| 第10回●泉鏡花「高野聖」 |
| 鏡花が描く女 |
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浜野 智 |
| 泉鏡花を熱心に支持する女性読者は少ない。なぜか。「高野聖」の一場面、山奥の隠れ家に住む美女が旅僧を水場に案内し、女も着物を脱いで僧侶の体を洗ってやるくだりを引いて、「先生。それってやり過ぎじゃないですか?」と茶化しながら作家の村田喜代子さんは書く。 「あれよ、あれよ、というまに鏡花の怪奇美の独壇場である。女性の身としては、山奥にこんな女がいるものかと思い、一方で、ぬけぬけとよくもまあ、こんな女に男は何で騙されるのかと憮然となる」(「魔界の子守歌」『近代日本文学のすすめ』岩波文庫) そして、このあとに、鏡花ファンであるK氏との電話による会話が続く。 すると電話の声がぐにゃりとなって、 「鏡花はいいですねえ」 と答えた。どこがいいのか尋ねると、 「それはもう鏡花の描く女です。あの怖ろしくも美しい美女たちだ……」 「でも嘘っぽいじゃないですか」 「嘘でいいのよ」 とK氏はやるせなさそうに女言葉で言う。 「男は女性の体に、肉体以上のものを求めているんだからね。(中略)女性の体は乳房もお尻も永遠の形而上学的美なんだから」 「ふうーん。私たち女性にとっては、女性の胸も尻も、男性の胸も尻も、同じ形而下のモノよ」 僕は、相当に熱心な鏡花ファンであるらしいK氏の説に文句なしに賛同する。鏡花ほどこの世では到底出会えそうにない、その意味ではまさしく幻想そのものの美女を見事に描く作家はいない。そこが鏡花文学の絶対の魅力なのだ。 と同時に、完全なる理解は不可能ながらも、そんなものなのだろうねえ…と、村田女史の説をも支持する。そうして、結論は1つ。鏡花の小説は「ほとんど幻といっていい女を描く文学」だ、だからその魅力の核心は同性である女の読者にはつかめるはずがないのだ、と。 以下、簡単に証明しよう。 例えば、短編「外科室」の一場面。手術室でこれから手術を受ける伯爵夫人は、麻酔をすげなく拒否して言う。 「そんなに強(し)いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤(ねむりぐすり)は譫言(うわごと)を謂(い)うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快(なお)らんでもいい、よしてください」 この台詞の記憶が消え去らないうちに、読者はさらに伯爵夫人の次の一言に出合う。 「刀(とう)を取る先生は、高峰様だろうね!」 口調の強さから、夫人と高峰ドクターとの間にどうやら何やらいわくがあるらしいと、読者はいやおうなく想像する。そして、手術の場面が来る。 「夫人、責任を負って手術します」 ときに高峰の風采(ふうさい)は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。 「どうぞ」と一言答(いら)えたる、夫人が蒼白なる両の頬(ほお)に刷(は)けるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼(まなこ)を塞(ふさ)がんとはなさざりき。 と見れば雪の寒紅梅、血汐(ちしお)は胸よりつと流れて、さと白衣(びゃくえ)を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白(あおじろ)くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。 そもそも、鏡花の小説は説明的でない。「外科室」でも短い中に多数の人物が配置されているが、どの人物も曖昧模糊としていて、例えば伯爵の夫婦仲はどうなのかなどといった人物と人物の関係が明瞭でない。それだけに、読者は想像力を刺激され、ああでもない、こうでもないと思いをめぐらす。その果てに、上記の、これはまた日本画を思わせる美的で簡潔な描写が不意打ちをかけるのだ。その瞬間、男の読者は「ぎゃあッ」と心のうちで叫びつつ、鏡花の物語のとりことなるのである。 いやいや、この言い方は正確ではない。実のところ、鏡花は、肝心要の女性についても、さほど克明に描写したりはしないのだ。「外科室」を見ても、それはあきらかである。そうであるのに、鏡花の世界を歩き慣れた男の読者は勝手に想像(妄想?)をふくらませる。 逆に、この伯爵夫人一人とりあげても、大方の女性は「こんな女、いるわけないじゃない」と断ずる結果になるだろうと思う。麻酔もせずに手術を受けるという女の存在が男の目から見るとさほど荒唐無稽とは思えないのは、子を産むべく生まれた女は痛みに強いという、ほとんど迷信に近い錯覚があるからである。その錯覚を利用して、鏡花はとてつもなく非現実的な、それゆえに魅力的な女の像をつくりだす。しかも、その女はあくまでも肌白く、肉付きが豊か(描写されていなくても、そう感じさせる)なのである。 ちなみに、夢野久作の「あやかしの鼓」のこれまた名場面、ねむり薬をしこんだ酒で気絶させた主人公音丸に未亡人が迫る次の場面は、多少品格に欠けるうらみはあるが、鏡花の言う「雪の寒紅梅」の遠いリフレインと言っていいだろう。 「アラ……アラ……あなたはまだ覚悟がきまっていないこと……」 と云ううちに未亡人の声は怒りを帯びて乱れて来た。 「駄目よ音丸さん。お前さんはまだ私に降参しないのね。私がどんな女だか知らないんですね……よござんす」 と云ううちに未亡人が立ち上った気はいがした。ハッと思って顔を上げると、すぐ 眼の前に今までに見たことのない怖ろしいものが迫り近付いていた。……しどけない 長繻袢の裾と、解けかかった伊達巻(だてま)きと、それからしなやかにわなないている黒い革の鞭と……私は驚いてうしろ手を突いたまま石のように固くなった。 未亡人はほつれかかる鬢(びん)の毛を白い指で掻き上げながら唇を噛んで私をキッと見下した。そのこの世ならぬ美しさ……烈しい異様な情熱を籠めた眼の光りのもの凄さ……私は瞬(まばたき)一つせずその顔を見上げた。(青空文庫『瓶詰地獄他』から) さて、「高野聖」は明治33年、鏡花27歳のときに世に問うた最高傑作の名に恥じない名作だが、お話の筋立てそのものはそっけないほどに単純である。敦賀の旅籠で語り手と同宿となった旅の僧侶が、夜の退屈しのぎにかつて経験した飛騨の山越えの思い出話を語る。作品の大半の部分は、その思い出話で占められている。 思い出話は、要約すればこうである。僧侶は飛騨の山の麓の茶屋で一人の薬の行商人と同席した。いやな男だった。旅の道連れにする気はない。だから、山中で声をかけられても無視した。ところが、その行商人の姿がいつのまにか山に埋もれたように消えた。 行方を懸念する僧侶は、蛇におののき、坂にあえぎながらも、行商人が迷い込んだであろう別の道に踏み込む。昼なお暗い森の道で蛭の大群におそわれて生き血を吸われ、恐怖の叫びをあげながら狂ったように歩き続けると、やがて彼は一軒の山家にたどりつく。そこに住むのが、村田喜代子さんの言う、蝙蝠だの猿だの蟇だのに肌を恋うて飛びつかれる(!)美女である。 どちらかといえば幻想味は思いのほか薄い(少なくとも、この山家が出てくるまでの経過を語る範囲はそうだ)この作品にあって、いわばファンタジーの核をなすのがこの女の存在なのだが、そして昼と夜があってはじめて一日が成り立つように、この物語のあやしい夜の部分を構成するのがここからのお話なのだが、それがどういうことなのかは、いくらミステリでないとはいえ新しい読者の興に水をさすだけのことだろうから、控えておこう。ただひとつ、よしなしごとをつけ加えるなら、鏡花は単なる空想からこの物語を構想したのではなく、彼自身の深い読書体験がこやしになっているということだろうか。 中身を具体的に説明するわけにはいかないので隔靴掻痒の気味ありだが、このあやしげな美女のキャラクターは、古代中国の怪異談「三娘子(さんじょうし)」から引っ張ってきたものであるらしい。また、上田秋成の「雨月物語」にも類似のエピソードが含まれるという。 たまたま友人から蛇や蛭に恐怖しながらの飛騨越えの体験を聞かされた鏡花は、過去読んだ和漢の怪異談をそこに重ね合わせつつ、暮夜、笑みをもらしながらこの魅力あふれる一編をものしたのだ。そして、何よりも読者を魅惑する「練絹のような肌もあらわな」美女。 (まあ、女がこんなお転婆(てんば)をいたしまして、川へ落(おっ)こちたらどうしましょう、川下(かわしも)へ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。) (白桃(しろもも)の花だと思います。)とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。 すると、さも嬉(うれ)しそうに莞爾(にっこり)してその時だけは初々(ういうい)しゅう年紀(とし)も七ツ八ツ若やぐばかり、処女(きむすめ)の羞(はじ)を含(ふく)んで下を向いた。 この際だ、女性の読者は許してしまおう、鏡花を遠ざけてくれたったかまわない。しかし、男たちよ、声を大にして言おう、おせっかいのようだが、もしもこの物語の魅力が感得できないなら、そう、もしもこの物語に耽溺できないのなら、金輪際小説なんてものを読むのはやめたまえ。 |