青空文庫、この1作●第2回 高橋悠治「音楽の反方法論序説」
表しえぬものと、ひたすら見合ったままで
三橋圭介


高橋悠治の「音楽の反方法論序説」は、一九九二年から一九九七までの五年間にわたって『InterCommunication』(NTT出版社)に掲載された。読むことを拒むように、ぎっしりと詰め込まれた情報のなかで、唯一、余白に縁取られたことばの断片を、本屋の片隅で読んだのはずいぶん前のことだ。あのころ演奏会で高橋悠治の音楽をよくきいた。そのたびに音楽とことばの距離をはかっていた。

「手は目的も意味も意志もなく、かろやかにすすむ。
幻である音、連続する夢である音楽は、
その跡に残された影のようだ。
だが、記号に置き換えられた音、記号列に分断された音楽は重い。
意味の苦しみを隠し、石のようにかたく沈黙している。」

高橋悠治の音楽は音を意識的にきこうとすると、きこえてこないという感じがつきまとう。きこうとすればするほど逃れていってしまう。

静かにながれる川は、その表面は静止しているように見える。しかしそのなかでは複雑な変化と運動が繰り返されている。みるよりも川の流れに身をまかせると、みえないものがみえ、感じられないものが感じられるかもしれない。

西洋音楽はすでに決められた高さと時間の枠のなかで時間が組織される。作曲家の頭のなかでひろいあつめられた空虚の「音」は、超越的な意味の世界を後ろ盾に、なんらかのシンタックスを通して配列され、統合されることでつくられる。記号や象徴を媒介することで、あいまいさを切り捨て(二項対立)、速度と音量、劇的な音の身振りがおりなす密度ある時間を実現する。それは他人の手で演奏され、きかれること、つまり解釈されつづけることで生き延びる。

高橋悠治の音楽はこうした世界からすれば、まったく無秩序で、無意味な技術に基づいている。観念的な意味の世界からではなく、身体の自立性から世界を受け入れることで、音の運動はどこまでいってもかろやかな表層でしかありえない影にとどまる。

訓練された身体、手がうみだす音楽に調律やリズムやテンポはない。その時々の状況によって身体が自律的に調整し、どこでもない場所を漂っている。

「反復されるパルスに第二第三の音が
それぞれ異なる間隔をもって加わるとき、
階層化された時間組織があらわれる。
音がそれまでの沈黙にこたえるかたちで
時間を区切るということは、
異なる時間で沈黙を区切る複数の音は
それまでの他の音にもこたえているということで、
それらの間の引力が
それぞれの時間にわずかなゆがみをあたえる結果、
パルスは伸び縮みして、
単純な反復がそのままで変化の原動力にもなる。」

伝承される音楽の音の繰り返しと西洋のミニマル・ミュージック(反復音楽)はなにが違うか。ともに繰り返しに基づいている。だが、ミニマルのリズムは、何人でやろうと時間の枠に縛られて音楽が動かない。一方、枠に縛られないで、人々に分けられた音の繰り返し(例:Aの反復されるパルスの間にBが1つ打つ。さらにCがBの音とAのパルスの間に1つ打つ)は、すべての音が関係の鎖に結ばれ、微妙にずれながら揺れ動く音の運動をうむ。リズムは常に同じであきるが(だから少しずつ変えていく必要がある)、揺れ動く運動は常に更新され、何度やってもあきることがない。

高橋悠治も楽譜を使う(伝統楽器の場合、五線譜ではない)。だがそれは密度ある時間の設計図でとはちがう。例にあるような人(身体)と人(身体)が出会う道しるべのようなものにすぎない。そこにいかなる因果関係や意味もない。

「手があり、声があり、それらをうごかす意志があり、
響の生成、持続、消滅を感じる意識がある。
そこに起こる身体と身体、心と心の共振が、
音楽の時間であり、ともにあることの悦びでみたされた
人間の空間をひらく。」

高橋悠治の音楽は川の水が渦をまき、すれあいながら水脈を流れていくような、変化してやまない生成する運動のプロセスである。それは単純であるがゆえに複雑である。紙に書くとはできない。それゆえ背後の意味を探ろうとする思考する耳では、流れる多様なエネルギーを受けとめることができない。耳をひらき、開かれた空間をきくと、音楽はききての身体に流れこんでくる。

生成しつづけるものを繋ぎとめるのは身体の巧みな技である。それは先生の身体から弟子の身体へと光を灯すように渡される。高橋悠治は三味線を学んでいる。学ぶことは繰り返しの練習であり、身体を整える。「音楽の反方法序説」の興味深いところは、でてくる音について書かれたことより、高橋悠治が音をだす手のプロセスから音楽を観察している点にある。

だが、自立的に運動する身体=音楽を静止したことばであらわすことはできない。高橋悠治はことば(意味するもの)から逃れるためにことばをつかう、と書いていた。ことばを裏切るためにことばをつかうともいえる。巧みなアナロジーでイメージをつくりだし、つぎのイメージで微妙にずらされる。限定することのないイメージの無限変容。ことばは意味の網目を縫って渾沌をさまよっている。

高橋悠治のことばは「表しえぬものと、とひたすら見合ったままで」(高橋悠治の曲のタイトル)ある。それにとらわれると音を見失う。空間に耳をひらくしかない。そこにわたしたちが忘れてしまった反世界の通路が広がっている。

●プロフィール
1964年うまれ。音楽評論家。武蔵野音楽大学大学院修了(音楽学)

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