青空文庫、この1作第3回●宮沢賢治『雁の童子』
水は夜も昼も常に流れている

三浦 久 

 宮沢賢治のことを思うと心が明るくなる。彼の詩も童話も決して明るい内容の
ものではないのになぜぼくの心をこんなに明るくしてくれるのだろう。
 
 かつてニーチェは「神は死んだ」と言ったが、今日本では仏陀は死んでしまっ たようだ。日本の仏教は死んでしまった。その責任は誰にあるのかという問は、 学級崩壊の原因がどこにあるのかという問と同じように空しい。誰かに責任をな すりつけて解決される問題ではない。今の日本の仏教の退廃を僧侶に帰すことは 容易だが、それでは何も解決されない。学級崩壊の原因を教師に帰したところで 何も解決されないように。
 しかしまた僧侶や教師にまったく責任がないとも言えない。多くの僧、多くの 仏教学者、多くの仏教信者に会ってきた。誤解されることを恐れずに言えば、最 も仏教的なところに、仏教は最も少なく存在しているように思えた。大きな伽藍 や難解な教えの中には仏陀はいなかった。
 クリシュナムルティは「誰にも従ってはいけない。私にも従ってはいけない。 あなた自身に従いなさい」と言った。それは「自らを自らの燈にしなさい」と言 った仏陀のことばに通じている。
 宮沢賢治のことを考えるときに心が明るくなるのは、彼が自らを燈として生き たからだと思う。彼は仏陀の教えを他人に説く前に、自らの生活の中で実践しよ うとした。われわれはそのことを知っている。だから彼を信頼できると感じるの だ。

 宮沢賢治の詩に「堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます」という一行で始まる詩 がある。瓔珞とは首飾りのことで、それは天人が「ひらめきかがやいて」、「悲 しみの叫び」を上げながら天から湖(娑婆世界)に堕ちる様を表わしている。堕 ちた人たちは皆、その湖の苦い水を噛みながら、「わたくしがこの湖に堕ちたの だろうか/堕ちたということがあるのかと」叫ぶ。
 しかし、宮沢賢治はこの詩の最後の部分で、堕ちることはいけないことなので はなく、むしろ必要なのだと説く。

   こんなことを今あなたに云ったのは
   あなたが堕ちないためではなく
   堕ちるために又泳ぎ切るためにです
   誰でもみんな見るのですし また
   いちばん強い人たちは願いによって堕ち
   次いで人々と一緒に飛騰(ひとう)しますから

 宮沢賢治の童話『雁の童子』もこの同じテーマを扱っている。狩人に撃たれて 天から落ちてきた雁の童子は、須利耶圭(すりやけい)という老人と彼の妻に育 てられた。子供たちにからかわれたりしながも、童子は須利耶圭に多くのことを 教えられ成長する。そして、最後にまた天に帰って行く。
 童子が須利耶圭に「私はお父さんとはなれてどこへも行きたくありません」と 言うと、須利耶圭が「この人の大きな旅では、自分だけひとり遠い光の空へ飛び 去ることはいけないのだ」と答えるところがある。これは先に引用した詩の最後 の二行に対応している。それはまさに大乗仏教の本質、菩薩道である。
 『雁の童子』の中でぼくが一番好きなことばは、童子から「お父さん、水は夜 でも流れるのですか」と聞かれた時の「水は夜でも流れるよ。水は昼でも夜で も、平らな所でさえなかったら、いつまでもいつまでも流れるのだ」という須利 耶圭の答えである。水は時であり、大悲であり、風である。それはとどまること なく常にわれわれの周りにある。ただわれわれがそれに気づかないだけだ。
 昔「みんなが宮沢賢治にならねばなりません」という歌を書いたことがある。 もう歌わなくなってしまったけれど。
(1999年10月)

●執筆者プロフィール
フォーク・シンガー。長野県在住。著書に『追憶の60年代カリフォルニア』(平凡社新書)

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