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佐佐木記念館は三重県鈴鹿市、石薬師(いしやくし)小学校隣りにある。国道沿いの三交バス停“佐佐木記念館”から、もう一本西の通りに位置する。宿場町として栄えた、昔懐かしい風情が漂う町並みである。小学校側から、石薬師文庫、生家、記念館の順に並ぶ。
記念館は二階建てであるが、展示室は一階のみ、入館者が居ないときは電気も消され、ひっそりとしている。受付では住所・氏名を記帳するが、入館料は無料。
入口には、色紙が一枚展示されている。
「卯の花の匂う垣根に ほととぎす早も来なきて・・・」おなじみ『夏は来ぬ』の作詞者が佐佐木信綱(1832−1963)である。歌人として、歌学者として、万葉学者として、数々の業績を残し、後に第一回文化勲章など多くの栄誉を受けた。
壁側のショーケースでは、彼の生い立ちや制作の歴史を辿ることができる。佐々木家は、織田信長付きの家臣を先祖に持つが、六代に亘り歌集を発行したほどの学者肌の系統でもある。信綱も、伊勢国学者・歌人の弘綱を父に持ち、幼少時から才能を発揮した。なお、明治36年の上海旅行の際、名刺に“々”が印刷できなかったことから“佐佐木”姓を用いるようになった。
11歳で上京、明治17年(1884)、13歳で東京帝大文学部古典科に入学、19歳で父とともに『日本歌学全書』を刊行する。20歳で父を失うが、その歌の道を引き継ぎ、21歳で和歌の入門書『歌の栞』を刊行している。
東大講師としてのテーマは歌学史と万葉集。文献学に立脚した研究を積み重ね、歌学史では『日本歌学史』『和歌史の研究』『近世和歌史』の三部作を、また万葉集では『校本万葉集』の大業を残す。一方で、鑑賞を重んじるという姿勢をもとに岩波文庫本『新訓万葉集』を刊行、万葉集を民衆へも普及させた。さらに、資料の復刻刊行、万葉集の英訳など業績は数限りない。
歌集は、明治36年(1903)の『思ひ草』から、『新月』『常盤木』『豊旗雲』『鶯』『椎の木』『天地人』『瀬の音』『黎明』、昭和26年(1951)の『山と水と』に至る。父の雅号・竹柏園(なぎぞの)にちなんで、歌の会「竹柏会(ちくはくかい)」を主宰、明治31年(1898)からは機関紙『心の花』を創刊した。
しかし、膨大な研究や主宰者としての活動の傍ら、民衆との接点も数多く見受けられる。『夏は来ぬ』を新編教育唱歌集に発表したのは25歳。他にも、『松阪の一夜』(本居宣長と賀茂真淵との出会い。掲載された小学国語読本展示)を書き、唱歌『水師営の会見』(乃木大将とステッセル将軍との会見。乃木大将から信綱に宛てた書簡展示)を作詞した。『静』は、五代目中村歌右衛門のために書いた、生涯唯一の戯曲である。中央のショーケースには、その掲載本『鎌倉三種』が展示され、森鴎外・平山晋吉との交流話も記されている。
還暦を自祝し故郷に石薬師文庫を寄贈、82歳にして『ある老歌人の思ひ出』『作歌八十二年』『明治大正昭和の人々』の自伝三部作を刊行し、86歳で『心の花』700号を迎えるなど、高齢となってもなお意気軒昂であった。
奈良薬師寺の歌碑には、彼の作“ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔のうへなる ひとひらの雲”が刻まれている。これについては、薬師寺発行の機関紙『東塔讃歌』の記述が面白い。高田好胤管主が「の」の字が6文字もあることを指摘すると、信綱は“和歌の道では「の」の字はいくつ重なってもよく、「ののののの ののののじこの ののめけり ののののべにも はるのぞむらむ」という歌もあります”と例を挙げ、音韻の響きから来る清澄感、最終句の名詞切れによる余韻の深さ、「逝く」に「遊く」でなくて晩秋の大和の碧空一片雲無き澄清紺碧の気運を歌い込んでいることを教えたという。ところが、展示物の解説文中の「逝く」が、ことごとく「遊く」に訂正されている。受付の方に伺ってみたが、後日の筆跡等の研究により「遊く」が正しいとされたらしい。しかし、明確な根拠が提示されておらず、釈然としないままである。
出口寄りの書棚にある関連書籍は、手にとって読むことができ、椅子も用意されている。
受付に戻る。栞・絵葉書・解説冊子、学校校歌集、卯の花の苗などが販売されている。作詞を手がけた校数の多さに驚いた。地元の佐佐木信綱顕彰会(旧保存会)のお便りは無料、小学生短歌教室の話題・子供向けの解説が載っていて結構楽しめる。すぐ隣の生家も、申し出れば見学できる。
(2000.8.15 丹羽倫子)
●所在地:〒513-0012 三重県鈴鹿市石薬師町1707-3
●電話&FAX:0593-74-3140
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