●青空文庫アンソロジー-8
水はめぐる
人は水から生まれる。
生まれるとまた、水をめぐりつつ生きる。
ここには「水のある」随筆と小説を
8作まとめた。
◆目次
大川の水(芥川龍之介)
鯉魚(岡本かの子)
船(島崎藤村)
身投げ救助業(菊池寛)
半七捕物帳―むらさき鯉(岡本綺堂)
泥濘(梶井基次郎)
万福追想(葉山嘉樹)
高瀬舟(森鴎外)
大川の水
芥川龍之介
自分は、大川端(おおかわばた)に近い町に生まれた。家を出て椎(しい)の若葉におおわれた、黒塀(くろべい)の多い横網の小路(こうじ)をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭(ひゃっぽんぐい)の河岸(かし)へ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分はほとんど毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂洲(すなず)と、水の上に生まれて水の上に暮しているあわただしい人々の生活とを見た。真夏の日の午(ひる)すぎ、やけた砂を踏みながら、水泳を習いに行く通りすがりに、嗅(か)ぐともなく嗅いだ河(かわ)の水のにおいも、今では年とともに、親しく思い出されるような気がする。
自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと言えば、泥濁(どろにご)りのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落したいような、言いがたい慰安と寂寥(せきりょう)とを感じた。まったく、自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もちがした。この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛するのである。
銀灰色の靄(もや)と青い油のような川の水と、吐息(といき)のような、おぼつかない汽笛の音と、石炭船の鳶色(とびいろ)の三角帆と、――すべてやみがたい哀愁をよび起すこれらの川のながめ[#「ながめ」に傍点]は、いかに自分の幼い心を、その岸に立つ楊柳(ようりゅう)の葉のごとく、おののかせたことであろう。
この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林(ぞうきばやし)のかげになっている書斎で、平静な読書三昧(さんまい)にふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった。動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟(しげき)と緊張とに、せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、なつかしさに、とかしてくれる。大川の水があって、はじめて自分はふたたび、純なる本来の感情に生きることができるのである。
自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落すのを見た。自分は幾度となく、霧の多い十一月の夜(よ)に、暗い水の空を寒むそうに鳴く、千鳥の声を聞いた。自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、大川に対する自分の愛を新たにする。ちょうど、夏川の水から生まれる黒蜻蛉(とんぼ)の羽のような、おののきやすい少年の心は、そのたびに新たな驚異の眸(ひとみ)を見はらずにはいられないのである。ことに夜網(よあみ)の船の舷(ふなばた)に倚(よ)って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりのないさびしさに迫られたことであろう。
大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧院の鐘の音と、鵠(くぐい)の声とに暮れて行くイタリアの水の都――バルコンにさく薔薇(ばら)も百合(ゆり)も、水底(みなそこ)に沈んだような月の光に青ざめて、黒い柩(ひつぎ)に似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢のように漕(こ)いでゆく、ヴェネチアの風物に、あふるるばかりの熱情を注いだダンヌンチョの心もちを、いまさらのように慕わしく、思い出さずにはいられないのである。
この大川の水に撫愛(ぶあい)される沿岸の町々は、皆自分にとって、忘れがたい、なつかしい町である。吾妻橋(あづまばし)から川下ならば、駒形(こまかた)、並木、蔵前(くらまえ)、代地(だいち)、柳橋(やなぎばし)、あるいは多田の薬師前、うめ堀、横網の川岸――どこでもよい。これらの町々を通る人の耳には、日をうけた土蔵の白壁と白壁との間から、格子戸(こうしど)づくりの薄暗い家と家との間から、あるいは銀茶色の芽をふいた、柳とアカシアとの並樹(なみき)の間から、磨(みが)いたガラス板のように、青く光る大川の水は、その、冷やかな潮のにおいとともに、昔ながら南へ流れる、なつかしいひびきをつたえてくれるだろう。ああ、その水の声のなつかしさ、つぶやくように、すねるように、舌うつように、草の汁をしぼった青い水は、日も夜も同じように、両岸の石崖(いしがけ)を洗ってゆく。班女(はんじょ)といい、業平(なりひら)という、武蔵野(むさしの)の昔は知らず、遠くは多くの江戸浄瑠璃(じょうるり)作者、近くは河竹黙阿弥(もくあみ)翁(おう)が、浅草寺(せんそうじ)の鐘の音とともに、その殺し場のシュチンムングを、最も力強く表わすために、しばしば、その世話物の中に用いたものは、実にこの大川のさびしい水の響きであった。十六夜(いざよい)清心(せいしん)が身をなげた時にも、源之丞(げんのじょう)が鳥追姿(とりおいすがた)のおこよを見そめた時にも、あるいはまた、鋳掛屋(いかけや)松五郎が蝙蝠(こうもり)の飛びかう夏の夕ぐれに、天秤(てんびん)をにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今のごとく、船宿の桟橋(さんばし)に、岸の青蘆(あおあし)に、猪牙船(ちょきぶね)の船腹にものういささやきをくり返していたのである。
ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう。自分の記憶に誤りがないならば、吾妻橋(あづまばし)から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあった。その中で、駒形(こまかた)の渡し、富士見の渡し、安宅(あたか)の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋(みくらばし)から須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のままに残っている。自分が子供の時に比べれば、河の流れも変わり、芦荻(ろてき)の茂った所々の砂洲(すなず)も、跡かたなく埋められてしまったが、この二つの渡しだけは、同じような底の浅い舟に、同じような老人の船頭をのせて、岸の柳の葉のように青い河の水を、今も変わりなく日に幾度か横ぎっているのである。自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った。水の動くのにつれて、揺籃(ゆりかご)のように軽く体をゆすられるここちよさ。ことに時刻がおそければおそいほど、渡し船のさびしさとうれしさとがしみじみと身にしみる。――低い舷の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍い光のある、幅の広い川面(かわづら)は、遠い新大橋にさえぎられるまで、ただ一目に見渡される。両岸の家々はもう、たそがれの鼠色(ねずみいろ)に統一されて、その所々には障子(しょうじ)にうつるともしびの光さえ黄色く靄(もや)の中に浮んでいる。上げ潮につれて灰色の帆を半ば張った伝馬船(てんまぶね)が一艘(そう)、二艘とまれに川を上って来るが、どの船もひっそりと静まって、舵(かじ)を執(と)る人の有無(うむ)さえもわからない。自分はいつもこの静かな船の帆と、青く平らに流れる潮のにおいとに対して、なんということもなく、ホフマンスタアルのエアレエプニスという詩をよんだ時のような、言いようのないさびしさを感ずるとともに、自分の心の中にもまた、情緒の水のささやきが、靄の底を流れる大川の水と同じ旋律をうたっているような気がせずにはいられないのである。
けれども、自分を魅(み)するものはひとり大川の水の響きばかりではない。自分にとっては、この川の水の光がほとんど、どこにも見いだしがたい、なめらかさと暖かさとを持っているように思われるのである。
海の水は、たとえば碧玉(ジャスパア)の色のようにあまりに重く緑を凝らしている。といって潮の満干(みちひ)を全く感じない上流の川の水は、言わばエメラルドの色のように、あまりに軽く、余りに薄っぺらに光りすぎる。ただ淡水と潮水(ちょうすい)とが交錯する平原の大河の水は、冷やかな青に、濁った黄の暖かみを交えて、どことなく人間化(ヒュウマナイズ)された親しさと、人間らしい意味において、ライフライクな、なつかしさがあるように思われる。ことに大川は、赭(あか)ちゃけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺(しわ)をよせて、気むずかしいユダヤの老爺(ろうや)のように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。そうして、同じく市(まち)の中を流れるにしても、なお「海」という大きな神秘と、絶えず直接の交通を続けているためか、川と川とをつなぐ掘割の水のように暗くない。眠っていない。どことなく、生きて動いているという気がする。しかもその動いてゆく先は、無始無終にわたる「永遠」の不可思議だという気がする。吾妻橋、厩橋(うまやばし)、両国橋の間、香油のような青い水が、大きな橋台の花崗石(かこうせき)とれんがとをひたしてゆくうれしさは言うまでもない。岸に近く、船宿の白い行灯(あんどん)をうつし、銀の葉うらを翻す柳をうつし、また水門にせかれては三味線(しゃみせん)の音(ね)のぬるむ昼すぎを、紅芙蓉(べにふよう)の花になげきながら、気のよわい家鴨(あひる)の羽にみだされて、人けのない廚(くりや)の下を静かに光りながら流れるのも、その重々しい水の色に言うべからざる温情を蔵していた。たとえ、両国橋、新大橋、永代橋(えいたいばし)と、河口に近づくに従って、川の水は、著しく暖潮の深藍色(しんらんしょく)を交えながら、騒音と煙塵(えんじん)とにみちた空気の下に、白くただれた目をぎらぎらとブリキのように反射して、石炭を積んだ達磨船(だるまぶね)や白ペンキのはげた古風な汽船をものうげにゆすぶっているにしても、自然の呼吸と人間の呼吸とが落ち合って、いつの間にか融合した都会の水の色の暖かさは、容易に消えてしまうものではない。
ことに日暮れ、川の上に立ちこめる水蒸気と、しだいに暗くなる夕空の薄明りとは、この大川の水をして、ほとんど、比喩(ひゆ)を絶した、微妙な色調を帯ばしめる。自分はひとり、渡し船の舷に肘(ひじ)をついて、もう靄(もや)のおりかけた、薄暮の川の水面(みのも)を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。
「すべての市(いち)は、その市に固有なにおいを持っている。フロレンスのにおいは、イリスの白い花とほこりと靄と古(いにしえ)の絵画のニスとのにおいである」(メレジュコウフスキイ)もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇(ちゅうちょ)もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。
(一九一二・一)
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その後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。「御蔵橋の渡し」の廃(すた)れるのも間があるまい。
鯉魚(りぎょ)
岡本かの子
一
京都の嵐山(あらしやま)の前を流れる大堰川(おおいがわ)には、雅(みや)びた渡月橋(とげつきょう)が架(かか)っています。その橋の東詰(ひがしづめ)に臨川寺(りんせんじ)という寺があります。夢窓国師(むそうこくし)が中興の開山で、開山堂に国師の像が安置してあります。寺の前がすぐ大堰川の流で「梵鐘(ぼんしょう)は清波を潜(くぐ)って翠巒(すいらん)に響(ひび)く」という涼(すず)しい詩偈(しげ)そのままの境域であります。
開山より何代目か経(た)って、室町時代も末、この寺に三要という僧(そう)が住持をしていました。
禅寺(ぜんでら)では食事のとき、施餓鬼(せがき)のため飯を一箸(はし)ずつ鉢(はち)からわきへ取除(とりの)けておく。これを生飯(さば)と言うが、臨川寺ではこの生飯を川へ捨てる習慣になっていました。すると渡月橋上下六町の間、殺生(せっしょう)禁断になっている川中では、平常から集り棲(す)んでいた魚類が寄って来て生飯を喰(た)べます。毎日の事ですから、魚の方ですっかり[#「すっかり」に傍点]承知していて、寺の食事の鐘(かね)が鳴るともう前の淵(ふち)へ集って来て待っています。
淵の魚へ食後の生飯を持って行って投げ与(あた)える役は、沙弥(しゃみ)の昭青年でありました。年は十八。元は公卿(くげ)の出ですが、子供の時から三要の手元に引取られて、坐禅(ざぜん)学問を勉強しながら、高貴の客があるときには接待の給仕に出ます。髪(かみ)はまだ下(おろ)さないで、金襴(きんらん)、染絹(そめぎぬ)の衣、腺病質(せんびょうしつ)のたち[#「たち」に傍点]と見え、透(す)き通るばかり青白い肌(はだ)に、切り込(こ)み過ぎたかのようなはっきり[#「はっきり」に傍点]した眼鼻立(めはなだ)ち、男性的な鋭(するど)い美しさを持つ青年でした。寺へ引き取られたこども[#「こども」に傍点]の時分から、魚に餌(え)をやりつけているので、魚の主なものは見覚えてしまい、友だちか兄弟のように馴染(なじ)んでしまっていました。
五月のある日、しぶしぶ雨が降る昼でした。淵の魚はさぞ待っているだろうと、昭青年は網代笠(あじろがさ)を傘(かさ)の代りにして淵へ生飯を持って行きました。川はすっかり霧(きり)で隠(かく)れて、やや晴れた方の空に亀山(かめやま)、小倉山(おぐらやま)の松(まつ)の梢(こずえ)だけが墨絵(すみえ)になってにじみ[#「にじみ」に傍点]出ていました。昭青年がいま水際に降りる岩石の階段に片足を下ろしかけたとき、その石の蔭(かげ)になっている岸と水際との間の渚(なぎさ)に、薄紅(うすべに)の色の一かたまりが横たわっているのが眼に入りました。瞳(ひとみ)を凝(こ)らしてよく見ると、それが女の冠(かぶ)るかつぎ[#「かつぎ」に傍点]であることが判(わか)り、それを冠ったまま、娘(むすめ)が一人倒(たお)れているのが判りました。昭青年は急いで川砂利(かわじゃり)の上へ飛び下り、娘の傍(そば)へ駈(か)け寄って、抱(だ)き起しながら
「どうしたのですか」
と訊(き)くと、娘は力無い声で、昨日から食事をしないので饑(う)えに疲(つか)れ、水でも一口飲もうと、やっと渚まで来たが、いつの間にか気が遠くなってしまったというのでした。
「それじゃ、幸い、ここに鯉(こい)にやる生飯があります。これでもおあがりなさい」
鉢を差し出してやると、娘は嬉(うれ)しそうに食べ、水を掬(すく)って来て飲ませると、娘はやっと元気を恢復(かいふく)した様子、そこで娘の身元ばなしが始まりました。
応仁(おうにん)の乱は細川勝元、山名宗全の両頭目の死によって一時、中央では小康を得たようなものの、戦禍(せんか)はかえって四方へ撒(ま)き散された形となって、今度は地方地方で小競合(こぜりあ)いが始まりました。そこで細川方の領将も、山名方の領将も、国元の様子が心配なので取る物も取りあえず京都から引返すという有様。
ここに細川方の幕僚(ばくりょう)で丹波(たんば)を領している細川下野守教春(しもつけのかみのりはる)も、その数に洩(も)れず、急いで国元へ引返して行きました。教春の一人娘早百合姫(さゆりひめ)は三年前、京都の戦禍がやや鎮(しず)まっていたとき、京都滞陣(たいじん)の父の館(やかた)に呼び寄せられ、まだ十四歳(さい)の少女であったが、以来日々、茶の湯、学問、舞(まい)、鼓(つづみ)など師匠(ししょう)を取って勉強していました。今年十七の春父が急いで国元へ引返す際、彼(かれ)はすぐに騒(さわ)ぎを打ち鎮めて京へ帰れる見込みで、留守(るす)の館には姫の従者として男女一人ずつ残しておきました。もっとも生活費は剰(あま)るほど充分(じゅうぶん)残して行きました。
ところが、それからだんだん国元の様子が父に不利になって来て、近頃(ちかごろ)ではまるっきり音沙汰(おとさた)もありません。噂(うわさ)には一族郎党(ろうとう)、ほとんど全滅(ぜんめつ)だとの事です。すると、早百合姫に附添(つきそ)っていた家来の男女は、薄情(はくじょう)なもので、両人謀(しめ)し合せ、館も人手に売渡(うりわた)し、金目のものは残らず浚(さら)ってどこかへ逃亡(とうぼう)してしまいました。
父の行方(ゆくえ)の心配、都に小娘一人住みの危(あや)うさ、とうとう姫も決心して国元へ帰ろうとほとんど路銀も持たずただ一人、この街道を踏(ふ)み出して来たのでした。しかし、旅支度さえ充分でない上にすぐと悪漢達に追いかけられたりして、姫は全く不安と饑えとで、疲れ果ててしまったのでした。
姫は言い終ってさめざめと泣きました。
「せっかく、救(たす)けて頂いたようなものの、行先の覚束(おぼつか)なさ、途中(とちゅう)の難儀(なんぎ)、もう一足も踏み出す勇気はございません。いっそこの川へ身を投げて死にとうございます」
またさめざめと泣き続けます。昭青年はこれを聴(き)いて腸(はらわた)を掻(か)き毟(むし)られるような思いをしました。そして、彼女(かのじょ)を救う一番いい方法は、寺へ頼(たの)んでしばらく国元の様子の判るまで置いてもらうことだと思いましたが、乱世の慣(なら)わし、同じような悲運な事情で寺へ泣付いて来る者がたくさんあって、それをいちいち受容(うけい)れていたのでは寺が堪(たま)りません。まして女人の身、いっそう都合(つごう)が悪いのです。寺で断られるのは知れ切ったこと。しかたなく昭青年は言いました。
「まあ、生きておいでなさい。どうにかなりましょう。食事は私が粗末(そまつ)ながら運んで来ますから、しばらくこの辺のどこかに忍(しの)んでおいでなさい。人に見付からぬように」
昭青年だとて、先にあて[#「あて」に傍点]があるわけではありませんが、差当って今の取り做(な)し方としては、これ以外に無かったのでした。あたりを見廻(みまわ)すと、幸い、苫(とま)で四方を包んだ船がある。将軍が大堰川へ船遊びの際、伴船(ともぶね)に使う屋根船で、めったに人の手に触(ふ)れません。昭青年は苫を破り分けて早百合姫をその中へ入るよう促(うなが)しました。
姫はさほど有難(ありがた)いとも思わぬ様子でしたが、それでも嫌(いや)とは言わず、船の中へ隠れました。そして言いました。
「淋(さび)しいから食事の時以外にもなるたけ、ちょいちょい訪ねて来て下さいましね」
二
寺の人達の間にこんな噂が出るようになりました。
「どうもこの頃、昭沙弥は、生飯をやると言っちゃ日に五六遍(ぺん)も、そわそわ川へ行く。あんまり鯉に馴染(なじみ)がつき過ぎて鯉に魅(み)せられたのではないか」
「その癖(くせ)、淵の鯉は、斎(とき)の鐘を聴いてもこの頃は集って来んようだ。わしは気を付けて行って見るが確かにそうだ」
「それは変だな」「変だ」「変だ」と噂し合うようになりました。それはそのはずです。せっかくの生飯も、昭青年は苫船の中の美しい姫にやってしまうので、淵の鯉は、いつも待ち呆(ぼう)けです。しまいには諦(あきら)めて鯉達は斎の鐘に集らなくなりました。噂が耳に入るほど余計に昭青年は用心します。隙(すき)を覗(うかが)い折を見ては苫船へ通います。その度に自分が貰(もら)った菓子(かし)、果物など、食べた振(ふ)りをして袖(そで)に忍ばせ、姫にそっと持って行ってやります。そうこうするうち日も移って、梅雨(つゆ)もすっかり明けた真夏の頃となりました。
片方は十八の青年、片方は十七の乙女(おとめ)。二人は外界をみな敵にして秘密の中で出会うのです。自然と恋(こい)が芽生えて来たのも当然です。
姫はもう何もかも考えなくなって、ひたすら昭青年の来るのを待ち侘(わ)びている。自分では、ただ頼みにする人、有難い人と思っている積りだが、心の底ではもう恋が成熟しきっている。その証拠(しょうこ)には、われ知らず、男の心を試すような我儘(わがまま)を言い出すようにもなりました。
一方、昭青年は早く機会を見付けて何とか始末をしなくては、悟道(ごどう)の妨(さまた)げにもなるし、姫のためにもよくない。刻々、そう思いながら、その気持ちに自分で自分に言いわけを拵(こしら)えて、ずるずる現状のままを持ち続けています。時には自分で腑甲斐(ふがい)無いと思えば思うほど「ええ、何もかもおしまいだ、姫と駆落(かけおち)でもしてしまおう」こんな反動的な情火がむらむらと起るので、自分ながら危なくて仕様がありません。これはいっそ、そっとこのままにしておいて時の捌(さば)きを待つよりしかたがないと、思い諦めて、楽しいようなはかないような逢瀬(おうせ)を続けています。
昼過ぎ、昭青年は姫に生飯を持って行って食べさせたあと、二人は川へ向いた苫を少し掻き分けて、対岸の景色を眺(なが)めていました。蝉時雨(せみしぐれ)は、一しきり盛(さか)りになって山の翠(みどり)も揺(ゆ)るるかと思われる喧(やか)ましさ、その上、あいにくと風がはたと途絶えてしまったので周囲を密閉した苫船の暑さは蒸されるようです。姫は汗(あせ)を袂(たもと)で拭(ぬぐ)いながら言いました。
「あたくし、久しく行水しないから、この綺麗(きれい)な水へ入って汗を流したいのよ。あたりに誰(だれ)もいませんから、あなたも一緒(いっしょ)に入って腕(うで)に掴(つかま)らしといて下さらない、怖いから」
これは難題です。蘆(あし)の葉のそよぎにも息を殺す二人の身の上に取って、このくらい冒険(ぼうけん)はありません。見付かったら最後、二人はどんな運命になるか判らない。昭青年は戦慄(せんりつ)を覚えながら押(お)し止めました。
「馬鹿(ばか)をおっしゃい。昼日中、そんな危険な事が出来ますか。もし今夜、月が曇(くも)りだったら闇(やみ)を幸い、ここへ来て入れてあげましょう。それまで我慢(がまん)するものです」
けれども姫は自分の云(い)い出したすがすがしい計画から誘惑(ゆうわく)され、身体(からだ)がむずがゆくなって一刻の猶予(ゆうよ)もなく河水に浸(ひた)らねば居られぬ気持ちにせき立てられるのでした。
「あたくしの言う事はどうしても聴いて頂けないの」
姫の切なげな懇願(こんがん)に昭青年は前後のわきまえ[#「わきまえ」に傍点]も無くなって「では」と言って姫を川の中へ連れて入りました。
青春は昔(むかし)も今も変りません。二人は今の青年男女が野天のプールで泳ぐように、満身に陽(ひ)を浴びながら水沫(しぶき)を跳ね飛ばして他愛もなく遊んでいます。あまりの爽快(そうかい)さに時の経つのも忘れていました。すると、いつの間にか寺の方の岸には僧達が並(なら)んで、呆(あき)れた声で騒(さわ)ぎ出しました。
「昭沙弥じゃないか」
「水中でおなご[#「おなご」に傍点]と戯(たわむ)れとる」
「いやはや言語道断な仕儀(しぎ)だ」
三
僧たちはすぐ昭青年を掴(つか)まえて、裸(はだか)のまま方丈(ほうじょう)へ引立てて行きました。しかし、さすがに僧たちも、裸の姫には手を触れかね、躊躇(ちゅうちょ)している暇(ひま)に姫はびっくり[#「びっくり」に傍点]して苫船の中へ逃(に)げ込み、着物を冠(かぶ)って縮んでいました。
僧たちの訴(うった)えを静かに瞑目(めいもく)して聴いていた住持三要は、いちいちうなずいていましたが最後に、
「判った。だが、昭公が一緒に居たのは、確(しか)とおなご[#「おなご」に傍点]かな。鯉魚(りぎょ)をおなごと見誤ったのではないかな」
「そんな馬鹿な間違(まちが)いが」と、いきり立つ僧を押(おさ)えて三要は言いました。
「おなご[#「おなご」に傍点]か鯉魚かわしが見んことには判らん。これは一つ昭公と大衆(だいしゅ)と法戦(ほっせん)をして、その対決の上で裁くことにしよう。早速(さっそく)、鐘を打つがよろしい。双方(そうほう)、法堂へ行って支度をしなさい」
三要はこう言ってじろりと昭青年を見ました。もはや諦めて既(すで)に覚悟(かくご)の態(てい)であった昭青年が、この眼に出会って思わず心に湧(わ)き出た力がありました。それは自分だけの所罰(しょばつ)なら何でもない。しかし、沙弥とは言え、寺門に属する自分を誘惑した罪科として、あのかよわい[#「かよわい」に傍点]姫まで罰せられるとも知れない。これは一つ闘(たたか)おう。その勇気でありました。昭青年は思わず低頭合掌(がっしょう)して師を拝しました。その時、もう知らん顔で三要は座を立ち法堂へ急ぐ様子でした。
四
法戦が始まりました。曲※(きょくろく)に拠(よ)る住持の三要は正面に控(ひか)え、東側は大衆大勢。西側に昭青年一人。問答の声はだんだん高くなって行きます。衣の袖を襷(たすき)に結び上げ、竹箆(しっぺい)を斜(しゃ)に構えた僧も二三人見えます。もし昭青年がちょっとでも言葉に詰(つ)まったら、いたく打ちのめし、引き括(くく)って女と一緒に寺門監督(かんとく)の上司へ突出(つきだ)そうと、手ぐすね引いて睨(ね)めつけています。
大衆が入り代り立ち代り問い詰めても、昭青年はただ
「鯉魚」と答えるだけでした。
「仏子、仏域を穢(けが)すときいかに」
「鯉魚」
「そもさんか、出頭、没溺火坑深裏」
「鯉魚」
「這(しゃ)の田舎奴(でんしゃぬ)、人を瞞(まん)ずること少なからず」
「鯉魚」
「ほとんど腐肉(ふにく)蠅(よう)を来(きた)す」
「鯉魚」
これでは全く問答になっていません。大衆はのっけ[#「のっけ」に傍点]に打ってかかってもいいようなものの、昭青年の意気込みには、鯉魚と答える一筋の奥(おく)に、男が女一人を全面的に庇(かば)って立った死物狂(しにものぐる)いの力が籠(こも)っています。大概(たいがい)の野狐禅(やこぜん)では傍へ寄り付けません。大衆は威圧(いあつ)されて思わずたじたじとなります。
そのうち昭青年の心理にも不思議な変化が行われて来ました。はじめ昭青年は、問答に当って禅の古つわもの[#「つわもの」に傍点]との論戦に、あれこれ言ったのではかえって言いまくられるであろうから、勝負は時の運に任して、幸い師の三要から暗示(ヒント)を与えられた鯉魚の二字を守って、守り抜(ぬ)こうと決心したのですが、どの問いに対しても鯉魚鯉魚と答えていると、不思議にもその調法さから、いつの間にか鯉魚という万有の片割れにも天地の全理が籠っているのに気が付いて、脱然(だつぜん)、昭青年の答え振りは活(い)きて来ました。青年は、あるいは「釜中(ふちゅう)の鯉魚」と答え、あるいは「網(あみ)を透(とお)る金鱗(きんりん)」と答えはするが、ついに鯉魚あるを知らず、おのれに身あるを知らず、眼前に大衆あるを知らずして、問いに対する答えの速(すみや)かなること、応変自由なること、鐘の撞木(しゅもく)に鳴るごとく、木霊(こだま)の音を返すがごとく、活溌(かっぱつ)轆地(ろくち)の境涯(きょうがい)を捉(とら)えました。こうなると大衆はだんだん黙(だま)ってしまって、ただただ驚嘆(きょうたん)の眼を瞠(みは)るのです。にっこり[#「にっこり」に傍点]と笑った三要は払子(ほっす)を打って法戦終結を告げ、勝負は強いて言わずに、次の言葉を発しました。
「昭公が、いま、別の生涯あるを知ったのは、永い間、生飯を施(ほどこ)した鯉魚の功徳(くどく)の報いだ。昭公に過ちがあったのは、わしの不徳の致(いた)すところだ。まあ、この辺で事件は落着にしてもらいたい」
昭青年はこれを機として落髪(らくはつ)して僧となり、別に河辺(かわべ)に鯉魚庵(りぎょあん)を開いて聖胎長養(せいたいちょうよう)に入ったが、将来名器の噂が高い。
恋愛(れんあい)関係において一方が悟(さと)ってしまったら相手は誠に張合いの無いものとなります。悟るということは、生命の遍満性、流通性を体証したことで、一匹(ぴき)の鯉魚にも天地の全理が含(ふく)まれるのを知ると同時に、恋愛のみが全人生でなく、そういう一部に分外に滞(とどま)るべきでないとも知ることです。
そのうちに諭(さと)さなくとも早百合姫は、道に志ある身となって、しかし、これは逆に塵中(じんちゅう)へ引返し、舞(ま)いの天才を発揮して京町の名だたる白拍子(しらびょうし)となりました。さす手ひく手の妙(たえ)、面白の振りの中に錆(さ)びた禅味がたゆとう[#「たゆとう」に傍点]とて珍重(ちんちょう)されたのは、鯉魚庵の有力な檀越(だんおつ)となって始終、道味聴聞(どうみちょうもん)の結果でありました。
この後、住持三要は、間違いがあってはならぬというので、淵の鯉魚へ生飯を遣(や)る役は老体ながら自分ですることにしました。そこで淵の鯉魚は、再び、斎の鐘を聴くと寺前の水面に集って待つようになりました。
(昭和十年八月)
船
島崎藤村
山本さん――支那(しな)の方に居る友人の間には、調戯(からかい)半分に、しかし悪い意味で無く「頭の禿(は)げた坊ちゃん」として知られていた――この人は帰朝して間もなく郷里(くに)から妹が上京するという手紙を受取ったので、神田(かんだ)の旅舎(やどや)で待受けていた。唯(たった)一人の妹がいよいよ着くという前の日には、彼は二階の部屋に静止(じっと)して待っていられなかった。旅舎を出て、町の方へ歩き廻りに行った。それほど待遠しさに堪(た)えられなく成った。
東京の町中の四季を語っているような水菓子屋の店頭(みせさき)には、冬を越した林檎(りんご)や、黄に熟した蜜柑(みかん)、香橙(オレンジ)などの貯えたのが置並べてあった。二月末のことで、町々の空気は薄暗い。長いこと東京に居なかった山本さんは、新式な店の飾り窓の前などを通りながら、往来(ゆきき)の人々をよく注意して歩いた。以前には戦争を記念する為の銅像もなく、高架線もなく、大きな建築物(たてもの)も見られなかった万世橋附近へ出ると、こうも多くの同胞が居るかと思われるほど、見ず知らずの男女(おとこおんな)が広い道路を歩いている。風俗からして移り変って来たその人達の中を、彼は右に避(よ)け、左に避けして、旅から自分が帰って来たのか、それとも自分が旅に来たのか、何方(どちら)ともつかないような心地(こころもち)で歩いた。あだかも支那からやって来て、ポツンと東京の町を歩いている観光の客のように。
こうは言うものの、山本さん自身も、何処(どこ)かこう支那人臭いところを帯(も)って帰って来た。大陸風な、ゆったりとした、大股(おおまた)に運んで行くような歩き方からして……
しかし不思議だろうか、山本さんのように長く南清(なんしん)地方に居た人が自然と異なった風土に化せられて来たというは。彼は支那ばかりでなく、最初は朝鮮、満洲へ渡って、仁川(じんせん)へも行き、京城(けいじょう)へも行き、木浦(もっぽ)、威海衛(いかいえい)、それから鉄嶺(てつれい)までも行った。支那の中で、一番気に入ったところは南京(ナンキン)だった。一番長く居たところもあの旧(ふる)い都だった。
無器用なようで雅致のある支那風の陶器(せともの)とか、刺繍(ぬいとり)とか、そんな物まで未だ山本さんの眼についていた。組を造ってよく食いに行った料理屋の食卓の上も忘れられなかった。丁度仏蘭西(フランス)あたりへ長く行って来た人は何かにつけて巴里(パリ)を思出すように、山本さんは又こうして町を歩いていても、先ず南京の二月を思出す。
今度の帰朝で彼を驚かしたのは、東京に居る友人の遠く成って了(しま)ったことだ。最早(もう)死んだ人もある。引越した先の分らなく成って了った人もある。めずらしく旧(むかし)の友達に逢っても、以前のようには話せなかった。
こんな外国人のような、知る人も無い有様で、山本さんは妹を待受けていた。妹の手紙には、寒い方から鼻の療治に出掛けるとしてあった。仙台から一里ばかり手前にある岩沼というところが山本さんの郷里だ。この空には、東北の方の暗さも思いやられた。
旅舎(やどや)の二階へ戻って、山本さんは白い鞄(かばん)を開けて見た。読もうと思って彼地(むこう)から持って来た支那の小説が出て来た。名高い『紅楼夢』だ。嗅(か)ぎ慣れた臭(におい)はその唐本の中にもあった。
一冊取出して、その中に書いてある宝玉という主人公のことなぞを考えながら読んでいるうちに、何時(いつ)の間にか彼の考えは自分の一生に移って行った。
彼は阿武隈川(あぶくまがわ)の辺(ほとり)で送った自分の幼少(ちいさ)い時を考えた。学生時代を考えた。岩沼にある自分の生れた旧い家を考えた。田舎医者としては可成(かなり)大きく門戸を張っている父のことや、今度出て来るという妹と彼と二人だけ産んだ先(せん)の母のことや、それから多勢ある腹違いの弟、妹のことなどを考えた。
二度目の母に対しては、どちらかと言えば彼は冷淡で、別にそう邪魔にも思わなければ、無論難有(ありがた)くも思っていない。唯彼は妹と違って、腹違いの弟妹(きょうだい)がズンズン成長(しとな)って行くところを黙って視(み)てはいられなかった。
妹は女学生時代から男性(おとこ)のような娘だった。我儘(わがまま)なかわりに継母でも誰でも関(かま)わず叱(しか)り飛ばすという気性だ。総領の山本さんには、その真似(まね)は出来なかった。こういう妹の許(ところ)へ、相応な肩書のある医者の養子が来た。腹違いの一番年長(うえ)の弟、これも今では有望な医学士だ。山本さんだけは別物で、どうしても父の業を継ぐ気が無かった。
山本さんが家を出て朝鮮から満洲の方へ行って了ったのは、丁度彼が二十五の年だ。二度目に南清を指(さ)して出掛けるまでには、実に彼は種々雑多なことをやった。通弁にも成り、学校の教員にも成り、新聞の通信員にも成り、貿易商とも成った。書家の真似までした。前後十二年というものは、海の彼方(むこう)で送った。御承知の通り、外国へ行って来るとか、戦地でも踏んで来るとかすれば、大概な人は放縦な生活に慣れて来る。気の弱い遠慮勝な山本さんには、それも出来なかった。彼も、ある婦人と同棲(どうせい)した時代があって、二三年一緒に暮したことも有ったが、その婦人に別れてからは再び家を持つという考えは起さなかった。何処へ行っても彼は旅舎に寝たり起きたりした。そして、遠くの方でばかり女というものを眺(なが)めていた。丁度その旅舎の窓から美しい日光でも眺めるように。尤(もっと)もこれは山本さんの遠慮勝な性分から来たことだ。正直な話が、山本さんは是方(こちら)から愛した経験は有っても、未だ他(ひと)のように、真実(ほんとう)に愛されたということを知らなかった。こんな風にして一生は済んで了うのか。それを彼は考えた。最早(もう)山本さんも三十九だ。
しかし山本さんには、唯一度、愛されたと思うことが有った。
山下さんは独(ひと)りで手を揉(も)んだ。そして、すこし紅く成った。何故かというに九年も前の話だから……しかも十七ばかりに成る、妹のような娘から、唯(たった)一度の接吻(キス)を許されたのだから……
その娘は腹違いの妹の学校友達で、お新と言って、色の黒い理窟(りくつ)好な異母妹(いもうと)とは大の仲好だった。仙台の方にあの娘達の入る学校も無いではないが、二人は東京へ出て、同じ寄宿舎から同じ学校へ通った。丁度山本さんは朝鮮から帰って来て、郷里の方で一夏暮したことが有った。暑中休暇で娘達も家に居る頃で、毎日のようにお新は異母妹の許(ところ)へ遊びに来た。妹達が「兄さん、兄さん」と言ってめずらしがれば、お新も同じように彼を呼んで、まるで親身の妹かなんぞのように忸々(なれなれ)しく彼の傍へ来た。
彼は菖蒲田(しょうぶだ)の海岸の方へ娘達を連れて行ったことを思出した。異母妹とお新とは、互に堅く腕を組合せて、泡立ち流れる潮の中を歩いたことを思出した。水浴する白い濡(ぬ)れた着物が娘達の身体に纏(まと)い着いたことを思出した。時々明るい波がやって来ては、処女(むすめ)らしい、あらわな足を浚(さら)ったことを思出した。その頃は娘達の髪はまだ赤かったが、でも異母妹(いもうと)から見ると、麦藁(むぎわら)帽子を脱いだお新の方は余程黒かったことを思出した。
彼はまた、帰校する娘達を送りながら、一緒に上京した時のことを思出した。二日ばかりお新は彼の旅舎に居たことを思出した。
最早(もう)昔話だ。それからもお新は異母妹と一緒に、度々(たびたび)旅舎へ遊びに来たが、彼の方では遠くでばかり眺めていた。彼が二度目に南清行を思い立った頃は、娘達も学校を卒業して、見違えるほど大きく、姉さんらしく成った。殊(こと)にお新の優美な服装は、見送りの為に停車場(ステーション)へ集った都会風な、多くの学友の中でも、際立(きわだ)って人の目を引いた。山本さんも見送りに行って、汽車の窓の外で別れた。
これが愛されたのだろうか。過(すぐ)る年月の間、山本さんが思を寄せた婦人も多かった。不思議にも、そういう可懐(なつか)しい、いとしいと思った人達の面影は、時が経つにつれて煙のように消えて行った。ガヤガヤガヤガヤ夕方まで騒いでいた鳥が、皆な何処へか飛んで行って了うと同じで、後に成って見ると一羽も彼の胸には留っていなかった。唯……九年も前の、それも唯一度の接吻(キス)が残った……
時が経てば経つほど、あの花弁(はなびら)のように開いた清い口唇(くちびる)は活々(いきいき)として記憶に上って来た。何処へ行って、何を為ても、それだけは忘れられなかった。ある時支那の方に居る友達が集って、互に身上話などを始めて、一体山本さんはどうしたんだと言出したものが有ったら、その時彼は自分の一生は片恋の連続だと真面目顔(まじめがお)に答えた。それが一つ話に成って、それから山本さんのことを「頭の禿げた坊ちゃん」と、皆なで言って笑うように成った。そうだ、山本さんは最早二十六にも成る人妻を九年前と同じように眺めて、何を待(まつ)ともなく、南京虫の多い旅舎の床の上に独りで寝たり起きたりして来たのだ。
今度の東京の旅舎では、山本さんは実の妹ばかりを待受けているのでは無かった。産後の養生かたがた妹に随(つ)いて、寒い方から暖い方へ出掛けて来るというお新をも一緒に待受けた。
妹のお牧はお新と一緒に翌日(あくるひ)着いた。夕方には二人とも山本さんの旅舎(やどや)で、お牧の方は流行後(おく)れの紺色のコオトを脱ぎ、お新の方は薄い鼠色のコオトを脱いだ。
「姉さんでもいらっしゃらなければ、一寸(ちょっと)出て来られなかったんです」
こういう物の言い振からして、お新は大人びて、郷里の方でも指折の大きな家の若い内儀(おかみ)さんらしい、何となくサバケた人に成って来た。
山本さんは何もかも忘れた様に見えた。幾年振りかでこの人達と一緒に成れたことを心から喜んだ。郷里の方のことを尋ねたり、自分の旅の話を始めたりするうちにも、彼は火鉢(ひばち)の周囲(まわり)に坐っている妹の肥った顔と、丸髷(まるまげ)に成ったお新の顔とを熱心に見比べた。
「しかし、牧も肥ったネ」と山本さんが言出した。
「私は兄さんがもっとオジイサンに成っているかと思っていた」と言ってお牧はお新の方を見て、「男の人というものは、割合に変らないものネ」
「でも、お前、こんなに禿げちゃった」
こういう山本さんの長く支那の方に居た様子を、お新も眺めて、
「兄さんの禿は往時(むかし)からですよ」
彼女は若い快活な婦人が笑うように、笑った。
相変らずお新は山本さんのことを「兄さん」と言うし、お牧のことを「姉さん」と言っている。彼女は嫁(かたづ)いた先の家で、種々(いろいろ)な客にも接するらしい様子で、いやに出娑婆(でしゃば)るでもなく、と言って物にハニカムような風もなく、女らしいうちにもサッパリとした、何処かこう人の気を浮々とさせるようなところが有った。莫迦(ばか)に涙脆(もろ)かった娘時代の「お新ちゃん」に比べると、別の人に対(むか)い合っているようなこの旧馴染(むかしなじみ)と、それから鼻の故(せい)かして、いくらか頭の重そうな眼付をしている妹とを前に置いて、山本さんは自分が長く居て来た南清地方のことで女に解りそうな奇異な風俗、暮し好い南京の生活の話なぞをして聞かせた。
二人の女は耳を傾けていた。
「私もネ、貴方(あなた)がたに逢いたいばかりに今度は帰って来たんです……彼地(むこう)から見ると、何故こう日本の人はコセコセコセコセしてるんだろう、そう思いますよ……私もそう長くは是方(こっち)に居られない人です……いずれ復(ま)た彼地へ帰ります……こんなにして、東京で貴方がたに逢えるとは思わなかった……」
過去ったことは過去ったことで、何のわだかまりも無いようなお新の様子を見ると、先ずそれに山本さんは感心した。
「お新ちゃんは、娘時代のことなぞは最早(もう)記憶していないんだろう」とさえ思った。
お牧とお新は火鉢の側で、旅らしく巻煙草なぞを燻(ふか)し燻し話した。白い繊細(きゃしゃ)な薬指のところに指輪を嵌(は)めた手で、巻煙草を燻すお新の手付を眺めると、女の巻煙草は生意気に見えていけない、そうは山本さんは思わなかった。反(かえ)ってお新のは意気に見えた。
何を為ても悪く思えないような女が世の中には有る。山本さんに言わせると、丁度お新はそういう女の一人だ。
山本さんは女達の為に、隣座敷を用意して置いた。それから一日二日の間、山本さんの部屋でも、隣座敷の方でも、女らしい笑声が絶えなかった。
鼻の具合の悪いお牧が手術を受けに入院する頃は、お新も東京にある親戚の家へ行った。
急に山本さんは寂しく感じた。どうかすると彼は旅舎の小娘を借りて、近くにある活動写真へ連れて行って、花のような電燈の点(つ)いたり、消えたりする楼上に席を取りながら、独りでそういう心を紛らそうとした。一時に囃(はや)し立てる太鼓、鈴、喇叭(らっぱ)などの騒がしい音楽が沈まった後で、クラリオネットだけ吹奏されるのを聞いていると、その音は灰色な映画の方よりも、むしろ眼前(めのまえ)に居る男や女の方へ彼の心を連れて行った。電燈が明るくなる度に、山本さんは睦(むつ)まじそうな若い夫婦の客を眺めた。後から見える横顔、房々した髪、女らしい首筋、細そりとしかも豊かな肩、そんなものを眺めてはお新に思い比べて見た。山本さんは彼女の形の好い前髪だの、優(やさ)しい頬(ほお)だのを、仮令(たとい)その人がそこに居ないまでも、想像で見ることが出来た。
他人の睦まじさを眺めると、余計に山本さんはそう思って来た。何故九年前には、もっともっと堅く彼女を抱締めなかったろう。何故遠くの方でばかり眺めて置いたろう。彼女が学校を卒業して、未だ何処へ嫁(かたづ)くとも定(き)まらなかった時、何故結婚を申込まなかったろう。
こんなことを考えては、旅舎へ戻って来た。彼は今度の帰朝に、支那から相応の貯蓄を持って来ていた。何に費(つか)っても可(い)いような金が二百円ばかりあった。彼女の為とあらば、錯々(せっせ)と働いて得た報酬も惜しくない。どうかしてその金を費おうと思った。
妹の療治は案外手間取れた。病院の寝台(ねだい)の上に仰(あおむ)きに成ったきり、流血の止るまでは身動きすることも出来なかった。お新は親戚の家から毎日のように見舞に出掛けた。終(しまい)にはお牧の方で気の毒がって、彼女に関わずに置いてくれと言うように成った。
寝ながら、不動の姿勢を取っているような妹の側で、時々お新と落合って、ありふれた言葉を取換(とりかわ)すというだけでも、山本さんには嬉しかった。これで妹が愈(なお)るとする、退院する、三越あたりで買物して、歌舞伎座の一日も見物すれば、いずれお新は帰って行く人である。太陽は今朝出たと同じように、明日の朝も出るだけの話だ。独りぼっちの人間は何処まで行っても独りぼっちだ。これが人生とすれば、山本さんには堪えられなかった。
もっと自分を幸福(しあわせ)にすることは無いか。そこから山本さんは思い立って、お新へ宛てた手紙を書いた。凍った土ばかり眺めていたお新が、熱海(あたみ)か伊東あたりの温暖(あたたか)い土地へ、もし行かれるなら行きたいと言っていることは、お牧への話で山本さんも知っていた。お新は産後と言っても時が経っている。嬰児(あかご)は月不足(つきたらず)で産れる間もなく無くなったとか。旅に堪えないというお新でも無いらしかった。
不取敢(とりあえず)手紙を出した。
この旅には、彼は一切の費用を自分で持つ積りで、お新に心配させまいと思った。温泉などのある方へ、彼女を誘って行く楽しさを想像した。
春とは言いながら未だ冬らしい朝が来た。山本さんは部屋にある姿見の方へ行って、洋服の襟飾(えりかざり)を直して見た。僅(わず)かばかりの額の上の髪を撫(な)でつけた。帽子を冠(かぶ)って、旅の鞄(かばん)を提げて、旅舎(やどや)から小川町の停留場へと急いだ。
朝日は電車の窓に輝き初めた。枯々とした並木を隔てて、銀座の町々は極く静かに廻転するように見えた。
約束の時間より早く、山本さんは新橋の停車場(ステーション)に着いた。汽車に乗込もうとする客だの、見送りに来た人達だのが、高い天井の下を彼方此方(あちこち)と歩いていた。山本さんもその間を歩き廻って、お新の来るのを待受けていた。次第に不安が増して来た。果して彼女は来るだろうか。お牧を離れて彼と二人ぎりの旅、それを心易く考えるだろうか。山本さんは安心しなかった。
そのうちに、幌(ほろ)を掛けてやって来た車が停車場前の石段の下で停った。彼女だ。
いかに気質を異にし、いかに心の持ち方を異にした人達で、この世は満たされているだろう。東京から稲毛(いなげ)あたりの海岸へ遊びに出掛けるのに、非常にオックウに考えている人すらある。そうかと思えば、東北の果から遠く朝鮮の方まで旅を続けて、内地の温泉めぐり位は物の数とも思わないような家族もある。山本さんの心配は、お新の快活な、心(しん)から出るような笑で破れた。彼女は例の薄い鼠色のコオトに、同じような色の洋傘(こうもり)を持って、待合室から改札口の方へ山本さんと一緒に歩いた。
「兄さん、シツコクしちゃ嫌(いや)ですよ――そのかわり、何処へでも御供しますから――」
と彼女の眼が言うように見えた。
どこまでもお新は活々としている。細長いプラットフォムを歩いて行くにしても、それから国府津(こうず)行の二等室の内へ自分等の席を取るにしても、どこかこう軽々とした、わざとらしくなく敏捷(びんしょう)なところが有った。
彼女はこれまで、旅行好な舅(しゅうと)や夫に随(つ)いて、大抵他(ひと)の遊びに行くような場所へは行っていた。内地にある温泉地、海水浴場のさまなぞも、多く暗記(そらん)じていた。国府津小田原あたりは、めずらしくも無かった。好い連さえあれば、すこし遠く行く位は何でもなく思っている。
旅するものに取ってはこの上もない好い日和(ひより)だった。汽車が国府津の方へ進むにつれて、温暖(あたたか)い、心地(こころもち)の好い日光が室内に溢(あふ)れた。
山本さんは彼女と反対の側に腰掛けて行った。時々彼は何か捜すように、彼女の前髪だの、薄い藤色の手套(てぶくろ)を脱(と)った手だのを眺めて、どうかするとその眼でキッと彼女を見ることもある。しかし、そこには楽しい日光があるだけのことだった……その日光に、形の好い前髪や、白い、あらわな、女らしい手が映って見えるというだけのことだった……
何処まで行っても山本さんは極くありふれた話しか出来なかった。ややしばらくの間、二人とも黙って了って、窓の外の景色を眺めていることもある。復た話が始まる。日本に比ベると、彼地(むこう)では豚の肉が驚くほど廉(やす)いとか……鶏卵が一個何程で求められるとか……それを聞くと、お新は世間の内儀(おかみ)さんが笑うと同じように、楽しそうに笑った。
二人は国府津で下りた。そこまで行くと余程温暖(あたたか)だった。停車場の周囲(まわり)にある建物の間から、二月の末でも葉の落ちないような、濃い、黒ずんだ蜜柑畠(みかんばたけ)が見られる。寒い方からやって来たお新は暖国らしい空気を楽しそうに呼吸した。彼女は山本さんと一緒に、明るい日あたりを眺めながら、停車場前の旅舎(やどや)の方へ歩いて行った。
優美なお新の風俗は人の眼を引き易(やす)かった。湯治場行の客らしい人達の中には二人の方を振返って、私語(ささや)き合っているものも有った。夫婦らしく見えるということが、山本さんの顔をすこし紅くさせた。
旅舎へ行って、熱海行の船を待っている間にも、女中がこんなことを言った。
「奥さん、船の切符を買わせましょうですか」
山本さんは笑って、「これは奥さんじゃないよ――妹だよ」
お新も笑った。この笑が反って女中を半信半疑にさせた。女中は、よくある客の戯れと思うかして、「御串談(ごじょうだん)ばかり」と眼で言わせて、帯の間から巾着(きんちゃく)を取出そうとするお新の様子をじろじろ眺めた。
山本さんはお新に金を費わせまいとした。彼女が出す前に、彼は上等の切符の代を女中の前に置いた。
「兄さん、それじゃ反(かえ)って困りますわ」
とお新が言った。
山本さんは聞入れなかった。汽車代から何からお新の分まで、一切彼の方で持った。金のことにかけては細(こまか)い山本さんが、この旅には出さなくとも済むようなところまで出して、一寸寄って昼飯を食った旅舎の茶代までうんと奮発した。汽船の出る時が来た。伊豆の港々へ寄って行く船だ。二人は旅舎の前の崖(がけ)を下りて、浪打際(なみうちぎわ)の方まで下りた。踏んで行く砂は日を受けて光るので、お新は手にした洋傘(こうもり)をひろげた。日に翳(かざ)した薄色の絹は彼女の頬のあたりに柔かな陰影(かげ)を作った。山本さんは又、旧いことまで思出したように、彼女と二人で歩くことを楽みにして歩いた。
明るい波濤(なみ)は可畏(おそろ)しい音をさせて、二人の眼前(めのまえ)へ来ては砕けた。白い泡を残して引いて行く砂の上の潮は見る間に乾いた。復た押寄せて来た浪に乗って、多勢の船頭は艀(はしけ)を出した。山本さんもお新も船頭の背中に負(おぶ)さって、艀の方へ移った。騒がしい浪の音の中で、船頭は互に呼んだり、叫んだりした。
本船に移ってからも、お新は愉快な、物数寄(ものずき)な、若々しい女の心を失わなかった。旅慣れた彼女は、ゼムだの、仁丹(じんたん)だのを取出して、山本さんに勧(すす)める位で、自分では船に酔う様子もなかった。時々彼女は白い絹(きぬ)※子(ハンケチ)で顔を拭(ふ)きながら、世慣れた調子で談(はな)したり笑ったりした。どうかするとお牧にでも話しかけると同じように話した。
こういう人の側に、山本さんは遠慮勝に腰掛けて、往時(むかし)お新や異母妹(いもうと)と一緒に菖蒲田の海岸を歩いた時の心地(こころもち)に返った。海は山本さんを九年若くした。あの頃は皆な何か面白いことが先の方に待っているような気のしたものだった。山本さんは今、丁度その気で、船の上から熱海の方の青い海を眺めた。
何卒(どうか)してお新を往時(むかし)の心地(こころもち)に返らせたいと思って、山本さんは熱海まで連れて行ったが、駄目だった。そこで今度は伊東の方へ誘った。
翌日の午後は、復た二人は伊東行の汽船の中に居た。
前の日にも勝(まさ)る好天気だ。二人は楽しい航海を続けることが出来た。海は一層濃く青く見えた。半島の南端では最早(もう)紅い椿(つばき)の花が咲くという程の陽気で、そよそよとした心地の好い南風が吹いて来た。透き徹るような空の彼方(かなた)には、大島も形を顕(あら)わした。
船房に閉籠(とじこも)っている乗客は少なかった。大概の人は甲板(かんぱん)の上に出て、春らしい光と熱とに耽(ふけ)り楽んだ。
しばらく山本さんはお新の側を離れて、煙筒の下だの、ぺンキ塗の窓の横だのを歩き廻った。引返してお新の居る方へ来て見ると、彼女は太い綱なぞの置いてあるところに倚凭(よりかか)って、船から陸(おか)の方を眺めていた。横顔だけすこし見える彼女の後姿は、房々とした髪に掩(おお)われた襟首(えりくび)のあたりから、肩の辺へかけて、女らしい身体の輪廓(りんかく)を見せた。横から見た前髪の形も好かった。彼女の側には、女同志身体を持たせ掛けて、船旅に疲れたらしい眼付をしているものもあった。日をうけながら是方(こちら)を見ている夫婦者もあった。
そのうちにお新は山本さんの腰掛けた方を振向いて、微笑(ほほえ)んで見せた。「実に好い天気ですね」とか、「伊豆の海は好う御座んすね」とかの意味を通わせた。何を見るともなく、彼女は若々しい眼付をした。こうして親切にしてくれる、南清(なんしん)の方までも行った経験の多い、年長(としうえ)な人と一緒に旅することを心から楽しそうにしていた。復た彼女は山本さんの傍に腰掛けて海を眺めた。
このお新の心やすだては、伊東へ着いて艀から陸へ上った時も変らなかった。伊勢詣(まいり)の道連のように山本さんを頼りにして、温泉宿のある方へ軽く笑いながら随いて行った。
宿の二階へ上って見ると、二人はいくらか遠く来たことを感じた。
「奥さん、御浴衣(ゆかた)は此方(こちら)に御座います」
という女中の言葉を、お新はさ程気にも掛けないという風で、その浴衣に着更(きか)えた後、独りで浴槽(ゆぶね)の方へ旅の疲労(つかれ)を忘れに行った。
やがてお新は戻って来た。部屋の隅(すみ)には鏡台も置いてあった。彼女はその前に坐って、濡れた髪を撫でつけた。
山本さんは最早湯から上って来ていた。大きな卓(つくえ)を真中にして、お新も瀟洒(さっぱり)とした浴衣のまま寛(くつろ)いだ。山本[#「さん」は底本でも脱落]が勧める巻煙草を、彼女は人差指と中指の間に挿(はさ)んで、旅に来たらしく吸った。
夕飯には、山本さんはすこしばかりビイルをやった。
「貴方も召上りますか」
と女中が差したコップをお新は受けて、甘そうに泡立つビイルを注がせた。「ホ――お新ちゃんはナカナカ話せる」と眼で言わせた山本さんの方は、反って顔が紅く成った。お新は電燈に映るコップの中の酒を前に置いて、その間には煙草も燻(ふか)した。山本さんが行って来た方の長江の船旅の話なぞは、彼女を楽ませた。山本さんと違って、そう遠慮ばかりしていなかった。
とは言え、お新は女らしさを失いはしなかった。それが反って家に居る時の若い内儀(おかみ)さんらしくも見えた。
「何をしても悪く思えない少婦(おんな)だ」
と山本さんは腹の中で繰返した。
その晩も、彼は独りで壁の方へ向いて、唯九年も前のことを夢みながら、寂しい眠に落ちて行った。
翌日も矢張同じような日を送って、四日目の朝には伊東から帰ることに成った。もし時が許すなら、山本さんは熱海、伊東ばかりでなく、もっと他の方へ、下田の港へ、それこそ大島までも、お新を連れ廻りたいと思ったが、そう自由には成らなかった。
伊東の宿で、山本さんは土地の話を聞いた。女を連れて石廊崎(いろうざき)の手前にある洞穴見物に出掛けたという男の話だ。船で見て廻るうちに、男は五百円懐中(ふところ)に入れたまま、海へ落ちて死んだ。女だけ残った。海は深くて、その男の死骸(しがい)は揚らなかったとか。この話を聞いた時は、山本さんは他事(ひとごと)とも思えなかった。可恐(おそろ)しく成って、お新を連れて、国府津行の汽船の方へと急いだ。
船が伊東の海岸を離れる頃は、大島が幽(かす)かに見えた。その日は、往(ゆき)の時と違って、海上一面に水蒸気が多かった。水平線の彼方(かなた)は白く光った。そのうちに、ポッと浮いて見えたかと思う大島が掻消(かきけ)すように隠れた。あだかも金を費(つか)って身を悶(もだ)えながら帰って行く山本さんに対(むか)って、「船旅も御無事で」と告別(わかれ)の挨拶でもするかのように……
戻りには何処へも寄らなかった。唯、汽船が荷積の為に港々へ寄って行くのを待つばかりで。
一日乗ると船にも飽きた。飲食(のみくい)するより外に快楽(たのしみ)の無いような船員等は、行く先々で上陸する客を羨(うらや)んだ。港の岸に見知った顔でもあると、彼等は艀(はしけ)から声を掛けて、それから復た本船の方へ漕(こ)ぎ戻った。船は嫌いで無い方の山本さんにも、次第に単調な蒸気の音が耳につくように成った。乗客はいずれも船室の内に横に成って、寝られないまでも寝て行こうとした。お新もすこし疲れたらしく、白足袋穿(は)いた足なぞを投出し、顔へは薄い絹(きぬ)※子(ハンケチ)をかけていた。
こんな風にして国府津へ近づいた。船旅を終る頃には、お新は熱海や伊東の話を持って、東京に居るお牧の方へ早く帰りたいという様子をした。
汽船は国府津へ着いた。乗客は争って艀に乗移った。山本さんも、お新も、陸を指(さ)して急いだ。
新橋行の二等室の内に腰掛けてからも、二人はあまり話す気が無かった。二語(ふたこと)三語(みこと)言っては復た黙って了った。窓から外を見ようとすらもしなかった。揺(ゆす)られ通し船に揺られて、復た汽車に揺られたので、山本さんは居眠りばかりして行った。どうかすると窓の玻璃(ガラス)へ頭を打ちつけた。それほど、身体を支(ささ)えることが出来なかった。新橋へ入ったのは未だ日の暮れない頃であった。何となく頭の上から押しつけられるような、ハッキリと物を考えられない心地(こころもち)で、山本さんは礼を言って車に乗って行くお新に別れた。
この四日の旅で、山本さんはつくづくそう思って来た。玉子色のリボンで髪を束ねていたような娘が、何時の間にか開き発達した胸を持って、その豊かな乳の張ったさまは着物の上からでも想像される程の人に成った。それに比べると、彼は無限に停滞している自身の生活を憐(あわれ)まずにいられなかった。口の悪い支那の方の友達ばかりでなく、ややもすると旧馴染(むかしなじみ)の「お新ちゃん」にすら「頭の禿げた坊ちゃん」なぞと笑われそうな気がして来た。神田の宿へ戻って長く忘れずにいるあの旧い接吻(キス)を考えた時は、山本さんは泣くことも出来ないほど悲しく成った。
それから二日ばかり経つと、お牧も無事に退院して、復た山本さんの方へ来た。
「どうでした、伊豆の旅は」とお牧は何度も同じことを兄に尋ねた。
「実に好かった……そりゃ、お前、近頃に無い好い旅だった……」
「私もお新ちゃんから、散々羨ましがらせられた……そのかわり、兄さんには歌舞伎座を奢(おご)って頂きますよ」
こういうお牧は、そう長くユックリしてもいられない人だった。
芝居見物の晩から、お新もお牧に随いて山本さんの旅舎(やどや)の方へ一緒に成った。いよいよ女連(おんなれん)が郷里(くに)へ向けて発(た)つという日には、山本さんは朝から静止(じっと)していなかった。支那土産の縮緬(ちりめん)の他に、東京で買った物まで添えて、隣座敷へ行って見ると、お新だけ居た。
お新は心から気の毒そうな顔付で、山本さんがそこへ出した物を受かねていた。
「あんなに諸方(ほうぼう)へ連れてって頂いたんですもの……」と彼女が言った。
「いえ、旅の記念として取っといて下さい。恥をかかせるものじゃないと言います……ホラ、私が支那へ行く前に、貴方がたが卒業して郷里へ帰ると言うんで、丁度今日みたような騒ぎをしましたッけ……お新ちゃんなぞは、あの時分のことは最早忘れて了ったんでしょう」
「兄さん、私だってそんなに忘れるもんですか」
「停車場(ステーション)へ送りに行ったら、多勢貴方がたの御友達も来ていて……後からやって来て、窓のところで泣いた人なぞも有りましたろう……」
「覚えていますよ」
「なんですか……もしあの時分、お嫁に来て下さいと言いましたら、貴方は私の許(ところ)へ来て下すったでしょうか……」
「兄さんの許(とこ)なら、誰だって行きますわ――」
お新は若々しい快活な声で、大きな丸髷が揺れるほど笑った。
* * *
上野まで妹達を見送って、復た引返して来た時は、山本さんは全く独りぽっちの自分を旅舎の二階に見出した。部屋の隅にある大きな支那鞄なぞが唯彼を待っているばかりだった。錯々(せっせ)と働いて余分に貯めて来た金は、何に費したともなく費された。
山本さんは窓のところへ行って、遠く町の空に浮ぶ煙のような雲を望んだ。長いこと彼はボンヤリ立っていた。
身投げ救助業
菊池寛
ものの本によると、京都にも昔から自殺者はかなり多かった。
都はいつの時代でも田舎よりも生存競争が烈しい。生活に堪えきれぬ不幸が襲ってくると、思いきって死ぬ者が多かった。洛中洛外に激しい飢饉(ききん)などがあって、親兄弟に離れ、可愛い妻子を失うた者は世をはかなんで自殺した。除目(じもく)にもれた腹立ちまぎれや、義理に迫っての死や、恋のかなわぬ絶望からの死、数えてみれば際限がない。まして徳川時代には相対死などいうて、一時に二人ずつ死ぬことさえあった。
自殺をするに最も簡便な方法は、まず身を投げることであるらしい。これは統計学者の自殺者表などを見ないでも、少し自殺ということを真面目に考えた者には気のつくことである。ところが京都にはよい身投げ場所がなかった。むろん鴨川では死ねない。深いところでも三尺ぐらいしかない。だからおしゅん伝兵衛は鳥辺山(とりべやま)で死んでいる。たいていは縊(くび)れて死ぬ。汽車に轢かれるなどということもむろんなかった。
しかしどうしても身を投げたい者は、清水の舞台から身を投げた。「清水の舞台から飛んだ気で」という文句があるのだから、この事実に誤りはない。しかし、下の谷間の岩に当って砕けている死体を見たり、またその噂をきくと、模倣好きな人間も二の足を踏む。どうしても水死をしたいものは、お半長右衛門のように桂川まで辿って行くか、逢坂山(おうさかやま)を越え琵琶湖へ出るか、嵯峨の広沢の池へ行くよりほかに仕方がなかった。しかし死ぬ前のしばらくを、十分に享楽しようという心中者などには、この長い道程もあまり苦にはならなかっただろうが、一時も早く世の中を逃れたい人たちには、二里も三里も歩く余裕はなかった。それでたいていは首を括(くく)った。聖護院の森だとか、糺(ただす)の森などには、椎の実を拾う子供が、宙にぶらさがっている死体を見て、驚くことが多かった。
それでも、京の人間はたくさん自殺をしてきた。すべての自由を奪われたものにも、自殺の自由だけは残されている。牢屋にいる人間でも自殺だけはできる。両手両足を縛られていても、極度の克己をもって息をしないことによって、自殺だけはできる。
ともかく、京都によき身投げ場所のなかったことは事実である。しかし人々はこの不便を忍んで自殺をしてきたのである。適当な身投げ場所のないために、自殺者の比例が江戸や大阪などに比べて小であったとは思われない。
明治になって、槇村京都府知事が疏水(そすい)工事を起して、琵琶湖の水を京に引いてきた。この工事は京都の市民によき水運を備え、よき水道を備えると共に、またよき身投げ場所を与えることであった。
疏水は幅十間ぐらいではあるが、自殺の場所としてはかなりよいところである。どんな人でも、深い海の底などでふわふわして、魚などにつつかれている自分の死体のことを考えてみると、あまりいい心持はしない。たとえ死んでも、適当な時間に見つけ出されて、葬(とむらい)をしてもらいたい心がある。それには疏水は絶好な場所である。蹴上(けあげ)から二条を通って鴨川の縁(へり)を伝い、伏見へ流れ落ちるのであるが、どこでも一丈ぐらい深さがあり、水が奇麗である。それに両岸に柳が植えられて、夜は蒼いガスの光が煙(けむ)っている。先斗町(ぽんとちょう)あたりの絃歌の声が、鴨川を渡ってきこえてくる。後には東山が静かに横たわっている。雨の降った晩などは両岸の青や紅の灯が水に映る。自殺者の心に、この美しい夜の堀割の景色が一種の romance をひき起して、死ぬのがあまり恐ろしいと思われぬようになり、ふらふらと飛び込んでしまうことが多かった。
しかし、身体の重さを自分で引き受けて水面に飛び降りる刹那には、どんなに覚悟をした自殺者でも悲鳴を挙げる。これは本能的に生を慕い死を恐れるうめき[#「うめき」に傍点]である。しかしもうどうすることもできない。水煙(みずけむり)を立てて沈んでから皆一度は浮き上る。その時には助かろうとする本能の心よりほか何もない。手当り次第に水を掴(つか)む、水を打つ、あえぐ、うめく、もがく。そのうちに弱って意識を失って死んでいくが、もし、この時救助者が縄でも投げ込むと、たいていはそれを掴む。これを掴む時には、投身する前の覚悟も、助けられた後の後悔も心には浮ばない。ただ生きようとする強き本能があるだけである。自殺者が救助を求めたり、縄を掴んだりする矛盾を笑うてはいけない。
ともかく、京都にいい身投げ場所ができてから、自殺するものはたいてい疏水に身を投げた。
疏水の一年の変死の数は、多い時には百名を超したことさえある。疏水の流域の中で、最もよき死場所は、武徳殿のつい近くにある淋しい木造の橋である。インクラインのそばを走り下った水勢は、なお余勢を保って岡崎公園を回って流れる。そして公園と分かれようとするところに、この橋がある。右手には平安神宮の森に淋しくガスが輝いている。左手には淋しい戸を閉めた家が並んでいる。従って人通りがあまりない。それでこの橋の欄干から飛び込む投身者が多い。岸から飛び込むよりも橋からの方が投身者の心に潜在している芝居気を、満足せしむるものと見える。
ところが、この橋から四、五間ぐらいの下流に、疏水に沿うて一軒の小屋がある。そして橋から誰かが身を投げると、必ずこの家からきまって背の低い老婆が飛び出してくる。橋からの投身が、十二時より前の場合はたいてい変りがない。老婆は必ず長い竿を持っている。そして、その竿をうめき声を目当てに突き出すのである。多くは手答えがある。もし、ない場合には、水音とうめき声を追いかけながら、幾度も幾度も突き出すのである。それでも、ついに手答えなしに流れ下ってしまうこともあるが、たいていは竿に手答えがある。それを手繰り寄せる頃には、三町ばかりの交番へ使いに行くぐらいの厚意のある男が、きっと弥次馬の中に交っている。冬であれば火をたくが、夏は割合に手軽で、水を吐かせて身体を拭いてやると、たいていは元気を回復し警察へ行く場合が多い。巡査が二言三言(ふたことみこと)、不心得を諭すと、口ごもりながら、詫言をいうのを常とした。
こうして人命を助けた場合には、一月ぐらい経って政府から褒状(ほうじょう)に添えて一円五十銭ぐらいの賞金が下った。老婆はこれを受け取ると、まず神棚に供えて手を二、三度たたいた後郵便局へ預けに行く。
老婆は第四回内国博覧会が岡崎公園に開かれた時、今の場所に小さい茶店を開いた。駄菓子やみかん[#「みかん」に傍点]を売るささやかな店であったが、相当に実入りもあったので、博覧会の建物がだんだん取り払われた後もそのままで商売を続けた。これが第四回博覧会の唯一の記念物だといえばいえる。老婆は死んだ夫の残した娘と、二人で暮してきた。小金がたまるに従って、小屋が今のような小奇麗な住居に進んでいる。
最初に橋から投身者があった時、老婆はどうすることもできなかった。大声を挙げて叫んでも、めったに来る人がなかった。運よく人の来る時には、投身者は疏水のかなり激しい水に巻き込まれて、行方不明になっていた。こんな場合には、老婆は暗い水面を見つめながら、微かに念仏を唱えた。しかし、こうして老婆の見聞きする自殺者は、一人や二人ではなかった。二月に一度、多い時には一月に二度も老婆は自殺者の悲鳴をきいた。それが地獄にいる亡者のうめき[#「うめき」に傍点]のようで、気の弱い老婆にはどうしても堪えられなかった。とうとう老婆は、自分で助けてみる気になった。よほどの勇気と工夫とで、老婆が物干の竿を使って助けたのは、二十三になる男であった。主家の金を五十円ばかり使い込んだ申し訳なさに死のうとした、小心者であった。巡査に不心得を諭されると、この男は改心をして働くといった。それから一月ばかり経って、彼女は府庁から呼び出されて、褒美の金を貰ったのである。その時の一円五十銭は老婆には大金であった。彼女はよくよく考えた末、その頃やや盛んになりかけた郵便貯金に預け入れた。
それから後というものは、老婆は懸命に人を救った。そして救い方がだんだんうまくなった。水音と悲鳴とをきくと、老婆は急に身を起して裏へかけ出した。そこに立てかけてある竿を取り上げて、漁夫が鉾(ほこ)で鯉でも突くような構えで水面を睨んで立って、あがいている自殺者の前に竿を巧みに差し出した。竿が目の前に来た時に取りつかない投身者は一人もないといってよかった。それを老婆は懸命に引き上げた。通りがかりの男が手伝ったりする時には、老婆は不興であった。自分の特権を侵害されたような心持がしたからである。老婆はこのようにして、四十三の年から五十八の今までに、五十いくつかの人命を救うている。だから褒賞(ほうしょう)の場合の手続などもすこぶる簡単になって、一週で金が下るようになった。政庁の役人は「お婆さんまたやったなあ」と笑いながら、金を渡した。老婆も初めのように感激もしないで、茶店の客から大福の代を貰うように、「おおきに」といいながら受け取った。世間の景気がよくて、二月も三月も投身者のない時には、老婆はなんだか物足らなかった。娘に浴衣地をせびられた時などにも、老婆は今度一円五十銭貰うたらといっていた。その時は六月の末で、例年(いつも)ならば投身者の多い季(とき)であるのに、どうしたのか飛び込む人がなかった。老婆は毎晩娘と枕を並べながら、聞き耳を立てていた。それで十二時頃にもなって、いよいよだめだと思うと「今夜もあかん」というて目を閉じることなどもあった。
老婆は投身者を助けることを非常にいいことだと思っている。だから、よく店の客などと話している時にも「私でも、これで人さんの命をよっぼど助けているさかえ、極楽へ行かれますわ」というていた。むろんそのことを誰も打ち消しはしなかった。
しかし老婆が不満に思うことが、ただ一つあった。それは助けてやった人たちが、あまり老婆に礼をいわないことである。巡査の前では頭を下げているが、老婆に改めて礼をいうものはほとんどなかった。まして後日改めて礼をいいに来る者などは一人もない。「折角命を助けてやったのに、薄情な人だなあ」と老婆は腹のうちで思っていた。ある夜、老婆は十八になる娘を救うたことがある。娘は正気がついて自分が救われたことを知ると、身も世もないように泣きしきった。やっと巡査にすか[#「すか」に傍点]されて警察へ同行しようとして橋を渡ろうとした時、娘は巡査の隙を見て再び水中に身を躍らせた。しかし娘は不思議にもまた、老婆の差し出す竿に取りすがって救われた。
老婆は、再度巡査に連れられて行く娘の後姿を見ながら、「何遍飛び込んでも、やっぱり助かりたいものやなあ」というた。
老婆は六十に近くなっても、水音と悲鳴とをきくと必ず竿を差し出した。そしてまたその竿に取りすがることを拒んだ自殺者は一人もなかった。助かりたいから取りつくのだと老婆は思っていた。助かりたいものを助けるのだから、これほどいいことはないと老婆は思っていた。
今年の春になって、老婆の十数年来の平静な生活を、一つの危機が襲った。それは二十一になる娘の身の上からである。娘はやや下品な顔立ちではあったが、色白で愛嬌(あいきょう)があった。
老婆は遠縁の親類の二男が、徴兵から帰ったら、養子に貰って貯金の三百幾円を資本(もとで)として店を大きくするはずであった。これが老婆の望みであり楽しみであった。
ところが、娘は母の望みを見事に裏切ってしまった。彼女は熊野通り二条下るにある熊野座という小さい劇場(こや)に、今年の二月から打ち続けている嵐扇太郎という旅役者とありふれた関係に陥ちていた。扇太郎は巧みに娘を唆(そその)かし、母の貯金の通帳を持ち出させて、郵便局から金を引き出し、娘を連れたままいずこともなく逃げてしまったのである。
老婆には驚愕と絶望とのほか、何も残っていなかった。ただ店にある五円にも足りない商品と、少しの衣類としかなかった。それでも今までの茶店を続けていけば、生きていかれないことはなかった。しかし彼女にはなんの望みもなかった。
二月もの間、娘の消息を待ったが徒労であった。彼女にはもう生きていく力がなくなっていた。彼女は死を考えた。幾晩も幾晩も考えた末に、身を投げようと決心した。そして堪えがたい絶望の思いを逃れ、一には娘へのみせしめ[#「みせしめ」に傍点]にしようと思った。身投げの場所は住み馴れた家の近くの橋を選んだ。あそこから投身すれば、もう誰も邪魔する人はなかろうと、老婆は考えたのである。
老婆はある晩、例の橋の上に立った。自分が救った自殺者の顔がそれからそれと頭に浮んで、しかも、すべてが一種妙な皮肉な笑いをたたえているように思われた。しかし多くの自殺者を見ていたお陰には、自殺をすることが家常茶飯(かじょうさはん)のように思われて、大した恐怖をも感じなかった。老婆はふらふらとしたまま、欄干からずり落ちるように身を投げた。
彼女がふと正気づいた時には、彼女の周囲には、巡査と弥次馬とが立っている。これはいつも彼女が作る集団と同じであるが、ただ彼女の取る位置が変っているだけである。弥次馬の中には巡査のそばに、いつもの老婆がいないのを不思議に思うものさえあった。
老婆は恥かしいような憤(いきどお)ろしいような、名状しがたき不愉快さをもって周囲を見た。ところが巡査のそばのいつも自分が立つべき位置に、色の黒い四十男がいた。老婆は、その男が自分を助けたのだと気のついた時、彼女は掴みつきたいほど、その男を恨んだ。いい心持に寝入ろうとするのを叩き起されたような、むしゃくしゃした激しい怒りが、老婆の胸のうちにみちていた。
男はそんなことを少しも気づかないように、「もう一足遅かったら、死なしてしまうところでした」と巡査に話している。それは、老婆が幾度も巡査にいった覚えのある言葉であった。そのうちには人の命を救った自慢が、ありありと溢れていた。
老婆は老いた肌が、見物にあらわに見えていたのに気がつくと、あわてて前を掻き合せたが、胸のうちは怒りと恥とで燃えているようであった。見知り越しの巡査は「助ける側のお前が自分でやったら困るなあ」というた。老婆はそれを聞き流して逃げるように自分の家へ駆け込んだ。巡査は後から入ってきて、老婆の不心得を諭したが、それはもう幾十遍もききあきた言葉であった。その時ふと気がつくと、あけたままの表戸から例の四十男をはじめ、多くの弥次馬がものめずらしくのぞいていた。老婆は狂気のように駆けよって、激しい勢いで戸を閉めた。
老婆はそれ以来、淋しく、力無く暮している。彼女には自殺する力さえなくなってしまった。娘は帰りそうにもない。泥のように重苦しい日が続いていく。
老婆の家の背戸(せど)には、まだあの長い物干竿が立てかけてある。しかし、あの橋から飛び込む自殺者が助かった噂はもうきかなくなった。
半七捕物帳
むらさき鯉(ごい)
岡本綺堂
一
「むかし者のお話はとかく前置きが長いので、今の若い方たちには小焦(こじ)れったいかも知れませんが、話す方の身になると、やはり詳しく説明してかからないと何だか自分の気が済まないというわけですから、何も因果、まあ我慢してお聴きください」
半七老人は例の調子で笑いながら話し出した。それは明治三十一年の十月、秋の雨が昼間からさびしく降りつづいて、かつてこの老人から聴かされた「津の国屋」の怪談が思い出されるような宵のことであった。今夜のような晩には又なにか怪談を聴かしてくれませんかと、私がいつもの通りに無遠慮に強請(ねだ)りはじめると、老人はすこしく首をひねって考えた後に、面白いか面白くないか知りませんけれども、まあ、こんな話はどうでしょうね、とおもむろに口を切った。
その前置きが初めの通りである。
「いや、焦れったいどころじゃあありません。なるたけ詳しく説明を加えていただきたいのです」と、わたしは答えた。「それでないと、まったく私たちにはよく判らないことがありますから」
「お世辞にもそう云ってくだされば、わたくしの方でも話が仕よいというものです。まったく今と昔とは万事が違いますから、そこらの事情を先ず呑み込んで置いて下さらないと、お話が出来ませんよ」と、老人は云った。「そこで、このお話の舞台は江戸川です。遠い葛飾(かつしか)の江戸川じゃあない、江戸の小石川と牛込のあいだを流れている江戸川で……。このごろは堤(どて)に桜を植え付けて、行灯をかけたり、雪洞(ぼんぼり)をつけたりして、新小金井などという一つの名所になってしまいました。わたくしも今年の春はじめて、その夜桜を見物に行きましたが、川には船が出る、岸には大勢の人が押し合って歩いている。なるほど賑やかいので驚きました。しかし江戸時代には、あの辺はみな武家屋敷で、夜桜どころの話じゃあない、日が落ちると女一人などでは通れないくらいに寂しい所でした。それに昔はあの川が今よりもずっと深かった。というのは、船河原橋の下で堰(せ)き止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川(おとめがわ)となっていて、ここでは殺生(せっしょう)禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、堰(せき)は低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどん[#「どんどん」に傍点]と云っていました。水の音がどんどん[#「どんどん」に傍点]と響くからどんどん[#「どんどん」に傍点]というので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋[#「どんど橋」に傍点]と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどん[#「どんどん」に傍点]のあたりを蚊帳(かや)ケ 淵(ふち)とも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳を攫(さら)って行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ケ淵と云って恐れていたんです」
「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどん[#「どんどん」に傍点]と云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多(めった)に鯉なんぞは釣れませんでした」
「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、魚(さかな)は大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕(あこぎ)の平次をきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」
文久三年の五月なかばである。毎日降りつづく五月雨(さみだれ)もきょうは夕方からめずらしく小歇(こや)みになったが、星ひとつ見えない暗い夜に、牛込無量寺門前の小さい草履屋の門(かど)をたたく者があった。無量寺門前というのは今日の築土八幡町である。このごろは雨つづきで草履屋(ぞうりや)の商売も休みも同様であるばかりか、亭主の藤吉は宵から出ているので、女房のお徳は店を早く閉めて、奥の長火鉢の前で浴衣(ゆかた)の縫い直しをしている時、表の戸をそっと叩く音がきこえたので、お徳は針の手をやめて顔をあげた。今夜ももう四ツ(午後十時)に近い。この夜ふけに買物でもあるまい。おそらく道をきく人ででもあろうかと思ったので、かれは坐ったままで声をかけた。
「はい。なんでございます」
外では又そっと叩いた。
「どなたですえ。お買物ですか」と、お徳はまた訊(き)いた。
「ごめん下さい」と、外では低い声で云った。
なんだか判らないので、お徳もよんどころなしに起ちあがった。狭い店さきへ出て、再び何の用かと訊くと、外では女の細い声で、御亭主にちょっとお目にかかりたいという。内の人は唯今留守ですと答えると、それではおかみさんに逢わせてくれというので、お徳はともかくも表の戸をあけると、ひとりの痩形の女が夜目にも白い顔をそむけて、物思わしげに悄然とたたずんでいるのが薄暗い行灯(あんどう)の火にぼんやりと照らし出された。
「なにか御用でございますか」
「はい。あの、失礼でございますが、お店へあがりましてもよろしゅうございましょうか」と、女は忍びやかに云った。
見ず識らずの女が夜ちゅうに人の店へあがり込もうというのは、なんだか胡散(うさん)らしいとも思ったが、お徳はもう三十を越している。相手は弱々しい女ひとり、別に恐れるほどのこともあるまいと多寡をくくって、そのまま店へあがらせると、女はうしろを見かえりながらそっと表の戸を閉め切ってはいった。そうして、なにを云い出すかと、お徳は相手の俯向き勝ちの顔をのぞくように見ていると、女はやがて低い声で云い出した。
「夜ふけに伺いまして、だしぬけにこんなことを申し上げるのも異(い)なものでございますが、わたくしはこの御近所に居りますもので、昨晩不思議な夢を見ましたのでございます」
「はあ」と、お徳も不思議そうに相手をいよいよ見つめた。思いも付かないことを云い出されて、かれは少しく煙(けむ)にまかれたのであった。
「ひとりの男……むらさきの着物を被(き)て、冠(かんむり)をかぶった上品な人でございました。それがわたくしの枕もとへ参りまして、自分の命はきょう翌日(あす)に迫っている。どうぞあなたの力で救っていただきたいと、こう申すのでございます。そこで、一体あなたは何処のお方ですかと訊きますと、わたくしは無量寺門前の草履屋(ぞうりや)の藤吉という人の家(うち)にいる。そこへお出でになれば自然にわかると、云うかと思うと夢が醒めました。なにぶんにも夢のことでございますから、そのままにして置きましたのですが、夜になって考えますと、なんだか気にもなりますので、とうとう思い切って今時分に伺いましたようなわけでございますが……」
いよいよ判らないことを云い出すので、お徳はただ黙って聴いていると、女はひと息ついて又語り出した。
「それも夢だけのことでございましたら、わたくしもそれほどには気にかけないのでございますが、実はけさになってみますと、枕もとに魚の鱗(こけ)のようなものが一枚落ちていましたので……。それは紫がかった金色(こんじき)に光っているのでございます」
お徳の顔色は俄かに動いて、おもわず台所の方をみかえると、そこでは大きい魚の跳ねるような音がきこえた。女客も俄かに耳を引っ立てた。
「あ、奥で何か跳ねるような……」
お徳はやはり黙っていた。
「唯今申し上げたことで、何かお心あたりのようなことはございますまいか」と、女はしずかに云った。
「別にどうも……」と、お徳はあいまいに答えたが、その声は少しふるえていた。
「まったくお心あたりはないでしょうか」
台所ではまた魚の眺ねる音がきこえた。女はその物音のする方を伸びあがるようにして覗(のぞ)きながら、また云い出した。かれの声も少しふるえていた。
「お願いでございます。お心あたりがございますならば、どうぞ教えていただきたいのでございますが……」
その訴えるような声音(こわね)が一種の恨みを含んでいるらしくも聞えたので、お徳はまた俄かにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。さっきからの話を聴いて、お徳も内々は思いあたることが無いでもなかったのである。実を云うと、夫の藤吉はこのあいだから彼(か)の江戸川のどんど[#「どんど」に傍点]橋のあたりへ忍んで行って、禁断のむらさき鯉の夜釣りをして、現にゆうべも一尾(ぴき)の大きい鯉を釣りあげて来た。それに味を占めて、かれは今夜も宵から釣道具を持ち出して行ったのである。ゆうべの鯉は盥(たらい)に入れたままで台所の揚げ板の下に隠してある。それを知っているらしい彼の女は、いったい何者であろうかと、お徳は不安に思った。
女の話がほんとうであるとすれば、鯉がその夢に入って救いを求めたものであろう。もし又それが嘘であるとすれば、夫が殺生禁断を犯しているのを知って、ひそかにその様子を探りに来たのかも知れない。どちらにしても薄気味のわるい女客を、お徳はどうあしらってよいか判らなかったが、この女が入り込むと同時に、今までおとなしかった台所の鯉が俄かにたびたび跳ねあがるのも不思議であるばかりか、女の顔に愁いを帯び、女の声に恨みを含んでいるらしいのが、お徳をいよいよ恐れさせた。あるいはその夢ばなしは作り事で、この女はかのむらさき鯉に何かの因縁のあるものではあるまいかという疑いも湧き出して、かれは更に薄暗い行灯の灯(ひ)かげで女の姿をよく視ると、女の髪は水を出て来たように湿(ぬ)れていた。今は雨も止んでいるのに、かれはどうして湿れて来たのかと、お徳のうたがいは一層強くなった。この女は水から出て来たのではあるまいかと思うと、気の強い女房も俄かにぞっとしたのである。
「あの、奥の方で何か跳ねているのは、なんでございましょう」と、女は訊(き)いた。
「そんな音がきこえましたか」と、お徳は白らばっくれてこたえた。「雨だれの音じゃありませんかしら」
その苦しい云い訳を打ち消すように、台所の鯉はまた跳ねた。
「おかみさん、どうぞお隠しなさらないでください」と、女はいよいよ恨めしそうに云った。「唯今も申す通り、わたくしの枕もとに紫の鱗が落ちていました。奥で今跳ねているのは確かに魚でございます。魚の跳ねる音でございます。一生のおねがいでございますから、どうぞその魚を一度みせてください。その魚はきっとむらさきに相違ございません」
お徳ももう返事に困って、唯おどおどしていると、女の様子がだんだんと物凄く変って来た。
「ごめんください。ちょっと奥へ行って拝見してまいります」
女は起って奥へゆきかけるのを、お徳はさえぎる力もなかった。女の起ったあとを見ると、そこの畳の上は陰(くも)ったように湿(ぬ)れているので、かれは又ぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
二
むらさきの鯉は怪しい女の手によって、台所のあげ板の下から持ち出された。鯉はかれの両袖にかかえられて、おとなしく運び去られるのを、女房は唯うっかりと眺めていると、女は帰るときにお徳に云った。
「どうもありがとうございました。今のわたくしとしては別にお礼の致しようもございませんが、これからは蔭ながらおまえさん方夫婦の身の上を守ります」
かれは足音もしないように表へ出て、その姿は五月(さつき)の闇に隠されてしまった。それを見送って、お徳はほっ[#「ほっ」に傍点]とした。かれは夢をみているのではないかとも疑ったが、だんだんに落ち着いてかんがえると、怪しい女はどうも江戸川の水の底から抜け出して来たらしく思われてならなかった。それが普通の人間ならば、いかに夢の告げがあったからといって、人の家の魚をただ取ってゆくという法はない。それに対して相当の償(つぐな)いをしてゆくべき筈であるのに、今のわたくしとしては別にお礼のしようもないと彼女は云った。その代りに、蔭ながらお前たち夫婦の身の上を守るとも云った。そんなことは普通の人間の云うべき詞(ことば)ではない。かれはおそらく一種の霊あるものであろうと、お徳は想像した。そうして、かれが再び引っ返して来るのを恐れるように、お徳は表の戸に栓をおろした。
「それでもすなおに鯉をわたしてやってよかった。うっかり逆(さか)らったらどんな祟りを受けたかも知れない」
禁断の魚を捕るということがすでに逃がれがたい罪である。その不安に絶えずおびやかされている矢さきへ、測(はか)らずも今夜のような怪しい女に襲われて、お徳はいよいよその魂をおののかせた。夫が帰ったならばすぐにこの話をして聞かせて、今夜かぎりに夜釣りを止めさせなければならないと思いながら、再び長火鉢の前に坐りかけると、檐(のき)の雨だれの音がときどきに聞え始めた。又ふり出したのかと耳をかたむけると、雨の音はだんだんに強くなるらしい。それが今夜のお徳に取り分けて侘(わび)しくきこえて、洗いざらしの単衣(ひとえ)の襟がなんだか薄ら寒く感じられた。かぜでも引いたのかと、肩をすくめて身ぶるいする時、表の戸を軽くたたく音がきこえた。亭主が帰って来たのだろうと思いながら、さっきの女客におびえているお徳はすぐに起つのを躊躇していると、外では焦(じ)れるように小声で呼んだ。
「おい。もう寝たのか」
それが夫の声であると知って、お徳は先ず安心した。
「おまえさんかえ」
「むむ、おれだ、おれだ。早くあけてくれ」と、外では小声で口早に云った。
お徳は急いで表の戸をあけると、竹の子笠をかぶった藤吉がずぶ濡れになってはいって来た。かれは手になんにも持っていなかった。
「釣り道具は……」と、お徳は訊いた。
「それどころか、飛んだことになってしまった」
手足の泥を洗って、湿(ぬ)れた着物を着かえて、藤吉はさも疲れ果てたように長火鉢の前にぐったりと坐った。かれは好きな煙草ものまないで、まず火鉢のひきだしから大きい湯呑みを取り出して、冷(さ)めかかっている薬罐(やかん)の湯をひと息に三杯ほども続けて飲んだ。ふだんから蒼白い彼の顔が更に蒼ざめているのを見て、女房の胸には又もや動悸が高くなった。
「おまえさん。どうしたのよ」
気づかわしそうにのぞき込む女房の眼のひかりを避けるように、藤吉はうつむきながら溜息をついた。
「悪いことは出来ねえ。どうも飛んだことになった」
「だからさ、その飛んだ事というのは……。焦れったい人だねえ。早く、はっきりとお云いなさいよ」
「実は……。為さんが川へ引き込まれた」
為さんというのは、町内のちいさい紙屋の亭主で、草履屋とはまったく縁のない商売でありながら、藤吉とは子供のときの手習い朋輩といい、両方がおなじ釣り道楽の仲間であるので、ふだんから親しく往きかいして、岡釣りに沖釣りに誘いあわせて行くことも珍らしくなかった。その道楽が遂に二人を禁断の釣り場所へ導くようにもなったので、お徳は自分の亭主の罪を棚にあげて、その相棒の為さんを悪い友達としてひそかに怨んでいた。しかも、その為さんが川へ引き込まれたと聞いては、かれも驚かずにはいられなかった。
「為さんが引き込まれた……。河童(かっぱ)にかえ」
「河童や河獺(かわうそ)じゃあねえ。魚(さかな)にやられたんだ。おれも驚いたよ」と、藤吉は顔をしかめてささやいた。「いつもの通りに堤(どて)を降りて、ふたりが列(なら)んで釣っていると、やがて為さんが小声で占めたと云ったが、なかなか引き寄せられねえ。よっぽど大きいらしいから跳ねられねえように気をつけねえよと、おれも傍から声をかけたが、なにしろ真っ暗だから見当が付かねえ。それでもどうにかこうにか綾なして、だんだんに手元へひき寄せたらしく、為さんは手網(たも)を持って掬いあげようとする。その途端に、今まで暗かった水の上が急に明るくなって、なんだか知らねえが金のようにぴかぴかと光ったものがあるかと思うと、大きい魚が跳ねかえる音がして、為さんはあっ[#「あっ」に傍点]という間もなしにすべり込んでしまったので、おれもびっくりして押えようとしたが、もういけねえ。暗さは暗し、このごろの雨つづきで水嵩は増している。しょせん手の着けようもねえので、おれも途方に暮れてしまったが、それでも川下(かわしも)の方へ流されて行くうちには、どこかの岸へ泳ぎ付くことがあるかも知れねえと、暗い堤下を探るようにして、どんどん[#「どんどん」に傍点]の堰(せき)の落ち口まで行ってみたが、真っ暗な中で水の音がどんど[#「どんど」に傍点]ときこえるばかりで、為さんの上がって来る様子はねえ。為さんもひと通りは泳げるんだが、なにしろ馬鹿に瀬が早いからどうにもならなかったらしい」
「おまえさん、呼んでみればいいのに……」と、お徳は喙(くち)を容れた。
「それが出来ねえ」と、藤吉は首をふってみせた。「これがほかの所なら、為さんを呼ぶばかりじゃあねえ。大きい声で近所の人を呼んで、なんとか又、工夫(くふう)のしようもあるんだが、なにをいうにも場所が悪い、うっかり大きな声を出してみろ、こっちの身の上にもかかわることだ。もうこうなったら仕方がねえ、これもまあ為さんの運の悪いのだと諦めて、おれもそのまま帰って来たが、どうも心持がよくねえ。ああ、忌(いや)だ、忌(いや)だ」
「ほんとうに忌だねえ」と、お徳も溜息をついた。「だから、あたしがお止しと云うのに、お前さん達が肯(き)かないで出て行くからさ。為さんのことばかりじゃあない、内にも忌なことがあったんだよ」
「どんな事があったんだ」と、藤吉は不安らしく慌てて訊いた。「まさか為さんが来た訳じゃあるめえ」
「為さんが来るものかね。ほかに何だかおかしい女が来たんだよ」
怪しい女に鯉を抱え出された一件を女房の口から聴かされて、藤吉はいよいよ顔の色を変えた。
「そりゃあどうもおかしいな。その女はいってえ何者だろう」
「ねえ、もしや川から出て来たんじゃ無いかしら」と、お徳は摺り寄ってささやいた。
「むむ。おれも何だかそんな気がする。ゆうべ釣って来たのは雄(おす)の鯉で、その雌(めす)が取り返しに来たんじゃあるめえかな」
「返してやったからいいようなものだが、なんだか気味が悪いね」
「どうも変だな」
と、藤吉は今更のように表をみかえった。
「外では為さんがあんなことになる。内ではそんな女が押し掛けて来る。どう考えても、むらさきが俺たちに祟っているらしい。まったく悪いことは出来ねえ。もう、もう、これに懲(こ)りて釣りは止めだ」
「それにしても、越前屋の方はどうするの。まさかに知らん顔をしてもいられまいじゃないか」
「それをおれも考えているんだ。おれと一緒に行くことは、おかみさんも知っているんだからな」
「それだから知らん顔はしていられないと云うのさ。おまえさん、これから行って早く知らしておいでなさいよ」
「これから行くのか」と、藤吉は再び顔をしかめた。
「だって、打っちゃっては置かれまいじゃないか。夜が更(ふ)けても直ぐそこだから、早く行っておいでなさいよ」
追い出すように急(せ)き立てられて、藤吉は渋々ながら出て行った。
三
「あの人はなにをしているんだろう」
それから二刻(ふたとき)あまりを過ぎても亭主の藤吉は帰らないので、お徳はまた新らしい不安を感じ出した。そのころの二刻といえば今の四時間である。藤吉が出て行ったのは四ツを少し過ぎたころで、市ヶ谷八幡の鐘が夜(よる)の八ツ(午前二時)を撞(つ)いてからもう小半刻も経ったかと思うのに、かれはまだ帰って来なかった。あるいは越前屋の女房にたのまれて、為さんの死骸を探しにでも行ったのかとも思ったが、何分にもいろいろの奇怪な事件がそれからそれへと続出するのにおびやかされている彼女は、どうも落ち着いてはいられないような気がするので、更けてますます降りしきる雨の中を越前屋へたずねて行った。
越前屋は小半町しか距(はな)れていないので、すぐに行き着くと、紙屋の店は表の戸をおろしてひっそりしている。常の時ならばそれが当然であるが、今夜こんなに寝鎮まっているのをお徳はすこし不思議に思いながら、ともかくもそっと戸を叩くと、内では容易に返事がなかった。焦(じ)れて幾たびか強く叩くと、小僧の寅次が寝ぼけ眼(まなこ)をこすりながら起きて来た。
「あの、内の人は来ていますかえ」と、お徳は待ちかねて訊(き)いた。
「いいえ」
「来ていませんか」
「今時分藤さんが来ているものか」と、寅次は腹立たしそうに云った。
「おかみさんは……」と、お徳はまた訊(き)いた。
「奥に寝ていますよ」
「旦那は……」
「旦那も寝ていますよ」
お徳はびっくりした。鯉を釣りあげ損じて、川流れになった筈の為さんが無事に寝ているというのは案外であった。ほんとうに寝ているのかと念を押すと、寅次は確かに寝ていると云った。ゆうべ何処へ行って、何刻(なんどき)に帰って来たかと詮議すると、旦那は五ツ(午後八時)頃に出て行って、四ツ少し過ぎに帰って来たらしい。自分は四ツを合図に店を閉めて寝てしまったから、よくは知らないと寅次は云った。それでもお徳の不審はまだ晴れないので、旦那かおかみさんを起こしてくれと又頼むと、寅次は不承不承(ふしょうぶしょう)に奥へはいったが、やがて女房のお新を連れ出して来た。
「あら、お徳さん。今時分どうしたの。藤さんが急病人にでもなったんですか」と、お新は不思議そうに云った。
「実はこちらへ来ると云って、ふた刻も前に出たんですが、まだ帰って来ないので、なにをしているのかと様子を見に来たんですよ」と、お徳は正直に答えた。
「藤さんが……」と、お新は眉をよせた。「今夜は一度も見えませんよ」
「あら、そうですか」
お徳は煙(けむ)にまかれてぼんやりと突っ立っていた。ゆうべからの事をかんがえると、かれはやはり夢でも見ているのか、それとも八幡の森の狐にでも化かされているのかと、自分で自分を疑うようにもなった。
「為さんはお内ですね」
再び念を押すと、お新は内にいるとはっきり答えた。その上に詮議のしようもないので、お徳は気が済まないながらも一旦は空(むな)しく引き揚げるのほかはなかった。
「藤さんは浮気者だから、ここの家(うち)へ来るなんて旨いことを云って、どっかへしけ込んでいるんじゃありませんかえ」と、お新は笑っていた。
年下の女にからかわれて、この場合、お徳も少しむっ[#「むっ」に傍点]としたが、そんなことを云い争っている時でもないので、かれはそれを聞き流して怱々(そうそう)に帰った。それにしても亭主はどこへ行ったのであろう、もしや留守のあいだに帰っているかも知れないと、急いで内へはいってみると、内は行灯を消したままで藤吉はまだ帰っていなかった。
死んだはずの為さんは生きていて、生きていたはずの亭主がゆくえを晦(くら)ましたのである。為さんは無事に泳ぎついて助かったのかも知れないが、亭主のゆくえ不明がどうしても判らなかった。それともお新の云うように、いい加減のこしらえ事をして何処かの色女のところに隠れ遊びをしているのかと、お徳は半信半疑のうちにその夜をあかした。
雨は暁方(あけがた)から又ひとしきり止んで、梅雨とは云っても夏の夜は早く白(しら)んだ。ゆうべは碌々に眠らなかったお徳は、早朝から店をあけて亭主の帰るのを待っていたが、藤吉はやはりその姿をみせなかった。もう一度、越前屋へ行って、亭主の為さんに逢って、くわしいことを詮議して来ようと思っているところへ、飛んでもない噂がここらまで伝わってお徳をおどろかした。藤吉の死骸が江戸川のどんど[#「どんど」に傍点]橋の下に浮かんでいたというのである。自分が追い立てるようにして越前屋へ出してやった亭主の藤吉が、どうして再び江戸川の方角へ迷って行って、そこに身を沈めるようになったのか。ゆうべ死んだというのは、為さんでなくて藤吉であったのか。ゆうべ帰って来たのは幽霊か。なにが何やら、お徳にはちっとも判らなくなってしまった。
なにしろ其の儘にしては置かれないので、お徳はとりあえずその実否(じっぴ)を確かめに行こうとすると、家主(いえぬし)もその噂を聴いて出て来た。家主と両隣りの人々に附き添われて、お徳はこころも空に江戸川堤へ駈けつけると、死骸はもう引き揚げられていた。あら菰(ごも)をきせて河岸の柳の下に横たえてある男の水死人はたしかに藤吉に相違ないので、附き添いの人々も今更におどろいた。お徳は声をあげて泣き出した。
死骸は検視の上でひと先ずお徳に引き渡されたが、その場所が御留川であるので、詮議は厳重になった。藤吉の死骸には少しも疵のあとが無いので、おそらく覚悟して身を投げたものであろうとは想像されたが、たとい自殺にしても一応はその仔細を吟味しなければならないというので、女房のお徳はきびしく取り調べられた。それに対して、お徳も最初は曖昧の申し立てをしていたが、しまいには包み切れなくなって、ゆうべの出来事を逐一に申し立てたので、草履屋の藤吉が越前屋の亭主と御留川へ夜釣りに行ったことや、その留守のあいだに怪しい女のたずねて来たことや、藤吉が一旦帰って来て更に越前屋へゆくと云って出たことや、それらの事実がすべて係り役人の耳にはいった。
越前屋の亭主はすぐに召し捕られて吟味を受けた。かれはその名を為次郎と云って、当年三十五歳である。女房のお新は二十七歳、小僧の寅次は十五歳で、一家はこの夫婦と小僧との三人暮らしであるが、親ゆずりの家作三軒を持っていて、店は小さいが内証は苦しくない。世間の附き合いも人並にして、近所の評判も悪くなかった。為次郎は役人の吟味に対して、自分はこれまでに草履屋の藤吉と誘いあわせて岡釣りや沖釣りに出たことはあるが、御留川の江戸川などへ夜釣りに行ったことは一度もないと申し立てた。それではお徳の申し口とまったく相違するので、役人はいろいろに吟味したが、かれはどうしても覚えがないと云い張った。ゆうべは神田の上州屋という同商売の店に不幸があったので、その悔みに行って四ツ過ぎに帰って来たのであると彼は云った。念のために神田の上州屋を調べると、果たして為次郎は宵から悔みに来て、四ツ少し前に帰ったということが確かめられた。
こうなると、役人の方でも何が何やら判らなくなって来た。お徳は自分の亭主の云うことを一途(いちず)に信じて、為さんも夜釣りの仲間であると申し立てているものの、実はふたりが連れ立って出るところを一度も見たことはないのであった。禁断を犯す仕事であるから、二人は忍び忍びに家を出て、どんど[#「どんど」に傍点]橋のわきで落ち合うことになっていたように聴いていると彼女は云った。してみると、藤吉は何かの都合で女房をあざむいて、自分ひとりで夜釣りに出ていたものかとも思われる。それにしても越前屋の亭主が鯉を釣り損じて川に落ちたなどという出たらめをなぜ云ったのか。そうして、自分がなぜ入水(じゅすい)したのか。又かの怪しい女は何者か、その女と藤吉とのあいだに何かの関係があるのか無いのか、役人たちもその判断に苦しんだ。
「どうだ、半七。あらましの本読みはこの通りだが、これだけじゃあ芝居も幕にならねえ。なんとか工夫して、めでたく打ち出しまで漕ぎ付けてくれ」と、八丁堀同心の村田良助が半七を呼んで云った。
「かしこまりました。まあ、なんとかこじつけてみましょう。しかし御寺社(おじしゃ)の方はよろしいのでございましょうな」
寺の門前地は寺社奉行の支配で、町方(まちかた)の係りではない。そこへみだりに踏み込むことは出来ないので、半七が一応の念を押すと、良助はうなずいた。
「それは寺社の方から云って来たのだから、仔細はねえ。どこまでも踏み込んで片付けてくれ」
四
「さあ、これからの筋道を順々に講釈していては長くなる。いつまでも聴き手を焦らしているのが能(のう)でもありませんから、ちっと尻切り蜻蛉(とんぼ)のようですが、おしまいの方は手っ取り早くお話し申しましょう」と、半七老人は云った。「それから五日ばかりののちに、この一件もみんな埒があきましたよ」
「はあ、どういうふうに解決がつきました」と、わたしは熱心に訊(き)いた。「一体その怪談がかった女は何者ですか」
「いま時の方はまさか鯉の雌が女に化けて、自分の雄を取り返しに来たとも思わないでしょうが、昔の人間はみんなそう思ったんですよ」と、老人はまた笑った。「そこで、その怪談の主人公の女というのは、以前は西川伊登次(いとじ)という看板をかけていた踊りの師匠で、今では高山という銀座役人の囲いものになって、牛込の赤城下(あかぎした)にしゃれた家を持って贅沢に暮らしている。銀座役人は申すまでもなく、銀座に勤める役人ですが、天下通用の銀を吹く役所にいるだけに何か旨いことがあるとみえて、こういう勤め向きの者はみんな素晴らしい贅沢をしていました。そのお気に入りの囲い者ですから、伊登次も今は本名のお糸になって、表がまえはともかくも、内へはいってみると実にびっくりするような立派な家に住んでいるという訳で、旦那の高山は三日にあげずに通って来る。ときどきには同役や御用達(ごようたし)町人なども連れて来る。そこで、かの事件のあった晩にも、高山は五人の同役をつれて来て、宵からお糸の家の奥座敷で飲んでいるうちに、いろいろの食道楽の話が出て、おれは江戸川のむらさき鯉を一度食ってみたいと云い出した者がある。いやなに、普通の真(ま)鯉でも紫鯉でも別段に変りはあるまいという者もある。それが昂じて高山も、物はためしだ、おれも一度は是非その鯉を食いたいと云うと、酌をしていたお糸はなんと思ったか、旦那がそれほどに喫(た)べたいと仰しゃるなら、わたくしがすぐに取ってまいりますと云う。これにはみんなも驚いて、さすがは高山の奥方だ。ほんとうにその鯉を取って来て下さるなら、我々もその御相伴(おしょうばん)にあずかりたいものだと冗談半分にがやがや云うと、お糸はどうぞ暫くお待ちくださいと云って座を起った。こっちは酔っているので別段気にも留めないで飲んでいると、お糸はいつまでも座敷へ戻って来ない。どうしたのだと女中に訊(き)くと、さっき表へ出たぎりで帰らないという。それではほんとうに取りに行ったのかとは云ったが、よもやと思って笑っていると、やがてお糸がお待ち遠さまでございましたと持ち出して来た皿の上には、眼の下一尺あまりもあろうという大きな鯉が生きていて、しかもその鱗(こけ)が燭台の灯(ひ)にも紫に映ったので、みんなもあっ[#「あっ」に傍点]と驚く。高山は上機嫌で、なるほどお糸でなければ出来ない芸だ。方々(かたがた)も褒めておやりなされ、この高山も褒めてやるぞと、飛んだ陣屋の盛綱を気取って、扇をあげて褒めそやすと、ほかの連中も偉い偉いと扇をひらいて煽ぎ立てる。いや、実にばかばかしい話ですが、昔はこんな連中がいくらもあったものです。天下の役人がこの始末、まったく江戸も末でしたよ」
「すると、そのお糸という女が草履屋の店へ化け込んだのですね。それにしても、どうしてその鯉のあることを知っていたのでしょうね」
これは私でなくとも当然に起るべき疑問であろう。半七老人はご尤もとうなずいて、又しずかに語り出した。
「それは自然にわかります。まあ、おちついてお聴きください。この探索をはじめる時に、わたくしはきっとこの事件には魚屋(さかなや)が係り合っていると睨みました。草履屋の亭主はどんなに鯉が好きか知りませんけれども、自分が食うばかりでなく、どこへか売り込むに相違ない。それには魚屋の味方があると思いましたから、女房のお徳をだんだんに詮議すると、案のじょう、近所の川春(かわはる)という仕出し屋の手でどこへか持ち込むことが判りました。川春はなかなか大きい店で、旗本屋敷や大町人の得意場を持っている。前に云ったような人間の多い時代ですから、旗本の隠居や大町人の贅沢な奴らが川春の宇三郎にたのんで、御留川のむらさき鯉を食うのがある。魚の味は格別に変りはないのですが、そこが贅沢で、食えないものを食うという一種の道楽です。宇三郎はそこを附け込んで、うまい儲けをする。しかし自分たちが迂濶に釣ったり、網を入れたりすると、商売柄だけにすぐに眼につくという懸念(けねん)から、ふだんから心安い藤吉を抱き込んで、こいつにそっと釣らせていたんです。
お徳の白伏でこれだけのことは判りましたが、鯉を取りに来たという女の正体がまだわからない。そこで更に手をまわして探索すると、この仕出し屋の料理番をしている富蔵という小粋な若い奴が、高山の囲い者のお糸と出来合っていることを探り出しました。富蔵はお糸が師匠をしている時からの馴染(なじみ)で、今も内所で逢い曳きをしている。それがわかったので、わたくしは子分の松吉に云いつけて、富蔵が近所の朝湯に行って帰る途中を引き挙げさせてしまいました。お徳の白状もあるのですから、すぐに宇三郎を召し捕ってもいいんですが、宇三郎という奴はなかなか食えない老爺(おやじ)らしいので、下手に当人を引き挙げて強情にシラを切っていられると面倒ですから、まず料理番の富蔵をおさえて、こいつの口から動かない証拠を挙げてしまおうと思ったんです。富蔵は案外に意気地のない奴で、ちょっと嚇かしたらすぐに何もかもしゃべってしまったばかりか、ほかに案外のことまで吐き出しました。それが即ちお糸の一件です。
草履屋に鯉のあることをお糸がどうして知っていたかと云うと、この富蔵の口から聴いたんです。その前の晩、近所の女髪結の家(うち)の二階でお糸と富蔵とが逢った時、富蔵はいろいろの話のうちに、草履屋の藤吉が江戸川のむらさき鯉を内証で持ち込んで来ることを話しました。まだそればかりでなく、藤吉がだんだんに増長して、なにしろ御法度(ごはっと)破りの仕事だから、今までのように一尾(ぴき)二分では売られない、これからは一尾一両ずつに買ってくれと云い出したが、宇三郎は承知しない。現にきょうもその捫著(もんちゃく)で、藤吉は一尾を売らずに帰ったという話をしたので、草履屋の家に一尾の鯉のあることをお糸は知っていたのです。お糸もその時は何の気無しに聴いていたんですが、その明くる晩に旦那の高山が同役を連れて来て、前に云ったようなわけで紫鯉の話が出ると、お糸は不図(ふと)ゆうべの富蔵の話をおもい出した。ここで一番自分の腕を見せてやろうという料簡になって、その鯉をすぐに取って来ようと安請け合いに受け合った。当人の腹では、色男の富蔵にたのんで、藤吉から売って貰うつもりであったんですが、あいにくに富蔵はどこへか出て行った留守で、川春の店にいない。と云って、立派に受け合って来た以上、今さら素手(すで)では帰れない。見ず識らずの草履屋へ行って、だしぬけに鯉を売ってくれと云ったところで相手が取りあう筈もない。思案に暮れた挙げ句の果てに、思いついたのが怪談がかりの狂言で、そこらの井戸の水か何かで髪をぬらしたり着物を湿(ぬ)らしたりして、草履屋の店へたずねてゆくと、丁度に亭主は留守で女房ひとりのところ。こっちは踊りの師匠ですから、身振りや仮声(こわいろ)も巧かったんでしょう、なんだか仔細らしく物すごく持ち掛けて、まんまと首尾よくその鯉をまきあげて行ったのには、芝居ならばこのところ大出来大出来というところかも知れません」
「いや、わかりました。なるほどお糸という女はなかなかの芝居師ですね。そこで、藤吉の方はどうしたのです」と、わたくしは追いかけて訊(き)いた。
「ここまでお話をすれば、あなた方にも大抵鑑定が付くでしょう。こうなれば、もう訳はありませんよ」と、老人はまだ判らないかと云うようにわたしの顔を眺めながら、息つぎの煙草を一服吸った。
「わたくしは富蔵の顔を睨んで、やい、てめえの頸のまわりや手の甲に引っかき疵のあるのはどうしたんだ。まさかに囲い者と痴話喧嘩をしたわけでもあるめえ。てめえ達はあの藤吉をどうしたと、頭から呶鳴り付けると、野郎め、蒼くなって縮み上がってしまいました。
川春の亭主の宇三郎という奴は、ぼてえ[#「ぼてえ」に傍点]振りの魚屋から一代でそれだけの店に仕上げたくらいの人間ですから、年はもう六十に近いのですが、からだも頑丈で気も強い。藤吉が足もとを見てねだり掛けても、相手はびくともする奴じゃありません。藤吉はあべこべに云いまくられて、そのくやしまぎれに、お前が禁断のむらさき鯉を売り込んで、荒っぽい銭儲けをしているということを俺が一と言しゃべったら、ここの家(うち)にぺんぺん草が生えるだろうとか何とか嚇し文句をならべて立ち去っても、宇三郎はおどろかない。そんなことを迂濶に口外すれば宇三郎ばかりでなく、第一にわが身の上が危ういから、藤吉は忌々(いまいま)しいながらも我慢するよりほかはない。それで泣き寝入りにしていれば何事も無かったんですが、藤吉にも金の要ることがある。その訳はあとで話しますが、その晩も夜釣りに行くと云って家を出て、実は宇三郎の家へ行って、もう一遍かけ合ってみる積りで、川春の店さきまで行きかかると、丁度に料理番の富蔵が表に立っていたので、それを物蔭へよび出して、きのうの喧嘩はわたしが悪かったからおまえから親方によく話して、一尾一両の相談をきめてくれと頼んだが、富蔵は取りあわない。おれはほかに行くところがあるからと振り切って行こうとするのを、藤吉がひき留める。それがまた喧嘩のはじまりで、気の早い富蔵は相手の横っ面をぽかり[#「ぽかり」に傍点]となぐりつけると、藤吉はかっ[#「かっ」に傍点]となって富蔵の胸倉を引っ掴むと、そのはずみに喉を強く絞めたとみえて、富蔵はそのままぱったり倒れてしまったので、藤吉はびっくりして逃げ出した。
藤吉だって悪い人間じゃあない、根は正直者なんですから、たとい粗相とは云いながら相手を殺した以上は、自分も下手人に取られなければならない。それが恐ろしさに、半分は夢中でそれからそれへと逃げ廻って、夜ふけを待って自分の家(うち)へこっそり[#「こっそり」に傍点]と帰って来たらしい。しかしなんだか気が咎めるので、女房にむかって越前屋の為さんが川へ落ちて流されたなどと出たらめを云った。なぜそんな嘘ばなしをしたかというと、今も申す通り、なんだか気が咎めてならないからでしょう。犯罪人というものは妙なもので、自分の悪事を他人事(ひとごと)のように話して、それで幾らか自分の胸が軽くなるというような場合がある。藤吉もやはり其の例で、その時に何かそんなことを云わなければ気が済まなかったらしいんです。女房はそれを真(ま)に受けて、早く越前屋へ知らしてやれ、と云う。今更それは嘘だとも云えない破目(はめ)になって、よんどころなしに表へ出たが、もとより越前屋へ行くわけには行かない。そこでその後の様子を窺うために、川春の店さきへ忍んで行って戸の隙間から覗いていた。勿論、死人に口無しで確かなことは判りませんが、前後の事情から推して行くと、そう判断するよりほかはないんです。
富蔵は一旦気絶したが、川春の店の者が見つけて内へ連れ込んで、水や薬を飲ませると、すぐに息をふき返して、何事もなく済んでしまったのです。そうと知ったら藤吉も安心したんでしょうが、間違いの起るときは仕方がないもので、一生懸命に内の様子をうかがっていると、そこへまた丁度に帰って来たのが亭主の宇三郎です。近所の二階に花合わせや小博奕の寄り合いがあって、いい旦那衆も集まって来る。これを内会(ないかい)と云います。宇三郎もその内会に顔を出して、夜なかに家へ帰ってくると、表には変な奴が覗いている。提灯の灯(ひ)で透かしてみるとかの藤吉なので、この野郎、今度はおれを殺しにでも来たのかと、襟首をつかんで内へ引き摺り込む。藤吉はうろたえて逃げ出そうとする。宇三郎は追いまわす。御承知の通り、仕出し屋のことですから店には洗い場があって、そこには大きい内井戸がある。普通の井戸とは違いますから、井戸側が低く出来ている。藤吉は逃げ廻るはずみに井戸端で足をすべらせて、井戸側へよろけかかったかと思うと、さかさまに転げ込んでしまった。その騒ぎに店の者も起きて来て、すぐと引き揚げたが藤吉はもう息が絶えている。富蔵と違って生き返りそうもない。といって、迂濶に医者を呼んでは、あとが面倒です。宇三郎は家内のものに口止めをして、夜ふけを幸いに藤吉の死骸をおもてへ運んで、そっと江戸川へ捨てさせました。死骸は大きい御膳籠(ごぜんかご)に入れて、富蔵と出前持ちふたりが持ち出して行ったのです」
「では、紙屋の亭主はなんにも係り合わなかったのですか」
「まったくなんにも知らないんです。ふだんから藤吉と釣り仲間ではありましたが、鯉の一件には係り合いの無いことが判りました。御承知かも知れませんが、赤城下はその以前に隠し売女(ばいた)のあったところで、今もその名残(なごり)で一種の曖昧茶屋のようなものがある。そこの白首(しろくび)に藤吉は馴染が出来て、余計な金が要る。御留川の夜釣りも畢竟(ひっきょう)はそういう金の要(い)り途(みち)があるからで、女房の手前は毎晩夜釣りに行くように見せかけて、三度に二度はその女のところへ飛んだ夜釣りに出かけていたんです。そういう時には今夜はあぶれたと誤魔化していたんですが、それでも自分ひとりでは何だか疑われそうに思われるので、釣り仲間の為さんも一緒だなどといい加減なことを云っていたらしい。紙屋の亭主こそ実に迷惑で、それがために思いもよらない災難をうけて、一旦は召し捕られたり、その後もたびたび番所へ呼び出されたり、どうもひどい目に逢いましたが、右の事情が判って無事に済みました。川春の宇三郎は死罪、富蔵は吟味中に牢死、出前持ちふたりは追放だとおぼえています。宇三郎の白状で、鯉を食った者はみんな判っているんですが、身分のある人は迂濶に詮議も出来ず、大町人は金を使って内々に運動したのでしょう、その方の詮議はすべて有耶無耶(うやむや)になってしまいました。高山もお糸も無事でしたが、この一件から富蔵との秘密がばれたらしく、お糸は旦那の手が切れて何処へか立ち去ったようでした」
泥濘(でいねい)
梶井基次郎
一
それはある日の事だった。――
待っていた為替(かわせ)が家から届いたので、それを金に替えかたがた本郷へ出ることにした。
雪の降ったあとで郊外に住んでいる自分にはその雪解けが億劫(おっくう)なのであったが、金は待っていた金なので関(かま)わずに出かけることにした。
それより前、自分はかなり根(こん)をつめて書いたものを失敗に終わらしていた。失敗はとにかくとして、その失敗の仕方の変に病的だったことがその後の生活にまでよくない影響を与えていた。そんな訳で自分は何かに気持の転換を求めていた。金がなくなっていたので出歩くにも出歩けなかった。そこへ家から送ってくれた為替にどうしたことか不備なところがあって、それを送り返し、自分はなおさら不愉快になって、四日ほど待っていたのだった。その日に着いた為替はその二度目の為替であった。
書く方を放棄してから一週間余りにもなっていただろうか。その間に自分の生活はまるで気力の抜けた平衡を失したものに変わっていた。先ほども言ったように失敗が既にどこか病気染(じ)みたところを持っていた。書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そうこうするうちに頭に浮かぶことがそれを書きつけようとする瞬間に変に憶(おも)い出せなくなって来たりした。読み返しては訂正していたのが、それもできなくなってしまった。どう直せばいいのか、書きはじめの気持そのものが自分にはどうにも思い出せなくなっていたのである。こんなことにかかりあっていてはよくないなと、薄うす自分は思いはじめた。しかし自分は執念深くやめなかった。また止(や)まらなかった。
やめた後の状態は果してわるかった。自分はぼんやりしてしまっていた。その不活溌な状態は平常経験するそれ[#「それ」に傍点]以上にどこか変なところのある状態だった。花が枯れて水が腐ってしまっている花瓶(かびん)が不愉快で堪(たま)らなくなっていても始末するのが億劫で手の出ないときがある。見るたびに不愉快が増して行ってもその不愉快がどうしても始末しようという気持に転じて行かないときがある。それは億劫というよりもなにか[#「なにか」に傍点]に魅せられている気持である。自分は自分の不活溌のどこかにそんな匂いを嗅(か)いだ。
なにかをやりはじめてもその途中で極(きま)って自分はぼんやりしてしまった。気がついてやりかけの事に手は帰っても、一度ぼんやりしたところを覗(のぞ)いて来た自分の気持は、もうそれに対して妙に空ぞらしくなってしまっているのだった。何をやりはじめてもそういうふうに中途半端中途半端が続くようになって来た。またそれが重なってくるにつれてひとりでに生活の大勢が極ったように中途半端を並べた。そんなふうで、自分は動き出すことの禁ぜられた沼のように淀(よど)んだところをどうしても出切ってしまうことができなかった。そこへ沼の底から湧(わ)いて来る沼気(メタン)のようなやつがいる。いや[#「いや」に傍点]な妄想(もうそう)がそれだ。肉親に不吉がありそうな、友達に裏切られているような妄想が不意に頭を擡(もた)げる。
ちょうどその時分は火事の多い時節であった。習慣で自分はよく近くの野原を散歩する。新しい家の普請が到るところにあった。自分はその辺りに転っている鉋屑(かんなくず)を見、そして自分があまり注意もせずに煙草の吸殻を捨てるのに気がつき、危いぞと思った。そんなことが頭に残っていたからであろう、近くに二度ほど火事があった、そのたびに漠とした、捕縛されそうな不安に襲われた。「この辺を散歩していたろう」と言われ、「お前の捨てた煙草からだ」と言われたら、なんとも抗弁する余地がないような気がした。また電報配達夫の走っているのを見ると不愉快になった。妄想は自分を弱くみじめにした。愚にもつかないことで本当に弱くみじめになってゆく。そう思うと堪らない気がした。
何をする気にもならない自分はよくぼんやり鏡や薔薇(ばら)の描いてある陶器の水差しに見入っていた。心の休み場所――とは感じないまでも何か心の休まっている瞬間をそこに見出(いだ)すことがあった。以前自分はよく野原などでこんな気持を経験したことがある。それはごくほのかな気持ではあったが、風に吹かれている草などを見つめているうちに、いつか自分の裡(うち)にもちょうどその草の葉のように揺れているもののあるのを感じる。それは定かなものではなかった。かすかな気配ではあったが、しかし不思議にも秋風に吹かれてさわさわ揺れている草自身の感覚というようなものを感じるのであった。酔わされたような気持で、そのあとはいつも心が清(すが)すがしいものに変わっていた。
鏡や水差しに対している自分は自然そんな経験を思い出した。あんな風に気持が転換できるといいなど思って熱心になることもあった。しかしそんなことを思う思わないに拘(かかわ)らず自分はよくそんなものに見入ってぼんやりしていた。冷い白い肌に一点、電燈の像を宿している可愛い水差しは、なにをする気にもならない自分にとって実際変な魅力を持っていた。二時三時が打っても自分は寝なかった。
夜晩(おそ)く鏡を覗(のぞ)くのは時によっては非常に怖(おそ)ろしいものである。自分の顔がまるで知らない人の顔のように見えて来たり、眼が疲れて来る故か、じーっと見ているうちに醜悪な伎楽(ぎがく)の腫(は)れ面(おもて)という面そっくりに見えて来たりする。さーっと鏡の中の顔が消えて、あぶり出しのようにまた現われたりする。片方の眼だけが出て来てしばらくの間それに睨(にら)まれていることもある。しかし恐怖というようなものもある程度自分で出したり引込めたりできる性質のものである。子供が浪打際で寄せたり退(ひ)いたりしている浪に追いつ追われつしながら遊ぶように、自分は鏡のなかの伎楽の面を恐れながらもそれと遊びたい興味に駆(か)られた。
自分の動かない気持は、しかしそのままであった。鏡を見たり水差しを見たりするときに感じる、変に不思議なところへ運ばれて来たような気持は、却(かえ)って淀(よど)んだ気持と悪く絡まったようであった。そんなことがなくてさえ昼頃まで夢をたくさん見ながら寝ている自分には、見た夢と現実とが時どき分明しなくなる悪く疲れた午後の日中があった。自分はいつか自分の経験している世界を怪しいと感じる瞬間を持つようになって行った。町を歩いていても自分の姿を見た人が「あんな奴が来た」と言って逃げてゆくのじゃないかなど思ってびっくりするときがあった。顔を伏せている子守娘が今度こちらを向くときにはお化けのような顔になっているのじゃないかなど思うときがあった。――しかし待っていた為替はとうとう来た。自分は雪の積った道を久し振りで省線電車の方へ向った。
二
お茶の水から本郷へ出るまでの間に人が三人まで雪で辷(すべ)った。銀行へ着いた時分には自分もかなり不機嫌になってしまっていた。赤く焼けている瓦斯煖炉(ガスだんろ)の上へ濡れて重くなった下駄をやりながら自分は係りが名前を呼ぶのを待っていた。自分の前に店の小僧さんが一人差向かいの位置にいた。下駄をひいてからしばらくして自分は何とはなしにその小僧さんが自分を見ているなと思った。雪と一緒に持ち込まれた泥で汚(よご)れている床を見ているこちらの目が妙にうろたえた。独り相撲だと思いながらも自分は仮想した小僧さんの視線に縛られたようになった。自分はそんなときよく顔の赧(あか)くなる自分の癖を思い出した。もう少し赧くなっているんじゃないか。思う尻(しり)から自分は顔が熱くなって来たのを感じた。
係りは自分の名前をなかなか呼ばなかった。少し愚図過ぎた。小切手を渡した係りの前へ二度ばかりも示威運動をしに行った。とうとうしまいに自分は係りに口を利(き)いた。小切手は中途の係りがぼんやりしていたのだった。
出て正門前の方へゆく。多分行き倒れか転んで気絶をしたかした若い女の人を二人の巡査が左右から腕を抱えて連れてゆく。往来の人が立留って見ていた。自分はその足で散髪屋へ入った。散髮屋は釜を壊(こわ)していた。自分が洗ってくれと言ったので石鹸で洗っておきながら濡れた手拭(てぬぐい)で拭くだけのことしかしない。これが新式なのでもあるまいと思ったが、口が妙に重くて言わないでいた。しかし石鹸の残っている気持悪さを思うと堪(たま)らない気になった。訊(たず)ねて見ると釜を壊したのだという。そして濡れたタオルを繰り返した。金を払って帽子をうけとるとき触って見るとやはり石鹸が残っている。なんとか言ってやらないと馬鹿に思われるような気がしたが止めて外へ出る。せっかく気持よくなりかけていたものをと思うと妙に腹が立った。友人の下宿へ行って石鹸は洗いおとした。それからしばらく雑談した。
自分は話をしているうちに友人の顔が変に遠どおしく感ぜられて来た。また自分の話が自分の思う甲所(かんどころ)をちっとも言っていないように思えてきた。相手が何かいつもの友人ではないような気にもなる。相手は自分の少し変なことを感じているに違いないとも思う。不親切ではないがそのことを言うのが彼自身怖(おそ)ろしいので言えずにいるのじゃないかなど思う。しかし、自分はどこか変じゃないか? などこちらから聞けない気がした。「そう言えば変だ」など言われる怖ろしさよりも、変じゃないかと自分から言ってしまえば自分で自分の変な所を承認したことになる。承認してしまえばなにもかもおしまいだ。そんな怖ろしさがあったのだった。そんなことを思いながらしかし自分の口は喋(しゃべ)っているのだった。
「引込んでいるのがいけないんだよ。もっと出て来るようにしたらいいんだ」玄関まで送って来た友人はそんなことを言った。自分はなにかそれについても言いたいような気がしたがうなずいたままで外へ出た。苦役(くえき)を果した後のような気持であった。
町にはまだ雪がちらついていた。古本屋を歩く。買いたいものがあっても金に不自由していた自分は妙に吝嗇(けち)になっていて買い切れなかった。「これを買うくらいなら先刻(さっき)のを買う」次の本屋へ行っては先刻の本屋で買わなかったことを後悔した。そんなことを繰り返しているうちに自分はかなり参って来た。郵便局で葉書を買って、家へ金の礼と友達へ無沙汰の詫(わび)を書く。机の前ではどうしても書けなかったのが割合すらすら書けた。
古本屋と思って入った本屋は新しい本ばかりの店であった。店に誰もいなかったのが自分の足音で一人奥から出て来た。仕方なしに一番安い文芸雑誌を買う。なにか買って帰らないと今夜が堪(たま)らないと思う。その堪らなさが妙に誇大されて感じられる。誇大だとは思っても、そう思って抜けられる気持ではなかった。先刻の古本屋へまた逆に歩いて行った。やはり買えなかった。吝嗇臭いぞと思ってみてもどうしても買えなかった。雪がせわしく降り出したので出張りを片付けている最後の本屋へ、先刻値を聞いて止(よ)した古雑誌を今度はどうしても買おうと決心して自分は入って行った。とっつきの店のそれもとっつきに値を聞いた古雑誌、それが結局は最後の選択になったかと思うと馬鹿気た気になった。他所(よそ)の小僧が雪を投げつけに来るのでその店の小僧はその方へ気をとられていた。覚えておいたはずの場所にそれが見つからないので、まさか店を間違えたのでもなかろうがと思って不安になってその小僧にきいてみた。
「お忘れ物ですか。そんなものはありませんでしたよ」言いながら小僧は他所(よそ)のをやっつけに行こう行こうとしてうわの空になっている。しかしそれはどうしても見つからなかった。さすがの自分も参っていた。足袋を一足買ってお茶の水へ急いだ。もう夜になっていた。
お茶の水では定期を買った。これから毎日学校へ出るとして一日往復いくらになるか電車のなかで暗算をする。何度やってもしくじった。その度(たび)たびに買うのと同じという答えが出たりする。有楽町で途中下車して銀座へ出、茶や砂糖、パン、牛酪(バター)などを買った。人通りが少い。ここでも三四人の店員が雪投げをしていた。堅(かた)そうで痛そうであった。自分は変に不愉快に思った。疲れ切ってもいた。一つには今日の失敗(しくじ)り方が余りひど過ぎたので、自分は反抗的にもなってしまっていた。八銭のパン一つ買って十銭で釣銭を取ったりなどしてしきりになにかに反抗の気を見せつけていた。聞いたものがなかったりすると妙に殺気立った。
ライオンヘ入って食事をする。身体を温めて麦酒(ビール)を飲んだ。混合酒(カクテル)を作っているのを見ている。種々な酒を一つの器へ入れて蓋をして振っている。はじめは振っているがしまいには器に振られているような恰好をする。洋盃(グラス)へついで果物をあしらい盆にのせる。その正確な敏捷(びんしょう)さは見ていておもしろかった。
「お前達は並んでアラビア兵のようだ」
「そや、バグダッドの祭のようだ」
「腹が第一滅っていたんだな」
ずらっと並んだ洋酒の壜を見ながら自分は少し麦酒の酔いを覚えていた。
三
ライオンを出てからは唐物屋で石鹸を買った。ちぐはぐな気持はまたいつの間にか自分に帰っていた。石鹸を買ってしまって自分は、なにか今のは変だと思いはじめた。瞭然(はっき)りした買いたさを自分が感じていたのかどうか、自分にはどうも思い出せなかった。宙を踏んでいるようにたよりない気持であった。
「ゆめうつつ[#「ゆめうつつ」に傍点]で遣(や)ってるからじゃ」
過失などをしたとき母からよくそう言われた。その言葉が思いがけず自分の今為(し)たことのなかにあると思った。石鹸は自分にとって途方もなく高価(たか)い石鹸であった。自分は母のことを思った。
「奎吉(けいきち)……奎吉!」自分は自分の名を呼んで見た。悲しい顔付をした母の顔が自分の脳裡(のうり)にはっきり映った。
――三年ほど前自分はある夜酒に酔って家へ帰ったことがあった。自分はまるで前後のわきまえをなくしていた。友達が連れて帰ってくれたのだったが、その友達の話によると随分非道(ひど)かったということで、自分はその時の母の気持を思って見るたびいつも黯然(あんぜん)となった。友達はあとでその時母が自分を叱った言葉だと言って母の調子を真似てその言葉を自分にきかせた。それは母の声そっくりと言いたいほど上手に模(も)してあった。単なる言葉だけでも充分自分は参っているところであった。友人の再現して見せたその調子は自分を泣かすだけの力を持っていた。
模倣(もほう)というものはおかしいものである。友人の模倣を今度は自分が模倣した。自分に最も近い人の口調はかえって他所から教えられた。自分はその後に続く言葉を言わないでもただ奎吉(けいきち)と言っただけでその時の母の気持を生(い)きいきと蘇(よみが)えらすことができるようになった。どんな手段によるよりも「奎吉!」と一度声に出すことは最も直接であった。眼の前へ浮んで来る母の顔に自分は責められ励まされた。――
空は晴れて月が出ていた。尾張町から有楽町へゆく鋪道(ほどう)の上で自分は「奎吉!」を繰り返した。
自分はぞーっとした。「奎吉」という声に呼び出されて来る母の顔付がいつか異(ちが)うものに代っていた。不吉を司(つかさど)る者――そう言ったものが自分に呼びかけているのであった。聞きたくない声を聞いた。……
有楽町から自分の駅まではかなりの時間がかかる。駅を下りてからも十分の余はかかった。夜の更(ふ)けた切り通し坂を自分はまるで疲れ切って歩いていた。袴(はかま)の捌(さば)ける音が変に耳についた。坂の中途に反射鏡のついた照明燈が道を照している。それを背にうけて自分の影がくっきり長く地を這(は)っていた。マントの下に買物の包みを抱えて少し膨(ふく)れた自分の影を両側の街燈が次には交互にそれを映し出した。後ろから起って来て前へ廻り、伸びて行って家の戸へ頭がひょっくり擡(もちあが)ったりする。慌(あわただ)しい影の変化を追っているうちに自分の眼はそのなかでもちっとも変化しない影を一つ見つけた。極く丈の詰った影で、街燈が間遠になると鮮(あざや)かさを増し、片方が幅を利かし出すとひそまってしまう。「月の影だな」と自分は思った。見上げると十六日十七日と思える月が真上を少し外れたところにかかっていた。自分は何ということなしにその影だけが親しいものに思えた。
大きな通りを外れて街燈の疎(まば)らな路へ出る。月光は初めてその深祕さで雪の積った風景を照していた。美しかった。自分は自分の気持がかなりまとまっていたのを知り、それ以上まとまってゆくのを感じた。自分の影は左側から右側に移しただけでやはり自分の前にあった。そして今は乱されず、鮮かであった。先刻自分に起ったどことなく親しい気持を「どうしてなんだろう」と怪しみ慕(なつか)しみながら自分は歩いていた。型のくずれた中折を冠り少しひよわな感じのする頚(くび)から少し厳(いか)った肩のあたり、自分は見ているうちにだんだんこちらの自分を失って行った。
影の中に生き物らしい気配があらわれて来た。何を思っているのか確かに何かを思っている――影だと思っていたものは、それは、生(なま)なましい自分であった!
自分が歩いてゆく! そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。地面はなにか玻璃(はり)を張ったような透明で、自分は軽い眩暈(めまい)を感じる。
「あれはどこへ歩いてゆくのだろう」と漠とした不安が自分に起りはじめた。……
路に沿うた竹藪(たけやぶ)の前の小溝(こみぞ)へは銭湯で落す湯が流れて来ている。湯気が屏風(びょうぶ)のように立騰っていて匂いが鼻を撲(う)った――自分はしみじみした自分に帰っていた。風呂屋の隣りの天ぷら屋はまだ起きていた。自分は自分の下宿の方へ暗い路を入って行った。
万福追想
葉山嘉樹
渓流は胡桃の実や栗の実などを、出水の流れにつれて持つて来た。水の引きが早いので、それを岩の間や流木の根に残して行く。
工事場の子供たちは、薪木にする為に、晒されて骨のやうになつた流木や、自分たちのお八つにする為に、胡桃や栗の実を拾ひ集めるのだつた。
胡桃の実も栗も、黒くなつてゐて、石の間や流木の間に挾まつてゐると、なか/\見つけるのに骨が折れたが、子供たちは大人よりも上手に見つけて、懐に入れたり、ポケットに入れたりして、それを膨らませてゐた。
小さな渓流で、それにかかつてゐる橋は、長さ三間位もあつただらうか。出水の時は、恐ろしく大きな音をたてて、玉石などを本流に転がし込むのだつたが、ふだんは子供たちのいい遊び場であつた。
清水の湧き出す処などを、うまく見付けて掘ると沢蟹の小さいのを、一升も二升も捕ることさへあつた。それは天ぷらにしても、煮つけても美味かつた。
その渓流の一部分に、トロッコの線を敷かねばならなかつた。
電車の線路工事に必要な、コンクリ材料の砂やバラス、玉石などを、本流の川原からウインチで捲き上げようと云ふ段取りなのであつた。
線路を敷きかけて見ると、方々に岩盤の出つ張りや、文字通り梃[#原文は「挺」、397-下7]でも動かない大きな玉石などがあつた。それはハッパをかけて取り除かねばならなかつた。
A橋と云ふ三間位の橋の袂には、農家が一軒、天竜の断崖とA川とに足を突つ張るやうにして立つてゐた。その農家に楔でも打ち込んだやうに、小さな飯場が一つ建つてゐた。
飯場は水の便利のいい所を選んで建てられるので、その下流よりにも沢山飯場が建てられてゐた。
飯場があると必ず子供たちが沢山ゐるのだつた。
だからハッパをかけたりする時は、その渓流で米を磨いだり、洗濯をしたり、胡桃を拾つたり薪を拾つたりする、飯場の女房連や子供たちに、危険を知らせ、上下流の工事場を往来する人々に、ハッパを知らせる為に、ベルを振つて、ハッパだあ、ハッパだあ、と、ハッパの済むまで怒鳴り続ける必要があつた。
十一月中旬の麗かな一日であつた。
天竜川中流の、峻嶮極まる峡谷地帯で一日中日照時間が三時間だとか四時間だとか云ふ地帯にも、こんないい日があるかと思はれるやうな、人の心も清々しくなるやうな一日であつた。
A橋の十間ばかり下流、殆ど天竜川本流への流入口近くで、冴えたセットの音が、チーン、チーンと聞えて来た。
梃[#原文は「挺」、398-上5]でも動かない玉石へ、ハッパ穴を穿(く)つてゐるのだつた。タガネとセットとの、二つの鋼鉄から出る音は、澄んだ浸み透るやうな音楽的な音を立てて、山の空気を震はし、川瀬の音と和して、いい気持に人々を誘ひ込んだ。
それは百姓屋とそれに食ひ込んだやうな飯場の真下あたりの処だつた。
ハッパの破片は、主として石に穿られた穴の方向に飛ぶものなので、太田は天竜川の方から上流の方を向けて穴を穿つてゐた。
天竜川の方に石が飛ぶのならば、危険は割合に少なかつたからであつた。
尤も全然危険がない訳ではなかつた。
一度などは、二十数本もの導火線がシューシュー煙を吐き出してゐるのに、川舟が上流から勢よく下つて来たのには驚いた。
天竜の川舟は、予定地に着けそくなつたら最後五丁も十丁も下流まで流れる位であつた。だから、陸からどのやうな権威を持つた人間が「止れ」と云つたところで、止まる訳には行かなかつた。
その時などは、天竜の本流の岸に、トロッコの線を敷くためのハッパだつたので、十メートル前のトーチカ陣地から、機関銃が火を吐く、と云ふ形容だつて決して過ぎてはゐなかつた。
私は気が狂つたやうに岸から叫んだ。
「向つ岸へ流してくれえ、ハッパ穴がそつちを向いとるぞう」
と、無茶苦茶にベルを振りながら怒鳴つた。
川舟の船頭も驚いた。舟を対岸の方へやるにしても、ハッパの破片は対岸深くまで飛んで行くのだつたから、完全に着弾距離外と云ふ訳には行かないのだつた。
四人の川舟船夫たちは、底の浅い川舟の中で大騒ぎしながら、竿や櫂で川底の石をつつぱつたり、水を掻いたりして、対岸の絶壁の淵の方へ川舟をやらうと努力してゐた。が、天竜川の三大難所の一つだつたそこは、船夫たちの努力で、僅かに舟の頭を対岸に向けたまま、急流に押し流された。
川舟がハッパを仕かけた辺から、二十間位も押し流された時、ハッパが鳴り始め、破岩が激流の河面にバラバラッと飛び込んだ。
大きい破片は抱き上げられない位のものもあり、小さいのは安全剃刀の刃位のものまでも、水面に射込んだ。
「良かつた」
と、私は、岩陰から川舟の行衛を隙間見しながら、ホッとしたことがあつた。
その日も、午前九時頃まで冴えたタガネの音がしてゐたが、それが止むと、暫くして、太田が上の方からA川に沿つて降りて来た。
手に導火線をブラ下げて、その下に大ダイが一つくつついてゐた。丁度、アケビの実を蔓ごとぶら下げたやうに見えた。
「大丈夫かい。穴はどつちを向いてるかい。さうかい、ふん、大ダイ一本ぢや詰め過ぎやしないかい、うん、大丈夫だね。頼むよ、この辺は危いからね、人通りがあるんだし、家が近いからね」
と、私は、太田がうるさがる程、念を押した。
太田がA川の合流点附近から、
「つけたぞ」
と怒鳴つた。私は、橋の袂にゐて、現場の導火線から煙が上るのを見て、ベルを振り、ハッパだ、ハッパだあ、と怒鳴りながら、上流の方へ駆け、人が来ないのを見届け、又、下流の方へ駆けた。
丁度現場の直ぐ側へ、栗や胡桃を拾ひに行つて、藪影でゴソゴソやつてゐた、太田の幼い弟たちや従弟たちも、火をつける前に見付けて、上の方の道路へ追ひ上げてあつた。
その子供たちを、百姓家の現場とは反対側の軒下に立たせて置いて、私はそれを監視しながらベルを振つてゐた。
パーンと云ふ風な、浅い音が現場で起つた。と同時に、パラパラッと破片が飛んで来た。その時、私の立つてゐる道に、私の直ぐ後ろ横に、下流の方から一人の子供が駆けて来た。
「危いッ」
と、幼い足音に、私は叫んだ。
見ると、その児の鼻の上に、破片が当つたと見えて、血が流れてゐる。
私と並んで立つてゐた太田は、その子供が自分の従弟だと見ると、抱きかかへて、
「馬鹿が、ハッパの処へ来るんぢやないと云つてあるのに」
と云ひながら、尻を引ッぱたいた。
「とにかく医者に早く連れて行かなけや駄目だ。見ろよ、大ダイ一本も入れるから、俺が危いつて云つたぢやないか」
だが、怪我をした以上は何もかも後の祭であつた。
麗らかな珍らしい秋の一日を、それまで楽しんでゐた私も、同様な気持であつただらう太田も、一度に深い憂鬱と気づかひに捕はれて、医者のゐる上流へ急いだ。
「おぢさん、何でもないよ。俺歩いて行くよ。見つともないよ」
と云ふのであらう、未だ海峡を渡つて、内地へ来て一年にもならない、その六つになる子は太田に云つた。
太田は幼い従弟を道に下した。
そこで、私たちは始めて子供の傷口をよく見たのだつた。
傷口は眉の間の所謂急所であつた。少し右の方に寄つてゐるかと思はれた。見たところ大した傷ではなく、血も、もう止つてゐた。
子供も、もう尻を引つぱたかれないでいいのだと云ふことが分つたのと、傷も大して痛くないと見えて、ニコニコしながら、可愛いい朝鮮の言葉で、太田に何か話しかけてゐた。
その子は全く可愛いい顔をしてゐた。殊にその下ぶくれの頬と、澄み切つた瞳とが、可愛いい上に聡明な印象を与へてゐた。
私は言葉は分らなかつたが、その子や、その子の友達たちと遊んだものだつた。さう云ふ時、両親について来てもう長くなる子だの、内地に来てから生れた子だのが通訳してくれるのだつた。それによると、その万福と云ふ子は、見たところ以上に聡明であつた。
私は「朝鮮人」と云ふ言葉を使はないやうにしてゐた。無論「鮮人」とは云はなかつた。が、悲しいことには、工事場には、さう云ふ言葉が、言葉そのものは仕方がないとしても、軽蔑や侮蔑の意味を含めて使はれることがあつた。私が、若い頃マドロスとして、印度あたりまで行つた時、欧米人などに、どことなく差別的に見られたりして「こいつはいけない」と思つてから、私はヨーロッパ人だから優越してゐるとも思はない代りに、インド人でもアフリカ人でも、支那人でも、朝鮮人でも、私よりも劣つてゐるなどとは思はなくなつてゐた。
医者に行つて、手当を受けた結果、
「傷は幸に、極く軽くて、一週間もすれば全癒するだらう」
と云ふことであつた。太田も私も心からホッとして、帰りには、その子供に菓子を買つてやり、冗談を云つてカラカつたりしたのだつた。
その後帳場で太田に会ふ毎に、私は万福の傷の経過を聞いた。太田も忙しいので、毎日見舞つてはゐないが、「悪くなつた」と云ふ話を聞かないから、きつと、「良くなつてゐるのだらう」と云ふことだつた。
一週間目に、私は万福の住んでゐる飯場を訪問した。
そこは、私たちの借りてゐる農家から上流四五丁の、川原の砂つ原に建つてゐた。発電所と電車との二つの工事の労働者が集まつてゐて、この峡谷の底に五千人から七千人位の労働者と、その家族がゐたので、一つのバラック街を形造つてゐた。
それは東京の郊外にある細民街とよく似た部落を形造つてゐた。その一部落の川岸寄りの、二番目か三番目の、通りとは名づけられないが、とにかく人の通り抜けるために出来た細長い、狭い空地に向つて、万福たちの飯場の、蓙を卸した三尺幅の出入口が開かれてあつた。
丁度、昼食後の休みの時間を利用して、私は行つたので、食事に戻つた労働者や、その機会を利用しての友達などの往来で、バラック街は頬張つたやうに膨れかへつてゐた。
蓙を上げて私は飯場に首をつつ込んだ。
「今日は」
と云つて置いて、それから私は入つて行つた。外はやはりうららかないい日であつたが、飯場の中は真暗であつた。窓が無かつたからであつた。
「今日は」
と答へがあつて、誰かが、暗い中から動いた気配がして、私の立つてゐる川砂の土間の方へ立つて来た。そして、私の立つてゐる傍を通り抜けて、私の後ろに垂れ下つてゐる入口の蓙を上げた。
そこで漸く、飯場の中が明るくなつた。
飯場の内部は、土間と、二つの部屋から出来てゐた。入口の方を向つて、石油箱だの、ビール箱だの、ダイナマイトの箱だのが、上手に按配して積み上げられてゐた。その各々は衣類箪笥だの、食器棚だのの役目を果してゐるのだつた。
「まあ、おかけなして」
と、立つて来た万福の父が、腰をかがめて信州訛りで私に言つた。
「御無沙汰しちまつて。万福ちやんの怪我はどうですか」
「へえ、お世話になりました。怪我はもう癒りましたが、あれから、飯が食へなくなりましてなあ」
私は床の低い部屋の上り口の、蒲呉座の上に腰を下しながら、不吉な予感に脅えた。
入口を入るまでは、私は万福が快癒し、元気に遊んでゐる姿を見て、私自身も一緒に喜べるだらう、都合によつたら、感謝の辞まで「せしめる」ことが出来るかも知れない、きつとさうだ。と思ひ込んでゐたのだつた。
無意識ではあつたが、もし、私が自分の心の中にもつと頭を突つ込んで、蚤取り眼で詮索したならば、「僕は決して君たちを軽蔑しないよ。だから君たちは僕を尊敬しなければならんぢやないか」と云ふ風な商取引きのやうな心理がなかつた、とは云へないのだ。いや、こんな心が、きつと、どこかにあつたのだらう、と私は思ふ。もしあつたとすれば、それはもう、蝦で鯛を釣るやうなものではないか。とにかく人から感謝されると云ふことは決して悪い気持ではないのだ。ハッキリ云へば、いい気持なのだ。いい気持になるなと私は自分に云つて聞かせてゐる訳ではない。いい気持になれば、それに越したことはないのだ。だが、いい気持になると云ふことは今の世の中では、さうたんとあるものではないのだ。
私はいつものくせで、その薄暗い飯場の中で考へ込まうとしてゐた。
万福の父は、矢張り腰をかがめたまま、私の腰を下した上り口を、斜になつて上に上つた。そして、私の眼の前に、その左足を投げ出して坐つた。
「どう云ふもんでがすかなあ、先生は傷は癒つたが胃が悪くなつた、と云はれるんですがな。ひよつとすると、傷の方から来た胃病かも知れんが、それはまだハッキリは分らんと云ふんです。おでこに怪我をして胃が悪くなるちうことがあるもんでがすかなあ。御免なさい。足を投げ出したりしてゐて。これもをかしな話でしてな、堰堤の方で働いてゐる時に、上の方の切り取りから、小さな石ころが一つ落つこつて来ましてね、わしの背中に当つたんでがすよ。それから今ではもう半年になりますが、その半年の間に、頭が痛んだり、腰が痛んだり、石の当つたところが痛んだり、方々、痛い処が出きよつたですが、今になつて足がうまいこと曲らんやうになつたですわい。それでもう、わしは半年遊んで弟の世話になつて食つとるんですが、そこへまた万福が怪我をしたちう訳です。弟は何も云ひませんよ。反つてニコニコして、わしや万福に心配させんやうにしとりますが、何しろあんた、弟とわしの家内とを合せると、十人の大世帯です。弟の稼ぎと、わしの傷害扶助の六十銭とぢやあ、どうしようもありません。だからわしは組に行つて、何とかしてくれと云ふんですが、組ぢやさつぱり受けつけませんのでな。弱つて居りますんぢや」
私は、ポケットからバットを出して火をつけ、万福の父の前にその箱を差し出した。
「どうぞ。それから万福ちやんは?」
「ここに寝て居ります。先生にはわしが背負つて行くんですが、おとなしい子でしてなあ、痛いとも辛いとも云ひませんよ。ただ、黙つて寝とつてくれますんぢや。が、何にも食つてくれんので心配でならんのですが」
さう云つて、投げ出した足を曳きずるやうにして、体をずらした。
万福は入口の右側の板壁に添つて、横になつてゐるやうだつた。
私は上つて万福の顔を見ようか、どうしようかと迷つた。傷口を見る。それは傷口は癒着してゐるかも知れない。「御飯を食べなけれやいけないね」と子供に向つて云ふことも出来る。「早く快くならうねえ」と云ふことも出来る。さう云つた方が、全つ切り黙つて出て行くよりも、慰さめにはなるだらうし、私の立場としても、余り不自然ではない。だが、私は医者でもないし、看護手でもないし、救護班でもなかつたし、慰問係でもなかつた。ただの土方兼帳付けであつて、外の何者でもなかつた。云はば、省線の踏み切りにある自動ベル見たいな機能しか持たないものだつた。だから私は、私の持つてゐる極めて稀薄な人間的要素をも持て余してゐた。
もし、人が、誰だつて構はないが、同情、博愛、共存共栄、社会主義と云ふ風な美徳を帯びて、その上、その美徳を単なる装飾の範囲から、実行の域にまで移したいと云ふ熱意に燃えてやつて来るならば、工事場には来ない方がいい。どこにも行かない方がいい、とは、私は思はないが、少なくとも工事場に来ても、法がつかないと云ふ事を発見するのが落ちであらう。
万福は殆んど、その中に人間――尤も子供ではあるが――が寝てゐるなどと思はれないやうに、一隅に寝てゐた。
私は、困つたことには、自動ベルであるべき筈なのに、感情を動かしてゐた。
地下足袋を脱いで、私は飯場の蒲呉座の上に膝で上り、万福の枕頭ににじり寄つて見た。
万福は眼を開けてゐて、さし寄せた私の顔を見てゐた。その眼は、迷ひ込んで来た小鳥の眼のやうに、元通り無邪気であつたが、何かにとまどひしてゐる風な表情があつた。
が、その下ぶくれの可愛いい頬は、まるで病監にゐる囚人のやうに、痩せこけてしまつてゐた。六つの子供とは思はれないやうに、頬骨も顎の骨も、露骨に突き出てゐた。
まだ六つの子供である、と云ふことを私は知り抜いてゐたが、眼の前にゐるこの子供の顔は、どうしても「子供の顔」とは思へなかつた。萎びてトゲトゲしてゐて、垢染みて、老人の、それも死に近い病人の顔に似てゐた。
――人間の顔と云ふものは、発育する途中では、旺盛な生命力を、目盛り見たいに表情の中に持つて居り、衰弱する場合には、死期までの目盛りを、その表情に持つてゐるものではあるまいか――
と、フト、万福の顔を見てゐるうちに、私は考へた。
私は万福の頭を、その為に殺したりなんかしては大変だと案じながら、静かに、静かに撫でた。
その軟かい頭髪は、埃にまみれてゐて、私の労働に荒れた掌の、筋目の中に食ひ込むやうに感じられた。
私はその時、悲しいとか、哀れだとか、気の毒だとか云ふ感じよりも、「困つた」と云ふ気持の方が多かつた。途方に暮れると云つた方が確かだつたであらう。
万福は今、私がどのやうにして見たところで、私には手がつけられない状態にあつた。万福の父も同様だつた。それ等を養つてゐる安東にも、私は手を貸すことが出来なかつたし、私自身さへも、その時、私の家族――子供たちから「帰らうよ、帰らうよ」と、せがまれてゐた。
私にはどこに「帰る」家があり、故郷があらう! 子供たちは自分の生れた処、又は、ここに来る以前の土地が故郷であつた。だが、その土地を喰み出された私たちではなかつたのか。
万福も、きつと、労働不能に陥つたその父に、「帰らうよ、帰らうよ」と云つてせがんだのではあるまいか。その母に、泣いて訴へたことがあつたのではあるまいか。
もし、万福がその父母に泣いて「帰らうよ」とせがまなかつたとしたら、どうだらう。そんな小さな子供にまで、「帰るところが無い」と、思ひ込ませるやうな日常の境涯に、この家族たちは置かれてゐたのだ。
私は放心したやうな状態で、豆とヒビだらけの掌で、無意識に、万福の頭を撫でてゐた。そろつと、そろつと。
そして私の出来ることは、ただ、それつ切りであつた。
私は、どの位の間、さう云ふ放心状態にあつたか、とにかく、万福の父は、私がフト気がつくと、私に話しかけてゐるのであつた。もう随分、長く、いろいろと話してゐるのだと見えて、話のつながりが分らなかつた。よしんば話のつながりが分つたところで、私にはどうすることも出来なかつた。
大体、私がフラフラの万福の容態を見舞ひに来たのは、万福の負傷や、その経過についての心づかひからだけではなかつたやうだつた。
私自身に力をつけるためもあつたやうだ。と云ふのは、人は貧困や、負傷やのドタン場に陥ると、死に近づいてゐることのために、かへつて生命の方に向つて、あらゆる努力で手をさし延ばすからであつた。
負傷者自身が、もう生命への気力が萎えてしまふと、今度は、側の者が、その人間になり代つても、何とか出来ないかと、夢中になるのであつた。それは理屈ではなかつた。同情や憐愍と云ふ言葉にも嵌り切らない、何か本能的のものであつた。
ジワジワと習慣的に貧困に慣れ、習慣的に栄養不良や、栄養不足から、生命を離れて、始終眠くて堪らないと云つた風な状態で、死の方に近づいて行く人々にとつても、他の人の臨終を見ると云ふことは、その眠む気に似たものを一瞬吹き飛ばし、燃えるやうな生命の力を電光のやうに感じさせる刹那なのであつた。
私はハッキリさう意識して、万福を訪問したのではなかつた。そんな功利的な気持ではなかつたが、……詮索すれば、人間の美しいとされてゐる行為にも、裏があるのだつた。
万福のトゲトゲした衰へた顔を、眼の焦点を合はせる訳でもなく見守つてゐた私は、生命と云ふものを考へた。
万福の生命は、万福と共にあるのだ。
「たうとう万福が死んだ」
と、太田が私に告げに来た。
私は松丸太の枕木の上に腰を下して、スパイクを抜いてゐた。太田は私と並んで腰を下して、投げ出すやうに云つた。
「可哀相なことをしたねえ。可愛いい子だつたが」
と、私は金棒(スパイク抜きの)を、足下に転がして、
「ぢやあ、とにかく、行かう」
「直ぐに行つてくれるかね」
「今からね。何にも尽すことは出来ないかもしれないが」
万福の飯場に行つて見ると、色紙をどこからか買つて来て、それを切り抜いてゐた。
万福の父や母の姿は見えないで、知らない近隣の人々であつた。
万福の、幼くして逝つたむくろは、いつか私が訪ねた時と同様に、布団の下に長くなつてゐた。
私は型の如く線香を立て、合掌して、黙つて飯場を出た。その日もやはり天気がよく、薄暗い飯場から出た私は眩しかつた。
陽は暖かく背中を照りつけた。
「どうする?」
と一緒に出て来た太田が云つた。
その意味が、私には分らなかつた。「どうする?」どうすることが出来るであらう。可哀相な万福は死んでしまつたのだ。どうして見たところで取りかへしはつかないのだつた。これからすることは、すべて生き残つた人たちの、死者に尽す礼だけなのだ。
「どうするつて、お葬式をしなければならないだらう」
「それはさうだ。が……」
と、私と向き合つて立つた太田は、地下足袋の先きで、川砂から砂利を掘り起こしたり、ひつくりかへしたりして、それを瞠めながら何か考へてゐた。
「万福のお父さんはどこへ行つたんだらうね」と、私は訊いた。
「医者に診断書をとりに行つたんだ」
とにかく、死人の父の意嚮に従つて葬式を出さねばならなかつたので、医者の待合室に待つてゐるだらう万福の父に相談して、それから川向ひの製材所に行つて、棺桶の板を持つて来よう、と云ふことにして、私たちは歩き出した。
飯場街で飼つてゐる豚だの、山羊だの、鶏だのは、平和に鳴いてゐた。
夏の大洪水で流された飯場の跡は、綺麗な砂浜になつてゐた。そこでは豚の児を引つ張り出して、万福位の、未だ学校に上らない年輩の子供たちが、その耳を掴んで、丸つこい背に乗つて遊んでゐた。豚の児が水溜りに入ると、子供たちは足を上げて水に濡らさないやうにしたり、水溜りから追ひ出すために、外の子たちが竹の棒でつつついたりしてゐた。
外の一群は山羊の仔と角力をとつてゐた。
山羊の仔は迷惑がつて、逃げようとするのだが、周りに一杯子供たちがゐるので、逃げることも出来ないで、のび上るやうに首を上げて、メーと鳴いたりするのだつた。
その砂浜は、幾度飯場を建てても、洪水の時に必ず流されて終ふので、今では、誰も諦めてしまつて、子供たちの運動場になつてゐた。
私たちは、そこを通りかかつた時、云ひ合はしたやうに、足を止めて、その戯れに眺め入つた。
子供たちの中には、太田を見付けて、
「おぢさん」と駆けて来て、半天の裾にブラ下るものもあつた。
太田は、子供にブラ下られると、その頭を撫でてやつた。そして、馬が蠅を追つぱらふ時のやうに首を振つた。
私もそのやうに首を振りたかつた。もし、万福の死の事が、そのために忘れられるのだつたら。
私たち二人は、そのことについて、一言も云ひはしなかつたが、万福の死について、申し訳が無い、と云ふことを、心の中に深く蔵ひ込んでゐた。それが直接の原因であらうと、全く関係がなからうと、とにかく、ハッパの石に当つて怪我をしたのだ。その後一月ばかりで「飯が食へなくなつて」死んだのであつた。
陽は汗ばむほど暖かかつた。
山羊と角力をとつてゐる子などは、汗をかいて、汚れた手で拭くので、真つ黒になつてゐるものもゐた。
いつまでも子等の遊びに見とれてゐる訳にも行かないので、川原から断崖の下の道に上つて、私達は上流に向つた。
飯場街と飯場街を繋ぐところに、やはりバラックの商店街があつた。
そこは停留場の真下三百尺位の、石崖の下で、発電所に近かつた。
そこで、私たちは太田の父に会つた。
太田の父は、何か憤つたやうな声で、太田に話しかけた。
私は一歩避けて、二人の話のすむのを待つてゐた。が、二人の話はなかなかすまないばかりでなく、まるで親子喧嘩でもしてゐるやうな声高になつて、その揚句には、私に構はず、二人でドンドン上流へ行くのだつた。
私は二人の後からついて急いで歩いた。
そこから直ぐ医者の家であつた。
道より一段低く、その玄関があつた。
待合室は患者でゴッタがへしてゐた。大抵は負傷者であつた。婦人科が専門のこの医師は工事場について歩いて、殆んど外科を専門にしてゐた。
太田は玄関に地下足袋を脱ぐ時、私に気がついたと見えて、
「この藪医者は怪しからんです。うちの親爺には、死亡の原因が負傷にあると云つたんださうだが、おぢ(万福の父)には胃が悪いと云つたんだ。それで、今まで、医者の前で、親爺とおぢと医者と三人で、喧嘩をしてゐたと云ふんです。あんたも立ち会つて話を聞いて下さい」
さう云つて、太田父子は、待合室を通り抜け、病室の廊下を通り抜けて、川を見晴らしてゐる医者の家の居間に入つて行つた。
その居間には、丸木の大きな火鉢があつて、川を背にして、医者とその養子と、こつち側に万福の父と、安東とが坐つてゐた。
なか/\話は片づかなかつた。
何故かと云へば、医師の診断は、死因が胃腸病にあつて、負傷にはなかつたが、その医師の留守に、養子の医学士が診断した時には負傷が原因で神経系統を害した、と明言したのであつた。
前者の診断は患者に都合が悪くて、会社や組には都合が良かつた。後者の診断はその逆であつた。
私は悲しい一つの死を繞つて、二つの立場があることを教へられた。
(昭和十三年一月)
高瀬舟
森鴎外
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた。默許であつた。
當時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盜みをするために、人を殺し火を放つたと云ふやうな、獰惡な人物が多數を占めてゐたわけではない。高瀬舟に乘る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬ科を犯した人であつた。有り觸れた例をあげて見れば、當時相對死と云つた情死を謀つて、相手の女を殺して、自分だけ活き殘つた男と云ふやうな類である。
さう云ふ罪人を載せて、入相の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を兩岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。此舟の中で、罪人と其親類の者とは夜どほし身の上を語り合ふ。いつもいつも悔やんでも還らぬ繰言である。護送の役をする同心は、傍でそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族の悲慘な境遇を細かに知ることが出來た。所詮町奉行所の白洲で、表向の口供を聞いたり、役所の机の上で、口書を讀んだりする役人の夢にも窺ふことの出來ぬ境遇である。
同心を勤める人にも、種々の性質があるから、此時只うるさいと思つて、耳を掩ひたく思ふ冷淡な同心があるかと思へば、又しみじみと人の哀を身に引き受けて、役柄ゆゑ氣色には見せぬながら、無言の中に私かに胸を痛める同心もあつた。場合によつて非常に悲慘な境遇に陷つた罪人と其親類とを、特に心弱い、涙脆い同心が宰領して行くことになると、其同心は不覺の涙を禁じ得ぬのであつた。 そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で、不快な職務として嫌はれてゐた。
*
いつの頃であつたか。多分江戸で白河樂翁侯が政柄を執つてゐた寛政の頃ででもあつただらう。智恩院の櫻が入相の鐘に散る春の夕に、これまで類のない、珍らしい罪人が高瀬舟に載せられた。
それは名を喜助と云つて、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。固より牢屋敷に呼び出されるやうな親類はないので、舟にも只一人で乘つた。
護送を命ぜられて、一しよに舟に乘り込んだ同心羽田庄兵衞は、只喜助を弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた。さて牢屋敷から棧橋まで連れて來る間、この痩肉の、色の蒼白い喜助の樣子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬つて、何事につけても逆はぬやうにしてゐる。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるやうな、温順を裝つて權勢に媚びる態度ではない。
庄兵衞は不思議に思つた。そして舟に乘つてからも、單に役目の表で見張つてゐるばかりでなく、絶えず喜助の擧動に、細かい注意をしてゐた。
其日は暮方から風が歇んで、空一面を蔽つた薄い雲が、月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る夏の温さが、兩岸の土からも、川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、只舳に割かれる水のささやきを聞くのみである。
夜舟で寢ることは、罪人にも許されてゐるのに、喜助は横にならうともせず、雲の濃淡に從つて、光の増したり減じたりする月を仰いで、默つてゐる。其額は晴やかで目には微かなかがやきがある。
庄兵衞はまともには見てゐぬが、始終喜助の顏から目を離さずにゐる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返してゐる。それは喜助の顏が縱から見ても、横から見ても、いかにも樂しさうで、若し役人に對する氣兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。
庄兵衞は心の内に思つた。これまで此高瀬舟の宰領をしたことは幾度だか知れない。しかし載せて行く罪人は、いつも殆ど同じやうに、目も當てられぬ氣の毒な樣子をしてゐた。それに此男はどうしたのだらう。遊山船にでも乘つたやうな顏をしてゐる。罪は弟を殺したのださうだが、よしや其弟が惡い奴で、それをどんな行掛りになつて殺したにせよ、人の情として好い心持はせぬ筈である。この色の蒼い痩男が、その人の情と云ふものが全く缺けてゐる程の、世にも稀な惡人であらうか。どうもさうは思はれない。ひよつと氣でも狂つてゐるのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つ辻褄の合はぬ言語や擧動がない。此男はどうしたのだらう。庄兵衞がためには喜助の態度が考へれば考へる程わからなくなるのである。
*
暫くして、庄兵衞はこらへ切れなくなつて呼び掛けた。「喜助。お前何を思つてゐるのか」
「はい」と云つてあたりを見廻した喜助は、何事をかお役人に見咎められたのではないかと氣遣ふらしく、居ずまひを直して庄兵衞の氣色を伺つた。
庄兵衞は自分が突然問を發した動機を明して、役目を離れた應對を求める分疏をしなくてはならぬやうに感じた。そこでかう云つた。「いや。別にわけがあつて聞いたのではない。實はな、己は先刻からお前の島へ往く心持が聞いて見たかつたのだ。己はこれまで此舟で大勢の人を島へ送つた。それは隨分いろいろな身の上の人だつたが、どれもどれも島へ往くのを悲しがつて、見送りに來て、一しよに舟に乘る親類のものと、夜どほし泣くに極まつてゐた。それにお前の樣子を見れば、どうも島へ往くのを苦にしてはゐないやうだ。一體お前はどう思つてゐるのだい。」
喜助はにつこり笑つた。「御親切に仰やつて下すつて、難有うございます。なる程島へ往くと云ふことは、外の人には悲しい事でございませう。其心持はわたくしにも思ひ遣つて見ることが出來ます。しかしそれは世間で樂をしてゐた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして參つたやうな苦みは、どこへ參つてもなからうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へ遣つて下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の住む所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云つて自分のゐて好い所と云ふものがございませんでした。こん度お上で島にゐろとおつしやつて下さいます。そのゐろとおつしやる所に落ち著いてゐることが出來ますのが、先づ何よりも難有い事でございます。それにわたくしはこんなにかよわい體ではございますが、ついぞ病氣をいたしたことがございませんから、島へ往つてから、どんなつらい爲事をしたつて、體を痛めるやうなことはあるまいと存じます。それからこん度島へお遣下さるにつきまして、二百文の鳥目を戴きました。それをここに持つてをります」かう云ひ掛けて、喜助は胸に手を當てた。遠島を仰せ附けられるものには、鳥目二百銅を遣すと云ふのは、當時の掟であつた。
喜助は語を續いだ。「お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文と云ふお足を、かうして懷に入れて持つてゐたことはございませぬ。どこかで爲事に取り附きたいと思つて、爲事を尋ねて歩きまして、それが見附かり次第、骨を惜まずに働きました。そして貰つた錢は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買つて食べられる時は、わたくしの工面の好い時で、大抵は借りたものを返して、又跡を借りたのでございます。それがお牢に這入つてからは、爲事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に對して濟まない事をいたしてゐるやうでなりませぬ。それにお牢を出る時に、此二百文を戴きましたのでございます。かうして相變らずお上の物を食べてゐて見ますれば、此二百文はわたくしが使はずに持つてゐることが出來ます。お足を自分の物にして持つてゐると云ふことは、わたくしに取つては、これが始でございます。島へ往つて見ますまでは、どんな爲事が出來るかわかりませんが、わたくしは此二百文を島でする爲事の本手にしようと樂しんでをります。」かういつて、喜助は口を噤んだ。
庄兵衞は「うん、さうかい」とは云つたが、聞く事ごとに餘り意表に出たので、これも暫く何も云ふことが出來ずに、考へ込んで默つてゐた。
庄兵衞は彼此初老に手の屆く年になつてゐて、もう女房に子供を四人生ませてゐる。それに老母が生きてゐるので、家は七人暮しである。平生人には吝嗇と云はれる程の、儉約な生活をしてゐて、衣類は自分が役目のために著るものの外、寢卷しか拵へぬ位にしてゐる。しかし不幸な事には、妻を好い身代の商人の家から迎へた。そこで女房は夫の貰ふ扶持米で暮しを立てて行かうとする善意はあるが、裕な家に可哀がられて育つた癖があるので、夫が滿足する程手元を引き締めて暮して行くことが出來ない。動もすれば月末になつて勘定が足りなくなる。すると女房が内證で里から金を持つて來て帳尻を合はせる。それは夫が借財と云ふものを毛蟲のやうに嫌ふからである。さう云ふ事は所詮夫に知れずにはゐない。庄兵衞は五節句だと云つては、里方から物を貰ひ、子供の七五三の祝だと云つては、里方から子供に衣類を貰ふのでさへ、心苦しく思つてゐるのだから、暮しの穴を填めて貰つたのに氣が附いては、好い顏はしない。格別平和を破るやうな事のない羽田の家に、折々波風の起るのは、是が原因である。
庄兵衞は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べて見た。喜助は爲事をして給料を取つても、右から左へ人手に渡して亡くしてしまふと云つた。いかにも哀な、氣の毒な境界である。しかし一轉して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果たしてどれ程の差があるか。自分も上から貰ふ扶持米を、右から左へ人手に渡して暮してゐるに過ぎぬではないか。彼と我との相違は、謂はば十露盤の桁が違つてゐるだけで、喜助の難有がる二百文に相當する貯蓄だに、こつちはないのである。
さて桁を違へて考へてみれば、鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでゐるのに無理はない。其心持はこつちから察して遣ることが出來る。しかしいかに桁を違へて考へてみても、不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知つてゐることである。
喜助は世間で爲事を見附けるのに苦んだ。それを見附けさへすれば、骨を惜まずに働いて、やうやう口を糊することの出來るだけで滿足した。そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ滿足を覺えたのである。
庄兵衞はいかに桁を違へて考へて見ても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知つた。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折々足らぬことがあるにしても、大抵出納が合つてゐる。手一ぱいの生活である。然るにそこに滿足を覺えたことは殆ど無い。常は幸とも不幸とも感ぜずに過してゐる。しかし心の奧には、かうして暮してゐて、ふいとお役が御免になつたらどうしよう、大病にでもなつたらどうしようと云ふ疑懼が潛んでゐて、折々妻が里方から金を取り出して來て穴填をしたことなどがわかると、此疑懼が意識の閾の上に頭を擡げて來るのである。
一體此懸隔はどうして生じて來るだらう。只上邊だけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こつちにはあるからだと云つてしまへばそれまでである。しかしそれは※(うそ)である。よしや自分が一人者であつたとしても、どうも喜助のやうな心持にはなられさうにない。此根柢はもつと深い處にあるやうだと、庄兵衞は思つた。
庄兵衞は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衞は氣が附いた。
庄兵衞は今さらのやうに驚異の目を※(みは)つて喜助を見た。此時庄兵衞は空を仰いでゐる喜助の頭から毫光がさすやうに思つた。
*
庄兵衞は喜助の顏をまもりつつ又、「喜助さん」と呼び掛けた。今度は「さん」と言つたが、これは十分の意識を以て稱呼を改めたわけではない。其聲が我口から出て我耳に入るや否や、庄兵衞は此稱呼の不穩當なのに氣が附いたが、今さら既に出た詞を取り返すことも出來なかつた。
「はい」と答へた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思ふらしく、おそるおそる庄兵衞の氣色を覗つた。庄兵衞は少し間の惡いのをこらへて言つた。「色々の事を聞くやうだが、お前が今度島へ遣られるのは、人をあやめたからだと云ふ事だ。己に序でにそのわけを話して聞せてくれぬか」
喜助はひどく恐れ入つた樣子で、「かしこまりました」と云つて、小聲で話し出した。「どうも飛んだ心得違で、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げやうがございませぬ。跡で思つて見ますと、どうしてあんな事が出來たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫で亡くなりまして、弟と二人跡に殘りました。初は丁度軒下に生れた狗の子にふびんを掛けるやうに町内の人達がお惠下さいますので、近所中の走使などをいたして、飢ゑ凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を搜しますにも、なるたけ二人が離れないやうにいたして、いつしよにゐて、助け合つて働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の堀立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない濟まないと申してをりました。或る日、いつものやうに何心なく歸つて見ますと、弟は蒲團の上に突つ伏してゐまして、周圍は血だらけなのでございます。わたくしはびつくりいたして、手に持つてゐた竹の皮包や何かを、そこへおつぽり出して、傍へ行つて『どうしたどうした』と申しました。すると弟は眞つ蒼な顏の、兩方の頬から腮へかけて血に染まつたのを擧げて、わたくしを見ましたが、物を言ふことが出來ませぬ。息をいたす度に、創口でひゆうひゆうと云ふ音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも樣子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と言つて、傍へ寄らうといたすと、弟は右の手を床に衝いて、少し體を起こしました。左の手はしつかり腮の下の所を押へてゐますが、其指の間から黒血の固まりがはみ出してゐます。弟は目でわたくしの傍へ寄るのを留めるやうにして口を利きました。やうやう物が言へるやうになつたのでございます。『濟まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなほりさうにもない病氣だから、早く死んで少しでも兄きに樂がさせたいと思つたのだ。笛を切つたら、すぐ死ねるだらうと思つたが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思つて、力一ぱい押し込むと、横へすべつてしまつた。刃は飜れはしなかつたやうだ。これを旨く拔いてくれたら己れは死ねるだらうと思つてゐる。物を言ふのがせつなくつて可けない。どうぞ手を借して拔いてくれ』と云ふのでございます。弟が左の手を弛めるとそこから又息が漏ります。わたくしはなんと云はうにも、聲が出ませんので、默つて弟の喉の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、横に笛を切つたが、それでは死にきれなかつたので、其侭剃刀を、刳るやうに深く突つ込んだものと見えます。柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云ふ思案も附かずに、弟の顏を見ました。弟はぢつとわたくしを見詰めてゐます。わたくしはやつとの事で、『待つてゐてくれ、お醫者を呼んで來るから』と申しました。弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、『醫者がなんになる、あゝ苦しい、早く拔いてくれ、頼む』と云ふのでございます。わたくしは途方に暮れたやうな心持になつて、只弟の顏ばかり見てをります。こんな時は、不思議なもので、目が物を言ひます。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と云つて、さも怨めしさうにわたくしを見てゐます。わたくしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐるぐる廻つてゐるやうでございましたが、弟の目は恐ろしい催促を罷めません。それに其目の怨めしさうなのが段々險しくなつて來て、たうたう敵の顏をでも睨むむやうな、憎々しい目になつてしまひます。それを見てゐて、わたくしはとうとう、これは弟の言つた通にして遣らなくてはならないと思ひました。わたくしは『しかたがない、拔いて遣るぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと變つて、晴やかに、さも嬉しさうになりました。わたくしはなんでも一と思ひにしなくてはと思つて膝を撞くやうにして體を前へ乘り出しました。弟は衝いてゐた右の手を放して、今まで喉を押へてゐた手の肘を床に衝いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて來ました。留守の間、弟に藥を飲ませたり何かしてくれるやうに、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もう大ぶ内の中が暗くなつてゐましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、ばばさんはあつと云つたきり、表口をあけ放しにして置いて驅け出してしまひました。わたくしは剃刀を拔く時、手早く拔かう、眞直に拔かうと云ふだけの用心はいたしましたが、どうも拔いた時の手應は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。刃が外の方へ向ひてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。わたくしは剃刀を握つた侭、婆あさんの這入つて來て又驅け出して行つたのを、ぼんやりして見てをりました。婆あさんが行つてしまつてから、氣が附いて弟を見ますと、弟はもう息が切れてをりました。創口からは大そうな血が出てをりました。それから年寄衆がお出になつて、役場へ連れて行かれますまで、わたくしは剃刀を傍に置いて、目を半分あいた侭死んでゐる弟の顏を見詰めゐたのでございます。」少し俯向き加減になつて庄兵衞の顏を下から見上げて話してゐた喜助は、かう云つてしまつて視線を膝の上に落した。喜助の話は好く條理が立つてゐる。殆ど條理が立ち過ぎてゐると云つても好い位である。これは半年程の間、當時の事を幾度も思ひ浮べてみたのと、役場で問はれ、町奉行所で調べられる其度毎に、注意に注意を加へて浚つて見させられたのとのためである。
庄兵衞はその場の樣子を目のあたり見るやうな思ひをして聞いてゐたが、これが果たして弟殺しと云ふものだらうか、人殺しと云ふものだらうかと云ふ疑が、話を半分聞いた時から起つて來て、聞いてしまつても、その疑を解くことが出來なかつた。弟は剃刀を拔いてくれたら死なれるだらうから、拔いてくれと云つた。それを拔いて遣つて死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。しかし其侭にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに耐へなかつたからである。喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。
庄兵衞の心なうちには、いろいろに考へてみた末に、自分より上のものの判斷に任す外ないと云ふ念、オオトリテエに從ふ外ないと云ふ念が生じた。庄兵衞はお奉行樣の判斷を、其侭自分の判斷にしようと思つたのである。さうは思つても、庄兵衞はまだどこやらに腑に落ちぬものが殘つてゐるので、なんだかお奉行樣に聞いてみたくてならなかつた。
次第に更けて行く朧夜に、沈默の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべつて行つた。
◆本文中で使われている外字
曲※(きょくろく)に

絹(きぬ)※子(ハンケチ)

それは※(うそ)である。

目を※(みは)つて

◆電子テキスト化スタッフ等一覧
●大川の水
底本:角川書店刊 角川文庫『羅生門・鼻・芋粥』
1950(昭和25)年10月20日初版発行
1985(昭和60)年11月10日改版38版発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
●鯉魚
底本:「ちくま日本文学全集 岡本かの子」筑摩書房
1992(平成4)年2月20日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
入力:ゆいみ
校正:岩田とも子
●船
底本:「旧主人・芽生」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年2月15日 発行
1970(昭和45)年2月15日 2刷
入力:紅 邪鬼
校正:しず
●身投げ救助業
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:菅野朋子
●むらさき鯉
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(四)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年8月20日初版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:おのしげひこ
●泥濘
底本:旺文社文庫『檸檬・ある心の風景』
1972(昭和47)年12月10日初版発行
1974(昭和49)年第4刷
入力:j.utiyama
校正:野口英司
●万福追想
底本:「筑摩現代文学大系36 葉山嘉樹集」筑摩書房
1979(昭和54)年2月25日 初版第一刷発行
入力:大野裕
校正:高橋真也
●高瀬舟
底本:講談社「日本現代文学全集・森鴎外集」および岩波書店「鴎外全集」
入力:青空文庫
青空文庫作成ファイル:
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