|
雨の日曜日、鎌倉文学館へ行く。
鎌倉文学館は神奈川県鎌倉市長谷、江ノ電由比ヶ浜駅から徒歩7分ほどの場所にある。建物は小高い丘の上にあり、「文学館入り口」の表示のある交叉点を渡ると、行く手は坂道。道路に覆いかぶさるように樹木が繁っていて、少し歩くと通りの車の音はほとんど聞こえなくなる。
ほどなく、門に達した。200円払って先へ進むと、見えてきたのは瀟洒な洋館風の建物だった。中に入り、置いてあるパンフレットを読むと、元々は加賀前田家の別邸だったという。順路の表示にしたがって、まずは二階に上がる。
家屋だったものをそのまま使っているので展示室はいくつもの小部屋に分かれており、明治期、大正期、昭和期といった区分がしてある。ざっと一巡してみると、
――鎌倉で暮らしたことはなくとも、多少なりともこの街に縁のある著名文学者なら積極的に展示する。
といった方針であるように見受けられた。例えば、明治の部屋には、レプリカだが、漱石の『明暗』の原稿が展示してある。漱石は円覚寺に参禅したり保養が目的で滞在したことはあるようだが、とりたてて鎌倉に縁の深い人ではない。
「鎌倉文士」という呼び名があるくらい文学者を豊富に抱えていた都市だから、鎌倉に長く居住した人たちの展示ももちろんたくさんある。川端康成、久米正雄、大仏次郎といった人たちである。しかし、生原稿を見る興味ぐらいはあるものの、これらの作家については情報を得る手段はいくらでもあるし、いまさらここで何かを知ろうという気は起こりにくい。もっと地元に密着した生活を送った、しかし一般的には無名に近い作家の展示でもあればいいのにと思いながらさっと通りすぎた。
それよりも、実は建物自体に心ひかれるものを覚えた。潮風の影響から守るために骨格にはチーク材を使ってあるそうだが、外装も内装も焦げ茶を基本色にした落ち着いたたたずまいである。一見地味だが、本当の高級というのはこういうものなのだろうなと思わせる、居心地のよさがある。窓辺に寄ると、麓に広がる家々の屋根越しに海が見えた。
ちょうど永井路子の特別展示が行われていたのでそちらへ急ごうとしたら、三つ目の部屋に荻原井泉水直筆の掛け軸が飾ってあった。井泉水も、一時期、鎌倉で暮らしたようである。確認のために一つ前の展示室の壁面に掲示してある年表のところにもどると、明治38年9月、尾崎放哉が円覚寺に参禅という表示が目に入った。自由律俳句の師であり後見人でもあった井泉水の縁で来たのだろう。放哉関連の展示はむろんないが、俳人放哉の主要作品は青空文庫で読める。
そのまま年表ををぼんやり追っていると、「明治44年、尾形亀之助が鎌倉に転居」という意味の記述があった。そうか、亀之助もここで暮らしたことがあるのか……と、ちょっとした感慨におそわれる。鎌倉が多くの文学者を引きつけたのはここがいかにも古都というにふさわしい伝統色を残した街だからだが、もう一つ、ここ鎌倉は海辺の保養地でもあった。これは家に帰ってから調べたことだが、亀之助もまたまだ子供だった頃に喘息の保養のためにここで暮らしたのだという。彼はその後鎌倉の近くの逗子で学生生活を送ることになるのだが、のちには餓死による自殺を考えるようになったほどの自己破壊衝動を抱えつつ自由を渇望した詩人の精神は、いったい、どこで、どんなふうに形成されていったのだろうか。
そんなことを考えていると、いまでは名を知る人もごく少数だろうこの詩人の作品を、ぜひとも青空文庫に入れたくなってくる。
一・二階に分けられた特別展示室は、満員の盛況だった。『草燃える』がNHKの大河ドラマになったときに使われたものだという衣裳なども展示してあって、ここだけは華やかなムードにつつまれている。
永井路子は若い頃小学館に勤めていて、『女学生の友』の編集部に籍を置いていたそうで、その頃の写真なども展示してある。編集会議中の写真なのだが、そう思って見るせいか、才気ばしった表情が一人目立って見えた。
周辺にいる人たちの話を聞くともなしに聞いていると、要するに鎌倉観光のついでといった人が多いようである。それはそれでいい。しかし、年間10万人ほどあるという来館者の大半がそうであっても、いや、そうであるならなお、書店の目立つ位置に多数の本が並ぶことなど全くない、無名の作家たちについてもぜひ心配りをしてあげてほしいと思うことだった。(1999.6.27
楽)
●所在地:〒248 神奈川県鎌倉市長谷1-5-3
●電話:0467-23-3911
●開館時間:10:00-16:00
●休館:月曜日
●HP:http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/bungaku/menupage.htm
ちへいせん目次へ
|