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松阪牛でお馴染みの三重県松阪市はかつて蒲生氏郷(がもううじさと)が治めた城下町。城跡公園までは、近鉄松阪駅から徒歩で15分。その間、多数の寺や松阪商人の館など見所が多いので、駅前の情報センターで観光マップを貰っておくと便利。城跡公園内だけでも、春は桜・秋は紅葉、梶井基次郎『城のある町にて』の文学碑、歴史民俗資料館、そして本居宣長記念館と歴史散歩が楽しめる。
記念館一階はロビー、正面で本居宣長像が出迎える。 受付を済ませ、二階の展示室へ。家系図を見ると、遠祖は武士、先祖は討死に、商家として小津姓を名乗るなどの変遷が伺える。11歳で父親を亡くしたが、母親は宣長には学問が向くことを見抜き、医者にすることを決意する。23歳で家督を継いだ時、本居姓に戻っている。
17歳で描いた地図が見事。参考資料のミスを訂正するなど徹底して調べ尽くしてある。23歳で京都に出て、医学生生活を謳歌、『在京日記』を残している。日記は生涯に亘って克明に綴られた。このような記帳面さ・勤勉さが、後の偉業の土台となっている。儒学・医学を学ぶ傍ら、契沖の著作を読み、和歌や神道にも興味を持った。
28歳で京都から帰り、医者として開業、一方で嶺松院歌会で知り合った町人たちに古典を講釈した。門人への講義中でも急患があれば診療したり、「家伝あめ薬」「小児胎毒丸」といった薬を調合したりと、親しまれ、尊敬される医者であったことが想像できる。
この頃、枕詞を解説した『冠辞考』を読み、著者・賀茂真淵の学問の偉大さを知る。偶然にも、真淵が伊勢参宮の途中で松阪に立ち寄ることがあり、宣長が出向いて対面を果たす。弟子となった宣長は、書簡による問答のやり取りによって、万葉集についての指導を受け、やがて古事記の研究を決意する。宣長の生涯を決めることになったこの出会いは、佐佐木信綱の名文『松阪の一夜(ひとよ)』となって、小学国語読本に掲載された。
以後35年間に執筆した『古事記伝』は44巻に及ぶ。「古事記」に関しての本文校訂・訓読・語釈を集大成した、今日に至っても、最も重要な注釈書とされるものである。またさらに、仮名遣いや漢字音、暦など研究のために必要なことについて、研究著書200冊以上を残した。
「古事記」のみならず、「源氏物語」や和歌の研究も手がけ、“もののあわれ”を説く『紫文要領』、大和路を巡る『菅笠日記』など他分野の著書も数多い。63歳にして紀州藩に仕官し、各地の藩主の前で講義、国学を広めた。71歳で遺言書を認め、墓所を定めながらも、72歳で再度上京、『亨和元年上京日記』を残す。9月18日に発病、29日に没。日記は、死の二週間前まで記されたという。
宣長の旧宅は、隣地に移築されている。鈴の音を好んだ宣長は、二階の書斎を「鈴屋(すずのや)」と号した。また、道路を挟んで向かい側には本居宣長の宮が、新町・樹敬寺には宣長の墓がある。途中、武家の長屋・御城番屋敷の独特の風情もお勧め。(2000.8.11 丹羽倫子)
●所在地:三重県松阪市殿町
1536-7
●電話:0598-21-0312
●FAX:0598-21-0371
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