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ボイジャーのサイトで萩野正昭さんの「股旅ノート」が、しばらく前に始まりました。その第一回は「いまそこにある未来」。電子本とともに歩んできたボイジャー社10年の回顧録といった内容が主になっていますが、いわゆるdirector系ではなくテキスト主体の、あるいはムービー主体であってもテキストで補強された、紙の本にとってかわりうる電子本のこれまでの流れを総括する充実した一文です。
これは実際には雑誌『本とコンピュータ』に掲載されたものの転載なのですが、私は紙の雑誌で読んだときよりもずっと強い印象を受けました。HTMLですから当然といえば当然ですが、リンクが効果的に活用されていて、過去リリースされた電子本の関連資料やページイメージを目で確認することができます。つまりこれは、「電子本(ウェブ)をもって電子本(エキスパンドブックやドットブック)を語るといった趣の文章なのです。私は、アクセスしてすぐに「なるほど…」と膝を打ちました。
萩野さんとは旧知の間柄ですから、早速このページのねらいをメールで尋ねてみました。こんな返答が返ってきました。
以前からメディアを跨いだ出版物が出来ないものかとずーっと考えていた。
それはどんなものかというと、文字で情景描写などするのではなく、適当な写真や絵や映像があって、「というような」と書けば全てが伝わるようなものをイメージしていただければいいだろう。肝心なところは即物的な現実で見せてしまい、文字で書くことはいわゆる「ト書き」だけ。補足だけするような、そんなものなのだ。
これはある一時シナリオライターをしたことのある私にとって、最も徹底した反逆だった。だいたい映像作品を作るのに、それを文字だけで書きあらわすことの愚ほど情けないものはないだろう。
しかし不思議なもので、このいたりえないふつつかなシナリオを介して、深い情感の交流を成し遂げることができることを知った。世の中には奇妙な間柄というものがあり、「あー」と書いたり「ん……」と書いたそれだけで、その意味合いを感じ取ってくれるような感覚を分かち合えた。このはかなき糸を弾き心うち震える体験を何度したことだろうか。だがこれはあまりにも綺麗すぎる。現実はむしろ分かりえない暗黒のなかで、自ら陥る錯誤の貧しさがあったにすぎない。
ここでも、私はまた膝を打つはめになりました。私自身、かつては文章を書いて、いまは他人の文章を本に加工して生計を立てている身ですが、そうだからこそ、「ことばで説明できないことはない」という過信に陥りがちです。こういう人間は、しばしば饒舌に走ります。意を尽くして詳細にことばを重ねていけば必ずや理解を得ることができるはずだという錯覚が、その背景にはあります。
私はもちろん、ことばによるコミュニケートを否定するつもりはありません。ことばは知恵と思想の種子です。しかし、種子は腐ることがあります。かつて、ある人物から超長文のメールを受け取ったときのことを思い出します。読み進めば進むほど、迷路の中に入っていくといった感じの文でした。それは、ある物事について一見徹底した解説を加えているように見えてその実、いわば「挿入句に次ぐ挿入句でしかない、中心のない文章」でした。
そう思って振り返ると、この世にはその種のものが、ことに出版の世界には溢れ返っていると感じさせられます。いくら読んでも外縁をうろうろ周回するばかりで中心への道が閉じられたままの本。そうだからこそ、本はかくも多量に乱雑につくられるのだ、と言っていいかもしれません。
おっと、私は電子本なるものが登場した初期によく言われた、「映像や音が効果的に生かされていない、マルチメディア性のない電子本などは存在理由がない」といった意見にくみするわけではありません。電子本は、実際にはテキストだけで構成されていてもいっこうにかまわないのです。
ただ、私たちはある物事について考え、解析し、その結果を伝えようとするとき、そのための一番本質的に有効な方法は何かという判断をスキップしたまま、安易な饒舌に落ち込んできたという側面があることは否定できない気がします。ウェブの画面で読む「股旅ノート」の第一回は、そのことに気づかせてもらえたという意味で、実に刺激的な読書(?)体験でした。
ところで、私はいまさらのごとく以上のような愚痴をこぼす目的で、この文章を書き始めたわけではありません。「いまそこにある未来」を読んでいて、ふと思い出したことがあり、そのことを簡単に書いてみたかったのです。ひょっとすると、それは「いまそこにある未来」に蛇足をつけ加えることでしかないかもしれません。が、とにかく、ちょっと書いてみましょう。
それは、いまや日本の電子本の古典といってもいい『TARUHO FUTURICA (タルホ・フューチュリカ)』のことです。
かつて、Macintoshには、HyperCardというアプリケーションが付属していました。HyperCardがどういうものかを説明するのは意外に難しいのですが、ページではなくカードを基本単位として情報をパックし、リンク機能を活用してそれをコンピュータ上で束ね、1冊の本やノートのように扱える「スタック」というファイルにまとめるソフトウェアでした。1枚1枚のカードにはテキストはもちろん、画像を埋め込める点が、これが出現した当時(1980年代末期だと思います)としては画期的でした。ごくプリミティブなものではありましたが、カード上でアニメーションを作成することもできました。
そのHyperCardの仕組みを効果的に活用して、電子本を作成するアプリケーションとして登場したのが、米Voyager社のExpanded
Bookでした。日本のボイジャー社はその影響下に誕生するわけですが、それについては「いまそこにある未来」にゆずるとして、Expanded
Bookが日本語化されてエキスパンドブック・ツールキットとなり、日本語が扱える電子本作成ソフトとして一部の注目を集めた直後、その機能と魅力を証明する第一号市販電子本として同じくボイジャー社から出されたのが、『TARUHO
FUTURICA 』だったのです。
『TARUHO FUTURICA 』は魅力的な作品でした。タイトルから想像されるように、「一千一秒物語」を中心とした稲垣足穂作品を電子本化したものですが、紙の本の「ページ」にとってかわる「ウィンドウ」のデザインや機能は、秀逸としかいいようのない優れたものでした。フロッピーディスクをメディアとしてリリースされたこの作品を購入したその日、マウスのクリックでページ移動したり、別の章へ一気に飛んだりといった体験をしたときの驚きは、いまも記憶に鮮やかです。
しかし、本当の驚きはそのあとでした。『TARUHO FUTURICA 』には、付録のような形で「オルドーヴル」と題された部分が含まれていました。私は足穂には詳しくないのでよく知らないのですが、断片のような語句が次から次へと出現する、アフォリズム形式の作品です。
この作品を紙の本で読んだことはいまもってないのですが、画面で見る「オルドーヴル」はショッキングでした。さすがApple社純正のソフトウェアだけあってHyperCardはいまもOS
9上で動作し、『TARUHO FUTURICA 』も正常に見ることができますので静止画像のみ引用しておきますが、実際にはこれらのページは一種のシンプルなムービーとして動作し、音楽をともないつつゆっくりと表示され、ゆっくりと消えていきます。あえて妙な言い方をすれば、そのゆっくりとした動作には、高速化したいまのパーソナル・コンピュータでは味わえない、不思議なリアリティがありました。
そのリアリティの中で感知した最大のものは、断片をごろりと投げ出したような文、詩のような韻文形式ではなくても、短いことばの連なりのうちに知性と感覚、いや人間の心の奥底にある感情と思惟をぎゅっとつめこんだ、凝縮度の高い詩的表現だったといっていいでしょう。いま振り返れば、私はどうやら「饒舌さとは対極にある言語表現の世界」をそこに感じ取っていたようです。
もともと詩が苦手だった私は、電子本が普通につくられるようになってからむしろより深く詩に親しむようになったのですが、「人の心の中心に、そして世界の中心に屹立することば」といったことを詩に思い合わせます。さらにいえば、現代は詩的精神が途方もなく衰退した時代であることも。
このことについてはまたあらためて書くこととしますが、ともかく『TARUHO FUTURICA 』はそんな刺激をともないつつ私の手元にやってきたのでした。そうして、久方ぶりに「オルドーヴル」を見ながら考えるでもなく考えないでもなくぼんやり何事かを思っている私に、萩野さんからのメッセージの末尾にあった次の一言は、「表現」というものを考える上での大きな手がかりと感じられてなりません。
私は現実をもっとはっきりと見たい。かすかなふれあいで相哀れむような連帯はいやだ。突きつける即物を求めたい。そのための旅を続け、全てを捨てて一宿一飯、なにかを求める愚に殉じるつもりだ。そんな生きている思い出を手持ちのデジタル幻影に結びつけてみたのがこのノートであり、それ故に「股旅」と枕した。
映画のつもりで読んで欲しい。出来ることならこれに音楽でも付けてみたいのだが……
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