| 青空作家、自作を語る 第5回 |
| 青春の卒業論文 |
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市川 陽 |
| 1964年の秋の日の朝、主人公である10代の少年が目撃した(のかもしれない)夢に近い記憶について語った小説。「放課後のロックンロール・パーティ」を一言で言えば、そんなことになるでしょうか。後は「ご興味があったら是非お読みください」と言って退場するのが、作者としては筋の通った姿勢だと思うのですが、せっかく機会を与えていただいたので、作品の背景について少しだけ語らせていただきます。いったい1964年に何があったのか。 現実の1964年、僕は中学1年、10代前半の少年でした。そしてその少年は神奈川県の小田原に住んでいました。 少年は中学で気象部に所属し、午前中の決まった時間にグラウンドのはずれにある露地で気象観測をしました。実際に何をやっていたのか、僕はとっくに忘れているのですが、少年は手慣れたものでした。きっと百葉箱を開いて温度や湿度、気圧などの計測を行い、雨量を調べ、風向や風力などもチェックしていたのでしょう。何がおもしろくてそんなことをしていたのか僕には分かりませんが、少年は結構マジでした。そんな、歴代のマジな少年たちによって積み重ねられた気象観測データが、実はささやかながら世の中のお役に立っていたということを、少年は気象部に入部して初めて知ることになります。 その何年も前から、東海道新幹線の工事が進行していました。少年の所属する気象部による観測データ、特に雨量の年間推移を示すデータを、新幹線を計画、建設している国鉄に何年も前から提供していたのです。新しい幹線鉄道の工事に当たっての基礎データの一部として利用されていたのでしょう。少年が在籍していた時期にも、担当者がやって来ました。データ提供のお礼の手みやげに、国鉄のおじさんは甘露梅(かんろばい)という小田原名物のお菓子を下げてきて、その時少年は初めてそのお菓子を食べました。そしてそのおいしさに感心しました。小田原の少年が小田原の名物に感心するのも妙なものですが、地元の人間は地元の名物を、普段はあまり口にしないものです。ちなみに甘露梅とは集栄堂という小田原の和菓子の老舗が考案した菓子で、餡をくるんだ求肥の外側を、さらに煮染めた紫蘇の葉で包んだものです。紫蘇の香りと求肥の歯触りと餡の甘さが渾然一体となった、大人っぽい食感が特徴でした。でしたと書くのは、銘菓・甘露梅で名高かった老舗・集栄堂は後継者不在のため、現在では消えてしまったからです。 それはともかくとして、毎朝のように気象観測を繰り返していた少年は何となく、自分が東海道新幹線建設の現場に近いところにいるような気分を抱いていました。実際、小田原から在来の東海道線でひとつ東京寄りに鴨宮(かものみや)という駅があり、この頃はその鴨宮と横浜あたりを結ぶテストコースで、車両の走行実験が繰り返されていたのです。「鴨宮モデル線区」と名づけられた(と、後になって知った)テスト・コースでの試験走行を繰り返す新幹線車両の最高速度が「遂に100kmを越えた!」「150km!」「190km!」「とうとう200kmを越えました!」「250kmまであとひと息!」と連日テレビで報じられるニュースが、日本中を沸き立たせていた頃です。それらの「事件」が自分のごく身近なところで起こっている、しかも自分もある部分でそれに荷担しているという思いに、少年の心はなんだかムズムズと騒いだものです。少年も単純でしたが、時代もまた十分に単純でした。 そして1964年10月1日、東海道新幹線開通。もちろんその10日後には東京オリンピックが開幕します。冨田均氏の驚異的な街歩きの書「東京私生活」(作品社)の巻末に添えられた詳細極まりない東京年表によれば、この1964年という年はオリンピックと新幹線を先頭に立て、東京が今の東京へとダイナミックに変身していくきっかけを作った年だと言えるようです。新宿駅が今の形に生まれ変わり、その西口に京王デパートが開店。池袋西口駅前マーケットが消え、地下鉄「銀座総合駅」が完成し、佃の渡しが廃止になり、東京モノレールが開通。銀座にはみゆき族がたむろ。また、赤瀬川原平氏の著作によれば、ネオダダの嵐が吹き荒れた読売アンデパンダン展が前年に中止となり、氏と高松次郎氏、中西夏之氏からなる「ハイレッドセンター」が街頭に進出。銀座並木通りで「超掃除的イヴェント『首都圏清掃整理促進運動』」を繰り広げたり、帝国ホテルを舞台に「ハイレッドセンターホテルイヴェント『シェルター計画』」を挙行したのもこの年。一方で「模造千円札事件」の捜査も始まっています。ボブ・ディランが「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」を出した年。単純だけれど、変化の予兆がはっきりと目に見えた時代でした。 少年はもちろん地方都市の中学生に過ぎませんから、これらの出来事のすべてを身をもって知っていたわけではありません。しかしその少年の心にも、新幹線の線路が延びていく先が、なにやら妖しげかつワクワクする世界であることを本能的に察知していなかったとは、僕には思えないのです。少年と僕とはこの1964年という年を介して繋がれています。つまり僕にとっての「現代」が始まったのは、はっきりとこの年なのです。なんとなく、1964年という年についての小説が書きたいと思ったのは、そんな極めて個人的な理由からでした。 「放課後・・・」の中にはさまざまなポップス、ロックの断片が登場します。少年にとって「妖しげかつワクワクする世界」への格好の水先案内人となってくれたのは、それらの音楽たちでした。少年がビートルズに本当に出会うのは実はこの翌年、65年の映画「HELP!」を見て興奮の坩堝に突き落とされてからでした。「ラバー・ソウル」から「リボルバー」の時期が、少年の中学生時代と重なります。ボブ・ディランとのまともな邂逅はさらに翌66年。当時のベスト盤に収録されていた「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聴いた時のことでした。PPMやジョーン・バエズがカヴァーしてヒットチャートを賑わせた「風に吹かれて」の甘いコーラスしか知らなかった少年が、いきなり「ライク・ア・ローリング・ストーン」にぶち当たってしまったのでした。アメリカで発表されてから1年のタイム・ラグを経て、この曲が小田原の中学生の耳に届いたことになります。あとはもう、文字取り「坂を転がり落ちる岩」みたいなもの。エレキ・ブームの端っこでうろうろしていたベンチャーズファンに過ぎなかった少年は、フォーク、ロック、ポップスの嵐の中に巻き込まれていきます。当時の音楽をリアル・タイムで知っている方ならすぐお分かりと思いますが、この作品の中で頻繁に借用を重ねた楽曲、アルバム、コンサート、ツアーなどのイメージは、少年がその後のほぼ10年ぐらいの時間的スパンの中で出会ったさまざまな事柄の集積です。それは音楽のイメージにとどまらず、「放課後・・・」全体についても言えることです。つまり、僕は1964年を言い募っているくせに、この作品における1964年なるものは、実は非常に虚構的で、バーチャルな、ある意味ではいいかげんなものです。1964年10月は、もちろん昭和20年8月15日、といったものではないし、ある世代にとっての1960年6月15日というものとも違います。「泣かないのか 泣かないのか 1973年のために」(これ自体がギンズバーグの引用ですが)という芝居があって、それを見た9歳ほど年を食った元少年はかつて、そうまで言われたらもらい泣きなりとしなくちゃいけないのかなと考え込んでしまったものですが、そういう観客(あるいは読者)に無理強いを迫るような重苦しい思い入れとも無縁です。それは当然のことで、そこには戦争も政治運動も挫折も何もないのですから。 しかし戦争とも政治運動とも関係のないこの1964年が、僕にとって依然として重要であることにはまちがいないのです。 もうひとつ、ちょっと突拍子もないことを言えば、1964年が、1930年からたった34年しか経っていないのだと気づいて呆然としたということもあります。1930年、昭和5年に、東京では帝都復興祭という大イヴェントが挙行されました。これは関東大震災で灰燼に帰した東京の街の復興が成り、華やかな「帝都」が誕生したことを祝う国家的な行事でした。明治維新以来、営々と築き上げてきた日本の近代が、ここでひとつの到達点を見たという思いも、当時はあったことだろうと思います。ここで戦前の東京が完成し、その後の太平洋戦争で再びゼロ地点に引き戻されます。東京オリンピックが戦後復興した日本の晴れ舞台であったとするなら、ひとつの都市の復興⇒破壊⇒復興のサイクルが、生まれた人間がせいぜい34歳になるぐらいの時間的スパンで繰り返されたことになります。東京が近代日本の首都であってみれば、それは日本という国家の死と再生のスパンだったとも言えるでしょう。国家なんて結構簡単に死んだり蘇っちゃったりするもんなのだなあと、呆然としたと書いたのはそのような感想を指しています。 1964年秋のあの朝、海岸沿いの国道1号線にクラス毎に整列した少年の目の前を駆け抜けていったのは、オリンピック聖火とそれを運ぶランナーなどではありません。それは、紛れもない国家だったのです。少年は国家の姿をはっきりと見てしまったのです。あれが単なる聖火でしかなかったとしたら、あの鮮やかな朱色がいまだに僕の脳裏にはっきりと焼き付いているはずがありません。 あれ以来少年は、そして僕は、国家というものをあれほどあからさまに見ることはありませんでした。それがいいことなのか悪いことなのかは分かりません。それと同時に、かつての少年が予感した「妖しげかつワクワクする世界」も、いつの間にか消えていきました。このパラグラフ、前段と後段に因果関係があるのかないのか、それも今は分かりません。 ただ僕の手元には、「放課後のロックンロール・パーティ」という小さな小説が残されていました。もしかしたら、かつての少年が僕にそっと渡してくれたのかもしれません。最後に、小さな声で、囁きます。「放課後のロックンロール・パーティ」は、僕の青春の卒業論文です、と。 |