第4回
美人の先生と大伴家持

町野修三



 高校時代、英語の美人の先生が好きだった。今も綺麗だし好きだ。同窓会でたまたまお会いして、私が大伴家持にのめり込んでいるというとびっくりされた。「町野君って右翼?」というのである。これには面くらった。いろいろ説明はしたが、どうもどこか右寄りのニンゲンという印象を持たれているらしい。誠に不本意である。
 私の不本意はさておき、家持の作品が嘗て戦争に利用されたこともあり又家持の生き方が天皇べったりだったことを思うと、わたしを右寄りニンゲンと感じられることは至極当たり前のことなのだろう。正義の概念は時代とともに変わる。家持の時代は天皇べったりが正義だった。だから時代の正義に生きたそのこと自体を批判することには意味が無い。そういうことが正義である時代を二度ともたらせてはならないと、歴史をとおして現代の目から批判的に過去を見ることが枢要なのだ。家持が死んだのは西暦785年(延暦4年)、1200年以上も前のことである。それよりはるか以前に成立していた「海ゆかば」の大伴家の伝承歌が、あの戦争に利用されたことに家持は一切責任は無いのだ。
 国旗、国歌が極めてスムーズに制定され、しかも盗聴もあり。なにかなんでもありの時代になって来た。歴史をやってる私は酷く恐ろしい時代になりそうな思いがする。
 『大伴家持論1』の執筆動機は同書後書きの通りでここでは繰り返さない。ところで奈良時代という言葉からはどのようなイメージが湧くだろうか?。聖武、光明、天平美術、東大寺、藤原氏、政争、女帝…といったところか。が、天平美術と称される仏像や工芸品がある故に、何となく好もしい良き時代という感じがあるのではないか。だが東大寺の建立は国を消耗させ、橘奈良麻呂の反乱の口実ともなった。しかも建立の意図は、聖武の生来の病弱、気弱の裏返しと言えるものに過ぎない。天下の富と勢を持つ者は朕、この富と勢を以って大仏を作るという意味の天平15年の詔は痛々しい。毎年秋に正倉院展が開催され、私は毎年見に行く。御物は素晴らしい。そしてそれだけに天平を痛々しく感じる。
 奈良麻呂の反乱に触れたが、この事件に対する誤解は甚だしい。少し説明しておきたい。当時の権力は、光明と仲麻呂にあったが、これに反発する橘と旧氏族の勢力があった、という具合に二極対立型で理解されている。とにかく我々は善玉と悪玉という風に色分けして物事を考える癖がついている。歴史はそう単純ではない。この癖をとりはらわないといつまで経っても誤解から解放されない。奈良麻呂事件というのは、当時権力を恣にしていた藤原仲麻呂を殺して、皇太子(大炊)を退け、皇太后(光明)宮を傾け鈴璽を奪い、そして《右大臣を召して号令せしめて》…という計画で、橘奈良麻呂を中心として大伴古麻呂、安宿王その他佐伯、多治比など多くの氏人が参加した。計画実行の直前に検挙され、失敗した事件である。ここで注目してほしいのが《》の中の内容である。《右大臣を召して》というのだ。右大臣とは殺すべき当面の敵である藤原仲麻呂の兄、藤原豊成なのである。このことを私達はどう理解するのか。弟を殺してその兄を首班にするというのだ。藤原氏対橘と旧氏族、という図式では決して理解出来ない。そこで従来の歴史家や文学者はどうするかというと、こういう事実にはひたすら目をつぶって、あるいは気付かないふりをして頑なに藤原氏対橘と旧氏族の争いという図式を固持するのだ。とても分かり易い。だけど誤りも明白なのだ。仲麻呂に対抗した旧氏族の中にも、仲麻呂側に立つ人間また中立の人間も多い。大伴佐伯で云えば、稻公、不破麻呂、佐伯毛人、今毛人などいろいろ居るのだ。だから奈良麻呂事件を氏族間の争いとして理解出来ないのに、私達はいつまでも二極対立型の歴史観を教えこまれ続けている。
 家持は奈良時代という激動期を生きた。天皇の代で云えば、元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武の七代である。誤った歴史観の上に構築される人物論は当然そのスタートから誤ることになる。是非拙著「大伴家持論1」をお読みいただきたい。通説という頑迷な歴史観にはとらわれなかった積もりだ。天平は何となく良い時代という理由のない憧れみたいな感覚が飛んでゆく筈。そんな中で生きた大伴家持は実に魅力的ないい男、ナイスガイ、と私がかく云う根拠は拙著のなかにあふれている。是非ご一読の程を、皆様、そして先生。


『大伴家持論1』を読む


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