●青空文庫アンソロジー-9

食の情景


「食」は生きることにつきものである。
小説や随筆の世界でも「食」はふんだんに描かれている。
楽しげな食、淋しい食、つましい食……
いくつかの「食」の情景を集めてみた。

●目次
永日小品(抄) 夏目漱石
氷雨 葉山嘉樹
姪子(めいご) 伊藤左千夫
晩餐 素木しづ
饗応夫人 太宰治
魚河岸 芥川龍之介

永日小品(抄)

夏目漱石




     元日

 雑煮(ぞうに)を食って、書斎に引き取ると、しばらくして三四人来た。いずれも若い男である。そのうちの一人がフロックを着ている。着なれないせいか、メルトンに対して妙に遠慮する傾(かたむ)きがある。あとのものは皆和服で、かつ不断着(ふだんぎ)のままだからとんと正月らしくない。この連中がフロックを眺めて、やあ――やあと一ツずつ云った。みんな驚いた証拠(しょうこ)である。自分も一番あとで、やあと云った。
 フロックは白い手巾(ハンケチ)を出して、用もない顔を拭(ふ)いた。そうして、しきりに屠蘇(とそ)を飲んだ。ほかの連中も大いに膳(ぜん)のものを突(つッ)ついている。ところへ虚子(きょし)が車で来た。これは黒い羽織に黒い紋付(もんつき)を着て、極(きわ)めて旧式にきまっている。あなたは黒紋付を持っていますが、やはり能(のう)をやるからその必要があるんでしょうと聞いたら、虚子が、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡(うた)いませんかと云い出した。自分は謡ってもようござんすと応じた。
 それから二人して東北(とうぼく)と云うものを謡った。よほど以前に習っただけで、ほとんど復習と云う事をやらないから、ところどころはなはだ曖昧(あいまい)である。その上、我ながら覚束(おぼつか)ない声が出た。ようやく謡ってしまうと、聞いていた若い連中が、申し合せたように自分をまずいと云い出した。中にもフロックは、あなたの声はひょろひょろしていると云った。この連中は元来謡(うたい)のうの字も心得ないもの共である。だから虚子と自分の優劣はとても分らないだろうと思っていた。しかし、批評をされて見ると、素人(しろうと)でも理の当然なところだからやむをえない。馬鹿を云えという勇気も出なかった。
 すると虚子が近来鼓(つづみ)を習っているという話しを始めた。謡のうの字も知らない連中が、一つ打って御覧なさい、是非御聞かせなさいと所望(しょもう)している。虚子は自分に、じゃ、あなた謡って下さいと依頼した。これは囃(はやし)の何物たるを知らない自分にとっては、迷惑でもあったが、また斬新(ざんしん)という興味もあった。謡いましょうと引き受けた。虚子は車夫を走らして鼓を取り寄せた。鼓がくると、台所から七輪(しちりん)を持って来さして、かんかんいう炭火の上で鼓の皮を焙(あぶ)り始めた。みんな驚いて見ている。自分もこの猛烈な焙りかたには驚いた。大丈夫ですかと尋ねたら、ええ大丈夫ですと答えながら、指の先で張切った皮の上をかんと弾(はじ)いた。ちょっと好い音(ね)がした。もういいでしょうと、七輪からおろして、鼓の緒(お)を締(し)めにかかった。紋服(もんぷく)の男が、赤い緒をいじくっているところが何となく品(ひん)が好い。今度はみんな感心して見ている。
 虚子はやがて羽織を脱いだ。そうして鼓を抱(か)い込(こ)んだ。自分は少し待ってくれと頼んだ。第一彼がどこいらで鼓を打つか見当(けんとう)がつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子は、ここで掛声(かけごえ)をいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと懇(ねんごろ)に説明してくれた。自分にはとても呑(の)み込(こ)めない。けれども合点(がてん)の行くまで研究していれば、二三時間はかかる。やむをえず、好い加減に領承(りょうしょう)した。そこで羽衣(はごろも)の曲(くせ)を謡い出した。春霞(はるがすみ)たなびきにけりと半行ほど来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。はなはだ無勢力である。けれども途中から急に振るい出しては、総体の調子が崩(くず)れるから、萎靡因循(いいんじゅん)のまま、少し押して行くと、虚子がやにわに大きな掛声をかけて、鼓(つづみ)をかんと一つ打った。
 自分は虚子がこう猛烈に来ようとは夢にも予期していなかった。元来が優美な悠長(ゆうちょう)なものとばかり考えていた掛声は、まるで真剣勝負のそれのように自分の鼓膜(こまく)を動かした。自分の謡(うたい)はこの掛声で二三度波を打った。それがようやく静まりかけた時に、虚子がまた腹いっぱいに横合から威嚇(おどか)した。自分の声は威嚇されるたびによろよろする。そうして小さくなる。しばらくすると聞いているものがくすくす笑い出した。自分も内心から馬鹿馬鹿しくなった。その時フロックが真先に立って、どっと吹き出した。自分も調子につれて、いっしょに吹き出した。
 それからさんざんな批評を受けた。中にもフロックのはもっとも皮肉であった。虚子は微笑しながら、仕方なしに自分の鼓(つづみ)に、自分の謡を合せて、めでたく謡(うた)い納(おさ)めた。やがて、まだ廻らなければならない所があると云って車に乗って帰って行った。あとからまたいろいろ若いものに冷かされた。細君までいっしょになって夫を貶(くさ)した末、高浜さんが鼓を御打ちなさる時、襦袢(じゅばん)の袖(そで)がぴらぴら見えたが、大変好い色だったと賞(ほ)めている。フロックはたちまち賛成した。自分は虚子の襦袢の袖の色も、袖の色のぴらぴらするところもけっして好いとは思わない。

氷雨

葉山嘉樹




    一

 暗くなつて来た。十間許り下流で釣つてゐる男の子の姿も、夕暗に輪廓がぼやけて来た。女の子は堤の上で遊んでゐたが、さつき、
「お父さん、雨が降つて来たよ」
 と、私に知らせに来た。
「どこかで雨を避けておいで」
 と返事をしたまま、私は魚を釣り続けてゐたのだが、堤には小さな胡桃の木以外には生えてゐなかつた。それも秋も深んだ今では、すつかり葉を落してしまつて、裸で立つてゐるのだつた。
 兄の方が、釣り竿を堤防の石垣の穴にさし込んどいて、
「かうして屋根を葺くんだよ」
 と云つて、堤の上に乾してあつた乾草を胡桃の枝に渡して、屋根を葺いてやつた。
 多分この乾草は、軍に献納した馬糧の残りであらう。その一ヶ月前位に、農民たちは腹までも川の水に浸つて、三角洲に生えた丈の長い草を苅りに、川を渡つて行つたのを私は見てゐたから。
 いつもなら、子供たちは、「もう帰らうよ、暗くなつたぢやないか」だとか、「お父さんは未だお腹が空かないの」とか云つて帰りをせき立てるのだが、今日は「帰らう」とは云はなかつた。
 高原の秋は寒かつた。日は暮れ、雨さへも降り出したので、寒さは又増した。子供たちの心の中にも心細さが増したであらう、と云ふことも私には分つてゐた。
 私は尺に近い赤魚を、サンザン苦労して引つ張り上げ、魚籠(ビク)に入れる直前に落した。
 私の心の中は「心細さ」と云ふやうな感じはなかつた。そんな風に一色では片附けられる感情ではなかつた。魚を落すのも、私の心が一と所に落ちついてゐないからだつた。
 このやうな夕暮が、私たちの上に襲ひかかるであらう、と云ふことは、昨日や一昨日から予感してゐた事ではなかつた。もつともつと永い前から分つてゐた事であつた。だが、それに対応する策を個人的に取る事が出来ると云ふやうな事柄ではなかつた。
 私は頭の中に湧き起つて来る、様々の懸念や妄想を、釣りをする、と云ふ事で追つ払ふ為になるべく人の居ない――たとひ魚は釣れなくとも――処を選んで、来るのが慣はしであつた。
 その日は昼食を食つてから、私たち親子三人は、私と息子は釣りをする為に、娘は蝗を捕るために、家を出たのだつた。
 そして、家を出る時に、小学校に今年上つた女の児が、
「お母あさん。もうお米がないのね」
 と、米櫃を覗き込んで云つたのだつた。
 日曜だつたので、小学校四年の男の子も、私もそれを聞いてゐた。私の場合では聞かなくても知つてゐた。その為の打開策を、もう三年以上も考へあぐんでゐたのだつた。
 が、子供たちには、その日、米櫃が空になつてゐることが、何かギクッと来たらしかつた。
 町中の雰囲気や、駅頭の雰囲気と、子供たちの生活の本拠の家の中の雰囲気とが、何か違つたものを感じたのであらう。
 華々しいもの、潔いもの、勇壮なるもの、さう云つたものから、子供の家へ帰ると、ひつそりと沈んだ冷え冷えとしたものが、両親の体臭のやうに、家中を靄のやうに立ちこめてゐた。
 子等は生れると直ぐから、決して裕福には育たなかつた。裕福などころか、転々として居を追はれる両親に附いて、町から村へ、山へ峡谷へと、土方や坑夫の間を、ひどく簡素な生活の間を生ひ育つた。米櫃が空だなどと云ふことは日常の事であつた。
 だが、今度ばかりはどこか違ふ、と云ふことを、動物的に直感したらしかつた。その内容は子供等に解る訳もなかつた。その両親の私たちにも解らなかつたから。

    二

 雨が強くなつて来た。
 自分の持つてゐる釣竿は未だ見えた。が、餌箱の中の餌の「チラ」がもう見えなくなつた。釣針も見えなくなつた。ピクッとかかつたので糸を上げても、どこに魚がかかつてゐるのかも見えなくなつた。
 もう、釣りも駄目になつた。
 私は、「親子心中」をする人たちの、その直前の心理を考へてゐたことに気がついた。
 足の下には、日本の三大急流の一つが、セセラギ流れてゐた。減水してゐたので、豪宕たる感じはなかつた。が、それでも人間の十人や百人呑んだところで、慌てると云ふ風な河ではなかつた。
 暗い中に流してゐたので、鉤が木工沈床の鉄筋か玉石の間か、流木かに引つかかつてとれなくなつた。
 首筋には雨が伝はつて来た。
 釣竿を寄せ、竿頭からテグスを掴むと、私は力まかせに引つ張つた。テグスは竿頭から三分の一位の処で切れたことが、手さぐりで分つた。
「サア、帰らうぜ」
 と、私は子供たちに声をかけた。
「帰るの、帰らうねえ」
 と、子供たちは下流から声を合せた。
 だんだん強く降つて来た雨で、私たちは濡れてゐた。体が寒く凍えて来た。私はカジカンだ手で竿を畳み、子供たちの方へ堤の上を歩いて行つた。
 兄妹は五尺にも足らぬ胡桃の木の下に、二尺角位に乾し草の屋根を葺いて、その下に雫で背中を濡らしながら、木の幹を抱き、向き合つて跼んでゐた。
「竿はどこへやつた?」
 と、私が訊くと、
「ほら、そこにあるよ」
 と、上の子が出て来た。
「ああ、分つた、分つた」
 私は子供の竿を抜きにかかつたが、元の方の二本が固くて抜けなかつた。
「これは抜けないや、濡らしたから緊つちやつた。お前担いでおいでよ」
「うん」
「ほら、こんなに釣れたよ」
 魚籠を解いて腰から外し、子等に持たせた。魚の形が割合に大きかつたので、数の割合ひに目方は重かつた。
 暗い闇の中で、魚の腹が白く光つてゐた。
「サア帰らう。寒かつたかい」
 私は「腹が空つたらう」と云ひかけて口をつぐんだ。
「ちつとも濡れなかつたよ。お父さん兄さんが小屋を拵らへてくれたから。ねえ、兄さん」
「いつ小屋を葺くことなんか覚えたんだい、お前は?」
「戦争ごつこの時にやるからね、もつと大きなのを葺くんだよ。炭俵なんかでね」
「さうかい。サア帰らう」
 私たちは暗くなつた河の堤防を、下流に向つた。
 男の子は先頭に立つた。女の児は私の後ろになつた。
 コンクリートの橋があつて、そこで県道に出て、そこから私たちの家まで、約一里あつた。橋の袂に小屋があつた。橋を作る時に拵らへたセメント置場か何かのバラックである。
 そこで上の子は、私たちを待つてゐた。
 私は下の子の来るのを、上の子とそこで黙つて待つてゐた。
 どう云ふものか、ふだんお喋舌りの子等がその夜は黙り込んでゐた。
 無邪気な、詰らない疑問が飛び出して、私を煩さがらさなかつた。
 ――父ちゃんは考へるがいい。――
 とでも、子等は思つてゐたのだらうか。
 三人、一緒になつたので、
「お前たちはお父さんの先きにお歩き」
 さう云つて、私たちは県道を歩き始めた。
 県道は、電話線の埋設工事で掘り起されてあつた。いつも坦々たる道路なのに、その日は掘り起した泥と雨との為にぬかつてゐた。
 その悪路を子等は驚く程、足早に歩いた。
 暗闇の中で、私は子供たちの姿を見失つてしまつた。が、長い間、さうだ三十分位の間も、私は子等の先きに立つた姿を「見失つた」と云ふことに気がつかなかつた。
 長い間、帰り途の半分位の道程を、私は何を考へてゐたのだらう、と、子供の姿の見えないことに気のついた途端に、考へたが、その時には、もう私は、先きに歩いてゐる、見えない子供たちに声をかけてゐた。
「おうい! 余んまり速いぞう、お父さんは附いて歩けないぞ」
 道は林の坂道にかかつてゐた。
 両側の林の樹々には、葉のある樹々が多かつたので、雨が、そこまで来ると急にひどくなりでもしたやうに、音を立てた。
 その音にせき立てられて、子等の歩みも一層速くなつたんだらう。
 が、私はノロくさく歩いた。子供たちに追ひつかうと試みたが、駄目な事が分つた。
 私の体にも、私の心にも、私の歩みを速めるだけの力が残つてゐなかつた。速めると云ふだけで無く、一口に言つて終へば生命力が残つてゐなかつた、と云つてもよかつた。
 嫌悪感、それが私の全体をひつ括んでゐた。それは自分の外に向つても、自分の内に向つても、粘り強い根を延ばしてゐた。
 今までも、嫌悪感と云ふものは幾度か、殆んど数へ切れない位に私の首を締めつけた。が、今度程、それが長く、その上小憩みなしに続いたことはなかつた。
 肉体の上の極度の疲労と、精神上の異常な打撃とが同時に起ると、「腰を抜かす」と云ふ現象が起ることがある。この状態が私を掴んでゐた。腰を抜かしながらも、私は子供たちを両手で捧げて、死の濁流へ呑まれないやうにしてゐたのである。
 戦場で多くの死傷者が出た。それを新聞紙上で見てゐるうちに、私は、私の死をも考へるやうになつた。身に引きくらべて考へるのである。それが私の習慣になつた。死のあらゆる場合を考へ続けることが習慣になると、私の生活は生命へよりも、死の方へ近づいて行つた。
 生命への嫌悪感!
 いや、この言葉は嘘だ! が、何かしら、生きて行くのに大骨を折ると云ふことに、熱意を欠いたとでも云ふのであらうか。これは私にとつては生れて最初の現象である。
 自殺を思つたことも幾度かあつた。それを企てたと自分で思ひ込んだこともあつた。
 が、これ程、怖れなく、と云ふよりも生への執着を抛棄して、死の方へ引つ張られるやうにズルズルと考へ込んで、あらゆる生への努力を、六ヶ月間も打つ棄つてしまつたことは初めてであつた。

    三

 子供たちは、余程急いで歩いたと見えた。
 私の呶鳴つた声にも返答がなかつた。
 私は感じてゐた。
「子供たちは俺の考へを感じてゐるに違ひない」と。
 子供が急いで急坂を上るのは、私の身心から発散する墓場の雰囲気が恐ろしかつたのだと、私は考へた。
 無理もない話であつた。私は全三ヶ月間、生と死との事ばかり考へてゐた。それに附随して湧き起つて来る問題を考へてゐた。さう云ふ風な考へ事に没頭してゐれば、具体的な、現実的な生活からも、生活手段からも離れて行くことは自明の理であつた。
 私たちは「死」を売り物にする訳には行かなかつた。坊さんでさへ、昔のやうには「死」を売りものに出来ない時代なのだ。
「生」を売りものにするのも、私の場合では至難であつた。生命そのものすら売り物にしにくい場合に、生命とは何ぞや、と云ふやうなことを、無学無智な私などが、どのやうに堂々巡りをして考へたつて、それが商品にならないのも分り切つたことだつた。
 生命とは「馬鹿気たものだ」と云ふ途方もない結論に到達することを、私は怖れた。まして生命とは苦痛だ、と云ふ風な結論に私は絶対に入りたくなかつた。
 かう云ふ風な考へ方が、かう云ふ風な文章、又は言葉で、私の頭の中で考へられた訳ではなかつた。
「もう政治とは絶対に縁を切る!」
 と云つた風な想念の断片が、私の頭をかすめるのであつた。
 だが、私は今まで一度だつて、政治家になつたことはないし、なりたかつた事もないのだ。まして、私が政治と縁を切ると決めようが、決めまいが私の一時一瞬の生活も、政治の下にあるのだ。私の考へや決心などは全つ切り問題にはならないのだ。
 要するに生命と云ふものは、動物的なものなのだ。この動物的な生命を、生き甲斐のあるやうにするのには、動物的な生活態度が必要なのだ。
 兎や雷鳥が、雪の降る時に白色に変り、草の萌え茂る時に、その色に変るやうに、カメレオンのやうに、絶えず変色したり、尺取り虫見たいに、枯枝と同じ色をして、力んでピンと立つてゐれば、生命と云ふものは保つものなのだ。
 それは何等卑下する必要のないことなのだ。大体、命と云ふものがそんなふうなものなのだからだ。
 だが、動物も人間となると、勿体をつける必要が生じて来るのだ。余りアッサリし過ぎてもいけないし、正直過ぎても困るのだ。
 かう云ふ風なことを考へてゐる人間は、子供と喜を共にすることが、時とすると困難になつて来る。

    四

 私はもう、私には見切りをつけた。
 何の才能もないし、学問もないし、社会人類、国家に尽す方法も持たないし、詰り人生の食ひ潰しであることを自認したのだつた。
 自認すると同時に、他からもさう認められてゐたのだから、結果は明白だつた。
 そこで、子供たちには、子供たちが「面白い」として喜ぶことを、させてやらうと思つた。と云つても、収入が途絶してしまつてゐるのだから、その範囲は極めて狭く局限されるのだつた。
 その日の釣り兼蝗取りも、その催しの一つだつた。これなら金がかからないで、子等の弁当のお菜が取れる。その上川魚は頭ごと食へるから、第二の国民の骨骼を大きくする為のカルシウム分もフンダンにある。外の栄養分は知らないが、悪いことはないに決つてゐる。
 そんなことはどうだつて、さうだ、どうだつてよくはない。が、それよりも、釣りをすることを子供たちが、果して喜んだかどうかなのだつた。私が居なくなつて、子供たちが成長してから、その日を快よい、生き甲斐のある一日として思ひ出の種にし得るかどうか、が問題であつた。
 このだらしのない、子等に対して申し訳なく、相済まなく思つてゐる父の心が、そんな釣りの半日で子供の心に通じるかどうか、これは寧ろ逆効果でありはしないか。
 私より遙かに先きに立つて、暗闇の中に姿を消してしもうた子供たちの心の中に、私は入らうと努めた。
 ――何をあの子等は考へてゐるであらう――
 だが、私は子等の心の中へだけ入り込んで終ふと云ふことは出来なかつた。子等の心の中に入り切る事は出来なかつたが、あの子たちよりも、もつともつと不幸な子供たちが沢山あるし、又、これからはもつと、ずつと殖えるに違ひない、と私は思つた。
 坂の中途に、檜の造林が道を挾んで、昼もなほ暗い処がある。そこの入口で子供たちは私を待つてゐた。
「速いねえ。もつと悠くり歩かなけや、父ちやんは附いて行けないよ」
「引つ張つて上げようか」
 と、一年生の女の児が、私の手を引つ張つて、グイグイと先きに立つた。
 強い力だ。私の心はスパークのやうに、一瞬間青白い光を放ち、熱を持つた。が、次の歩みの時には、もう元の闇に帰つてゐた。
 急坂を登り切らうとする所、村の部落外れに、荒ら屋がある。
 その家の子供の一人が、私の男の子と同級である。
 ある夜、私は釣りの帰りに、硝子のない硝子戸から、その家の有様を通りすがりに眺めた。
 亭主は手を膝にキチンと揃へ、正坐して俯向いてゐた。細君は亭主と正面に向き合つて、「論告」を下してゐた。
 傍聴席には、その両親の子供たちが、ハッキリ数へることは出来なかつたが、七八人、或は十人もゐたかもしれなかつた。
「お前だけ酒を飲んで面白いかもしれないが……」
 それだけ私は聞きとつた。
 その夜は、囲炉裏の自在鍵には鍋がかかつてゐなかつた。火も燃えてゐなかつた。
「さては米代を飲んぢまやがつたな」
 と腹の中で云つて、私は首をすくめた。
 屋根板を削るのや、頼まれて日雇に行くのが、その家の業だつた。
 私はその夫婦の両方に同情した。
 セリフは私の家でも同じだ。日本中、いや世界中、このセリフは共通してゐるだらう。そしてこのセリフ位、古くならないで、何時も鋭い実感を伴つて、亭主野郎の頭上に落ちて来るものも少ないだらう。
 ジグスのやうに、パンのし棒でのされるにしても、あのやうに朗に飲めるのならば、酒は確かに百薬の長だが。
 親子心中を一日延ばすために、飲んだとなると、効き目が一寸あらたか過ぎる。
「どんな子だい。あの家の子は?」
 と、私が男の子に訊くと、
「あだ名をダルマつて云ふんだよ。憤ると頬つぺたを膨らませるんでね。それでダルマつて云ふんだよ」
「さうかい。お前だつて憤ると頬つぺたを膨らせやしないかい」
「とつても膨らませるんだよ。眼玉を大きくしてね」
「余まり憤らせない方がいいね」

    五

 農村は萎びてゐる。
 身心共に萎びてゐる。
 枠が小さくて、一寸堅過ぎる。
 人の考へる通りを考へ、人の感じる通りを感じる。さうしないと喰み出して終ふ。
 喰み出したらお終ひではないか。喰み出さなくても、暮しは苦しい。

 私たちは家へ帰り着いた。
 子供たちは濡れた服を脱いで、コタツに入り、夕食を摂つた。日頃健啖なのに、下の女の児は一杯食つた切りで、「御馳走様」と云つて、サッサと寝床にもぐり込んだ。
 男の子は三杯目に、
「御飯未だあるの」
 と女房に訊いた。
 魚釣りも、蝗取りも、米櫃の空なことを忘れさせなかつたのだ。
 私の教育方針もよろしきを得てゐる。
「兵隊さんたちは、三日二夜食もなくつて軍歌にあるだらう。苦労してゐるんだからね、お前たちも贅沢を云つてはいけないよ」
 と、ふだんから云つてあるのだ。
 
 子供たちが食事が済み、寝床に入つてから、私は米を借りに出かけた。
 村の町は、夜九時になると死んだやうになる、偶然飛び込んだ旅人を泊める宿屋までも、十時になると眠り込む。
 出征を祝す、の征旗も、旗を取り込んで、てつぺんに葉を少し残した旗竿だけが、淋しく軒先きに立つてゐる。
 
 明日はどうなるであらう。
(昭和十二年十二月)

姪子(めいご)

伊藤左千夫




 麦搗(むぎつき)も荒(あら)ましになったし、一番草も今日でお終(しま)いだから、おとッつぁん、熱いのに御苦労だけっと、鎌を二三丁買ってきてくるっだいな、此(この)熱い盛りに山の夏刈(なつがり)もやりたいし、畔草(あぜくさ)も刈っねばなんねい……山刈りを一丁に草刈りを二丁許(ばか)り、何処(どこ)の鍛冶屋(かや)でもえいからって。
 おやじがこういうもんだから、一と朝起きぬきに松尾へ往(い)った、松尾の兼(かね)鍛冶が頼みつけで、懇意だから、出来合があったら取ってくる積りで、日が高くなると熱くてたまんねから、朝飯前に帰ってくる積りで出掛けた、おらア元から朝起きが好きだ、夏でも冬でも天気のえい時、朝っぱらの心持ったらそらアえいもんだからなア、年をとってからは冬の朝は寒くて億劫(おっくう)になったけど、其外(そのほか)ん時には朝早く起きるのが、未(いま)だにおれは楽しみさ。
 それで其朝は何んだか知らねいが、別(わ)けて心持のえい朝であった、土用半ばに秋風が立って、もう三回目で土用も明けると云う頃だから、空は鏡のように澄んでる、田のものにも畑のものにも夜露がどっぶりと降りてる、其涼しい気持ったら話になんなっかった。
 腰まで裾を端しょってな、素(す)っ膚足(ぱだし)に朝露のかかるのはえいもんさ、日中焼けるように熱いのも随分つれいがな、其熱い時でなけりゃ又朝っぱらのえい気持ということもねい訳だから、世間のことは何でもみんな心の持ちよう一つのもんだ。
 それから家の門を出る時にゃ、まだ薄暗かったが、夏は夜明けの明るくなるのが早いから、村のはずれへ出たらもう畑一枚先の人顔が分るようになった、いつでも話すこったが、そん時おれが、つくづく感心したのは、そら今ではあんなに仕合せをしてる、佐兵エどんの家内よ、あの人がたしか十四五の頃だな、おれは只遠い村々の眺めや空合の景色に気をとられて、人の居るにも心づかず来ると、道端に草を刈ってた若い女が、手に持った鎌を措(お)いて、
「お早ようございます」
 と挨拶したのを見るとあの人さ、そんころ善吉はまるっきり小作つくりであったから、あの女も若い時から苦労が多かった。
 村の内でも起きて居た家は半分しか無かった、そんなに早いのに、十四五の小娘が朝草刈りをしているのだもの、おれはもう胸が一ぱいになった位だ。
「おう誰かと思ったら、おちかどんかい、お前朝草刈をするのかい、感心なこったねい」
 おれがこう云って立ち止まると、
「馴れないからよく刈れましね、荒場のおじいさんもたいそうお早くどこへいきますかい」
 そう云って莞爾(にっこり)笑うのさ、器量がえいというではないけど、色が白くて顔がふっくりしてるのが朝明りにほんのりしてると、ほんとに可愛い娘であった。
 お前とこのとッつぁんも、何か少し加減が悪いような話だがもうえいのかいて、聞くと、おやじが永らくぶらぶらしてますから困っていますと云う、それだからこうして朝草も刈るのかと思ったら、おれは可哀そうでならなかった、それでおれは今鎌を買いに松尾へ往くのだが、日中は熱いからと思ってこんなに早く出掛けてきたのさ、それではお前の分にも一丁買ってきてやるから、折角丹誠してくれやて、云ったら何んでも眼をうるましたようだった、其時のあの女の顔をおれは未だに覚えてる、其の後、家のおやじに話して小作米の残り三俵をまけてやった、心懸けがよかったからあの女も今はあんなに仕合せをしてる。
 これでは話が横道へ這入(はい)った、それからおれが松尾へ往きついてもまだ日が出なかった、松尾は県道筋について町めいてる処(ところ)へ樹木に富んだ岡を背負ってるから、屋敷構(やしきがまえ)から人の気心も純粋の百姓村とは少し違ってる、涼しそうな背戸山では頻(しき)りに蜩(ひぐらし)が鳴いてる、おれは又あの蜩の鳴くのが好きさ、どこの家でも前の往来を綺麗(きれい)に掃いて、掃木目(ほうめ)の新しい庭へ縁台を出し、隣同志話しながら煙草など吹かしてる、おいらのような百姓と変らない手足をしている男等までが、詞(ことば)つかいなんかが、どことなし品がえい、おれはそれを真似ようとは思わないけど、横芝や松尾やあんな町がかった所へいくと、住居の様子や男女の風俗などに気をつけて見るのが好きだ。
 兼鍛冶のとこへ往ったら、此節は忙しいものと見えて、兼公はもう鞴場(ふいごば)に這入って、こうこうと鞴の音をさして居た、見ると兼公の家も気持がよかった、軒の下は今掃いた許りに塵(ちり)一つ見えない、家は柱も敷居も怪しくかしげては居るけれど、表手(おもて)も裏も障子を明放(あけはな)して、畳の上を風が滑ってるように涼しい、表手の往来から、裏庭の茄子(なす)や南瓜(かぼちゃ)の花も見え、鶏頭鳳仙花天竺牡丹(けいとうほうせんてんじくたん)の花などが背高く咲いてるのが見える、それで兼公は平生花を作ることを自慢するでもなく、花が好きだなどと人に話し為(し)たこともない、よくこんなにいつも花を絶やさずに作ってますねと云うと、あアに家さ作って置かねいと時折仏様さ上げるのん困るからと云ってる、あとから直ぐこういう鎌が出来ましたが一つ見ておくんせいと腕自慢の話だ、そんな風だからおれは元から兼公が好きで、何でも農具はみんな兼公に頼むことにしていた。
 其朝なんか、よっぽど可笑(おか)しかった、兼公おれの顔を見て何と思ったか、喫驚(びっくり)した眼をきょろきょろさせ物も云わないで軒口ヘ飛んで出た、おれが兼さんお早ようと詞を掛ける、それと同んなじ位に、
「旦那何んです」
 とあの青白い尖口(とんがりぐち)の其のたまげた顔をおれの鼻っさきへ持ってきていうのさ、兼さん何でもないよ鎌を買いに来たんだよ、日中は熱いから朝っぱらにやって来たのさ、こういうと、
「そらアよかった、まア旦那お早ようございます」と直ぐにけろりとした風で二つ三つ腰をまげた、ハハハアと笑ったかと思うと直ぐ跡から、旦那鎌なら豪せいなのが出来てます、いう内に女房が出て来て上がり鼻へ花蓙(はなむしろ)を敷いた、兼公はおれに許り其蓙へ腰をかけさせ、自分は一段低い縁に腰をかけた、兼公は職人だけれど感心に人に無作法なことはしなかった。
「旦那聞いてください、わし忌ま忌ましくなんねいことがあっですよ、あの八田の吉兵エですがね、先月中あなた、山刈と草刈と三丁宛(ずつ)、吟味して打ってくれちもんですから、こっちゃあなた充分に骨を折って仕上げた処、旦那まア聞いて下さい其の吉兵エが一昨日来やがって、村の鍛冶に打たせりゃ、一丁二十銭ずつだに、お前の鎌二十二銭は高いとぬかすんです、それから癪(しゃく)に障っちゃったんですから、お前さんの銭ゃお前さんの財布へしまっておけ、おれの鎌はおれの戸棚へ終(しま)って措(お)くといって、いきなり鎌を戸棚へ終っちゃったんです、旦那えい処へ来て下さった」そういうて兼公は六丁の鎌をおれの前へ置いた、女房は、それではよくあんめい、吉兵エさんも帰りしなには、兼さんの一酷にも困る、あとで金を持たしてよこすから、おっかアおめいが鎌を取っといてくっだいよって、腹も立たないでそういっていったんだから、今荒場の旦那へ上げて終ってはと云った、兼公はあアにお前がそういうなら、八田の分はおれが今日にも打って措くべい、旦那どうぞ持っていって下さい、外の人と違う旦那がいるってんだから、こういうから四丁と思って往ったのだが、其六丁を持ってきた、家を出る時心持よく出ると其日はきっと何かの用が都合よくいくものだ。
 思いの外に早く用が足りたし、日も昇りかけたが、蜩はまだ思い出したように鳴いてる、つくつくほうしなどがそろそろ鳴き出してくる、まだ熱くなるまでには、余程の間があると思って、急に思いついて姪子の処へ往った。
 お町が家は、松尾の東はずれでな、往来から岡の方へ余程経(へ)上って、小高い所にあるから一寸(ちょっと)見ても涼しそうな家さ、おれがいくとお町は二つの小牛を庭の柿の木の蔭(かげ)へ繋(つな)いで、十になる惣領(そうりょう)を相手に、腰巻一つになって小牛を洗ってる、刈立ての青草を籠に一ぱい小牛に当てがって、母子がさも楽しそうに黒白斑(まだら)の方のやつを洗ってやってる、小牛は背中を洗って貰って平気に草を食ってる、惣領が長い柄の柄杓(ひしゃく)で水を牛の背にかける、母親が縄たわしで頻りに小摺(こす)ってやる、白い手拭を間深かに冠(かぶ)って、おれのいったのも気がつかずにやってる、表手の庭の方には、白らげ麦や金時大角豆などが庭一面に拡げて隙間もなく干してある、一目見てお町が家も此頃は都合がえいなと思うと、おれもおのずと気も引立って、ちっと手伝おうかと声をかけた。
 あらア荒場の伯父さんだよって、母子が一所にそういって、小牛洗いはそこそこにさすが親身の挨拶は無造作なところに、云われないなつかしさが嬉しい、まア伯父さんこんな形では御挨拶も出来ない、どうぞまア足を洗って下さい、そういうより早く水を汲(く)んでくれる、おれはそこまで来たから一寸寄ったのだ上ってる積りではねいと云っても、伯父さん一寸寄っていくってそら何のこったかい、そんなこと云ったって駄目だ、もうおれには口は聞かせない。
 上って見ると鏡のように拭いた摺縁(すりえん)は歩りくと足の下がぎしぎし鳴る位だ、お町はやがて自分も着物を着替て改った挨拶などする、十になる児の母だけれど、町公町公と云ったのもまだつい此間の事のようで、其大人ぶった挨拶が可笑しい位だった、其内利助も朝草を山程刈って帰ってきた、さっぱりとした麻の葉の座蒲団を影の映るような、カラ縁に敷いて、えい心持ったらなかった、伯父さん鎌を六丁買ってきて、家でばっかそんなにいるかいちもんだから、おれがこれこれだと話すと、そんなら一丁家へもおくんなさいなという、改まって挨拶するかと思うと、あとから直ぐ甘えたことをいう、そうされると又妙に憎くないものだよ。
 あの気転だから、話をしながら茶を拵(こしら)える、用をやりながらも遠くから話しかける。
「ねい伯父さん何か上げたくもあり、そばに居て話したくもありで、何だか自分が自分でないようだ、蕎麦饂飩(そどん)でもねいし、鰌(どじょう)の卵とじ位ではと思っても、ほんに伯父さん何にも上げるもんがねいです」
「何にもいらねいっち事よ、朝っぱら不意に来た客に何がいるかい」
 そういう所へ利助もきて挨拶した、よくまア伯父さん寄てくれました、今年は雨都合もよくて大分作物もえいようでなど簡単な挨拶にも実意が見える、人間は本気になると、親身の者をなつかしがるものだ、此の調子なら利助もえい男だと思っておれも嬉しかった、お町は何か思いついたように夫に相談する、利助は黙々うなずいて、其のまま背戸山へ出て往った様だった、お町はにこにこしながら、伯父さん腹がすいたでしょうが、少し待って下さい、一寸思いついた御馳走をするからって、何か手早に竈(かまど)に火を入れる、おれの近くへ石臼(いしうす)を持出し話しながら、白粉(しろこ)を挽(ひ)き始める、手軽気軽で、億劫な風など毛程も見せない、おれも訳なしに話に釣り込まれた。
「利助どんも大分に評判がえいからおれもすっかり安心してるよ、もう狂(あば)れ出すような事あんめいね」
「そうですよ伯父さん、わたしも一頃は余程迷ったから、伯父さんに心配させましたが、去年の春頃から大へん真面目になりましてね、今年などは身上(しんしょう)もちっとは残りそうですよ、金で残らなくてもあの、小牛二つ育てあげればって、此節は伯父さん、一朝に二かつぎ位草を刈りますよ、今の了簡(りょうけん)でいってくれればえいと思いますがね」
「実の処おれは、それを聞きたさに今日も寄ったのだ、そういう話を聞くのがおれには何よりの御馳走だ、うんお前も仕合せになった」
 こんな訳で話はそれからそれと続く、利助の馬鹿を尽した事から、二人が殺すの活(いか)すのと幾度も大喧嘩(おおげんか)をやった話もあった、それでも終いには利助から、おれがあやまるから仲直りをしてくろて云い出し誰れの世話にもならず、二人で仲直りした話は可笑しかった。
 おれも始めから利助の奴は、女房にやさしい処があるから見込みがあると思っていた、博打(ばくち)をぶっても酒を飲んでもだ、女房の可愛い事を知ってる奴なら、いつか納まりがつくものだ、世の中に女房のいらねい人間許りは駄目なもんさ、白粉は三升許りも挽けた、利助もいつの間にか帰ってる、お町は白粉を利助に渡して自分は手軽に酒の用意をした、見ると大きな巾着(きんちゃく)茄子を二つ三つ丸ごと焼いて、うまく皮を剥(む)いたのへ、花鰹(はながつお)を振って醤油をかけたのさ、それが又なかなかうまいのだ、いつの間にそんな事をやったか其の小手廻しのえいことと云ったら、お町は一苦労しただけあって、話の筋も通って人のあしらいもそりゃ感心なもんよ。
 すとんすとん音がすると思ってる内に、伯父さん百合餅(ゆもち)ですが、一つ上って見て下さいと云うて持って来た。
 何に話がうまいって、どうして話どころでなかった、積っても見ろ、姪子甥子(おいご)の心意気を汲んでみろ、其餅のまずかろう筈があるめい、山百合は花のある時が一番味がえいのだそうだ、利助は、次手(ついで)があるからって、百合餅の重箱と鎌とを持っておれを広福寺の裏まで送ってくれた。
 おれは今六十五になるが、鯛平目(たいひらめ)の料理で御馳走になった事もあるけれど、松尾の百合餅程にうまいと思った事はない。
 お町は云うまでもなく、お近でも兼公でも、未だにおれを大騒ぎしてくれる、人間はなんでも意気で以て思合った交りをする位楽しみなことはない、そういうとお前達は直ぐとやれ旧道徳だの現代的でないのと云うが、今の世にえらいと云われてる人達には、意気で人と交わるというような事はないようだね、身勝手な了簡より外ない奴は大き面をしていても、真に自分を慕って敬してくれる人を持てるものは恐らく少なかろう、自分の都合許り考えてる人間は、学問があっても才智があっても財産があっても、あんまり尊いものではない。
(明治四十二年九月)

晩餐

素木しづ




 いつか暗くなった戸の外に、激しい雨風の音がする、嵐だ。
 親子は、狭い部屋の壁際にぶらさがった、暗い電燈の下の卓(テーブル)に集まって、今夜食をしようとしてゐた。まだ本当に父も母も若かった。そして子供は漸く卓につかまって、立ってる事が出来る程の、くり/\と肥ってる女の子だった。
 男も女も、その顔にはまだ少しの皺もよってなかった。しかし男の濃い眉毛の陰のくぼんだ優しさうな瞳には、だるさうな疲れの色が見えてゐた。そして女の濃い髪のいろや、細やかな肩のあたりには、なほ打沈んだやうな深い疲れと、まどろむやうな安らかさとが見えてゐた。
 一日が終ったのであった。その日の悲しみも苦しみも、夜の安らかさに流れやうとしてゐるのだった。そして、彼等は黙って微笑しながら、その子供のすべてに瞳を注いだ。
 子供は、あぶなさうに立ちながら、肥えてまるく鞠のやうに短い両手で、すこしのすきまもなく、そしてあまりに早くテーブルの上のものを掻き廻さうとしてゐた。それで彼等は微笑みながら、すべて茶碗や土瓶、アルミ鍋などを、テーブルの下に置いた。テーブルの上には、わづか子供の持つ小さなスプーンと小皿が一枚残されたばかりであった。
 けれども子供は、さわがしい、小さなよろこびに満ちた叫声を上げて、スプーンと皿をテーブルの上にたゝきつけた。
 『きかない奴だな。』若い父親は、その小さなまるい腕や、敏捷に怜悧(れいり)にすきもなく動いてる、黒みがちの睫のながい子供の瞳をぢっと見てゐると、どうしたらいゝだらうといふやうに、やがて顔一ぱいな微笑(ほゝゑみ)を持って、子供のまるくつき出た頬を指で一寸つまみながら、大きな茶碗をテーブルの下から探すやうにしてとると、彼女の手に渡した。
 彼女は鍋から熱い炊(た)き立ての、白い湯気が一ぱい立ち上ってる御飯をついで彼に渡した。そして彼女の若い大きな瞳も、母親らしい嬉しさにみちて子供の瞬間もぢっとしてない、小鳥のやうに愛らしい様子を見つめた。そして、たまらなささうに、この子はどうしたといふんだらう、とふと口の中(うち)に独言を云ひながら、どうにも仕方がない程可愛いといふやうな様子で、『坊や、』と強く云ったけれども、笑(ゑみ)が顔からあふれて了って、彼女は助をかりるやうに男の顔を見た。そして三人は、すべての事を忘れてしまった様に、子供の為めに互にどうしようかといふ様に笑ひ合った。そして子供の為めに、彼等は暖かい賑かさと、其上に自然(ひとりで)に溢れる笑ひと嬉しさを持って食事にとりかゝったのであった。また彼等は、ごた/\した騒がしさの為に、雨風の音を耳にしない。
 若い父親は、彼の赤く大きな片手を忙しくテーブルの上に拡げてゐた。そしてその眼は子供によって仕方がなく湧き出た笑(ゑみ)を堪(こら)へながら、子供をさゝへて、その小さな赤い口に僅の食物を入れてやった。そのすきに彼は、あわたゞしく大きな口を開けた、彼は彼自身の口のなかに御飯を押し込んだ。
 母親は、壁によって黙ってうつむきながら藍色の深い鍋に煮た牛肉と玉葱と、人参とジャガ芋とを白い皿に盛ってゐた。そしてなにか云はうとして、甘く柔かく煮たジャガ芋を口のなかに入れて、男の顔を見たが、彼女はなにかに気がついたやうに、ふと口を閉ぢて茫然(ぼんやり)と遠い所を見た。
 彼女の口のなかのジャガ芋が、丁度凍ったかのやうに固くざく/\してゐて、非常に不味かったのだった。彼女はふと驚いたやうに黙って前歯でかみなほしたが、彼女の心は、いつか淋しくうつむいてしまってゐた。
 彼女は日々の苦しみや悲しみ疲れを思出したのであった。そしてジャガ芋の無味な、かゝはりのない冷やかな不味(まづ)さが、彼女に静かな淋しい遠くはなれた心を与へた。彼女は結婚後の貧しい悲しみにみちた現実の生活を思ひ浮べたのであった。
 そして、それがあまりに永く引きつゞいた生活のやうにも思はれた。彼女はふと自分がすっかり老いてしまったかのやうに考へられた。そして静かに涙にみちた日のことや、物質の為めに脅かされ恐れてすごした日々や、病の為めに悲しみ苦しんだその日その日のことを遠い心が静かに思出してゐるのだった。けれどもいま思出してる彼女には、すべてが夢のやうであった。苦しみも悲しみもなつかしい夢のやうであった。
 そして考へて見れば、わづかに結婚後の三年ばかりの生活にすぎない。
 彼女は、いつとなく何物にか気をとられたやうに、ぼんやりと遠くの方を見てゐた。彼女のその静かな心が、いつか幻のやうな絵を見てゐたのであった。
 それは淡暗い光りのなかに、そしてその光りのやうに物静かな三人の人たちが、より合って頭をあつめてながい物語りをしてゐるのだった。その物語りは、あまりにながく絶えることなく彼等の間につゞけられてゐるやうであった。そしてその物語りのなかには、すべて世の中の善や悪や、かなしみや苦しみ怒りもなやみも、よろこびもすべてが語られてるやうだった。けれども話す人も聞く人も、たゞ静かに安らかにぢっと微笑(ほゝゑみ)をつゞけてゐるばかりであって、彼等は少しも動かなかった。首をかたむけて眼を伏せながら、そして、そこにはたゞ静かななつかしみと、許しとが彼等をつつんでゐるやうに見えた。そしてまたそこには深い/\安らかさが彼等のすべてに表はれてゐるのであった。
 世の中の總ての事、人生は過去るであらう。そして過去った其日に初めて總てが、總ての事が懐しみと許しとに変る事だらう。そして其時彼等は永久に夜の様な安息の前にあるのであった。
 遠い絵が暗く静かに、彼女の眼の底に映ってゐた。また瞳の底を通して遠く未来に、淋しい安らかさを持って、その絵が見えるのであった。若い彼女は一人で淋しいひそかな溜息をついた、そして、とり散らされたテーブルの上と、夫と子供の顔をちらと見ながら黙ってゐた。
 『どうして黙ってるの。』男は、ふと不思議さうに女の顔を見て声をかけた。彼女は、あわてゝなにかお云はうとしたが、一口には何事も云ひかねて黙ってしまふと、再びその眼が遠く走ってしまった。そして彼女は、また幻の絵を見たのだった。彼女は、その時はじめて戸の外の嵐の音を、静かに耳にした。彼女はなにも云はずにゐた。
 さうだ。あの日があるのだ。あのすべてがなつかしみと許しと、安らかさに変る日があるのだった。ながい生活の後に、またながい悲しみの後に、またながい苦しみのその後の日に、あの安らかななつかしみと許しの日があるのだ。一日々々の苦しみや悲しみがなんだらう。一日々々の疲れやなやみがなんだらう。彼女はいつとなしに微笑を浮べてゐた。
『なぜ黙ってるの。』男は再び声をかけた。彼女は驚いたやうに頭を上げて、なつかしさうに笑ひながら、
『まだ本当にわづかしか経ちませんのね、結婚してから。』
と男にも思出して、種々のことを、結婚前の楽しかったことまでも、思出して下さいと云ふやうに云った。
『さうだなァ。』男も眼を上げて云った。
『たった三年にしかならないんだな。けれども、俺たちはいろ/\苦労したなァ。』
『本当にね。』彼女は、また眼を伏せてあの絵を見ようとした。が、すぐに、
『けれども、まだ三年しか経たないんですものね。』と、なにか大きな、彼女にはわからないけれども、なにか大きな希(のぞ)みを彼に話さなければならないやうに瞳を輝かした。
『さうだ、一日々々いろ/\なことに疲らされなやまされ苦しまされても、二年はもう過ぎたんだからな。もうしばらくすると、坊やも歩るくやうになるんだから。』
 男は、手持ぶさたのやうにスプーンを持って立ってる子供を見た。彼女は、すぐに嬉しさうに、
『坊や。』と大きな声を出した、子供はそれと同時に大きな叫声を上げて、母親の顔を見ながら、
『うま/\/\/\。』とスプーンをテーブルにたゝきつけた。
 父親は、あわてゝ子供の口に御飯を入れてやった。
 彼等は、やがて箸をおいた。
『もう少しの間だ。』男は強く独言のやうに云った。
『さうね、私たちは働きませうね。』彼女は、おちついて安らかに云った。そして子供を膝の上に抱きながら、小さな乳首をだして乳をのませ初めた。
『さ、あとを片づけよう。そして寝よう、明日は早く起きようぢゃないか。』
 やがて、男は立ち上った。そしてテーブルを片づけ初めようとした時、もはや子供は乳房に頬をつけて眼を閉ぢてゐた。あたりは静まりかへった。
『嵐だな。』男は、立ちどまってさゝやいた。
(『文章倶楽部』大6・2)

饗応夫人

太宰治




 奥さまは、もとからお客に何かと世話を焼き、ごちそうするのが好きなほうでしたが、いいえ、でも、奥さまの場合、お客をすきというよりは、お客におびえている、とでも言いたいくらいで、玄関のベルが鳴り、まず私が取次ぎに出まして、それからお客のお名前を告げに奥さまのお部屋へまいりますと、奥さまはもう既に、鷲(わし)の羽音を聞いて飛び立つ一瞬前の小鳥のような感じの異様に緊張の顔つきをしていらして、おくれ毛を掻(か)き上げ襟(えり)もとを直し腰を浮かせて私の話を半分も聞かぬうちに立って廊下に出て小走りに走って、玄関に行き、たちまち、泣くような笑うような笛の音に似た不思議な声を挙げてお客を迎え、それからはもう錯乱したひとみたいに眼つきをかえて、客間とお勝手のあいだを走り狂い、お鍋(なべ)をひっくりかえしたりお皿をわったり、すみませんねえ、すみませんねえ、と女中の私におわびを言い、そうしてお客のお帰りになった後は、呆然(ぼうぜん)として客間にひとりでぐったり横坐りに坐ったまま、後片づけも何もなさらず、たまには、涙ぐんでいる事さえありました。
 ここのご主人は、本郷(ほんごう)の大学の先生をしていらして、生れたお家もお金持ちなんだそうで、その上、奥さまのお里(さと)も、福島県の豪農とやらで、お子さんの無いせいもございましょうが、ご夫婦ともまるで子供みたいな苦労知らずの、のんびりしたところがありました。私がこの家へお手伝いにあがったのは、まだ戦争さいちゅうの四年前で、それから半年ほど経って、ご主人は第二国民兵の弱そうなおからだでしたのに、突然、召集されて運が悪くすぐ南洋の島へ連れて行かれてしまった様子で、ほどなく戦争が終っても、消息不明で、その時の部隊長から奥さまへ、或(ある)いはあきらめていただかなければならぬかも知れぬ、という意味の簡単な葉書がまいりまして、それから奥さまのお客の接待も、いよいよ物狂おしく、お気の毒で見ておれないくらいになりました。
 あの、笹島(ささじま)先生がこの家へあらわれる迄(まで)はそれでも、奥さまの交際は、ご主人の御親戚とか奥さまの身内とかいうお方たちに限られ、ご主人が南洋の島においでになった後でも、生活のほうは、奥さまのお里から充分の仕送りもあって、わりに気楽で、物静かな、謂(い)わばお上品なくらしでございましたのに、あの、笹島先生などが見えるようになってから、滅茶苦茶になりました。
 この土地は、東京の郊外には違いありませんが、でも、都心から割に近くて、さいわい戦災からものがれる事が出来ましたので、都心で焼け出された人たちは、それこそ洪水のようにこの辺にはいり込み、商店街を歩いても、行き合う人の顔触れがすっかり全部、変ってしまった感じでした。
 昨年の暮、でしたかしら、奥さまが十年振りとかで、ご主人のお友達の笹島先生に、マーケットでお逢(あ)いしたとかで、うちへご案内していらしたのが、運のつきでした。
 笹島先生は、ここのご主人と同様の四十歳前後のお方で、やはりここのご主人の勤めていらした本郷の大学の先生をしていらっしゃるのだそうで、でも、ここのご主人は文学士なのに、笹島先生は医学士で、なんでも中学校時代に同級生だったとか、それから、ここのご主人がいまのこの家をおつくりになる前に奥さまと駒込(こまごめ)のアパートにちょっとの間住んでいらして、その折、笹島先生は独身で同じアパートに住んでいたので、それで、ほんのわずかの間ながら親交があって、ご主人がこちらへお移りになってからは、やはりご研究の畑がちがうせいもございますのか、お互いお家を訪問し合う事も無く、それっきりのお附き合いになってしまって、それ以来、十何年とか経って、偶然、このまちのマーケットで、ここの奥さまを見つけて、声をかけたのだそうです。呼びかけられて、ここの奥さまもまた、ただ挨拶(あいさつ)だけにして別れたらよいのに、本当に、よせばよいのに、れいの持ち前の歓待癖を出して、うちはすぐそこですから、まあ、どうぞ、いいじゃありませんか、など引きとめたくも無いのに、お客をおそれてかえって逆上して必死で引きとめた様子で、笹島先生は、二重廻しに買物籠(かいものかご)、というへんな恰好(かっこう)で、この家へやって来られて、
「やあ、たいへん結構な住居(すまい)じゃないか。戦災をまぬかれたとは、悪運つよしだ。同居人がいないのかね。それはどうも、ぜいたくすぎるね。いや、もっとも、女ばかりの家庭で、しかもこんなにきちんとお掃除の行きとどいている家には、かえって同居をたのみにくいものだ。同居させてもらっても窮屈だろうからね。しかし、奥さんが、こんなに近くに住んでいるとは思わなかった。お家がM町とは聞いていたけど、しかし、人間て、まが抜けているものですね、僕はこっちへ流れて来て、もう一年ちかくなるのに、全然ここの標札に気がつかなかった。この家の前を、よく通るんですがね、マーケットに買い物に行く時は、かならず、ここの路(みち)をとおるんですよ。いや、僕もこんどの戦争では、ひどいめに遭(あ)いましてね、結婚してすぐ召集されて、やっと帰ってみると家は綺麗(きれい)に焼かれて、女房は留守中に生れた男の子と一緒に千葉県の女房の実家に避難していて、東京に呼び戻したくても住む家が無い、という現状ですからね、やむを得ず僕ひとり、そこの雑貨店の奥の三畳間を借りて自炊(じすい)生活ですよ、今夜は、ひとつ鳥鍋でも作って大ざけでも飲んでみようかと思って、こんな買物籠などぶらさげてマーケットをうろついていたというわけなんだが、やけくそですよ、もうこうなればね。自分でも生きているんだか死んでいるんだか、わかりやしない。」
 客間に大あぐらをかいて、ご自分の事ばかり言っていらっしゃいます。
「お気の毒に。」
 と奥さまは、おっしゃって、もう、はや、れいの逆上の饗応癖がはじまり、目つきをかえてお勝手へ小走りに走って来られて、
「ウメちゃん、すみません。」
 と私にあやまって、それから鳥鍋の仕度(したく)とお酒の準備を言いつけ、それからまた身をひるがえして客間へ飛んで行き、と思うとすぐにまたお勝手へ駈(か)け戻って来て火をおこすやら、お茶道具を出すやら、いかにまいどの事とは言いながら、その興奮と緊張とあわて加減は、いじらしいのを通りこして、にがにがしい感じさえするのでした。
 笹島先生もまた図々(ずうずう)しく、
「やあ、鳥鍋ですか、失礼ながら奥さん、僕は鳥鍋にはかならず、糸こんにゃくをいれる事にしているんだがね、おねがいします、ついでに焼豆腐(やきどうふ)があるとなお結構ですな。単に、ねぎだけでは心細い。」
 などと大声で言い、奥さまはそれを皆まで聞かず、お勝手へころげ込むように走って来て、
「ウメちゃん、すみません。」
 と、てれているような、泣いているような赤ん坊みたいな表情で私にたのむのでした。
 笹島先生は、酒をお猪口(ちょこ)で飲むのはめんどうくさい、と言い、コップでぐいぐい飲んで酔い、
「そうかね、ご主人もついに生死不明か、いや、もうそれは、十中の八九は戦死だね、仕様が無い、奥さん、不仕合せなのはあなただけでは無いんだからね。」
 とすごく簡単に片づけ、
「僕なんかは奥さん、」
 とまた、ご自分の事を言い出し、
「住むに家無く、最愛の妻子と別居し、家財道具を焼き、衣類を焼き、蒲団を焼き、蚊帳(かや)を焼き、何も一つもありやしないんだ。僕はね、奥さん、あの雑貨店の奥の三畳間を借りる前にはね、大学の病院の廊下に寝泊りしていたものですよ。医者のほうが患者よりも、数等(すうとう)みじめな生活をしている。いっそ患者になりてえくらいだった。ああ、実に面白くない。みじめだ。奥さん、あなたなんか、いいほうですよ。」
「ええ、そうね。」
 と奥さまは、いそいで相槌(あいづち)を打ち、
「そう思いますわ。本当に、私なんか、皆さんにくらべて仕合せすぎると思っていますの。」
「そうですとも、そうですとも。こんど僕の友人を連れて来ますからね、みんなまあ、これは不幸な仲間なんですからね、よろしく頼まざるを得ないというような、わけなんですね。」
 奥さまは、ほほほといっそ楽しそうにお笑いになり、
「そりゃ、もう。」
 とおっしゃって、それからしんみり、
「光栄でございますわ。」
 その日から、私たちのお家は、滅茶々々になりました。
 酔った上のご冗談でも何でも無く、ほんとうに、それから四、五日経(た)って、まあ、あつかましくも、こんどはお友だちを三人も連れて来て、きょうは病院の忘年会があって、今夜はこれからお宅で二次会をひらきます、奥さん、大いに今から徹夜で飲みましょう、この頃はどうもね、二次会をひらくのに適当な家が無くて困りますよ、おい諸君、なに遠慮の要らない家なんだ、あがり給(たま)え、あがり給え、客間はこっちだ、外套(がいとう)は着たままでいいよ、寒くてかなわない、などと、まるでもうご自分のお家同様に振舞い、わめき、そのまたお友だちの中のひとりは女のひとで、どうやら看護婦さんらしく、人前もはばからずその女とふざけ合って、そうしてただもうおどおどして無理に笑っていなさる奥さまをまるで召使いか何かのようにこき使い、
「奥さん、すみませんが、このこたつに一つ火をいれて下さいな。それから、また、こないだみたいにお酒の算段をたのみます。日本酒が無かったら、焼酎(しょうちゅう)でもウイスキイでもかまいませんからね、それから、食べるものは、あ、そうそう、奥さん今夜はね、すてきなお土産(みやげ)を持参しました、召上れ、鰻(うなぎ)の蒲焼(かばやき)。寒い時は之(これ)に限りますからね、一串(くし)は奥さんに、一串は我々にという事にしていただきましょうか、それから、おい誰か、林檎(りんご)を持っていた奴があったな、惜しまずに奥さんに差し上げろ、インドといってあれは飛び切り香り高い林檎だ。」
 私がお茶を持って客間へ行ったら、誰やらのポケットから、小さい林檎が一つころころところげ出て、私の足もとへ来て止り、私はその林檎を蹴飛(けと)ばしてやりたく思いました。たった一つ。それをお土産だなんて図々しくほらを吹いて、また鰻だって後で私が見たら、薄っぺらで半分乾いているような、まるで鰻の乾物(ひもの)みたいな情無いしろものでした。
 その夜は、夜明け近くまで騒いで、奥さまも無理にお酒を飲まされ、しらじらと夜の明けた頃に、こんどは、こたつを真中にして、みんなで雑魚寝(ざね)という事になり、奥さまも無理にその雑魚寝の中に参加させられ、奥さまはきっと一睡も出来なかったでしょうが、他の連中は、お昼すぎまでぐうぐう眠って、眼がさめてから、お茶づけを食べ、もう酔いもさめているのでしょうから、さすがに少し、しょげて、殊(こと)に私は、露骨にぷりぷり怒っている様子を見せたものですから、私に対しては、みな一様に顔をそむけ、やがて、元気の無い腐った魚のような感じの恰好(かっこう)で、ぞろぞろ帰って行きました。
「奥さま、なぜあんな者たちと、雑魚寝なんかをなさるんです。私、あんな、だらしない事は、きらいです。」
「ごめんなさいね。私、いや、と言えないの。」
 寝不足の疲れ切った真蒼(まっさお)なお顔で、眼には涙さえ浮べてそうおっしゃるのを聞いては、私もそれ以上なんとも言えなくなるのでした。
 そのうちに、狼(おおかみ)たちの来襲がいよいよひどくなるばかりで、この家が、笹島先生の仲間の寮みたいになってしまって、笹島先生の来ない時は、笹島先生のお友達が来て泊って行くし、そのたんびに奥さまは雑魚寝の相手を仰(おお)せつかって、奥さまだけは一睡も出来ず、もとからお丈夫なお方ではありませんでしたから、とうとうお客の見えない時は、いつも寝ているようにさえなりました。
「奥さま、ずいぶんおやつれになりましたわね。あんな、お客のつき合いなんか、およしなさいよ。」
「ごめんなさいね。私には、出来ないの。みんな不仕合せなお方ばかりなのでしょう? 私の家へ遊びに来るのが、たった一つの楽しみなのでしょう。」
 ばかばかしい。奥さまの財産も、いまではとても心細くなって、このぶんでは、もう半年も経てば、家を売らなければならない状態らしいのに、そんな心細さはみじんもお客に見せず、またおからだも、たしかに悪くしていらっしゃるらしいのに、お客が来ると、すぐお床からはね起き、素早く身なりをととのえて、小走りに走って玄関に出て、たちまち、泣くような笑うような不思議な歓声を挙げてお客を迎えるのでした。
 早春の夜の事でありました。やはり一組の酔っぱらい客があり、どうせまた徹夜になるのでしょうから、いまのうちに私たちだけ大いそぎで、ちょっと腹ごしらえをして置きましょう、と私から奥さまにおすすめして、私たち二人台所で立ったまま、代用食の蒸(む)しパンを食べていました。奥さまは、お客さまには、いくらでもおいしいごちそうを差し上げるのに、ご自分おひとりだけのお食事は、いつも代用食で間に合せていたのです。
 その時、客間から、酔っぱらい客の下品な笑い声が、どっと起り、つづいて、
「いや、いや、そうじゃあるまい。たしかに君とあやしいと俺(おれ)はにらんでいる。あのおばさんだって君、……」と、とても聞くに堪(た)えない失礼な、きたない事を、医学の言葉で言いました。
 すると、若い今井先生らしい声がそれに答えて、
「何を言ってやがる。俺は愛情でここへ遊びに来ているんじゃないよ。ここはね、単なる宿屋さ。」
 私は、むっとして顔を挙げました。
 暗い電燈の下で、黙ってうつむいて蒸パンを食べていらっしゃる奥さまの眼に、その時は、さすがに涙が光りました。私はお気の毒のあまり、言葉につまっていましたら、奥さまはうつむきながら静かに、
「ウメちゃん、すまないけどね、あすの朝は、お風呂をわかして下さいね。今井先生は、朝風呂がお好きですから。」
 けれども、奥さまが私に口惜(くや)しそうな顔をお見せになったのは、その時くらいのもので、あとはまた何事も無かったように、お客に派手なあいそ笑いをしては、客間とお勝手のあいだを走り狂うのでした。
 おからだがいよいよお弱りになっていらっしゃるのが私にはちゃんとわかっていましたが、何せ奥さまは、お客と対する時は、みじんもお疲れの様子をお見せにならないものですから、お客はみな立派そうなお医者ばかりでしたのに、一人として奥さまのお具合いの悪いのを見抜けなかったようでした。
 静かな春の或(あ)る朝、その朝は、さいわい一人も泊り客はございませんでしたので、私はのんびり井戸端でお洗濯をしていますと、奥さまは、ふらふらとお庭へはだしで降りて行かれて、そうして山吹(やまぶき)の花の咲いている垣(かき)のところにしゃがみ、かなりの血をお吐きになりました。私は大声を挙げて井戸端から走って行き、うしろから抱いて、かつぐようにしてお部屋へ運び、しずかに寝かせて、それから私は泣きながら奥さまに言いました。
「だから、それだから私は、お客が大きらいだったのです。こうなったらもう、あのお客たちがお医者なんだから、もとのとおりのからだにして返してもらわなければ、私は承知できません。」
「だめよ、そんな事をお客さまたちに言ったら。お客さまたちは責任を感じて、しょげてしまいますから。」
「だって、こんなにからだが悪くなって、奥さまは、これからどうなさるおつもり? やはり、起きてお客の御接待をなさるのですか? 雑魚寝のさいちゅうに血なんか吐いたら、いい見世物ですわよ。」
 奥さまは眼をつぶったまま、しばらく考え、
里(さと)へ、いちど帰ります。ウメちゃんが留守番をしていて、お客さまにお宿をさせてやって下さい。あの方たちには、ゆっくりやすむお家が無いのですから。そうしてね、私の病気の事は知らせないで。」
 そうおっしゃって、優(やさ)しく微笑(ほほえ)みました。
 お客たちの来ないうちにと、私はその日にもう荷作りをはじめて、それから私もとにかく奥さまの里(さと)の福島までお伴(とも)して行ったほうがよいと考えましたので、切符を二枚買い入れ、それから三日目、奥さまも、よほど元気になったし、お客の見えないのをさいわい、逃げるように奥さまをせきたて、雨戸をしめ、戸じまりをして、玄関に出たら、
 南無三宝(なさんぽう)!
 笹島先生、白昼から酔っぱらって看護婦らしい若い女を二人ひき連れ、
「や、これは、どこかへお出かけ?」
「いいんですの、かまいません。ウメちゃん、すみません客間の雨戸をあけて。どうぞ、先生、おあがりになって。かまわないんですの。」
 泣くような笑うような不思議な声を挙げて、若い女のひとたちにも挨拶して、またもくるくるコマ鼠(ねずみ)の如く接待の狂奔がはじまりまして、私がお使いに出されて、奥さまからあわてて財布(さいふ)がわりに渡された奥さまの旅行用のハンドバッグを、マーケットでひらいてお金を出そうとした時、奥さまの切符が、二つに引き裂かれているのを見て驚き、これはもうあの玄関で笹島先生と逢ったとたんに、奥さまが、そっと引き裂いたのに違いないと思ったら、奥さまの底知れぬ優しさに呆然(ぼうぜん)となると共に、人間というものは、他の動物と何かまるでちがった貴(とうと)いものを持っているという事を生れてはじめて知らされたような気がして、私も帯の間から私の切符を取り出し、そっと二つに引き裂いて、そのマーケットから、もっと何かごちそうを買って帰ろうと、さらにマーケットの中を物色しつづけたのでした。

魚河岸

芥川龍之介




 去年の春の夜(よ)、――と云ってもまだ風の寒い、月の冴(さ)えた夜(よる)の九時ごろ、保吉(やすきち)は三人の友だちと、魚河岸(うおし)の往来を歩いていた。三人の友だちとは、俳人の露柴(ろさい)、洋画家の風中(ふうちゅう)、蒔画師(まきし)の如丹(じょたん)、――三人とも本名(ほんみょう)は明(あか)さないが、その道では知られた腕(うで)っ扱(こ)きである。殊に露柴(ろさい)は年かさでもあり、新傾向の俳人としては、夙(つと)に名を馳(は)せた男だった。
 我々は皆酔っていた。もっとも風中と保吉とは下戸(げこ)、如丹は名代(なだい)の酒豪(しゅごう)だったから、三人はふだんと変らなかった。ただ露柴はどうかすると、足もとも少々あぶなかった。我々は露柴を中にしながら、腥(なまぐさ)い月明りの吹かれる通りを、日本橋(にほんばし)の方へ歩いて行った。
 露柴は生(き)っ粋(すい)の江戸(えど)っ児(こ)だった。曾祖父(そうふ)は蜀山(しょくさん)や文晁(ぶんちょう)と交遊の厚かった人である。家も河岸(かし)の丸清(まるせい)と云えば、あの界隈(かいわい)では知らぬものはない。それを露柴はずっと前から、家業はほとんど人任せにしたなり、自分は山谷(さんや)の露路(ろじ)の奥に、句と書と篆刻(てんこく)とを楽しんでいた。だから露柴には我々にない、どこかいなせな風格があった。下町気質(したまちかたぎ)よりは伝法(でんぼう)な、山の手には勿論縁の遠い、――云わば河岸の鮪(まぐろ)の鮨(すし)と、一味相通ずる何物かがあった。………
 露柴はさも邪魔(じゃま)そうに、時々外套(がいとう)の袖をはねながら、快活に我々と話し続けた。如丹は静かに笑い笑い、話の相槌(あいづち)を打っていた。その内に我々はいつのまにか、河岸の取(とっ)つきへ来てしまった。このまま河岸を出抜けるのはみんな妙に物足りなかった。するとそこに洋食屋が一軒、片側(かたかわ)を照らした月明りに白い暖簾(のれん)を垂らしていた。この店の噂は保吉さえも何度か聞かされた事があった。「はいろうか?」「はいっても好(い)いな。」――そんな事を云い合う内に、我々はもう風中を先に、狭い店の中へなだれこんでいた。
 店の中には客が二人、細長い卓(たく)に向っていた。客の一人は河岸の若い衆、もう一人はどこかの職工らしかった。我々は二人ずつ向い合いに、同じ卓に割りこませて貰(もら)った。それから平貝(たいらがい)のフライを肴(さかな)に、ちびちび正宗(まさむね)を嘗め始めた。勿論下戸(げこ)の風中や保吉は二つと猪口(ちょく)は重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々健啖(なかなかけんたん)だった。
 この店は卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木(しらき)だった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀(よしず)だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。風中は誂(あつら)えたビフテキが来ると、これは切り味(み)じゃないかと云ったりした。如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の明るいのがこう云う場所だけに難有(ありがた)かった。露柴も、――露柴は土地っ子だから、何も珍らしくはないらしかった。が、鳥打帽(とりうちぼう)を阿弥陀(あだ)にしたまま、如丹と献酬(けんしゅう)を重ねては、不相変(あいかわらず)快活にしゃべっていた。
 するとその最中(さいちゅう)に、中折帽(なかおれぼう)をかぶった客が一人、ぬっと暖簾(のれん)をくぐって来た。客は外套の毛皮の襟(えり)に肥った頬(ほお)を埋(うず)めながら、見ると云うよりは、睨(にら)むように、狭い店の中へ眼をやった。それから一言(いちごん)の挨拶(あいさつ)もせず、如丹と若い衆との間の席へ、大きい体を割りこませた。保吉はライスカレエを掬(すく)いながら、嫌な奴だなと思っていた。これが泉鏡花(いずみきょうか)の小説だと、任侠欣(にんきょうよろこ)ぶべき芸者か何かに、退治(たいじ)られる奴だがと思っていた。しかしまた現代の日本橋は、とうてい鏡花の小説のように、動きっこはないとも思っていた。
 客は註文を通した後(のち)、横柄(おうへい)に煙草をふかし始めた。その姿は見れば見るほど、敵役(かたきやく)の寸法(すんぽう)に嵌(はま)っていた。脂(あぶら)ぎった赭(あか)ら顔は勿論、大島(おおしま)の羽織、認(みと)めになる指環(ゆびわ)、――ことごとく型を出でなかった。保吉はいよいよ中(あ)てられたから、この客の存在を忘れたさに、隣にいる露柴(ろさい)へ話しかけた。が、露柴はうんとか、ええとか、好(い)い加減な返事しかしてくれなかった。のみならず彼も中(あ)てられたのか、電燈の光に背(そむ)きながら、わざと鳥打帽を目深(まぶか)にしていた。
 保吉(やすきち)はやむを得ず風中(ふうちゅう)や如丹(じょたん)と、食物(くいもの)の事などを話し合った。しかし話ははずまなかった。この肥(ふと)った客の出現以来、我々三人の心もちに、妙な狂いの出来た事は、どうにも仕方のない事実だった。
 客は註文のフライが来ると、正宗(まさむね)の罎(びん)を取り上げた。そうして猪口(ちょく)ヘつごうとした。その時誰か横合いから、「幸(こう)さん」とはっきり呼んだものがあった。客は明らかにびっくりした。しかもその驚いた顔は、声の主(ぬし)を見たと思うと、たちまち当惑(とうわく)の色に変り出した。「やあ、こりゃ檀那(だんな)でしたか。」――客は中折帽を脱ぎながら、何度も声の主(ぬし)に御時儀(おぎ)をした。声の主は俳人の露柴(ろさい)、河岸(かし)の丸清(まるせい)の檀那だった。
「しばらくだね。」――露柴は涼しい顔をしながら、猪口を口へ持って行った。その猪口が空(から)になると、客は隙(す)かさず露柴の猪口へ客自身の罎の酒をついだ。それから側目(はため)には可笑(おか)しいほど、露柴の機嫌(きげん)を窺(うかが)い出した。………
 鏡花(きょうか)の小説は死んではいない。少くとも東京の魚河岸には、未(いまだ)にあの通りの事件も起るのである。
 しかし洋食屋の外(そと)へ出た時、保吉の心は沈んでいた。保吉は勿論「幸さん」には、何の同情も持たなかった。その上露柴の話によると、客は人格も悪いらしかった。が、それにも関(かかわ)らず妙に陽気(ようき)にはなれなかった。保吉の書斎の机の上には、読みかけたロシュフウコオの語録がある。――保吉は月明りを履(ふ)みながら、いつかそんな事を考えていた。
(大正十一年七月)

◆電子テキスト化スタッフ等一覧
●永日小品(抄)
底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月にかけて刊行
入力:柴田卓治
校正:大野晋
●氷雨
底本:「筑摩現代文学大系36 葉山嘉樹集」筑摩書房
   1979(昭和54)年2月25日 初版第一刷発行
入力:大野裕
校正:高橋真也
●姪子
底本:「野菊の墓」新潮文庫・新潮社
   1955(昭和30)年10月25日発行
   1985(昭和60)年6月10日85刷改版
   1993(平成5)年6月5日97刷
入力:大野晋
校正:高橋真也
●晩餐
底本:「素木しづ作品集(山田昭夫編)」札幌・北書房
   1970(昭和45)年6月15日発行
底本の親本:「文章倶楽部」大正6年2月号
入力:小林徹
校正:湯地光弘
(入力者注は割愛した。―編者)
●饗応夫人
底本:「太宰治全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(昭和64)年5月30日第1刷発行
   1998(平成10)年6月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
●魚河岸
底本:筑摩書房刊 ちくま文庫『芥川龍之介全集5』
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集
   1971(昭和46)年3月〜11月に刊行
入力:j.utiyama
校正:earthian

アンソロジー編:浜野 智
ちへいせん公開:2000年10月

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