泉鏡花記念館

 じっとしていても額からこめかみへぬめぬめと汗が幾重にも伝ってくる。それが北陸の夏である。
 シベリアからの寒気団が力を使い果たした腑抜けのような重い雪がふる。それが北陸の冬である。
その気候と鏡花の作品とは、無縁ではない。彼の作品の底辺には、常に高い湿度で生活するものだけが知っているぬめぬめとして重いもの息づいており、それは、人間の肉体が滅んでも、衰えることはない。情念としていつまでも生き続ける。
金沢には二つの大きな川が流れている。
「犀川」と「浅野川」である。女川の別称がある浅野川の近くで鏡花は、明治6年(1873年)生まれた。その生家跡が「泉鏡花記念館」である。
 「泉鏡花記念館」は、住宅街にあり、木造二階建、白壁の土蔵という造りはすぐに目に入る。
明るい受付が現実とすれば、採光のない展示室は、紛れもなく黄泉の国。鏡花の世界である。
幼いとき、祭りで「見世物小屋」へ手を引かれる親に誘われて、誘う親に僅かな喜びを抱きながらも大部分の恐怖で睨み返したあの思いと似たものがある。見世物のからくりを知った私だが、情念のからくりは未だにわからない。だから鏡花の懐へ入ってくことは、勇気が必要だった。
第一展示室「鏡花・美の系譜」「美しいひと」「美しい本」
美しい人がでてくるということは、自ずと美しい本が出来上がるということだ。鏡花の作品にでてくる女性は、凛とした美しさをもっている。境遇はどうあれ、背筋の伸びている女性が男性に恋焦がれる。そういった姿を装丁や口絵は、どれも色彩豊かに、表情豊かに捕らえていて、額縁に入っていないが、一級の美術品である。
「高野聖」で美しい女といえば、言い寄る男を動物に変えてしまうという女。鏑木清方画「高野聖」の絵看板(今でいうポスター)がある。女が修行僧(高野聖)を水浴びに誘ったところだろうか。淀んだ灰色の空には、女に変えられた者の姿か、大きな蝙蝠が飛んでいる。その蝙蝠と接するように、半身を捻った女がいる。白い顔に切れ長の目は、池の彼方を見つめ、赤い唇は、しっかりと閉じられている。肌色地に灰色の暈しが入った着物、髪を直す仕草か、白い二の腕までみせた右手を耳の後ろの方に当て、左手で解いたばかりの帯と裾を持つ。修行僧と向かいあった足元は、水の中に入っている。池の淵に立つ黒衣の修行僧は、彼女の黒く艶やかな髪越しに、切れ長の静かな目でやはり池の彼方を見ている。今にも池に落ちそうな紫陽花の蒼さだけがこの世のものだと思える。
第二展示室は、まさしく見世物小屋である。
「龍漂譚」のコーナーでは、主人公の少年が迷い込んだ世界を立体的にスケッチで描き出している。
明治の中ごろに浅草の見世物小屋で流行ったというジオラマ。それが、怪談話の「春昼」で再現されている。長い布をおいた前に人形が並ぶ。照明が場面によって角度を変える。低音の朗読が足元から響く。寺でよく見かけた地獄絵図の立体版のようだ。恐怖と好奇心との戦いに立ちすくんでしまった者は、鏡花の罠に嵌っているのだ。
「鏡花ゆかりの品々」が展示されているのもこの第二展示室。数々ある中で面白いのは、「兎の置物」
9歳の時に母と死別する。その母が、自分の生まれた年の干支から数えて7番目のものを持つと縁起が良く、お守りになるといって、水晶の兎の玩具をもたせたのだという。それ以来、帯の模様に、硯箱にも兎の模様をいれている。
 「お清め用お神酒徳利」
何を清めるのか。執筆前の原稿用紙である。右手で小さく振って水を振りまく癖があり、歳を取ると次第になくなったが、若いころは激しかったのだという。その水をかけられて文字が滲んだ直筆の原稿「三之巻」がその横にある。
 白壁の土蔵にあたる第三展示室は、特別展「白鷺展」
 「白鷺」は、漱石の「坊ちゃん」の後を受けた新聞小説。漱石の厚情によって、「東京朝日新聞」に連載の運びとなったものだ。復刻版だが、漱石の追悼文に感謝の言葉が何度も書いてある。
 鏡花直筆の「白鷺」予告原稿が展示されてある。
 この生原稿及び第二展示室にあった「三之巻」を参考に直筆というものを芥川と比較してみたい。かつて東京近代文学館で芥川の「河童」だったと思うが、直筆を見たことがある。それは、原稿用紙に一字一字が、きちんと書き込まれてあり、それが浮き上がって見える。読み手の心に一字一字刻み付けるように迫るのだ。鏡花には、刻み付けるような迫力はない。その流れるような書体から、ねっとりとして剥がそうにも剥がれないものを読み手の心に塗りこんでくる。
生前の写真を比べてみても、芥川は髪をぼさぼさにし、掻き毟って原稿用紙に向かっている姿であり、鏡花の写真は、いつも整髪し、乱れることを極度に嫌い、髪を撫で付けるようにして原稿用紙に向かっている姿を想像させる。
その鏡花は、芥川の死後12年経った昭和14年9月7日東京雑司が谷の墓地に埋葬される。真偽はわからないが、17歳で尾崎紅葉に入門して以来、金沢へ帰ることはなかったと何かで読んだ事がある。
館内の冷房で汗というものだけは抑えられていた。しかし鏡花の懐から解放された途端、汗が額から一気に吹き出て、こめかみから頤にかけてぬめぬめと幾重にも流れ始めた。(2001.7.20 高柳典子)

●開館時間 午前9時30分〜午後5時
(入館は、午後4時30分まで)
●休館日 年末年始(12月29日〜1月3日)、展示替期間中
●観覧料 一般・大学生300円 65歳以上 200円
高校生以下は無料 団体(25名以上)250円
特別展についてはそのつど料金を定めます。
●交通案内
ふらっとバス=JR金沢駅東口「ふらっとバス」のりば(金沢都ホテル前)から尾張町2丁目下車 徒歩3分
北陸バス=JR金沢駅東口「城下まち金沢周遊バス」のりばから橋場町(金城楼前)下車 徒歩3分
●所在地
〒920−0902
金沢市尾張町2-−12−7
TEL076-222-1025 FAX076-222-1040
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/kankou/meishou/higashishuhen/ikkenen/