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青空文庫、この1作●第1回 梶井基次郎「ある崖上の感情」
あるオンラインの感情
多村栄輝


 梶井基次郎の小説は、いろんなシーンでぼくの記憶をくすぐり続けてきた。真夜中の寺町通を自転車で走り抜けたことがある。あの『檸檬』の主人公が、何かに魅せられたように歩き続けた寺町通。昼間は観光客で埋め尽くされるこの通りも、真夜中ともなれば酔っ払いさえ姿を消して、深閑としている。そんな夜のアーケードをするりと駆け抜ける。一冊の漫画のことを思い出した。

 思春期の少女が、不安定なココロの苛立ちを一個のレモンに託して、むかし読んだ小説のように、本屋に画集を積み重ね、その上にレモンをのせて脱出する…、爆弾に見立てたレモンは、空想の中で爆発して彼女のユウウツをはらすはずだったが、書店の女性に「忘れ物です」とレモンは突き返されてしまう――。中学生のときに読んだ、さべあのまの『ライトブルーペイジ』という初期短編集の中のひとコマ。ここに出てくる「むかし読んだ小説」が、梶井基次郎の『檸檬』のことだと知ったのは、それからずいぶんあとのことだ。ぼくは長い間、それは彼女のオリジナルなアイデアだと思い込んでいた。実際、ぼくはずいぶん長い間、気がつかずにいたのだった。つげ義春が基次郎を引用していたことも、桜を題材にした芝居がまるで決まり文句のように「桜の木の下には死体が埋まっている!」と叫ぶのも基次郎の引用だということも…。

 大学生はコンパが好きだ。何かと理由を作っては飲み会になだれこむ。ぼくの入っていた映画研究部も、そんな飲み会部とでも呼びたくなるような、飲んべえ集団だった。
 一次会の店を追い出されて、安さだけが取り柄のお店を渡り歩く。京都四条河原町の細い歩道をゾロゾロと移動するとき、ぼくは決まってシンガリをつとめた。誰もはぐれる者のないように、比較的意識のしっかりした人物が先頭とシンガリに就く。先頭の者は、あまり早足で行列が伸び切ってしまわないように気遣い、シンガリは行列から落ちこぼれの出ないように全員を見守るのだ。

 シンガリの眺めは、その位置を選んだ者だけの特権だった。自分の仲間たちが楽しげに話したりふざけたりしながら進んで行く姿をぼくは見守った。ふと、親指と人指し指で作ったL字を両手で組み合わせて四角いフレームを作り、カメラのファインダに見立ててみる。だんだんと酔いが醒めていくのが分かる。そして彼らの笑顔を眺めながら思うのだ。ああ、この喧噪の中にはぼくはいないのだ!こうしてフレーム越しに眺めることで、かろうじて彼らとの関係を保っているのがぼくなのだ! …そんな自分と他人との距離を思うときに、なんともいえないめまいを感じたものだった。ぼくはそのとき忘れていたけど、もし高校時代に読んだ『ある崖上の感情』を覚えていたら、こんなふうにおどけてみせただろう。――ぼく一人が世間に住みつく根を失って浮き草のように流れている。そして何時もこんなフレーム越しに人びとを眺めていなければならない。すっかりこれがぼくの運命だ、と。

 崖の上からのぞき込む窓の中に、ベッドシーンが見えるのではないか…そんな会話が『ある崖上の感情』の中でかわされる。この作品が発表されたのは昭和三年。ずいぶん進歩的な時代だったんだなぁと驚かずにはいられない。ベッドシーンの話を持ち出した青年はやがて「見たと思ったそれがどうやらちがうものらしくなって来た」が、「しかしそのときの(見たと思った)恍惚状態そのものが結局すべてであるということがわかって来た」と話す。それが真実であれ空想であれ、そのときの恍惚状態こそがすべてだと。この感情は、当時は崖の上と下という距離と、窓というフレームを通して存在していた。青年が「彼らは気づかないだろう」と思うほどに、それは至高の距離であり、遠い異国を意識させるほど、特別な感情だった。しかし、平成の現代では、ネットという距離感の喪失と、コンピュータという窓を通じて誰もがそこに見いだすことができる。インターネットに無数にあるホームページ。個人の日記や活動記録を読むときに、あなたは他人のベッドシーンをのぞき見たような恍惚状態になることはないだろうか。会ったこともない人の生活を知るときに、そこに記されていることが真実であるか虚実であるかの判断を忘れて、なんともいえない感情を覚えたことはないだろうか。

 そして青年は、彼が崖上を紹介したもう一人の青年が、崖上から己のベッドシーンをのぞきこむことを期待して、情事の窓を開け放つ。もしあなたがホームページに日記を書いているなら、そこに書かれていることは、誰かに読まれるということを意識しているはずだ。ブラウザのウィンドウに現われるものは、つねに誰かのベッドシーンであり、あなたも、自分のベッドシーンを誰かが見ていることを期待して、今夜もその窓を開いているに違いない。この共犯関係にプロジットしよう。

●執筆者プロフィール
多村栄輝(たむら えーてる):1967年生まれ。ポシブルブック倶楽部主宰。「ExpandedBook Attendant(エキスパンドブック案内人)」を名乗り、“オンスクリーンで読む行為”のことを考え続けている。敬虔なNewtonユーザーでもある。


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