思う方へ、次のレコードを推薦しておく。
Dick Gaughan "No More Forever"
Archie Fisher "Wille Ye Gang, Love"
Frankie Armstrong "Lovely on the Water"
Ray Fisher "The Bonnie Birdy"
Shirley Collins & the Albion Country Band "No Roses"
Cilla Fisher & Artie Trezise "BALCANQUHAL"
Pete & Chris Coe "Out of Season Out of Rhyme"
June Tabor "Airs And Graces"
Vin Guarbutt "The Young Tin Whistle Pest"
The Battlefield Band
等々、挙げればきりがないが、いずれも日本盤は出ていない。
〔『話の特集』1978年4月号〕
ロック、七〇年代初頭
ボブ・ディラン
…彼も又、神ではない
●数々の賛辞の言葉は、そのままディラン城の城壁となった
"Self Portrait"のジャケットについて論じるのでも無い限り、「ボブ・ディランなんて大した奴じゃない」と言う人はいません。ロックやフォークを語るどんな文章も、偉人としての彼の扱いは守って来ました。お陰で僕達は、彼の足跡とその意味については、手近な雑誌やライナーノーツから、不自由なく知ることが出来るし、それを教えようと待ち構えている人に出会う事だって珍しくはないのです。彼に関する場合は。そんな時、ボブ・ディラン自身が、彼の評価や名声に対してとてもシニカルだという事も、決まって聞かされますけれど、その話は彼を一層神格化するのに役立っているようです。彼について語られた沢山の言葉は、そっくりディラン城の城壁となり、音楽を通じて彼に近づこうとする誰かから、その城主を護っているみたいです。
彼のアルバムが発売されると、一年に一度だけ開かれる城門の奥に、王様の素顔を垣間見ようとでもする様に聴衆は殺到します。新しい膨大な量の言葉が立派だった門を塗り込めて、非の打ち所無い城壁が再びそびえているという次第です。
それでは、その城壁の上塗りをする事無く、彼について語る言葉は無いものでしょうか?
その城壁の何処かに、人一人通れる通用門等は無いものでしょうか?
其処で、彼がどんなに偉大で、現在の歌全体にどんな測り知れない影響を及ぼしたか、という知らぬ者の無い事実はさて置き、見知らぬ歌手の聞き慣れぬ歌として、歌詞カード片手に彼のアルバムを聞いてみてはどうでしょう?
そうすると僕には、あの古びた賛辞の城壁とは別の、新しい高い壁が見えて来てしまいます。所がいやはや、それも言葉の壁なのです。でも今度は誰が造ったのでもない、彼自身の手造りに成る、言葉の煉瓦で組まれた、意味有り気な壁なのです。
尤も、誰の歌だろうと、それが外国語で歌われる以上ぼくには越え難い壁なのですが、彼の場合は更に深刻なのです。
なぜってボブ・ディランは、自分がたまたまアメリカ人だったから、詩を書く時に英語を用いたのではなく、彼がアメリカ人で、英語で話し英語で考えてきたからこそ、生まれて来た様なのが彼の詩だからです。彼の発想、感覚その物が正に英語の質に依っているのです。もう少し言うと、英語の単語は、日本語の一つの言葉の様には、それ自身の生命を持っていないと思います。つまり、日本語程、扱い次第であやふやな、余裕の有る物ではなく、それは、明確な記号としての役目を負っている無機的な物だと思うのです。ディランの詩では、その英語の特質が逆用されて活きていて、それはまるで、記号と記号が習慣とは違ったやり方で結びつけられたシュールな鎖、個人的な暗号文なのです。それは本場の英語国民にとってこそ、より切実でディラン当人を幽閉してしまう程の解釈の城壁が築かれてしまったのも、そのせいだと思うのです。
棺を封じる葬儀屋は嘆く/孤独なオルガン弾きは泣く/
銀色のサキソフォンは君を拒めと言う/ギンゴンと云う鐘と
出鱈目(でたらめ)な角笛とがぼくの顔に嘲りを吹きまくる/
そんな風に、君を失う様にしか生まれなかったぼくだけど/
君が欲しい/どうあろうと、君が、君が欲しい(大意)
これは"I Want You"の始まりの一節ですが、比較的ポピュラーになったこの曲にして、かくの如しです。恋がかなわぬ事を知っている自分を葬儀屋にたとえて、愛の埋葬にため息をつかせたり、その恋をさまそうとする理性の声を、銀のサキソフォンの音にたとえたりする歌が、これまでのポップスにあったでしょうか? そして望みを絶つ他は無い自分を、シニカルな調子で唄い終えた次の瞬間、最もシンプルなその言葉"I want you"が繰り返されてしまう時、この歌に生々しい現実がいきなり姿を現わして感動的です。
●根底に流れるビートニクの精神
さて、彼の詩に多い容易に解りにくい節の解りにくさは、一語一語は英語としての具体的な意味を持った言葉に違いないのに、それ等はいつも彼個人の世界から選び出され、ドミノ(ゲームの一種)のルールの様では全くない、彼のイメージの独裁によって並べられる事から生じるのです。
ディランの詩の成り立ちを、ボッシュの絵(ディープ・パープルの三枚目のアルバムのジャケット等)にたとえた批評家もいましたが、それは彼の詩のイメージは、行から行へ、節から節へと流れ続ける事が少なく、切れ切れのままコラージュされて、多くは暗い一つの歌になっているのが多かったからだと思います。
彼の詩にこの傾向がハッキリし始めたのは"Another Side" 以後、つまりプロテストの歌を見限った時からと言われます。そして、"Bringin' It All Back Home"、 "Hi-way 61 Revisited"へと、ロックのサウンドを持つに連れ、それ等の歌には難解なフレーズの重苦しいイメージが色濃く立ち込めて行くのです。
でもその難解さ、抽象的な言葉よりも卑近な言葉や名前が非習慣的に並べられた難解さは、ディランが一〇代の頃に盛んだった、ビートニクの詩に似ている様に思います。
そしてその事は、ディランがどんな人かを語る大切なキッカケにもなる気がするのです。
かつてのビートニクの考え方が今のヒッピーイズムと根っから違っていたのは、“手を繋ぎ合う”という事、“力を組織する”という事が、彼等の目的には無かったし、潔しともしなかった点です。彼等にとって“より良い世界”というやつは二の次で、各々がその心の達すべき高みを何よりも目指す、孤独な野心家達だったのです。彼等の創る詩は、経験から拾い上げた具体的な物や土地の名が奇妙に生のまま現れながら、夢のような無秩序を型造っている、全くアメリカ的なシュール・リアリズムでした。
ボブ・ディランはこうした人々の血を受け継いでいると思うのです。
グリニッジ・ヴィレッジで評判になり始めた頃の彼を、最初に賞め上げたニューヨーク・タイムスの記者は彼の事を「聖歌隊の少年とビートニク族の合いの子みたいなディラン君は童顔で、黒のコール天のハック・フィン帽子からはモジャモジャの髪が飛び出てる。彼は喜劇役者で悲劇役者だ。どさ廻りのヴォードヴィリアンみたいにおどけながら、音楽の独白をあれこれご披露する。気の利いた言葉はよく種が尽きないものだと思う位、自由自在に沸き出し、頭をふり、身体をゆすり、眼を閉じて想いをはせ、言葉と雰囲気をまさぐりながら、目指す言葉と気分を探り当て、その場をいい気分で満たして行く。」と書いています。
こんな姿は、現在の落ち着いた彼からは想像しにくい役者振りと思える人もいましょうが、これは当時からシニカルな彼が、自分でも気に入っていた珍しい記事なのだそうです。そして、ここに書かれた二〇歳のディランこそ選ばれて険しい道に旅立とうと勇みながら自信に溢れている若い孤独な野心家の姿をしているではありませんか。なぜって、味方のいない時こそ生き生きとヒロイックにその場に賭けて演技し切る事。それは、今の若者の世代の習慣からは失われた、あのビートニクの若者だけが出来た事なのです。彼が人を笑わす事は、人に甘える事ではないのです。道化となる事は彼のひねったヒロイズムのスリル溢れる活躍なのです。肝心な事は、ヒッピー・ムーブメントから生まれて来たロック・ミュージシャン達とボブ・ディランとは、いわば血筋が違うのです。
●彼は選んで独りぼっちになろうとしていた
最初のアルバムを出した頃、当時盛んだったフォーク・グループを作る企画を持ち出されて彼は答えたそうです。「僕はいつも厳しい道を選んで来たんだ。今後もグループで失敗するよりは自分独りで失敗する方がいい。」
又、ロックの音を出すようになって以来、今までとはすっかり違った、もっと強烈なファンの支持を受ける身となった彼を、マスコミが例によって“ロック・ジェネレーションのリーダー”と呼んだ事に対して、「僕は彼等のリーダーなんかじゃない。何で僕がそんな物になれよう。僕はもう、その年代じゃないんだ!」と言ったものです。
最初に彼を有名にしたあの公民権運動にしてもそうです。彼が運動の側の考えを持っていた事は確かだし、彼の歌が運動のシンボルとして唄われても、彼は皆のしたい様にさせて置いたけれど、でも自分が、正にそのために歌を作り唄う歌手なのだと思われるなんて、本当にそういう歌手にされてしまうなんて、彼には我慢がならなかったのです。一度だって、彼は皆のために歌を作った事は無かったのです。あの"Blowin' In The Wind"だって、彼は自分の歌として作ったのです。それを運動がテーマ・ソングにしてしまっただけで、彼自身が唄うのをレコードで聞けば、そこには“皆で歌いましょう”風の甘ったれた気分のカケラも無い事は、誰の耳にも明らかです。
彼は、人種差別反対運動への献金はしても自分には歌うべき自分の歌がある事を、"Another Side Of Bob Dylan"で示したのです。それは少々無理をした作品でもあったけれど。その中の有名な一曲"My Back Pages"は、彼をプロテストのリーダーにさせて置きたかった人々を失望させるに充分でした。
自ら定めた教師の舌も/愚か者には、重きに過ぎ/
大いに吹いた“自由”さえ/学校にならどこでもある/
“平等”とぼくはそのセリフを/結婚の誓いよろしく口にした/
ああ、でも、あの時ぼくは老いていた/今、
あの時よりもぼくは若い。(大意)
さて、若返ったと自ら言うディランそれから歌い始めたのは、独り道を求める人間の苦難の歌でした。六一年のグリニッジ・ヴィレッジをハック・フィン帽子で旅立った彼の、本当に厳しい道はここから始まったという訳です。その時彼は、少年時代からの彼の神様だったウディ・ガスリーの事をも、現実の一人の人間としてしか考えていなかったし、自分が常に、自分の問題の外、唄う歌の外に身を置き続ける事を旨としていました。つまり、彼は選んで独りぼっちだったのです。
早くから彼はこう言っていました。
「偉大なるフォーク・ミュージックの中には、神職や魔法、真理、聖書と呼べる物がある。僕の音楽の中にもそれを持ちたいと努力している。」
彼の音楽が、例外的に黒人をも感動さす事が出来るのは、そうした彼の言葉が、本当に歌の中で実現されているからかもしれません。しばらく彼はニューヨークに憑かれ、ニューヨーク・ガールを愛し、シティからの歌を唄い続けました。それがエレキ・ギターを持ち、声高にシュールな詩を唄い、ザ・バンドにめぐりあった三年間だったのです。ボブ・ディランとザ・バンドの出会い、それは“個人の歌を唄う”という伝統を、あのニュー・ロック騒動を越えて、現在のロックに蘇らせる事となった点で記念すべき出来事だった訳です。
ビートルズの "Sgt. Peppers-"が、人間を全員善人にしてしまう様な音楽のユートピアを作っていたのと同じ時、ボブ・ディランはあの息詰る "Blonde On Blonde"を吹き込んでいたのです。ロビー・ロバートソンは当時の彼について、「もう止めさせなきゃ危険な位、緊張し、疲労した毎日を送っていた」と言っています。そして幸か不幸か、ディランは交通事故で背骨を折り、一年近くも寝て暮らす事になったのです。
さて、復帰後の第一作、 "John Wesley Harding"が、カントリー・ミュージックに歩み寄っていた事は、又しても世間を騒がせました。けれど、ディランにとっては、エレキ・ギターを手にした時も、このカントリーの場合も、あるサウンドを作るという事に興味の中心がある訳ではないのです。その録音の後のあるインタビューで彼は言っています。
「ぼくは、新しいサウンド作りの様な事については何も知らない。ぼくは只唄うだけだ。」それから、「歌はいつも、何か昔の事について書かれるものだ。ぼくは今、知っている事すべてを歌う事に満足している。」そして、「人々の幻影、それは否定はし難い物だけど、それと関わり続けなければならないとは、ぼんやりとしか考えられない。ぼくに出来る最善の事は、ぼくを満足させる事だ。そうすれば思い悩む必要はなくなる。」「自分のためにではなく、他人のために音楽をつくってみたところで、それは多分、その人達と関る事にはならないだろう。」これが、ボブ・ディランの行き着いた心境だったのです。
●僕にはわかる、今迄何をして来たのかが…
子供の頃、サーカス団にくっついて家出した、廃鉱しか無い故郷の町も、今の彼は愛しています。
ジョニー・キャッシュとデュエットした "Nashville Skyline"。かねての願い通りに女声コーラスやストリングスをバックに唄った"Self Portrait"へと、彼の心は安らいで行く様に見えます。挫けたという印象では無く、茶化したという風でもなく、安らいで行く様子なのです。
本当にそうなのでしょうか? 彼は語ります。
「ぼくは今、これ迄にやったあらゆる曲を聴くとすべて解る。どうすればそれが完璧な物になるかは解らないが、自分が何をやったのかが解る。昨日までは考えから考えへと追って行った事を、今はメロディー・ラインからメロディー・ラインへと辿る事が出来る。」 彼の新しいアルバムは、来年になりそうです。
今年のアルバム "New Morining" の中の"Time Passes Slowly"の一筋を、最後に書いて置く事にしましょう。
時がゆっくりと過ぎる/この山の中/
ぼく達は橋のねかたに腰をかけ/泉の片辺を行く/
魚をとろう/流れに浮かぶ/時はゆっくりと過ぎる/
君が夢見心地でいる時に/昔、恋した人がいた/
彼女は良い人で美しかった/二人は台所に腰かけていた/
彼女のママがお料理の間/窓の外/
空高い星を見やり/時はゆっくりと過ぎる/君が愛を求める時に。(大意)
〔『ミュージックライフ』1972年1月号〕
ボブ・ディラン
―彼が及ぼした最も大きな影響は「ディラン・スピリット」だった
●ディランの何が彼等に影響を与えたのか?
「難しい音楽」という物はあるのでしょうか? 「嫌いだという」一言で、忘れられない位に難しい音楽は? このML誌上の人気投票の常連であるニール・ヤング、ロッド・スチュワート、ジョー・コッカー、そしてジョン・レノン迄もが、挙(こぞ)って敬愛するボブ・ディラン。
その、当のボブ・ディランの名を、二〇人の人気者の中に見つける事が出来ません。当代の人気アーティスト達から一目置かれ、各々の音楽への影響を口々に認めさせる彼が、少なくともこの日本ではそれ等後輩達の半分の人気も無いのです。彼の音楽は難しいのでしょうか? 難しいとしたら、その何が難しいのでしょう?
「感じない」音楽というのは、誰にとっても有るものです。その全てを「難しい音楽」と呼ぶとしたら、どんな音楽も誰かしらに「難しい」と呼ばれるわけで、その言葉の意味は、曖昧なまま定まる所がありません。でも、ボブ・ディランの音楽は多くの読者にとって「難しい」かどうかは別としても、「感じない音楽」の一つなのだろうと思います。
そして、多くのアーティストやロック・ライターによる、彼への賛辞に出会うたびに、気に掛りながらもやっぱり「感じない」のだろうと思うのです。
例えば、ぼくは「プログレッシヴ・ロック」と呼ばれる類の音楽に、なんの感動も覚えない者ですが、それに関して気に掛かる事も有りません。つまり「嫌いだ」の一言で安心して居られるのです。何故かと言うと、その音楽の中に、ぼくの聴き取れない物が残っているとは思わないからです。
所で、「新ロック」のファンが、ボブ・ディランに感動しないとしても、実は、ぼくは不思議に思わないのです。
なぜなら、ロックに対する最もオーソドックスな反応のし方である「乗る」という体験にとって、ボブ・ディランに感動する様な感受性は、全く不必要だったからです。
いわゆるニュー・ロックと、ボブ・ディランの音楽とは、殆ど反対の方向を目指してやって来たと思います。
所が、昨年頃からこの日本に於いても、ロックの聴かれ方が変わって来ました。いわゆるシンガー=ソングライター達が受け入れられ始め、ロックはフォークとの境界を、すすんで放棄したのです。そして、いくらか移動したスポット・ライトの下に照らし出された人達、ニール・ヤング、レオン・ラッセル、ロッド・スチュワート、サンディ・デニー等、新しい彼等の音楽の奥に、いつも浮かび上がって来るのが、他ならぬディランの影という訳です。
だから、七二年三月号のこの雑誌へ、ボブ・ディラン名を記入せずに投票した読者のうちにも、「ディランなんか嫌い」で安心している人は、余り居ないと思うのです。
それならば、あなたが投票したアーティストが、一体ディランからどんな影響を受けたのかを、考えて見るのはどうでしょう? よく、影響というと、ギターのスタイルとか、リズムの感覚とか、サウンドの作り方について語られるけど、そのどれについても、ニール・ヤング、レオン・ラッセル、ロッド・スチュワート、サンディ・デニーの音楽の中に、ディランの模倣を聴く事はありません。第一、彼等各々が皆、似ていない音を持っているのです。ヴォーカルスタイルだって、誰がディランを真似ている訳でもなし。では、最近のアーティスト達が口を揃える「ディランの影響」とは、一体何に表われているのでしょう? インタビュー等で、彼等がその点に触れるには、詩に関しての事が多い様です。つまり、人としてのディランを尊敬していると言うのです。詩とは、勿論言葉です。だからそれは、その様な言葉を生む、ディランの精神的な体質が、彼等の範となっている、という事だと思います。ディランの影響は、彼等の音楽が演奏されている音と成る以前、彼等の心構えに対してこそ、及んでいるという訳です。
●「喋る」以上の切迫感を持つディランのメロディー
もっとも、六五年頃までは、音のレベルでも、ディランの影響は絶大でした。とりわけ、フォーク・ミュージックの新しいメロディー・ラインは彼が創った様なものです。まず詩が在り、その命令に従う様にそのメロディーは、時には詩を引きずったり、又詩の力で押し上げられたりして、唄う声になるのです。およそ、「メロディー」という、改まった印象を与えないそのラインは「唄う」と「言う」の中間の道を、ギクシャクと進みました。その有様は、「歌」というイメージからさえ離れてゆきそうに感じられたものです。
所が、その、詩とメロディーの奇妙な関係は、フォーク・ミュージックに現代の生命を与える、「新しい歌」としての地位を獲得したのです。以後、曲の拍子の頭にアクセントが置かれる、噛みつく様なイントネーションは、彼以外のフォーク・アーティストの歌の中にも、しばしば聞かれる様になり、今やそれは、ロックやフォークのヴォーカルに於ける、ひとつの普遍的なパターンとして引継がれています。例えば、常に生々しいミック・ジャガーの唄い振りは、最もロックらしいロックの中でも、アフター・ビートに身を任せる事をしない、ディラン的アプローチだと思います。それは表現しようとする時の焦躁自体を含めた表現であり、自分自身の音楽としてさえ、期待どおりに完結することを拒否する、反抗的な表現であると言えます。
もうひとつ、ディランが彼のメロディー・ラインを得た必要上の理由は、出来る限りの多くの言葉を、歌らしいまとまりの中に、埋没させない様に聞かそうとした事です。その気持ちが、あの連なる字余りと、日常「喋る」以上に切迫して、それを「喋る」ための音楽上の表現手段を、必要としたのです。そして彼が得たそのメロディー・ラインこそは、彼の詩、ひいては彼の思考その物が、トイレット・ペーパーの解ける様なし方で、生まれて来た物だと言えます。そのメロディーとヴォーカル・イントネーションの生々しさは、日本語で唄う日本のシンガー=ソングライター達にまで影響を与え、最近米・英では余り聴けなくなった、ディランの生の影響を、彼等の新しいフォーク・ミュージックの中に、著しく聴く事が出来ます。そして、米・英のロック・シーンに於いては「ボブ・ディランという存在」の意味が、今こそ明らかになろうとしているのです。目指す所を変えたロックの、新しい担い手達の音楽の向うに……。では、彼等が音楽を創ろうとする時の心構えに対して、ボブ・ディランが与えた影響とは何だったのかを、考えてみる事にしましょう。
●彼が及ぼした影響、それは「ディラン・スピリット」だった
それにはまず、ボブ・ディランの音楽と反対の方向を目指した、あの「ニュー・ロック」とは、一体どんな心構えから生まれて来た音楽だったのかを、明らかにする必要が有りそうです。それは多分、今あなたがロック・ファンで居る事の、キッカケとなった音楽でしょうから。音楽史上、ロックが初めて持ち得た物。それに依ってこそ、ロックが他の音楽から区別される物。それは、あの「ラブの精神」だと言われます。所がこの言葉は例によって、広まりこそすれ、その本当の意味が、突き詰められた事はありませんでした。まごまごしていると、ロックの本質を解き明かす鍵であるその言葉も、音楽の推移とと共に語られなくなってしまうでしょう。そこで「ニュー・ロック」という音楽の名前が意味を失おうとしている今、その音楽を「ニュー」たらしめていた「ラブ」とは何だったのかを、ハッキリさせようと思います。
その「ラブ」が、恋人同志の間に在る様な、ケチで欲張りな物でない事は、誰でも知っているらしいです。でも一体、大勢の人達の間に等しく存在し、いつもその人達を包み込んでいる様な、愛がどうやって成り立つのでしょうか? それは、お互い同志が、他人の思考、創造、生活といった物を、価値ある素晴らしい物として認め合う事で成り立っているのです。人間の不安の源であるそれ等の問題の、行方も知れぬ迷路に、誰もが迷い込む事なく毎日を暮そうとして、その入り口を閉ざした「村の門」が「ラブ」であり、それこそが「ロック世代」の象徴なのです。ニュー・ロックとは、その精神にのっとった、世代のテーマ・ミュージックだった訳です。その音楽が、本当に「ニュー」であったのは、「村の門」を出て行かない人も創造者に成り得る、という事を始めて証明した点です。なぜなら、音楽に限らず、創造という仕事は、そのために独りで、村の門を出て行った人のする事だったからです。そしてロックは、村人達の祭ばやしの性格を持って行ったのです。
さて、ボブ・ディランは、そのスタートから、自分の音楽を祭りばやしにする事など考えても見ませんでした。
もっとも、彼が唄い始めた当時、祭ばやしの世代は小学校に通っていました。けれど、彼の出発とはまさしく創造しない人達の村を離れて、独り苦難の迷路に旅立つ事だったのです。それは、創造者としての、伝統的な姿勢であると言えます。何故なら、村の門を抜けると、その人の進むべき一筋の道が、足許から見晴るかす沃野の彼方へ延びている訳ではなく、其処から始まるのは自分自身の迷宮に至る道。創造とは、その本来の意味に於いて、個人的な仕業だからです。
ボブ・ディランの努力は、自分自身を、より迷路深く追立てるために払われて来ました。それも又、創造者としての、オーソドックスな姿勢であると言えます。彼の音楽が最初に有名になった時、それは公民権運動のシンボルとしてでした。その成功は、彼自身にとって、満足すべき第一段階ではあったけれど、同時に、彼の良心にとっては、自分が祭ばやしの音楽家にされかねない、危険な事態でもあった訳です。そこで彼は苦慮の末、『ボブ・ディランの別な一面』と題したアルバムを発表し、彼の信仰者達の教祖の座に納っていた自分を嘲る歌を唄って、彼等を突放すと同時に、自分をより険しい場所へと向わせたのです。それはつまり、シンガー=ソングライター、ボブ・ディランとして、彼個人の迷宮に、一歩を踏み入れる事でした。
六五年、エレキ・ギターに持ち換えた彼に対する非難の渦は、今思うと、彼の音楽の更なる緊張を生み出すための、大きな力だったと言えます。かと言って、それがディランの策謀だったと迄は言い兼ねますが、彼は創造者の習性として、緊張を持続させる方法を心得ていたのだと思うのです。そしてつけ加えたいのは、当時、ロックが村祭りのおはやしとしての自覚をまだ持っていなかったという事です。もしロックが、六九年のロックであったら、ディランは決して、その方向へは進まなかったでしょう。確かにディランは自信家です。でもそれは、自分が強者であるという自信ではなく、たとえ行き倒れるとしても、その時の自分は独りであろうという自信なのです。ラブの名の下の新しいロック、それは、彼にとって無縁の物でした。その嵐が世間に吹き荒れていた間も、彼は彼の世界を旅し続けて来たのです。ボブ・ディランの音楽が難しいとしたら、それは彼自身にとっての、音楽と関る事の困難が、そのまま滲み出ていたからでしょう。「嫌い」という一言で、忘れられない難しさが有るとすれば、そういう音楽にだけです。
"Blonde On Blonde"には、ロックという音楽をもって、創造の正道を行こうとする彼の、苦難の頂点が収められています。そして、交通事故に依る一年の休養。
復帰第一作の"John Wesley Harding"は奇しくも、現在のロックがカントリーへ傾斜して来た事の、前兆であったかの様です。カントリー・ミュージックへの回帰それは勿論、エレキ・ギターを持った時と同様、ニュー・サウンドのクリエイトを企んだ訳ではなかったのです。音楽に於ける彼の努力は、いつも、実際に聞こえる音より、一段奥のレベルで尽くされて来ました。ひとたび音となり、アルバムとなった彼の音楽の中に、生の苦心工夫が残っている事はありません。自分が何をやったかを聴く人に知らせるヒントをチラつかせる様な事は、彼の最も好まないやり方です。彼は、彼の問題として、音楽を創っているのですから。
そして、彼と、その音楽との関りは、次第に、古い友人達同志のそれに似て来ました。その関りの中になった緊張と苦悩とが、余裕と愛情に変わり始めたのです。
今、土の匂いを漂わせる新しいロックや、シンガー=ソングライター達各々の音楽の向うに見える、ボブ・ディランの影とは一人の音楽家として、自分の迷路を旅して来た精神、いわば「ディラン・スピリット」としての物です。ラブの村の祭りは、そう長くは続きませんでした。今ロックは、それぞれが、個人の世界と向き合う時に来ています。今度祭りを復活出来るのは、ディラン・スピリットを持ちながら、ラブのリーダー役も勤まる、レオン・ラッセルの様な人に依ってでしょう。
もしあなたが、ロックに「乗る」という事につかれ、病上がりの様にうつろな自分を意識したら、それがボブ・ディランに耳を傾ける機会です。人は皆、祭りに同化出来ない世界を、心に持っています。素直であればある程。
〔『ミュージック・ライフ』1972年2月号〕
ニール・ヤング
●彼のピストルは常に自分のこめかみを狙っている
「女の子は何を好むか」という問題に、日頃精一杯の関心を払っているぼくの、昨今見聞をする情報では、ポップ・シーンの中の個人として、今一番愛されている人はニール・ヤングらしいのです。幸いこの事は、エルトン・ジョンが来た時、ナイジェル・オルスンに人気が集まったり、ショーン・フィリップス先生の神秘性が尊重されている事なんかに比べると、決して不可解ではない、女の子ならずとも納得の行く事なのです。
所でぼくが今、彼について抱いているイメージは、この一週間というもの、ぼくを辞書の下僕にさせた彼の詩の中から、その代償として引き出した物であるよりは彼の音楽から聴き取って来た物なのです。その事はきっと、彼を愛する多くの女の子達においても同様でしょう。彼の唄と演奏、彼の音楽は、その言葉の意味を解らぬ人に向かってさえ、一人の人間としての彼自身をさらけ出して来る、まれに見る力を持っているからです。そして、そのさらけ出された物が、女の子をして彼を愛させるに恰好な物だと思うわけです。
それにもう一つ、彼位、自分の音楽を代表する様な顔付きで写真に写るミュージシャンも珍しいのです。つまり、彼の顔には彼の個性が残らず出ていて、彼の音楽にも個性がそっくり表われているという次第です。だから、ニール・ヤングに関する限り、彼に向けられた女の子達の愛も、ちゃんと彼の音楽故の物だと思えるのです。一見当然の様な事だけど、「一人の人間」がこんなにも表現されている例はロックと言う音楽においては、実は珍しい、いわば画期的な事だったのです。とりわけそのアーティストが女の子達に愛されている場合には。
さて、訳詞を待つまでもない程強烈なニール・ヤングのその個性の女の子に訴える力について、先ずお話ししましょう。
例えば "Tell Me Why"と彼が唄う時、一体彼が何を告げてもらいたくて"Tell Me Why"と繰返すのかは解らなくても、彼のその気持ちの切実さたるや、痛ましい程に伝わって来ます。さて、其処で問題なのが、その「痛ましい程」という点なのです。一人の歌手が"Tell Me Why"と唄っただけでこんなに痛ましいなんて、やたらにある事じゃないのです。ニール・ヤングと来たらまるで、自分のこめかみにピストルを当てて、「答えてくれないなら引き金を引くよ」と言っているみたいです。それは、それ程緊迫しているという意味ばかりでなく、彼には、「当然自分は答えを与えられるべきだ」という、執念にも似た意識が在るという事です。だから彼が、"Tell Me Why" と唄う時、その言葉は、被害者の立場からの訴えの響きを持つのです。又興味深い事は、彼のピストルは決して相手にではなく、自分の頭に向けられているという事です。
ここで、彼の顔を想い浮かべて下さい。悩み過ぎた子供の顔。目は、強大な無言の迫害者を見つめ、口は「何故ぼくをこんな目に合わせるの?」と言おうとしています。恐怖を前に、彼はその質問を放棄して廻れ右する事をせず、手の中の武器を自分の顔に当てて答えを得ようとする。それが彼のやり方なのです。
彼のこのイメージは、"Tell Me Why" に限らず、彼独特の緊張感を持つ作品の中には必ず見る事が出来ます。それは、女の子にとっては、胸を締めつけられる様な、悲劇のヒーローの姿だろうと思います。でも、もし彼がこのやり方しか知らない男なら、同じく男であるぼくから見れば、その人が現実に側にいても深くは係りを持ちたくない様な、厄介で危険な人間であるだろうし、更にもし、彼が自分の頭にピストルを当てて唄うのが恋の歌で、あの痛ましさが相手の愛をせがみ取らんが為の物なら、彼の歌はウンザリする程甘ったれた性質(たち)の悪い物になるでしょう。
所が彼のアルバムには、小さなコミカルな曲も、のどかで美しい曲もちゃんとあって、それ等とあの息詰まる曲とが上手い具合にお互いを引き立て合っている事は、皆さんご存知の通り。
そして、彼が実際に恋を歌うのは軽い曲での事が多く"Cowgirl In Sand"の様にギターが凄まじく緊張する曲でも、唄われる詞は余裕たっぷりな物だったりします。
さてそれでは、あの切実な"Tell Me Why"が、一体何を尋ねる言葉か考えなくてはいけません。
航路取る心の船は廃港を抜け/夜の波間を漂い舞う/
物言わぬ探索者は黒馬に股がり/己の驚きの内、独り競う他は無し/
何故なのか、何故なのか(大意)
二行目の探索者は船を捜すそれではなく、一行目の心の船と同じ主体の別な表現です。この歌は、「与えられるべき答えが在る」と信じる彼が引受けぬ訳には行かない、彼の人生のテーマ・ソングとも言うべき物。ニール・ヤングは、彼を捕らえる恐れと驚きの中で敵も味方もなく、黒馬を蹴立てて人生の答えを捜す探究者という訳です。でも、続く節に2人称で呼ばれる相手が登場し "Tell Me Why"という言葉がその相手に向けられている様な印象を与えるのが、ぼくに疑問なのですが、勿論彼は、其処で答えを期待しているわけではありません。
君独りで事物を秩序立てるのは難しかろうね/借りを返せる齢ではあるけど/
身を売るも良いその若さには嘘でもつきに、いつかおいで/
ぼくは変わり映えもせずいる筈だ/ぼくが寂しさに暮れていても/
君にはその戒が解ける/笑ってでも、何でもね(大意)
彼がその女性に望んだのは、やはり答えの切れ端ですらなく、いわば暫くの休息なのです。そして唄われる詞は、航路を取る心の舟という初めの節に戻って行きます。
●孤独な探索者とそれに徹する時のジレンマ
さて、探索者ニール・ヤングが人生を歌う時、その歌はどうしても重苦しい空気で満ちます。そんな彼を代表する様なもう一つの歌に"Helpless"があります。
北オンタリオに一つの町/家路へと散る人々を慰めるのは誰の夢?/
ぼくの心には、今尚行くべき場所/それを求めた、ぼくの変化のすべてよ
星々を背に、登りかけの月が黄色い、青い青い窓/巨大な鳥が、ぼく達の目に
影を落として空をよぎる/救い無きままぼく達を置いて/
救い無きままの、救い無きままの……(大意)
この歌で注目に値するのは救いの無い状態に置かれているのが彼個人ではなく、「ぼく達」になっている点です。それから彼は、自分と人々との係りを唄います。
彼等がまだ、唄うぼくを聴ける今/鎖は結び目固く、ドアを封じているけれど/
彼等はどうにか、ぼくと共に唄う。
心には行くべき場所を持つ彼も、救い無く散って行く人々のために、コミュニケーションの困難を知りながら唄う、そして其処に、一抹の希望を消せずにいる所が、ロックの世代に生まれ、音楽的にはウエスト・コーストの血を受け継ぐ彼の、彼らしく苦難する姿なのです。かつてのバッファローの分裂を振り返って、スティーヴンは語ったそうです。「僕はビートルズになろうとし、ニールはボブ・ディランになろうとしたんだ」。ぼくはこの話の中に、今につながる彼の出発を見つけました。
ボブ・ディランは誰のためにも唄わず、孤独な探索者に徹し、今や白い馬の上で競う事も無いかの様だけれど、ニール・ヤングがその道を歩もうとする時、彼の心は深遠なジレンマに落ち込むのです。"Helpless"も結局は、シュールなイメージを持つあの二節目に戻り、「救い無きままに」が繰返されてフェィド・アウトして行きます。
それでも彼は、苦悩する人々のために唄う事を止めずに"Don't Let It Bring You Down"ではこう言っています。
老人はトラックの揺れて行く道端に横たわり/青い月が荷の重みに沈んで行く/
ビルディングは空をそぎ取り/冷たい風が夜明けの通りを吹き抜ける/
朝刊は舞い、死人が道端に横たわる/その目に日射しをたたえて/
挫ける事はないのです/それは城が燃えるというだけの事/
まるで心変わりした誰かの様に/やがてあなたは立ち戻る/
盲の男が、夜の光を走り抜ける/一つの答えをその手に持って/
「眼差の河辺に降り来たれ」/そしてあなたは本当に解るのです/赤い灯のまたたく雨の窓/
半島の女神のむせび泣きが聞けますか?/白い杏は、雨の溝に棄てられるでしょう/
あなたが独りで家路に着くなら/挫ける事はないのです/
それは城が燃えるというだけの事/まるで心変わりした誰かの様に/
やがてあなたに立ち戻る。(大意)
●宇宙船それは母なる自然の銀色の種子
今度は彼の、恋の歌を訳しましょう。その中でもどうやら、彼の恋に対する普遍的な態度が表われていそうなのは、あの静かな"Birds"です。
恋人、それは空翔るもう一人の誰か/頭上遥かに、太陽近く飛ぶ/
そこは明日/二度とは訪れぬ物を見る/それは今日/
あなたを置いて飛び行くぼくをあなたが見上げる時/あなたの知る物すべてに影が落ち/
羽根はあなたに降りかかる/ならばあなたの、行く道示そう/
それは空
この詩は具体的なエピソードが語られていない点で、外国の歌としては珍しいのですが、その代わりに、ニール・ヤングの考える一つの愛のパターンが、二羽の鳥の姿に借りて語られています。人生を歌う時とは打って変わった、安らかで優しい気持ちが表われていると思います。
さて今度は、女の子の心をつかもうとする彼が、決して自分の頭にピストルを当てたりはしない事を、あの凄まじいギター・プレイで聴かせる"Cowgirl In The Sand"の詞で証明しましょう。それはとってもシャレた台詞なのです。
ハロー、砂まみれのカウガール/ここは君の牧場かい?/しばらくここに居てもいい?/ほんの今だけ/ぼくのために装っておくれ/誰かが君を愛している時を/
それはつまり/君にそんなゲームをしたくさせる、あの御周知の婦人になる事さ(大意)
この歌ではこの後、二人がありったけの罪を犯した挙げ句、カウガールのバンドが錆ついたりするのですが、もう少しシリアスな恋を"Dance Dance Dance"で聞く事にします。
考える事のないは、恋その恋に虹をかける/雲が夜の魔女だという考えは/
あなたに初めて会った時に消えた今は、あなたが気にかけてくれる事ばかり想いめぐらす。
踊れ、踊れ、踊れ/
日の光に戯れる人生を愛すより、もっと彼女を愛さなくちゃ/ある早い朝に、ぼくは彼女の恋人になるぞ。(大意)
残念な事に、この曲はクレイジー・ホースが唄うのしか、ぼくは聴いた事がないのだけれど、ぼくはこの詩については、現実に彼が恋する時はこんな風だろうと想像しているのです。
そして最後に、これからのミュージッシャン達が恋以上に歌う事になるかも知れない、失われて行く自然への愛を彼が歌った"After The Gold Rush"を訳そうと思います。
そう、鎧の騎士に会う夢を見た/女王について何か言い/百姓達は唄っており/
太鼓叩きが、太鼓を叩く/そして射手は樹を射砕き/
ファンファーレが風に乗って太陽へ向った/走って、母なる自然を見よ/この一九七〇年に
火の落ちたボイラー室で、満月を目に横たわり/物事の変化を望んでいた/
太陽の爆発が空から届いた時/ぼくの頭でバンドが演奏し/
まるで高みに達したみたいだ/友達の言った事を考えて、それが嘘ならいいと願う/
そう、太陽の黄色い霞に浮ぶ、銀の宇宙船達の夢を見た/子供達が叫び/
色達は、選ばれた一色の囲りを廻って漂う/すべての夢の中で、積荷が開始された/
宇宙船達は、太陽の中の新しい家となるべく飛んで行く/母なる自然の銀色の種子だ/
太陽の中の、新しい家となるべく飛んで行く/母なる自然の銀色の種子だ
(大意)
〔『ミュージック・ライフ』1972年2月号〕
楽観的ニヒリスト
スティーヴン・スティルス
●CSN&Yは最後のロック・グループかもしれない
「ぼくはビートルズに、ニールはボブ・ディランになろうとしていた」これは以前、この本に掲載された“スティーヴン・スティルス・インタビュー”の中で、スティルス自身の口から語られ、その記事のタイトルにもなった有名な言葉です。そしてこの言葉は、バッファロー・スプリングフィールドとして、ロック・シーンへのスタート・ラインに立った時点での、自分とニール・ヤングとを評したものでした。
さて、それから数年を経た今、彼等の辿った輝かしい道程は、この本を読む様な人達にとっては“初歩的知識”の一つとなってしまったし、現存するグループ“CSN&Y”はと言えば、その一文字一文字が、個々の音楽観のシンボルとしての光を放ちながら集まっている、正に“星座”といった所です。それぞれが好き嫌いや比較の対象になり得る様な、独立した音楽世界を完成させている四人のソロ・アルバムが物語っているのは、CとSとNとYが他のロック・グループのメンバーの様に、“グループ・コンセプションの部分品”ではないという事です。“CSN&Y”というのは四人が各々の音楽観を胸に集う為の、お気に入りのサロンに付けた名前に過ぎません。
ニュー・ロックのムーヴメントに片が付いた今では、彼等こそが本当のスーパー・グループだとぼくは思うのですが、それは、彼等の一人一人があの渦中から、“今日のロックを支え得る音楽観”を得て残り、しかもそのサロンでは、彼等四人のコンセプションの、見事な融合を聴かせているからです。その意味では、ビートルズから発して以来、嵐の中に消えていた“ロックのメイン・ルート”がやっと、CSN&Yの足の下に姿を現わしたとも言えます。
しかし同時に、“CSN&Yは最後のロック・グループかも知れない”と、ぼくは思います。無論、様々なタイプのグループが、これからも誕生し続ける事は当然だとしても、現在彼等が集めている程の支持を集めるグループは、もう登場しないのではないか? という気がするのです。この事は既に、現在のロックが、“パーマネント・グループに依って表現される音楽”という概念から離れ始めている事に示されていますが、ここでその事をもっと明確にしましょう。
よく“ロックの心”という事を言いますが(“シカゴにあってBS&Tに無い物”と言えば、その意味がハッキリするでしょう)、それを支えるべき“生命力の伝統”を担う役割が、かつての“ロック・グループ”の手から離れて、“個人及びその一派としての演奏家達”の手へと移りつつあります。そしてその変化を、ロックの流れの必然として聴ける様な耳を、皆に準備させた“橋渡し役”が、正にCSN&Yだったのです。具体的に例を上げると、バーズやジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド達から生まれて来た物が、レオン・ラッセルやマーク・ベノ、ドン・ニックス達の音楽の中にも流れ続けているという事は、CSN&Yの音楽を通してこそ、皆の耳に明らかになって行ったわけです。
そして、彼等の音楽がそんな大役を果すことが出来たのは、四人の音楽的コンセプションの微妙な兼合いに依っています。
●スティーヴンはビートルズになり得たか?
さて、“僕はビートルズに、ニールはボブ・ディランに……”と言うスティルスの言葉と、四人のソロ・アルバムとを想い出してください。その際、クロスビーとナッシュを、ビートルズとディランの例えに当てはめるなら、ザ・バーズの血を引き、最も非コマーシャルなアルバムを作ったクロスビーがディラン派。元ホリーズの、英国人で、ソロ・アルバムをポール・マッカートニーに誉められたナッシュがビートルズ派、という事になるでしょう。そして“ビートルズ的”という事は、聴く人達の心を横に結びながら拡げて行く、“水平のコミュニケーション”を意味し、“ディラン的”という事は、聴く個人の心の奥深くにはいり込んで行く、“垂直のコミュニケーション”を意味しています。
CSN&Yは、この二通りのコミュニケーションの能力を備えていたからこそ、“ニュー・ロック以後”の最初のグループ、或は“ニュー・ロックの最後のグループ”に成り得たのです。では、スティーヴン・スティルスはその成功の中で、ビートルズに成り得たのでしょうか?
現在の彼は、リンゴ・スターから買い受けた牧場付きの別荘を、“成功からの避難所”にして、そこでは乗馬や、時にレコーディングを行なっています。そして、彼はその暮しを大いに気に入り、お嫁さんと静かな毎日と、ショー・ビジネスに関りない音楽の創造とを夢見ながら、“田舎の幸福”を信じている、という訳です。それは実に、“私生活のビートルズ”に似ていると言えます。そして彼は“ロックン・ロールには飽き飽きしている”とも、“わざわざコンサートへ出かけて行きたいと思う人も余り居ない”とも言います。そうした言葉と、“田園生活”を愛する彼とを合わせてイメージされるのは、“楽観的なニヒリスト”といった姿です。それは彼が、ビートルズと同様な仕事を為し終えた、という事を物語る姿なのでしょうか?
●彼にとってロックは“新しい秩序”のシンボルである
そこで、彼が例外的に“コンサートへ出かけたくなる人”として挙げた名を見ると、デラニー&ボニー、アレサ・フランクリン、トム・ジョーンズ、ジョーン・バエズ、ニュー・ライダース・オブ・パープル・セイジ、グレイトフル・デッド、デイヴ・メイソンといった人達です。さあ、この雑多なリストから、サラブレッドと共に暮し、ロックのクラブには愛想をつかしている彼の、“現・音楽観”を分析してみるとしましょう。
一通り見渡して思うのは、かなり広範な人達の音楽を聴く意志があるという事で、彼は、音楽その物に愛想を尽かしたと言うよりも、“成功性ウツ病”の軽いのにかかって、“面白いと思う物”が減り始めているのです。
でも、アレサ・フランクリン、トム・ジョーンズといった所を聴きたがるのは、“イベント”としての音楽を楽しむ気がまだ有るし、シンガーなら一様に憧れる、ソウル・シンギングに対する畏敬の念を、彼も又持っているのでしょう。つまり彼は、“歌手”である自分にも、音楽家としての執着を感じているはずです。
ジョーン・バエズについては、グレース・スリックやジュディ・コリンズに熱を上げた彼の、“女性”に対する嗜好と、“音楽”に対するそれがオーバー・ラップされている様にも思えますが、彼自身もそれを承知していて、意識的に彼女を、“歌を唄う”理想の女性へと祭り上げているフシが有ります。
次に彼が、“良いカントリー・ミュージックのバンド”と自ら言うのが、ニュー・ライダースとデッドで、この二つはバッファロー以来の彼自身の音楽と、最も簡単に重なるはずです。又、デッドに関しては、音楽その物だけでなく、“音楽との関り方”についても、“成功しようとしまいと、良いアルバムを作る事だけを考えた最初のバンド”として、見習う所が大きかった風に言います。デッドの神がかり振りは、彼の口を借りる迄もなく有名ですが、いわば“ヒッピーイズムの教祖”的な彼等が、それに基づいて音楽と関るやり方は、軽い“成功性ウツ病”の彼にも、まだ評価と関心の対象に含まれている訳です。
所が、ジェリー・ルービンの様な政治的急進主義者に話が及ぶと、彼はキッパリと拒否反応を示します。なぜなら、その考え方は、ある人間が牧場付きの別荘に籠り、サラブレッドの背中で新曲のメロディーを練る様な生き方を許さないからです。又彼は、自分も含め、ウェスト・コーストのロック・ミュージシャン達に依って培われた“ロックの心”は、ある新しい秩序の中心に在るべき物だと考えています。つまり彼は、自分達の生み出した精神が、やがてその世代に依る政治が行なわれる時に、その根本的イディオムに成るだろう、と考えているのです。従って、彼にとってのロックは、来たるべき“新しい秩序”のシンボルであって、“アナーキズムの音楽”ではありません。
この考え方こそ、彼が現在の音楽を生むための礎石だったと思えるのです。彼の二枚のソロ・アルバムは、CSN&Yの誰のアルバムよりも、スワンプ・ミュージックの影響を受けています。それも、ダグ・カーショウやリンク・レイの様に“土着的”なそれではなく、レオン・ラッセルやマーク・ベノといった、“組織的スワンプ・ミュージック”へのアプローチを見せているのです。肝心なのはこの点です。
彼は、その様なミュージッシャン達がしている事こそ、“ビートルズが地に降りてすべきだった事”だと認識したのです。なぜならスワンプ・ミュージックの内では、彼が考えている様な“愛在る秩序”が実践されているからです。総勢二〇人もの人が集まりコーラス隊は遠慮なしの大声で唄い、ホーン・セクションは王様の凱旋を讃えるみたいにおおらかに吹きまくり、演奏中の殆んどの時間というものは、全員が各々の音を出している、彼は、そんな中で歌を唄いたかったのです。デラニー&ボニーの演奏を目の当たりにする時、彼は、飛び出して行って一緒に唄いたくなるに違いありません。
●デイヴ・メイソン、ジョージ・ハリソンとの共通点
所で、余り知られていないのは、ニューヨークのコーヒー・ハウスに出入りを始める迄の彼の少年時代が、南部の各地でおくられたという事です。そして、グリニッジ・ヴィレッジでジョン・セバスチャンに出会ったのは、南部の名門大学をドロップ・アウトした挙句でした。そう言えば『デジャ・ヴ』のジャケット写真では彼独りが、南軍の青年将校といった雰囲気を湛えていましたけれど、そんな事より興味深いのは、一〇代の数年間を、南部より更に南部、中米のコスタリカで過ごした事です。
ぼくはその記事を読んだ時、“成程”と思ったものです。ウェスト・コースターである筈のスティーヴン・スティルスの音楽の中に、どうしてラテン風な陽気さが混っているのだろう? と、ずうっと不思議に思っていたからです。例えば、彼が唄の合い間に時々挟(はさ)むあの掛け声などは、何処か、カリブ海の彼方から聞こえて来る様に感じられていた訳です。二枚のソロ・アルバムにも、最近増え始めたスワンプのアルバムには無い、“乾燥した熱気”がありますが、それは、アメリカのディープ・サウスの“湿った熱気”とは違う物です。
さて、“愛在る秩序”を聴きつけて、スワンプ的なサークル・ミュージックを手掛けている点でに於いて、スティーヴン・スティルスに最も近いコンセプションを持っているのが、デイヴ・メイソンです。
彼が、音楽的にも実際にも英国をあとにしたのは、デラニー&ボニーのフレンズに加わった事に依ってでした。彼のアルバムの場合は、コーラス・ハーモニーにはウェスト・コーストの爽やかさを持たせているけれど、その奧ではやっぱり“南部の優しさ”を求めています。彼は、デラニー&ボニーとの演奏の中にそれを見つけたからこそ、英国を離れ、トラフィックから考えも及ばない、素晴らしいアルバムを残しもしたのです。スティルスとメイソンの共通点は、その“南部志向”にある訳ですが、最後にもう一人、スティルスの目標だったあのビートルズの一員、ジョージ・ハリソンが、今や彼等と同じコンセプションの音楽を創っている事こそ、忘れてはならない一大事です。それはスティルス自身にとっても大変な事に相違ありません。
あのビートルズの一員が、今こそ彼と同じ地に降り来たりて、“愛在る秩序を謳うサークル・ミュージック”を奏でるのですから。事実、彼はジョージ・ハリソンのそのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』が、何年も自分の心に残るだろうと言っています。そして又、そのアルバム全体のコンセプションは、『サージェント・ペパーズ』の中の「ウィズィン・ユー、ウィズアウト・ユー」の詞に、既に集約されていて、彼はその言葉を、石碑に刻んで公園に置きたいとも言うのです。“ぼく達皆の間に在る空間について、ぼく達は話しています。そして、人は皆独りである事を識る時が訪れ、人生は、あなた在りでも無しでも流れて行くのです”
だからこそスティーヴン・スティルスには、彼のあの音楽が必要なのです。
〔『ミュージック・ライフ』1972年5月号〕
レオン・ラッセルの『カーニー』
『カーニー』のベスト・セールス。それはようやく発売されたシェルター・レーベルの、そしてレオン・ラッセルというスーパー・スターの、輝かしくも当然な“日本上陸”のし方ではありましたが、世間が、あのアルバムこそが彼のスーパー振りの象徴だと思っているとしたら、それは彼の紹介が遅すぎたために違いありません。『カーニー』の彼がスーパーなのは、ひっくり返した意味に於いてです。つまり、彼はあのアルバム以来方針を変え、自分が“スーパー・スター”である事をすねる[#「すねる」に傍点]という特権を行使しています。
“最後のスーパー・スター”。これが彼に献じられた、皆様御存知の称号でした。しかし、レコード会社の企画室でこのセリフがひねり出されていた頃、当のレオン・ラッセルの録音スタジオでは、そのもはや強調する必要も無いイメージを逆手に取ったアルバムが出来上っていた、という訳です。だから、“スワンプ・ロックの王様”という彼の肖像は『レオン・ラッセルとシェルター・ピープル』迄ブロー・アップを重ねて来て、今それは名声の殿堂の壁に掲げられ、『カーニー』での彼はなんとその前に立ち、嬉し気に哀し気に表情豊かに、自分の肖像に解説を加えているのです。それ等の曲には一聴、甘く、やるせなく、古めかしい気分が流れていますが、それはレオン・ラッセルが自分を語る時の趣味に違いなく、そのいかにも流行歌然とした意識的な陳腐さにこそ、ロックン・ローラーとしての自分の感性の故郷である、アメリカン・ミュージックの愛情と皮肉とのあらわれだと言えます。
所で“スター”のイメージという物はそれが出来上った時、当人にとっても客観的な物なのだろうけれど、大方のスターは、やっと泳ぎ着いた海の中の岩に留まる様にそれから離れず、その後の努力といえば更に岩を堅固にする事です。しかるにレオン・ラッセルの仕業たるや、その海も岩もが虚構の産物である事をタネにしたチラリズムのストリップティーズだから、固唾を飲んで結末を待つのは野暮の骨頂。ショールやストッキングである一曲一曲が床に舞う度、ニヤニヤして手を叩くのが通というもので、どうせ最後に現れる姿は、顔半分で笑いもう半分で泣いて唄うピエロなのです。しかしそのピエロは、どこまでも観客は自分の演技に馴れ合う、という自信を持っているものだから、時にリミット以上に脱ぐ事があって、あのヒット曲「タイト・ロープ」では、ピエロのヒロイズムが昂じて観客に舌を出しています。
「俺は張られた綱の上/片側は氷、片側は火/君等と俺のサーカスごっこだ」
と唄い始めやがて、
「君等の理解の一切は、俺の頭のシルク・ハットで/ピンと張られた綱だけが、俺の持ち場と信じてる。/そこで墜落の茶番劇、俺の身体は真っ逆さま。知りたがり屋のキリンさながら/君等は落下の軌跡をのぞく。/それで結構、その筋書きを悟る程、君等の目が利く筈もなし」
――といった具合。これはレオン・ラッセルというスターが、スターで在るとはどういう事なのかを語ったいわば全ストで、聴く方はと言えばこんなにも馬鹿にしてくれた事を喜ぶ、つまりこれこそが今や、レオン・ラッセルとぼく達とのソフィスティケイティッドな関係なのです。
さて、彼が額面通り“スワンプ・ロックの王様”に収まっていたのが前作の『レオン・ラッセルとシェルター・ピープル』ですが、ロック・シーン全体の流れの中で“レオン・ラッセルの音楽”として代表されるべきアルバムはやはりこれだと思われます。と言うのも、今後の彼がどんな音楽を創って行くかは別として、このアルバムには、ボブ・ディラン以降のアメリカン・ロックの一つの尤もな帰結が示されているからです。先ず、ボブ・ディランの音楽が持つ意味と言うのは、ポピュラー・ミュージックをもってなお、人間の真摯な創造は可能な事、殊に“詩”を“声”が唄うという所為によってこそそれが可能な事を具現した点であり、この音楽のコミュニケーションの有り様は、個人たる奏者から個人たる聴き手への垂直な伝播なのです。さて、レオン・ラッセルはウェスト・コーストのスタジオ・マン兼アレンジャーとして腕を磨いて来はしたものの、楽器を通じてしか音楽を考えられない“職人”ではなく、様々な音楽の質という物を洞察する眼を持つ人だったから、この垂直な伝播の力を認め、自らも得ようと思い到りました。しかし彼は根本で真摯な芸術家ではなく、従って詩人でもないのだけれど、彼の知恵は、持ち前の執拗な自我と自己顕示欲とをその“真摯さ”に代えて、垂直な力の起点としたのでした。又彼は己れの自我を表わして余りある“声”を持っていたから、残る問題は、“詩”をカヴァーして聴く者の耳をいつも充足させて置くべきあるサウンドの発見、という事に絞られて行った訳です。
一方、ハリウッド音楽界の腕利き演出家としての彼の耳目は、早くからビートルズの不思議に奪われていたのです。何故ならそこには、古今様々な音楽が歴史の所属を解かれて集い、現実よりも現実感に溢れた夢の世界を型成していて、そこを訪れる人々は“個人”という呪縛を忘れて誰彼なく幸福な聴き手になってしまうからなのでした。そして、その水平なコミュニケーションの力は恐らく、過去人間が体験した最高の物だったでしょう。
後に輩出したニュー・ロックとはおしなべて(ハード・ロックもプログレッシヴ・ロックも)、この水平なコミュニケーションという事を、ビートルズとは違った手段で実現させようとする物だったと言えます。
レオン・ラッセルは六八年、アサイラム・クワイアに依ってその戦列に加わりました。彼とマーク・ベノが選んだ方法は、かの『サージェント・ペッパーズ』を解析し、それをアメリカ的な音楽に再構成する事でしたが、ここで彼等の用いた職業的技術の総ては、ウェスト・コースト流なそれであった事が特筆されます。とまれ、このアサイラム・クワイアを含めて、種々の要素を駆使して音楽の新しい世界を創り上げるという試みのことごとくは、ビートルズに匹敵する現実感をその音の内に宿す事は無かったのです。レオン・ラッセルは直ちにこの不可能を悟り、心に期する所あって『第二集』の発表を取止め、新しいサウンドを探す彼の視線は南部へと移って行きました。
既に様々な場所で語られた様に、彼が“南部的なるもの”に目覚めて行ったのは、ディレニー&ボニーとの交わりに於いてと思われます。南部人の音楽的感性は、濃く宗教的色彩を帯びていて、共に唄い共に聴くという営みは彼等を一つの完結した世界に包み込み、その内で彼等は水平に結ばれて行くのです。この事は音楽という物が普遍的に持っている作用だけれども、南部の音楽、特にゴスペルの要素を強く留めたそれは現代に於いてさえ、白人をも含めた素朴な人々から強く求められ、その精神生活の支えになっています。レオン・ラッセルはこの事実に、かつて自分がハリウッド流のやり方で果せなかった水平なコミュニケーションの手段を見たのです。そこで、ディレニー&ボニーをプロデュースする彼は、そのサウンドをウェスト・コースト的な物から次第にゴスペル的な物に変えて行き、いつか自分の音楽に採用する時のための実験を繰返しました。それ等が総て上々な反応をもたらし、更に、ジョー・コッカーのバックにこれを転用して大成功を納めた事はもはや詳述の要も有りますまいが、ただ、いよいよ彼自身が主役となって登場した“ラッセル・スワンプ・スタイル”となると、いささか事情が違っていたのです。
『ソング・フォー・ユー』や『バングラデシュ』でのその立場に象徴される様に、彼は自分を現代のロック・シーンの中心に置こうとしました。
レオン・ラッセルとはその事のために、偏執的自己顕示欲を垂直なコミュニケーションの起点に据え、同時に、聴く者総てを等しく歓喜させ得る水平なコミュニケーションの術を求めた音楽家だったのです。
しかしその意味で彼が、望み通り最も“王者”らしく捕えられているのはやはり『レオン・ラッセルとシェルター・ピープル』で、この“シェルター・ピープル”とは、彼のナルシシズムをよく理解した従者達だったから、その賛歌の嵐の中で彼は自我の欲するままに、泥臭くもセンティメンタルにも見栄を切りおおせたのでした。
かくて、一大事業を為し終えてしまった彼は今、未だ消え去った訳ではない自己顕示欲の所在無さのために、自分をピエロに見立てながら、偽らぬ音楽的感性のストリップティーズを演じているのです。
〔初出誌不明。執筆は1973年と思われる〕
スーパー・スター、レオン・ラッセルの戦略
●行動の原点には自己顕示欲が
ロック・ムーヴメントが生んだ“スーパー・スター”という存在を、“スーパー”たらしめた条件はもっぱら人気の量なのでしょうか? 人のろくに知らない歌手をスーパー・スターとは呼ばない迄も、その“スーパー”という接頭辞に、量ではない質の意味を探したらどうでしょう? 例えば、その人の音楽がどれ程熱狂的に迎えられたか等という偶然の偉大さではなく、その人がどれ程頭脳的に聴衆を操り、自分の音楽の信者となし得たか? という意味で見直すのです。するとぼくには、ロック・シーンの大方のスーパー・スター達が、その称号の割には無個性に思えてなりません。つまりは、音楽の向こう側から聴き手を睥睨(へいげい)するだけの、執拗な自我を聞かせる人が居ないのです。単に“いい感じ”な曲を沢山作って沢山売っても、それでその人をスーパー・スターとは呼びかねます。
なぜなら、それは聴衆の嗜好に適合した例の幾つかに過ぎず、聴衆の嗜好のほうを自分のために操作し得た時、その存在は初めて“超越的”という意味でスーパーたり得るからです。ニュー・ロック以前には、ビートルズとボブ・ディランとが、人々の感受性に新たな分野を開拓し、普遍化しました。しかし、ビートルズは今は無く、ボブ・ディランはもはや、自分の聴衆に何の関心も持ってはいません。又、ニュー・ロックの旗の下に登場した幾多のアーティスツは、総じて、人の感受性よりも肉体に奉仕する音響技師達でした。そう考えると、レオン・ラッセルは“最後のスーパー・スター”であるよりも先ず、ニュー・ロック以後に現われた“最初のスーパー・スター”ではないでしょうか?
彼はスーパー・スターとなるべく意志し、自らの才覚一つでそうなった、髪の長い音楽実業家です。彼が人々の嗜好を征服出来たのは、ポップ音楽の過去を熟知し、状況の洞察に長け、自らの行動の機をみるに敏だったからですが、それ等の基に在る物は、自分を中心にしてポップ・シーン全体の構図を変えずには満足しない、彼のダイナモの様な自我なのです。だから、“神秘的”だとか“狂的”だとかの巷説(こうせつ)の内から、彼の真姿を引き出すためには、その総ての行動の原理に、自己顕示欲の力学を見る必要があります。
ともあれ、レオン・ラッセルの音楽の魅力は、明確に彼自身の自我であり、それが聴衆の嗜好を征服した点において、彼こそ稀有のスーパー・スターなのです。
では、その彼の自我がいかに執拗なものであっても、決して一辺倒なものではなく、極めて頭脳的な展開を示して来た事を、そのキャリアからたどってみましょう。
●ビートルズとディランの統合
先ず彼は、一つの楽器に全生命を注込む様な、求道的ミュージシャンではありません。そして、何を演奏する時も唄う時も、同時に外側から自分を見る眼を持っています。その眼は又、ポップ・シーンにおける自分の音楽の位置を、他との比較から測定する事も出来ます。そこで彼の音楽の変容は常に、プロデューサーとしての彼のプログラミングに従って来たのです。勿論、その最終目標は自分がスーパー・スターになる事でしたが、そのために、識者ラッセルが注意を向けた存在は、やはりボブ・ディランとビートルズでした。彼は、この二つの対照的な音楽が持つ力を、自分の音楽の中で統合しようとしたのです。つまり、ボブ・ディランの力とは、個人たる彼から個人たる聴き手の心肝(しんかん)へと達する、厳しく垂直なコミュニケーションであり、ビートルズの力とは、聴く者総てを同一の地平で歓喜させる、優しく水平なコミュニケーションです。そし、ポピュラー音楽の二大遺産であるこの二つの力を、一人で操る事こそ、自分が稀代(きだい)のスーパー・スターになる道だと、レオン・ラッセルは考えたのです。バングラデシュ・コンサートに象徴される様に、彼の野心が自分を合格とみなすラインは、ディランやビートルズと肩を並べる所にあったわけです。
さて、彼の自我の執拗さとナルシシズムとは、充分に垂直なコミュニケーションに足るだけのアク[#「アク」に傍点]を、当初からヴォーカルに滲ませていました。それに自信を持つ彼の努力は、ビートルズ的な力を得ることに向けられましたが、彼の戦略といえども、初めから功を奏するわけには行きませんでした。と言うのは、第一作の『ルック・インサイド/アサイラム・クワイア』で彼は、『サージェント・ペッパーズ』風なイメージのカレイドスコープを繰広げんとしましたが、そこには、偽(いつわ)れぬ彼の素地と苦心の装いとの距離が歴然としていたからです。しかし、それが当時の世評だったのではなく、彼は一部の喝采を黙殺さえして、このスタイルを見限りました。彼は自分で“アサイラム・クワイア”を不合格とみなし、その二枚目の発表を延期したのです。
ところで、彼はオクラホマ生れの南部人です。その音楽的感性の土壌は、ブルーズやゴスペルといったアーシーな物の上に、生来の貪欲さで会得したアメリカン・ミュージック一般の教養が、皮肉や愛情と共に堆積(たいせき)した物です。したがって、彼の音楽が根を下すべきは、その肥えた土壌の中であって、『サージェント・ペッパーズ』のユートピアではないのです。彼はそれを自覚し、“南部”へと目を向けディレニー&ボニーとの交りを深めて行きました。そして、そこで彼が発見した事こそ、彼があの“ラッセル・スワンプ・スタイル”を創りだす動機となった物です。それは、音楽の中の南部人同志は、その“ダウン・トゥー・アース精神”によって、ビートルズの音楽に跪(ひざまず)く人々の様に結ばれている、という事実だったのです。彼にとって、水平なコミュニケーション手段はここに開けました。以後、彼は自分の感性を土俵として、その目指す音楽にアプローチして行く事となったのです。
しかし、自ら起こす行動と、時の状勢との兼合いに慎重な彼は、新しいアイディアを、すぐさま自分で演じようとはしませんでした。ホーンやコーラスを用いる、そのゴスペル・スタイルの泥臭さが、ロック・チャイルド達に通じるかどうかが分らなかったからです。そこで彼はプロデューサーとして、ディレニー&ボニーのアルバムのゴスペル色を次第に濃くし、その評判が高まった所で、彼等を連れて英国楽旅に出ました。その大成功は、“ロックの新傾向はダウン・トゥー・アースだ”という印象を人々に与え、そのツアーを先導した彼自身の権威を大いに高め、英国のスーパー・スター達との親交を深めた上に、ジョー・コッカーとの新しい仕事をもたらしたのです。マッド・ドッグス&イングリッシュメンの米国ツアーは、映画によって世界中のロック・ファンの目に触れ、奇妙な目つき[#「目つき」に傍点]といでたち[#「いでたち」に傍点]でピアノを弾く男こそ、その素晴しい出来事の立役者である事を知らしめました。
●スワンプ・スタイルも表現法の一つか
レオン・ラッセル自ら、主役を演じる機は遂に熟したわけです。ビートルズやストーンズの面々の名を連らねて、自分の存在をアッピールした『ソング・フォー・ユー』に次ぎ、彼はそのスワンプ・スタイルの集大成として、『レオン・ラッセル&シェルター・ピープル』を発表しました。そして、これ迄の周到な計画はここに、稀有のスーパー・スターたる彼の姿を定着したのです。彼の素晴しさは、ホーンやコーラスの讃歌の渦中にあって尚、正しく彼個人の自我が歌うその様です。毒気に近い声のアク[#「アク」に傍点]は、その主の醒めた心を物語り、時に甘くセンティメンタルなフレーズも、当人がその美しさを信じてはいない。これ等が矛盾でなく解け合っているのが、レオン・ラッセルの理性なのです。そして、彼は自分の所為を理性的には響かせぬために、煽り立てるホーンやコーラスを配したわけです。だから、有無を言わせぬスワンプ・サウンドに浸りたい者は、その水平なコミュニケーションの受け手となり、レオン・ラッセルの執拗な自我に関心を引かれる者は、彼からの垂直なコミュニケーションを聴き受ける。かくて“ラッセル・スワンプ・スタイル”は、アメリカにおけるロック・ムーヴメントの、一つの輝ける帰結たり得たのです。
しかし、レオン・ラッセルはその成果にももう倦(う)んだようです。紛(まぎ)れもないスーパー・スターとなってしまった今、彼は自分の“讃歌隊”を捨て去り、スワンプ・サウンドにさえ興味を失った様子です。
『カーニー』の彼は、三〇年前の流行歌でも口ずさむ風情ですが、中の一曲「タイト・ロープ」で、自分と聴衆との関係を暗示しています。
彼はその関係において、聴衆を全く信用してはおらず、その知力さえ見下しているのです。
スワンプ・スタイルとはやはり、彼には全くの方便だったのであり、今一仕事を為し終えた彼の興味は、自分の感性に堆積された、アメリカン・ミュージックへの皮肉と愛情らしく見えます
〔『音楽専科』1973年3月号〕
ディラン・スピリットの系譜
●ボブ・ディランの血
ボブ・ディランが歌を創って唄った、という事。その事以来、ポピュラー音楽の内に拓(ひら)かれた“歌”という業(わざ)の真摯(しんし)な道。その様な道を、いま自分なりに模索するシンガー&ソングライター達はいます。いわば、ディランの血を引くアーティスト達というわけですが、だからと言って、彼等の声やサウンドがすべてディランに似ているというのではありません。これからお話しする事は、「誰がディランに似ているか?」ではなく、“ディランの血”とは何で、それを受継ぐ事がどういう事で、誰が実際それを今やっているか?なのです。
さてボブ・ディランは衆目の一致する所、怜悧な詩人であり、その詩を説得力豊かな歌に変える作曲家であり又、その歌に脈打つ生命を注ぐべき特権的歌い手でした。(シンガー&ソングライターは誰でも、自分の歌に対して特権的歌手である筈ですが、ディラン程その特権を縦横に振るった歌手をぼくは識りません。)作詩と作曲と歌唱、彼の、それ等三つの仕事がポピュラー音楽の世界でなお真摯であったのは、彼が、そのどれをも自身のためにのみ行ったからです。彼の歌は、誰の退屈をを慰めるためにも、誰の心を支えるためにも、誰に愛されるためにも有ったのではなく、ひとえに彼自身の生が背負った暗黒のため、それを切り拓くべき“意志の剣(つるぎ)”としてこそ有ったのです。永い間、ボブ・ディランの意志は己が暗黒を正面から見据えつづけ、歌の一太刀一太刀はそれに向けて垂直に振降ろされて来ました。だから、彼の音楽に漲(みなぎ)る血とは歌う当人の魂が遣したそれであり、その血を受継ぐ事というのは、そのアーティストも又自身の暗黒に立ち向うべく歌を唄い、遣す自身の血で歌を満たす事。それが、“ディラン的な音楽の為(な)し様(ざま)”というものなのです。ディラン当人の変身、とり分け『ナッシュビル・スカイライン』以来しばしば耳にする、憑き物の落ちた様なあの穏やかなる寂寞は、あれこそが、己が暗黒をその血であがなった者にだけ表わせる寂寞でありましょう。
●ディラン派である資格
“ディラン派”であるか否かは、左様音楽の為し様にこそ問われるのだから、そのアーティストがフォーク・シンガーである必要は有りません。先ず第一の条件は、身に暗黒を抱えた人間である事。この点が、ウェスト・コーストに“ディラン派”が育ちにくい所以でありましょう、バーズが幾らディランの曲を唄ってもそれはモチーフだけの事、彼等は(最近のジーン・クラークを除いて)ディラン派ではありません。次に、“己れを強迫する物”を身に持っていても、それに挑む事なく感傷や錯乱に陥る手合いも又、ディラン派ではありません。何故なら、泣いたり叫んだりという事はとりあえずそれで一件落着であって、暗黒はいつまでも血でたぎる事がないからです。ハード・ロックの“ハードさ”が空虚なのは、この“一件落着”の生理学に甘えていてその実“厳しく”ないからですが、たとえばジャニス・ジョプリンの場合は、真向うから自分の暗黒に立向いながらも、その余りな強大さの前に玉砕余儀無かったと言えるでしょう。つまり、血や涙を妄(みだ)りに零(こぼ)す事なく暗黒を満たし、自分の音楽としての型を得るには、感情に勝る理知の業という物が要るのです。
●精神のディラニスト達
ギター一本でアルバムを作るアーティストなぞもそう居ない今、“ディラン・スピリット”は一つの音楽態度として普遍化し、その持ち主達のスタイルも様々ですが、やはり、選ばれた人達はそう多くありません。先ず、詩人としてのディランの直系はロビー・ロバートスンであろうと思いますが、“感情に勝る理知の業”によって、最も濃く、涙と血とをその音楽に凝縮しているのも又ザ・バンドです。彼等の場合は、そのキャリアからもディランの直系であるのが不思議ではありませんが、称賛すべきは、十一枚のディランのアルバムにおける変容とその意味とを、五枚のアルバムの内の曲々に捕え持ち、しかも、音のレヴェルでは独自な完成を遂げている事です。しかし彼等の音楽は『カフーツ』以来、その“理知の業”が、“感情”を圧縮するよりも噴出させる事に長けて来たようです。あくまでも“理知”の力がそうするのではあるけれども……。そのロビー・ロバートスンにプロデュースされたジェシー・ウィンチェスターの最初のアルバムは、歌唱において些か線が細いとはいえ、執着すべき点をはっきりと見据えてそれに肉薄しており、その点では未来のボブ・ディランを想わせるに足りましたが、二枚目での彼は、詩を瀟洒(しょうしゃ)なサウンドの中に安置する趣味に流れています。(日本発売は二枚目だけ)
次に、読者が意外に思われるだろう、しかしぼくは屈指のディラニストだと考えるアーティストが英国女性のサンディ・デニーです。実際彼女はディランの曲をよく唄って来ましたが、そればかりではなく、フェアポートの時代から彼女の書く曲には鬼気迫る物があり、その歌声の内の風景は荒寥として、極北からの風にいつも満たされています。それというのも彼女の暗黒は熱い何かではなく、持って生れた氷河期の記憶とでも言うべき物だからで、それに向って、独り北海の海辺に佇(たたず)む様な彼女の姿勢は、女性シンガー&ソングライターとして、米国勢以上にディラン的です。他の英国人アーティスト達にここで触れて置くと、サンディの僚友リチャード・トムプスンも又、音楽に対する真直ぐな姿勢から彼独自の緊張を創り得ている事が立派だと言えます。有名ではありませんが、アーニー・グレアムという男は、実にすすけた唄い振りの奥に、その声が生れて来た源であろう冷たい暗闇を覗かせてくれる味わい深い歌手ですが、“ヘルプ・ユアセルフ”なぞという子供じみたグループに加わった経験は減点材料と考えねばなりません。さて、活躍の場は今や米国ですが、“熱い暗黒”を背負った“ベルファストのカウ・ボーイ”、ヴァン・モリスンを語るべきでしょう。彼はミック・ジャガーやロッド・ステュワートの様に“熱い暗黒の住人”でしたが、その暗黒を統御しようとどんなに苦闘を重ねて来たことか! しかし今も彼は、時に聞かせてしまう女性的ヒステリアによって、ザ・バンドの域には到っていません。そしてあとの英国アーティスツは概(おおむ)ね、身の暗黒を嘆いてみせるか、嘆くべき暗黒すら持ち合せないかで、いずれにせよ“ディラン的歌い様”には無縁の人達です。
さて米大陸に話を戻して、“冷たい暗黒”の持ち主という事では、ニール・ヤング程苛酷な荷を負う若者は居ないでしょう。荷が苛酷であるという事はしかし、それだけ創造の可能性が豊かだという事でもあり、事実彼は既に四枚もの(『過去への旅路』は除く)アルバムで立派にその重荷に堪え、破綻寸前の所で切々と歌う孤独な姿は、聴く者の感動を呼ぶに充分でした。願わくば彼にはCSN&Yなぞを離れてもらい、ディランの辿った辛苦の道を、選ばれた後継者として進んでほしいものだと思います。
これもカナダ人のシンガー&ソングライターで、マレイ・マクロクランの英知と鋭い歌い振りは目を見張らせるものです。時にギター一本の伴奏でも、彼の歌には凛とした空気が漲り、聴き手の感性はその前で、冬木立の様に震えて立ち尽くします。そして彼は今の所、若いディランがそうであった風に“街の”アーティストなのです。もう一人、注目すべきカナダ人を挙げて置くと、スワンプ風なサウンド・スタイルでアルバムを作ったクリストファー・キーニーで、彼の作曲と歌唱とに只ならぬ物が潜んでいるのは確かな事に感じます。アメリカに下ると、ジョン・プラインに対してネキスト・ディランの呼び声は高いようです。その通り、彼の声や節廻しの幾らかは「時代は変る」あたりのディランによく似ているし、仲々の詩人であるし、“歌う”という彼の業は、垂直に、したたかに彼自身の暗黒に立向っています。その意味で、彼は“ディラニズム”を最もプリミティヴな型で備えたいわば“最優秀新人”ですが、彼はその出発にして既に“カントリー”な立場に居ました。そこで、昨今のディランのカントリー的な装いとの類似をもって、ジョン・プラインをディラニストとするのなら、それは正しくありません。彼はサウンド以前の場所でこそディラン的なのです。この様に、ディラン的な気概をその音楽の根幹にこそ据えたアーティストとして、南部の音で身を固めたロジャー・ティリスンは重要です。“歌う”という事で、彼程不器用に、格好悪く、しかし真向からその暗黒に体当りする歌手をぼくは他に識りません。ブルース・スプリングスティーンは又、一聴知性の勝ち過ぎた様な音造りの奥にも、ディラニストの真摯さを保持する人のようですが、ピュアなディラニズムに今も準じ、その通り垂直に真実な訴えの出来る歌手に日本の友部正人がいます。シングル盤「一本道」は抑えに抑えられてなお凄絶、ディラニストの歌として合格です。
さて、精神におけるディラニストはほぼ以上の様なものでしょうが、もしディラン当人のサウンドの変遷に伴ってそのつど輩出するフォロアー達をもディラニストと呼ぶなら、十年この方その枚挙には暇がなかった筈です。たとえば、その十年来のフォロアーとしてエリック・アンダーセンとデビッド・ブルーは有名ですが、彼等とて、各々の最高傑作『ブルー・リヴァー』と『ストーリーズ』では、自己の世界の真実と正しく向い合っており、自然