青空文庫アンソロジー―7
怖い話
「何が怖いか」は当然ながら、人それぞれに異なる。
ここには、編者が「怖い」と思う話を青空文庫からひろってきて、
作者の五十音順に配列した。
◆目次
藪の中(芥川龍之介)
外科室(泉鏡花)
鎖工場(大杉栄)
街頭の偽映鏡(佐左木俊郎)
死後の恋(夢野久作)
藪の中
芥川龍之介
検非違使(けびいし)に問われたる木樵(きこ)りの物語
さようでございます。あの死骸(しがい)を見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝(けさ)いつもの通り、裏山の杉を伐(き)りに参りました。すると山陰(やまかげ)の藪(やぶ)の中に、あの死骸があったのでございます。あった処でございますか? それは山科(やましな)の駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。竹の中に痩(や)せ杉の交(まじ)った、人気(ひとけ)のない所でございます。
死骸は縹(はなだ)の水干(すいかん)に、都風(みやこふう)のさび烏帽子をかぶったまま、仰向(あおむ)けに倒れて居りました。何しろ一刀(ひとかたな)とは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳(すほう)に滲(し)みたようでございます。いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾(かわ)いて居ったようでございます。おまけにそこには、馬蠅(うまばえ)が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。
太刀(たち)か何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄(なわ)が一筋落ちて居りました。それから、――そうそう、縄のほかにも櫛(くし)が一つございました。死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。何、馬はいなかったか? あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。何しろ馬の通(かよ)う路とは、藪一つ隔たって居りますから。
検非違使に問われたる旅法師(たびほうし)の物語
あの死骸の男には、確かに昨日(きのう)遇(あ)って居ります。昨日の、――さあ、午頃(ひるごろ)でございましょう。場所は関山(せきやま)から山科(やましな)へ、参ろうと云う途中でございます。あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。女は牟子(むし)を垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩重(はぎがさ)ねらしい、衣(きぬ)の色ばかりでございます。馬は月毛(つきげ)の、――確か法師髪(ほうしがみ)の馬のようでございました。丈(たけ)でございますか? 丈は四寸(よき)もございましたか? ――何しろ沙門(しゃもん)の事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、太刀(たち)も帯びて居(お)れば、弓矢も携(たずさ)えて居りました。殊に黒い塗(ぬ)り箙(えびら)へ、二十あまり征矢(そや)をさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。
あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真(まこと)に人間の命なぞは、如露亦如電(にょろやくにょでん)に違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。
検非違使に問われたる放免(ほうめん)の物語
わたしが搦(から)め取った男でございますか? これは確かに多襄丸(たじょうまる)と云う、名高い盗人(ぬすびと)でございます。もっともわたしが搦(から)め取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟田口(あわだぐち)の石橋(いしばし)の上に、うんうん呻(うな)って居りました。時刻でございますか? 時刻は昨夜(さくや)の初更(しょこう)頃でございます。いつぞやわたしが捉(とら)え損じた時にも、やはりこの紺(こん)の水干(すいかん)に、打出(うちだ)しの太刀(たち)を佩(は)いて居りました。ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携(たずさ)えて居ります。さようでございますか? あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。革(かわ)を巻いた弓、黒塗りの箙(えびら)、鷹(たか)の羽の征矢(そや)が十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。はい。馬もおっしゃる通り、法師髪(ほうしがみ)の月毛(つきげ)でございます。その畜生(ちくしょう)に落されるとは、何かの因縁(いんねん)に違いございません。それは石橋の少し先に、長い端綱(はづな)を引いたまま、路ばたの青芒(あおすすき)を食って居りました。
この多襄丸(たじょうまる)と云うやつは、洛中(らくちゅう)に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。昨年の秋鳥部寺(とりべでら)の賓頭盧(びんずる)の後(うしろ)の山に、物詣(ものもう)でに来たらしい女房が一人、女(め)の童(わらわ)と一しょに殺されていたのは、こいつの仕業(しわざ)だとか申して居りました。その月毛に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうしたかわかりません。差出(さしで)がましゅうございますが、それも御詮議(ごせんぎ)下さいまし。
検非違使に問われたる媼(おうな)の物語
はい、あの死骸は手前の娘が、片附(かたづ)いた男でございます。が、都のものではございません。若狭(わかさ)の国府(こくふ)の侍でございます。名は金沢(かなざわ)の武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立(きだて)でございますから、遺恨(いこん)なぞ受ける筈はございません。
娘でございますか? 娘の名は真砂(まさご)、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色の浅黒い、左の眼尻(めじり)に黒子(ほくろ)のある、小さい瓜実顔(うりざねがお)でございます。
武弘は昨日(きのう)娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻(むこ)の事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうかこの姥(うば)が一生のお願いでございますから、たとい草木(くさき)を分けましても、娘の行方(ゆくえ)をお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多襄丸(たじょうまる)とか何とか申す、盗人(ぬすびと)のやつでございます。壻ばかりか、娘までも………(跡は泣き入りて言葉なし)
× × ×
多襄丸(たじょうまる)の白状
あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷問(ごうもん)にかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯(ひきょう)な隠し立てはしないつもりです。
わたしは昨日(きのう)の午(ひる)少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子(ひょうし)に、牟子(むし)の垂絹(たれぎぬ)が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩(にょぼさつ)のように見えたのです。わたしはその咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。
何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪(うば)うとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太刀(たち)を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派(りっぱ)に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)
しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。が、あの山科(やましな)の駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫(くふう)をしました。
これも造作(ぞうさ)はありません。わたしはあの夫婦と途(みち)づれになると、向うの山には古塚(ふるづか)がある、この古塚を発(あば)いて見たら、鏡や太刀(たち)が沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪(やぶ)の中へ、そう云う物を埋(うず)めてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、――と云う話をしたのです。男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、――どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半時(はんとき)もたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路(やまみち)へ馬を向けていたのです。
わたしは藪(やぶ)の前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇(かわ)いていますから、異存(いぞん)のある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺(つぼ)にはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。
藪はしばらくの間(あいだ)は竹ばかりです。が、半町(はんちょう)ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合(つごう)の好(い)い場所はありません。わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩(や)せ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。その内に竹が疎(まば)らになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。男も太刀を佩(は)いているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括(くく)りつけられてしまいました。縄(なわ)ですか? 縄は盗人(ぬすびと)の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張(ほおば)らせれば、ほかに面倒はありません。
わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図星(ずぼし)に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市女笠(いちめがさ)を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛(しば)られている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐(ふところ)から出していたか、きらりと小刀(さすが)を引き抜きました。わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈(はげ)しい女は、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹(ひばら)を突かれたでしょう。いや、それは身を躱(かわ)したところが、無二無三(むにむざん)に斬り立てられる内には、どんな怪我(けが)も仕兼ねなかったのです。が、わたしも多襄丸(たじょうまる)ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀(さすが)を打ち落しました。いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。
男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後(あと)に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋(すが)りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥(はじ)を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘(あえ)ぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)
こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷(ざんこく)な人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳(ひとみ)を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴(かみなり)に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、――わたしの念頭(ねんとう)にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑(いや)しい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒(けたお)しても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすればわたしの太刀(たち)に、血を塗る事にはならなかったのです。が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那(せつな)、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。
しかし男を殺すにしても、卑怯(ひきょう)な殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)男は血相(けっそう)を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利(き)かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀は二十三合目(ごうめ)に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)
わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか? わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡(あと)も残っていません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉(のど)に、断末魔(だんまつま)の音がするだけです。
事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。――わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山路(やまみち)へ出ました。そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。その後(ご)の事は申し上げるだけ、無用の口数(くちかず)に過ぎますまい。ただ、都(みやこ)へはいる前に、太刀だけはもう手放していました。――わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗(おうち)の梢(こずえ)に、懸ける首と思っていますから、どうか極刑(ごっけい)に遇わせて下さい。(昂然(こうぜん)たる態度)
清水寺に来れる女の懺悔(ざんげ)
――その紺(こん)の水干(すいかん)を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲(あざけ)るように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶(みもだ)えをしても、体中(からだじゅう)にかかった縄目(なわめ)は、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転(ころ)ぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、わたしをそこへ蹴倒しました。ちょうどその途端(とたん)です。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚(さと)りました。何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震(みぶる)いが出ずにはいられません。口さえ一言(いちごん)も利(き)けない夫は、その刹那(せつな)の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃(ひらめ)いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑(さげす)んだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
その内にやっと気がついて見ると、あの紺(こん)の水干(すいかん)の男は、もうどこかへ行っていました。跡にはただ杉の根がたに、夫が縛(しば)られているだけです。わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑(さげす)みの底に、憎しみの色を見せているのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中(うち)は、何と云えば好(よ)いかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。
「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥(はじ)を御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」
わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも夫は忌(いま)わしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしは裂(さ)けそうな胸を抑えながら、夫の太刀(たち)を探しました。が、あの盗人(ぬすびと)に奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。しかし幸い小刀(さすが)だけは、わたしの足もとに落ちているのです。わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇(くちびる)を動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」と一言(ひとこと)云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹(はなだ)の水干の胸へ、ずぶりと小刀(さすが)を刺し通しました。
わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交(まじ)った杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、死骸(しがい)の縄を解き捨てました。そうして、――そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小刀(さすが)を喉(のど)に突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢(じまん)にはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐(ふがい)ないものは、大慈大悲の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)も、お見放しなすったものかも知れません。しかし夫を殺したわたしは、盗人(ぬすびと)の手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好(よ)いのでしょう? 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷(すすりなき))
巫女(みこ)の口を借りたる死霊の物語
――盗人(ぬすびと)は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利(き)けない。体も杉の根に縛(しば)られている。が、おれはその間(あいだ)に、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真(ま)に受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然(しょうぜん)と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬(ねたま)しさに身悶(みもだ)えをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆(だいたん)にも、そう云う話さえ持ち出した。
盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡(もた)げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有(ちゅうう)に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚(しんい)に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)
妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇(やみ)の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色(がんしょく)を失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。「あの人を殺して下さい。」――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様(さかさま)におれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪(のろ)わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、――(突然迸(ほとばし)るごとき嘲笑(ちょうしょう))その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。「あの人を殺して下さい。」――妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋(すが)っている。盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒(けたお)された、(再(ふたた)び迸るごとき嘲笑)盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷(うなず)けば好(よ)い。殺すか?」――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦(ゆる)してやりたい。(再び、長き沈黙)
妻はおれがためらう内に、何か一声(ひとこえ)叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。盗人も咄嗟(とっさ)に飛びかかったが、これは袖(そで)さえ捉(とら)えなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。
盗人は妻が逃げ去った後(のち)、太刀(たち)や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄(なわ)を切った。「今度はおれの身の上だ。」――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟(つぶや)いたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度(みたび)、長き沈黙)
おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀(さすが)が一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺(さ)した。何か腥(なまぐさ)い塊(かたまり)がおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰(やまかげ)の藪の空には、小鳥一羽囀(さえず)りに来ない。ただ杉や竹の杪(うら)に、寂しい日影が漂(ただよ)っている。日影が、――それも次第に薄れて来る。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。
その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇(うすやみ)が立ちこめている。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀(さすが)を抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢(あふ)れて来る。おれはそれぎり永久に、中有(ちゅうう)の闇へ沈んでしまった。………
(大正十年十二月)
外科室
泉 鏡花
上
実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師(えし)たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某(それ)の日東京府下の一(ある)病院において、渠(かれ)が刀(とう)を下すべき、貴船(きふね)伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。
その日午前九時過ぐるころ家を出(い)でて病院に腕車(わんしゃ)を飛ばしつ。直ちに外科室の方(かた)に赴(おもむ)くとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目(みめ)よき婦人(おんな)二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。
見れば渠らの間には、被布着たる一個(いっこ)七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴(はかま)の扮装(いでたち)の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。予は今門前において見たる数台(すだい)の馬車に思い合わせて、ひそかに心に頷(うなず)けり。渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮(きづか)わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙(せわ)しげなる小刻みの靴(くつ)の音、草履(ぞうり)の響き、一種寂寞(せきばく)たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音(きょうおん)を響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。
予はしばらくして外科室に入りぬ。
ときに予と相目して、脣辺(しんぺん)に微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子(いす)に凭(よ)れり。今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任を荷(にな)える身の、あたかも晩餐(ばんさん)の筵(むしろ)に望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。他に女性(にょしょう)とてはあらざりし。なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種形容すべからざる面色(おももち)にて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。
室内のこの人々に瞻(みまも)られ、室外のあのかたがたに憂慮(きづか)われて、塵(ちり)をも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣(びゃくえ)を絡(まと)いて、死骸(しがい)のごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、頤(おとがい)細りて手足は綾羅(りょうら)にだも堪えざるべし。脣(くちびる)の色少しく褪(あ)せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼(め)は固く閉ざしたるが、眉(まゆ)は思いなしか顰(ひそ)みて見られつ。わずかに束(つか)ねたる頭髪は、ふさふさと枕(まくら)に乱れて、台の上にこぼれたり。
そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴(とうと)く、うるわしき病者の俤(おもかげ)を一目見るより、予は慄然(りつぜん)として寒さを感じぬ。
医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たる状(さま)露(あら)われて、椅子に坐(すわ)りたるは室内にただ渠のみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂(い)わば謂え、伯爵夫人の爾(しか)き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。
おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻(さき)に廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人(おんな)なり。
そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、
「御前(ごぜん)、姫様(ひいさま)はようようお泣き止(や)みあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」
伯はものいわで頷(うなず)けり。
看護婦はわが医学士の前に進みて、
「それでは、あなた」
「よろしい」
と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。
さてはいかなる医学士も、驚破(すわ)という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表(ひょう)したりき。
看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、
「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
腰元はその意を得て、手術台に擦(す)り寄りつ、優に膝(ひざ)のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
「夫人(おくさま)、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算(かぞ)えあそばしますように」
伯爵夫人は答なし。
腰元は恐る恐る繰り返して、
「お聞き済みでございましょうか」
「ああ」とばかり答えたまう。
念を推して、
「それではよろしゅうございますね」
「何かい、痲酔剤(ねむりぐすり)をかい」
「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝(げし)なりませんと、いけませんそうです」
夫人は黙して考えたるが、
「いや、よそうよ」と謂(い)える声は判然として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ。
腰元は、諭(さと)すがごとく、
「それでは夫人(おくさま)、御療治ができません」
「はあ、できなくってもいいよ」
腰元は言葉はなくて、顧みて伯爵の色を伺えり。伯爵は前に進み、
「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」
侯爵はまたかたわらより口を挟めり。
「あまり、無理をお謂やったら、姫(ひい)を連れて来て見せるがいいの。疾(はや)くよくならんでどうするものか」
「はい」
「それでは御得心でございますか」
腰元はその間に周旋せり。夫人は重げなる頭(かぶり)を掉(ふ)りぬ。看護婦の一人は優しき声にて、
「なぜ、そんなにおきらいあそばすの、ちっともいやなもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
このとき夫人の眉(まゆ)は動き、口は曲(ゆが)みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。半ば目を※(みひら)きて、
「そんなに強(し)いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤(ねむりぐすり)は譫言(うわごと)を謂(い)うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快(なお)らんでもいい、よしてください」
聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現(ゆめうつつ)の間に人に呟(つぶや)かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人(おつと)たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言(ことば)をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜(ふんぬん)を惹(ひ)き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎(だんこ)として謂い出だせる、夫人の胸中を推すれば。
伯爵は温乎(おんこ)として、
「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」
「はい。だれにも聞かすことはなりません」
夫人は決然たるものありき。
「何も痲酔剤(ますいざい)を嗅(か)いだからって、譫言を謂うという、極(き)まったこともなさそうじゃの」
「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」
「そんな、また、無理を謂う」
「もう、御免くださいまし」
投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背(そむ)かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。
ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻(さき)にいかにしけん、ひとたびその平生を失(しっ)せしが、いまやまた自若となりたり。
侯爵は渋面造りて、
「貴船、こりゃなんでも姫(ひい)を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも児(こ)のかわいさには我(が)折れよう」
伯爵は頷きて、
「これ、綾(あや)」
「は」と腰元は振り返る。
「何を、姫を連れて来い」
夫人は堪(たま)らず遮(さえぎ)りて、
「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
看護婦は窮したる微笑(えみ)を含みて、
「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険(けんのん)でございます」
「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。おそらく今日(きょう)の切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。
看護婦はまた謂えり。
「それは夫人(おくさま)、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪(つめ)をお取りあそばすとは違いますよ」
夫人はここにおいてぱっちりと眼を※(ひら)けり。気もたしかになりけん、声は凛(りん)として、
「刀(とう)を取る先生は、高峰様だろうね!」
「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません」
「いいよ、痛かあないよ」
「夫人(ふじん)、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉を殺(そ)いで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい」
臨検の医博士はいまはじめてかく謂えり。これとうてい関雲長にあらざるよりは、堪えうべきことにあらず。しかるに夫人は驚く色なし。
「そのことは存じております。でもちっともかまいません」
「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
と伯爵は愁然たり。侯爵は、かたわらより、
「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」
伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。
「一時(ひととき)後(おく)れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑(けいべつ)しておらるるから埒(らち)あかん。感情をとやかくいうのは姑息(こそく)です。看護婦ちょっとお押え申せ」
いと厳(おごそ)かなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。渠らは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。
「綾! 来ておくれ。あれ!」
と夫人は絶え入る呼吸(いき)にて、腰元を呼びたまえば、慌(あわ)てて看護婦を遮りて、
「まあ、ちょっと待ってください。夫人(おくさま)、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。
夫人の面は蒼然(そうぜん)として、
「どうしても肯(き)きませんか。それじゃ全快(なお)っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋(えもん)を少し寛(くつろ)げつつ、玉のごとき胸部を顕(あら)わし、
「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂斉(ひと)しく声を呑(の)み、高き咳(しわぶき)をも漏らさずして、寂然(せきぜん)たりしその瞬間、先刻(さき)よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く身を起こして椅子(いす)を離れ、
「看護婦、メスを」
「ええ」と看護婦の一人は、目を※(みは)りて猶予(ためら)えり。一同斉しく愕然(がくぜん)として、医学士の面を瞻(みまも)るとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
医学士は取るとそのまま、靴音(くつおと)軽く歩を移してつと手術台に近接せり。
看護婦はおどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お押え申しましょう」
医学士はちょっと手を挙(あ)げて、軽く押し留(とど)め、
「なに、それにも及ぶまい」
謂う時疾(はや)くその手はすでに病者の胸を掻(か)き開(あ)けたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛たる音調もて、
「夫人、責任を負って手術します」
ときに高峰の風采(ふうさい)は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言答(いら)えたる、夫人が蒼白なる両の頬(ほお)に刷(は)けるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼(まなこ)を塞(ふさ)がんとはなさざりき。
と見れば雪の寒紅梅、血汐(ちしお)は胸よりつと流れて、さと白衣(びゃくえ)を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白(あおじろ)くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。
ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎(だっと)のごとく神速にしていささか間(かん)なく、伯爵夫人の胸を割(さ)くや、一同はもとよりかの医博士に到(いた)るまで、言(ことば)を挟(さしはさ)むべき寸隙(すんげき)とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽(おお)うあり、背向(そがい)になるあり、あるいは首(こうべ)を低(た)るるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
三秒(セコンド)にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、
「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然(がぜん)器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀(とう)取れる高峰が右手(めて)の腕(かいな)に両手をしかと取り縋(すが)りぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
かく言い懸(か)けて伯爵夫人は、がっくりと仰向(あおむ)きつつ、凄冷(せいれい)極(きわ)まりなき最後の眼(まなこ)に、国手(こくしゅ)をじっと瞻(みまも)りて、
「でも、あなたは、あなたは、私(わたくし)を知りますまい!」
謂うとき晩(おそ)し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼(まっさお)になりて戦(おのの)きつつ、
「忘れません」
その声、その呼吸(いき)、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑(えみ)を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣(くちびる)の色変わりたり。
そのときの二人が状(さま)、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。
下
数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日(あるひ)予は渠(かれ)とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅(つつじ)の花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞(めぐ)りて、咲き揃(そろ)いたる藤(ふじ)を見つ。
歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
一個(ひとり)洋服の扮装(いでたち)にて煙突帽を戴(いただ)きたる蓄髯(ちくぜん)の漢(おとこ)前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後(あと)よりもまた同一(おなじ)様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等(おんなたち)は、一様に深張りの涼傘(ひがさ)を指し翳(かざ)して、裾捌(すそさば)きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
高峰は頷(うなず)きぬ。「むむ」
かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
かたわらのベンチに腰懸(こしか)けたる、商人(あきゅうど)体の壮者(わかもの)あり。
「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」
「そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ」
「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」
「一人は丸髷(まるまげ)じゃあないか」
「どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい」
「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田(ぶんきん)とくるところを、銀杏(いちょう)と出たなあどういう気だろう」
「銀杏、合点(がてん)がいかぬかい」
「ええ、わりい洒落(しゃれ)だ」
「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという肚(はら)だ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者というのだ」
「そこでお召し物はなんと踏んだ」
「藤色と踏んだよ」
「え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえぜ。足下(そこ)のようでもないじゃないか」
「眩(まばゆ)くってうなだれたね、おのずと天窓(あたま)が上がらなかった」
「そこで帯から下へ目をつけたろう」
「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間だったよ。ああ残り惜しい」
「あのまた、歩行(あるき)ぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこう霞(かすみ)に乗って行くようだっけ。裾捌き、褄(つま)はずれなんということを、なるほどと見たは今日がはじめてよ。どうもお育ちがらはまた格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上(うんじょう)になったんだな。どうして下界のやつばらが真似(まね)ようたってできるものか」
「ひどくいうな」
「ほんのこったがわっしゃそれご存じのとおり、北廓(なか)を三年が間、金毘羅(こんぴら)様に断(た)ったというもんだ。ところが、なんのこたあない。肌(はだ)守りを懸けて、夜中に土堤(どて)を通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦(すべった)どもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵(ごみ)か、蛆(うじ)が蠢(うご)めいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」
「これはきびしいね」
「串戯(じょうだん)じゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘(こうもりがさ)で立ってるところは、憚(はばか)りながらこれ人間の女だ。しかも女の新造(しんぞ)だ。女の新造に違いはないが、今拝んだのと較(くら)べて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいか汚(よご)れ切っていらあ。あれでもおんなじ女だっさ、へん、聞いて呆(あき)れらい」
「おやおや、どうした大変なことを謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てからもうもう胸がすっきりした。なんだかせいせいとする、以来女はふっつりだ」
「それじゃあ生涯(しょうがい)ありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様(ひいさま)が、言いそうもないからね」
「罰があたらあ、あてこともない」
「でも、あなたやあ、ときたらどうする」
「正直なところ、わっしは遁(に)げるよ」
「足下(そこ)もか」
「え、君は」
「私も遁げるよ」と目を合わせつ。しばらく言(ことば)途絶えたり。
「高峰、ちっと歩こうか」
予は高峰とともに立ち上がりて、遠くかの壮佼(わかもの)を離れしとき、高峰はさも感じたる面色(おももち)にて、
「ああ、真の美の人を動かすことあのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
予は画師たるがゆえに動かされぬ。行くこと数(す)百歩、あの樟(くす)の大樹の鬱蓊(うつおう)たる木(こ)の下蔭(したかげ)の、やや薄暗きあたりを行く藤色の衣(きぬ)の端を遠くよりちらとぞ見たる。
園を出(い)ずれば丈(たけ)高く肥えたる馬二頭立ちて、磨(す)りガラス入りたる馬車に、三個(みたり)の馬丁(べっとう)休らいたりき。その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言(こと)をも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室あらざるべからざる身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠は学生たりし時代より品行いっそう謹厳にてありしなり。予は多くを謂わざるべし。
青山の墓地と、谷中(やなか)の墓地と所こそは変わりたれ、同一(おなじ)日に前後して相逝(ゆ)けり。
語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。
[編注]
● 腕車=人力車。/
● 被布=羽織に似た女性用の外衣。/
● 綾羅=薄くて軽い衣服。/
● 関雲長=中国三国時代の武将。/
● 煙突帽=シルクハット。/
● しゃぐま=赤く染めた白熊の毛などを使った入れ毛。
鎖工場
大杉栄
夜なかに、ふと目をあけてみると、俺は妙なところにいた。
目のとどく限り、無数の人間がうじゃうじゃいて、みんなてんでに何か仕事をしている。鎖を造っているのだ。
俺のすぐ傍にいる奴が、かなり長く延びた鎖を、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端を隣りの奴に渡した。隣りの奴は、またこれを長く延ばして、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端をさらに向うの隣りの奴に渡した。その間に初めの奴は横の奴から鎖を受取って、前と同じようにそれを延ばして、自分のからだに巻きつけて、またその反対の横の方の奴にその端を渡している。みんなして、こんなふうに、同じことを繰返し繰返して、しかも、それが目まぐるしいほどの早さで行われている。
もうみんな、十重にも二十重にも、からだ中を鎖に巻きつけていて、はた目からは身動きもできぬように思われるのだが、鎖を造ることとそれをからだに巻きつけることだけには、手足も自由に動くようだ。せっせとやっている。みんなの顔には何の苦もなさそうだ。むしろ喜んでやっているようにも見える。
しかしそうばかりでもないようだ。俺のいるところから十人ばかり向うの奴が、何か大きな声を出して、その鎖の端をほおり投げた。するとその傍に、やっぱりからだ中鎖を巻きつけて立っている奴が、ずかずかとそいつのところへ行って、持っていた太い棍棒で、三つ四つ殴りつけた。近くにいたみんなはときの声をあげて、喜び叫んだ。前の奴は泣きながらまた鎖の端を拾い取って、小さな輪を造っては嵌(は)め、造っては嵌めしている。そしていつの間にか、そいつの涙も乾いてしまった。
またところどころには、やっぱりからだ中鎖を巻きつけた、しかしみんなに較べると多少風采のいい奴が立っていて、何だか蓄音器のような黄色な声を出して、のべつにしゃべり立てている。「鎖はわれわれを保護し、われわれを自由にする神聖なるものである、」というような意味のことを、難しい言葉や難しい理窟をならべて、述べ立てている。みんなは感心したふうで聴いている。
そしてこの広い野原のような工場の真ん中に、すばらしい立派ななりをした、多分はこの工場の主人一族とも思われる奴等が、ソファの上に横になって、葉巻か何かくゆらしている。その煙の輪が、時々職工の顔の前に、ふわりふわりと飛んで来て、あたりのみんなをいやというほどむせさせる。
妙なところだなと思っていると、何だか俺のからだの節々が痛み出して来た。気をつけて見ると、俺のからだにもやっぱり、十重二十重にも鎖が巻きつけてある。そして俺もやっぱりせっせと鎖の環をつないでいる。俺もやっぱり工場の職工の一人なのであった。
俺は俺自身を呪った、悲しんだ、そして憤った。俺はへーゲルの言葉を思い出した。「現実するもののいっさいは道理あるものである。道理あるもののいっさいは現実するものである。」
ウィルヘルム第一世およびその忠良なる臣下は、この言葉をもって、当時の専制政府、警察国家、封印状裁判、言論圧迫等のありのままのいっさいの政治的事実に、哲学的祝聖を与えたものであると解釈したそうだ。
政治的事実ばかりではない。すべてがそうなのだ。あの愚鈍なるプロシャ人民に取っては、あのいっさいの現実が、たしかに必然の、そして道理あるものであった。
俺自ら俺の鎖を鋳、かつ俺自ら俺を縛っている間、とうてい、この現実は、必然である、道理である、因果である。
俺はもう俺の鎖を鋳ることはやめねばならぬ。俺自ら俺を縛ることをやめねばならぬ。俺を縛っている鎖を解き破らなければならぬ。そして俺は、新しい自己を築き上げて、新しい現実、新しい道理、新しい因果を創造しなければならぬ。
俺の脳髄を巻きつけていた鎖は、思ったよりも容易に、大がい解けた。しかし俺の手足の鎖は、頑固に肉の中にまで、時としては骨の中にまで喰い込んでいて、ちょっと触ったばかりでも痛くって仕方がない。それでも我慢しいしい少しは解いた。そして後には、その痛いのが、多少小気味のいい感じさえ添えて来た。見張りの奴の棍棒も、三つや四つぐらいなら、平気で受けるほどになった。傍の奴等の嘲笑や罵詈は、こっちから喜んで買ってやりたいほどになった。
けれども俺ひとり俺の鎖を解こうとしても、どうしても解けない鎖がたくさんある。俺の鎖とみんなの鎖とは、巧みにもつれ合いつなぎ合っている。どうにも仕方がない。それに少しでも怠けていると、せっかく苦心して解いた鎖が、自然とまた俺のからだに巻きついている。知らぬ間に俺の手は、また俺の環をつなぎ合わしている。
工場の主人の奴は、俺達の胃の腑の鍵を握っていて、その鍵のまわし工合で、俺達の手足を動かしているのだ。今まで俺は、俺の脳髄が俺の手足を動かすものだとばかり思っていたが、それは大間違いだった。見渡すところ、どいつの手足だって、自分の脳髄で左右せられているものはない。みんな、自分達の胃の腑の鍵を握っている奴の脳髄で、自由自在に働かされているのだ。ずいぶん馬鹿気きった話だが、事実は何とも仕方がない。
そこで俺は、俺の胃の腑の鍵を、そいつの手から取りもどそうと思った。しかしここでもまた、俺ひとりの胃の腑の鍵を、そいつから奪いとることは、とてもできない仕事であった。俺の胃の腑の鍵とみんなの胃の腑の鍵とが、そいつの手の中で、やっぱり巧みにもつれ合い結び合っていて、どうしても俺ひとりのだけを抜き取る訳に行かない。
またそいつのまわりには、いろんな番人がいる。みんな鎖をからだ中に巻きつけて、槍だの弓だのを持って立っている。恐くって寄りつけるものでない。
俺はほとんど失望した。そして俺のまわりの奴等を見た。
鎖で縛られていることも知らんでいるような奴が大勢いる。よし知っていても、それがありがたいものだと思っている奴も大勢いる。ありがたいとまでは思わないが、仕方がないと諦めて、やっぱりせっせと鎖を造っている奴も大勢いる。鎖を造ることも馬鹿らしくなって、見張りのすきを窺ってはちょいちょい手を休めて、自分の頭の中で勝手気儘な空想妄想を画きながら、俺は鎖に縛られているのではない、俺は自由の人間だ、などと熱にうかされてたわ言を言っている奴も大勢いる。馬鹿馬鹿しくって、とても見ていられたものでない。
急に俺は目を見張った。俺は俺の仲間らしい奴等を見つけたのだ。
人の数も少ない。かつあちこちに散らばっている。しかしこいつらはみんな、主人の手の中にある、みんなの胃の腑の鍵ばかりを狙っているようだ。そして俺と同じように、自分等ばかりの鍵を奪いとることはとてもできないと観念してか、しきりと近所の奴等にささやいて、団結を説いている。
「主人の数は少ない。俺達の数は多い。多勢に無勢だ。俺達がみんな一緒になって行けば、一撃の下に、あの鍵を奪い返すことができる。」
「しかし正義と平和とを主張する俺達は、暴力は慎まなければならぬ。平和の手段で行かなければならぬ。しかもそれで容易くやれる方法があるんだ。」
「俺達は毎年一度、俺達の代表者を主人のところへ出して、俺達の生活の万事万端をきめている。今でこそ、あの会議に列なる奴等はみんな主人側の代表者だが、これからは俺達の方の本当の代表者を出すことに勉めて、あの会議の多数党となって、そうして俺達の思うままに議決をすればいいんだ。」
「みんなは黙って鎖を造っていればいい。鎖をまきつけていればいい。そしてただ、数年日に来る代表者改選の時に、俺達の方の代表者に投票をすればいいんだ。」
「俺達の代表者は、だんだん俺達の鎖をゆるめてくれると同時に、最後に、俺達の胃の腑の鍵を主人の手から奪い取ってしまう。そして俺達は、この鎖を俺達の代表者の手にあずけたまま、俺達の理想する新しい組織、新しい制度の工場にはいるんだ。」
俺は一応、もっともな議論だとも思った。しかしただその数をたのみにしているところ、また自分よりも他人をたのみにしているところなどが、どうも気に食わない。そしてそいつらが科学的だとか言っているその哲学を聴くに及んで、こいつらもやっぱり俺の仲間ではないと覚った。
こいつらは恐ろしい Panlogists だ。そして恐ろしい機械的定命論者だ。自分等の理想している新しい工場組織が、経済的行程の必然の結果として、今の工場組織の自然の後継者として現れるものだと信じている。したがって奴等は、ただこの経済的行程に従って、工場の制度や組織を変えればいいものと信じている。
もっともどっちかと言えば俺も Panlogists だ。機械的定命論者だ。けれども俺の論理の中には、俺の機械的定命論の中には、大ぶいろんな未知数がはいっている。俺の理想の実現は、この未知数の判然しない間、必然ではない。ただ多少の可能性を帯びた蓋然である。俺は奴等のように将来の楽観はできない。そして将来に対する俺の悲観は、現在における俺の努力を励まさしめるのだ。
俺のいわゆる未知数の大部分は人間そのものである。生の発展そのものである。生の能力そのものである。さらに詳しく言えば、自我の能力、自我の権威を自覚して、その飽くところなき発展のために闘う、努力そのものである。
経済的行程が、俺達の工場の将来を決する、一大動力であることは疑わない。けれどもその行程の結果として、いかなる組織と制度とをもたらすべきかは、かの未知数、すなわち俺達の能力と努力とに係わるものである。組織といい制度という、それは人間と人間との接触を具体化したものに過ぎない。零と零との接触、零と零との関係は、いかようにしても、要するに零である。
けれども俺は、今日すでにできている組織や制度に対しては、そのほとんど万能ともいうべき大勢力を、慄然として怖れざるを得ない。その破壊を外にして個人の完成を称うるがごとき奴等は、夢の中に夢見る奴等である。
なまけものに飛躍はない。なまけものは歴史を創らない。
俺は再び俺のまわりを見た。
ほとんどなまけものばかりだ。鎖を造ることと、それを自分のからだに巻きつけることだけには、すなわち他人の脳髄によって左右せられることだけには、せっせと働いているが、自分の脳髄によって自分を働かしているものは、ほとんど皆無である。こんな奴等をいくら大勢集めたって、何の飛躍ができよう、何の創造ができよう。
俺はもう衆愚には絶望した。
俺の希望は、ただ俺の上にかかった。自我の能力と権威とを自覚し、多少の自己革命を経、さらに自己拡大のために奮闘努力する、極小の少数者の上にのみかかった。
俺達は、俺達の胃の腑の鍵を握っている奴に向って、そいつらの意のままにできあがったこの工場の組織や制度に向って、野獣のように打っつかって行かなければならぬ。
俺達は、恐らくは最後まで、極小の少数者かも知れぬ。けれども俺達には発意がある、努力がある。そしてこの努力から生じた活動の経験がある。活動の経験から生じた理想がある。俺達はあくまでも戦闘する。
戦闘は自我の能力の演習である。自我の権威の試金石である。俺達の圏内に、漸々になまけものを引寄せて、そいつらを戦士に化せしめる磁鉄である。
そしてこの戦闘は俺達の間の生活の中に、新しき意義と新しき力とを生ぜしめて、俺達の建設しようとする新しい工場の芽を萌ましめるのである。
ああ、俺はあんまり理窟を言いすぎた。理窟は鎖を解かない。理窟は胃の腑の鍵を奪い返さない。
鎖はますますきつく俺達をしめて来た。胃の腑の鍵もますますかたくしまって来た。さすがのなまけものの衆愚も、そろそろ悶え出して来た。自覚せる戦闘的少数者の努力は今だ。俺は俺の手足に巻きついている鎖を棄てて立った。
俺は目をさました。とうに夜も明けて、八月なかばの朝日が、俺のねぼけ面を照りつけている。
街頭の偽映鏡(ぎえいきょう)
佐左木俊郎
1
偽映鏡(ぎえいきょう)が舗道に向かって、街頭の風景をおそろしく誇張していた。
青白い顔の若い男が三、四人の者に、青い作業服の腕を掴(つか)まれて立っていた。その傍(そば)で、商人風の背の小さな男が鼻血を拭(ぬぐ)ってもらっていた。
「喧嘩(けんか)か?」
その周囲に人々が集まりだした。
「何かあったんですか?」
偽映鏡の中に、無数の顔が歪(ゆが)みだした。
「喧嘩したんですね」
「いや! 気が変らしいんですよ」
「あの髪の長い男がですか?」
青白い顔の男はおりおり、長い頭髪をふさふさと振り立てていた。そして、周りの人たちを睨(にら)むような目で見た。
「どうしたんだ? どうしたんだ?」
巡査が群衆を掻(か)き分けてそこへ入ってきた。続いて、二人の男が汗を拭(ふ)きながら群衆の前に出た。
「喧嘩ではないんだな?」
巡査は自分の後ろについてきた男を見返りながら言った。
「ええ、なにも言わずに、突然がーんと殴りつけたんです」
「きみはどうしてそんな乱暴をするんだね?」
巡査は青白い顔の男の肩に手を置きながら、怒ったような顔をして言った。男はなにも言わずに巡査の顔を見詰めていた。
「気が変らしいんですよ。どうも……」
だれかが傍から言った。
青白い顔の男はただときどき、静かに頭を振るだけであった。そして、怪訝(けげん)そうな目で周りの群衆を眺め回すだけであった。
「気が変になったにしても、なにかきっかけというものがあったろう?」
巡査は鼻を押さえて、仰向(あおむ)きになっている男の傍へ寄っていった。
「それはそうですが、やっぱり気が変らしいんですね。わたしはそこの店に坐(すわ)っていて、よく見ていたんですが……」
こう言って、偽映鏡の前から焼栗屋(やきぐりや)の主人が巡査の前へ出ていった。
「どっちから来たのか、わたしの気がついたのはそこの鏡の前に立っているときなんですが、その時はちっとも変わった様子がなかったんです。それが……」
「この若者は毎朝出がけに、わたしのところで煙草(たばこ)を買っていくんですがね」
三、四軒先の煙草屋の主人が、こう横から口を入れた。
「前には、毎朝きっと二人で出かけていましたがね。同じ年齢(とし)ごろの、この若い者よりは背の高い眼鏡をかけた若い者と二人で。……それが、いつのころからか一人になったんですが、それでも毎朝きっとわたしのところで煙草を買っていくんですよ。……そうですね、一人になってから一か月以上にもなりますかな? きっと、わたしはこの先の鉄管工場へ行っているのに相違ないと思うんですがね。しかし、今朝も煙草を買っていったんですが、今朝はなんでもなかったようでしたよ」
「なにしろ、そこの鏡の前に立ってしばらくじっと鏡を見詰めていましたよ。きっとそのうちに、気が変になったんだと思うんですよ。その鏡はそんな風に、何もかも変に映る鏡なもんですから。……鏡の中の世の中が本当なのか? 現実(ほんと)の世の中が本当なのか? ちょっと変な気がしますからね。それで、この男もやっぱり気が変になったもんですね。がらがらとこの店のものを手当たり次第に投げ出したんですよ。で、宅の若い者が止めようとして出ていったら、押さえもしないうちに鼻柱を殴りつけたんです」
「鼻血が出ただけで、大したことはないんだな?」
「ええ、こっちは別に……」
「じゃとにかく、本署まで連れていって調べるとしよう」
巡査はそう言って、青い作業服の腕を掴んだ。青白い顔の男は不思議そうに首を傾(かし)げた。反抗をしそうな様子などは少しもなかった。
「さあ! 先に立って歩きたまえ」
巡査は腕を掴んで前へ押しやるようにした。男はなにかしらまったく意識を失っているもののように、よろよろとした。群衆がその周りで急にどよめいた。
「旦那(だんな)! ちょっと待ってください」
潮(うしお)のようにどよめきだした群衆の中から、茶色の作業服を着た中年の男が叫ぶようにして巡査の前へ出ていった。
「なんだ? きみはこの男を知っているのかい?」
巡査は立ち止まって言った。
「はい。同じ工場に働いている男なもんですから。……旦那! できることなら、わたしに預けてくださいませんかな。この男は気が変になったっていっても、神経衰弱がひどくなったんで、大したことはないんで……工場の者はみんなよく知ってるんですが、あることからひどく鬱(ふさ)ぎ込んで、まあ、神経衰弱がひどくなったんで……」
「別に罪を犯しているというんじゃないから、きみの知っている人間で、引き取っていって保護を加えるというのなら、そりゃあ引き渡すがね。しかし、どうも意識を失っているというような点もあるから、よほどその、気をつけないというと……」
「吉本(よしもと)! いったいどうしたんだよ。え? しっかりしろよ」
茶色の作業服は、青い作業服の肩を叩(たた)きながら言った。青い作業服の吉本は自分で自分が分からないらしく、首を傾けて考え込むようにした。
「本当にしっかりしなきゃ、駄目じゃねえか?」
茶色の作業服はもう一度、吉本の肩を叩きながら言った。しかし、吉本はやはり半ば夢を見ているというような具合であった。群衆がその周りから口々に喚(わめ)き立てた。
「いったい、その神経衰弱になった原因というのは、どんなことなんだね?」
巡査は厳粛な顔をして、茶色の作業服に訊(き)いた。
「友達関係からなんですがね。何か深い約束があったとみえて、まるで兄弟のようにしていましたっけ、その友達の永峯(ながみね)ってのが、約束を反古(ほご)にしたらしいんですよ」
「その約束っていうのは、どんなことか分からないのかね?」
「二人とも大学を中途で退(ひ)いてきた人たちで、約束をしたのは大学にいるころらしいんで、わたしたちにはよく分からないんですが、他人(ひと)の噂(うわさ)ですと労働運動らしいんですよ。なんでも、二人で一緒になってわたしたちの工場の中へ組合を作ろうっていう相談をしていたらしいんですが。そして纏(まとま)りかけていたんですが、その永峯って男はどういうものか急に気が変わってしまって、工場を出ていってしまったんです。それで組合のほうもおじゃんになってしまったし、兄弟のようにしていた友達がいなくなって寂しくなったんですね。それから急に鬱ぎ出したんですから」
「しかし、それにしても偽映鏡を見ているうちに気が変になるというのは、ちょっと不思議だがな。とにかく、じゃ、気をつけて連れていってくれ」
巡査はそう言って、そのままそこから群衆の中へ割り込んでいった。
「そいつは、二人組みの詐欺だろう」
群衆の中からそんな声が起こった。そして、群衆は潮騒(しおさい)のように崩れだした。
「吉本! 本当にしっかりしてくれ」
茶色の作業服はそう言って、吉本の手を引いて群衆の中へ入っていった。
2
鉄管工場の職工たちはひどく吉本に同情した。彼はその後も、幾度かその発作的症状に襲われつづけていたから。
しかし、彼の発作的症状はたいてい、すぐ回復してしまうのが常であった。
彼の発作的症状は夕立のように知人の間を騒がせて、その日一日は頭を振りふり意識を失ったもののようにしているのであるが、翌朝になるともう何事もなかったもののようにして、いつもと同じように工場へ出てくるのであった。
「吉本! あんな奴(やつ)のことはもう忘れてしまえばいいじゃないか?」
こんな風に工場の人たちは言った。
「女のことででもあるなら、いつまでも忘れられねえってこともあるだろうが、ほかのことと違って、そんな裏切者のことをいつまでも思い切れずにいちゃ、運動なんかできないじゃないか?」
鉄管工場の中の同志たちは、そんな風にも言った。
吉本はすると、いくぶんか顔を赧(あか)らめるようにしてにやにやと微笑(ほほえ)みながら、昨夜の夢の中の出来事をでも思い出すようにして言うのであった。
「自分でもそう思っているんだがね。しかしどうにもならないんだ。だから、永峯のことを思い詰めていると発作が起こるというのじゃなくて、永峯の奴がおれの頭をそんな風に作り替えていったんだ。ぼくだってもう、永峯のことなんか忘れているんだから」
「永峯の奴め、仕様のねえ奴だな。工場の中の組織は作り替えやがらねえで、吉本の頭なんか変に作り替えやがってさ」
職工たちはそんな風に言ったりした。
「しかし、もう大したことはないんだ。すぐよくなるよ」
吉本はこう言って、平常は少しも変わったところがないのだが、ときには、そう話している途中から発作に襲われることがあった。
発作に襲われるときの吉本は、その直前まで少しも変わった様子がなくていて、突然に相手の頭部を殴りつけるのが常であった。
「なんだえ? きさまは? 冗談はよせ!」
冗談をしているのだと思って吉本の顔を見ると、彼の顔はもう変に緊張してしまって、静かに頭を振りふり怪訝そうに相手の顔を見詰めているのであった。
「なんだえ? 吉本! 冗談じゃねえのか?」
しかし、吉本はその時にはもう何事も判別がつかぬらしく、そしてそれ以上には狂暴になるらしくもなく、ただじっと相手の顔を見詰めているだけであった。ときどき静かに頭を振りながら。
3
鉄管工場の経営者側にとっては、もっともいい機会がやって来た。なんらそのきっかけになる事件がないだけで追放することのできずにいた人間が、狂暴な発作を起こすようになったのであるから。
吉本は人事係の前に呼び出された。
「きみは近ごろ、少し具合が悪いそうじゃないかね? いったいどんな風なのかね?」
こんな風に人事係は言った。
「別に大したことはないんです」
「きみは大したことがなくても、一緒に働いている者はずいぶん迷惑らしいからね?」
微笑みながら人事係は言った。
「少し工場を休んで、静養してみてはどうだね? 取り返しのつかないようなことになると、あとで後悔してみたところで仕方がないから……」
「それはそうですが、ほくはいますぐ工場を休むとなると、生活ができないんです」
「静養するようだったら、工場のほうから幾らか金を出すから、まあ、ゆっくり静養するんだね。そして、回復したらまた来たらいいじゃないかね?」
「しかし、大したことはないんですよ。ただこうして話しているうちに、なんかこう……」
吉本はそう言いながら、人事係の机の上からインク・スタンドを取ってそれを手にしたかと思うと、人事係の頭部を目がけて投げつけた。
「おいおい! 何をするんだ? 冗談はよせ、冗談は!」
麻の白服をすっかりインクだらけにされて、人事係はうろたえながら言った。
しかし、吉本にしては決して冗談ではなかったのだ。彼は静かに頭を振りながら、怪訝そうな目でじっと相手の顔を見詰めているのであった。
そしてとにかく、吉本は幾らかの金を貰(もら)ってその鉄管工場を追い出されていった。
4
吉本が郊外のとある丘の上に永峯の家を訪ねていったのは、彼が工場を追い出されてから約一週間ばかりの日が経(た)ってからであった。
永峯がそこに、ある一人の女性と家を持ったのはひどく突然であった。
彼の友人のだれもが知らずにいたほどで、永峯ともっとも親しかった吉本でさえ、一か月あまりも日が経ってから、ある偶然のことで知ったほどであった。――そういう意味から、突然というよりも、むしろ秘密にされていたというべきであった。少なくとも、吉本の受けた感じは秘密なプログラムであった。
鉄管工場の人たちが観察しているように吉本が憂鬱(ゆううつ)になったのは、永峯が彼らを裏切って行方を晦(くら)ましたからではなかった。――正確に言うと、永峯の裏切りに対して吉本が憂鬱になりだしたのは、行方を晦ましていた永峯を発見したその日から始まっていた。――というのは、実は永峯の行方を見失うと同時に、吉本はある一人の女性の行方をも見失ったからであった。
吉本は、自分から同時に姿を晦ましていったこの二人の友達を、まず、その秋川雅子(あきかわまさこ)という女性の行方から捜しにかかったのであった。
最初に、吉本が中学校からの友人、秋川の妹の雅子を知ったのは、彼が高等学校に入ってから間もなくのことであった。そして、吉本はやがて秋川の妹の雅子をひどく愛しだしたのであった。が同時に、永峯もまたそのころから彼女を愛しだしていることを知ったので、彼は自分の愛情を結婚に向かって進めることをやめてしまったのであった。親しい友人の間で彼女を奪い合うというようなことがいやだったからでもあったが、本人の彼女の態度がだれのほうをより多く愛しているのか、どうしてもはっきりとしなかったからでもあった。
そして、彼らは自分たちのほうからも、なるべく彼女のことを忘れようと努めた。彼らが工場へ入って労働運動というような仕事に身を投げ出したのも、ある意味ではその積極的な一つの表れということができた。
しかし、彼らはやはり、容易に彼女のことを忘れることができなかった。
「おい! 秋川のところへ行ってみようじゃないか。秋川はぼくらとは階級が違うから、思想的に立場が違うから、仕事は一緒にやっていけないが、友人として、その友情だけは続いているのだから……」
彼らはそう言って、よく秋川の豪壮な邸宅を訪ねていった。そして、彼らの共通な友情は秋川のうえに続けられていくと同時に、妹の雅子のうえにも同じように続けられていた。
そんな風にしているうちに、永峯が突然どこかへ姿を晦ました。吉本はなにかしら片腕の自由を失ったような寂しさから、ほとんど毎晩のように秋川を訪ねていくようになったのであったが、彼はふと、妹の雅子の姿がいっこうに見えないことに気がついた。
「雅子さんはどうしたんだね? 少しも見えないね」
吉本はとうとうこんな風に訊いた。
「雅子は恋をして、この家(うち)を出ていってそのまま帰ってこないんだ。たいがいの見当はついているんだが、ぼくがわざと捜しに行かないんだ。父や母はいろいろ言っているんだけど、ぼくの考えでは、彼女の自由を束縛するわけにはいかないからね」
秋川はそんな風に言ったきりであった。
吉本はそこで、彼女の行方を捜しだしたのであった。永峯が自分を裏切ってどこかへ行ってしまった以上、雅子のうえに自分の愛情をどんなに進めようと差し支えはないのだと考えたから――。しかし、いよいよ彼女の住んでいる家を捜し当ててみると、そこに永峯の表札がかかっていたのであった。
吉本はそれを見届けておいただけで、彼らの平和と幸福とを掻き乱すようなことはしなかったが、鉄管工場のほうを追い出されてみると、やはり秋川と永峯のところよりほかには訪ねていくところもなかった。
5
青い芝の丘に張り出されているバルコニーの上で、藤棚(ふじだな)の緑を頬(ほお)に染ませながら雅子は毛糸の編物をしていた。
「雅子さん!」
吉本は庭から声をかけた。彼女はひどく驚いて、怪訝そうに彼のほうを見た。
「ぼくです。吉本です」
「あらっ! 吉本さん。よくおいでくださいましたわ」
しかし、彼女は微笑みながら赧くなった。
「ずいぶんあちこちを捜して、ようやく分かったんですよ。だいいち、転居通知をくれないなんてひどいやあ」
「ほんとに……ご免なさい。どなたにもあげなかったのですから……ほんとに、よくおいでくださいましたわ。どうぞお上がりくださいな」
「永峯は?」
「今日は土曜日ですから、じき帰りますわ。まあ、お上がりになって、ゆっくり遊んでいってください」
「ぼくに水を一杯ください」
吉本はそこのコンクリートで畳まれた階段を上がりながら、喘(あえ)ぐようにして言った。
「いま、お茶を持ってこさせますわ。まあ、ここへおかけになって……」
「実はぼく、四、五十日ほど前に、ここの家を捜して来たことがあったんですよ。本当は、ぼくは雅子さんを捜しに来たんだけど、偶然のこと、永峯の居場所まで分かって、驚いて帰ったんですよ」
吉本は与えられた椅子(いす)に腰を下ろしながら、そんなことを言った。
「その時遊んでいってくださればよかったんですのに……」
彼女はまた顔を赧くしながら言った。
「でも、幸福そうだったからな。あのころは、ぼくが顔を出すのは幸福な小鳥の巣を鷹(たか)が覗(のぞ)くようなもんだと思って、そのまま黙って帰ってしまったんですが、そのお陰でぼくはすっかり神経衰弱になってしまったんですよ」
「兄から聞きましたわ。それをお聞きして、わたし、どうしていいか分からない気がいたしましたの。みんなわたしから起こっていることなんですから」
彼女はそして、彼の顔をまともに見ないように自分の膝(ひざ)の上に目を落とした。
「雅子さん! あなたは幸福なんですか?」
吉本は突然、思い出したようにしてそんなことを訊いた。
「さあ、どう言ったらいいんでしょう? 兄からそのことをお聞きするまでは、まあ、幸福だったかもしれません。でも、吉本さんのことをお聞きしてからは、わたし、なんだか幸福でなくなりましたわ。みんなわたしから起こったんだと思うと、どうしても幸福な気持ちにはなれませんの」
「永峯はいったい、ぼくのことをどう思っているんでしょうね?」
「永峯も、吉本さんのことはたいへん気の毒がっているんですわ。そして、永峯もやはり、自分から起こったことだと思っているんですの。自分が裏切らなかったら、吉本さんはどうもなかったように思ってるんですから……」
「じゃ、永峯はぼくが雅子さんを愛していたのを、知らなかったのかしら?」
「知ってはいたんでしょう。でも、自分のほうが吉本さんよりももっともっと……」
「それはだれだってそう思うだろうけれど……それで、雅子さんもそう思っていたんですか?」
「最近まではね。でも、わたしには分からなくなってきましたわ。永峯と吉本さんと、立場を置き替えたら、あるいは永峯のほうが吉本さんのように神経衰弱になっていたかもしれませんし、わたしには分からなくなってきましたわ」
彼女はそのまま口を噤(つぐ)んでしまった。二人の間には深い沈黙が落ちてきた。
6
永峯はそれから間もなく帰ってきた。最近丸(まる)ノ内(うち)辺りの会社に勤めだしたらしい。彼は白麻の背広をかなぐりすてながら、慌て気味にバルコニーへ出てきた。
「吉本! やあ!」
「やあ!」
「ぼくはきみに合わせる顔がなかったんだ。よく来てくれたね」
永峯はひどく昂奮(こうふん)して吉本の手を握った。
「本当によく来てくれたね。ぼくはきみが怒っているかと思って……」
「怒ってやしないがね。……きみはまた、すっかりプチブルになってしまったじゃないか?」
べつだんに詰責するらしい様子もなく、吉本は微笑を含みながら言うのであったが、永峯にはなにかしら鑢(やすり)にかけられるようなものが身内を走る感じだった。
「それだけは許してくれ。ぼくは本当にきみには済まないことをしたと心から思っているんだから」
永峯はいくぶんか顔を赧くして、頭を掻きながら言った。
「ぼくもなにも、きみを責めているのじゃないんだ。ただ、きみの持っている思想も結局、本物ではなかったんだということを言っているだけなんだ」
「ほくはきみからそれを言われるのが辛(つら)いんだ。ぼくのあやふやな思想が、態度が、きみを病気にしたのだから」
永峯は吉本の顔を見ないようにして、一塊の鉄のように頑丈な磁鉄製の灰皿へ煙草の灰を落としながら言った。
「そりゃきみ、きみだけじゃないさ。あやふやといえばぼくだってあやふやなんだ。要するに人間なんて一個の偽映鏡だよ。種類はいろいろあるがね。しかし、偽映鏡だよ。われわれは、われわれの環境の中でわれわれという偽映鏡を作られてきたんだ。そして、われわれという偽映鏡は大学を出て洋行して、博士になって、そして死んでいく。これを当然の世界として映していたんだ」
「型どおりにね」
「型どおりに。――ところが、世の中にはこれを当然として映さない偽映鏡もあるんだ。環境によってね。たとえばぼくらが工場へ行ったのだって、少なくともわれわれという偽映鏡のガラス質が、いままでとは違った竈(かまど)の中で異なった偽映鏡に造り替えられたのだったともいえるんだ。だからぼくだって、こうして一人ぽっちになっていれば、またどんな偽映鏡に造り替えられないとも限らないんだ。そういう意味で、ぼくは決してきみを責めやしない。きみがどんな風に世の中を見ようと、永峯という偽映鏡は永峯という偽映鏡なりに世の中を映しとっているのだから。そして、ぼくはぼくという偽映鏡なりに世の中を映しとっているのだから」
「しかしね」
吉本はそれだけを言って深い溜息(ためいき)を一つした。吉本の言葉が永峯には、一つ一つ皮肉に聞こえてくるのであった。
「……しかし、ぼくも、自分の立場が誤っているということだけは知っているんだよ。しかしどうにもならないんだ。いまのぼく自身の鏡で世の中を映しているのではないような気がするんだ。……これをきみ流に言うと、ぼくはぼくの周囲の偽映鏡の照り返しを受けてそれを反映しているだけで、自分の映しとったものは一つとして外面に出していないような気がするんだ。少なくともいまのところ……」
「その、きみの周囲の偽映鏡っていうの、いったいだれのことなんだ?……雅子さんのことかい? それとも雅子さんの実家のことかい?」
吉本は籐椅子(とういす)の中にほとんど仰向きになるほど深々と埋まって、微笑を含みながら言った。
「そう具体的に挙げろと言われちゃ、なんにも言えないがね。きみが偽映鏡の話をするから、ぼくもそれを譬(たと)えに使っただけで……」
永峯もそう言って、今度はまともに吉本の顔を見ながら爽(さわ)やかに笑った。
そこへ、雅子が女中に果物やサイダーなどを持たせて出てきた。彼女は清楚(せいそ)に薄化粧を刷(は)いて、いっそう奇麗になっていた。
「さあ、どうぞ、吉本さん」
彼女はそう言って、彼らのコップにサイダーを注(つ)いだりした。秋川の妹であったころに比べると、彼女はいかにも若妻らしい淑(しと)やかさを見せていた。
「なにも構わないでください。それよりも、雅子さんもぼくらの仲間に入っちゃどうです?」
「え、入れていただきますわ」
彼女は明るく微笑みながら傍の椅子に腰を下ろした。
「永峯! それできみはいったい、いまどんなことをしているんだ?」
「いまは搾取階級なんだ」
「勤めているんだろう? いったい、何をしているところなんだい?」
「これさ。こんなものを拵(こしら)える会社の事務所なんだ」
永峯は爪(つめ)で磁鉄の灰皿を弾(はじ)いてみせた。灰皿は金属的な余韻を引いて鳴った。
「ばかに頑丈なもんだね。売れるのかね?」
「売れるには売れるんだが、どうもその遣(や)り口(くち)が面白くないんでね。いわゆる、きみのいう偽映鏡なんだ。たとえ一万円の儲(もう)けがあっても、決してそれだけには映してみせないんだから。われわれの目から見ると、偽映鏡も甚だしいもんだよ」
「偽映鏡の話はよそう。雅子さんの前で偽映鏡の話をするのはいけない」
「あら、わたしに聞かされないお話なんですの?」
「雅子さんは偽映鏡を知っていますか?」
吉本は微笑みながら言って、磁鉄製の灰皿をしきりに弄(いじ)っていた。
「知っていますわ。あの、変に歪んで映る鏡なんでしょう?」
「吉本! きみこそ偽映鏡に取り憑(つ)かれているんじゃないか? さっきから偽映鏡の話ばかりしているじゃないか? それに、最初に発作を起こしたときも偽映鏡の前に立って、じっと見詰めていたそうじゃないか?」
「ぼくにはあの鏡で、非常に面白く考えられるんだ。あの鏡の中の世界を考えてみたまえ。たとえばぼくがこうして……」
吉本はそう言いながら、重い磁鉄の灰皿を持って籐椅子から腰を上げた。
「……この灰皿はばかに重いね。……いいかね? ぼくがこの灰皿をこうして……」
吉本はその灰皿を高く持ち上げながら言った。
「こうして、ぼくが、いいかね?」
「おい! きみっ!」
彼は永峯の額を目がけてその灰皿を打ち下ろしながら叫んだ。
「こうしてやるのさ!」
「あっ!」
永峯はそこへどっかりと倒れた。彼はその頑丈な磁鉄の灰皿のために、前額部を完全に割り砕かれていた。
「吉本さん! あなたは……あなたは……」
雅子は恐怖に顫(ふる)えながら叫んだ。
「雅子さん! あなたは、あなたのいちばんに愛していた人を殺したんですね。あなたは永峯を殺してしまったんですね」
「まあ! 自分が殺しておいて、何を言うんです!」
「世の中の偽映鏡がどんな風に映そうと、雅子さんが自分のいちばんに愛していた男を殺したことに違いないはずだ」
「まあ! この人は!」
「雅子さんはぼくのいちばんに愛していた女だ。永峯はぼくのいちばんに愛していた男だ。その永峯が殺されてしまったのだ。……自分がいちばんに愛していた人間が、自分の目の前で他人に殺されるのを見詰めているなんて、そして、どうにも応援のしようがないなんて、実際、こんなたまらない気持ちはない!」
吉本はそれだけ言うと口を噤んで、怪訝そうな目で雅子の顔を見詰めながら静かに頭を振りはじめた。
「吉本さん! あなたは永峯を恨んでいたんですか? なぜわたしを憎まなかったの? なぜあなたを裏切ったわたしを殺さなかったんですの? 殺してください! わたしを殺してください」
彼女は叫びながら、吉本に擦り寄っていった。彼女は涙さえ流しはしなかった。あまりに突然な出来事のために彼女はひどく昂奮しているだけで、自分の感情を悲しみにまで持っていくことができずにいるのだった。
7
前額部を割り砕かれて死んだ永峯の死体が取り片づけられると、吉本はすぐに病院に入れられた。
彼の発作的な行動は、この先どんなことをするか分からないからである。――そして永峯と吉本と、一人は死んでいき、一人は病室の中で廃っていった。
死んだ者はそれでいい。永峯の苦悩と恨みと、彼のすべての感情が決して彼の死体のうえに残っているのではないのだから。――彼の残していった感情をもっとも濃(こま)やかに鮮明に受け取っておいたのは雅子であった。そういう意味で、雅子はもっとも哀(かな)しい恨みの中にあった。そして、雅子はあの時に吉本が最後に言った言葉をよく思い出した。
「自分のいちばんに愛していた人間が、自分の目の前で殺されるのを見詰めているなんて、そしてどうにも応援のしようがないなんて、実際こんなたまらない気持ちはない!」
雅子はその言葉を、あの時は出任せの言葉として、しかも反語的な皮肉な言葉として、ただわけもなく踏みにじってしまったのであったが、いまにして思えば、雅子は胸を抉(えぐ)られるような真理をその中に感じた。そして、雅子はそれを吉本が自分に投げつけた皮肉な反語としてではなしに、吉本の胸の底から湧(わ)いてきた血の通っている言葉として受け取ることができるような気がした。吉本の、いちばんに愛していた女が雅子であり、いちばん愛していた男が永峯であったということを、彼女は充分頷(うなず)くことができるのであったから。
永峯がその死に際に、自分のうえに残していったいろいろの感情を、雅子はおりおり自分の胸に掻き立てて吉本を憎み恨み、復讐(ふくしゅう)を企ててみることさえあった。その復讐の対象者が病院の中で廃りかけていることをふと思い出しては、惨めな哀しみのどん底へ突さ落とされてしまうのであった。そして、彼女を悲惨な感情のどん底に突き落とすものはただそればかりではなかった。彼女が生まれた家の家柄であり、彼女の属している階級の伝統であった。
雅子の実家の家柄は、親の意志の加わらない結婚をした者がその結婚を機縁としてどんなに不幸な環境に陥っていこうと、もはやそれは許すべきでないという掟(おきて)の尾をいまだに引いている。彼女はその伝統的な古い尾の中で、自分の生活を自分で支えていかねばならないような立場に置かれていた。そして、彼女の属している階級は一度結婚をした女性がその夫を失ったのちに、再婚によって幸福を得るというようなことはほとんど絶無と言ってもいいような習わしの中に横たわっていた。――雅子は幸福を失ってしまっていた。彼女の前途には、彼女の見渡すかぎり黒い幕が重々しく垂れていた。彼女はそれを見詰めながら、自分自身の苦悩に疲れ切って溜息を吐(つ)くのが常であった。
死んでいった者はそれでいい!――彼女のしばしば呟(つぶや)くこの言葉の中には、自分もあの時に一緒に殺されてしまったほうがよかったという感情が多分に含まれていた。
しかし、雅子は病院の中で心臓を腐らしている吉本をただに恨み憎んでいるのではなかった。
――最近の彼女の吉本についての思い出は、たいてい彼を哀れむ感情に変わってきていた。自分と同じように、不幸だけを自分のものとして生き残っている前途の真っ暗な人間の、新鮮な空気に触れることのできない蛆(うじ)の湧きかけている心臓をそこに見いだした。
ことにも雅子は、発作症状から覚めたときの吉本の感情と意識とをとてもたまらないものとして感じた。
発作に襲われている間は全然意識を失っているのだから、感情を持たない人間として、死人にも同様になんらの同情も要さないわけなのだが、覚めているときの束縛感を思うと彼女は涙が出たりした。――そして、それが自分に発しているのだと思うと、彼女はわけてもたまらない感情に襲われるのであった。
気が狂うまで自分を愛してくれるなんて、世界じゅうにあの人ほど自分を愛してくれた人はいないのだ!――そういう思いは彼女をひどくセンチメンタルにした。それは三か月あまりの同棲(どうせい)から受け取っておいた永峯の愛情をさえ乗り越えることがあった。
彼女はときにはまた、彼らがあの時に話していた偽映鏡のことを思い出した。
あの場合、偽映鏡という言葉が何を意味していたのか彼女には一つの疑問であり、ただ一つの好奇的な対象でもあった。
彼女はそしてしばしば、病院の中の吉本を見舞ってやりたいという感情に揺り動かされるのであった。
――恋というにはあまりに哀しい暗さを持った感情! 友情という代わりに、好奇的な冷たさを持った愛情をもって。
8
空が青く冴(さ)えていた。
吉本は長く伸びた髭(ひげ)の中に微笑を湛(たた)えて、雅子を迎えた。
「どうなんですか? その後は……」
雅子は吉本の目を見詰めながら言った。彼の目は髑髏(どくろ)のように、痩(や)せた眼窩(がんか)の奥で疲れていた。
「そろそろもう治ろうと思っているんです。発作を起こすなんて、そんな馬鹿(ばか)らしい真似(まね)をする必要はなくなったようですから」
「まあ! ではあなたは、何か必要があってあんな真似をしていたんですか?」
雅子は驚いて低声(こごえ)で叫んだ。
「世の中の偽映鏡は、ぼくをどんな風に映しとっていたんですかね?」
「偽映鏡って、いったいどんな意味なんですの? あなたと永峯とあの時もそんなお話をしていらっしゃったけど、わたしには分かりませんでしたわ。どんな意味なんですの?」
「ぼくは雅子さんがぼくを見舞いに来てくれるとは思わなかった。雅子さん! あなたはぼくをどうして憎まないんです? どうして恨まないんです? それとも皮肉なんですか?」
「吉本さん! あなたはどうしてそんなことをおっしゃるの? あなたはいまなんでもないんでしょう? 発作を起こすことだって、ほとんどなくなっているんでしょう?」
「必要がなくなったんです。ぼくは永峯という偽映鏡を打ち砕くのが目的じゃなかったんで、雅子さんという偽映鏡を造り替えるのが目的だったから」
「わたしには分かりませんわ」
「ぼくのいちばんに愛していた人は、雅子さん、あなただったんです。それは知っていますね。同時にぼくのいちばんに憎んだ人もあなただったんです。しかし、偽映鏡というやつはおかしなやつだ。世の中のものをなんでも歪めて映しているんだ。あの偽映鏡め! そして、ぼくにとうとう病人になることを教えやがったんだ。いや! 病人の真似をすることを教えやがったんだ。あの偽映鏡め!」
吉本はそれだけを、叫ぶようにして言って、俯(うつむ)いてしまった。
「吉本さん! あなたはわたしを悲しませようと思って、永峯を殺したんですの?」
「あなたはぼくを愛しているんですか? 憎んでいるんですか?」
「わたし、お気の毒に思っているだけですわ。憎んでいて見舞いに上がるわけはありませんもの」
彼女はそんな風に言いながら、持ってきた菓子などを風呂敷包(ふろしきづつ)みの中から取り出した。
「ぼくがあの偽映鏡に、病人になることを教えられたばかりじゃないんだね。あの偽映鏡め、いろいろなことを知っていやがる。雅子さんは世の中を偽映鏡に譬えて考えたことはないんですか? 一度考えてごらんなさい。面白いから。……ぼくを病人だなんて……だれが……」
吉本は長く伸びた髭の中で冷ややかに、寂しそうにして微笑んだ。
死後の恋
夢野久作
一
ハハハハハ。イヤ……失礼しました。嘸(さぞ)かしビックリなすったでしょう。ハハア。乞食かとお思いになった……アハアハアハ。イヤ大笑いです。
あなたは近頃、この浦塩(うらじお)の町で評判になっている、風来坊のキチガイ紳士が、私だという事をチットモ御存じなかったのですね。ハハア。ナルホド。それじゃそうお思いになるのも無理はありません。泥棒市に売れ残っていた旧式のボロ礼服を着ている男が、貴下(あなた)のような立派な日本の軍人さんを、スウェツランスカヤ(浦塩の銀座通り)のまん中で捕まえて、こんなレストランへ引っぱり込んで、ダシヌケに、
「私の運命を決定(きめ)て下さい」
などと、お願いするのですからね。キチガイだと思われても仕方がありませんね。ハハハハハ……しかし私が乞食やキチガイでないことはおわかりになるでしょう。ネエ。おわかりになるでしょう。酔っ払いでないことも……さよう……。
お笑いになると困りますが、私はこう見えても生え抜きのモスコー育ちで、旧露西亜(ロシア)の貴族の血を享(う)けている人間なのです。そうして現在では、ロマノフ王家の末路に関する「死後の恋」という極めて不可思議な神秘作用に自分の運命を押さえつけられて、夜(よ)もオチオチ眠られぬくらい悩まされ続けておりますので……実は只今からそのお話をきいて頂いて、あなたの御判断を願おうと思っているのですが……勿論それは極めて真剣な、且つ歴史的に重大なお話なのですが……。
……ああ……御承知下さる……有り難う有り難う。ホントウに感謝します。……ところでウオツカを一杯いかがですか……ではウイスキーは……コニャックも……皆お嫌い……日本の兵士はナゼそんなに、お酒を召し上らないのでしょう……では紅茶。乾菓子(コンフェートム)。野菜……アッ。この店には自慢の腸詰(ソーセージ)がありますよ。召し上りますか……ハラショ……。
オイオイ別嬪(べっぴん)さん。一寸(ちょっと)来てくれ。註文があるんだ。……私は失礼してお酒をいただきます。……イヤ……全く、こんな贅沢な真似が出来るのも、日本軍が居て秩序を保って下さるお蔭です。室(へや)が小さいのでペーチカがよく利きますね……サ……帽子をお取り下さい。どうか御ゆっくり願います。
実を申しますと私はツイ一週間ばかり前に、あの日本軍の兵站(へいたん)部の門前で、あなたをお見かけした時から、ゼヒトモ一度ゆっくりとお話ししたいと思っておりましたのです。あなたがあの兵站部の門を出て、このスウェツランスカヤへ買い物にお出(い)でになるお姿を拝見するたんびに、これはきっと日本でも身分のあるお方が、軍人になっておられるのだな……と直感しましたのです。イヤイヤ決してオベッカを云うのではありませぬ……のみならず、失礼とは思いましたが、その後(のち)だんだんと気をつけておりますと、貴下の露西亜(ロシア)語が外国人とは思われぬ位お上手なことと、露西亜(ロシア)人に対して特別に御親切なことがわかりましたので……しかもそれは、貴下が吾々同胞(わたくしたち)の気風(きもち)に対して特別に深い、行き届いた理解力を持っておいでになるのに原因していることが、ハッキリと私に首肯(うなず)かれましたので、是非ともこの話を聞いて頂く事に決心してしまったのです。否、あなたよりほかにこのお話を理解して、私の運命を決定して下さるお方は無いと思い込んでしまったのです。
さよう……只きいて下されば、いいのです。そうして私がこれからお話しする恐しい「死後の恋」というものが、実際にあり得ることを認めて下されば宜しいのです。そうすればそのお礼として、失礼で御座いますが、私の全財産を捧げさして頂きたいと考えておるのです。それは大抵の貴族が眼を眩(ま)わすくらいのお金に価するもので、私の生命にも換えられぬ貴重品なのですが、このお話の真実性を認めて、私の運命を決定して下さるお礼のためには、決して多過ぎると思いません。惜しいとも思いませぬ。それほどに私を支配している「死後の恋」の運命は崇高と、深刻と、奇怪とを極めているのです。
少々前置が長くなりますが、註文が参ります間、御辛棒(ごしんぼう)下さいませんか……ハラショ……。
私がこの話をして聞かせた人はかなりの多数に上っております。同胞の露西亜人には無論のこと、チェックにも、猶太(ユダヤ)人にも、支那人にも、米国人にも……けれども一人として信じてくれるものがいないのです。そればかりか、私が、あまり熱心になって、相手構わずにこの話をして聞かせるために、だんだんと評判が高くなって来ました。しまいには戦争が生んだ一種の精神病患者と認められて、白軍の隊から逐(お)い出されてしまったのです。
そこでいよいよ私は、この浦塩の名物男となってしまいました。この話をしようとすると、みんなゲラゲラ笑って逃げて行くのです。稀(たま)に聞いてくれる者があっても、人を馬鹿にするなと云って憤(おこ)り出したり……ニヤニヤ冷笑しながら手を振って立ち去ったり……胸が悪くなったと云って、私の足下に唾を吐いて行ったり……それが私にとって死ぬ程悲しいのです。淋(さび)しくて情なくて堪らないのです。
ですから誰でもいい……この広い世界中にタッタ一人でいいから、現在私を支配している世にも不可思議な「死後の恋」の話を肯定して下さるお方があったら、……そうして、私の運命を決定して下さるお方があったら、その方に私の全財産である「死後の恋」の遺品(かたみ)をソックリそのままお譲りして、自分はお酒を飲んで飲んで飲み死にしようと決心したのです。そうして、やっとのこと貴下を発見(みつ)けたのです。あなたこそ、「死後の恋」に絡まる私の運命を、決定して下さるお方に違いないと信じたのです。
ヤ……お料理が来ました。あなたの御健康と幸福を祝さして下さい。日本の紳士にこのお話をするのは、貴下が最初なのですからネ……そうして恐らく最後と思いますから……。
二
ところで一体、あなたはこの私を何歳ぐらいの人間とお思いになりますか、エ? わからない?……ハハハハ。これでもまだ二十四なのですよ。名前はワーシカ・コルニコフと申します。さよう、コルニコフというのが本名なのです……モスコーの大学に這入(はい)って、心理学を専攻して、やっと一昨年出て来たばかりの小僧ッ子ですがね。四十位には見えますでしょう。髪毛(かみのけ)や髭に白髪が交っていますからね。ハハハハハ。しかし私は、今から三ヶ月前迄は間違いなく二十代に見えたのです。白髪などは一本も無くて、今とは正反対のムクムク肥った黒い顔に、白軍の兵卒の服を着ていたのですから……。
ところが、それがたった一夜の間に、こんな老人(としより)になってしまったのです。
詳しく申しますと、今年(大正七年)の、八月二十八日の午後九時から、翌日の午前五時までの間のこと、……距離で云えば、ドウスゴイ附近の原ッパの真中に在る一ツの森から、南へ僅か十二露里(約三里)の所に在る日本軍の前哨まで、鉄道線路伝いによろめいて来る間のことです。そのあいだに今申しました……不可思議な「死後の恋」の神秘力は、私を魂のドン底まで苦しめてこんな老人(としより)にまで衰弱させてしまいました……。……どうです。このような事実を貴下は信じて下さいますか。……ハラショ……あり得ると思われる……と仰言(おっしゃ)るのですね。オッチエニエ、ハラショ……有り難い有り難い。
ところで最前も一寸申しました通り、私はモスコー生まれの貴族の一人息子で、革命の時に両親を喪(うしな)いましてから後、この浦塩へ参りますまでは、故意(わざ)と本名を匿しておったのですが、あまり威張れませんが生れ付き乱暴なことが嫌いで、むしろ戦争なぞは身ぶるいが出る程好かなかったのです。然し今申しましたペトログラードの革命で、家族や家産を一時に奪われて極端な窮迫に陥ってしまいますと、不思議にも気が変って参りまして、どうでもなれ……というような自殺気分を取り交ぜた自暴自棄の考えから、一番嫌いな兵隊になったのですが、それから後幸か不幸か、一度も戦争らしい戦争にぶつからないまま、あちらこちらと隊籍をかえておりますうちに、セミヨノフ将軍の配下について、赤軍のあとを逐いつつ、御承知でも御座いましょうがここから三百露里ばかり距(へだ)たった、烏首里(ウスリ)という村へ移動して参りましたのが、ちょうど今年の八月の初旬の事でした。そうしてそこで部隊の編成がかわった時に、このお話の主人公になっているリヤトニコフという兵卒が私と同じ分隊に這入ることになったのです。
リヤトニコフは私と同じモスコー生れだと云っておりましたが、起居動作が思い切って無邪気で活溌な、一種の躁(はしゃ)ぎ屋と見えるうちに、どことなく気品が備わっているように思われる十七、八歳の少年兵士で、真黒く日に焼けてはいましたけれども、たしかに貴族の血を享けていることが、その清らかな眼鼻立ちを見ただけでもわかるのでした。
彼はこの村に来て、私と同じ分隊に編入されると間もなく、私と非常な仲良しになってしまって、兄弟同様に親切にし合うのでした。……といっても決して忌わしい関係なぞを結んだのではありませぬ。あんな事は獣性と人間性の矛盾を錯覚した、一種の痴呆患者のする事です……で……そのリヤトニコフと私とは、何ということなしに心を惹かれ合って隙(ひま)さえあれば宗教や、政治や芸術の話なぞをし合っているのでしたが、二人とも純な王朝文化の愛惜者であることが追々とわかって来ましたので、涙が出るほど話がよく合いました。殺風景な軍陣の間にこれ程の話相手を見つけた私の喜びと感激……それは恐らく、リヤトニコフも同様であったろうと思われますが……その楽しみが、どんなに深かったかは、あなたのお察しに任せます。
けれども、そうした私たちの楽しみは、あまり長く続きませんでした。その後間もなくセミヨノフ軍の方では、この村に白軍が移動して来たことを、ニコリスクの日本軍に知らせるために、私達の一分隊……下士一名、兵卒十一名に、二人の将校と、一人の下士を添えて斥候(せっこう)に出すことになりましたのです。さよう、……連絡斥候ですね。実は私は、それまで弱虫と見られていて、そんな任務の時にはいつでも後廻しにされていたので、今度も都合よく司令部の勤務に廻されていましたから、占めたと思って内心喜んでいたのですが、思いもかけぬ因縁に引かされて、自分から進んで行くようなことになりましたので……というのは、こんな訳です。
その出発にきまった前日の夕方に……それは何日であったか忘れてしまいましたが、私がリヤトニコフや仲間の分隊の者に「お別れ」を云いに司令部から帰って来ますと、分隊の連中はどこかへ飲みに行っているらしく室の中には誰も居ません。ただ隅ッこの暗い処にリヤトニコフがたった一人でションボリと、革具の手入れか何かをしていましたが、私を見ると急に立ち上って、何やら意味ありげに眼くばせをしながら外へ引っぱり出しました。その態度がどうも変テコで、顔色さえも尋常でないようです。そうして私を人の居ない廏(うまや)の横に連れ込んで、今一度そこいらに人影の無いのを見澄ましてから、内ポケットに手を入れて、手紙の束かと思われる扁平(ひらべっ)たい新聞包みを引き出しますと、中から古ぼけた革のサックを取り出して、黄金色(きんいろ)の止め金をパチンと開きました。見るとその中から、大小二、三十粒の見事な宝石が、キラキラと輝やき出しているではありませんか。
私は眼が眩みそうになりました。私の家は貴族の癖として、先祖代々からの宝石好きで、私も先天的に宝石に対する趣味を持っておりましたので、すぐにもう、焼き付くような気もちになって、その宝石を一粒宛(ずつ)つまみ上げて、青白い夕あかりの中に、ためつすがめつして検(あらた)めたのですが、それは磨き方こそ旧式でしたけれども、一粒残らず間違いのないダイヤ、ルビー、サファイヤ、トパーズなぞの選(よ)り抜きで、ウラル産の第二流品なぞは一粒も交っていないばかりでなく、名高い宝石蒐集家(しゅうしゅうか)の秘蔵の逸品ばかりを一粒ずつ貰い集めたかと思われるほどの素晴らしいもの揃いだったのです。こんなものが、まだうら若い一兵卒のポケットに隠れていようなぞと、誰が想像し得ましょう。
三
私は頭がシインとなるほどの打撃を受けてしまいました。そうして開いた口がふさがらないまま、リヤトニコフの顔と、宝石の群れとを見比べておりますと、リヤトニコフは、その、いつになく青白い頬を心持ち赤くしながら、何か云い訳でもするような口調で、こんな説明をしてきかせました。
「これは今まで誰にも見せたことのない、僕の両親の形見なんです。過激派の主義から見ればコンナものは、まるで麦の中の泥粒と同様なものかも知れませんけれども……ペトログラードでは、ダイヤや真珠が溝泥(どぶどろ)の中に棄ててあるということですけれども……僕にとっては生命(いのち)にも換えられない大切なものなのです。……僕の両親は革命の起る三箇月前……去年のクリスマスの晩に、これを僕に呉(く)れたのですが、その時に、こんな事を云って聞かせられたのです。
……この露西亜(ロシア)には近いうちに革命が起って、私たちの運命を葬るようなことに成るかも知れぬ。だからこの家の血統を絶やさない、万一の用心のために、誰でも意外に思うであろうお前にこの宝石を譲ってコッソリとこの家から逐い出して終(しま)うのだ。お前はもしかすると、そんな処置を取る私たちの無 慈悲さを怨むかもしれないけれども、よく考えてみると私たちの前途と、お前の行く末とは、どちらが幸福かわからないのだ。お前は活溌な生れ付きで、気象(きしょう)もしっかりしているから、きっと、あらゆる艱難辛苦(かんなんしんく)に堪えて、身分を隠しおおせるだろうと思う。そうして今一度私たちの時代が帰って来るのを待つことが出来るであろうと思う。
……しかし、もしその時代が、なかなか来そうになかったならば、お前はその宝石の一部を結婚の費用にして、家の血統を絶やさぬようにして、時節を見ているがよい。そうして世の中が旧(もと)にかえったならば、残っている 宝石でお前の身分を証明して、この家を再興するがよい……。
……と云うのです。僕はそれから、すぐに貧乏な大学生の姿に変装をして、モスコーへ来て、小さな家を借りて音楽の先生を始めました。僕は死ぬ程音楽が好きだったのですからね。そうして機会(おり)を見て伯林(ベルリン)か巴里(パリー)へ出て、どこかの寄席か劇場の楽手になり了(お)おせる計画だったのですが……しかしその計画はスッカリ失敗に帰して終ったのです。その頃のモスコーはとても音楽どころか、明けても暮れてもピストルと爆弾の即興交響楽で、楽譜なぞを相手にする人は一人もありませぬ。おまけに僕は間もなく勃興した赤軍の強制募集に引っかかって無理やりに鉄砲を担がせられることになったのです。
……僕が音楽を思い切ってしまったのはそれからの事でした。何故思い切ったかっていうと、僕の習っていた楽譜はみんなクラシカルな王朝文化式のものばかりで、今の民衆の下等な趣味には全く合いません。そればかりでなく、ウッカリ赤軍の中で、そんなものをやっていると身分が曝(ば)れる虞(おそ)れがありますからね。……ですから一生懸命に隙を見つけて、白軍の方へ逃げ込んで来たのですが、それでもどこに赤軍の間諜(かんちょう)が居るかわかりませんからスッカリ要心をして、口笛や鼻唄にも出しませんでしたが、その苦しさといったらありませんでした。上手なバラライカや胡弓の音(ね)を聞くたんびに耳を押えてウンウン云っていたのですが……そうして一日も早く両親の処へ帰りたい……上等のグランドピアノを思い切って弾いてみたいと、そればかり考え続けていたのですが……。
……ところが、ちょうど昨夜の事です。分隊の仲間がいつになくまじめになって、何かヒソヒソと話をし合っているようですから、何事かと思って、耳を引っ立ててみますと、それは僕の両親や同胞(きょうだい)たちが、過激派のために銃殺されたという噂だったのです。……僕はビックリして声を立てるところでした。けれども、ここが肝腎のところだと思いましたから、わざと暗い処に引っ込んで、よくよく様子を聞いてみますと、僕の両親が、何も云わずに、落ち付いて殺された事や、僕を一番好いていた弟が銃口の前で僕の名を呼んで、救けを求めたことまでわかっていて、どうしても、ほんとうとしか思えないのです。……ですから、僕はもう……何の望みも無くなって……あなたにお話ししようと思っても、生憎(あいにく)勤務に行って……いらっしゃらないし……」
と云ううちに涙を一パイに溜めてサックの蓋を閉じながら、うなだれてしまったのです。
私は面喰(めんくら)ったが上にも面喰らわされてしまいました。腕を組んだまま突立って、リヤトニコフの帽子の眉庇(まびさし)を凝視しているうちに、膝頭がブルブルとふるえ出すくらい、驚き惑っておりました。……まさかに、それ程の身分であろうとは夢にも想像していないのでした。
実を云うと私は、その前日の勤務中に司令部で、同じような噂をチラリと聞いておりました。……ニコラス廃帝が、その皇后や、皇太子や、内親王たちと一緒に過激派軍の手で銃殺された……ロマノフ王家の血統はとうとう、こうして凄惨な終結を告げた……という報道があったことを逸早(いちはや)く耳にしているにはいたのですが、その時は、よもやソンナ事があろう筈はないと確信していました。いくら過激派でも、あの何も知らない、無力な、温順なツアールとその家族に対して、そんな非常識な事を仕掛ける筈はあり得ない……と心の中(うち)で冷笑していたのです。又、白軍の司令部でも、私と同意見だったと見えて、「今一度真偽をたしかめてから発表する。決して動揺してはならぬ」という通牒を各部隊に出すように手筈をしていたのですが……。
とはいえ……仮りにそれが虚報であったとしても、今のリヤトニコフの身の上話と、その噂とを結びつけて考えると、私は実に、重大この上もない事実に直面していることがわかるのです。そんな重大な因縁を持った、素晴らしい宝石の所有者である青年と、こうして向い合って立っている――ということは真に身の毛も竦立(よだ)つ危険千万な運命と、自分自身の運命とを結びつけようとしている事になるのです。
……但し、……ここに唯一つ疑わしい事実がありました。……というのは他でもありませね。ニコラス廃帝が、内親王は何人(いくたり)も持っておられたにも拘(かか)わらず、皇子としては今年やっと十五歳になられた皇太子アレキセイ殿下以外に一人も持っておられなかったことです。……ですからもし今日只今、私の眼の前に立っている青年が、真に廃帝の皇子で、過激派の銃口を免れたロマノフ王家の最後の一人であるとすれば、オルガ、タチアナ、マリア、アナスタシヤと四人の内親王殿下の中で、一番お若いアナスタシヤ殿下の兄君か弟君か……いずれにしても、そこいらに最も近い年頃に相当する訳なのですが……そうして、これがもしずっと以前の露西亜か、又は外国の皇室ならば、すぐに、そんな秘密の皇子様が、人知れず民間に残っておられることを首肯されるのですが、……しかし最近の吾がロマノフ王家の宮廷内では、斯様な秘密の存在が絶対に許されない事情があったのです。……すなわち、もしニコラス廃帝に、こんな皇子があったとすれば、仮令(たとえ)、どんなに困難な事情がありましょうとも、当然皇子として披露さるべき筈であることがその当時の国情から考えても、わかり切っているのでした。その国情というのはあらかた御存じでもありましょうし、この話の筋に必要でもありませんから略しますが、要するに、その当時のスラヴ民族は、上も下も一斉に、皇儲(こうちょ)の御誕生を渇望しておりましたので、甚しきに到っては、ビクトリア女皇の皇女である皇后陛下の周囲に、独逸(ドイツ)の賄賂(まかない)を受けている者が居る。……皇子がお生まれになる都度に圧殺している者が居る……というような馬鹿げた流言まで行われていたことを、私は祖父から聞いて記憶していたのです。
……ですから……こうした理由から推して、考えてみますと、現在私の眼の前に宝石のケースを持ったままうなだれて、白いハンケチを顔に当てている青年は、必ずや廃帝に最も親(ちか)しい、何々大公の中の、或る一人の血を引いた人物に違いない……それは、斯様な「身分を証明するほどの宝石」の存在によっても容易に証明されるので、ことによるとこの青年は、その父の大公一家が、廃帝と同じ運命の途連れにされたことを推測しているか……もしくは、その大公の家族の虐殺が、廃帝の弑逆(しいぎゃく)と誤り伝えられている事を、直覚しているのかも知れない……。しかも万一そうとすれば、そうした容易ならぬ身分の人から、かような秘密を打ち明けられるという事は、スラヴの貴族としてこの上もない光栄であり、且つ面目にもなることであるが、同時に、他の一面から考えるとこれは又、予測することの出来ない恐しい、危険千万な運命に、自分の運命が接近しかけていることになる……。
……と……こう考えて来ました私は、吾れ知らずホーッと大きな溜息をつきました。そうして腕を組み直しながら、今一度よく考え直してみましたが、そのうちに私は又、とても訝(おか)しい……噴飯(ふきだ)したいくらい変テコな事実に気が付いたのです。
……というのは、この眼の前の青年……本名は何というのか、まだわかりませんが……リヤトニコフと名乗る青年が、この際ナゼこんなものを私に見せて、これ程の重大な秘密を打ち明ける気になったかという理由がサッパリわからない事です。もしかしたらこの青年は、私が貴族の出身であることをアラカタ察していて……且つは親友として信頼し切っている余りに、胸に余った秘密の歎きと、苦しみとを訴えて、慰めてもらいに来たのではあるまいかとも考えてみましたが……。それにしては余りに大胆で、軽率で、それほどの運命を背負って立っている、頭のいい青年の所業(しわざ)とはどうしても思われませぬ。
それならばこの青年は一種の誇大妄想狂みたような変態的性格の所有者ではないか知らん。たった今見せられた夥(おびただ)しい宝石も、私の眼を欺くに足るほどの、巧妙を極めた贋造物(にせもの)ではなかったかしらん。……なぞとも考えてみましたが、いくら考え直しても、今の宝石はそんな贋造物ではない。正真正銘の逸品揃いに違いないという確信が、いよいよ益々高まって来るばかりです。
……しかし又、そうかといってこの青年に、
「何故(なぜ)その宝石を僕に見せたんですか」
なぞと質問をするのは、私に接近しかけている危険な運命の方へ、一歩を踏み出すことになりそうな予感がします。
……で……こうして色々と考えまわした揚げ句、結局するところ……いずれにしてもこの場合は何気なくアシラッて、どこまでも戦友同志の一兵卒になり切っていた方が、双方のために安全であろう。これから後も、そうした態度でつき合って行きながら、様子を見ているのが最も賢明な方針に違いないであろう……とこう思い当たりますと、根が臆病者の私はすぐに腹をきめてしまいました。前後を一渡り見まわしてから、如何にも貴族らしく、鷹揚(おうよう)にうなずきながら二ツ三ツ咳払いをしました。
「そんなものは無暗に他人(ひと)に見せるものではないよ。僕だからいいけれども、ほかの人間には絶対に気付かれないようにしていないと、元も子もない眼に会わされるかも知れないよ。しかし君の一身上に就いては、将来共に及ばずながら力になって上げるから、あまり力を落とさない方がいいだろう。そんな身分のある人々の虐殺や処刑に関する風説は大抵二、三度宛伝わっているのだからね。たとえばアレキサンドロウィチ、ミハイル、ゲオルグ、ウラジミルなぞという名前はネ」
と云い云い相手の顔色を窺っておりましたが、リヤトニコフの表情には何等の変調もあらわれませんでした。却ってそんな名前をきくと安心したように、長い溜め息をしいしい顔を上げて涙を拭きますと、何かしら嬉しそうにうなずきながら、その宝石のサックを、又も内ポケットの底深く押し込みました。
……が……しかし……。私は決して、作り飾りを申しません。あなたに蔑すまれるかも知れませんけど……こんなお話に嘘を交ぜると、何もかもわからなくなりますから正直に告白しますが……。
手早く申しますと私は、事情の奈何(いかん)に拘わらず、その宝石が欲しくてたまらなくなったのです。私の血管の中に、先祖代々から流れ伝わっている宝石愛好慾が、リヤトニコフの宝石を見た瞬間から、見る見る松明(たいまつ)のように燃え上がって来るのを、私はどうしても打ち消すことが出来なくなったのです。そうして「もしかすると今度の斥候旅行で、リヤトニコフが戦死しはしまいか」というような、頼りない予感から、是非とも一緒に出かけようという気持ちになってしまったのです。うっかりすると自分の生命(いのち)が危いことも忘れてしまって……。
しかも、その宝石が、間もなく私を身の毛も竦立(よだ)つ地獄に連れて行こうとは……そうしてリヤトニコフの死後の恋を物語ろうとは、誰が思い及びましょう。
四
私共の居た烏首里(ウスリ)からニコリスクまでは、鉄道で行けば半日位しかかからないのでしたが、途中の駅や村を赤軍が占領しているので、ズット東の方に迂廻して行かなければなりませんでした。それは私共の一隊にとっては実に刻一刻と生命(いのち)を切り縮められるほどの苦心と労力を要する旅行でしたけれども、幸いに一度も赤軍に発見されないで、出発してから十四日目の正午頃に、やっとドウスゴイの寺院の尖塔が見える処まで来ました。
そこは赤軍が占領しているクライフスキーから南へ約八露里(二里)ばかり隔った処で、涯(はて)しもない湿地の上に波打つ茫々(ぼうぼう)たる大草原の左手には、烏首里鉄道の幹線が一直線に白く光りながら横たわっております。その手前の一露里ばかりと思われる向うには、コンモリとしたまん丸い濶葉樹(かつようじゅ)の森林が、ちょうどクライフスキーの町の離れ島のようになって、草原のまん中に浮き出しておりました。この辺の森林という森林は大抵鉄道用に伐(き)ってしまってあるのに、この森だけが取り残されているのは不思議といえば不思議でしたが……その森のまん丸く重なり合った枝々の茂みが、草原の向うの青い青い空の下で、真夏の日光をキラキラと反射しているのが、何の事はない名画でも見るように美しく見えました。
ここまで来るともうニコリスクが鼻の先といってよかったので、私共の一隊はスッカリ気が弛(ゆる)んでしまいました。将校を初め兵士達も皆、腰の処まである草の中から首を擡(もた)げて、やっと腰を伸ばしながら提げていた銃を肩に担ぎました。そうして大きな雑草の株を飛び渡り飛び渡りしつつ、不規則な散開隊形を執って森の方へ行くのでしたが、間もなく私たちのうしろの方から、涼しい風がスースーと吹きはじめまして、何だか遠足でもしているような、悠々とした気もちになってしまいました。先頭の将校のすぐうしろに跟(つ)いているリヤトニコフが帽子を横ッチョに冠りながら、ニコニコと私をふり返って行く赤い頬や、白い歯が、今でも私の眼の底にチラ付いております。
その時です。多分一露里半ばかり距たっている鉄道線路の向う側だったろうと思いますが、不意にケタタマシイ機関銃の音が起って、私たちの一隊の前後の青草の葉を虚空に吹き散らしました。そうしてアッと驚く間もなく、その中(うち)の一発が私の左の股(もも)を突切って行ったのです。
私は一尺ばかり飛び上ったと思うと、横たおしに草の中へたおれ込みました。けれども、それと同時に「傷は股だ。生命(いのち)に別状は無い」と気が付きましたので、草の中に尻餅を突いたままワナワナとふるえる手で剣を抜いてズボンを切り開くと、表皮と肉を抉(えぐ)り取られた傷口へシッカリと繃帯(ほうたい)をしました。そのうちにも引き続いて発射される機関銃の弾丸は、ピピピピピと小鳥の群れのように頭の上を掠(かす)めて行きますので、私は一と縮みになって身を伏せながら、仲間の者がどうしているかと、草の間から見まわしました。こんな処で一人ポッチになるのは死ぬより恐しい事なのですからね。
しかし私の仲間の者は、一人も私が負傷した事に気づかないらしく、皆銃を提げて、草の中をこけつまろびつしながら向うのまん丸い森の方へ逃げて行くのでした。今から考えると余程狼狽していたらしいのですが、そのうちに、どうしたわけか機関銃の音が、パッタリと止んでしまいましたけれども、私の戦友たちは、なおも逃げるのを止めません。やがて、その影がだんだんと小さくなって、森に近づいたと思うと、先登(せんとう)に二人の将校、そのあとから十一名の下士卒が皆無事に森の中へ逃げ込みました。その最後に、かなり逃げ後れたリヤトニコフが、私の方をふり返りふり返り森の根方を這い上(のぼ)って行くのがよく見えましたが、ウッカリ合図をして撃たれでもしては大変と思いましたので、なおも身を屈めて、足の痛みを我慢しながら、一心に森の方を見守って、形勢がどうなって行くかと心配しておりました。
すると又、リヤトニコフの姿が森の中へ消え入ってから十秒も経たないうちに……どうでしょう。その森の中で突然に息苦しいほど激烈な銃声が起ったのです。それは全くの乱射乱撃で、呆れて見ている私の頭の中をメチャメチャに掻(か)きみだすかのように、跳弾があとからあとから恐ろしい悲鳴をあげつつ森の外へ八方に飛び出しているようでしたが、それが又、一分間も経たないうちにピッタリと静まると、あとは又もとの通り、青々と晴れ渡った、絵のようにシインとした原ッパに帰ってしまいました。
私は何だか夢を見ているような気もちになりました。一体何事が起ったのだろうと、なおも一心に森の方を見つめておりましたが、いつまで経っても、森を出て行く人影らしいものは見えず、銃声に驚いたかして、原ッパを渡る鳥の姿さえ見つかりません。
私はそんな光景を見まわしているうちに、何故ということなしに、その森林が、たまらない程恐しいものに思われて来ました。……今聞こえた銃声が敵のか味方のか……というような常識的な頭の働らきよりも、はるかに超越した恐怖心、……私の持って生まれた臆病さから来たらしい戦慄が、私の全身を這いまわりはじめるのを、どうすることも出来ませんでした。……一面にピカピカと光る青空の下で、緑色にまん丸く輝く森林……その中で突然に起って、又突然に消え失せた夥しい銃声、……そのあとの死んだような静寂……そんな光景を見つめているうちに、私は歯の根がカチカチと鳴りはじめました。草の株を掴んでいる両方の手首が氷のように感じられて来ました。眼が痛くなるほど凝視している森の周囲の青空に、灰色の更紗模様みたようなものがチラチラとし始めたと思うと、私は気が遠くなって草の中に倒れてしまいました。もしかするとそれは股の出血が非道かったせいかも知れませんでしたけど……。
それでも、やや暫くしてから正気を回復しますと、私は銃も帽子も打ち棄てたまま、草の中を這いずり始めました。草の根方に引っかかるたんびに、眼も眩むほどズキズキと高潮する股の痛みを、一生懸命に我慢しいしい森の方へ近づいて行きました。
何故その時に、森の方へ近づいて行ったのか、その時の私には全くわかりませんでした。生れつき臆病者の私が、しかも日の暮れかかっている敵地の野原を、堪え難い痛みに喘ぎながら、どうしてそんな気味のわるい森の方へ匍(は)い寄って行く気持ちになったのか……。
……それは、その時既に私が、眼にも見えぬ或る力で支配されていたというよりほかに説明の仕方がありませんでしょう。常識からいえば、そんな気味のわるい森の方へ行かずに、草の中で日の暮れるのを待って、鉄道線路に出て、闇に紛れてニコリスクの方へ行くのが一番安全な訳ですからね。申すまでもなくリヤトニコフの宝石の事などは、恐ろしい出来事の連続と、烈しい傷の痛みのために全く忘れておりましたし、好奇心とか、戦友の生死を見届けるとかいうような有りふれた人情も、毛頭残っていなかったようです。……唯……自分の行く処はあの森の中にしかないというような気持ちで……そうして、あそこへ着いたら、すぐに何者にか殺されて、この恐しさと、苦しさから救われて、あの一番高い木の梢(こずえ)から、真直ぐに、天国へ昇ることが出来るかもしれぬ……というような、一種の甘い哀愁を帯びた超自然的な考えばかりを、たまらない苦痛の切れ目切れ目に往来させながら、……はてしもなく静かな野原の草イキレに噎(む)せかえりながら……何とはなしに流るる涙を、泥だらけの手で押しぬぐい押しぬぐい、一心に左足を引きずっていたようです。……但(ただし)……その途中で二発ばかり、軽い、遠い銃声らしいものが森の方向から聞こえましたから、私は思わず頭を擡(もた)げて、恐る恐る見まわしましたが、やはり四方(あたり)には何の物影も動かず、それが本当の銃声であったかどうかすら、考えているうちにわからなくなりましたので、私は又も草の中に頭を突込んで、ソロソロと匍いずり始めたのでした。
五
森の入口の柔らかい芝草の上に私が匍い上った時には、もうすっかり日が暮れて、大空が星だらけになっておりました。泥まみれになった袖口や、ビショビショに濡れた膝頭や、お尻のあたりからは、冷気がゾクゾクとしみ渡って来て、鼻汁と涙が止め度なく出て、どうかすると嚔(くしゃみ)が飛び出しそうになるのです。それを我慢しいしい草の上に身を伏せながら、耳と眼をジッと澄まして動静(ようす)をうかがいますと、この森は内部(なか)の方までかなり大きな樹が立ち並んでいるらしく、星明かりに向うの方が透いて見えるようです。しかも、いくら眼を瞠(みは)り、耳を澄しても人間の声は愚か、鳥の羽ばたき一ツ、木の葉の摺れ合う音すらきこえぬ静けさなのです。
人間の心というものは不思議なものですね。こうしてこの森の中には敵も味方も居ない……全くの空虚であることが次第にわかって来ると、何がなしにホッとすると同時に、私の平生(へいぜい)の気弱さが一時に復活して来ました。こんな気味のわるい、妖怪(おばけ)でも出て来そうな森の中へ、たった一人で、どうして来たのかしらん……と気が付くと、思わずゾッとして首をちぢめました。軍人らしくもない性格でありながら軍人になって、こんな原ッパのまん中に遥(は)る遥(ば)るとやって来て、たった一人で傷つきたおれている自分の運命までもが、今更にシミジミとふり返られて、恐ろしくて堪らなくなりましたので、すぐにも森を出ようとしましたが、又思い返してジッと森の中の暗を凝視しました。
私がリヤトニコフの宝石の事を思い出したのは、実にその時でした。リヤトニコフは……否、私たちの一隊は、もしかするとこの森の中で殺されているかも知れぬ……と気が付いたのもそれと殆んど同時でした。
……早くから私たちの旅行を発見していた赤軍は、一人も撃ち洩らさない計略を立てて、あの森に先廻りをしていた。そうして私たちをあの森に追い込むべく、不意に横合いから機関銃の射撃をしたものと考えれば、今までの不思議がスッカリ解決される。しかも、もしそうすれば私たちの一隊は、この森の中で待ち伏せしていた赤軍のために全滅させられている筈で、リヤトニコフも無論助かっている筈はない。赤軍はそのあとで、私が気絶しているうちに線路へ出て引き上げたのであろう……と、そう考えているうちに私の眼の前の闇の中へ、あのリヤトニコフの宝石の幻影がズラリと美しく輝やきあらわれました。
私は今一度、念のために誓います。私は決して作り飾りを申しませぬ。この時の私はもうスッカリ慾望の奴隷になってしまっていたのです。あの素晴らしい宝石の数十粒がもしかすると自分のものになるかも知れぬ、という世にも浅ましい望み一つのために、苦痛と疲労とでヘトヘトになっている身体(からだ)を草の中から引き起して、インキ壺の底のように青黒い眼の前の暗(やみ)の中にソロソロと這い込みはじめたのです。……戦場泥棒……そうです。この時の私の心理状態を、あの人非人でしかあり得ない戦場泥棒の根性と同じものに見られても、私は一言の不服も申し立て得ないでしょう。
それからすこし森の奥の方へ進み入(い)りますと、芝草が無くなって、枯れ葉と、枯れ枝ばかりの平地になりました。それにつれて身体中の毛穴から沁み入るような冷たさ、気味わるさが一層深まって来るようで、その枯れ葉や枯れ枝が、私の掌(てのひら)や膝の下で砕ける、ごく小さな物音まで、一ツ一ツに私の神経をヒヤヒヤさせるのでした。
そのうちに、だんだんと奥の方へ這入るにつれて、恐怖に慣れたせいか、いろんな事がハッキリとわかって来ました。……この森には昔、砦か、お寺か、何かがあったらしく、処々に四角い、大きな切石が横たわっていること。時々人が来るらしく、落ち葉を踏み固めたところが連続していること。そうして今は全く人間が居ないので、今まで来る間に死骸らしいものには一つも行き当らず、小銃のケースや帽子なぞいう戦闘の遺留品にも触れなかったことから推測すると、味方の者は無事にこの森を出たかも知れない……ということなぞ。……そのうちに、積り積った枯れ葉の山が、匍っている私の掌に生あたたかく感ぜられるようになりました時、私はちょうど森のまん中あたりに在る、すこしばかりの凹地に来たことを知りました。そこから四辺(あたり)を見まわしますと、森の下枝ごしに四辺の原ッパが薄明るく見えるのです。
私は安心したような……同時にスッカリ失望したような、何ともしれぬ深いため息をして、その凹地のまん中に坐りこみました。思い切って大きな嚔(くしゃみ)を一つしながら頭の上をふりあおぐと、高い高い木の梢の間から、微かな星の光りが二ツ三ツ落ちて来ます。それを見上げているうちに、私はだんだんと大胆になって来たらしく、やがて、いつもポケットに入れているガソリンマッチの事を思い出しました。
私はその凹地のまん中でいく度もいく度も身を伏せて四方(あたり)のどこからも見えないことを、たしかめますと、すぐに右のポケットからガソリンマッチを取り出して、手元を低くしながら、自動点火仕掛の蓋をパット開きました。その光りをたよりにソロソロと頭を擡げて、まず鼻の先に立っている、木の幹かと思われていた白いものをジッと見定めましたが、間もなく声も立て得ずにガソリンマッチを取り落してしまいました。
けれどもガソリンマッチは地に落ちたまま消えませんでした。そこいらの枯れ葉と一緒にポツポツと燃えているうちにケースの中からガソリンが洩れ出したと見えて、見る見る大きく、ユラユラと油煙をあげて燃え立ち始めました。けれども私はそれを消すことも、どうすることも出来ずに、尻餅をついたまま、ガタガタと慄えているばかりでした。
私の居る凹地を取り捲いた巨大な樹の幹に、一ツ宛(ずつ)丸裸体の人間の死骸が括(くく)りつけてあるのです。しかも、よく見ると、それは皆最前まで生きていた私の戦友ばかりで、めいめいの襯衣(シャツ)か何かを引っ裂いて作ったらしい綱で、手足を別々に括って、木の幹の向うへ、うしろ手に高く引っぱりつけてあるのですが、そのどれもこれもが銃弾で傷ついている上に、そうした姿勢で縛られたまま、あらゆる残虐な苦痛と侮辱とをあたえられたものらしく、眼を抉り取られたり、歯を砕かれたり、耳をブラリと引き千切(ちぎ)られたり、股の間をメチャクチャに切りさいなまれたりしています。そんな傷口の一つ一つから、毛糸の束のような太い、または細長い血の紐を引き散らして、木の幹から根元までドロドロと流しかけたまま、グッタリとうなだれているのです。口を引き裂かれて馬鹿みたような表情にかわっているもの……鼻を切り開かれて笑っているようなもの……それ等がメラメラと燃え上る枯れ葉の光りの中で、同時にゆらゆらと上下に揺らめいて、今にも私の上に落ちかかって来そうな姿勢に見えます。
そんな光景を見まわしている間が何分間だったか、何十分だったか、私は全く記憶しません。そうして胸を抉られた下士官の死骸を見つめている時には、自分の胸の処を、釦(ボタン)が千切れる程強く引っ掴んでいたようです。咽喉を切り開かれている将校を見た時には、血の出るのも気付かずに、自分の咽喉仏の上を掻き※(むし)っていたようです。下※(あご)を引き放されて笑っているような血みどろの顔を見あげた時には、思わず、ハッハッと喘ぐように笑いかけたように思います。
……現在の私が、もし人々の云う通りに精神病患者であるとすれば、その時から異常を呈したものに違いありません。
すると、そのうちに、こうして藻掻(もが)いている私のすぐ背後で、誰だかわかりませんが微かに、歎(た)め息をしたような気はいが感ぜられました。それが果して生きた人間のため息だったかどうかわかりませんが、私は、何がなしにハッとして飛び上るように背後をふり向きますと、そこの一際大きな樹の幹に、リヤトニコフの屍体が引っかかって、赤茶気た枯れ葉の焔にユラユラと照らされているのです。
それはほかの屍体と違って、全身のどこにも銃弾のあとがなく、又虐殺された痕跡も見当りませんでした。唯その首の処をルパシカの白い紐で縛って、高い処に打ち込んだ銃剣に引っかけてあるだけでしたが、そのままにリヤトニコフは、左右の手足を正しくブラ下げて、両眼を大きく見開きながら、まともに私の顔を見下しているのです。
……その姿を見た時に私は、何だかわからない奇妙な叫び声をあげたように思います。……イヤイヤ。それは、その眼付が、怖ろしかったからではありません。
……リヤトニコフは女性だったのです。しかもその乳房は処女の乳房だったのです。
……ああ……これが叫ばずにおられましょうか。昏迷せずにおられましょうか。……ロマノフ、ホルスタイン、ゴットルブ家の真個(ほんとう)の末路……。
彼女……私は仮りにそう呼ばせて頂きます……彼女は、すこし後れて森に這入ったために生け捕りにされたものと見えます。そうして、その肉体は明らかに「強制的の結婚」によって蹂躙(じゅうりん)されていることが、その唇を隈取っている猿轡(さるぐつわ)の瘢痕(あと)でも察しられるのでした。のみならず、その両親の慈愛の賜(たまもの)である結婚費用……三十幾粒の宝石は、赤軍がよく持っている口径の大きい猟銃を使ったらしく、空包に籠めて、その下腹部に撃ち込んであるのでした。私が草原を匍(は)っているうちに耳にした二発の銃声は、その音だったのでしょう……そこの処の皮と肉が破れ開いて、内部(なか)から掌(てのひら)ほどの青白い臓腑がダラリと垂れ下っているその表面に血にまみれたダイヤ、紅玉(ルビー)、青玉(サファイヤ)、黄玉(トパーズ)の数々がキラキラと光りながら粘り付いておりました。
六
……お話というのはこれだけです。……「死後の恋」とはこの事をいうのです。
彼女は私を恋していたに違いありませぬ。そうして私と結婚したい考えで、大切な宝石を見せたものに違いないのです。……それを私が気付かなかったのです。宝石を見た一刹那から烈しい貪慾に囚われていたために……ああ……愚かな私……。
けれども彼女の私に対する愛情はかわりませんでした。そうして自分の死ぬる間際に残した一念をもって、私をあの森まで招き寄せたのです。この宝石を私に与えるために……この宝石を霊媒として、私の魂と結び付きたいために……。
御覧なさい……この宝石を……。この黒いものは彼女の血と、弾薬の煤(すす)なのです。けれども、この中から光っているダイヤ特有の虹の色を御覧なさい。青玉(サファイヤ)でも、紅玉(ルビー)でも、黄玉(トパーズ)でも本物の、しかも上等品でなくてはこの硬度と光りはない筈です。これはみんな私が、彼女の臓腑の中から探り取ったものです。彼女の恋に対する私の確信が私を勇気づけて、そのような戦慄すべき仕事を敢えてさしたのです。
……ところが……。
この街の人々はみんなこれを贋せ物だと云うのです。血は大方豚か犬の血だろうと云って笑うのです。私の話をまるっきり信じてくれないのです。そうして、彼女の「死後の恋」を冷笑するのです。
……けれども貴下は、そんな事は仰言らぬでしょう。……ああ……本当にして下さる。信じて下さる、……ありがとう。ありがとう。サアお手を……握手をさして下さい……宇宙間に於ける最高の神秘「死後の恋」の存在はヤッパリ真実でした。私の信念は、あなたによって初めて裏書きされました。これでこそ乞食みたようになって、人々の冷笑を浴びつつ、この浦塩の町をさまよい歩いた甲斐がありました。
私の恋はもう、スッカリ満足してしまいました。
……ああ……こんな愉快なことはありませぬ。済みませぬがもう一杯乾盃させて下さい。そうしてこの宝石をみんな貴下に捧げさして下さい。私の恋を満足させて下すったお礼です。私は恋だけで沢山です。その宝石の霊媒作用は今日只今完全にその使命を果たしたのです……。サアどうぞお受け取り下さい。
……エ……何故ですか……。ナゼお受け取りにならないのですか……。
この宝石を捧げる私の気持ちが、あなたには、おわかりにならないのですか。この宝石をあなたに捧げて……喜んで、満足して、酒を飲んで飲んで飲み抜いて死にたがっている私を可愛相とはお思いにならないのですか……。
エッ……エエッ……私の話が本当らしくないって……。
……あ……貴下もですか。……ああ……どうしよう……ま……待って下さい。逃げないで……ま……まだお話することが……ま、待って下さいッ……。
ああッ……
アナスタシヤ内親王殿下……。
(『新青年』昭和三年十月)
◆本文中で使われている外字
半ば目を※(みひら)きて、
眼を※(ひら)けり。
目を※(みは)りて

掻き※(むし)って

下※(あご)を

◆電子テキスト化スタッフ等一覧
●薮の中
底本:筑摩書房刊 ちくま文庫『芥川龍之介全集4』
1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
1996(平成8)年7月15日第8刷発行
親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
1971(昭和46)年3月〜11月に刊行
入力:平山誠、野口英司
校正:もりみつじゅんじ
●外科室
著者:泉鏡花
底本:角川文庫『高野聖』 1971年4月20日改版初版、1979年11月30日改版第14刷 角川書店
テキスト入力:今中一時
テキスト校正:浜野 智
●鎖工場
底本:全集・現代文学の発見 第一巻
昭和四十九年九月第一刷発行
学芸書林
テキスト入力:山根鋭二
テキスト校正:浜野 智
●街頭の偽映鏡
底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年8月5日初版発行
入力:大野晋
校正:曽我部真弓
●死後の恋
底本:角川ホラー文庫『夢野久作怪奇幻想傑作選−あやかしの鼓』(角川書店 平成10年4月10日初版発行)
テキスト入力:林 裕司(「あやかしの鼓」を除く)
アンソロジー編:浜野 智
ちへいせん公開:2000年10月
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