青空作家、自作を語る 第5回
佐渡の旅、そして「漁火」

高野敦志



 僕が「漁火」の主人公のように、佐渡へ旅立ったのは、大学院を出てまもなくの頃でした。当時の自分は自我という殻の中にこもって、外の世界に触れることを恐れていました。旅をするというのは、自分と異なるものに触れることです。あの小説は実際に佐渡で目にしたことや、その折に心によみがえった書物の言葉、それに夢で見た風景などが混じり合って生まれたものです。
 佐渡金山の坑道を下っていく場面がありますね。そこではルソーの「孤独な散歩者の夢想」の一節を思い出しました。また日本海に沈む夕日を眺めながら、「観無量寿経」のことが頭に浮かびました。これは阿弥陀如来を瞑想する方法が書かれた経典で、古代人にとっては、西日は極楽浄土におわす仏そのものでした。脳裏に描かれた極楽のイメージは、次第に外界と変わらぬ迫真性を帯びてくるといいます。それと同じように、漁火を眺めている主人公は、いつしか心の世界に引き込まれて、目を開きながら夢を見てしまうのです。それは彼の心の奥にわだかまっていたものを、少しずつ解きほぐしていきます。その夢を見終わった時、彼は今度こそ外の世界に触れなければならない、と思うようになるのです。

 どんな作品に感動するかと言いますと、筋書きの面白さより、文章の美しさを持ったものに対してです。定型詩は余り読みませんが、散文詩には大いに惹かれます。文章のリズムを通して感じられる息づかい、言葉が次々に喚起していくイメージこそ、僕自身も生み出したいと願っている世界です。これは散文詩というジャンルに分類されます。ここで自分が好きな作品を一つ挙げてみましょう。それはロートレアモンの「マルドロールの歌」で、奇怪なイメージが自動書記を思わせる文でつづられています。数ある邦訳の中で、僕の心に最も響いたのは青柳瑞穂訳です。これは抄訳ではあるものの、言葉の一つ一つに、魂を揺さぶる力が込められています。とりわけ冒頭の「老いたる海」が好きです。

 老いたる海よ、お前は同一性の象徴だ。つねにお前自身そのままだ。お前は本質的には変化しない。よし、お前の波濤がいづれの部分かで荒れ狂つてゐようとも、それより遠いべつの地帯では最も完全な静謐のなかにある。(青柳瑞穂訳「マルドロオルの歌」より)

 自動書記といえば、シュルレアリスムのブルトンのことを思い出されるでしょう。「シュルレアリスム宣言」は衝撃的な内容ですが、詩や散文に関しては、ブルトン自身よりも、彼によって見いだされた先人や、その周辺にいた文学者に共感を覚えました。超現実と訳される言葉は、現実を超越した世界を示すものではありません。現実に立脚しながら、狭義の現実に収まらない夢や無意識の世界を含めた、グローバルな現実をとらえることを目指しています。

 日本の作家で一人好きな人を挙げるとしたら、梶井基次郎がそれに当たるかもしれません。僕が魅せられているのは、異様な緊張感のみなぎる「檸檬」よりは、月夜に分身に引きつけられて入水する「Kの昇天」です。 

「影と『ドッペルゲンゲル』。私はこの二つに、月夜になれば憑かれるんですよ。この世のものでないといふやうな、そんなものを見たときの感じ。──その感じになじんでゐると、現実の世界が全く身に合はなく思はれて来るのです。だから昼間は阿片喫煙者のやうに倦怠です」(梶井基次郎「Kの昇天」より)

 僕が「漁火」で舟橋聖一賞をいただいた時、選考委員を務められた村松定孝氏は、この作品を「Kの昇天」を連想すると評されました。いまだに作家とは言えない僕は、長編を書かなければという思いがある一方、あせって功を求めることなく、一つ一つの掌編に魂を込めた梶井のように、自身が美を感じるものだけを描いていきたい、という意識も強いのです。


『漁火』を読む


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